第2回 「オタク差別」は存在するか?――「覇権的男性性」と「従属的男性性」

「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。

「弱者男性」は「強者男性」と戦うためにフェミニストと手を組めるか?

第一回では、「弱者男性」という言葉・概念について検証した。それは定義が曖昧な言葉だが、「つらさ」や「ネガティブさ」を抱えている男性たちが集団意識を持つための概念であり、本質主義的でポピュリズム的なフェミニズムが「男性」を一枚岩的に強者扱いすることへの心理的な反発や反動を受け止める器になっており、そうであるがゆえにミソジニーや反フェミニズムと親和性を持ちがちであるという問題があった。

それに対して、男性学は、1980-1990年ごろに、既に「複数の男性性」を提示し、議論していたことを確認した。よって、その議論を参照することは、現在の「弱者男性」に関連する議論への理解を促進し、社会的な対立を解きほぐす効果があるだろうと考えられる。

そこで今回は、コンネルが『マスキュリニティーズ』の中で「複数の男性性」の例として挙げた「覇権的男性性」と「従属的男性性」の概念を手掛かりに、現代のネットでよく見る現象を考えてみたい。

具体的に扱うのは、「弱者男性はフェミニストと手を組んで強者男性と戦ったらいいのに」という意見、「真面目に勉強して稼いでいる男が、イケメンのチャラ男と遊んできた年配の女性を押し付けられる」問題(「チャド」と「ステーシー」)、「強者男性になっても弱者意識が消えない」のはなぜか、なぜリベラルや反差別運動への反発が生じるのか、オタク差別は存在するのか、「表現の自由戦士」たち、「オタクは現実の異性には無害だからヤンキーやヤクザを批判するべき」問題などである。

「覇権的男性性」と「従属的男性性」とは

「弱者男性」がミソジニーに陥る傾向について、フェミニストの女性(あるいは、かつての筆者)が、「真の敵は強者男性なのだから、女性たちと手を組んでともに強者男性と戦ってはどうか、どうしてそれができないのか」という意見を発することがある。まずは、そこを手掛かりに考えていきたい。

前回は、定義を細かく検討したが、今回は「弱者男性」という言葉は、厳密に定義せず、「それに自分が当てはまると思う人がアイデンティティをそのように認識するための概念」程度に緩く使う。

「強者男性」と「弱者男性」という区別は、「複数の男性性」の問題である。「強者男性」と「弱者男性」は、「覇権的男性性」と「従属的男性性」という概念を援用することで、理解の解像度を挙げることができるはずだ。

「覇権的男性性」と「従属的男性性」とは、男性学の古典的名著と呼ばれるレイウィン・コンネルの『マスキュリニティーズ』で中心的に論じられている概念である。「覇権的男性性」(翻訳では「ヘゲモニックな男性性」)とは、その社会の中で理想的で規範的とされる「男らしさ」のことで、多くの場合、権力を握っている。多くの場合、競争的で共感性が薄く、権威的で支配的な性格があるとされるが、時代や場所や階級によってその性質は様々である。それは「いつでもどこでも同じような限定的な性格類型」ではなく「所与のジェンダー関係のパターンにおいて支配的な位置、常に競合的な位置を占める男性性である」(p100)。企業、軍隊、政府の上位の人たち、スポーツ選手などをイメージすれば分かりやすい。アメリカの映画では、アメフトか何かをやって、チアリーダーと付き合うタイプである。

それに対し、「従属的男性性」とは、男性ジェンダーヒエラルキーの下位に置かれた者たちである。たとえば、こう言われる人たちだと例を挙げている。「いくじなし、弱虫、ださいやつ、だめなやつ、めめしいやつ、臆病なやつ、気合のないやつ、臆病者、軟弱な馬鹿、スポンジケーキ野郎、カモやろう、おべっかつかい、軟弱男、げす野郎、にやけた男、お母さん子、眼鏡野郎、耳穴っ子、変わり者、変態、まぬけ、気の弱い野郎、ミルクトースト野郎、女っぽいやつ」(p103)。アメリカの映画で言えば、ロッカールームでいきなり殴られたりバカにされたりするタイプだろう。「ナード」や「ギーク」と呼ばれる「オタク」タイプもこちらに近い描き方をされることがある。これらの語彙の中には、日本語ではあまり聞きなれない例が多いが、このような罵倒やからかいによって、日々「男らしさ」を巡る規範が再生産され、「覇権」「従属」の位置づけが決まっている。

「強者」「弱者」「覇権」「従属」の流動性

 注目したいのは、コンネルは、「覇権的男性性」「従属的男性性」は、単純な二項対立ではなく、固定的ではないし、場に応じて違うものになるとも言っているのだ。先んじて結論を言えば、この「流動性」こそが、「つらさ」の分かられにくさ、問題の一端になっているのだと思われる。

たとえば、ヤンキーは、地元や高校などでは「強者」かもしれない。しかし、勉強をあまりしていなければ、いい職業に付けず、犯罪などすれば社会のヒエラルキーの下層に位置づけられ、「強者」とは言えなくなるかもしれない。学校のなかで「ガリベン」などと日陰者扱いされていた者が、いい大学に行き、いい会社や省庁などに入って、高給と高い地位を得れば「強者」になるだろう。

つまり、「覇権」と「従属」は、固定的なものではなく、場面や自身の位置によって移り変わっていくのだ。階級や階層、職業や地域などによっても、「覇権的男性性」のあり方は異なる。コンネルが出している例であるが、労働者階級での「男らしさ」の表し方は、犯罪を恐れないことや、肉体の頑強さかもしれない。しかし一方、専門職階級においては高度な知性や理性的な判断こそが「覇権的男性性」の証となる。管理職などにおいては、共感性やケア能力のような「女性性」に近い性質こそが、「覇権的男性性」の要素とされることもある。部分社会ごとに、「覇権」(強者)の中身は様々であり、同じ人間でも場面ごとに「覇権/従属」の立場は移り変わっていくのである。「強者・弱者」の概念は、むしろ固定的な属性としてそれがあるかのような印象を与えるが、多くの男性の実際の経験で大きな位置を占めているのは、流動的な「覇権/従属」の方なのではないか。

「覇権的男性性」「従属的男性性」という概念は、アントニオ・グラムシの「覇権(ヘゲモニー)」概念を参照している。グラムシのヘゲモニー論は、覇権を巡る争いが常に生じており、抗争と変容のダイナミズムの中にあることを捉えているという特徴がある。こちらの方が、男性たちの経験している実情に近いのではないか。

「覇権」「従属」は、社会の場面や自身の変化によっても変容するし、社会の中で何が「覇権」で「従属」かということも、歴史の中で抗争し次々と移り変わっていく。そして男性たちはそのヘゲモニー争いの抗争の中に生きている。そのことを踏まえた上で、「強者」「弱者」、「覇権」「従属」問題を考えてみたい。

チャドとステーシー──「イケメン」が遊んだ「中古」の押し付け問題

英語圏のネットで、「インセル」(不本意の禁欲主義者≒非モテ)たちに大きな影響力を持つネットミームがある。それが、「チャド」と「ステーシー」である。チャドは、性的な魅力に溢れ、スポーツカーなどを乗り回すモテ男で、ステーシーも性的な魅力にあふれ、性的な経験の豊富な女性である。性的な意味での「強者男性」「強者女性」と言っていいだろう。インセルたちは、自分たちは彼らのようではない、という鬱屈と自己否定感を抱え、「チャド」や「ステーシー」たちへの憎悪を語ることが多い。

「チャド」「ステーシー」ネットミームの中で、「覇権的男性性」と「従属的男性性」の関係を語る画像がある。ステーシーとチャドが若い間に散々遊んでいるときに、冴えない男が必死に勉強し、研究し、社会的地位を得て稼ぐようになったら、散々チャドたちに遊ばれた「中古」のステーシーをこの冴えない男たちが引き受けさせられることになる、という構図を指摘した画像である。

これに類する怨嗟を、日本のネットでも日々目にする。ネットでのミソジニーなどを分析するという本連載の趣旨に沿うように、日本語圏のネット用語での差別的・侮蔑的表現を敢えてサンプルとして引用するが(この差別的な表現それ自体に傷つく読者がいたら申し訳ないと思うので注意してほしいが)、イケメンたちが散々遊んで、若くもかわいくもない「中古」になった「産業廃棄物」「更年期障害」の「BBA」を押し付けられている、という言い方になる。性的魅力のあるイケメンたちは、努力もせず散々遊び、責任も取らず女を捨てるのに、一生懸命勉強し禁欲し努力してきた自分たちが、なぜ性的魅力もなくなり更年期障害なども発症し老化や病気も伴う後年の面倒を見させられ、生活費を支払わせられ、恋愛や性愛の快楽を堪能できないのか、それは不公平ではないのか、という疑問だと言い換えてもいいだろう。その表現にあるミソジニーや怨嗟は問題だが、これに「不平等」を感じることはもっともだと思われる。

この「不平等」の問題を理解する視点のひとつとして、「覇権」が年齢によって移行していくということがある。若い時には、見た目や、動物的な性的魅力(エロティックキャピタル)こそが、伴侶を獲得するための資源として有効である。小学生でモテる男は、足が速い人間だが、三〇代での恋愛や結婚で重視されるのは社会的地位や収入や生活レベルだろう。動物的なエロティックキャピタルから、社会的なエロティックキャピタルに、魅力が移行するということである。モテは、「覇権」「従属」に大きく影響を及ぼすものである。つまり、「覇権的男性性」が年齢とともに移り変わっていくことにまつわる怨嗟が、このミームで示されている。

このミームに注目したのは、社会的地位や経済的に「強者男性」≒「覇権的男性性」になったとしても、インセル意識や非モテ意識≒「弱者男性」≒「従属的男性性」としてのアイデンティティや意識、被害者感が消えない主体がいるということを、典型的に示すからである。「弱者男性」は、フェミニストや女性と手を組み、「強者男性」と戦おうという呼びかけが機能しにくかったり、「強者男性」が「弱者男性」的意識を持っている場合があるのも、この「覇権/従属」の流動性ゆえに、アイデンティティが固定化していないということに由来するのだと解釈することができる。

「弱者男性」意識を持つ「強者男性」はなぜ生まれるのか

よく、ネットでは、マジョリティであったり、勝ち組であったりするのに、マイノリティ意識や被害者意識を持つ人たちを見る。男性至上主義、白人至上主義などがその典型例であろう。

では、「強者男性」であるのに「弱者男性」的意識を持つ人たちがいるのは何故か。前節では時間軸の中での「覇権/従属」の変化を理由に説明したが、今回は空間軸の中での変化や流動性の話をしたい。一言で言えば、「覇権/従属」が場によって変わるということである。

分かりやすい例で言えば、ヤンキーが多い現場では、インテリは「従属的」な立場になるだろう。逆に、知的な産業や高級住宅地では、ヤンキーが「従属的」になり、居心地の悪い思いをするだろう。「覇権/従属」は、場によって変わるのだ。

特に、男女論やジェンダーの観点から重要なのは、社会的・経済的な場面と、恋愛や性愛などの場面との差である。前者で成功する能力と、後者で成功する能力とは異なっており、重ならない、だから、仕事などの場面では「覇権的」な強者の立場でも、恋愛や親密性の場面では傷つき屈辱を経験するというギャップを味わうこともある。「チャド」「ステーシー」は、後者の能力に長けている者たちの象徴であり、このミームに共感する者は、社会的・経済的成功はしたものの、その能力が恋愛・親密性の場面で効果を発揮してこなかった者たちであることが多いのではないかと推測される。

社会的・経済的に成功し、「強者男性」≒「覇権的男性性」の立場になったが、親密性や恋愛・性愛の場面ではうまくいかず傷つき苦しんでいるがゆえに、「非モテ」的意識や「弱者男性」的なアイデンティティが消えない人たちがいるのである。彼女が出来たり、結婚できてもその意識が消えない人も多い。先のネットミームで言う「中古」の「BBA」の「不良債権処理」をさせられているという言葉やそれに対する共感からは、仮に結婚できたとしても、若いときにたくさん遊べなければ不全感や羨望や憎悪が消えない可能性を示唆している。それは、人間のアイデンティティは、収入や社会的地位などとデジタルに対応しているわけではなく、脳には過去の記憶や痕跡が残り続けるから当然のことである。

細かい傷つきの集積、そのトラウマ

「従属化」≒「周縁化」されるとはどういうことか。それは、具体的に、バカにされ、からかわれ、ナメられ、いじめられ、貶され、仲間外れにされるなどの経験を積み重ねるということである。

西井開『「非モテ」からはじめる男性学』、彼が主催しているぼくらの非モテ研究会編『モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究』での研究を参照すると、傷付きの集積について理解しやすくなるかもしれない。

西井は「非モテ」をテーマに掲げたオープンな当事者研究の集まりを開催し、語りを聞いていくうちに、「非モテ」という自認の中には、単にモテるモテないだけを意味せず、様々な人生の中のつらさがその言葉に象徴されていることに気が付いたという。よって、本論でも、「非モテ」「弱者男性」などを、「何か不遇感やつらさを感じている人が共感し、自分がそうだと感じてしまうアイデンティティ」として、似たものとして、ゆるい定義で扱っていくことにする。

彼は、「『非モテ』問題の核心」を「男性集団内の周縁化作用」(『「非モテ」からはじめる男性学』p7)と名付けている。「周縁化」とは、一言で言えば仲間外れのようなことである。「男性集団の中で否定的な言葉を繰り返し浴びせられた傷、排除されるのではないかという恐怖心、最終的に孤立した痛み、加害をしてしまった罪悪感。そしてこれらの負の感覚が明確な言葉を与えられずに、澱のように沈殿しているということ。『非モテ』という苦悩の中にはこうしたさまざまな問題が渦巻いている」(p183)。

西井は、非モテ的な自意識や状態が生じた原因を、男性集団の中における、男らしさなどを巡る無数のからかいやマウンティングなどの蓄積だと考えている。西井はその言葉を使っていないが、マイクロアグレッションによる複雑性トラウマに近い状態だと筆者は解釈する。「自尊心を削られ、男性集団から緩く排除し続けられている状況」(p169)が彼らにはあるようで、それがときにミソジニーとなって噴出するようだ。それは、トラウマであるがゆえに、長く続く。仮に、彼が「強者」「覇権的男性性」になっても、そのアイデンティティやトラウマが即座に消えたり、一気に癒されたりするということはないのではないか。それが「弱者男性」「マイノリティ意識」を持つ「強者男性」が生まれる理由のひとつなのではないだろうか。

属性」ではなく、従って「差別」ではないが、傷つきが蓄積する「排除」

この「周縁化」や、「非モテ」の問題を男性内部の権力の問題として理解するフレームワークは、コンネルの影響だと思われる。よって、「周縁」ではなく、「覇権」「従属」の概念に置き換えて考えることにする。

「覇権」の流動性の問題が、ここにもある。「ところが周縁化作用の場合、ある集団では権力を持っていた男性が、別の集団では周縁化されることもあり、またその逆も生じる」(p184)。つまり、境界線が流動的なのである。その「周縁化作用は男性差別とは言えない」(p185)。

主観的にはつらく、それを「差別」の問題だと誤認してしまう。実際、バカにしたり排除する点において、「差別」と構造は似ているのだ。しかし、差別は「属性」によるものと定義されているのだから、これは「差別」ではないと否定されてしまう。実際、定義上は、差別ではないのだ。そして、自分がなぜそう扱われるのかの理由を明確に理解することも難しい。よって、「男性だからである」などの誤認も生じ、「男性差別」というフレームに沿った誤った理解に導かれやすくなる。

「覇権/従属」や「周縁化」は流動的だから、固定的な属性によるものと定義される「差別」とは異なる。しかし、現に傷つきは存在する。それを、「差別ではない」と否定され、「お前はマジョリティだから強者である」と言われてしまう回路が存在している。これが、リベラルや反差別運動への反発の心理的メカニズムのひとつの根拠ではないかと思われる。

西井の主張は、杉田俊介が述べた、現在主流の政治的議論のカテゴリから零れ落ちていることが、「弱者男性」のつらさの原因だという主張とも重なる。彼らは「議論の枠組みそのものから取り残され、取りこぼされ、置き去りにされている」(『男がつらい!』p32)存在なのだ。また、伊藤昌亮が、問題は70年代的「差別」ではなく、90年代以降的な「排除」であり、「差別」のフレームワークでは掬い上げられない問題があるのだと指摘していることとも合致する。

西井の研究から得られた知見をまとめると、「覇権/従属」「中心/周縁」などが固定化されない「流動性」こそが、それを「属性」に基づく「差別」のフレームワークでの理解や社会的な対策では問題に対応できにくくさせている原因のひとつだと考えられる。また、そこで起こっているのが、マイクロアグレッションなどと同じ、ミクロな「からかい」の集積であるので、暴力や傷害などと比べて、問題化や犯罪化もしにくく、不可視化されがちであったという視点が必要である。虐待による複雑性PTSDと同じように、これらの排除やからかいの集積も、アイデンティティや脳に重い後遺症を残すのである。

「オタク差別」は存在するのか

ここまで得た知見を元に、「オタク差別」について考えてみよう。

フェミニズムによる批判に反発する「オタク」が、「オタク差別」について言挙し、その苦痛を訴えかけたときに、反差別の人々が「オタク差別は存在しない」と言い、感情的な反発を受けることがある。これも、「オタク」は属性ではないので、定義上、「オタク差別はない」という結論にならざるをえない。

しかし、一方で、「オタク差別」だとしか言いようがない、そうとしか捉えられない経験や傷つきが、そこで感情的に燃え上っている当事者たちにあるだろうことも確かであろう。これは、属性による「差別」ではなく、流動的であるがゆえに対応が困難な「覇権/従属」で考えた方が、クリアに問題が切り出せるのではないか。

田中俊之は、『男性学の新展開』所収「オタクの従属化と異性愛主義」のなかで、「オタク差別」という言葉を用いて、「オタク差別」について「覇権的男性性/従属的男性性」の概念を用いて考察している。

田中は、「オタク」と「従属的な男性性」を重ねて理解し、このように言う。「コンネルは『同性愛』男性を近代社会での〈従属的男性性〉の主要な形態とみているが、現代の日本社会ではオタクもまたその典型の一つとして理解することができる」(p129)。そして、コンネルの議論にある、従属性を作り出すことによって、覇権性が生まれるという関係論的なメカニズムによって「オタク差別」が生み出されているという。オタクは、「『大人』の『異性愛』男性の正当性を確保するため」(同)に発生し、従属化が行われる。「オタクは異性愛主義の自明性を支えるために利用されている」(p130)。

確かに、いわゆる生身の人間に対する異性愛ではなく、二次元の存在に恋愛感情を抱いたり欲情したりすることが、「おたく」の特徴とされていたこともあった(斎藤環らの議論)。二次元美少女や二次元美少年に「萌え」て「推す」ような側面が、覇権的男性性・覇権的女性性(?)と対比して、同性愛男性と同じように「従属的」な存在として扱われカテゴリ化・アイデンティティ化されていくプロセスはあるのだろうと思う。日常的な関係性のレベルでの、からかい、抑圧などの傷つきが蓄積することも同じだろう。

田中が言うように、おたくという言葉を現在のような集団を名指す言葉として確立した中森明夫「『おたく』の研究」(1983)を見れば、ファッションやコミュニケーションのあり方がその特徴になっており、ファッショナブルでコミュニケーション能力が高い「新人類」と対比される形で「おたく」というカテゴリが作り出されたように見える(註1)

「オタク」というカテゴリは、生身の人間に対する異性愛規範における、「覇権的男性性」との関係の中で作り出された「従属的男性性」に近い性質を持つという意見は、実感からもそうだと思われる。海外にアニメの発表などをしにいくと、よくクィアの人に声を掛けられ、「日本アニメはクィアだ」などと言われることがあるのだ。日本アニメなどを頻繁に扱う英語圏の匿名掲示板などを見ていても、非常に強い「男らしさ」の規範が存在しているアメリカなどにおいて、日本アニメを観ることはそれだけで「男らしくない」扱いをされているらしき背景が見え、日本との文脈の差に驚くことになる(註2)

現在に繋がるような、1995年から2000年代にかけて発展したオタク文化は、メカや科学ではなく、萌えを中心としており、いわゆる「男らしさ」がそれ以前と比べて欠如している傾向が見出せる。KeyやLeafの美少女ゲームや、新海誠の初期作品の男性たちを思い浮かべればいいだろう。うじうじして、行動できず、勇気がなく、そして、トラウマを負った女の子の心を癒そうとしている。ロボットを操縦して宇宙で戦争し勝利を得るタイプの「男性性」とは異なっている。その背景に、バブル崩壊と就職氷河期による「覇権的男性性」「一人前の男になること≒『クレヨンしんちゃん』や『ドラえもん』や『サザエさん』のような中流の家庭を持つこと」が達成しづらくなったこと、過酷な競争に満ち酷薄になった社会における傷つき体験があることを、筆者は指摘してきた(『現代ネット政治=文化論』などで)。ゼロ年代におけるオタクは、「従属的男性性」に近い性質を確かに持っていたと思う。そこには「傷つき」という背景もあったのではないかと思われるのだ。

それらの傷つき経験の総体を、「差別」として理解したくなる気持ちはよく分かる。経済政策の失敗であり、就職氷河期世代を犠牲にしたという背景による、「覇権的男性性」になれなくなったという客観的な説明は、主観的な自己認識とは異なるだろう。「自己責任」という言葉が流行していた氷河期世代にとって、それは経済や社会や国家のせいではなく、自分の内側に原因があったと思われやすいのではないだろうか。とはいえ、繰り返すが、「オタク」は属性ではないので、「差別」とは言えないのだ。田中も、結論部で「『異性愛』男性の男性性に内在する差異と不平等」(p137)の問題だと結論付けている。

「オタク」の覇権争い

「オタク差別」は、男性性の内部における「覇権/従属」の抗争と、異性との恋愛や親密性の構築困難の問題に対し、主観的な理由付けとして生まれてくる認識の産物ではないかと理解した方がいいのではないか。関係性の問題は、次回以降に詳述するが、ここでは「覇権/従属」の観点から、「オタク」の変化を考えてみたい。

「オタク差別」を問題化する論者が多く挙げるのは、1988~1989年に起こった宮﨑勤の連続幼女殺傷事件のあとのバッシングである。そこでは「おたく」は、犯罪者予備軍のような扱いだった。この時点で「おたく」はかなり「従属的」な地位であっただろう。

それが、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』のブームにより、「おたく」は「オタク」になり、カッコよい印象になり、大衆化していく。2000年代前半の秋葉原ブームや、『電車男』などで、オタクは一挙に一般化し、普及し、大衆化していく。

2008年に首相になった麻生太郎が「オタク」を包摂するアイデンティティ・ポリティクスを仕掛け、2010年より内閣府がクールジャパン戦略を推進していく頃になると、オタクたちに「国の重大な産業であり主流文化の担い手」というプライドが発生していくようになり、「オタクが経済を回している」という言説が増えていく。ある時期に売れているアニメを「覇権アニメ」と言って持て囃すなど、経済的な「覇権性」を強く意識するような変化が生じていく。1980年代のオタクは、大衆性ではなく、マニアックさを追求する傾向があり、商業的・大衆的成功を必ずしも第一に追求する価値観とは異なっていた。

このプロセスは、「従属」的な地位だった「オタク」が、「覇権」的になっていく歴史的過程である。これは、冒頭で論じた、一人の人間が「従属的男性性」や「覇権的男性性」に、歴史的な時間軸の中で移り変わっていくプロセスとよく似ているだろう。現在では経済的に力を持つ輸出産業であり、国が認める「芸術」であり、「覇権」的になっているにも関わらず、オタクたちの中にはまだ「従属的」だった時期の記憶やトラウマがあり、アイデンティティからも消えないのだろう。

このことが、反差別運動とのすれ違いを生んできた。反差別運動の人たちの念頭にある「オタク」は、現代日本の主流文化であり、それを消費するマジョリティであり、経済的な強者であり、クールジャパン以降のナショナル・アイデンティティとの一体性を強くしている者たちのイメージが強いのかもしれない。しかし、「オタクは差別的」などの表現は、2000年代以前の、宮﨑勉事件などで日陰者扱いされてきた、「覇権的」「強者」ではないオタクたちにまで批判が及んでしまう、あるいは、今や「強者」の立場になったとしても、「弱者」的なアイデンティティやトラウマは、いきなり消失することはないので、強者扱いに違和感があるのだろう。これは、ある集団を指すカテゴリが変動していくことによる、構造的な問題だと思われる。

「覇権」の変化──産業構造と情報社会の変化の中で

伊藤昌亮が「『弱者男性論』の形成と変容」(『現代思想』2022年12月号)で、「恋愛弱者」であるが「情報強者」であるという自意識をも持っていた者たちについて触れている箇所も、そのような「覇権」の変化として理解されるべきである。

初期のインターネットには、「オタク」が多かった。当時コンピュータを使って新しいことをやろうとしてきた人々の気質を考えれば、当然だろう。今は萌えやキャラクター文化の街になっているが、秋葉原は本来電気街だった。電気街が「萌え」の街になったこと自体が、両者の強いつながりの証左であろう。

伊藤はこう言う。「彼らの多くは確かに『恋愛弱者』や『経済弱者』だったが、しかし『コミュニケーション弱者』だったかというと、必ずしもそうではない。『対人関係』という意味でのコミュニケーションの点では確かに『弱者』だったが、一方で『情報通信』という意味でのそれの点ではむしろ『強者』であり、達人の集団だった」(p152)。

対人関係においては「従属」であるが、情報通信においては「覇権」的である、という「場」における「覇権/従属」の違いがまずあった。そして、90年代から現在までの間に、情報通信が主流な産業になり、それを使いこなせるかどうかが生産性、つまり覇権的男性性のあり方に大きな影響を与えるようになった。かつては「従属」扱いされていた人たちが、覇権争いに勝ち、覇権になるようになったのである。その理想を体現するロールモデルが、ひろゆきであり、ホリエモンであり、スティーヴ・ジョブズであり、イーロン・マスクであろう。

このことを考えると、田中の、オタクを「従属的男性性」と見做す議論には啓発的な部分があるが、現状ではその先にヘゲモニー争いで彼らが勝利し「覇権的男性性」になりつつある状況での議論をしなければいけないのだろうと思われる。それは、「覇権的男性性」の性質が、産業構造や社会環境(情報化)などによって大きく変化してきた現状における、様々な歪みや問題の表出としてのネット上の「男女の争い」を説明しきれていないのだ。「覇権」「従属」のこのダイナミックな変化という文明史上の現象の中でこそ、ネット上の男女論やミソジニーやフェミニストなどとの対立は理解されなければならない。これは、次回以降に論じることになるだろう。

まとめ──「排除」と「傷つき」、流動性への対応必要性

さて、ここまでの議論で、いくつかの知見が得られた。

まず、「強者」や「弱者」という属性的な概念ではなく「覇権」「従属」という流動性を意識した概念を導入することで、より様々な問題がクリアに理解しやすくなるのではないだろうか。

そのいくつかの例が、マジョリティや強者であっても、「弱者」意識を持ち続けるメカニズムである。そこには、「覇権」と「従属」が流動的な場における排除やからかいを「差別」として問題化できない構造上の問題が存在していた。それらにおける無数の傷付きの集積こそが、弱者意識を生み出している可能性がある。そして、「オタク」も構造的に同型であるので、「差別」というフレームには載せられない(オタク差別は存在しない)が、排除や傷付きの問題は存在するのだと言えるだろう。

本質主義的なフェミニズムとミソジニー的な反動の衝突には、世の中を良い方向に動かす部分はあったかもしれないが、やはり、このような傷つきを新しく作りその世界における総量を増やし続けるという点において、大いに問題性と懸念がある。そうではなく、ミソジニーやミサンドリーや偏見や暴力的な言動は批判し矯めながらも、個人においても、制度や社会的議論においても、ミクロな傷やトラウマなどに注目し、ケア的に対応していく方向が必要なのだろうと思われる。

トランプ現象は「不可視化された弱者」の叛乱だと分析され、それにリベラルが対応できていないことが批判されるが、反フェミニズム、反ポリコレなどの背景には、そのような「差別」のフレームワークだけでは取りこぼされ不可視化されてきた人々の叫びや、言語化しにくい苦痛があるのだとも推測される。その場合、世界や人間を認識するフレームを更新してこなかったリベラル側にも、問題の責任はあるだろう。「リベラル/保守」の対立図式で考えるのではなく、丁寧な人間理解と、細やかな対処法の模索こそが、今必要なのだ。


(註1)とは言え、「新人類」だった中森明夫自身が、アイドル評論家であり、「おたく」であることも見逃してはいけない。第二回において相手への呼びかけで「おたく」を使うところがキモいと言い、そこから命名したと示唆しつつ、第一回の終わりでは読者に向けて「おたく」と呼びかける。つまり、自分自身がそのキモいオタクでもあると示すアイロニーも見逃してはいけない。大塚英志が『おたくの精神史』などで中森を批判しているが、中森は、当時の新人類的なアイロニー感覚を用いていて、単なる否定や揶揄としてのみ「おたく」を扱っているのではないと思う。中森自身は「両方」に属しているのである。
(註2)過剰に男らしさに拘り、「イキる」傾向がオタクたちの中にあり、ミソジニーが目立つと見做されることもあるが、それへの理解も、ゲイ男性たちの文化との対比で理解できるだろうか。たとえば、ゲイ文化の中には、過剰にパロディであるかのように男性性を強調するタイプがいる一方で、女性的な性質の男性もいる。
2000年代以降の「萌え」を中心としたオタク文化は、バブル崩壊と就職氷河期以降の、「一人前の男」になり家庭を作る家父長的な欲望を満たしにくくなった経済状況における代償として「女性(の形をしたキャラクター)」を所有する疑似家父長制的な欲望があると見做すことができる。様々な傷つきを経て、「従属的男性性」的になった男たちの中には、仮想世界においてパロディのように過剰に誇張された男性性を志向した者もいただろう。一方で、積極性や自主性や勇気に欠ける「男らしくない」イメージもおたくにはある。「オタク」というカテゴリも決して一枚岩ではなく、その内部の文化はゲイ文化と同じように、様々な屈折を経ていて、単純に判断されるべきではないのかもしれない。

フェミニズムでは救われない男たちのための男性学

藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。

第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか

「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。

 1,本連載で展開しようと思っていること

  男は下駄を履かされているのか、弱者なのか

男とは、どういう生き物だろうか。

男には「特権」があるとも言われる。男女の賃金は女性の方が3割ほど低い(厚生労働省「令和4年賃金構造基本統計調査」)。国会議員の数は、女性が男性の16.1%(2024年2月時点、内閣府男女共同参画局「政治分野における男女共同参画の状況」)。プライム市場上場企業における女性役員の割合は13.4%(2023年、内閣府男女共同参画局『共同参画』2024年2月号)。明らかにカネと権力を持つのは男性に片寄っており、この点で一般的に「男性特権」と呼ばれるもの、女性に対する不平等が存在することは確かなようにも見える。

一方で、「男はつらい」「男の方が差別されている」という意見がある。令和四年における自殺者数は、男性は14746人、女性は7135人で、男性が約2倍(厚生労働省「令和4年の主要な自殺の状況」)。平均寿命は男性81.09歳に対し、女性は87.14歳で、6年ほど長い(厚生労働省「令和5年簡易生命表」)。ホームレスの数は、男性が2575人に対して、女性が172人(2024年、厚生労働省「ホームレスの実態に関する全国調査(概数調査)」)。幸福度は、女性が69.6%、男性が59.3%と、10%近く女性の方が高い(2023年、朝日広告社「第2回ウェルビーイング調査」)。生涯未婚率は2020年時点で、男性が28.3%、女性が17.8%(2023年、こども家庭庁「少子化の状況及び少子化への対処施策の概況」)。その他、殺人の被害者も男性が多く、低賃金で危険な労働なども男性に片寄っているという意見がある。「男のほうがつらい」というのも、また確かなようにも見える。

この、一見矛盾することを、どう説明したらいいのだろうか。

ネットで良く見る説明としては、「男性特権」「家父長制」があるからだ、男が競争社会を形成するからだ、というものや、男性は遺伝子的に女性よりも上も下も多様に分散しがちな特性を持っているのだ、という説明がある。そしてこれらを根拠にして、男性には原罪があるだとか、女性は楽をしているという、不毛な男女対立の議論が展開されるのは、お決まりの展開だ。

だが、果たして、本当はどういうことなのだろうか。

まずは、これら、「女が差別されている」「男の方がつらい」と、どちらの主張も可能になるような一見矛盾して見える統計的事実を直視するところから始め、「男」「男性性」を考えていくことで、ネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ねていくのが、本連載の趣旨となる。

 男性学2.0

方法論として採用するのは、男性学である。

男性学とは「男性が抱える問題や悩みを対象とする学問」(田中俊之『男がつらいよ』p6)である。それは「女性学の影響を受けて成立」したものであり、上野千鶴子曰く「男性学がフェミニズム以後の男性の自己省察であり、したがってフェミニズムの当の産物」である(「『オヤジ』になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」『男性学』p2)。男性が男性として、自己の経験や悩みを自己省察していく当事者研究的な学問としての「男性学」の手法を、本連載では採用するつもりだ。

とはいえ、「男性学」に反発する向きがあることも理解している。それ自体が、家父長制や女性差別の構造を温存するというフェミズムの観点からの批判もあれば(江原由美子「『男はつらいよ型男性学』の限界と可能性」、澁谷知美「ここが信用できない日本の男性学」)、あるいは逆に、フェミニズム寄りであるから男性たちにとって役に立つものになっていない、という批判がされることもある。たとえば、ベンジャミン・クリッツァーは『モヤモヤする正義』のなかで「男性学は『社会は女性差別的である』というフェミニズムの前提を共有しているため、女性の方の不利益を強調して、男性のほうの不利益を見過ごしたり過小評価したりしてしまいがちだ」「フェミニストのなかには、男性学が男性のつらさや不利益に焦点を当てることを批判する人も多い」(p346)と、男性学への不満を述べる(それでも男性が男性自身のことを語る言葉が必要だとクリッツァーは言っている)。後者に類する、男性学がフェミニズム寄りであるから信用できない、自分たちの苦境を救うものになっていない、という意見は、ネットでたくさん見かける。

本連載では、フェミニズムやその影響の強いタイプの男性学的な言説では救われないと感じている男性たちが救われるための男性学を手探りしてみたいと思っている。

たとえば、問題の解決に、「男は弱さを認めろ」とか「競争を好んでしまう男性性に問題がある」とか「そのつらさは強者男性のせいなので強者男性と戦うべきだ」、「家父長制を打倒せよ」などの意見が言われることがある。それらはマクロな分析としては正しい部分が多いと個人的にも感じる。しかし、たとえば「弱者男性」や「非モテ」の研究に頻出する、傷つき、学習性無力感に陥っていたり、気力がない状態になっている者たちにとって、「そうは言われてもできないし、それでは救われないよ」と感じてしまうことは事実だと思われる。本連載は、そのような男性たちが、それでも救われるような方法を模索する男性学でありたいと願っている。

 男性の問題を語ることが、反フェミニズムやミソジニーと誤解されやすい構造的問題

男性は特権がある権力者なのか、それとも被抑圧者なのか、という問題に戻ろう。実はこれも男性学の中で既に議論されてきたことであり、昨今のSNSでは、この議論と構造的に類似の図式が反復している。この議論を確認しておくことは、フェミニズムへの反発がなぜ一部の男性に生じるのか、というメカニズムの説明にもなっている。

一九八九年の『現代思想』「セックスの政治学――男のフェミニズム」特集では、上野千鶴子は『脱男性の時代』を書いた渡辺恒夫を批判し、男性の被抑圧性を主張する言説は男性の権力性を隠蔽するのだと主張した。

確かに、男性の「つらさ(被抑圧性)」を語る言説はバックラッシュや、「男性特権」の温存と見做されやすく、実際にそう機能しがちである。しかし男性の権力性や特権性への批判を一面的に行う議論では、男性の被抑圧性や複数性(男性の中にも、強弱や、様々な階層や属性があること)を上手く言語化や問題化ができなくなってしまうこともまた確かなのだ。

田中は、「こうして、『男性問題』をめぐる議論は行き詰まることになる」(『男性学の新展開』p35)のだと分析し、ここをこそ「適切に」語ることが必要なのだと言う。これは、クリッツァーの批判に反し、男性学が、フェミニズムの恩恵を受けて成立した学問でありながら、適切に距離を置いたり批判的な緊張感を持ちながら問題を言語化しようとする努力を行ってきた領域であることを示す。

男性の被抑圧性(つらさ)の語りにくさを、分かりやすくネットの例で言い換えよう。「男もつらい!」という発言が、フェミニズムや女性を攻撃し、居直るために使われる場面も多い。それに警戒する余り、男性の抱える問題を議論しようとすること自体が、ミソジニーや反フェミニズムだと早合点されてしまい、この問題が語りにくくなってしまうという構造的な問題も既に男性学の中で議論されてきた。私見では、フェミニズムへの反発の一部は、そのような「早合点」(もしくは妥当であれば過剰であることもある政治的な警戒心・危惧)によって生じている部分がある。だから、ここを丁寧に扱い、「早合点」を抑制することができ、男性のつらさなどの言語化が促進されれば、ミソジニーや反フェミニズムも減るはずなのだ。

本連載では、以上の理由から、男性学がフェミニズムの方法論の延長線上にあることを理解しつつも、フェミニズムにあるドグマや、単なる無知や無理解(一部の男性が生理などを理解していないことに男女逆で相当するもの)からは距離を起き、生物学も進化論も脳神経科学も統計も駆使しようと思うのだ。「救われる」ための具体的な解決法を模索し解決を志向するときに、生物学や脳神経科学を否定するのは、利が乏しいと思うからだ。だから、極端な論者のように性差の全てを社会構築主義だけで説明はしないし、男性が常に悪く原罪があるのだと結論を先取しないし、科学や統計やエビデンスそれ自体が男性中心主義的なバックラッシュだと断定し排除したりはしないつもりである。

本連載自体が、さまざまな構造的な困難の中で誤解をされる可能性を承知の上で、バックラッシュや男性の権力温存にも、フェミニズムによるドグマや男性性への無理解による言説にも陥らないような、「適切」な男性自身による男性についての言葉を紡ぎ、男性の問題性、愚かしさ、弱さだけでなく、「男性学」があまり論じようとしてこなかった栄光、魅力、強さなどについても、言語化していき、男性とはどんな生き物なのかを明らかにしたいのである。

そのために、今まさにジェンダーの対立の主戦場となっている現在のネットにおいて流通し影響力を持っている概念を俎上に上げ、それをひとつひとつ論じていきながら、フェミニズムでは救われない男たちのための男性学、いわば男性学2.0のようなものを作り上げていけたらと思う。2.0と付けたのは、ネットの状況、その普及による変化を意識しますよ、というニュアンスである。かつては一部のインテリだけの理論や議論だと思われていたものが、SNSなどによって大衆的に生きられてしまっている状況における男性学のアップデートと介入、というような狙いをこめたつもりだ。

具体的に扱う予定のものは、「女をあてがえ」論、「上昇婚批判」、「KKO」、「かわいそうランキング」、「ガラスの地下室」、「女だけの街」、「非モテ」、「暴力的な男の方がモテる」vs「男も弱さを認めろ」論争、「表現の自由」戦士、新自由主義vsケア、などである。

なお、本論で「男/女」と区分けして話すが、あくまでそれは統計的な傾向を意味しており、本質でもないし、そうあるべきという規範でもない。筆者自身は、理論的にも経験的にも、「男女」と単純に二項対立に出来ないほど現実の人間のあり方は多様であると認識している。これまで作品を論じてきた文章でも、クィア性やノンバイナリー性、あるいは生物学的な性質を超えようとするトランス的な側面に共感的な表現が多いと思う。とはいえ、あまり脱構築しすぎても具体的な課題解決に繋がらない部分もあると思うので、生物学的・進化論的な特性が統計的な傾向としてあることは認め、あまりにそれを無視しすぎるのも歪みが出るかもしれないという危惧を持ちつつも、それが自然であり規範であるとは主張しないという立場で論じていくことになる。

これらの議論で、男性が自分たち自身のことを考え言語化し主張し救われるようになる助けができたら嬉しい。また、女性の皆さんにも、男性という奇妙な生き物を知るための助けになってくれて、相互理解と対話が促進したら、とてもうれしい。そうすれば世界は平和に近づき、理解に基づいた信頼と愛が生まれやすくなると思うからだ。

 2,「弱者男性」とは何なのだろうか

 「弱者男性」とは何か

ここまで、方法論や連載の狙いについて書いてきた。ここからは、具体的な内容に入ろう。本連載は、ネットで流通している男女論におけるキーワードを採り上げ、論じていくと言った。その第一回として、「弱者男性」という言葉を扱ってみようと思う。フェミニズムに反発し、それでは救われないと感じている男性たちとも重なりがあるだろうと思うからだ。

では、「弱者男性」の定義を考えてみよう。ネットでは、理系・科学的であることを男性性のプライドにしている者が少なからずいるが、「弱者男性」という言葉はろくな定義もなく使われている。「弱者男性」とはネットスラングであり、様々な用語法でいい加減に使われている言葉であり、決定的な定義は存在しないというのが現状である。

よって、このような概念にアプローチするときに人文学が採る手法である「概念史」「言説史」的に、この言葉を考えてみよう。それは、「弱者男性」という言葉が実際にどのように使われてきたのかを辿ることで、その言葉・概念の使われ方や輪郭を知るアプローチである。

まずは、一番目に付く、SNSなどでの通俗的な用法を見てみよう。具体的な引用はしないが、それは、「男のほうがつらいんだ!」とフェミニストたちの訴えを相対化させるために使われることもあれば、障害や貧困などの弱者性を持つ男性の真摯な訴えの場合もあり、ナンパ師界隈では女にモテない男や女性に優しく媚びを売る男のことを指す。女性たちの一部には「チー牛」などと同じように単なる罵倒語として使う向きもある。女性への批判や攻撃を伴うことが多かったので、弱者男性について論じようとする言説は、ミソジニー扱いされてしまうことが多い。インフルエンサーや、情報商材を売る者がそれを煽ることも多いようだ。

 公的支援の対象としての「弱者男性」

トイアンナ『弱者男性1500万人時代』では、(どちらかといえば)客観的な属性による定義を試みている。

彼女は、「日本には最大1500万人の弱者男性」(男性の24%)がいると言う。彼女は、以下のカテゴリに当てはまる人を「弱者男性」と定義し推計する。そのカテゴリは、「障がい者、信者の家族、引きこもり、介護者、虐待サバイバー、犯罪被害サバイバー、多重債務者の家族、容姿にハンディのある人、貧困、性的マイノリティ、境界知能、非正規雇用・無職、コミュニケーション弱者、3K労働従事者、在日外国人、民族的マイノリティ、きょうだい児」であり、合計が推計して1500万人である。彼女の議論の特徴は、弱者男性論とミソジニーを切り離そうとする点であり、公的な対策を志向していることにある。

ベンジャミン・クリッツァーは、『モヤモヤする正義』の中で、「弱者男性」の問題として「経済、親密性の欠如という『二重苦』」(p411)を挙げている。親密性という観点を重視していること、それが公的支援の対象とするべきものであると主張する点が、彼の議論の特徴である。正義論や公共哲学を検討した上で、公的支援をすることは「正義」に適うと彼は結論付ける。

もうひとつ、クリッツァーの議論で重要なのは、「弱者男性」とネットの「弱者男性論」をわけて考えていることである。ネットでは有害な「弱者男性論」が、感情を煽り短期的な快楽を提供し、収益化する「論客」「インフルエンサー」によってまるで「陰謀論のような思考」として蔓延しているのだと非難している。それは恨み辛みやエコーチャンバー、揶揄などに終始し、自分たちの境遇を本気で改善する政策提言などはしない点を彼は強く批判する。

「弱者男性」と情報化時代・新自由主義

 確かに、ネットの弱者男性論は、ミラーリング、パロディ、からかいに終始する傾向がある。氷河期世代、2ちゃんねる世代のメンタリティに対応している。2ちゃんねるは、北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で論じたように、1980年代、90年代のバラエティ文化のノリの延長線上にあり、日本社会が不況に陥っているのにそれが例外的に延命していた場所だった。それは80年代の「繁栄と平和」の感覚ゆえに、政治的・社会的な問題を忌避する傾向があった。

このような性質について鋭い分析をしているのが伊藤昌亮の「『弱者男性論』の形成と変容」(『現代思想』2022年12月号)である。伊藤によれば、「弱者男性」論は2ちゃんねるにおけるミソジニーの系譜、反リベラル、反フェミニズムの流れを汲んでいる。2000年代の赤木智弘『若者を見殺しにする国』、本田透『電波男』の議論が先駆者として存在していた。

重要な指摘が、2ちゃんねるなどでの先行する議論の主体が「恋愛弱者」であるが「情報強者」であるという自意識をも持っていたという指摘である。「彼らの多くは確かに『恋愛弱者』や『経済弱者』だったが、しかし『コミュニケーション弱者』だったかというと、必ずしもそうではない。『対人関係』という意味でのコミュニケーションの点では確かに『弱者』だったが、一方で『情報通信』という意味でのそれの点ではむしろ『強者』であり、達人の集団だった」(p152)。

つまり、彼らは、80年代は90年代前半の新人類・ストリート的な、お洒落や恋愛を重視する価値観の中では「弱者」であるが、95年以降のインターネット・IT時代においては「勝者」的側面が強いのだ。筆者は東工大の大学院を出ているが、いわゆる恋愛弱者・コミュ症的な性質を持ちながら(だから東工大は合コンしたくない大学ランキングでよく上位に上がるが)就職などにおいては極めて高い評価を得て、収入と地位を手に入れている者が周囲には多い。いわゆる「オタク」もそうだろう。つまり背景には、IT・情報時代への産業構造の転換とそれに適合しているメンタリティーと、対人関係・恋愛における評価との乖離という問題があるのだと思われる。たとえばその典型が、実の娘から「インセル」呼ばわりされた、世界トップクラスの富豪であるイーロン・マスクである。この問題は、次回以降に、詳しく論じていくことになるので、今は置いておく。

そのような「強者」意識は、氷河期世代に多い「新自由主義の内面化」とも密接に結びつくだろう。伊藤は「弱者男性」論と「新自由主義の内面化」を関連付けてもいる。彼は、トイアンナとは異なり、弱者男性論とミソジニーの連続性を強調している。2ちゃんねる時代からネットを見ている筆者にとって、伊藤の議論には深く頷けるところがある。

ナンパ師と恋愛工学

ナンパ師や恋愛工学というのは、そのような情報化時代における、「恋愛弱者」と「情報強者」の間を架橋するニーズによって発生しているように思われる。

筆者はナンパ師や恋愛工学界隈の情報商材を売っているアカウントをたくさんフォローし、その書き込みを片っ端から読んでいたが、そこで「弱者男性」という言葉はほぼ煽りとして使われる。

ナンパ師たちの一部には、自己肯定感強く「格上」であるべし、そうでないとモテないという信念体系がある。そのような男性からの見下しに強く反応する男性をターゲットにしているとも思われる。

そこでは、女性に媚びたり、共感したりするアプローチを、「弱男(弱者男性)」認定するような言説がある。一般的な恋愛指南本では(人に拠るが)女性に対しては、共感や理解を提供することが恋愛における定石とされるのと、逆なのである。むしろ、内面に共感しないで、工学的に、相手の生物学的性質をハッキングして、「沼らせる」ことが目指される。この議論には、進化生物学の理論がよく引用される。

女性に愛されようと真摯なアプローチをすることは「非モテムーブ」などと呼ばれ、格下扱いされるので辞めるように指導される。それは女慣れしていない非モテであり、女性に搾取される対象=弱者男性になってしまうというのだ。頂き女子りりちゃんのカモにされていた男性などを見ていると、確かにそのような「弱者男性」はいるのだと思われる。だから、女性に共感したり、媚びたり、何かを提供したり、「フレンドシップ戦略」には出るべきではない、と彼らは指導する。男性のフェミニストも、女性に共感し同情し格下扱いされる「チン騎士」に過ぎないと、「弱者男性」と同じ扱いをされている。

既に述べたが、彼らは、女性は対等の存在ではなく、同じような内面を期待していないと割り切っており、進化論や脳神経科学の知見を駆使し、工学的な操作対象として女性を扱う。心の通い合いなどよりは「沼らせる」ことを重視しており、ホストや夜職界隈との親和性を感じさせる。

そこにあるのは、ミソジニー+「(有害な)男らしさ」による「弱さ」への嫌悪、自己責任と自助努力による成功、という新自由主義的なマッチョイズムと、相手の内面や感情を無視する工学的な思想に特徴があり、2ちゃんねる的な流れを汲んだ弱者男性論の裏表のようにも思われる。共感や心の通じ合いのような恋愛に必要とされるコミュニケーションに不得意さを感じている者の一部が、これに惹かれるのではないかとも思われる。おそらく、弱者男性と恋愛工学は、裏表にある。

不可視化された弱者」とアイデンティティ政治

 これらとはまた違い、客観的な属性や、公的支援の問題ではなく、情報社会の問題でもなく、現在主流になっている政治的議論や認識のカテゴリの問題であるとする議論がある。

「弱者男性」問題に対する著作を多く持つ批評家の杉田俊介は、現在主流の政治的議論のカテゴリから零れ落ちていることが、「弱者男性」のつらさの原因だと述べている。「『国民・市民(マジョリティ)VS被差別者・被排除者(マイノリティ)』という政治的対立のいずれにも入ってこないような存在」「社会的に差別されたり排除されたりしている、あるいは政治的な承認を得られない――というよりも、それらの二元論的な議論の枠組みそのものから取り残され、取りこぼされ、置き去りにされている」(『男がつらい!』p32)存在であり、だから、承認や再分配の対象にならなかったという問題があると言う。杉田は、弱者男性論とミソジニーの連続性を認めつつ、切断を志向しようとする。

余談だが、杉田がウェブに書いた、弱者男性は社会を恨まず穏やかに滅びようという記事を、安倍晋三元首相を暗殺した山上徹也が引用し、反発していた。その山上は『ジョーカー』や「インセル」に繰り返し言及しながら、世間での主流の政治的なカテゴリに属せず見えなくなる存在についての警告と呪詛を繰り返していた。彼自身が、宗教二世という、不可視化された弱者であったのだ。彼は、杉田の議論に共鳴する部分があったのだろう。

政治的なカテゴリが取り残す者という問題は、アイデンティティを中心とした単純化した動員と対立が尖鋭化するSNS時代だからこそ、よりシビアに感じられるようになってきたように思われる。筆者自身は、「弱者男性」というカテゴリは、様々なネット文化の歴史的な流れや、実際の弱者性や苦しみを培地としつつ、あくまで「アイデンティティ政治」の中で生まれた政治的カテゴリだと理解するべきだろうと思っている。

女性、LGBT、障害者などの属性で人をまとめて集団行動に動員する「アイデンティティ・ポリティクス」が2010年代にSNSで主流化した。それは、SNSが、短文や画像中心になり、これまでよりも参入障壁が低くなったので、感情を動員する戦術が優位になり、感情を動員するためには「敵/味方」を単純化する本質主義的な物語が有効になったから採用された動員戦術である。

それに対応し、対抗するため、男性たちを、「被害者性」「弱者性」でまとめ、感情的に動員するのが「弱者男性」というカテゴリなのだと理解されるべきだろう。動員のためであり、多くの者を巻き込むことを目的として概念はデザインされているはずで、それは融通無碍に色々なものが入るように作られており、当然定義はない。金と権力を持った男性でも主観的につらければ入れるようなカテゴリなのだ。それは、「被害者性」「弱さ」を強調し、制度的支援や福祉や共感やケアを要求するという点で、フェミニズムなどが実現した新しい価値観のパラダイムの中にあるものであり、明らかにアイデンティティ・ポリティクス時代に共感と説得力を持つための概念として作られている。

つまり、「弱者男性」論は、SNSに適応しポピュリズムの戦略をとった、本質主義的なフェミニズムへの反動の側面が大きいのだ。

本質主義的なフェミニズムにも問題は確かにあった。「男/女」を単純化し、男はこう、女はこう(加害者・被害者など)と決めつけるのが「本質主義」である。これは、大衆レベルのSNSでは無視できない影響力を持っていた。

実際には「男」の中には力のある者もない者も、恵まれている者もそうでない者も、加害性の多い者も少ない者もいる。女性の中にも加害者がいる。だから、本質主義は事実ではない。本質主義的なドグマを「真理」のように振りかざせば、それに当てはまらない現実を生きている者に不満や敵意が蓄積する。「現実を分かっていない」と思われるようになる。前節で論じた通り、この「構図」は、90年代から2000年代の男性学とフェミニズムの中に既に存在していたものであり、その問題がSNSにおいて大衆的なレベルで反復しているのである。

反動がどのような政治的な現象を起こしているのかは、アメリカでの銃乱射事件や選挙、イギリスでのミソジニーの「過激思想」認定などを見ていれば、よく分かるだろう。それは、「真理」を「啓蒙」してやろうというアプローチでは、とても抑えきれるものではない。フロイトの「文化への不満」や、アドルノ=ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』のように、理性や啓蒙こそが逆説的に「死の欲動」を生んだり、虐殺につながっていくメカニズムの分析の影響を受けてきた筆者には、現状の社会の状況を見ていて、懸念が大きい。

言葉と概念を知ることにより、適切な解決へ向かうこと

さて、「弱者男性」について、それが一体何なのか、どうしたらいいのか、いきなり確たる結論は出ないが、問題と議論の輪郭ぐらいは見えてきたのではないか。

これらの議論を知ることで、「弱者男性」と自認し、苦しさを覚えている男たちが、具体的にどう救われるのか、と問われるかもしれない。

まず、腑分けし、理解の解像度を高くすることは、問題の所在地をはっきりさせ、解決法を実行しやすくさせる。人は怏々にして誤った原因を帰属させ、間違った解決法を実行しようとし、事態を悪化させてしまう。たとえばトイアンナの言うように、原因が客観的な属性であるならば、社会的な支援や制度的な解決を要求することがその解決になるだろう。杉田の言うように、議論の枠組みから取りこぼされていることが問題なら、議論し可視化し、承認やケアを与えていくことがその解決の一助となるだろう。2ちゃんねる的価値観の内面化が問題であれば、それを解除し、別の価値観や思想を学習すれば問題が改善する可能性が高まる。単なるネットで流通しやすい「物語」を使った情報工作や扇動に過ぎないのであれば、仕組みを知ることで距離を置くことができるはずである。

 「強者男性」と「弱者男性」

「弱者男性」という言葉は、「強者男性」と対になっている。「弱者男性」を批判する言説において、「強者男性こそが悪いのに、女にやつあたりしてミソジニーになっている」という批判がなされることもある。

では、「強者男性」と「弱者男性」とは、一体何なのか、どういう関係になっているのかを、次回に扱うことにしたい。

男性が一枚岩ではないことは、レイウィン・コンネル(出生名はロバート・ウィリアム・コンネル)が1980年代から90年代に、『マスキュリニティーズ──男性性の社会科学』などで議論していた。コンネルは、男性の中にも、「覇権的男性性」と「従属的男性性」、つまり、今の俗語で言う「強者男性」「弱者男性」と重なるような人たちがおり、男性性の複数性(本質主義的に一元化できないこと)を既に提示していた。田中俊之は「従属的男性性」と、オタクを結びつけ(『男性学の新展開』)、「オタク差別」の原因を見出している。

次回は、この「覇権的男性性」「従属的男性性」(≒「強者男性」「弱者男性」)の問題を扱っていくが、予告的に議論の内容を示しておくと、伊藤昌亮の「弱者男性」論に触れたところで書いた通り、「覇権」「従属」の関係も単純に二項対立的でもなく、「オタク」が必ずしも「従属的男性性」になるわけではない産業構造・社会環境になっているという問題が、田中の議論には(時期的な問題もあり)不足していると思われるのだ。西井開による、「非モテ」のミクロな傷つきの議論と合わせて、このことを検討してみたい。

 

フェミニズムでは救われない男たちのための男性学

藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。