何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー論的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。
プラトニックラブが持つ性否定的という問題
前回は性的情熱からは区別される恋愛的情熱そのものが価値あるものとみなされるようになったという、19世紀的な愛のあり方を見てきた。ここで、プラトニックラブを原型とする恋愛観が広がった。プラトニックラブとは、性よりも愛に価値があるとする考え方である。
ここでいうプラトニックラブとは、さしあたり性的情熱とは区別されるものとして恋愛的情熱があるとする考え方のことであるとおさえてほしい(本当に一度もセックスをしないのかとか、マスターベーション時の性的ファンタジーとして相手を想定することすら「禁欲」するのかといった、実際の性行動がどうなっているのかも考え始めるとバリエーションがありすぎてキリがないので、プラトニックラブの定義としては上記のものでご理解いただきたい)。
だが、このような恋愛観は、1960年代末からの「性革命(sexual revolution)」によって批判されてきた。
ちなみに1960年代末からの性規範をめぐる変化のことを日本では「性解放」と呼ぶことが多かったが、英語圏では性革命sexual revolutionと呼ぶことが多い。女性解放(women’s liberation)やゲイ解放運動(gay liberation、1960年代当時はここにトランスジェンダーも参加していた)等の様々な運動の盛り上がりとともに性をめぐる社会的規範が変化していくという社会の動きを総称するものとして「性革命」という語が用いられている(☆1)。
さて、「純粋な恋愛」の何が問題なのかと言えば、性否定的な感情や考え方が貼り付いているところである。現在でも、恋愛は美しくてキラキラしててなんか良いものだが、性は「けがらわしい」感じがするし、なんか「きたない」感じもして、だから「できるだけ避けて通りたいな」とか、「性欲なんてなければいいのに!」という気持ちがあるとしたら、それは愛を上げて性を下げる価値観を無意識のうちに内面化してきたからかもしれない。
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性革命が目指してきたのは性それ自体を肯定すること
この恋愛(愛)を上げて性を下げるという価値観は、19世紀には、女性の社会的地位を向上させることに役立ってきたということが、ジェンダー論的には重要だ。「性欲に駆られがちな男性よりも性的な貞節を守ることのできる女性の方が道徳性が高いから、女性は尊敬されるべき存在だ」という(現在から見ると意味不明感のある)論理を通して初めて、ブルジョワ階級の男性たちは女性を「対等な」愛の対象と捉えるようになったのである(ショーター 1987)。
これに対して、20世紀後半の性革命は、貞節な女性だけが尊敬するに値するという考え方そのものがおかしいのではないかという批判をしてきた。男性にはさまざまな性行動の自由があるのに女性にだけ性的貞節を課すダブルスタンダードはジェンダー不平等なのでは? という主張である。
では、どうすればいいのか。女性の性的自由も増やそう、そして異性愛だけでなく多様なセクシュアリティがあることを肯定していこうというのが性革命の一歩目の主張であった。
実際、日本でも婚前の性交(婚前交渉)が肯定され、女性の性的活発化が肯定され、愛から切り離された性関係がセックスフレンドという名前で広がり社会学者たちはこれに対する肯定的な議論をしてきた。
性革命の中ではこれにとどまらない多様な動きがあったが、根本的に言って性革命が何を求めてきたのかといえば、「性それ自体の価値を認めること」である。愛の「証明」としてのみセックスの価値を認めるとか、男性が性的に活発なのは認めるが女性のそれは認めないという形で、性に価値序列をつけるのではなく、セクシュアリティやセックスそれ自体を肯定的に捉える態度を広げていこうというセクシュアル・ポジティブが性革命において求められてきたことだ。
ここで確認しておきたいのは、性革命(性解放)とは性をそれ自体で肯定することを目指したのであって、決して「恋愛」を否定したり、恋愛を丸ごと捨て去る脱恋愛を規範的に要求したりするものではないということだ。
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日本の性解放は不倫・浮気・セフレ称揚だったが
だが、日本の性革命(性解放)は、家制度批判や結婚批判と結びつきながら、婚姻外セックスやカップル外セックス(すなわち不倫や浮気)を称揚するという、じゃっかん意味の分からない事態に陥ってきたように見える。
上野千鶴子さんは、性愛の自由のために不倫が起こるのは当然だという主張をしてきた(最近のものとしては亀山早苗さんが上野さんのインタビューをまとめた記事(2016)などがあり、むしろ「なぜ人は不倫しないのか」という問いを考えるべきだとしている)。結婚制度が個人の自由を阻害しているので、そのような社会制度から「解放」されることこそが「自由」だという議論の構造になっている。
私としても、もちろん婚外セックスをしたい人は関係当事者との合意の上ですればよく、その自由はあった方が良い社会だと思っている。当事者間の合意があるのであれば、無関係の第三者から道徳的非難を受けるいわれはない。
ただし、性革命が目指してきたセクシュアル・ポジティブとは、パートナーに不誠実な形での婚外セックスやカップル外セックスをする自由ではない。19世紀的な恋愛と性の価値序列を逆転させて今度は「性」の方が「愛」よりも価値があると主張したり、恋愛を貶めたりすることが、性革命で目指されていたことではないのだ。
日本の性革命において婚外恋愛やカップル外セックスがジェンダー論者によって肯定的に言及されるという謎の事態になったのは、日本の民主化以後(第二次世界大戦後)の家制度批判や結婚制度批判の延長線上に性解放の潮流が加わり、それらが強く結びつきながら論じられてきたからだろう。
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欧米と比べた時の日本の恋愛論の特徴は「脱恋愛」が主流になったということ
実際、1990年代から2000年代にかけての日本の社会学者による恋愛研究の主流は、恋愛を批判して「脱恋愛」を提唱するものだった。伊田行幸の『シングル単位の社会論―ジェンダー・フリーな社会へ』(1998)、草柳千早『<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて 』(2011)はその例である。加藤秀一の『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたかー性道徳と優生思想の百年間』(ちくま新書, 2004)は、日本における恋愛と優生思想の同時定着性という歴史的経緯を指摘して、恋愛の優生思想との相性の良さという問題を論じるものである。のちほど回をあらためて丁寧に見ていくように、加藤の議論は一貫して徹底した恋愛批判となっている。
牟田和江の『ジェンダーで学ぶ社会学』(2015)の「恋愛」章(「愛する——恋愛を<救う>ために」)もまた、恋愛批判に終始している。「ストーカー殺人」の話から始め、恋愛とは「愛」の名のもとでの男性による女性支配であるという第二波フェミニズムの知見に沿った議論を展開し、「純粋な関係」を求める現代のコンフルエントラブ(☆2)もまた「ジェンダーバランスを欠いたもの」だと論じられている。また、伊田行幸の『シングル単位の社会論―ジェンダー・フリーな社会へ』(1998)、草柳千早『<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて 』(2011)などもある。
だが、私は、2000年代頃までの日本の社会学者はあまりにも簡単に脱恋愛を主張しすぎだという感じがしている。近代個人主義の制度にがちっと組み込まれている「恋愛」から、そんなに簡単に逃れられるものだろうか。恋愛を批判するなら個人主義の枠組みがどう組み変わるのかまで考える必要がある。ただたんに既存社会の恋愛結婚から脱出せよという煽りを続けるのは、この見通しの悪い流動的な現代社会においては、あまりに無責任だ。
北米および西ヨーロッパ諸国は、だいたい(短く見積もっても)1830年代からの約140年間、恋愛結婚を規範として実践してきた後に性革命を経験した。他方、日本では、恋愛結婚をする人が7割を超えるのと性解放の潮流が出てくるのが共に1970年代で同時期である。このような歴史的経緯の違いが「恋愛結婚」への考え方の差をもたらしていると考えられる。
日本の社会学者が簡単に「脱恋愛」を主張できたのも、一昔前までは恋愛結婚していなかったという鮮明な記憶が息づいていた社会だからだろう。恋愛によらない夫婦関係がありうるという社会的感覚が強かったからだと思われる。
このような歴史的経緯を考えるならば、「日本ではロマンティックラブが成立したことがない」という日本の歴史社会学者デビッド・ノッターの指摘は重要だ(ノッターの議論も回を改めてまた今度詳しく見ていこう)。社会的な発言をする知識人層が、不倫や浮気を正当化する論理を積極的に提供したり「脱恋愛」を主張したりする傾向が強かった点は、欧米と比較した場合の日本の特徴である。
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もはや不倫は社会への抵抗という力を持っていないのでは
「セクシャル・ポジティビティ」すなわち性への肯定的な態度を、より社会的に増やしていくためにはどうしたらいいのだろうか? と未来に目を向けるとき、不倫や浮気の「自由」を求めていくことがセクシュアル・ポジティブを高めていくことになるとはあまり思えない。
生涯独身率が高まっているという現状は、下の世代からしてみると、結婚しないという選択肢がかつてより選択しやすいものになったと感じられるものになっている。そのような社会に生きていると、不倫するくらいなら最初から結婚しなければいいのにと思ってしまう。浮気に関しても同様で、ステディなパートナーに隠れて不誠実に何かをするよりも、オープンリレーションシップやポリアモリーなどの可能性を考えながら、自分のセクシュアリティに向き合っていくことが重要なんじゃないだろうかと、思ったりする。
もちろん「禁忌や社会的契約(ルール)を侵犯することに性的快感を覚えるのだから、不倫じゃなきゃ意味がないんだ!」というセクシュアリティを持っている人もいるし、そのようなセクシュアリティを否定する気はない。私がここで言いたいのは、誰もが禁忌侵犯こそが快楽というセクシュアリティを持っているわけではないし、誰もがなるべく多くの人とセックスしたいというセクシュアリティを持っているわけではないということだ。なるべく多くの不特定多数の人とセックスしたいというのは「ソシオセクシュアル」という特定のセクシュアリティである。
したがって、2000年代頃までの愛を語る知識人層がやってきたように「恋愛と結婚は原理的に矛盾している」と断言して不倫や浮気は当然だという議論にはとても違和感がある。かつては妥当な社会観察だったのかもしれないが、少なくとも現代社会では妥当ではなく、誤った、過度な一般化であるように思われる。
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不倫=本当の恋愛の時代は過ぎ去った……
たしかに、20世紀には精神分析まわりやバタイユなどによって「禁忌を犯す」ことこそがエロティシズムだという理解が広く共有され、「一般的」なものとなってきた。
近代小説の恋愛はその多くが「姦通(人妻との恋愛)」だったことを考えると、「不倫」が、社会的制度としての家族制度に対する個人の反抗や抵抗という意味を持ってきたことは確かだ。不倫は社会制度への抵抗と社会制度からの解放という大義(社会的正当性)を帯びていた。
だが、現代では、その「社会制度」の方がどんどん変化している。
離婚要件が緩和されて離婚しやすくなるなど、家族法は「社会道徳の維持」のためから、「個人の生活の保障」のためへと変化してきた。欧米では同棲パートナーと子育てする人が増え、そのような人たちの生活も保障できるような法整備が進んでいる。日本・韓国・中国・台湾といった東アジアを筆頭に世界的に、そもそも結婚しないという行動をする人も増加した。その結果、後続世代はより「結婚しない自由」が増大している状況にある。
このような結婚しない自由が現実のものとなってきた現代では、結婚制度への異議申し立てとしての「不倫」は、そこまでの訴求力も社会的抵抗としての正当性も、失いつつあるのではないだろうか(☆3)。
☆1: 1830年代頃を中心とする19世紀に第一次性革命があり、1960年代以降現在まで続いているのは第二次性革命だとする論者もいる(ショーター)。ブルジョワ階級によって純潔が重視される恋愛結婚が広がった19世紀をフィードラーは心霊革命と呼び、小説の興隆、近代心理学の登場、ロマン主義の交流などの特徴を挙げている。
☆2:コンフルエントラブとは「溶けいるような愛」の意味で、社会学者アンソニー・ギデンズが提唱した、「ロマンティックラブ」とは異なる現代の新しい愛の形式。異性愛に限定されない多様な性愛を含み、婚姻によって保障される関係の永続性よりも、現在のお互いの関係への満足感に基づいて関係が継続されることを特徴とする。
☆3:これは、不倫こそ本当の恋愛と感じている人の、その実感を否定するものではない。あくまでも不倫がかつて持っていた社会に対する抵抗という意味あいが弱まってきたという意味である。また、現代でもなお、個々のカップル内での勢力闘争や関係調整の方法として「不倫」が機能することはあるわけで、そのような側面を含めて「不倫」を研究することの重要性を否定するものでもない。
【文献】
▪亀山早苗, 2016, 『人はなぜ不倫をするのか』SB新書.
▪エドワード・ショーター, 1987, 『近代家族の形成』昭和堂.
Back Number
- 第5回 性革命は何を目指してきたのか──脱恋愛ではなくセクシュアルポジティブであるという話
- 第4回 性的情熱とは区別される恋愛的情熱とは何なのか──美と恋愛について
- 第3回 「愛」はどのくらい必要なのか──愛着から考える
- 第2回 現代人にとって「人とのつながり」はどの程度必要なのか——「孤独」から考える
- 第1回 「ジェンダー平等な恋愛」について考えよう
フェミニズム恋愛論
高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。