何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー論的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。
いまこそフェミニズムのパースペクティブから、恋愛について語ることが重要なのではないかと考えている。
フェミニズムには色々な立場があるのだが、ここで私が言うフェミニズムとは、恋愛を捨て去って非恋愛を貫く形のフェミニズムではない。
「恋愛」に没頭したり、ちょっと距離を取ったりしながら、「いわゆる恋愛と呼ばれてきた関係において、自分は何を求めているのか?」を真剣に探究するようなフェミニズムであり、最終的に「親密な関係性において何がどうなればよりジェンダー平等な愛の関係と言えるのか」を明らかにしていくようなフェミニズムである。
そんなのはフェミニズムじゃないと言うフェミニストがいることも分かっている。でも、私はそういうことを考えるフェミニストだし、ジェンダー論やフェミニズムはそういうことをうまく考えられる可能性を持っていると私は思っている。なぜなら、「ジェンダーとは何か」、「性別らしさとは何か」についての思考を膨大に積み重ねてきたのがジェンダー論でありフェミニズムだからだ。
私がここでやりたいと思っていることは、一言で言えば、「ジェンダー平等という視点を手放さずに恋愛について考える」思想の地平を拓くことである。
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何かを好きになることは、この世界とのつながりを回復することに近い。
一つでいいから何かを好きだと思えると、世界は色づき輝きはじめる。自分が何かを疑いなく好きだと思える経験は、それだけで独特の「満たされ」感を伴うし、自分が自分であることを最も強く感じられるときでもある。そのとき、もはや自分が誰かに愛されているのか? とか、自分が愛した分に見合った愛が返ってきているか? とかは問題にならない。そんな独特の満足感が「好き」にはある。
あくまでも私個人の感覚ではという話なのだが、何かを好きになることは、私にとってはこの世界への希望を持つことに似ている。「誰か」や「何か」に興味を持つことができ、もっとよく知りたいと思えることで、この世界にはもうちょっと面白いことがあるかもしれないという希望が持てる。そして、もう少しこの世界で生き続けてみてもいいかなと思う。
「恋愛」という語が使われるときには、「好き」の対象は「人間」だという前提があるが、振り返ってみると、私たちは言葉を話す以前から、身体的な好き嫌い反応を繰り返してきている。食べ物の好き嫌いとかアニメキャラクターの好き嫌いとかをめぐる情動の記憶を身体に刻みながら、自分の「好き」を日々形成している。
「好き」が持つこのような広い意味に思いを馳せ、「好き」が持つ様々な可能性へと思考をトリップさせながら、「恋愛」について真剣に考えてみることは、重要な気がしている。だから、「恋愛は家父長制を温存させる権力装置だ」というような形で、恋愛を批判し去るのはもったいない。
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もしかしたら、恋愛にこだわったり恋愛を論じたりするのはあまりにも「女らしすぎる」という理由で、ちょっと抵抗を感じる人もいるかもしれない。私も、けっこうそうだった。ドライに性的な享楽だけを追い求める方がカッコいいんじゃないかとか、恋愛にこだわるのってなんか重たいんじゃないかとか、恋愛を研究しているとか言うのってちょっとバカっぽいんじゃないかとか。
もしこんなふうに、恋愛についてまじめに考えることに抵抗を持つとしたら、それは19世紀以降、この社会が「恋愛」を「女性領域化」して「下位化」してきたからだ。「恋や愛というのは女の仕事で、大(だい)の男が拘泥するようなものではない」というような価値観が社会的に成り立ってきたから、だれもが「恋愛」についてまじめに語るのに二の足を踏んでしまう。
しかし、歴史を振り返ってみると、むしろ男性が恋愛の主体だった時期も多いし、長い。恋愛は男らしさ(騎士らしい男らしさ)に結びついていた社会もあった。ヨーロッパの騎士道恋愛(10~11世紀)は、高貴な身分の女性に対する騎士たちの感情が高らかに謳われたが、崇愛される一握りの女性たちの感情には注意が払われておらず「愛される対象=客体」でしかない(『恋愛礼賛』モーリス・ヴァレンシー、1995、法政大学出版局)。宮廷恋愛(17~18世紀)で恋愛(この時期のそれは多くが婚外恋愛である)を積極的に行ったのは出世意欲のある男性だ。社交界で自らの「趣味の良さ」や政治的才覚、芸術的才能を認めてもらい、そして宮廷で取り立ててもらうために、彼らは高貴な女性や男性との恋愛に人生を賭けた。
このように「恋愛」には様々なバリエーションがあったわけだが、19世紀になると恋愛は、家庭や子育てや家族愛などとひっくるめて「女性の仕事」であり「女性的なもの」と捉えられるようになった。「男は外で働き、女は家を守る」という役割分業で家族生活を営むライフスタイルが資本主義の発展と共に確立したのが要因としては大きい。
こうして「男には(恋や愛や家族などよりも)もっと大事なものがある!それは例えば、仕事とか出世とか、国家の問題とか」という価値観が広がった。まあ実際、当時国政に関する選挙権を持っていたのは税金を納めている白人男性だけだったし。
こうして、恋愛は女性的なものになると同時に、国政や経済活動といった「公的なもの」よりも下位のものと見なされるようになった。この価値序列は、いまでも社会に広く薄く浸透して残っている。
例えば、映画。アーティスティックな社会派映画が批評家に重視され丁重に扱われる一方で、「ラブコメ」は「女性向き」や「デート向き」とラベリングされて不当に軽視されているように見えるのは、私の被害妄想なのだろうか。映画監督の中には自分の作品が「ラブコメ」や「ロマンス」というジャンルに振り分けられることを嫌がる人もいる。バイオレンスやミステリー、ホラーなどのジャンル名は忌避されないのに……!
マンガも、似たような状況にある。男性向けマンガ雑誌でメインになるのはバトルやバイオレンスであり、主人公が「戦う理由」として愛は付随的に登場するが、ロマンスそのものがストーリー展開上の中心になることは少ない。ロマンスがメインの場合にはだいたいエロと一緒にパッケージングされる。このような傾向が生じてくるのは、恋愛とか愛とかは「男の仕事」ではなく、男が真剣に考えるようなものではない(片手間で行うべきもの)という前提があるからだろう(実際には男性の少女マンガ読者と女性の少年マンガ読者が多いことはよく知られている)。
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こんなかんじで、恋愛はジェンダー化されて下位化されている。
しかし、私はこのような恋愛を真剣に考えていくことに「フェミニズム」の新しい可能性が見出せるのではないかと思っている。財産相続権も市民権も教育を受ける権利も保障されていなかった19世紀の女性たちが、わずかに権限を持つことのできたのが恋愛や結婚や家族愛の領域であった。その女性たちの生きざまを真剣に受け止め、彼女たちが培ってきた思想や人生観を踏まえながら考え続けていくところに成り立つ思想というものがありそうな気がしている。
恋愛というテーマは、思ったよりも深く掘り下げることができるし、そうすることでもう少し見渡しの良い現代社会像が得られるだろう。最終的には恋愛をめぐる既存の慣習の何がジェンダー平等の観点から見て問題であり、何は問題がないのかを明らかにし、実践的に役立つ知見も明らかにしていきたいと思う。
Back Number
- 第5回 性革命は何を目指してきたのか──脱恋愛ではなくセクシュアルポジティブであるという話
- 第4回 性的情熱とは区別される恋愛的情熱とは何なのか──美と恋愛について
- 第3回 「愛」はどのくらい必要なのか──愛着から考える
- 第2回 現代人にとって「人とのつながり」はどの程度必要なのか——「孤独」から考える
- 第1回 「ジェンダー平等な恋愛」について考えよう
フェミニズム恋愛論
高橋幸(たかはし・ゆき)1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。