第3回 「愛」はどのくらい必要なのか──愛着から考える

何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー論的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。

前回は「孤独を避けられる程度に人とのつながりが必要」という結論になった。次に、人が生きるのに「愛」はどれくらい必要なのかについて考えていこう。愛といっても色々な種類がある。愛着(attachment)や友愛(friendship)、情熱的な愛(passionate love)、慈愛(compassionate love)などがあるが、ここでは愛着に注目してみたい。愛着は親子や家族、長期的なパートナー関係、移行対象(もの)などに対してもつ「愛」のことである。

「愛着」という愛は、不安や恐怖を緩和するのに役立つことが知られている。

心や身体が傷ついたり疲れたりしたとき、眠いときなどに、「誰かと一緒にいたいなぁ」「あの人と一緒にいたいなぁ」という気持ちになるとすれば、それが「愛着欲求」である。「あの人」という形で特定の誰かが欲求対象として思い描かれるとき、それは「愛着対象」と呼ばれる。そして、その愛着対象への近接や密着(見る、声をかける、話す、触れる、抱きつく)などが「愛着行動」と呼ばれる。その対象を「意識的」に思い描かなくても無意識のうちに接近行動をしているということも多い。

愛着欲求は、恐怖や苦痛、不安を感じるというネガティブな状況下で湧きやすいことが分かっている。子どもの場合は、眠くなった時や怖い時がそれに相当する。大人も病気になった時や身体的痛みがある時だけでなく、他者からの拒絶にあったり、重要なものを「喪失」したとき(喪失への恐怖がある時も含む)、仕事上の問題を抱えこんだとき、脅威を感じたとき、頑張ったのに報われなかったり良くないことが重なったりして自己肯定感がどんどん削られていくときなどに、愛着対象からの慰めやサポートを求めて、愛着欲求が高まるらしい。

これは、ちょっと面白いなと思っている。誰かと一緒にいても、自分の能力が高まるわけではないし、失ったものが元に戻るわけでもないし、いま直面している問題への具体的な打開策が得られるわけではない。しかし、ただ誰かと喋ったり、共感したり、ただ一緒にいたり、一緒に何かをしたりするだけで精神的に安心し、世界がちょっとだけ良きものに思え、自己肯定感が回復するというメカニズムがあるらしい。なんかすごい。

これが、「愛着の心理的サポート機能」と言われているものであり、日常的には「人と喋ることで心が慰められる」と言われているものだ。

子どもは愛着関係に排他性を求める

ヒトの子どもは、この愛着システムを備えて生まれてくることが多い。子どもは「主な養育者(親など)」と離されると「分離苦悩」を示し(悲しみの表情を浮かべる、泣く、ストレスレベルが上昇していることを示す唾液中のコルチゾール値が上がるなど)、再び近接性を回復すると喜びを示す。子どもが新たな「冒険」に出かける(例えば、公園で他の子どもと一緒に遊ぶ)ときにも、愛着対象者(=「主な養育者」のこと)との間に安定的な絆が形成されており、愛着対象者が見守ってくれているという安心感を子ども自身が持っていると、積極的に探索行動に向かうことができる。愛着対象者である「重要他者」との間に形成される安定した心理的絆のことを「安全基地」という。

このような子どもの愛着システムは、ある程度の排他性を求める。愛着対象者の注意が自分だけに向いているほど、自分に必要な保護やサポートが得やすいからだ。そのため、愛着対象者への固執や執着などの強い感情も関わることがあるのが、愛着という愛の特徴である。

大人においても、自分だけへの排他的な注目や関心が向けられることは、必要な時に必要なサポートを得られやすいという利点があるだけでなく、「自己の特別感」が得られるなどの付随的効果もありそうに思われる。

成人の愛着スタイル

したがって 、自分のことをよく理解してくれていて、必要な時に必要なサポートを与えてくれるような人と持続的で安定的な愛着関係を築いていけることは、精神的な健康を維持することにつながるし、ウェルビーイング(幸福度)も向上する。

しかしながら、この愛着行動にかんしては、うまくできる人とできない人がいることが分かっている。これが「成人の愛着(アタッチメント)研究」で明らかにされてきたことである。

「安定型」の人は、ネガティブ状況における「脅威」を低く評価する傾向があり、また必要なときには適切に、他者からのサポートを探すという行動を行う。個の自立性の感覚に富んでおり、抑圧やてんめん(感情的なとらわれ状態)、または未解決の感情や思考がなく、過去から現在に及ぶアタッチメントにかかわる事柄を客観的に見ることができるという特徴がある(『成人のアタッチメントー理論・研究・臨床』2008)

それに対して、「回避型」は他人と心理的に親密になることに関する不快感があり、感情開示が少なく、他者との親密な関係を避けることで心理的独立性を維持しようとする傾向がある。「アンビバレント型」は、自分のネガティブな感情に焦点を当てやすく、愛着対象のケアや注意を強く求めるが、愛着対象がそれに応じてくれるかどうかに対する不安が大きい。そのため、相手を自分との関係につなぎとめるために、様々な手法の相手を支配するような行動をとってしまうし、自分から、関係性をぶち壊す関係破壊的な行動をすることもある。

安定型は、日本でも北米でも人口の6割くらいにすぎないという結果も出ており、回避型やアンビバレント型はそれなりの割合で存在している。

そして、この愛着スタイル(安定型/回避型/アンビバレント型)は、幼児期に「主な養育者」との間で築いたスタイルを成人になっても反復しがちだということが明らかになっている(「内的作業モデル」)

分かりやすく言ってしまえば、親との間に良い愛着関係を築けなかった人は、成人後もパートナーや家族との幸福な関係を築くのが難しいということだ。経済的な「貧困の連鎖」だけでなく、「幸福な人間関係」が作れるか否かも世代間で連鎖しており、その点での格差があるのではないかということが示唆されている。これは、社会的関心を引くところであるし、社会的に議論していくべき点だろう。

ソーシャルスキルに関する知識提供やトレーニングの場を平等に提供するという社会的サポート策

人との良い愛着関係を持つことができることは、多くの人にとって良い効果があるようだが、良い愛着関係を持てるか否かは、どんな親を持ち、どんな家族で育ったかによって決まっている側面がある。

親との関係で築いた愛着関係を真似し、恋人や自分の子どもとの愛情関係でもそれを反復すれば自然と家族関係がうまくいく人たちがいる一方で、幼少期に親との間で形成された愛着スタイルを反復すると、うまく愛着関係を維持することができないので、愛をめぐる自分のふるまいを自己調整しなければならない人たちがいる。自分が不安に陥った時や、仕事などの大変なストレスに陥った時に、自分の大切な人にどういう態度を取るのか、日常的にどのように愛や感謝を伝えるのか、お互いの関係を維持し相手の気持ちをケアするために日々どういう小さなことをしているか。これらの積み重ねが、本人たちにとって満足度の高いよい愛着関係を長期的に維持できるか否かを左右している。

こういうメカニズムなのだということが見えてくると、社会学者としては、健康的な「愛の関係」(親密な関係)を築くための知識提供の機会が、万人に平等に社会的に提供されるべきなのではないかという気持ちがしてくる。「格差に対しては教育による機会の平等を」というのがリベラリズムの原則だからだ。リベラリズムとは資本主義制を維持しながら社会的公正(財の公正な配分)という「正義」を達成することを目指すものである(私のリベラリズムの議論の基盤となっているのは、ジョン・ロールズの『正義論』である)

現在、配偶者や恋人に暴力を振るうというドメスティック・バイオレンスをしてしまう人や痴漢行為がやめられない人に認知行動療法やピアグループでのサポートが提供されているが、もっと予防段階としてできることは色々ある。

もちろん、予防段階で社会的に介入することは、「生権力」の発揮だと警戒する左翼的思想家がいることは知っている。だが、「恋愛関係になりたいのだが、なかなかうまく恋愛関係を結べない」という人や、パートナー関係を持続させられないということを本人が自分の悩みとして持っている場合、その人たちに必要な科学的知識提供がなされてもよいのではないだろうか。「なされても良い」というか、「すべき」なのでは、というのが私のここでの主張だ。

とくに、生まれ育った家族や環境によって個人間格差があるのであれば、ここは社会的サポートが提供されるべき地点であるように思われる。お金を持っている人は、恋愛・セクシュアリティ専門のカウンセラー(日本ではカウンセリング全般が保険適用外)に相談したり、セミナーや講座にいくこともできるだろうが、全員がそうではない。良い愛情関係のための知識は誰に対しても平等に配布されるべきだし、とくに強いニーズがある人には特別なソーシャルスキル・プログラムなどが提供されて然るべきだ。

セクシャル・ウェルビーイング(性的幸福)の向上を目指す「包括的セクシュアリティ教育(いわゆる「包括的性教育」のこと。ここでは日本語版の訳者らの訳語を用いた)」が求めているのは、日本の保健体育の授業でもおなじみの生殖器の構造や二次性徴による身体の変化(「人間のからだと発達(6)」や「性と生殖に関する健康(8)」)だけではない。性的マイノリティ包摂的な価値観を育むための知識提供(「価値観、人権、文化、セクシュアリティ(2)」)や、ジェンダーベースド・バイオレンスについて正しく理解すること(「ジェンダーの理解(3)」「暴力と安全確保(4)」)、そして、ここが強調したい点なのだが、このキーコンセプトには「人間関係(1)」や「健康とウェルビーイングのためのスキル(5)」といった性的パートナーシップ(長期的な性行為を含む親密な関係)についての知識や、性的な同意形成の仕方、「嫌なことは嫌」と伝え、伝えられた側はそれを強要しないといった基本的な性的コミュニケーションの原則などが含まれる。最後に、「セクシュアリティと性的行動(7)」は、性器的な反応の現れ方やマスターベーション頻度等をはじめとした「生涯にわたる性」に関する様々な議論が含まれる。

近年、日本での「包括的性教育」推進派が強調しているのは、年齢に応じた性教育であり、幼少期からプライベートゾーンなどについて教えていこうというものだ。これはもちろん重要な取り組みであり、さらに広がっていくことが望ましいと思う。ここから、もう一歩進めて、ジェンダーに関わりなく全ての人に、二次性徴以降の射精やマスターベーション(男性に限らない)に関する科学的な知識を提供したり、性的に親密な関係や恋愛関係の築き方に関する情報提供をしたりすることが必要なのではないだろうか。

実際、欧米では「健康的な恋愛関係(healthy relationships and romance)」や「親密なパートナー関係」を築くための教育プログラムの開発が進んでおり、様々な組織・団体が提供しはじめている。生徒同士の相互対話的なプログラムを組み込んだものもあり、色々と興味深い領域になりつつある。私自身、まだ全然、その全容についての研究を進めることができていないが、個人的に「これはすごいな(良いな)」と思ったものとして、Love Note 3.0がある(☆1)。日本でもこのような恋愛関係ソーシャルスキルトレーニングを提供するNPOなどがあるといいなと思っている。研究者と一緒にプログラム開発をしたり、プログラム提供をしようかなと思った団体さんやNPOさんは、ぜひお気軽に私まで連絡を。

全ての人が豊かで幸福な性的関係を築いていくのに有効な「知識とソーシャルスキル」を持てるようにするのが、セクシュアリティ教育の目指すところの一つである。このようなセクシュアリティ教育によって、生まれや育ちによらず誰もが本人の希望に応じて持続的な愛の関係(愛着関係)を築いていくことができるようになるだろう。

ポルノ動画とラブコメ映画で性や恋愛を学ぶことの危険性は、近年多くの人が訴えている。「ナンパ塾」のような男性主義的な恋愛観を「秘伝」として伝授するような恋愛関係教育も問題があることは明らかだ。非公式であやしげなものとして、恋愛や性を語る時代はそろそろ終わりにしよう。


☆1:「Love Notes 3.0」(https://dibbleinstitute.org/store/love-notes-ebp/)は、恋愛関係を主眼においたソーシャルスキル教育プログラムである。ただし、これは基本的に相互独立的自己観を持つ北米社会に合わせて開発されたプログラムなので、相互協調的自己観を持つ日本語文化圏の実情に合わせたプログラムへと改善する余地は大いにありそうな気がしている。
【おススメ文献】
▪『愛の心理学』(ロバート・スタンバーグ&カリン・ヴァイス編著, 和田実&増田匡裕訳、2009、‎ 北大路書房)
▪『成人のアタッチメント——理論・研究・臨床』(W・スティーヴン・ロールズ, ジェフリー・A・シンプソン編著, 遠藤 利彦 (監訳)、2008、北大路書房)
▪『国際セクシュアリティ教育ガイダンス(2018年改訂版)』

フェミニズム恋愛論

高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。

第2回 現代人にとって「人とのつながり」はどの程度必要なのか——「孤独」から考える

何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー論的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。

「そもそも恋愛はする必要があるのか」とか「人間にとって愛はどれくらい必要なのか」など考えたいことは色々あるが、まずは、現代社会で人が生きるのに、人とのつながりはどれくらい必要なのかという、基盤になりそうなことから議論を始めてみよう。

ぶっちゃけコンビニとネットさえあればある程度楽しく生きられる現代で、対面的な人とのかかわりは無くても生きていけそうな気もする。現代において社会的つながり(ソーシャルコネクション)はどの程度必要なのだろうか。とくに「孤独」という観点から考えてみたい。

孤独の社会問題化

孤独感とは「自分は独りぼっちだな」とか、「自分のことを本当に理解してくれる人なんていないんだな」という主観的な感じ(フィーリング)のことである。統計調査では「付き合いがない」「取り残されていると感じる」「孤立している」といった質問文や「あなたはどの程度、孤独であると感じることがありますか」という直接、主観的な感覚を聞く質問文で測定されている。

このような孤独感は健康に実害を及ぼしており、なんと寿命を縮めている。そういう実証結果が1980年代頃から蓄積され続けてきた。その結果、「孤独」は近年、公衆衛生上の問題になった。「孤独感」の増大や「社会的孤立(こちらは客観的に測定されるもの)」の増加は、いまや適切な社会的サポートが求められる社会問題である。

イギリスは2016 年に孤独省(ministry of loneliness)を創設し、独居高齢者、移民、母子家庭、独身といった多様なルートで「孤独」に陥りがちな人々をサポートする体制を作ろうとしてきた(☆1)

私はこのニュースを見た時、SFの世界が現実に侵入してきたと思った。だって、伊藤計劃の『ハーモニー』とかに出てきそうじゃないか、「孤独省」。しかし、現実の話だ。日本でもコロナ禍中の2021年に「孤独・孤立対策担当室」が創設された。現在、日本の各地の社会福祉協議会は、「孤独は、1日にタバコを15本吸うことやアルコール依存と同じくらい寿命を縮めている」といったチラシを作って、各地で啓発活動に努めている。

さて、気になるのは、孤独が寿命を縮めるプロセスだろう。ジョン・T・カシオポの『孤独の科学』の議論をもとにまとめると、次のようになる。

人は「孤独」を感じると、身体的な恐怖や脅威を感じた時と同様の緊張状態になり、不安感が高まる。社会生活のいたる所に危険を見いだすようになり周囲の人々が自分に対して不愛想で、批判的で、悪意に満ちているように見えるという認知の歪みが生じる。認知の歪みとは、現実にはそうではないが、本人はどうにもそうとしか見えないという歪んだ認識を持つ状況のことを指す。

認知の歪みは「予期の歪み」も、もたらす。つまり、周囲の人は自分に対して否定的だから自分はどうせ拒絶されるだろうとか、どうせ頑張っても無駄だよなという予想を持ちがちになる。そのような予想をしているので、当然のことながら、他者による否定的反応に備えるため、自己防衛型の行動(他者の批判から自分を守るような行動)をする。だから余計に他人はその人から遠ざかっていき、さらに孤独感が深まる……という悪循環に陥る。

私が個人的に「なるほど」と思ったのは、人が孤独感に陥っているときには、自分の予想に合致したネガティブな他者の反応にばかり注目しがちであり、また他者のネガティブ反応は記憶に残りやすいので(厳密にいうとこれは「ネガティビティ・バイアス」と呼ばれるまた別のバイアスだ)人とのつながりから得られる喜びや、「心慰められるような高揚感」を経験しにくくなるという話だ。孤独感に陥っている時には「友人からの慈愛に満ちた援助を受けても、その交流を期待外れだと感じやすい」(第6章)とカシオポが書いており、……うわぁー、個人的に思い当たる節が多すぎる、昔の友人たちごめん、という気持ちになった。

このように、孤独感が慢性化すると、他者恐怖と自己否定が高まり、他人と自分からの自分への攻撃に備えようとして身体の緊張状態が続くことになる。

社会的からの孤立や孤独感が慢性化している人ほど、飲酒・喫煙率が高く、脂質摂取率が高く、野菜や果物を食べておらず、運動していない傾向が統計上確認できる。孤独による身体的緊張というストレス状態が続くことで心臓・血管への負担が高まり、脳卒中死亡率が高い。

さらに、孤独感が強い人ほど、ストレス要因に直面したときに積極的に物事に取り組まなくなり、人に情動的支援や実際的支援を求めないという傾向も確認されているとのこと。このあたりは学習性無力感と貧困がからみ合って、ときほぐすのが難しい生きづらさをもたらしている。

「自分でハンドリング可能な孤独感」と「自分一人の手には負えない孤独感」を区別しよう

だから、「私たちが健康で幸せであるためには、他者とのつながりに満足し安心していること、つまり孤独でない状態が求められる」というのがカシオポの結論だ。

ただし、カシオポは「孤独が深刻な問題となるのは、それが慢性化し、ネガティブな思考や感覚や行動の執拗な悪循環を生み出した場合に限られる」とも述べている。

そう、全ての孤独が悪いわけではない。「ネガティブ思考」からの「人間関係を自ら壊していくような関係破壊的行動」による、さらなる「孤独感の高まり」という悪循環をもたらす限りで、孤独は問題なのだ。逆に言えば、過剰な不安や認知の歪みをもたらさないような、自分でハンドリングできるような孤独はとくに問題ではない。

つまり、最近の孤独を問題視する科学的研究は、なにも全ての「孤独」を無くすことを目指しているわけではない。

突然、強烈な孤独を感じるという経験はおそらく誰もがしたことがあると思う。大勢の人の輪の中にいても、一人で部屋にいても、「自分のことを本当に理解してくれる人なんて誰もいないんだな」という気持ちが湧いてきて、なぜか涙が出てくるといったことは、たぶんよくあることだと思う。そういう気持ちが積み重なってくると、ある日突然、「自分の存在意義って何だろう」という空虚感に襲われ、「この世界から自分が消えても、とくに問題がないのではないだろうか」という啓示(ひらめき)が天から降ってきたりする。これらの空虚感もたぶん孤独感の派生形なのだろう。でも、このような「人間存在の空虚さ」みたいな地点からしか始まらない思想もある。実存主義哲学とか。だから、人類のウェルビーイングを高めるために「孤独」を一掃しようという社会政策は現実的ではないし、たぶん望ましい方向でもない。

ただ、自分の中の「空虚感」が高まりすぎてあやうく自死しそうになったり、「孤独感」が高まりすぎて自暴自棄になったり、自傷的な性行為に走ったりといった自分の手には負えない孤独感になってしまった時には、孤独をいやすような「社会的つながり」を確保する必要がある。そういう話だ。

必要なのは、社会への恐怖感を自分でハンドリングすることができる程度の「社会的つながり」

ということで、「人間にとって社会的つながりはどの程度必要なのか?」という問いには、こう答えることができる。必要なのは、世界への恐怖感を自分でハンドリングすることができる程度の「社会的つながり」である。

ちなみに、孤独をどれくらい感じるかにはかなりの個人差があることが分かっている。長い間、全く誰とも喋らなくても、とくに不安や対人恐怖が起こらず平静に生きられる人もいる一方で、つねに誰かと密着していないと不安に陥ってしまう人もいる。

だから、それぞれが抱える孤独の形によって、必要な社会的つながりの形も異なっている。コンビニの店員さんとちょっと喋るだけで癒されるような孤独の形もあれば、定期的に友人と集まることでメンタル・バランスが保てるという孤独の形もあるし、行きずりの人とのセックスでこそ満たされる孤独の形を持っている人もいるし、特定の人との長期的な共同生活の中で癒される孤独の形もある。

このように基本的には孤独の形もその癒し方も個人によって多様なのだが、このラインを越えると「多くの人が健康を害しがち」という閾値のようなものもあり、それは「困った時に頼れる人がいるか」(例えば「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」内閣府など)である。「困った時」というのは、病気や借金などの深刻なものから、不安や悩みを抱えたときにちょっと相談できるというものまで、色々あるが、必要な時に相談できる人や頼れる人がいるということが、個人化した社会における個人のメンタルを支えるものになっているようだ。

まとめると、個人化が進んだ現代社会でなお必要となるのは、第一に、つねに連絡を取り合っているわけではないが、自分が必要になった時には自分のために時間や労力を割いてくれる人がいるという安心感である。それがあると、精神的に健康に生きられる。

第二に、「いざ」というときに、実際に人に頼るという行動をすることができる行動力である。これもリストアップしておくべきだろう。

自分にとって必要な「社会的つながり」を安定的に調達しやすくするのが「愛」

今回の話を踏まえると、人は「いざというときに頼れる人」を安定的に調達するために「愛情によって結ばれた関係」とされている「家族」や「恋人」、「友人」などの関係を結ぶのだと、さしあたり考えることができる。

日常生活で気が緩んだ時などに突然襲われる「自分は独りぼっちだな」とか、「自分のことを本当に理解してくれる人なんていないんだな」という孤独感を回避し、誰かとつながっていることによる安心感を得るために、人は恋愛するのだという「仮説1」が得られた(これはあくまでも仮説1なので、他にもいろいろある。これらの仮説については後ほどまとめて検討しよう)

よく考えてみると、仕事上の人間関係や趣味でつながった友人関係も、いざというときに相談できる間柄なのであれば、「頼れる人」に相当する。むしろ、同じ状況に置かれている仕事仲間の方が、家族よりも、そのつらさやしんどさをより良く理解してくれることで、孤独感を癒してくれることもある。

それに、自分が高齢になったら、自分の親も友人も死んでいる可能性が高いから(そして子どもがいたとしても、子どもとの関係が良好であるという保証はどこにもないわけだがから)、結局のところ、近くに住んでいるご近所さんとか、身の回りのサポートをしてくれる介護職の方、高齢者心理などの専門的知識を備えたカウンセラーなどが「頼れる人」になりそうな気がする。この意味で「頼れる人」は、たぶん実際の人生においてどんどん変化する

たしかに、恋人とかパートナーとか家族とかの愛で結ばれた長期的な関係性には、利点はある。長く一緒に生きてきたことで、「私」に関する情報をたくさん持っているので、「私」が何が好きで嫌いなのか、何をしてほしいと思っているのかを、「私」と同等かそれ以上によく知っていることもありうる。だから、「私」のことを全く知らない人よりも適切な精神的サポートや物理的サポートを与えることができるかもしれない。

また、誰かと深く理解し合える関係のなかで日々を過ごすことができたという記憶が、その後の人生を支えるものになることもある。

だから、人生のいつどの時点であろうと、誰かと深く緊密な関係を築くことは「無駄」なことではない。

しかし、家族がいれば「絶対安心」で、どんな孤独からも逃れられるというわけでもない。家族関係も含めてすべての人間関係は、日頃の小さなケア(思いやり)の贈与交換を通したメンテナンスが必要だし、それは実はそんなに簡単なことではない。けっこう大変なことだ。

そういうことを考えあわせてみると、誰かが苦悩していることに気づいたとき、その気づいた「あなた」、その人の目の前にいる「あなた」が、ベストタイミングで居合わせた最善の「孤独を癒せる友人」たりうるということになるのではないだろうか。そういう楽観的な信念——いつどこで出会うか分からないけれども人生の色々な段階でこれから出会う人たち(すなわちこの世界を共に生きる人たち)に対する楽観的な信念——を持つことが、孤独を手なづける方法なのかもしれない。

人間にとって「社会的つながり」はどの程度必要なのか? というのが、今回のテーマだった。「孤独感を自分でハンドリングできる程度の社会的つながりが必要だ」というのがその答えである。

孤独感にはかなりの個人差があって多様なのだが、たしかに言えるのは、本人が寂しいなと思ったらそれは「孤独感」と呼ばれるものだということ。そして、本人が安心できるような、しっくりくる人間とともに過ごす時間を持つことができると、それは健康にも良いらしいということである。

 

☆1:極右的な排外思想を持つ男性に射殺された労働党女性議員ジョー・コックス(オックスファムの活動家で、労働党議員)が尽力していたのが、孤独省の創設であった。この点でも孤独省はフェミニスト的には重要な論点だ。
【おススメ文献】
▪ジョン・T・カシオポ&ウィリアム・パトリック, 2018, 『孤独の科学』河出文庫.
ロバート・ウォールディンガー &マーク・シュルツ, 2023, 『グッド・ライフ——幸せになるのに、遅すぎることはない』辰巳出版.

フェミニズム恋愛論

高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。