第4回 性的情熱とは区別される恋愛的情熱とは何なのか──美と恋愛について

何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。

「恋愛というものがよくわからない」という「恋愛」への違和感の原因はいろいろあるのだが、その主要なものの一つに「情熱」の意味不明さがある。(☆1

恋愛を特徴づける「情熱」とは?

恋愛は「情熱」という特殊な愛の形を伴う点で、他の愛から区別されている(友情と恋愛の違いに関する議論の整理は、私が『恋愛社会学』第1章で詳細に行っていますので、ご興味のある方はぜひそちらも!)。さらに「情熱」は性的情熱と恋愛的情熱にわけられるということを今回は考えていこう。

フロイトのリビドー論から始まる20世紀は、性欲一元論が支配的になった時期だった。そこでは、恋愛も性欲の一種だという形で「性欲」に還元されがちだった。社会心理学的な恋愛研究の主流となったスタンバーグは、性的情熱と恋愛的情熱を区別せずに「相手と一つになりたいという激しい衝動のこと」と定義している。このような定義の仕方は、「熱愛(passionate love)」尺度を作成したハットフィールド&シュプレッヒャー(1986)などにも見られるものであり、この時代の一般的なものだったと言える。

これに対して、恋愛的情熱を性的情熱からより明瞭に区別しようとする議論も細々とある。その系譜を再読していくのは「恋愛」を考えるのに役立つ。例えば、ドロシー・テノフは恋愛的情熱に見られる「相手と一つになりたい」という気持ちは、必ずしも「身体的一体化(union)」をしたいということではなく、「互恵的な感情的コミットメント」によって相手との精神的な「一体感(union)」を持ちたいという意味であると論じている(Tenov,[1979]1999,LoveandLimerence,ScarboroughHouse), ⅹページ, この本は1979年に第一版が出ており、1999年に第二版が出版されている)

このような理論的整理に基づいて、テノフ自身は恋愛初期の固有の経験である「リメレンス」の研究を、膨大なインタビュー調査を通して行った。リメレンスとは日本語ではトキメキやドキドキと言われるものである。

リメレンスの特徴は、一心に相手のことだけを考えるという相手への意識の集中や、相手に関する記憶力の高まり(ひじょうに細かいことまで覚えている)、相手の美しさや良さばかりが見えて気持ちが舞い上がること、相手との関係に関する様々なファンタジーを想像して幸せな気持ちになること、世界の美しさに気づいて心打たれること、などである。(ファンタジーには、「今後の様々な関係発展」についての想像も、実現することを期待しているわけではない様々なシチュエーションの多様な想像も含まれている。)

このような恋愛的情熱は性的情熱を伴うこともあるが、伴わないこともある。つまり、本人が持つロマンティックファンタジーの中に相手との性的関係が含まれていることもあるが、含まれていないこともあるという意味である。

私自身も、テノフ同様に性的情熱と恋愛的情熱は区別したほうが良いという立場である。そのほうが、愛をよりよく分析できる。
ということでこの前提に立って、今回は「性的情熱とは区別される恋愛的情熱とは何か?」をじっくり考え、パシっと明らかにしていこう。

恋愛的情熱がそれ自体を目的とする「愛の純粋化」をもたらした

小説家スタンダールの古典的名著『恋愛論』を読むと、恋愛的情熱の何たるかがよくわかる。

この熱量を体感すべく、ロマンティックな19世紀的恋愛の世界にちょっと(以下2節分だけ)浸ってみよう(☆2。スタンダールは19世紀リアリズム文学が始まる直前の、感傷的ロマン主義が強い時代の小説家で、『恋愛論』は自分の経験に基づいた手記である。

スタンダールは「恋をすると(原文はavec l'amourなので英語だとwith love、すなわち「愛と共にあると」)、すぐ身近に、しかし、いくら願っても、手も届かない巨大な幸福があるような気がする(第31章, p. 140)と言う。彼にとって恋愛とはその「手の届かない巨大な幸福」の存在を感じ続けることである。

「幸福」とは、恋をしている相手の「ただ一つの言葉、一つの微笑にのみ左右される」。だから、サロンのような皆のいる集まりの場で、恋人が自分に対してちょっと冷たい態度だったり、彼女の家に訪問しても以前ほど歓迎に熱がこもっていないように感じたりすると、「物悲しく」なり「憂鬱」になる。「こんな情熱などなく、ただ虚栄心とか好奇心だけで恋愛をしていれば、こんなに苦しい気持ちにはならないかもしれないのに」というのがスタンダールの嘆きである。(「もの悲しい日々には、僕はどこにも幸福を見ず、自分のために幸福があるのかどうかも疑うようになって、僕は憂鬱になる。激しい情熱などなくて、ただいくぶんの好奇心と虚栄心さえあればいいのかもしれない。」(第31章:140))

恋をしている彼の意識は恋人とその世界にのみに向けられていて、それ以外のことは「影が薄れている」。(「絶えず繰り返してきたように真剣に恋する人は、自分の想像するすべてのものを楽しんだり、そのために震えたりするが、自然のなかには愛するもののことを語らないものは何一つない。しかも楽しんだり、震えたりすることは誠に重大な関心事で、それに比べては他の事は影が薄れてしまう。」(第39章191))

そして、美しいものを見るとすぐに恋人のことを思い、世界の美しさに心が痛くなって、「たちまち眼に涙があふれる」。ここは原文を味わってみよう。「自然や芸術品のなかに、極めて美しいものを見ると、稲妻の早さで愛する者のことを思い出す。これはザルツブルクの塩坑で樹の枝がダイヤに飾られるのと同じ働きで、世の美しいもの、崇高なものは、すべてみな愛するものの美の一部をなしているからで、こんな幸福を思いがけなく見かけると、たちまち眼に涙があふれる。こんな風に美を愛する心と恋とは、互いに生命を与え合うのである(第14章, p.73)

おー。感傷(センチメンタル)が激しくて、なんかもうすごい。一心に相手を思って熱量を上げ、その熱量に応えるだけの愛が相手から得られているかどうかだけが日常生活における重大事になるので、気分の浮き沈みが大変に激しい。感受性を全開にして相手の行動の一つ一つに意味を見出し、繊細に一喜一憂している。

そして、その「気分」が、自分の日常的な生の全般を染め上げる。恋人が自分を愛していると確信できた時には世界が輝くが、冷たくされると途端に、自分の人生全体がみじめで絶望的なものに見える。この揺れ動くセンチメント(気分・感情)を経験し続けることがスタンダールのいう「恋愛」である。(☆3

このような感傷主義の強さはスタンダールだけのものではない。これらは定型表現だと言えるほど、この時代にはよく見られる。19世紀ヨーロッパの繊細な感受性を持った文化人にとって、「恋愛」は生の最大の喜びであり憂鬱の理由であり、自殺する理由でさえあった。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1744年)は愛が「成就」しえないことに絶望して自殺するウェルテルの話であり、出版とともにヨーロッパで大ヒットし、作中人物の後を追った「模倣自殺」も頻発して社会問題になっている(☆4)

このような形で、恋愛的情熱に駆られたとされる行動が見られるようになり、世間に認知されていくことで、「恋愛的情熱」なるものが社会的にあると認められるようになっていった。スタンダールはこの情熱を性的欲求を満たすための恋愛でもなく、経済的利益のための恋愛でもなく、虚栄心や名誉心や現代風にいうところの承認欲求を満たすための恋愛(これはスタンダールが趣味恋愛(l’amour- goût)や虚栄恋愛(l’amour de vanité)として批判している恋愛)でもない、ひたすらに相手を愛する気持ちだけからなる「純粋な愛」として論じた。この純粋な愛こそが真実であり尊いとするのが19世紀に確立した「恋愛」観である。この愛の純粋化を通して、愛の価値上昇が起こっていった。

定義風にまとめておくと、スタンダールから読み取れる「恋愛的情熱」とは、感受性を全開にして相手に意識を集中し、そして相手への愛(相手を思う気持ち)で心がいっぱいになるという経験に何ものにも代えがたい価値を見いだそうとする熱量の高い状態のことである。

美(世界への美的態度)と恋愛の相互強化

というわけで、恋愛的情熱がいかに「文化(あくまでも19世紀キリスト教圏ブルジョワ社会において価値化されてきたシビックなカルチャーのこと)」の極致になっていったかという経緯が、ここまでの議論でなんとなく見えてきたと思う。

で、ここまで見てきた結果、私がいま最も気にかかっているのは、スタンダールの恋愛はなんだかとてもツラそうだということだ。
恋をし続けている限り、愛する人のあらゆる行動が気になり、ちょっとした行動にも、「自分が否定されたのではないか」という意味を読み込んで、勝手に一人で傷ついてしまう。その答えの出ない問題を繰り返し考え続け、考えるたびに傷つくという苦しい状況に陥っている。

なぜこんなにツラい「恋愛」をしつづけているのだろうか。

スタンダールによれば、それは恋愛こそが「ある欲望の完全で十分な満足(satisfaction pleine et entière d'un désir)」を与えてくれるからである。恋愛以外では得られない「ある欲望の完全で十分な満足」というものがある、とスタンダールは確信しているのだ。

この「ある欲望の完全で十分な満足」というのは、スタンダールにおいては美を享受することと不可分に結びついている。先ほど引いた、「美しいもの」を見ると「たちまち眼に涙があふれる」と述べていた箇所でも、「こんな風に美を愛する心と恋とは、互いに生命を与え合うのである」と述べていた。

そもそも『恋愛論』の冒頭第1章からして、こうはじまる。「私(=スタンダールのこと)がここに理解したいと思っている情熱は、そのすべての偽りのない展開が美の性格を持つものである」。

そして、「人は愛する者に新しい美を見出すたびごとに、なぜそれを喜んで楽しむのか。」なぜなら「それぞれの新しい美(nouvelle beauté)が、ある欲望の完全で十分な満足を与えるからである」(第12章)という答えが与えられている。

そう、恋人を愛することは、恋人の美しさを享受することで自分の美的欲求を満たすという経験なのである。

えーっと……、それって恋人が美しいことが前提? と思ったと思うが、スタンダールの場合、対象の「美しさ」は、見る側の主体的な心理的作用によって「見出される」クリエイティブなものだということが超重要だ。スタンダールはこのようなクリエイティブな心的作用のことを「結晶作用(クリスタリゼーション)」と名づけた(正確には、スタンダールの友人であるゲラルディ夫人が命名し、この社交サークル内で用いられていた言葉をスタンダールが書物に記した)。どこにでもあるような小枝でも、塩坑のなかで時間をかけて塩の結晶をまとうと、この世のものとは思えないような美しい姿を見せるようになるという作用が「結晶作用」である。

ザルツブルクの塩坑の中で見つけた小枝に付く「塩の結晶」は、「自然」が時間をかけて作り上げたものであるが、恋人の美しさは、見る側の人間の構想力(ドイツ語ではEinbildungskraftで、フランス語ではimagination、英語でもイマジネーション)によるものである。

構想力(イマジネーション)とは、同時期に美学の理論を確立したイマニュエル・カント先生が「美的判断力」の主要なものとした人間の能力(理性の一種)で、「法則発見的」な力である。人間の理性には、既存の法則に即して推論するという論理的能力の他に、法則を発見するという力もある。人が何かを美しいと感じる時というのは、この法則発見的能力を使って対象や世界を見ているときで、一見すると無秩序で雑然としているように見える対象物に一つの法則(原理)を発見することができ、その原理に沿って、すべての部分が調和し秩序立った完全なものとして見えるとき、その対象を「美しい」と感じるのだという。

つまり、美的経験が持つ固有の快感情とは、美の原理を他ならぬ自分が発見できているという発見の喜びである、というのがカント先生の議論だ。カントは、ほぼ同時期に美学の基礎理論を完成させた哲学者である(『判断力批判』の出版年は1789年)

スタンダールのいう「結晶作用」はまさにこのような美学的な考え方を基調としたものだと言えるだろう。

スタンダールによれば、「恋が始まる」のは、ある人が突然美しく見え、それがきっかけになって、相手の良いところばかりが目に入り、相手が完璧で理想的な存在だという感情が高まることによってである。

そして、結晶作用が働き始めると、相手に関する様々な事柄が価値を帯び、見るたびにこの人はなんて完璧な存在なんだと感嘆の念が湧き、その感動を味わうたびに充実感や幸福感で満たされる。この充実感や幸福感には、自分が疑いなく「良い」ものに接しているという確信も伴っており、それがまた満足感を上乗せするものになるのだという。

このように、愛する人の良さをどんどん発見していくことができるのは、見ている側がクリエイティブに頭を使い、イマジネーションを働かせて、対象を「見て」いるからである。

性革命による「純粋な愛」としてのプラトニックラブ批判

このように、スタンダール流の「恋愛的情熱」は美的態度や美的判断力(構想力)と結びつくことで「純粋な」愛として確立している。

性欲のための恋愛や、利害関心のための手段としての愛、承認欲求(名誉心)を満たすための愛とは区別される「純粋な恋愛」というのは、ひたすら相手を思うという「情熱」によって支えられており、さらに相手の美しさを享受するという美的態度と結びつくことで安定的に文化として確立した。

つまり、近代に確立した「プラトニックラブ」は性欲から切り離され美的態度に近づくことで成り立っている。

しかし、このような性的情熱から切り離された恋愛的情熱を中核とするプラトニックラブという恋愛観こそが、20世紀後半の「性革命(sexual revolution)」によって批判されていくのである。

次回は、プラトニックラブの何が批判されたのかを具体的に論じていこう。


☆1:恋愛がよくわからないとか、別に好きな人とかいないという話は、昔からよく聞いてきた。ここ数年、大学生などから「自分は世間で言われているところの「恋愛」が全くよくわからないのだけれど?」と相談された時はまず「アロマンティック/アセクシュアル」を紹介した上で、「どう、この説明はしっくりする?」という話をしている。今のところ体感的には、「しっくりする」と答える人が半数、「なんかそれもちょっと違う」と答える人が半数くらいである。アセクシュアル/アロマンティックについては『恋愛社会学』(高橋幸・永田夏来編, 2024, ナカニシヤ出版)に収録の三宅大次郎さんによるコラムが、要点を押さえた簡潔でわかりやすい概説になっていますので、ぜひ。
☆2:ちなみにスタンダールは「ロマンティックラブ(恋愛)」という語は使っておらず、彼が論じているのは全て「愛amour」である。ロマンティックという語も使っていない。大岡昇平訳で「ロマンティック」となっているところは、原文では「ロマネスク」であり「小説的な」くらいの意味である。
☆3:「ウェルテル効果」とはメディア報道による模倣自殺が増えることである。後年、社会学者のデイヴィッド・フィリップスが20世紀後半のアメリカの自殺統計を分析して命名した。
☆4:現在では、スタンダールほど感受性が鋭敏で気分の浮き沈みが激しいと「メンヘラ系」にカテゴライズされるかもしれない。少なくとも現在もなおこれが「一般的」な「恋愛」であるとは言い切れないと思われる。念のため、明記。
【おススメ文献】
▪スタンダール, 1822=1970, 『恋愛論』, 大岡昇平訳,新潮文庫.
▪ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ, 1744=1951, 『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳, 新潮文庫.
▪イマニュエル・カント, 1797=1964, 篠田英雄訳, 『判断力批判 上下』岩波文庫.
▪Hatfield, Elaine & Sprecher, Susan, 1986, “Measuring passionate love in intimate relationships”, Journal of Adolescence, 9(4), pp.383–410.

フェミニズム恋愛論

高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。

第3回 「愛」はどのくらい必要なのか──愛着から考える

何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。

前回は「孤独を避けられる程度に人とのつながりが必要」という結論になった。次に、人が生きるのに「愛」はどれくらい必要なのかについて考えていこう。愛といっても色々な種類がある。愛着(attachment)や友愛(friendship)、情熱的な愛(passionate love)、慈愛(compassionate love)などがあるが、ここでは愛着に注目してみたい。愛着は親子や家族、長期的なパートナー関係、移行対象(もの)などに対してもつ「愛」のことである。

「愛着」という愛は、不安や恐怖を緩和するのに役立つことが知られている。

心や身体が傷ついたり疲れたりしたとき、眠いときなどに、「誰かと一緒にいたいなぁ」「あの人と一緒にいたいなぁ」という気持ちになるとすれば、それが「愛着欲求」である。「あの人」という形で特定の誰かが欲求対象として思い描かれるとき、それは「愛着対象」と呼ばれる。そして、その愛着対象への近接や密着(見る、声をかける、話す、触れる、抱きつく)などが「愛着行動」と呼ばれる。その対象を「意識的」に思い描かなくても無意識のうちに接近行動をしているということも多い。

愛着欲求は、恐怖や苦痛、不安を感じるというネガティブな状況下で湧きやすいことが分かっている。子どもの場合は、眠くなった時や怖い時がそれに相当する。大人も病気になった時や身体的痛みがある時だけでなく、他者からの拒絶にあったり、重要なものを「喪失」したとき(喪失への恐怖がある時も含む)、仕事上の問題を抱えこんだとき、脅威を感じたとき、頑張ったのに報われなかったり良くないことが重なったりして自己肯定感がどんどん削られていくときなどに、愛着対象からの慰めやサポートを求めて、愛着欲求が高まるらしい。

これは、ちょっと面白いなと思っている。誰かと一緒にいても、自分の能力が高まるわけではないし、失ったものが元に戻るわけでもないし、いま直面している問題への具体的な打開策が得られるわけではない。しかし、ただ誰かと喋ったり、共感したり、ただ一緒にいたり、一緒に何かをしたりするだけで精神的に安心し、世界がちょっとだけ良きものに思え、自己肯定感が回復するというメカニズムがあるらしい。なんかすごい。

これが、「愛着の心理的サポート機能」と言われているものであり、日常的には「人と喋ることで心が慰められる」と言われているものだ。

子どもは愛着関係に排他性を求める

ヒトの子どもは、この愛着システムを備えて生まれてくることが多い。子どもは「主な養育者(親など)」と離されると「分離苦悩」を示し(悲しみの表情を浮かべる、泣く、ストレスレベルが上昇していることを示す唾液中のコルチゾール値が上がるなど)、再び近接性を回復すると喜びを示す。子どもが新たな「冒険」に出かける(例えば、公園で他の子どもと一緒に遊ぶ)ときにも、愛着対象者(=「主な養育者」のこと)との間に安定的な絆が形成されており、愛着対象者が見守ってくれているという安心感を子ども自身が持っていると、積極的に探索行動に向かうことができる。愛着対象者である「重要他者」との間に形成される安定した心理的絆のことを「安全基地」という。

このような子どもの愛着システムは、ある程度の排他性を求める。愛着対象者の注意が自分だけに向いているほど、自分に必要な保護やサポートが得やすいからだ。そのため、愛着対象者への固執や執着などの強い感情も関わることがあるのが、愛着という愛の特徴である。

大人においても、自分だけへの排他的な注目や関心が向けられることは、必要な時に必要なサポートを得られやすいという利点があるだけでなく、「自己の特別感」が得られるなどの付随的効果もありそうに思われる。

成人の愛着スタイル

したがって 、自分のことをよく理解してくれていて、必要な時に必要なサポートを与えてくれるような人と持続的で安定的な愛着関係を築いていけることは、精神的な健康を維持することにつながるし、ウェルビーイング(幸福度)も向上する。

しかしながら、この愛着行動にかんしては、うまくできる人とできない人がいることが分かっている。これが「成人の愛着(アタッチメント)研究」で明らかにされてきたことである。

「安定型」の人は、ネガティブ状況における「脅威」を低く評価する傾向があり、また必要なときには適切に、他者からのサポートを探すという行動を行う。個の自立性の感覚に富んでおり、抑圧やてんめん(感情的なとらわれ状態)、または未解決の感情や思考がなく、過去から現在に及ぶアタッチメントにかかわる事柄を客観的に見ることができるという特徴がある(『成人のアタッチメントー理論・研究・臨床』2008)

それに対して、「回避型」は他人と心理的に親密になることに関する不快感があり、感情開示が少なく、他者との親密な関係を避けることで心理的独立性を維持しようとする傾向がある。「アンビバレント型」は、自分のネガティブな感情に焦点を当てやすく、愛着対象のケアや注意を強く求めるが、愛着対象がそれに応じてくれるかどうかに対する不安が大きい。そのため、相手を自分との関係につなぎとめるために、様々な手法の相手を支配するような行動をとってしまうし、自分から、関係性をぶち壊す関係破壊的な行動をすることもある。

安定型は、日本でも北米でも人口の6割くらいにすぎないという結果も出ており、回避型やアンビバレント型はそれなりの割合で存在している。

そして、この愛着スタイル(安定型/回避型/アンビバレント型)は、幼児期に「主な養育者」との間で築いたスタイルを成人になっても反復しがちだということが明らかになっている(「内的作業モデル」)

分かりやすく言ってしまえば、親との間に良い愛着関係を築けなかった人は、成人後もパートナーや家族との幸福な関係を築くのが難しいということだ。経済的な「貧困の連鎖」だけでなく、「幸福な人間関係」が作れるか否かも世代間で連鎖しており、その点での格差があるのではないかということが示唆されている。これは、社会的関心を引くところであるし、社会的に議論していくべき点だろう。

ソーシャルスキルに関する知識提供やトレーニングの場を平等に提供するという社会的サポート策

人との良い愛着関係を持つことができることは、多くの人にとって良い効果があるようだが、良い愛着関係を持てるか否かは、どんな親を持ち、どんな家族で育ったかによって決まっている側面がある。

親との関係で築いた愛着関係を真似し、恋人や自分の子どもとの愛情関係でもそれを反復すれば自然と家族関係がうまくいく人たちがいる一方で、幼少期に親との間で形成された愛着スタイルを反復すると、うまく愛着関係を維持することができないので、愛をめぐる自分のふるまいを自己調整しなければならない人たちがいる。自分が不安に陥った時や、仕事などの大変なストレスに陥った時に、自分の大切な人にどういう態度を取るのか、日常的にどのように愛や感謝を伝えるのか、お互いの関係を維持し相手の気持ちをケアするために日々どういう小さなことをしているか。これらの積み重ねが、本人たちにとって満足度の高いよい愛着関係を長期的に維持できるか否かを左右している。

こういうメカニズムなのだということが見えてくると、社会学者としては、健康的な「愛の関係」(親密な関係)を築くための知識提供の機会が、万人に平等に社会的に提供されるべきなのではないかという気持ちがしてくる。「格差に対しては教育による機会の平等を」というのがリベラリズムの原則だからだ。リベラリズムとは資本主義制を維持しながら社会的公正(財の公正な配分)という「正義」を達成することを目指すものである(私のリベラリズムの議論の基盤となっているのは、ジョン・ロールズの『正義論』である)

現在、配偶者や恋人に暴力を振るうというドメスティック・バイオレンスをしてしまう人や痴漢行為がやめられない人に認知行動療法やピアグループでのサポートが提供されているが、もっと予防段階としてできることは色々ある。

もちろん、予防段階で社会的に介入することは、「生権力」の発揮だと警戒する左翼的思想家がいることは知っている。だが、「恋愛関係になりたいのだが、なかなかうまく恋愛関係を結べない」という人や、パートナー関係を持続させられないということを本人が自分の悩みとして持っている場合、その人たちに必要な科学的知識提供がなされてもよいのではないだろうか。「なされても良い」というか、「すべき」なのでは、というのが私のここでの主張だ。

とくに、生まれ育った家族や環境によって個人間格差があるのであれば、ここは社会的サポートが提供されるべき地点であるように思われる。お金を持っている人は、恋愛・セクシュアリティ専門のカウンセラー(日本ではカウンセリング全般が保険適用外)に相談したり、セミナーや講座にいくこともできるだろうが、全員がそうではない。良い愛情関係のための知識は誰に対しても平等に配布されるべきだし、とくに強いニーズがある人には特別なソーシャルスキル・プログラムなどが提供されて然るべきだ。

セクシャル・ウェルビーイング(性的幸福)の向上を目指す「包括的セクシュアリティ教育(いわゆる「包括的性教育」のこと。ここでは日本語版の訳者らの訳語を用いた)」が求めているのは、日本の保健体育の授業でもおなじみの生殖器の構造や二次性徴による身体の変化(「人間のからだと発達(6)」や「性と生殖に関する健康(8)」)だけではない。性的マイノリティ包摂的な価値観を育むための知識提供(「価値観、人権、文化、セクシュアリティ(2)」)や、ジェンダーベースド・バイオレンスについて正しく理解すること(「ジェンダーの理解(3)」「暴力と安全確保(4)」)、そして、ここが強調したい点なのだが、このキーコンセプトには「人間関係(1)」や「健康とウェルビーイングのためのスキル(5)」といった性的パートナーシップ(長期的な性行為を含む親密な関係)についての知識や、性的な同意形成の仕方、「嫌なことは嫌」と伝え、伝えられた側はそれを強要しないといった基本的な性的コミュニケーションの原則などが含まれる。最後に、「セクシュアリティと性的行動(7)」は、性器的な反応の現れ方やマスターベーション頻度等をはじめとした「生涯にわたる性」に関する様々な議論が含まれる。

近年、日本での「包括的性教育」推進派が強調しているのは、年齢に応じた性教育であり、幼少期からプライベートゾーンなどについて教えていこうというものだ。これはもちろん重要な取り組みであり、さらに広がっていくことが望ましいと思う。ここから、もう一歩進めて、ジェンダーに関わりなく全ての人に、二次性徴以降の射精やマスターベーション(男性に限らない)に関する科学的な知識を提供したり、性的に親密な関係や恋愛関係の築き方に関する情報提供をしたりすることが必要なのではないだろうか。

実際、欧米では「健康的な恋愛関係(healthy relationships and romance)」や「親密なパートナー関係」を築くための教育プログラムの開発が進んでおり、様々な組織・団体が提供しはじめている。生徒同士の相互対話的なプログラムを組み込んだものもあり、色々と興味深い領域になりつつある。私自身、まだ全然、その全容についての研究を進めることができていないが、個人的に「これはすごいな(良いな)」と思ったものとして、Love Note 3.0がある(☆1)。日本でもこのような恋愛関係ソーシャルスキルトレーニングを提供するNPOなどがあるといいなと思っている。研究者と一緒にプログラム開発をしたり、プログラム提供をしようかなと思った団体さんやNPOさんは、ぜひお気軽に私まで連絡を。

全ての人が豊かで幸福な性的関係を築いていくのに有効な「知識とソーシャルスキル」を持てるようにするのが、セクシュアリティ教育の目指すところの一つである。このようなセクシュアリティ教育によって、生まれや育ちによらず誰もが本人の希望に応じて持続的な愛の関係(愛着関係)を築いていくことができるようになるだろう。

ポルノ動画とラブコメ映画で性や恋愛を学ぶことの危険性は、近年多くの人が訴えている。「ナンパ塾」のような男性主義的な恋愛観を「秘伝」として伝授するような恋愛関係教育も問題があることは明らかだ。非公式であやしげなものとして、恋愛や性を語る時代はそろそろ終わりにしよう。


☆1:「Love Notes 3.0」(https://dibbleinstitute.org/store/love-notes-ebp/)は、恋愛関係を主眼においたソーシャルスキル教育プログラムである。ただし、これは基本的に相互独立的自己観を持つ北米社会に合わせて開発されたプログラムなので、相互協調的自己観を持つ日本語文化圏の実情に合わせたプログラムへと改善する余地は大いにありそうな気がしている。
【おススメ文献】
▪『愛の心理学』(ロバート・スタンバーグ&カリン・ヴァイス編著, 和田実&増田匡裕訳、2009、‎ 北大路書房)
▪『成人のアタッチメント——理論・研究・臨床』(W・スティーヴン・ロールズ, ジェフリー・A・シンプソン編著, 遠藤 利彦 (監訳)、2008、北大路書房)
▪『国際セクシュアリティ教育ガイダンス(2018年改訂版)』

フェミニズム恋愛論

高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。