第4回 セイン・もんた

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

弟が嫌いだ。

咀嚼音がうるさい。平気でゲップするし、デカくて邪魔。

遺伝子の力はすごい。同世代の異性ならば、ある程度は距離を詰められてもほとんど不快を感じることのないこの私が、弟にかぎっては目が合うだけで腹が立つ。天敵を発見した猫のように私が睨みをきかせると、弟はパパに似た目を見開いて、ついでにカバのような鼻の穴を大きく広げる。数秒間睨み合って、先に口角が上がってしまうのはいつも私のほうである。悔しい。弟が嫌いだ。

弟は、私が7才のころに突然現れた。ある時期、パパとママはときどき私をおじいちゃんとおばあちゃんに預けてふたりきりで出かけていた。弟が生まれたのはそのころだった。いや、もしかしたら、大人になって子どもの作り方を知った私が、無意識のうちの邪推によって、2つの別々の記憶を結び付けているだけかもしれない。とにかく、ママのお腹が突然大きくなって、弟が出てきた。

出産の当日。分娩室の隣の部屋で、パパとふたりで弟が生まれてくるのを待った。隣の部屋からママの「もういやーー!」という尋常でない叫び声が聞こえてきて、子どもながらに「もういやと言われましても」と思ったように記憶している。

何年かあと、ママの妹に「赤ちゃん産むってどれくらい痛いの?」と問うと、彼女は「うーん。おしりの穴にでっかい綿棒つっこまれて、そのまま電車に乗るくらいかな?」と答えた。私は「どうして電車に乗る必要があるんだ」と笑ってしまったが、もしかしたら、それはいちど乗ってしまえば「産み落とす」という目的地まで降りられず、ひたすら耐えなければならないという「恐怖」の言い換えだったのかもしれない。

無事に生まれてから分娩室に案内されて、看護婦さんが「こんなに大きな胎盤は珍しいですよ!」と、銀のボールに入った大きな胎盤を見せてきた。ほかの胎盤を見たことがなかったから、それがどれほど大きいのかよく分からなかったけれど、今になってスマートフォンで「胎盤」と検索して出てきた画像を見てみると、あのとき見せられた胎盤はたしかに、画面に映っているそれよりひとまわり以上も巨大だったような気がする。ちいさい私は、胎盤をまじまじと見ながら「ママの細い体にあんなものが張り付いていたなんて。ママがこの前倒れたのは、これに栄養を取られていたせいだったのか」と納得した。

パパはママに近寄って「がんばったね」と頭を撫でていた。

弟には「ママドゥ」という名前がつけられた。アラビア語で言うとムハンマド。ママドゥが入っている透明なベッドの枕元に貼ってあるイラストつきの紙には「ぼくは いとうままどぅ○○(パパのファミリーネーム)だよ! よろしくね!」と書いてあった。ままどぅ。ママドゥ。Mamadou…。長い。言いづらいし、いかにも外国人の名前じゃないか。きっと学校でからかわれるんだろうな、かわいそうに。「アワ」という名前もセネガルの人名であることには変わりなかったが、おじいちゃんが画数を気にしながら当て字を考えてくれたおかげで、「伊藤亜和」は学校の廊下に張り出された習字のなかにもうまく溶け込むことができていた。

ところが、クラスの名簿や、もらった賞状なんかには、やはり、亜和のうしろにパパのファミリーネームがぴったりとくっついている。戸籍上はそれも名前であるという扱いになっているから、私の本当の名前は「東京スカイツリー」のような、もしくは「無罪モラトリアム」ともたとえられるような、硬派な漢字の横に見慣れないカタカナの添えられたキテレツなものになっている。私は集会で名前を呼ばれるのが嫌いだった。上級生の男子たちがコソコソと私の名前をからかう声が体育館の天井に響くたび、私は苛立ちながら下を向いた。私は彼らの名前を誰一人として知らないというのに、彼らは私の顔と名前をしっかりと覚えて入念にからかう。それどころか、学校中の人間が私のことを知っているようだった。由来の分からないあだ名は日によって変わり、流行っているハーフタレントの名前で呼ばれる。これが、「普通」じゃない人間の宿命。ママドゥには漢字が与えられなかった。これでは、ひとときも逃げも隠れもできない。パパとママには、きっとこの苦しみはわからないだろう。

数日経ち、また面会に行くと、弟の名前はママドゥではなくなっていた。出生届を出す直前で変更したようだ。いずれにしてもセネガルのカタカナネームであることに変わりはない。弟をママドゥと呼ぶ覚悟はとっくに決めていたのに、今さら変なことをするなと少し戸惑ったが、箱の中で眠る弟に、また再び「よろしくな」と伝えるような気持ちで、彼の新しい名前を呼んだ。

弟はやがて喋り、立ち上がり、歩くようになった。私と同じ天然パーマの髪がクルクルと伸びて、目はこぼれるほど大きく、両の鼻の穴からはいつも青っぱなが出ていた。このころの弟は本当に可愛かった。まるでトリュフショコラに手足が生えたみたいな愛らしさで、ママは弟のほっぺたをハムハムとかじっては「もったん、もったん」と溺愛していた。弟の名前がうまく発音できなかったおばあちゃんは、弟の名前から「モ」だけを取って「もんたろう」とか「もんた」と呼んでいた。聞き慣れない遥か異国の名前が一転して、なんとトラディショナルな響きなのだろう。畑を掘り起こしたら芋の代わりに出てきそうな名前じゃないか。その一方で、パパの友人であるセネガル人たちは、弟を「セイン・〇〇」と呼んだ。聖人の名前に付けられる特別な敬称とともに呼ばれる弟が、なんだか私よりも特別な存在であるような気がして、弟がセネガル人の男たちの黒くて大きな手で抱き上げられる様子を、すこし羨ましいような気持ちで眺めていた。

弟は小学校に上がった。みんな、弟に落ち着きがないのは保育園にいたころから薄々察してはいたが、学校で集団生活を送らなければならないにあたって、それはより深刻な問題になっていった。どの学校のクラスにもひとりはいたであろう、机にジッと座っていられない子ども。弟はまさにそれだった。それどころか、毎日のように校門をよじ登って学校を脱走するせいで、校長室で軟禁状態の学校生活を送っていたこともあったし、公園でどんぐりを集めて燃やして、ボヤ騒ぎを起こしたこともあった。

ママ曰く「絶対にパパの遺伝」らしい。たしかに、大人の制止を振り切る弟の俊敏さと、パパのジェットコースターのような運転には同じDNAを感じた。私がママのお腹に置いてきた「野生」を、弟はすべて抱えて生まれてきてしまったらしい。気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こすので、大人たちは自分の体力を保持するためになるべく弟のわがままを聞くようになった。この時点でパパがすでに家庭からいなくなっていたのは、結果的にはよかったのだと思う。ふたりが同じ家にいれば、きっと毎日警察沙汰の大騒ぎになっていたに違いない。それとも、パパがいれば私のようにパパを怒らせない「いい子」になっていただろうか。

あるとき、弟は私が大事に取っておいたサーモンの寿司を横取りしようと襲い掛かってきた。サーモン寿司を取られまいと必死に抵抗する私を見て、ママは「お姉ちゃんなんだからあげなさい」とあきれたように言った。冗談じゃない。弟がいくらわがままを言って泣き叫ぼうが私には関係ない。先にこの家にいたのは私なんだ。これは私のサーモン寿司だ。テーブルを挟んでつかみ合いのケンカになって、案の定、弟は山の向こうの家にも聞こえるくらいの大声で喚き散らし、最後には私の手をひっかいてサーモン寿司を強奪して口に隠すように詰め込んだ。私は悔しいやら腹立たしいやらで、持っていた箸をバンとテーブルに投げつけ、泣きながら家を飛び出したのだった。家の前の石の階段にうずくまってわんわん泣いた。誰も追いかけてこない。ひどい。どうしてお姉ちゃんだからって我慢しなければいけないのか。大きな声を出せば正義を捻じ曲げたって良いというのか。こんなことがまかり通ったら、弟はろくでもない大人になるに違いない。アイツが嫌いだ。もう、家族の誰とも話すもんか。家に戻った私はそのまま階段をあがり、部屋に引きこもった。誰も心配してくれないことが悲しかった。

月日は経ち、私はいつの間にか弟に身長を抜かされていた。小学生のころと打って変わって物静かになった弟は、学校に行かず、家に引きこもりがちになっていた。「外に出るとジロジロ見られるから嫌だ」と言っていた、というのをママから聞いて、私は珍しく弟に同情した。人の視線が怖くて、私自身も下を向いて外を歩いていたころがあった。その気持ちは痛いほどわかる。これからどうするつもりなのか、思い切って膝を突き合わせて聞いてみると、弟はポツリポツリと話しだして、モデルになりたいと言った。お前みたいなアホ面にモデルができるもんかと毒づきそうになったが、夢を否定するのはよくない。東京に行ったことがない弟を連れて私のモデルの現場に行ったり、怪しい事務所に騙されないように、保護者として面談で怖い顔をする役をやったりした。その帰りにはいつも弟が行きたいというお店に行って、好きなだけご飯を食べさせた。私も歳を取ったのか、弟が私のお金で飯を頬張っている姿を見るのは存外気分がよく、サーモン寿司を奪われたときのあの怒りが嘘のように思えた。帰りの駅で酔っぱらった私が「彼女はいるのか」としつこく聞くと、弟はうるさいなぁと言いながらもスマートフォンに保存してあった彼女の写真を見せてくれた。ママに言わないでよ、と言われたので、私はすぐさまママに言いつけた。

もうすぐクリスマスがやってくる。去年のクリスマスの朝、目を覚ますと枕元にちいさなプレゼントが置いてあった。数年ぶりのサンタクロースの来訪に驚き、包みを開けてみる。中には流行りのかわいらしいヘアブラシと、弟の名前が添えられたメッセージカードが入っていた。

今年はなにをくれるのだろう。よろしくな、セイン・もんた。

(了)

 

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。

第3回 私を怒鳴るパパの目は黄色だった

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

パパの白目は、どうして黄色を帯びているのだろう。小さいころから疑問に思っていた。私もいつかそうなるのだろうかと不安で、こまめに目薬を点したり、サングラスで護ったりして過ごしている。健康上の要因は別として、目が黄色いことが悪いとは思ってはいない。そうは思っていても、私を怒鳴るパパの目は黄色だった。大きく見開かれた目に床が割れるような怒鳴り声、黒い肌のうえで光る黄色い目。幼い私は、パパに怒鳴られるたびに過呼吸を起こした。息ができず声も出なくなって、涙と鼻水を垂れ流しながら、必死に「おみず、おみず」とママに訴えるのがいつものことだった。しゃくりあげながら泣く私に、パパは目を見開いて唇に人差し指をあて、「静かにしろ」というサインをした。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことで、私はあの目を見ると恐怖で固まってしまっていた。

そのことが影響しているのか、私は人と話すときに目を合わせるのが苦手だ。相手が話しているときはそれほど苦ではないのだが、私が話しているとき、つまり、相手が黙っているときは、どうしても相手のヘソのあたりに視線が動いてしまう。口を閉じられていると、怒りの感情を日本語に変換できないまま、行き場を失った感情が目から噴き出してくるかのような顔をしたパパを思い出すからだ。よく、「娘は父と似た人を結婚相手に選ぶ」と言われているけれど、私からしてみたらそれは絶対にありえないことだ。絶対にパパみたいな人を好きになったりはしない。私の好きな有名人は、カズレーザーと、神木隆之介と藤井聡太だ。

もうひとつ苦手な視線がある。港区に出入りしているバイタリティー溢れた経営者がするような、相手に有無を言わさず納得させる威圧感のある視線にも耐えられない。自分の価値観を信じて疑わないような、「教えてやるよ」とでも言いたげなあの目。苦手と書いたが、これは「苦手」というより「嫌い」である。自分がどういうときに苛立ちを覚えるか考えてみると、それはたいてい「君はまだ若いから」「経験が浅いから」「女の子だから」といったニュアンスを相手の視線から感じ取るときだ。それを察知すると、私の中の短気の遺伝子が反応してしまい、必要以上に好戦的になってしまう。見た目によって「難しい日本語はわからないだろう」と決めつけられてきた経験は、自分でも気が付かないうちに黒い感情の琴線になり、どんどん波紋を広げて「難しいことはわからないだろう」というところにまで反応するようになったのかもしれない。

先日、青森の親戚の家に行った。家の中に入って畳の上に座ると、おじさんはちゃぶ台の上にみっつ並んで置いてあったリンゴをひとつ手に取って、果物ナイフとともに私に差し出した。私がどう皮を剥こうか考えていると、おじさんはかすれた声でなんの気なしに「まだ独身なのか」と私に聞いてきた。おじさんがもうほとんど見えていない目で私を見つめる。電車もろくに来ない町に体の自由もきかずにたったひとりで暮らす年寄りを、いったい誰が女性差別だ時代錯誤だと責め立てることができようか。田舎の高齢者の単純な疑問にすぎないというのに、ひねくれた私の思考回路の中では、その質問は即座に「リンゴもうまく剥けないおなごは嫁さいけねぇぞ」という言葉に変換された。そして、リンゴも剥けない女だと思われたくなかった私は、自分で勝手に追い詰められた末にナイフを手放し、そのままリンゴにかぶりついたのだった。SNSではこの出来事を格好つけて書いたために賞賛のコメントが数多送られてきたが、実際はごらんの通りの、被害妄想の結果起きた情けない暴走にすぎない。それほど私の「ものを知らない」コンプレックスは激しいのだ。

言葉、時事、雑学、マナーに至るまで、無知や間違いを指摘されることがあれば一生の恥と思ってしまう。だから私は人より少し多くのことを知っている。「そんなことも知らないのか。ならば教えてやろう」と思われないように。知らないことがあるのは、それほど深刻なことではないと、頭ではわかっているのに、頭がショートして体が熱くなると、私はやらかしてしまうのだ。だから、しばしば好きな男性のタイプを聞かれることがあれば、私は真っ先に「目力のないひと」と答える。目力の強い男性がみなパパと同じく短気で暴力的ではないし、宗教的な経営者のように偉ぶった人ではないということは重々わかっている。その逆も然りで、眠たげな目をした男性がみな寛容で穏やかでなわけではない。ただ、私は相手の「視線」を簡易的な判断材料にして、私が理性的でなくなるような予感のする相手はなるべくは避けて過ごしていたいのだ。

私にとって、先に書いたふたつの視線を避ける理由はそれぞれ「恐怖」と「嫌悪」に分けられる。相手から怒りを受ける視線と、私の中の怒りを沸き立たせる視線。私を委縮させてしまう視線と、暴走させてしまう視線。

今夜、日付が変われば私は27歳になる。パパと喧嘩別れをしたのは大学に入ったばかりの18歳のころだったので、間もなく9年が経とうとしている。パパのフェイスブックを見ると、大学の入学式に撮った私の写真に「Awa!Go Go!」とコメントが添えられた投稿が残っている。大学でフランス語の学科を選んだのは、パパとのコミュニケーションを豊かなものにできれば、と思ってのことだったが、それ以降、パパのアカウントに私の話題が投稿されることはなくなった。父親に対してのはじめての反抗が、まさかこんなにも長い冷戦を招くとは正直思いもしなかった。しかし、パパの怒りから遠ざかった今日までの日々はあまりにも快適で、好きなものを食べ、好きなお酒を飲んで、好きに泊まって好きな時間に帰る。こんなに自由なのに、いまさら関係を修復しようという気にはなれないのだ。それに、私たちはお互い、うまく話し合って共存するという機能を持ち合わせていないように思う。通じるのはごく短いセンテンスだけ。どちらも100パーセント主張が通らなければ納得ができないのだ。私自身、爆発する前にパパと話し合って、自由にしたい部分を落ち着いて話してみるとか、そういうことができたなら、こんなことにはならなかったかもしれない。でも、できなかった。パパの黄色い目が怖くて、限界が来るまで、うんうんと良い子のふりをすることしかできなかった。

大喧嘩をする前日、その数日前から私たちの空気はにわかに不穏だった。弟が無邪気にも私に彼氏ができたことをバラしてしまったり、バイトから帰る時間が遅くなった私にパパが苛立っていたのに対して、私が「じゃあもう迎えに来なくていい」と言ったり、原因はいくつかあったように思える。パパが運転をしながら私にこう言った。

「娘は、絶対にお父さんに逆らっちゃいけない。そういう決まりなんだよ。」と。

これは、パパが私にはじめて言葉にしてはっきりと示した主張であった。私はこれまで「怒られている」ことはわかっていても、「なぜ怒られているのか」はよくわかっていなかったのだと思う。とにかくパパが発する咆哮のような怒鳴り声におびえて息を詰まらせていたのだ。このひとことが、これまでのパパの怒りのすべてだったのだと、私は理解した。理解したと同時に、これまで得体の知れなかった「恐怖」が、はじめて形を成した明確な「嫌悪感」に変わったのがわかった。生まれてはじめて、パパに「はぁ?」という気持ちになったのである。逆らっちゃいけないだと?冗談じゃない。私はアンタの価値観の中で固められたことだけを口移されて咀嚼していろと言うのか。私は私の歯でかじって、味わって、そうやって生きていくんだ。ふざけんな。

バックミラーに映った黄色い目と目が合う。ミラー越しにその目を睨みつけた。パパの見開かれた目はわずかに動揺しているように見えた。ハンドルを握っている状態のパパを怒らせたら命が危ないと思い、その場では無言を貫いたが、いつもとはなにかが違う、何かが変わってしまうのだと、お互いに感じたのかもしれない。

こうして翌日、私たちは警察沙汰の大喧嘩をすることになる。あれから9年たって、もしこの先仲直りするようなことがあったとしても、その先にまたおなじような暴力的な争いが起きることは避けられないと私は思う。あの日、きっと私の目は黄色だった。あなたと同じ、黄色に染まっていた。怒りに我を忘れたときはあなたと同じ目になるように感じるのだ。本当の姿でいることが尊いと本やテレビは言うけれど、私はそんな本当の自分を、できるだけ分厚い理性でくるんで隠して誰にも見られないようにしたい。そうできない相手はできるだけ遠ざける。それしかないと思う。中学校の卒業式、親に向けて書いたメッセージが体育館の壁に張り出された。私は、ママと離婚してもう家にはいないパパに向けて「言葉はあまり通じないけど、絆はほかの親子にも負けないと思ってます。」と書いた。父の読めない日本語で書かれたそのメッセージは、事実を書いた手紙というより、中学生の私から、理解できないまま私たちから遠ざかっていったパパへの、すがるような確認だったように思う。そのころの私は、まさか自分からパパを突き放すことになるなんて思いもしなかっただろう。

長年の疑問の答えはネットで案外簡単に見つけることができた。なんでも、体にあるメラニンの濃度が高いと、それが眼球にも影響して白目が黄色くなるらしい。これから体内のメラニン濃度が大幅に変わることはないだろうし、加齢によるもの以外では、私の目は黄色く染まることはないようだ。少し安心したと同時に、つくづく私には短気なこと以外パパに似たところがないなと、ほんの少しだけ淋しさを覚えた。私が成人したらセネガルに帰ると言っていたパパは、いまだに近所のアパートにひとりで住んでいる。大学で一生懸命勉強したはずのフランス語は、もうすっかり忘れてしまった。鏡にはいつも通り、ママに似た眠たげな二重の目が映る。これが私の顔。

パパ、私、27歳になったよ。

(了)

 

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。