第5回 性革命は何を目指してきたのか──脱恋愛ではなくセクシュアルポジティブであるという話

何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー論的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。

プラトニックラブが持つ性否定的という問題

前回は性的情熱からは区別される恋愛的情熱そのものが価値あるものとみなされるようになったという、19世紀的な愛のあり方を見てきた。ここで、プラトニックラブを原型とする恋愛観が広がった。プラトニックラブとは、性よりも愛に価値があるとする考え方である。

ここでいうプラトニックラブとは、さしあたり性的情熱とは区別されるものとして恋愛的情熱があるとする考え方のことであるとおさえてほしい(本当に一度もセックスをしないのかとか、マスターベーション時の性的ファンタジーとして相手を想定することすら「禁欲」するのかといった、実際の性行動がどうなっているのかも考え始めるとバリエーションがありすぎてキリがないので、プラトニックラブの定義としては上記のものでご理解いただきたい)

だが、このような恋愛観は、1960年代末からの「性革命(sexual revolution)」によって批判されてきた。

ちなみに1960年代末からの性規範をめぐる変化のことを日本では「性解放」と呼ぶことが多かったが、英語圏では性革命sexual revolutionと呼ぶことが多い。女性解放(women’s liberation)やゲイ解放運動(gay liberation、1960年代当時はここにトランスジェンダーも参加していた)等の様々な運動の盛り上がりとともに性をめぐる社会的規範が変化していくという社会の動きを総称するものとして「性革命」という語が用いられている(☆1)

さて、「純粋な恋愛」の何が問題なのかと言えば、性否定的な感情や考え方が貼り付いているところである。現在でも、恋愛は美しくてキラキラしててなんか良いものだが、性は「けがらわしい」感じがするし、なんか「きたない」感じもして、だから「できるだけ避けて通りたいな」とか、「性欲なんてなければいいのに!」という気持ちがあるとしたら、それは愛を上げて性を下げる価値観を無意識のうちに内面化してきたからかもしれない。

性革命が目指してきたのは性それ自体を肯定すること

この恋愛(愛)を上げて性を下げるという価値観は、19世紀には、女性の社会的地位を向上させることに役立ってきたということが、ジェンダー論的には重要だ。「性欲に駆られがちな男性よりも性的な貞節を守ることのできる女性の方が道徳性が高いから、女性は尊敬されるべき存在だ」という(現在から見ると意味不明感のある)論理を通して初めて、ブルジョワ階級の男性たちは女性を「対等な」愛の対象と捉えるようになったのである(ショーター 1987)

これに対して、20世紀後半の性革命は、貞節な女性だけが尊敬するに値するという考え方そのものがおかしいのではないかという批判をしてきた。男性にはさまざまな性行動の自由があるのに女性にだけ性的貞節を課すダブルスタンダードはジェンダー不平等なのでは? という主張である。

では、どうすればいいのか。女性の性的自由も増やそう、そして異性愛だけでなく多様なセクシュアリティがあることを肯定していこうというのが性革命の一歩目の主張であった。

実際、日本でも婚前の性交(婚前交渉)が肯定され、女性の性的活発化が肯定され、愛から切り離された性関係がセックスフレンドという名前で広がり社会学者たちはこれに対する肯定的な議論をしてきた。

性革命の中ではこれにとどまらない多様な動きがあったが、根本的に言って性革命が何を求めてきたのかといえば、「性それ自体の価値を認めること」である。愛の「証明」としてのみセックスの価値を認めるとか、男性が性的に活発なのは認めるが女性のそれは認めないという形で、性に価値序列をつけるのではなく、セクシュアリティやセックスそれ自体を肯定的に捉える態度を広げていこうというセクシュアル・ポジティブが性革命において求められてきたことだ。

ここで確認しておきたいのは、性革命(性解放)とは性をそれ自体で肯定することを目指したのであって、決して「恋愛」を否定したり、恋愛を丸ごと捨て去る脱恋愛を規範的に要求したりするものではないということだ。

日本の性解放は不倫・浮気・セフレ称揚だったが

だが、日本の性革命(性解放)は、家制度批判や結婚批判と結びつきながら、婚姻セックスやカップルセックス(すなわち不倫や浮気)を称揚するという、じゃっかん意味の分からない事態に陥ってきたように見える。

上野千鶴子さんは、性愛の自由のために不倫が起こるのは当然だという主張をしてきた(最近のものとしては亀山早苗さんが上野さんのインタビューをまとめた記事(2016)などがあり、むしろ「なぜ人は不倫しないのか」という問いを考えるべきだとしている)。結婚制度が個人の自由を阻害しているので、そのような社会制度から「解放」されることこそが「自由」だという議論の構造になっている。

私としても、もちろん婚外セックスをしたい人は関係当事者との合意の上ですればよく、その自由はあった方が良い社会だと思っている。当事者間の合意があるのであれば、無関係の第三者から道徳的非難を受けるいわれはない。

ただし、性革命が目指してきたセクシュアル・ポジティブとは、パートナーに不誠実な形での婚外セックスやカップル外セックスをする自由ではない。19世紀的な恋愛と性の価値序列を逆転させて今度は「性」の方が「愛」よりも価値があると主張したり、恋愛を貶めたりすることが、性革命で目指されていたことではないのだ。

日本の性革命において婚外恋愛やカップル外セックスがジェンダー論者によって肯定的に言及されるという謎の事態になったのは、日本の民主化以後(第二次世界大戦後)の家制度批判や結婚制度批判の延長線上に性解放の潮流が加わり、それらが強く結びつきながら論じられてきたからだろう。

欧米と比べた時の日本の恋愛論の特徴は「脱恋愛」が主流になったということ

実際、1990年代から2000年代にかけての日本の社会学者による恋愛研究の主流は、恋愛を批判して「脱恋愛」を提唱するものだった。伊田行幸の『シングル単位の社会論―ジェンダー・フリーな社会へ』(1998)、草柳千早『<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて 』(2011)はその例である。加藤秀一の『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたかー性道徳と優生思想の百年間』(ちくま新書, 2004)は、日本における恋愛と優生思想の同時定着性という歴史的経緯を指摘して、恋愛の優生思想との相性の良さという問題を論じるものである。のちほど回をあらためて丁寧に見ていくように、加藤の議論は一貫して徹底した恋愛批判となっている。

牟田和江の『ジェンダーで学ぶ社会学』(2015)の「恋愛」章(「愛する——恋愛を<救う>ために」)もまた、恋愛批判に終始している。「ストーカー殺人」の話から始め、恋愛とは「愛」の名のもとでの男性による女性支配であるという第二波フェミニズムの知見に沿った議論を展開し、「純粋な関係」を求める現代のコンフルエントラブ(☆2)もまた「ジェンダーバランスを欠いたもの」だと論じられている。また、伊田行幸の『シングル単位の社会論―ジェンダー・フリーな社会へ』(1998)、草柳千早『<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて 』(2011)などもある。

だが、私は、2000年代頃までの日本の社会学者はあまりにも簡単に脱恋愛を主張しすぎだという感じがしている。近代個人主義の制度にがちっと組み込まれている「恋愛」から、そんなに簡単に逃れられるものだろうか。恋愛を批判するなら個人主義の枠組みがどう組み変わるのかまで考える必要がある。ただたんに既存社会の恋愛結婚から脱出せよという煽りを続けるのは、この見通しの悪い流動的な現代社会においては、あまりに無責任だ。

北米および西ヨーロッパ諸国は、だいたい(短く見積もっても)1830年代からの約140年間、恋愛結婚を規範として実践してきた後に性革命を経験した。他方、日本では、恋愛結婚をする人が7割を超えるのと性解放の潮流が出てくるのが共に1970年代で同時期である。このような歴史的経緯の違いが「恋愛結婚」への考え方の差をもたらしていると考えられる。

日本の社会学者が簡単に「脱恋愛」を主張できたのも、一昔前までは恋愛結婚していなかったという鮮明な記憶が息づいていた社会だからだろう。恋愛によらない夫婦関係がありうるという社会的感覚が強かったからだと思われる。

このような歴史的経緯を考えるならば、「日本ではロマンティックラブが成立したことがない」という日本の歴史社会学者デビッド・ノッターの指摘は重要だ(ノッターの議論も回を改めてまた今度詳しく見ていこう)。社会的な発言をする知識人層が、不倫や浮気を正当化する論理を積極的に提供したり「脱恋愛」を主張したりする傾向が強かった点は、欧米と比較した場合の日本の特徴である。

もはや不倫は社会への抵抗という力を持っていないのでは

「セクシャル・ポジティビティ」すなわち性への肯定的な態度を、より社会的に増やしていくためにはどうしたらいいのだろうか? と未来に目を向けるとき、不倫や浮気の「自由」を求めていくことがセクシュアル・ポジティブを高めていくことになるとはあまり思えない

生涯独身率が高まっているという現状は、下の世代からしてみると、結婚しないという選択肢がかつてより選択しやすいものになったと感じられるものになっている。そのような社会に生きていると、不倫するくらいなら最初から結婚しなければいいのにと思ってしまう。浮気に関しても同様で、ステディなパートナーに隠れて不誠実に何かをするよりも、オープンリレーションシップやポリアモリーなどの可能性を考えながら、自分のセクシュアリティに向き合っていくことが重要なんじゃないだろうかと、思ったりする。

もちろん「禁忌や社会的契約(ルール)を侵犯することに性的快感を覚えるのだから、不倫じゃなきゃ意味がないんだ!」というセクシュアリティを持っている人もいるし、そのようなセクシュアリティを否定する気はない。私がここで言いたいのは、誰もが禁忌侵犯こそが快楽というセクシュアリティを持っているわけではないし、誰もがなるべく多くの人とセックスしたいというセクシュアリティを持っているわけではないということだ。なるべく多くの不特定多数の人とセックスしたいというのは「ソシオセクシュアル」という特定のセクシュアリティである。

したがって、2000年代頃までの愛を語る知識人層がやってきたように「恋愛と結婚は原理的に矛盾している」と断言して不倫や浮気は当然だという議論にはとても違和感がある。かつては妥当な社会観察だったのかもしれないが、少なくとも現代社会では妥当ではなく、誤った、過度な一般化であるように思われる。

不倫=本当の恋愛の時代は過ぎ去った……

たしかに、20世紀には精神分析まわりやバタイユなどによって「禁忌を犯す」ことこそがエロティシズムだという理解が広く共有され、「一般的」なものとなってきた。

近代小説の恋愛はその多くが「姦通(人妻との恋愛)」だったことを考えると、「不倫」が、社会的制度としての家族制度に対する個人の反抗や抵抗という意味を持ってきたことは確かだ。不倫は社会制度への抵抗と社会制度からの解放という大義(社会的正当性)を帯びていた。

だが、現代では、その「社会制度」の方がどんどん変化している。

離婚要件が緩和されて離婚しやすくなるなど、家族法は「社会道徳の維持」のためから、「個人の生活の保障」のためへと変化してきた。欧米では同棲パートナーと子育てする人が増え、そのような人たちの生活も保障できるような法整備が進んでいる。日本・韓国・中国・台湾といった東アジアを筆頭に世界的に、そもそも結婚しないという行動をする人も増加した。その結果、後続世代はより「結婚しない自由」が増大している状況にある。

このような結婚しない自由が現実のものとなってきた現代では、結婚制度への異議申し立てとしての「不倫」は、そこまでの訴求力も社会的抵抗としての正当性も、失いつつあるのではないだろうか(☆3)

 


☆1: 1830年代頃を中心とする19世紀に第一次性革命があり、1960年代以降現在まで続いているのは第二次性革命だとする論者もいる(ショーター)。ブルジョワ階級によって純潔が重視される恋愛結婚が広がった19世紀をフィードラーは心霊革命と呼び、小説の興隆、近代心理学の登場、ロマン主義の交流などの特徴を挙げている。
☆2:コンフルエントラブとは「溶けいるような愛」の意味で、社会学者アンソニー・ギデンズが提唱した、「ロマンティックラブ」とは異なる現代の新しい愛の形式。異性愛に限定されない多様な性愛を含み、婚姻によって保障される関係の永続性よりも、現在のお互いの関係への満足感に基づいて関係が継続されることを特徴とする。
☆3:これは、不倫こそ本当の恋愛と感じている人の、その実感を否定するものではない。あくまでも不倫がかつて持っていた社会に対する抵抗という意味あいが弱まってきたという意味である。また、現代でもなお、個々のカップル内での勢力闘争や関係調整の方法として「不倫」が機能することはあるわけで、そのような側面を含めて「不倫」を研究することの重要性を否定するものでもない。
【文献】
▪亀山早苗, 2016, 『人はなぜ不倫をするのか』SB新書.
▪エドワード・ショーター, 1987, 『近代家族の形成』昭和堂.

フェミニズム恋愛論

高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。

第4回 性的情熱とは区別される恋愛的情熱とは何なのか──美と恋愛について

何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー論的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。

「恋愛というものがよくわからない」という「恋愛」への違和感の原因はいろいろあるのだが、その主要なものの一つに「情熱」の意味不明さがある。(☆1

恋愛を特徴づける「情熱」とは?

恋愛は「情熱」という特殊な愛の形を伴う点で、他の愛から区別されている(友情と恋愛の違いに関する議論の整理は、私が『恋愛社会学』第1章で詳細に行っていますので、ご興味のある方はぜひそちらも!)。さらに「情熱」は性的情熱と恋愛的情熱にわけられるということを今回は考えていこう。

フロイトのリビドー論から始まる20世紀は、性欲一元論が支配的になった時期だった。そこでは、恋愛も性欲の一種だという形で「性欲」に還元されがちだった。社会心理学的な恋愛研究の主流となったスタンバーグは、性的情熱と恋愛的情熱を区別せずに「相手と一つになりたいという激しい衝動のこと」と定義している。このような定義の仕方は、「熱愛(passionate love)」尺度を作成したハットフィールド&シュプレッヒャー(1986)などにも見られるものであり、この時代の一般的なものだったと言える。

これに対して、恋愛的情熱を性的情熱からより明瞭に区別しようとする議論も細々とある。その系譜を再読していくのは「恋愛」を考えるのに役立つ。例えば、ドロシー・テノフは恋愛的情熱に見られる「相手と一つになりたい」という気持ちは、必ずしも「身体的一体化(union)」をしたいということではなく、「互恵的な感情的コミットメント」によって相手との精神的な「一体感(union)」を持ちたいという意味であると論じている(Tenov,[1979]1999,LoveandLimerence,ScarboroughHouse), ⅹページ, この本は1979年に第一版が出ており、1999年に第二版が出版されている)

このような理論的整理に基づいて、テノフ自身は恋愛初期の固有の経験である「リメレンス」の研究を、膨大なインタビュー調査を通して行った。リメレンスとは日本語ではトキメキやドキドキと言われるものである。

リメレンスの特徴は、一心に相手のことだけを考えるという相手への意識の集中や、相手に関する記憶力の高まり(ひじょうに細かいことまで覚えている)、相手の美しさや良さばかりが見えて気持ちが舞い上がること、相手との関係に関する様々なファンタジーを想像して幸せな気持ちになること、世界の美しさに気づいて心打たれること、などである。(ファンタジーには、「今後の様々な関係発展」についての想像も、実現することを期待しているわけではない様々なシチュエーションの多様な想像も含まれている。)

このような恋愛的情熱は性的情熱を伴うこともあるが、伴わないこともある。つまり、本人が持つロマンティックファンタジーの中に相手との性的関係が含まれていることもあるが、含まれていないこともあるという意味である。

私自身も、テノフ同様に性的情熱と恋愛的情熱は区別したほうが良いという立場である。そのほうが、愛をよりよく分析できる。
ということでこの前提に立って、今回は「性的情熱とは区別される恋愛的情熱とは何か?」をじっくり考え、パシっと明らかにしていこう。

恋愛的情熱がそれ自体を目的とする「愛の純粋化」をもたらした

小説家スタンダールの古典的名著『恋愛論』を読むと、恋愛的情熱の何たるかがよくわかる。

この熱量を体感すべく、ロマンティックな19世紀的恋愛の世界にちょっと(以下2節分だけ)浸ってみよう(☆2。スタンダールは19世紀リアリズム文学が始まる直前の、感傷的ロマン主義が強い時代の小説家で、『恋愛論』は自分の経験に基づいた手記である。

スタンダールは「恋をすると(原文はavec l'amourなので英語だとwith love、すなわち「愛と共にあると」)、すぐ身近に、しかし、いくら願っても、手も届かない巨大な幸福があるような気がする(第31章, p. 140)と言う。彼にとって恋愛とはその「手の届かない巨大な幸福」の存在を感じ続けることである。

「幸福」とは、恋をしている相手の「ただ一つの言葉、一つの微笑にのみ左右される」。だから、サロンのような皆のいる集まりの場で、恋人が自分に対してちょっと冷たい態度だったり、彼女の家に訪問しても以前ほど歓迎に熱がこもっていないように感じたりすると、「物悲しく」なり「憂鬱」になる。「こんな情熱などなく、ただ虚栄心とか好奇心だけで恋愛をしていれば、こんなに苦しい気持ちにはならないかもしれないのに」というのがスタンダールの嘆きである。(「もの悲しい日々には、僕はどこにも幸福を見ず、自分のために幸福があるのかどうかも疑うようになって、僕は憂鬱になる。激しい情熱などなくて、ただいくぶんの好奇心と虚栄心さえあればいいのかもしれない。」(第31章:140))

恋をしている彼の意識は恋人とその世界にのみに向けられていて、それ以外のことは「影が薄れている」。(「絶えず繰り返してきたように真剣に恋する人は、自分の想像するすべてのものを楽しんだり、そのために震えたりするが、自然のなかには愛するもののことを語らないものは何一つない。しかも楽しんだり、震えたりすることは誠に重大な関心事で、それに比べては他の事は影が薄れてしまう。」(第39章191))

そして、美しいものを見るとすぐに恋人のことを思い、世界の美しさに心が痛くなって、「たちまち眼に涙があふれる」。ここは原文を味わってみよう。「自然や芸術品のなかに、極めて美しいものを見ると、稲妻の早さで愛する者のことを思い出す。これはザルツブルクの塩坑で樹の枝がダイヤに飾られるのと同じ働きで、世の美しいもの、崇高なものは、すべてみな愛するものの美の一部をなしているからで、こんな幸福を思いがけなく見かけると、たちまち眼に涙があふれる。こんな風に美を愛する心と恋とは、互いに生命を与え合うのである(第14章, p.73)

おー。感傷(センチメンタル)が激しくて、なんかもうすごい。一心に相手を思って熱量を上げ、その熱量に応えるだけの愛が相手から得られているかどうかだけが日常生活における重大事になるので、気分の浮き沈みが大変に激しい。感受性を全開にして相手の行動の一つ一つに意味を見出し、繊細に一喜一憂している。

そして、その「気分」が、自分の日常的な生の全般を染め上げる。恋人が自分を愛していると確信できた時には世界が輝くが、冷たくされると途端に、自分の人生全体がみじめで絶望的なものに見える。この揺れ動くセンチメント(気分・感情)を経験し続けることがスタンダールのいう「恋愛」である。(☆3

このような感傷主義の強さはスタンダールだけのものではない。これらは定型表現だと言えるほど、この時代にはよく見られる。19世紀ヨーロッパの繊細な感受性を持った文化人にとって、「恋愛」は生の最大の喜びであり憂鬱の理由であり、自殺する理由でさえあった。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1744年)は愛が「成就」しえないことに絶望して自殺するウェルテルの話であり、出版とともにヨーロッパで大ヒットし、作中人物の後を追った「模倣自殺」も頻発して社会問題になっている(☆4)

このような形で、恋愛的情熱に駆られたとされる行動が見られるようになり、世間に認知されていくことで、「恋愛的情熱」なるものが社会的にあると認められるようになっていった。スタンダールはこの情熱を性的欲求を満たすための恋愛でもなく、経済的利益のための恋愛でもなく、虚栄心や名誉心や現代風にいうところの承認欲求を満たすための恋愛(これはスタンダールが趣味恋愛(l’amour- goût)や虚栄恋愛(l’amour de vanité)として批判している恋愛)でもない、ひたすらに相手を愛する気持ちだけからなる「純粋な愛」として論じた。この純粋な愛こそが真実であり尊いとするのが19世紀に確立した「恋愛」観である。この愛の純粋化を通して、愛の価値上昇が起こっていった。

定義風にまとめておくと、スタンダールから読み取れる「恋愛的情熱」とは、感受性を全開にして相手に意識を集中し、そして相手への愛(相手を思う気持ち)で心がいっぱいになるという経験に何ものにも代えがたい価値を見いだそうとする熱量の高い状態のことである。

美(世界への美的態度)と恋愛の相互強化

というわけで、恋愛的情熱がいかに「文化(あくまでも19世紀キリスト教圏ブルジョワ社会において価値化されてきたシビックなカルチャーのこと)」の極致になっていったかという経緯が、ここまでの議論でなんとなく見えてきたと思う。

で、ここまで見てきた結果、私がいま最も気にかかっているのは、スタンダールの恋愛はなんだかとてもツラそうだということだ。
恋をし続けている限り、愛する人のあらゆる行動が気になり、ちょっとした行動にも、「自分が否定されたのではないか」という意味を読み込んで、勝手に一人で傷ついてしまう。その答えの出ない問題を繰り返し考え続け、考えるたびに傷つくという苦しい状況に陥っている。

なぜこんなにツラい「恋愛」をしつづけているのだろうか。

スタンダールによれば、それは恋愛こそが「ある欲望の完全で十分な満足(satisfaction pleine et entière d'un désir)」を与えてくれるからである。恋愛以外では得られない「ある欲望の完全で十分な満足」というものがある、とスタンダールは確信しているのだ。

この「ある欲望の完全で十分な満足」というのは、スタンダールにおいては美を享受することと不可分に結びついている。先ほど引いた、「美しいもの」を見ると「たちまち眼に涙があふれる」と述べていた箇所でも、「こんな風に美を愛する心と恋とは、互いに生命を与え合うのである」と述べていた。

そもそも『恋愛論』の冒頭第1章からして、こうはじまる。「私(=スタンダールのこと)がここに理解したいと思っている情熱は、そのすべての偽りのない展開が美の性格を持つものである」。

そして、「人は愛する者に新しい美を見出すたびごとに、なぜそれを喜んで楽しむのか。」なぜなら「それぞれの新しい美(nouvelle beauté)が、ある欲望の完全で十分な満足を与えるからである」(第12章)という答えが与えられている。

そう、恋人を愛することは、恋人の美しさを享受することで自分の美的欲求を満たすという経験なのである。

えーっと……、それって恋人が美しいことが前提? と思ったと思うが、スタンダールの場合、対象の「美しさ」は、見る側の主体的な心理的作用によって「見出される」クリエイティブなものだということが超重要だ。スタンダールはこのようなクリエイティブな心的作用のことを「結晶作用(クリスタリゼーション)」と名づけた(正確には、スタンダールの友人であるゲラルディ夫人が命名し、この社交サークル内で用いられていた言葉をスタンダールが書物に記した)。どこにでもあるような小枝でも、塩坑のなかで時間をかけて塩の結晶をまとうと、この世のものとは思えないような美しい姿を見せるようになるという作用が「結晶作用」である。

ザルツブルクの塩坑の中で見つけた小枝に付く「塩の結晶」は、「自然」が時間をかけて作り上げたものであるが、恋人の美しさは、見る側の人間の構想力(ドイツ語ではEinbildungskraftで、フランス語ではimagination、英語でもイマジネーション)によるものである。

構想力(イマジネーション)とは、同時期に美学の理論を確立したイマニュエル・カント先生が「美的判断力」の主要なものとした人間の能力(理性の一種)で、「法則発見的」な力である。人間の理性には、既存の法則に即して推論するという論理的能力の他に、法則を発見するという力もある。人が何かを美しいと感じる時というのは、この法則発見的能力を使って対象や世界を見ているときで、一見すると無秩序で雑然としているように見える対象物に一つの法則(原理)を発見することができ、その原理に沿って、すべての部分が調和し秩序立った完全なものとして見えるとき、その対象を「美しい」と感じるのだという。

つまり、美的経験が持つ固有の快感情とは、美の原理を他ならぬ自分が発見できているという発見の喜びである、というのがカント先生の議論だ。カントは、ほぼ同時期に美学の基礎理論を完成させた哲学者である(『判断力批判』の出版年は1789年)

スタンダールのいう「結晶作用」はまさにこのような美学的な考え方を基調としたものだと言えるだろう。

スタンダールによれば、「恋が始まる」のは、ある人が突然美しく見え、それがきっかけになって、相手の良いところばかりが目に入り、相手が完璧で理想的な存在だという感情が高まることによってである。

そして、結晶作用が働き始めると、相手に関する様々な事柄が価値を帯び、見るたびにこの人はなんて完璧な存在なんだと感嘆の念が湧き、その感動を味わうたびに充実感や幸福感で満たされる。この充実感や幸福感には、自分が疑いなく「良い」ものに接しているという確信も伴っており、それがまた満足感を上乗せするものになるのだという。

このように、愛する人の良さをどんどん発見していくことができるのは、見ている側がクリエイティブに頭を使い、イマジネーションを働かせて、対象を「見て」いるからである。

性革命による「純粋な愛」としてのプラトニックラブ批判

このように、スタンダール流の「恋愛的情熱」は美的態度や美的判断力(構想力)と結びつくことで「純粋な」愛として確立している。

性欲のための恋愛や、利害関心のための手段としての愛、承認欲求(名誉心)を満たすための愛とは区別される「純粋な恋愛」というのは、ひたすら相手を思うという「情熱」によって支えられており、さらに相手の美しさを享受するという美的態度と結びつくことで安定的に文化として確立した。

つまり、近代に確立した「プラトニックラブ」は性欲から切り離され美的態度に近づくことで成り立っている。

しかし、このような性的情熱から切り離された恋愛的情熱を中核とするプラトニックラブという恋愛観こそが、20世紀後半の「性革命(sexual revolution)」によって批判されていくのである。

次回は、プラトニックラブの何が批判されたのかを具体的に論じていこう。


☆1:恋愛がよくわからないとか、別に好きな人とかいないという話は、昔からよく聞いてきた。ここ数年、大学生などから「自分は世間で言われているところの「恋愛」が全くよくわからないのだけれど?」と相談された時はまず「アロマンティック/アセクシュアル」を紹介した上で、「どう、この説明はしっくりする?」という話をしている。今のところ体感的には、「しっくりする」と答える人が半数、「なんかそれもちょっと違う」と答える人が半数くらいである。アセクシュアル/アロマンティックについては『恋愛社会学』(高橋幸・永田夏来編, 2024, ナカニシヤ出版)に収録の三宅大次郎さんによるコラムが、要点を押さえた簡潔でわかりやすい概説になっていますので、ぜひ。
☆2:ちなみにスタンダールは「ロマンティックラブ(恋愛)」という語は使っておらず、彼が論じているのは全て「愛amour」である。ロマンティックという語も使っていない。大岡昇平訳で「ロマンティック」となっているところは、原文では「ロマネスク」であり「小説的な」くらいの意味である。
☆3:「ウェルテル効果」とはメディア報道による模倣自殺が増えることである。後年、社会学者のデイヴィッド・フィリップスが20世紀後半のアメリカの自殺統計を分析して命名した。
☆4:現在では、スタンダールほど感受性が鋭敏で気分の浮き沈みが激しいと「メンヘラ系」にカテゴライズされるかもしれない。少なくとも現在もなおこれが「一般的」な「恋愛」であるとは言い切れないと思われる。念のため、明記。
【おススメ文献】
▪スタンダール, 1822=1970, 『恋愛論』, 大岡昇平訳,新潮文庫.
▪ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ, 1744=1951, 『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳, 新潮文庫.
▪イマニュエル・カント, 1797=1964, 篠田英雄訳, 『判断力批判 上下』岩波文庫.
▪Hatfield, Elaine & Sprecher, Susan, 1986, “Measuring passionate love in intimate relationships”, Journal of Adolescence, 9(4), pp.383–410.

フェミニズム恋愛論

高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。