第2回 反ファッション論:みせかけ美徳消費の悪徳

倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。

はじめに:消費はなぜ楽しいのか?

お買い物は楽しい。なぜか。それは、何かを手に入れる楽しみと何かを失う喪失感のマリアージュであるがゆえに、他にはない独特な美的経験をもたらすからだ。ものを買う瞬間、私たちは、お金を使うという能力を発揮している。そのお金といえば、自分の手で稼いだり、誰かからもらったり、少なくとも簡単に手に入ったものではないことの方が多い、労苦にまみれたものだ。そのお金を失うことで、つまり、労苦と引き換えにして、何かを手にする。それは例えばきれいな石を道端で拾い上げて家に持ち帰る喜びとは異なる喜びである。どこかギラギラしていて、怪しく、決断的な、そういう魔性の経験である。

私がこれから考えたいのは「消費」がどのようにして私たちの生活の中で美的に経験されるのか、「消費の美学」である。もちろん、消費については様々な思想家、研究者たちが魅力的な議論を繰り広げてきた。ソースタイン・ヴェブレン『有閑階級の理論』、ボードリヤール『消費社会の神話と構造』、山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』、最近ではジェフリー・ミラーの『消費資本主義』や、ダニエル・ミラーの『消費は何を変えるのか』があり、それらは楽しい読書経験を与えてくれる(ヴェブレン 2016; ボードリヤール 2015; 山崎 2023; ミラー 2017; ミラー 2022)[1]

しかし、私はこれらの議論にいまいちピンとこない。というのも、私が関心があるのは、消費の美学、すなわち、消費において、人びとはどのような美的な経験をしているのか、であったり、人びとがどのような美的経験をしていないのか、なのだが、そうした議論は以上の論者の文章にはあまりみられないからだ。私が考えたいのは、消費すること、その経験自体が持つ美的特質なのだ。それはお買い物の瞬間に味わわれる美的経験である。私は、消費という行為をすることで、私たちがどのような能力(とりわけ美徳)を発揮しているのかという視点から、消費の美的経験を考えたい[2]

こうした分析は、たんに興味深いだけではなく、複数の価値を持つ。その大きな一つは、消費行為に対する批判や、よりよい消費を考える際の手がかりになるということだ。私たちは消費について、全面肯定ではなく、ときには批判的なまなざしを向けることもある。「消費はほんとうに私たちの人生を豊かにしてくれるのか」「こんなに消費ばかりして、少し虚しい気がする」。そう思ったことが一度もない人も珍しいだろう。そうした消費の批判の際に、美的側面を考慮に入れることで、より実質的な批判ができるようになるだろう[3]

本稿の構成は以下の通り。

第一に、消費を美的側面から分析する。複数の意味が消費行為にありうる中で、とりわけ私が注目するのは「みせかけ美徳の発揮」としての消費である。私は、現代の消費文化の多くは、人びとが「みせかけ美徳」を発揮する機会をプロダクトやサービスとして提供している、と考える。ここで「みせかけ美徳」という聞き慣れない概念が登場する。現代の消費文化において「みせかけ美徳消費」とは、消費者が商品・サービスを通して、あたかも自分が「美的徳」や「ケア」、「創造性」などの何らかの美徳を発揮しているかのように感じるが、実際にはその徳が十分に発揮されていない、あるいはその発揮が恣意的な市場環境によって阻害されている状態を指している。言い換えれば、「みせかけ美徳消費」は、「真正な美徳発揮」を伴わない、あるいはその追求が絶えず先延ばしされる一種の代理的・疑似的な美徳とその発揮である。最近の倫理学・認識論・美学では、「徳(virtue)」をめぐる議論が盛んに行われている。その興味深い議論を踏まえながら、美徳から考える消費論を展開する。この切り口はあまりないだろうが、私は、消費に対する不満や苛立ちの多くを説明できるアプローチだと考えている。本稿では、とりわけ、ファッション文化実践を批判する。ファッションとは、私のみるところ「みせかけ美徳の発揮」を提供する「みせかけ美徳ビジネス」の王である。

第二に、みせかけ美徳ビジネスのオルタナティブを検討する。私は、美徳の発揮を持続可能で自律的で誰にでもアクセスできるようなものにすべきだ、と主張し、美徳発揮の公正な分配として、美学と政治哲学の交差点を考える可能性を提案する。次回予告として、無批判に美的流行を受け入れることと、ルッキズム(外見差別)の関係について触れる。消費の美学を始めよう(なお、本稿における消費とは何か、その定義については注の方で詳しく(詳しすぎるかもしれない)論じておいた)[4]

1 消費の美的快楽の分析

消費は気持ちいいい。ものを買った瞬間の気持ちよさとはなんだろうか。それは一つの美的経験をもたらすものであるようにも思われる。まずは、消費のスケッチをより豊かなものにしてみよう。

消費の美的特徴

(1)所有し始める喜び

(2)お金を失う喜び

(3)生活が向上する期待の成就

(4)お金を使うことが楽しい

まず、(1)私たちが何かを手に入れることそれ自体に喜びがある。それは、道端できれいな石を拾って自分のものにするときと同じ種類の喜びだ。誰のものでもなかったものが自分のものになるとき、心が暖かくなるような、自分が増えたような、そういう色調の明るい喜びがある。もしかすると、食事の際の喜びに近いかもしれない。何かが口に入り、咀嚼し、飲み込むときのような、自分のものになる感覚。触覚的な美的快がある。

しかし、(2)何かを失うことで何かを手に入れることにも喜びがある。何かを失うことは、単純に悲しみだと思われている。しかし、失うことは、喪失と可能性の広がりでもある。お金を失うことも、悲しいが、気持ちがいい。なぜならそれは、自分が溜め込んだ何かを解放することであるからだ。とりわけ、自分の労働や努力の対価であるお金を失うというのは、その労苦を解き放つようで、他にはない独自の美的な喜びがあろう。石を拾うだけでは得られなかった、ある意味で祝祭的な喜びがここにある。

加えて、(3)自分の暮らしや日々が向上するという期待がその瞬間だけは叶えられたと信じられる喜びがある。多くの製品やサービスは、後で論じるように、それほど暮らしや日々を向上させなかったり、向上にすぐに慣れてしまうだろうが、それでも、製品の取得の瞬間、パッケージを撫でさする瞬間だけは夢が叶う。

そして、(4)お金を使うのは楽しい。なぜか、お金を使うという能力を自分が発揮しているから楽しいのだ。サッカーでうまいパスをする楽しみ、いい演奏をする楽しみ、良い料理をつくる楽しみといった行為の楽しさとパラレルである。行為そのものが美的に味わわれる「美的行為(aesthetic action)」の一種なのである。消費という美的行為のユニークさ、それは、それ自体にはさしたるテクニックも修練もいらない、ということである。なぜなら、消費するのに必要なのはお金だけであり、お金さえあれば買うことができるものは買うことができるからである(もちろん、お得意先にしか買えないハイブランドのカバンもあるだろうが、お得意先になるのに必要なのはまあお金だけだろう)。それに対して、うまいパスをするためには練習と才能が必要であり、演奏も料理も同じだ。これらの実質的な技能が必要な行為に比べて、消費するという行為は、ある意味ではとても平等である。なんらの技能も才能も必要ない。金さえあればよい。あればあるほどよい。

この4つが合わさり、消費のタイミングには、ギラッとした感覚が私たちに生じる。所有開始、お金の失い、期待の成就、お金を使うこと。重ね合わさった独特の怪しい魅力が消費にはある。

とはいえ、伝統的に消費論で論じられてきたのは、ステータスアピール、差異の表示、応援、献身といった消費という行為をするときに同時に成立する別の行為であった。これは、ちょうど、言語哲学者であるJ・L・オースティンが『言語と行為:いかにして言葉でものごとを行うか』(1962)で分析したように、「発語内行為」によく似ている。食卓で「そこの塩ってとれる?」という「質問」行為が同時に「塩をとって欲しい」という「依頼」行為にもなる。これが発語の「内」で行われる行為、すなわち、発語内行為なのだ。これがオースティンの興味深い発見だった。

つまり、消費は、何かをお金を引き換えに買うという取得の行為であるが、同時に、「ステータスアピールする」「差異を表示する」という行為が可能であるし、「応援する」という行為も可能である。つまり、これまでの消費論は「消費の語用論(pragmatics of consumption)」を論じてきたと言えるだろう。

さて、消費における「消費内行為」とも言える行為には、ものすごい種類のものがあるだろう。消費を介して「命令」することもできるかもしれないし、「軽蔑」することもできるだろうし、「暴力を振るう」こともできるだろう。その網羅的分析もおもしろそうだが、ここでは、そのルートを採らず、ある一つの消費内行為を分析したい。

本稿で私が注目したいのは、「みせかけ美徳の発揮」という行為である。私は、ある種の消費において、人びとは「消費を介して自分たちの美徳を発揮できている」と感じているし、彼らは、美徳を発揮するために消費していると思っている。しかし、そこでは十分には美徳は発揮されないし、しばしばみせかけ美徳の発揮が販売されている、という主張をしたいのだ。どういうことか。

例えば、私たちが衣服を選び購入するとき、私たちは、自分たちの「美的判断能力を働かせている」と思っているはずだ。あるいは、私たちがアイドルを推して応援するとき、グッズを買ったり、YouTube配信にスーパーチャットを投げたりするのは、そのアイドルへの「ケア」という美徳を発揮している、と感じているだろう。

このように、サービスやプロダクトは、私たちにたんに心地いい経験を与えたり、美的経験を与える、というよりも、消費という行為において、美徳を発揮する機会を提供することで美的な快楽を与えているのだ[5]

本稿では、第一に、ファッションをめぐる議論を詳しく論じたい。そして、その議論の応用として、ガジェット文化、ケア、ソシャゲをめぐる美徳の問題をコンパクトに論じたい。

2 ファッションと「みせかけ美徳消費」

ファッションと消費について考えたい。なぜファッションか。ファッションをめぐる実践は、美徳の発揮のなかでも、美的徳の発揮を消費者に夢見させるからだ。

そもそも美徳とはなんだろうか。美徳とは、望ましい結果を達成するための動機付けと確実な成功を伴う、深く、永続的な優れた能力であり、しばしば、美徳の発揮は幸福そのものであり、あるいは、幸福をもたらすとされている(Zagzebski 1996, 135; アナス 2019; cf. 菅 2016)。

美徳には、道徳的な徳(勇敢さ、慈愛)や知的徳(オープンマインド、注意深さ)などがある(Turri et al. 2022; 植原 2019; 植原 2020; 植原 2022)。とりわけ、ファッションに関わるのは、美的徳(aesthetic virtue)だ。美的徳とは、美的判断力や審美眼を持っていること、あるいは、よい表現ができる力を持っていること、自分なりのスタイルを作り出す能力、さらには、創造力などを意味する(Goldie 2007; Goldie 2008; Goldie 2010; Hills 2018; Johnson 2023; Kieran 2010; Kieran 2013; Lopes 2008; Roberts 2018; Snow 2023; Patridge 2023; Woodruff 2001)。

美的徳の概念をもう少し具体化してみよう。美的徳とは、広く言えば、美的対象や経験に対して適切な評価・反応・行為を取るための、深い内面化された性向である。それは、美的価値に対する理解や洞察(たとえば、スタイルや色彩、構成やリズム、素材や背景文脈に関する識見)を備え、そうした価値を適切に尊重・享受し、さらには、自律的な美的判断に基づいて応答・行動することを含む。

例えば、おしゃれ実践における美的徳としては、自分自身や自分の属する文化的背景に応じて、流行にただ従うだけではなく、独自の審美的判断を下せる能力、あるいは様々なスタイルを吟味し、より自分らしい装いに落とし込む創造的な美的判断力や表現力が挙げられる。こうした徳は単なる技能以上に、自分の美的センスを過大評価も過小評価もせずに選び取り、他のセンスに開かれている「謙虚さ」(Matherne 2023)、失敗をおそれずに自分のありたい姿を追い求める「勇気」(Wilson 2020: Tullmann 2021)など、複合的な要素を含んでいる。

本稿では、おしゃれ実践というよりも、時々の流行が激しく入れ替わるファッション文化にフォーカスしたい。ここで明確にしておきたいのは、両者の区別である。おしゃれ実践とは、個人が自らのパーソナリティや身体的特徴を踏まえ、自らの美的判断により装いを創造的に形成し、他者に呈示する行為を指す(難波 2019)。これは必ずしも流行に従わずとも可能である。一方、ファッション文化は、急激な流行サイクルが市場やメディアを通じて作り出され、消費者がその都度変わるファッションの正解を追い求める実践を指す。例えば、江戸時代の着物の着こなしをこよなく愛していて、実際にその人に似合っている人は、おしゃれ実践をしているが、しかし「ファッショナブル」ではない。つまり、ファッション文化には参加していないのだ。

おしゃれ実践はファッション文化の一部として行われることもある。しかし、しばしば、ファッション文化が提供する流行に巻き込まれている場合が多い。したがって、おしゃれ実践=ファッション文化ではない。

それゆえ、ファッション文化は美的徳の発揮の場所としては苛烈な環境であるように思われる。なぜなら、ファッション文化内では、意図的に流行が作り出され、多くの人はそれに乗り遅れまいと必死で追いついていくことになる。一見醜くても、不格好でも、機能性に劣っていても、ブランドやデザイナーや批評家や雑誌、ライターたちによって「ファッショナブルさ」という美的価値が制作される(Farennikova & Prinz 2011)。YouTubeを眺めていると、「2年前の服は形が古くなっているからもう着れない」とあるインフルエンサーが愚痴っている。クローゼットに服はたくさんあるのに着ていく服がない、と感じる人は少なくないだろう。ファッション文化において、人びとは、自分のスタイルを吟味してそれを自分の美的趣味との対話のなかで練り上げていくような時間のかかる作業をする前に次の流行に移っていってしまう。いや、移らなければ、時代遅れでダサいという評価をなされてしまう。ファッション文化の多くにおいて評価されるタイプの能力は、時期に応じた機敏さと、つねに流行に遅れまいとリサーチし、どんどんと新しい服を消費していく経済投資力だ。ファッションの多くは、時期に敏感であり、お金を使うことができる者に勝利が訪れるようなゲームであるのだ。環境を変化させ続けることで、美徳の発揮をゲーム的なものにしていく。それはそれで一つの遊び方ではあるし、何らかの美徳の発揮につながるかもしれない(たとえば、俊敏さ?)。だが、そうしたゲームの中でうまく美的徳を発揮させられる人は少ない。確かに、流行に追いついている人は賞賛されるかもしれないが、その賞賛は儚く、流行を追い続けることに幸せを見いだせる人はそう多くはないだろう。美徳は幸福とどこかでつながっているものである。それゆえこれらは美的徳というには心もとないように思われる。

ファッションは、「流行に乗れている」程度の能力を美徳に見せかけて、その「みせかけ美徳」を追い求めるように消費者に要求する悪徳文化なのである。ファッションは、消費者の美的徳を毀損し、「あたかも自分は美的徳を発揮できている」と思わせ、「美的徳を発揮するためには流行に乗り遅れてはならない」と思わせることで、新たな商品を買わせる。この文化における流行は、美的徳の発達を妨げるようにデザインされている。そのためファッション批評が芽吹く兆しもない。なぜなら、美的徳を発達させるような仕方でのコンセンサスを破壊しようとする方向で実践が促されるようにされているからだ。批評とは、美的徳を涵養するための豊かな土壌となるが、あいにくのところ、流行はそもそも批評を必要としないのだから。ある徳が発揮されるためには、その徳が発揮できるような環境やコミュニティがなければならない。だが、ファッションにはそうしたコミュニティが存在しない。

いや、と反論があるかもしれない。「ファッション文化には、確かに流行は存在する。しかし、流行に合わせて新しい自分なりのスタイルを発見する営みにおいて発揮される「機敏さ」はとても魅力的で独自の美徳なのである」と。なるほど。では、人びとが本当に「機敏さ」のような美的徳を楽しんでいるのかどうか、それを身に着けようとしているのだろうか。人びとは選んでファッション文化における美的徳の瞬発力を鍛えるようなゲームに参入しているのではなく、参入を余儀なくされているだけであるように思われる。そういうわけで、流行を追うタイプのファッション文化は、美的徳の発揮の場としては崩壊しているように思われる。それゆえ、ファッション文化は美的徳を発揮する場所ではない。

むしろ、人びとは、「流行に遅れている」とみられないために様々なアドバイスを必要としている。美学においては、そうしたアドバイスは美的証言(aesthetic testimony)と呼ばれる(Robson 2012; Hills 2019)。美的証言は、「これが美的に優れている」「これが美しい」「これが抜け感がある」といった美的な事柄に関する証言である。美的証言の発信は、ファッション雑誌がこれまで担ってきたし、最近では様々なSNS、とりわけYouTubeやTikTokがその役割を担っている。

それらの美的証言は、人びとが自分ではしきれない美的判断を肩代わりしてもらうために行われているのだ。美学者のマデライン・ランソムは、美的証言の問題は、人びとが自らの美的判断能力を使うことなく、誰かの証言に頼って美的判断をすることで、美的自律性を放棄しているのであり、それは、徳認識論的な枠組みから言って、自ら行う美的判断を放棄し、その美的判断の達成を誰かに移譲してしまっている点にある、と指摘している(Ransom 2019)。

この指摘を応用することで、私たちはファッション文化のパラドクスに気づくことができる。すなわち、ファッションにおいては、いっけん、おしゃれであることが賞賛され、おしゃれな人はおしゃれ判断を行い、美的徳を発揮しているようにみえて、人びとはそれを美的徳の高い人として模範的に理想とすべきだとされているかもしれないが、しかし、人びとが実際に求めているのは、美的徳の発揮ではなく、ダサいと思われないため、流行に乗り遅れてはいないと思われるための効率的な選択である。人びとは自らの美的徳を発揮できる環境にはない。

ふつう徳の発揮と涵養には一定の修養が必要だが、時間やコミットメントがない場合、それをイージーに叶えたいと人は思う。それゆえ、人びとは「いま何が流行っているのか」をリサーチして、その正解に向かって自分の可能な資金や時間を使って近づこうとする。なるほど、人びとが自分で自分の美的徳を働かせてその正解に向かうことができれば、確かに理想的だが、実態はそうなっていない。

実際のところ、この構造はファッションの批評が盛んではない理由そのものである[6]。ファッションの服装の何がよくて何がよくないのかは、私たちがファッションの衣服やアクセサリをじっくり眺めていても分からない。既にこれが流行である、流行ではない、という美的流行の視点が入りこまざるを得ない。それゆえ、私たちは、自分たちのセンスで考えることが難しい。いや、そもそもそのようなことができないようなジャミングがつねになされていると言ってよいだろう。それゆえ、ファッションの場合は、衣服をみても分からない。それが流行なのかどうかを誰かエキスパートの証言を聞いてからではないと判断できなくなってしまっているのだ。これは美的徳の発揮とは程遠い文化である。ファッションにおける純粋な美的判断はそもそものところ存在しないように思われる。

つまり、ファッションの消費者は、つねにファッションの美的判断から疎外されている。美学者のニック・ザングヴィルは、こうしたファッションの疎外を一人称的な視点と三人称的な視点のずれから説明している(Zangwill 2011)。流行のファッションアイテムたちは一人称的な視点からみれば、とても自然に「ファッショナブル」にみえる。あたかも夕日が美しいのと同じように、流行のアイテムは太古の昔から「ファッショナブル」であったかのようにみえる。しかし、私たちは同時に、三人称的な視点からみれば、その「ファッショナブル」なアイテムが人為的に、専門家たちによってデザインされていることに気づいていないわけではない。「一人称の経験を三人称の視点から考えるだけで、その経験から疎外されてしまう」。つまり、私たちはファッショナブルなアイテムが人為的なものであることを薄々分かっているのに、それがファッショナブルにみえる、という自分の美的判断からの疎外を経験しているのである。

哲学者のティン・チョー・ラウが提示する「美的ノーミー(aesthetic normie)」概念は、みせかけ美徳消費の問題をより一般的な観点から理解する手助けになる(Lau 2024)。美的ノーミーとは、深い美的探究や批評を経ず、流行のアイテムに飛びつく振る舞いをする消費者である。彼らは美的により意義深いアイテムを探索するというよりも、時間やコストの関係上、他人とのつながりを求めるために、流行の人気の美的アイテムを鑑賞することを選択する。あるいは、挑戦することを恐れて、馴染のない美的アイテムには近づかない[7]。ラウの指摘は、ファッション文化にこそもっともクリティカルに当てはまるだろう。より挑戦的なファッションでさえも、流行のなかで演出されているのだとしたら、私たちには何をしようもない。ファッションは美的徳の観点から言えば、美的徳を涵養することを妨害することで消費を生み出すという、美的徳の視点からいって堕落した文化なのである。

なので、美的ノーミー本人たちは美的徳がなく、美的悪徳を身に着けているという点で悪い。しかし、彼らだけにその責任をとらせるのも考えものだ。認識論においても、本人にだけ知的悪徳の責任を押し付けるのではなく、社会全体が知的悪徳を生み出している点に注目し、認識的環境に対する改善の必要が議論されている(cf. Levy 2023)。同様に、美的環境に対する批判を怠ってはならない。ファッション文化というものが、美的悪徳を生み出す仕組みを備えているのだ。それがファッションノーミーたちを生み出すことで利益を得ている[8]。以上のアンチ・ファッション論から、私は自分を「アンチ・ファッショニスタ」だとみなしている。仕掛けられた流行が嫌いであり、人工的な流行には美徳を腐らせる作用があると考えている[9]

その他の美徳消費:ガジェットとケアとガチャ

以上の議論を踏まえて、3つの消費文化について、美徳消費の観点から分析を加えてみよう。

第一に、ガジェット文化もファッション文化に似て、流行の激しい消費文化のように思われる。私が興味深く注目しているのは、使いづらい楽器である。OP-1(field)(Teenage Engineering)と呼ばれるシンセは大変高価である。見た目はとてもおしゃれで可愛らしい。しかし、その機能は非常に貧弱である、とDTMユーザーのマイケルはYouTubeで指摘する。さらには、マイケルは、無料であったり、とてもチープなソフトでOP−1よりも便利で高機能な機材を揃えることができる、と事細かに説明してくれているのだ(Michael 2022)。チープであったり無料のソフトウェアで音楽をつくるオルタナティブな方法を提案するマイケルこそが、美的な「創造性」の美徳を発揮していると言える。彼は、私たちに高価なものなしで表現をする可能性を与えてくれる。

先程も指摘したように、美徳とは学ばなければならないスキルである。よい演奏ができる、という美的徳は、様々な修練を経てのみ身につけられる。そして、それを身に付けるためには、「堅実さ」「粘り強さ」といった認識的徳が必要になる。だが、人びとはそうした修練を行うことをスキップしたいと思う。なんとなくよい音楽をしているかのようにみせたい。もちろんそれはそれで「開放性」の徳と結びつくかも知れない。OP-1の悪さとは、それが、高価であることによって「何かができるんじゃないか」という期待を抱かせるところにある。Teenage Engineeringの作り出す製品は、音楽をしてる感を出したいけど地道に手を動かして練習したくはないが小金はある、見た目はおしゃれ好きな人々からはした金を巻き上げているのだ。

加えて、ケアをめぐる議論をみてみよう。私が別の場所で論じたように、アイドルの応援もまた「ケア消費」と呼ぶべき、ケアの美徳の発揮を約束するものの、そして、実践者はできていると感じているものの、実際は非常に問題のあるケアの発揮にとどまるか、そもそもケア的ではないような消費しか見当たらないという意味で、この文化もみせかけ美徳の発揮の場なのである(難波 2024)。どういうことか。人間として、私たちは誰かをケアしたい、という根本的なニーズがある。人はケアせざるを得ない生き物なのだ。そして、ケアすることで自分自身も開花する依存的な生き物なのだ。だが、現在の社会はケアする機会を私たちからどんどんと奪っているのかもしれない。それゆえに、ケアする機会を販売するビジネスがここまで広がってきたのではないか——と考えている。すなわち、アイドル文化やVTuber文化とは、私たちにお金を払わせることで彼らをケアする機会を与える「ケア誘いビジネス」なのである。こうしたケア誘いビジネスはこれからもどんどんと拡大していくと私は予想する。私たちはますます「ケア労働者=消費者」であるような消費労働者としてケア誘いビジネスの中に参入していく(cf. 大塚 2021)。ここでケアとは、間違いなく、私たちの倫理的徳の一つであり、アイドルビジネスとは、ファンがケアという美徳を発揮する場を提供することで消費を生み出す文化なのである。

最後に、ソーシャルゲームにおける強さをめぐる問題は消費と美徳の関係からうまく整理できる。近年、多くのソーシャルゲームがガチャ機能を搭載している。プレイヤーは仮想通貨や現実のお金を使ってランダムにアイテムやキャラクターを入手できる。このシステムは、好きなキャラクターを手に入れるために何度もガチャを回すことを促し、結果的にゲームの収益を支える仕組みとなっている。あるいは、ゲームにログインした初回のみ、レアなアイテムが出やすかったり、無料で何度もガチャにトライできるがゆえに、人びとは望みのレアアイテムが出るまで何度もゲームをリセットして最初から始める「リセマラ」に勤しんだりする。ガチャ機能は、たんにアイテムへの射幸心を煽るだけではなく、プレイヤーとしての「強さ」への憧れを生み出す。それらの(偽の)美徳の発揮をゲーム内で行わせるある意味で「美徳機械(virtuous machine)」として機能している。このシステムはプレイヤーの美徳を利用し、過度な消費を促す。ガチャの確率は低く設定されており、望む結果を得るためには多額の出費が必要となることもある。これは経済的な負担を増大させ、依存症を引き起こすリスクも伴う。

3 みせかけから実質的な美徳の発揮へ

私が本稿で考えたかったのは、みせかけ美徳消費の悪さだ。みせかけ美徳消費を批判する意義は、個人の美的徳の成長の阻害にある。以上で指摘したような消費文化は、そこに美徳がないのに美徳があるようにみせかける実践であり、当人も美徳を発揮していると騙されている。確かに当人たちが気持ちよくなっているのなら外野のとやかく言うことではない、という言い方もできるかもしれない。しかし、実際には発揮できていない美徳を発揮できたと勘違いすることで、人びとが得られたであろう美的徳の発達と発揮によって幸福を得る機会が奪われている。これは批判に値するだろう。美的徳が私たちの幸福を構成する重要な一部だとすれば、それを模造品をすり替えることで利益を得ようとする消費文化は人びとの幸福を搾取していると言える。まとめるなら、みせかけ美徳消費は以下の3つの点で問題がある。

(1)消費で美的徳を発揮するためには、費用や時間がかかるように仕組まれている。もしくは、費用をかければかけるほどに美徳を発揮できる仕組みになっている(リセマラ、ガチャ、課金、ファッション、投げ銭、トップオタ)、

(2)しばしば美徳の発揮できる場所が持続的ではない(サービス終了、解散、卒業)、

(3)美的徳の基準が恣意的にスライドさせられる(「環境」の変更、流行)。

消費文化の少なくない部分は、美徳の発揮を約束しながらも、その約束を永遠に先延ばしし続けることで消費者の消費行動を促し続けることができるのだ。

みせかけ美徳消費と、実際に美徳を伴う消費はどう区別可能だろうか。目安となる指標として以下が挙げられる:

(A)自律性:消費者が流行や他者の証言に追従せず、自らの判断で美的価値に応答できているか。

(B)持続性:一過性の流行に踊らされるのでなく、長期的な美的判断力や技能の発揮につながるか。

(C)相互批判性:消費者同士が批評的対話を行い、価値観を多面的に検討し合えるようなコミュニティがあるか。

これらの要素が欠如している場合、そこにはみせかけ美徳消費が横行している可能性が高い。

では、どのようにしてこの美徳消費の問題を解決することができるのだろうか。以下ではスケッチを示してみたい。美徳消費の健全化に取り組むためのアプローチとして、以下の2つが考えられる。

(α)美徳消費をより実質化する:より実質的な美徳消費を可能にするようなプロダクトやサービスを提供する。

(β)消費なしの美徳を構想する:消費を必要としないタイプの美徳の発揮を構想する。

(α)は、ある程度有望なアプローチに思える。美徳消費は引き続き行われるとしても、より中身のあり、持続可能な仕方で美徳が発揮できるようなサービスやプロダクトを作ることで、人びとの幸福に寄与する。とはいえ、持続可能な美徳の発揮という現象と、より多く購入され、消費され、企業に収益をもたらしてくれるプロダクトやサービスの相性は一見したところ悪いように思われるため、美徳発揮のための仕組みやシステムのデザインのセンスが大いに求められるだろう。

(β)は、ラディカルなアプローチである。消費は、その本性からして、美的徳をはじめとする美徳の発揮を妨害するのであり、消費以外の場での美徳を構想すべきだ、とするものだ。それは具体的には、例えば友人関係であったり、何かを考えることであったり、子どもや親をケアすることであったりするかもしれない。しかし、いまのところ、消費を介さない美徳の発揮というものを少なくとも私はまだうまくイメージすることができていない。私は、この最後のアプローチに魅力を感じているが、しかし、その内実をまだ掴めていない[10]

ともあれ、いずれの道を取るにせよ、消費がいかに美徳と絡まり合っているのかを考えることからしか美徳消費批判は始まらないだろう。本稿に続いて、あなたがファッションについての批判を推し進めたり、あるいは別の美徳消費文化について論じてくれることを期待する。

さて、次回は、美的徳が美的悪徳の発揮に変質する別の文化として「清潔感」であったり「整形は努力」という言葉に代表されるような、見た目と性格・美徳を結びつける実践に対する批判を行うつもりだ。分かりやすい言葉で言えば、ルッキズム批判ということになろうか。しかし、問題は見た目で人を差別しているだけではないかもしれない。見た目から人の「性格」を差別している、すなわち、「性格差別」の問題があるのかもしれない。いまだ十分に掘り下げられていないこの差別について向き合ってみよう。新たな視点から美的徳と差別の問題に迫りたい。


参考文献
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[1] さらに、近年の消費論の見取り図を得られる『ロスト欲望社会』もおすすめしたい(橋本 2021)。関連して、『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』も興味深い著作である(橋本2021)。
[2] 美学者のサイトウ・ユリコもまた、消費者美学を論じているが、私の関心とはかなり異なっている(Saito 2022; Shapshay, Tenen, Saito 2018)。
[3] 私の関心から言っても、私はポスト消費の世界をみてみたいと思っている。いま私たちがしているような消費行為をしなくなった未来はどんなふうな未来なのかを考えているのだ。というのも、この連載の第一回では、労働廃絶論について書いたのだが、労働のない世界では消費のありようもかなり変わりそうに思うし、もしかすると、ポスト労働のシナリオの一つは消費のない世界かもしれない、と思うからだ。もちろん、労働のない世界でも消費はありえるだろうが(消費のない世界で労働はディストピア以外ではありえなさそうだが)。ともかく、消費について考えると、いろいろな反省に役立つだろう。とりわけ、消費について回る美的な側面を考えることには価値がある。
[4] そもそも、「消費」とは何だろうか。アナキスト、アクティヴィストのデイヴィッド・グレーバーは「消費について書く人々は、ほとんどの場合、その用語を定義していない」(Graeber 2011, 491)と言う。その通り。大量消費、性的消費、応援消費、人びとが使う「消費」はいろいろあれど、その内実はよくわからない。それだけではなく、研究者たちが「消費」と書くときも、消費についての定義はない。もちろん、一般に定義がないことに問題がないことも多いが、こと消費となると、消費を批判したり分析したりする以上、どのようなタイプの消費を扱っているのか、一つの考察でぶれないことが重要だろう。
というのも、例えば、「ブランド消費は悪いけれど、カヌーやハイキングのような体験は消費じゃない。だから、後者は消費を加速する資本主義を批判する可能性があるのだよね」と言っている文章があるとしよう。しかし、カヌーにせよハイキングにせよ、やっぱり道具を借りるか買わないといけないし(消費だ!)、交通機関や車を使うし(消費だ!)、その場のレストランかどこかでご飯を食べるわけだし(消費だ!)、どうも消費とは無縁というわけにはいかなさそうだ。というわけで、(1)あるものが消費である。(2)別のものは消費ではない。(3)消費は悪い、非消費は悪くない。それゆえ、非消費はえらい、といった(よくある)論法は、消費概念を縦横無尽に伸縮させているからこそできる芸当なのだ。なので、少なくとも何かを論じようとするとき、意識的に定義をしておいた方が、論者本人にとっても混同的な議論を進めないで済むという意味でフレンドリーだろう。
ここで参照できるのは、近年の消費研究における実践的転回である。これまでさきほどいろいろな思想家を挙げてきたように、消費というのはとにかく文化的な意味にばかりフォーカスした、ともすれば机上の空論的な分析に偏っていた。そうではなく、人びとが実際のところ「消費」と呼ばれる過程で何をしているのか、その実践の総体をもってみていこう、という態度が消費の実践への注目として共有されている。そこで、エヴァンスは、消費のプロセスを3つのAと3つのDから分析している(Evans 2019; cf. Warde 2005; Warde 2010; Warde 2014)。みてみよう。
  • 取得(Acquisition):交換のプロセスと、人々が消費する商品、サービス、経験にアクセスする方法。
  • 流用(Appropriation):人々が商品、サービス、経験を手に入れた後にそれらをどうするか。「たとえば、ある商品が誰かにとって特別な意味を持つようになる場合、つまり、自分のスタイルを際立たせるために大切にされる衣服や、大切な人と共有した経験を思い出させてくれるものとして役立つ場合、その商品は「流用された」と言える」(Evans 2019)
  • 鑑賞(Appreciation):消費から喜びや満足を得る方法。
  • 処分(Disposal):商品、サービス、経験が政治、技術、経済の異なる仕組みを通じて取得されるのと同様に、それらは無数の方法で処分される、取得の対極にあるもの。
  • 剥奪(Divestment):商品やサービス、経験がパーソナライズされ、馴染んでいくように、これらの愛着もまた失われていきうる。流用の対極にある。
  • 価値低下(Devaluation):鑑賞と対をなす。消費によって欲求やニーズが満たされ、喜びや満足が得られるように、商品やサービス、経験もまた、その効果を失う。「経済的価値は時間の経過や消耗によって失われることがあるが、文化的意味の喪失もまた象徴的な失敗につながる可能性がある。例えば、アクセスが困難な旅行先を頻繁に訪れる経験は、より広く、より簡単にアクセスできるようになれば、価値が低下する可能性がある」(Evans 2019)
これらのリストが意味するのは「消費」という実践をこの6つのプロセスが組み合わさってものとしてみよう、という新しい提案だと言える。一見したところ違和感があるかもしれない。でも一つずつみていくとけっこう納得のいくものだろう。やってみよう。
では、まず、あなたがアイドルを「消費」することにしよう。何かを消費するプロセスには、必ずアクセスの実践が関わっている。典型的には金銭と引き換えに、ものを買う。このとき、取得という消費の側面が実践されている。アイドルのCDを買ったり、チケットを買ったり、サブスクを聞いたり、YouTubeで観たりするとき、お店やプラットフォームにおいてお金を払ったりしている。あなたはアイドルにアクセスする「取得」を行った。
次に、あなたは、アイドルの音楽を聴いたり、ライブ映像を観たりして、涙を流したり、元気をもらったり、寄り添ってくれるような気持ちになったり、商品を「使って」いる。あなたは「流用」を行った。
そのとき、あなたは、このアイドルのよさを味わってもいるし、もしかしたら他のアイドルに比べて、このアイドルを推す自分の審美眼に自信を感じたりしているかもしれない。いろいろな美的判断を行いながら、あなたは「鑑賞」もしている。
あなたは、しかし、何かを買うばかりではない。何かを買ったら、捨てる可能性も高まる。あなたは、買いすぎたアイドルのCDを捨てるかもしれないし、誰かに譲るかもしれない。あなたは、消費実践のなかで必ず何かを「処分」している。
さらには、アイドルに突然スキャンダルが発覚し、あなたは好きだったアイドルの曲を聴いてももはや励まされることがなくなっていってしまった。あれほど流用できていたのに、もはやアイドルのプロダクトの意味が失われていく。これがあなたに起こる「剥奪」だ。
最後に、アイドルはもはや流行から取り残されて、価値を失っていく。周りに応援しているファンはいなくなっていったり、アイドル自身が卒業して、誰もあなたがかつて愛していたアイドルに価値を見出さなくなる。「価値低下」が起こってしまったのだ。
このように、「消費」という言葉が意味する私たちの消費実践には、少なくとも3つの価値の生産と3つの価値の失いが関わっていることが理解されるだろう。
では、今回、私が注目したいのはどれか。とりわけ、取得と流用における消費行為の美的行為論を展開しようと思う。
[5] もっともはっきりした例だと、ビデオゲームはまさしく、こうした美的行為の提供をその作品の価値としている。他にも、料理は美的行為であろうし、スポーツなどもそうであろう。同じように、消費もまた、消費という行為をすることで、同時に人びとが美徳を発揮する機会ともなっている。この点は見逃されてきたように思う。
[6] もちろん、興味深いファッション批評の取り組みもある。たとえば、『ファッションは語り始めた』はいまなお非常に価値ある論集になっている(西谷 2011)。しかし、私のみるところ、これは芸術的な意図をもったファッションブランドデザイナーの思想の批評であり、よりふつうのファッションアイテムの批評は本稿で論じたように不可能であるように思われる。また、水野大二郎と蘆田裕史が編集を行うファッションの批評誌『vanitas』(アダチプレス)にも興味深い論考が掲載されており、私の議論への反論の根拠がもしかすると多数見つかるかもしれない。
[7] こうした態度は、ルッキズムにつながりうる、という興味深い議論をラウがしているが、これは次回に扱うことにしよう。
[8] 私は、消費文化を代表するファッションをとりわけ憎んでいるというわけではない。だが、ファッションは消費文化がいかにして美徳を掘り崩すのかを明確に示す例として魅力的であるがゆえに、今回取り上げてみた。ハンソンによれば、哲学者はファッションを憎んできたとされるが、おそらくは私も、その一味に数え入れられてしかるべきだろう(Hanson 1990)。
[9] とはいえ、ファッション研究者の井上雅人が指摘するように、流行にも一定の社会的意義があるのかもしれない(井上 2019, 282-287)。しかし、その効能が美的徳への攻撃と釣り合うかどうかは議論可能だ。
[10] もしかすると、美徳消費を回避するために、労働において美徳の発揮を可能にする、という回避戦略もあるかもしれない。現時点でもすでになされているアプローチに思われる。社員のエンゲージメントを高めることで、より「働きがい」を増やし、そうすることで、美徳の発揮場所を増やそうとするものだ。また、諸外国で流通しているらしい「イキガイ」概念はまさしく、労働における美徳発揮を奨励するものだろう。だが、このアプローチには、本連載の第一回で指摘したような、労働の正当化の美学に美徳の発揮が用いられる可能性があり問題があると考える。

第1回 労働廃絶宣言:労働を解体するための感性論

倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。

はじめに

あなたは、賃金をもらわなくても、今やっている賃労働を続けるだろうか?

あなたはどう答えただろう。おそらくほとんどの人が、「NO」と答える。なぜなら、賃労働はそもそも賃金をもらうためにしているのだから。いまの仕事が嫌いな人は言うまでもなく、いまの仕事が好きな人も、賃労働をお金を貰わずともしたくてしているわけではない。様々な必要に迫られて仕方なくやっているのだから。自分の従事している賃労働が好きな人はもちろんいる。私も比較的好きである。だが、それは、賃労働をお金を貰わなくてもやるくらい好きだ、ということを意味しない。貰えないなら私はやらない(もちろん、お金を貰わなくても賃労働を続ける人もいるかもしれない)。

では、なぜ私たちは賃労働をせねばならないのか。私たちに賃労働を迫る代表的な2つの要請がある。第一に、生活の必要、すなわち賃金を稼がなければならない(なぜなら生活が立ち行かない)からである。そして、第二に、承認の必要、すなわち「一人前」の「社会人」にならなければならない(親に扶養されているあいだは「一人前ではない」)からである。人々は、ほとんどの場合、このいずれかの外的要請によって労働の開始を余儀なくされる。

前者はとてつもなく分かりやすい。働かなければ食べていけない。なぜなら、衣食住すべてにお金がかかるから。そして、お金を稼ぐには働かなければならないからである。

後者も少し考えれば、誰しも多かれ少なかれ思い当たる節があろう。たとえ親の扶養によって働かなくとも食べていけるとしても、働いていない人は社会的には軽んじられる。考えてみれば不思議なことに、働いていない、というだけで、その人は他人から馬鹿にされたり、「大した人間ではない」と判断されるのである。別に何も悪いことはしていないのに。賃労働というかたちで働いていなくても、社会にとってよいこと(介護・育児・コミュニティのケア)はたくさんあるのに。そして、社会と関係なく、別に何もせず生きていていいのに。

このように、私たちは労働に駆り立てられる。これは現状回避不能である。だとしても、労働に駆り立てられている現状は私たちが望める最高のものなのだろうか。

私はあなたにこう問いかけたい。「人類はこれから先もずっと強いられた労働をしなければならないのか?」。

私はこう答える。「人類が労働をする必要はない。労働を終わらせた方が人類にとって善い」と。

私は「労働廃絶主義者(labor abolitionist)」である。私は、すべての賃労働を終了させるべきである、と主張する。出来るだけ早く。速やかに。なぜなら、賃労働は、私たちから人生の可能性を奪い、喜びを奪い、世界から富を奪うからだ[1]

労働はいろんな約束をする、と哲学者のマイケル・チョルビは言う(Cholbi 2023)。第一に、労働はやりがいを提供するという。でもやりがいのある、真に意義深い仕事はごく一部だ。哲学者のジョン・ダナハーは労働が幸福を作り出す可能性を認めつつも、次のように批判する。

ほとんどの先進国の労働市場は、多くの人々にとって仕事を非常に悪いものにする均衡パターンに落ち着いており、技術的・制度的な変化の結果として悪化しており、その悪いものを生み出す性質を取り除くような改革や改善は非常に困難である。(Danaher 2019, 54)

多くの労働は長時間労働、労働によるスケジュールの支配、楽しみのためではなく、労働の疲れを癒やすための余暇の必要(月曜日からはじまる労働を忘れるための痛飲のように)などによってしばしば社会的疎外を作り出す(Bousquet 2023)。あるいは、やりがいのあるとされる労働(教育、カウンセリング、病人、若者、障害者のケアなど)の多くは、最も賃金の低い職業のひとつである(Cholbi 2023)。

第二に、労働は価値を生み出すという。しかし、そもそも労働が邪魔さえしなければ私たちが享受することのできた無数の価値が見逃されている。フルタイム労働が年間1,500~2,500時間奪っていく。余暇、睡眠、運動、家族生活、市民活動、地域社会への参加などに充てることができた(Rose 2016; 2024)。労働時間が私たちから奪う機会として、とりわけ、私たちにとってとても重要なはずの「民主主義を営む機会」も含まれる。新自由主義資本主義下の現在の労働中心社会が、民主的な参加と市民権に制約を課しているのだ(Crandall et al. 2024)。当たり前のことだが、忙しく働いていればいるほど、デモに参加する機会も、選挙について学ぶ時間も、社会の未来について誰かと話し合う時間もなくなってしまう。さらに、やればやるほど世界を悪くする労働もごまんとあることも付け加えておこう。間違いなく、労働は環境破壊の最も優れた手段である。わざわざ家から移動してモビリティを稼働させ、オフィスに大量の電力を供給させることで、労働は地球規模の気候変動の原因となる炭素排出量への貢献をしてしまっている(James 2018)。労働はネガティブな価値を生み出しうるし、ポジティブな価値を作り出すとしても、労働が引き起こすネガティブな帰結と釣り合っているか怪しい。

労働は空手形ばかりをちぎって寄越すけれど、そのどれもがゴミ屑なのだ。わたしはそんな詐欺そのものである労働という現象が嫌いである。憎んでいる。弑するべきだと思う。

本稿は、労働廃絶に向けた美学的取り組みである。以下、次の順番で論じる。第一に、賃労働そのものは無価値であること、そして、無価値だからこそ、他の様々な価値に「寄生」することで賃労働へと人々を駆り立てようとすることを指摘する。第二に、わけても「美的なもの」に寄生することで、賃労働は自らの価値を正当化していることに注目する。この美的正当化の実践を「使命美」と「勤勉美」の概念から分析することで批判する。第三に、労働を廃絶するために、私たちができることを提案する。私たちは、労働を不必要とする制度的な仕組みをデザインすることに加えて、労働を美的に正当化する実践を分析し批判することでも労働廃絶へと近づくことができる。最後に労働廃絶は消費批判ともリンクしていることを指摘して次回予告とする。

1 労働の無価値さと寄生するまなざし

労働[2]はそれ自体の内在的価値をもたない。社会学者のリュック・ボルタンスキーと、エヴァ・シャペロはこう言う。「資本主義は、多くの点で不合理なシステムである」。

賃金労働者は、自らの労働の成果に対する所有権を失い、他人の部下として働く以外の選択肢はもはやないと希望を失ってもいる。資本家は、終わりのない飽くなきプロセスに自らが縛り付けられていることに気づいている。この両者にとって、資本主義のプロセスに関わることには、正当性が著しく欠如している。資本主義的蓄積には多くの人々の献身が必要だが、実質的な利益を得るチャンスがある人はほとんどいない。このシステムに関わりたいと思う人はほとんどおらず、むしろ明確な反感を抱く人もいるだろう。(Boltanski & Chiapello 2005)

そのため、「人々が資本主義にコミットすることを正当化し、そのコミットメントを魅力的なものにするイデオロギー」が必要になる(Boltanski & Chiapello 2005)。これを彼らは「資本主義の精神」と呼ぶ。言い換えれば、私たちに労働を必要だと思わせ、労働に取り組むことを動機付けるような価値を外部から「取り込む」必要があるのだ。取り込みには歴史的な流行り廃りがある。マックス・ヴェーバーによる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(ヴェーバー 1989)で描かれたような特定のキリスト教的宗教的価値を一因として加速した資本主義は、やがてそれ自身の制度と環境を構築し、19世紀末の西洋では、進歩や地域社会からの解放という価値をアピールしたり、フランスの事例においては、1940年から1970年にかけてキャリア形成と成長の魅力、1980年以降は自己啓発的の価値(Boltanski & Chiapello 2005)などを取り込んできた[3]。取り込まれたいずれの価値も流行や濃淡、地域差はあれども現在に至るまで採用され続けているものも少なくない(cf. Hunnicutt 2024)。

本稿で私が注目したい価値の取り込みの種類は「美的なもの(the aesthetic)」の取り込みである。とりわけ、個人の人々が労働に価値を見出すために、どのように美的性質や美的価値を取り込み、自分の趣味判断能力を変形させているのか、その実態とヴァリエーションに焦点を当てることである。

まずは、労働の中で動く私たちの心のゆらぎをモデル的に記述してみよう。私たちのほとんどにとって、労働はつらい。ならば、なぜ人は適当に働けないのか。ワークライフバランスを保ち、賃金分の労働はしながら、成果をほどほどに出しつつ、きっちりと仕事をしながらも、自分の仕事以外の時間がもっとも重要である、という適当な、いい塩梅の態度で働けないのか。たとえば、夜にメールが来たら無視したりする。そうすることはなぜできないのか。かんたんなはずだ。よし、適当に働こう、と思えばよい。適当に働ければいいのに、なぜ人は適当に働くことが難しいのだろうか。

それは、「ちゃんとしていない」と判断されることに私たちが耐えられないからだ。私たちは、ちゃんとしなければならない、という美的規範を内面化している。適当に働くことは、必然的に「ちゃんとしていない」という評価を与えられることを意味する。しかし、ちゃんとする、とはなんだろうか。ちゃんとすること、それは一つの態度であるが、なぜ労働においてちゃんとしていないといけないのだろうか。

確かに、雑な仕事をされると、同僚やクライアント、消費者として困る。ある人が適当に働いてそのしわ寄せが来たとしよう。それに怒りを覚えるのはごく自然だ。これを「労働の成果において問題がある」と整理しておこう。成果における適当さは問題である。なぜなら、労働はその成果を生み出すことを目的とする活動だからだ。目的を果たせていないことは非難可能だろう。

他方で、その人が仕事をきっちりとやっていても、身が入っていないように見えたとしたらどうだろうか。私たちは不満を覚えるだろうか。きっと、そうだろう。きっちりしていても、適当に働く人を目の当たりにしたとき、おそらく、私たちはその人を馬鹿にする。軽蔑する。大人としてしっかりしていないし未成熟だと非難する。心のなかで。あるいは、仕事おわりに同僚とこっそり。

なぜだろうか。なぜ、私たちは、実質的な仕事の成果ではなく、見せかけかもしれない仕事の態度を評価することになるのか。一つには、労働の成果が簡単には測れなくなっていることに由来する。ホックシールドによる著名な「感情労働」をめぐる研究(ホックシールド 2000)で指摘された以上に、現代では「特にサービス業務や感情やコミュニケーションを伴う業務においては、個人の態度や感情の状態は、共感力や社交性と並んで重要なスキルであると考えられている。実際、従業員のスキルと態度の区別は難しくなっている」(Weeks 2011, 70)。哲学者のカティ・ウィークスが続けて引用しているように、ロビン・レイドナーは、いまや「 労働者が組織の利益のために自らの態度を操作し表明する意欲と能力は、職務遂行能力の中心である」(Leidner 1996, 46)と指摘する。加えて、ダグ・ヘンウォードによれば「雇用主の調査によると、上司は、従業員の能力ではなく、自己規律、熱意、責任感といった従業員の『性格(character)』について、注意を払っていること明らかになっている」のであり、「労働者は、自分自身のよりよい搾取の設計者となることが期待されている」(Henwod 1997, 22)。

その人がどれだけ働いたからあるプロダクトやプロジェクトがうまくいったかどうかが明確に分かる労働は案外と少ない。しかし、態度ならば目に見えて分かる。例えば、私はリサーチを仕事にしていて、リサーチの出来不出来は私にとっては明確だが、しかし、それがどのくらい使えるかどうかというのは、私たちの予測能力を遥かに超えている。それゆえ、労働の多くは、明確な成果というよりも、他の説得力、すなわち態度が重要になってくる。これは、他の職業でも多かれ少なかれ共通だろう。その態度とは「ちゃんとしている」かどうかになってくるのだ。どう成果を出すか、というアウトプットだけではなく、その過程に私たちは焦点を当てる。勤勉にやっていればたとえ成果が微妙でも私たちは許してしまう。逆に、成果が出ていても勤勉でないようにみえると、私たちは不満を覚える。「行動評価の代理指標のひとつとして性格テストが増加」しているのもこの傾向の現れだとみなせる(Weeks 2011, 71)。

それゆえ、極端に言って、私たちは、仕事の成果よりも、仕事振りにおいて同僚や仕事相手を評価している。そして、その評価は自分自身にも跳ね返る。いくら適当に働けばいい、と言ってみても、適当に働いている、と思われることを私たちは極度に恐れる。労働に対して身を入れることこそが、大人としての美学を遂行できていることになるからだ。逆に、仕事に身が入っていない人を私たちは軽んじる。

今まで私がしてきた話は労働の論理の話だろうか。そうでもあり、そうではない。もしビジネスの論理の話で終わるのだとしたら、私たちは、仕事の態度ではなく、その成果や影響などに基づいて労働の目的を達成していない、と正当に批判されるだろう。ビジネスが成果を生み出すことを目的としているのならごく自然なことだ。ビジネスの目的は何らかの効果をもたらすことであり、その効果をもたらせていないことは、内的に批判される。それは合理的である。対して、仕事振りを私たちが評価している。それは、ビジネスの論理の話からはみ出している。いかに効率的に、効果を生み出すか、というビジネスの論理の話ではなく、独特な美的な論理の話になってくる。美的なものの問題ということになる。

ここで私の議論の助けとなる概念ツールとして、適応的選好(adaptive preference)という概念を用いたい。これは、不公平な状況下で限られた選択肢の中から形成された選好を意味する。なぜそのような選好になるのか。個人が特定の状態を好むのは、代替案が達成不可能または考えられないと認識しているためである(選好とは、その人の欲求の好みである)。私たちは、自分たちで何かを選ぶ。しかし、限られた選択肢の中から、しかも、自分が望んでいないような状況下で選ばされることもしばしばある。自殺の哲学や哀しみの哲学、そして、労働の哲学を牽引するユニークな哲学者、マイケル・チョルビは、「労働の欲求は適応的選好である」と主張する(Cholbi 2018a)。

なぜそう言えるのか。第一に、現代社会では、労働が個人のアイデンティティと社会的地位の中心的な役割を担うようになり、労働以外の選択肢は文化的に汚名を着せられるようになった。第二に、経済構造は、物質的および倫理的なニーズを満たすために、事実上、個人を雇用に追い込み、真の自由を制限している。第三に、文化や政策による圧力により、労働以外の選択肢(例えば、労働時間の短縮や非雇用)は実現不可能または望ましくないものとされてしまっている。第四に、多くの労働者は賃金が不十分であり、フルタイムで働いても基本的なニーズを満たすことができない「ワーキングプア」が蔓延している。第五に、長時間労働、高額な通勤費、労働関連の出費、個人の自由時間の減少により、雇用による純利益が減少する。第六に、雇用主は、監視、制限的な方針、従業員の私生活への干渉などを通じて、個人の自由を侵害することが多い。第七に、労働に否定的な側面があることを認識しているにもかかわらず、個人は依然として就業を望む。この矛盾は、労働に対する欲求が、労働の本質的な価値ではなく、社会的な条件付けによって維持されていることを示唆している。このように、人々は、強いられた不公平な状況下で限定された選択肢のなかで「働きたい」と思わされているに過ぎないのだ(Cholbi 2018a)。

さて、チョルビの分析を発想の元として、私は特定のタイプの適応的選好に注目したい。それは、「適応的美的選好(adaptive aesthetic preference)」である。私たちの美的な好みが労働の論理のために奉仕させられ、歪ませられているという事態に着目する。

このとき、適応的美的選好という概念が思考の手助けとなる。私たちは「ちゃんとする」という美的価値を内面化してしまっている。そのために、「適当に働きたい」という自分の欲求を自己検閲してしまい、それを退ける。なぜなら、「適当に働く」ことは「ちゃんとしていない」ため、美的に醜い、と美的判断するような、美的選好が内面化されてしまっているからだ。つまり、私たちの美的判断には、外から何かが寄生しているのだ。あたかもエイリアンのように。私たちのまなざしが、侵食され、資本主義の精神を支えるようなタイプの規範にそぐわない労働態度を批判的なまなざしでみるようになってしまう。

「奴隷の鎖自慢」という発祥地不明のミームがある。素晴らしい概念だ。どういうことか。労働を強いられた私達は、確かに、選好の変形によって私たちは労働から得る苦痛を部分的に減らせるかもしれない。ときには、意義深さを与えてくれることもあるだろう。しかし、同時に、そうした新たに取り込まれた規範をクリアできなかったり、その規範を疑ったり、その規範と実際の仕事のギャップに悩むとき、人は苦痛を感じるだろうし、もしかすると、そうした規範を自分の物語に内在化しているがゆえに、余計に実存的に傷つくかもしれない(cf. Thompson 2019)。さらに、そうした、その変形してしまった選好に基づいて、新たに労働をし始める人々に対するアドバイスをすることで、害悪を再生産していく。「仕事ってのは……」と説教することで、人々に奴隷の美学が叩き込まれていく。奴隷としての喜びを見つけるように、私たちの選好が歪められていく。そして人々は本当に、部分的にせよ、労働に喜びを感じるようになる。

労働は無数の価値をにんじんのようにぶら下げる。しかし、「労働で幸せが訪れる」はすべて詐欺である。労働を終わらせるためには、この寄生するまなざしを解剖し、摘出しなければならない。解毒剤を開発する必要がある。そのために、私はまず、労働の美学の分析に向かう。

2 2つの適応的美的選好

労働における適応的美的選好の代表的サンプルとして、本稿では、使命感と勤勉さに注目する。使命美は、職業上の義務を押し付けられた人々(医療従事者や原発作業員)に対する道徳的要請が行われ(Herzog & Frauke 2022)、極端なケースでは自殺的な行為にまで人々を追い立て、それを称賛する態度とリンクする(津上 2019)。対して、勤勉さはプロテスタンティズムの倫理を代表にするような、しばしば、自己創造やスタイル生成の側面が強調される美的なものである(Malpas 2005)。

使命美

使命美とは、特定の職業、立場に基づいて、困難な状況や報酬を超えた労働を行うことを美的に優れている、という判断によって帰属される美的性質のまとまりである。

たとえば、2011年の福島第一原子力発電所の事故を扱ったドラマ作品(例えば、NETFLIXで配信された『THE DAYS』(2023年))においては、どのような状態になっているか定かではない原子炉に近づかなければならない危険な状況において、志願してバルブを止めに行く作業員たちの姿が描かれた。それらは「勇敢な」姿として鑑賞されてきたことだろう。彼らの行動を美しいものとして味わわない人間が存在するということを多くの人は認識できないだろう。あるいは、2018年来のコロナウィルスの大流行のなかで、医療関係者を「医療従事者」と呼び、彼らを褒め称え、感謝する言説、彼らを美談化する言説が大量に出現した。これらは、人々が彼らの「プロフェッショナルさ」を称揚し、危険な状況で働く人々の姿を「勇敢さ」「奉仕」「責任感」といった語彙を用いて美化する営みである。

使命美の概念分析を行ってみよう。これらは概念的に区分されるが実践上は混じり合う。

(1)危険を顧みない(例えば、英雄的な態度)

(2)他の価値の無視(例えば、家族の制止を振り切る)

(3)大義との接続(例えば、職業上の使命など、より大きなものと自分を接続させる)

原発事故で英雄視された人々は(1)危険を顧みない。どのような状況になっているのか分からなくとも、その場に踏みとどまる。(2)自分が死ぬことで家族がどんな暮らしをすることになるのか想像しない。家族が自分を案ずる不安を想像しない。(3)プロフェッショナルとしての使命と接続して、「雄々しくも」危険に立ち向かう。

この美化のメカニズムは考察する意義がある。美学者の津上英輔は、『危険な「美学」』において、美化が様々な悪を覆い隠す働きを考察している。その中で、特攻と散華の美についての分析が重要になる(津上 2019)。津上は、死という悪と死が反転し、桜の散るさまというポジティブな価値と連結することで、非常に魅力的な美に変わるという動きを分析する。この分析が参考になるのは、労働における労苦もまた同様のメカニズムを持っていることだ。労働において、死に近かったり、非常な骨折りが、反転させられることで美化され、使命美の美しい活動だとみなされるようになる。それは、基本的には、悪を良きものに反転させることで魅力的にする、という特攻と散華のメカニズムと同一のものだろう。

使命美は、危険時に際して、人々をスケープゴート的に称賛する社会のうねりのなかで際立ってみられるが、日常的な場面でもしばしば発生する。職場で、誰かが報酬を超えた責任を負ったり、誰かがシステムの不都合を個人の努力で補填しなければならない場面や、業務の義務を超えて最小限の意味でも英雄的と呼べるような労苦を強いられる場面がある。その際に、そうした行為を遂行する者には使命美があると判断される。

もし、その労苦を避け、やらない、と宣言したとしたら、それは異常事態となる。人格さえ疑われる。なぜなら、特定の職業に就いている限りは一定の使命を果たさなければならないとみなされているからであり、そうしないことは異常であり、美しくなく、吐き気さえ催させるからだ。

では、読者が嫌悪感を覚えるかテストしてみよう。ある原子力発電所の職員を想像しよう。彼は、原子炉の危機的状況を理解するやいなや、家族を連れて逃げ出す。なぜなら、彼は使命美をあまり内面化しておらず、彼の命を危険に曝すような使命を果たしていない、という理由で他人からどう言われようと構わないからだ。彼にとっては、彼の生命と彼の家族の生命が使命などより大切である。そして、原発事故の責任を引き受けるのは、彼だけではなく、日本において電力を用いてきた人々であろうと考える。そういうわけで、彼は彼の引き受ける責任を適切に計算し、その場から一刻も早く離脱する。

こう聞いて、読者のかなりの部分は「彼」に吐き気を覚えるだろうか。彼のことを美的に悪しき人間だと思う可能性は高い。そうした人々は現時点の労働の美的選好においては正しい。現在の労働の美的選好においては、使命を果たしている姿は美しくみえる。人々は、使命を果たしている人を美的に評価する。読者に吐き気を覚えさせるのは、彼が自分たちも守っているはずの美的選好に盛大に違反するからである。それは、部分的にはそうかもしれないが、大部分は道徳的な怒りではないように思われる。

日常生活では確かに特攻させられた人々ほどの苦しみや壮絶さはないかもしれない。しかし、依然として同じ働きが労働における美として蠢いていることに私たちは十分に気づけていない。

私たちの多くは、使命美を自らの適応的美的選好として内面化し、寄生させていく。そうすることで困難な状況にも大した報奨なしに突入していくことができる。確かに、人々から称賛を得るかもしれない(残念ながら、そうした称賛がいかほどの価値を持っているのか私にはさっぱり理解できないのだが)。

神学者であるジョナサン・マレシックの『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』には興味深い議論がある。マレシックが燃え尽きてしまったのは、教師として、そして神学者としての使命美に駆られて、神学に関心のない学生たちに一生懸命に授業を行っていたのがマレシックにむなしさを感じさせ、燃え尽きてしまったのだ(マレシック 2023)。これはまさに使命美が底をついた体験であり、おそらく、燃え尽き体験をする人の多くは、この使命美の適応的美的選好が心身に無理をさせた結果、耐えられなくなったのだろう。それは確かに不幸である。しかし同時に幸いでもあるかもしれない。なぜなら、燃え尽きることで、もはや使命美と縁を切ることができるようになり始めるからだ。マレシックは、大学院生時代に、駐車場でバイトをしていた。そこでは誰も高い理想を持たなかったが、適切な労働環境で、ユーザーである駐車場利用者と挨拶を交わしたりして仕事ができていた。そのときがもっとも幸せだった、とマレシックは言う。駐車場のバイトには燃え尽きる要因は一つもない。この労働には使命美の入り込む隙間がないからだろう。

勤勉美

もう一つの労働の美的選好として光を当てたいのは、「勤勉美(industrial beauty)」である。汗水垂らして働くイメージに代表されるように、倦まず弛まずひたすらやる、という態度の美である。こうした態度は、その態度自体が適切で尊敬すべきものとされる。頑張っている姿がかっこいい、という言葉で代表されるように。奇しくも役所広司主演の『PERFECT DAYS』(2023)評をみると、清掃員の主人公が日々を丁寧に生き、勤勉に仕事をする様に人々は心を打たれているのを観測できる。

先ほどと同様、勤勉さを構成する7つの要素が特定できる。これらは概念的に区分されるが実践上は混じり合う。

(1)継続性:毎日やる。休みなくやる。親が死んでもやる。雨が降ってもやる。こつこつやる (2)ラクしない:地道にやる。プログラムを組んだりしない。手を動かす。大変そうにやる。 (3)黙々とする:真剣である。楽しそうにしない。苦しそうにやる。
(4)些細さ:大きなことをやらない。ちまちまやる。できるだけ一人でやる。
(5)仕事以外のところでも仕事のための準備をする。休みの日に遊びに行ったりしない。
(6)時間をかけてやる:短い時間だとだめである。
(7)健気さ:純粋であり、邪なところがないさま。

(1)つねにやらなければ勤勉ではない。やったりやらなかったりしてはいけない。(2)効率化を目指してはならない。苦労をすることに価値がある。(3)楽しみを人に見せつけてはならない。(4)重大なことをしてはならない。(5)労働以外の時間も労働に向けた態度を取らねばならない。(6)じっくりとやらなければ評価されない。(7)他のことを考えたり脇目も振ってはならない。こうした条件は勤勉美の必要条件か十分条件かは定かではないが、特徴を捉えているといえるだろう。

労働における美的選好一般と同様、これらの要素は、労働の成果やクオリティとはかなりの程度独立している。例えば、ラクしないという要素は、成果とはまったく独立である。ほんとうはいったん手を止めてシステムを再構築したほうが労働の成果を出すかも知れないのに、ラクしないで手を動かしてプロジェクトを進めるように圧力があるように思われる。つまり、実際に勤勉かどうかはまったく独立している人は勤勉ではなくとも、勤勉であるようにみせることができるし、そうすることで高い評価を得ることもできるのだ(cf. ヴェーバー 1989, 47)。なぜなら、人々が評価しているのは実際に勤勉であるかどうかではなく、しばしば勤勉美を判断できるかどうかであるからだ。ちょうど高機能にみえる車が実際に高機能である必要がないように。私たちは、その実質的な機能や性能と見た目の乖離をしばしば経験するし、デザインとはそういうものなのである。

例えば、私もまた、勤勉さの美的選好の圧力を自らの内面に見出すことがある。例えば、査読依頼を頼まれたとき、その文献がおもしろく考えていたテーマとつながっていたのもあり、依頼された当日に査読コメントが完成した。だいたい査読コメントは1ヶ月強の締め切りが設定されるので、かなり早めの返送だった。そのときに私は「こんなに早く返送してしまったら適当だと思われるのではないか」と感じた。

この適当さとはまさしく、(6)「時間をかける」に抵触する。じっくりとすることそのものが価値づけられているのだろう。とはいえ、この規範を感じた瞬間、どうでもいいな、と思い、私は査読コメントを返送した。当該の査読コメントは自分では高いクオリティで、論文の課題を明確に整理できたと考えているし、これまで受けてきたハイレベルな査読コメントに匹敵するだろうと自分で判断している。当然、私のこの行為は「勤勉ではない」と美的判断が下されるだろう。それに対して、少なくない人はかなりの抵抗感を感じるに違いない。そのとき、人は、労働の成果ではなく、労働の態度の方を重視している自分に気づき、驚くかもしれない。それこそがまさしく労働規範が私たちにインストールさせる適応的美的選好であり、奴隷の鎖なのである。

以上のような、特定の価値、勤勉美や使命美についての分析と並行して、価値の流用が起こるメカニズムや他の流用のあり様を考えることも必要だ。労働に意味を与えるために、様々なジャンルや実践の美的価値や規範をどのように変形して、流用し、適応的選好を可能にするのか。美的選好のデザイン批判である(例えば、ビジネスの自己啓発ものというのは、適応的選好の発見の物語で満ちていることを指摘しておこう)。美的選好の適応のメカニズムや実践を明らかにすることで、労働の論理を支える選好の働きを批判できるようになる。以上の議論は、その語彙と概念と枠組みのスケッチであり、私たちのやるべきことは無数にある[4]

3 労働が終わった後の世界へ

しかし、私たちは、いまだ働かないで済む未来を想像できない。それは絵空事だと思われているし実際現時点では絵空事である。それゆえ、私たちは労働の論理そのものを疑うことはない。資本主義の精神はどこまでもリアリスティックに体感される。そこで、そのリアリズムをわずかでも耐えうるものにするために様々な適応的美的選好を作り上げる努力をしてしまう。そして、親切心からか、人々はこれから労働をする人や、労働から排除されている人々に対して、選好のデザインの仕方を教えたりする。

労働を疑うことは不可能なのだろうか。そんなことはない。私たちは、労働そのものを廃絶することができる。私たちは、労働美を分析していくことで、資本主義の精神を崩壊させていくこともできるはずだ。労働をする義務は私たちにはない(Cholbi 2018b)。労働は不正義だ。だから、私たちは、別の感性を育み、発見していくことで、労働以後の世界を想像すべきだ(Frayne 2024)。これを「労働廃絶の美学」の営みと呼ぼう。

こうした試みは「ユートピア的実践」と呼ぶことができる。本稿が強く影響を受けている哲学者、マルクス主義フェミニストであるカティ・ウィークスがエルンスト・ブロッホの議論をまとめるように、私たちは、未だ存在しないユートピア的世界を表現することで、別の世界のあり様を欲望する力を研ぎ澄ませる必要がある(Weeks 2011, ch.5)。遊ぶことで生きる生活は可能だろうか(Danaher 2019)。本腰を入れない労働やそれぞれの人々にとって価値のある生活を労働よりも重視する生き方は可能だろうか(マレシック 2023)。これらはユートピアの可能性のほんの一部であり、私たちは未来を開いておくことができる。

私たちが労働の美的選好から距離を置いて、適当な労働で済む世界、あるいは、労働を廃絶するために、大きく3つのアプローチをとることができる。これらは、ある程度独立している。(1)態度で労働を評価する実践をなくすこと。(2)労働に対抗できるような美的選好を創造する。(3)内面化している評価基準を距離をとって分析するために、概念化していくこと。

本稿では(3)のアプローチを実行した。(3)から始めることで、(1)の変更や(2)の改訂が可能になると考えている。ちなみに、(1)のアプローチをとるとどうだろうか。それは、たんに働くことを重視することになる。効率を重視するとはどういうことか。労働において必要なことをする。しかし、相手に合わせる、しかし、それは労働美というよりも実質的な価値を生み出すことを目的とすると、いささか安楽になるかもしれない。対して、そうした労働美がまったく重視されない分野もありうるかもしれない。それはそれで別の問題があることははっきりしているだろう。今回、私が焦点を当てたのは、労働において、労働美が実のところ存在感をもっていることを論じることで、労働一般にある美的側面を探り出そうとする作業であった。使命美と勤勉美は、労働美の主軸であろう。しかし他にも様々な労働美が指摘されうるし、これらの混合体もありうる。そうした労働美を指摘し、分析し、批判していくことで、労働美を達成しなければならないというプレッシャーを解体したり、そうした労働美に囚われない労働が可能になるかもしれない。そのときにこそ、労働はよりましなものになると私は考えている。これはある意味で、マルクス主義的な労働観にいきつくかもしれない。つまり、資本主義において苦役であった労働を、より充実したコミュニティのための労働に置き換える、という方向へ。だが、私はあまりこのアプローチに魅力を感じはしない。加えて、(2)をとるとどうなるか。適切にサボれている人を評価したり、息抜きできている人を称賛したり、仕事に本気ではない人をかっこいいとしたりするような態度を形成する、美的な趣味形成のアプローチである。これを達成するには、アーティストや表現者たちの力を必要とすることだろう。

いずれにせよ、私は、あなたがたに、さらなる労働美学の研究を推奨する。そうすることで、ユートピアを想像し、世界を変えることを期待する。

なお、もし労働の美学を批判するのならば、ヴェーバーが指摘したように、生産主義と消費主義の奇妙な結合についても論じる必要があるだろう。次回は、消費について考えていきたい。なぜ「経済を回す」ことが良いことなのか。応援消費の意味とはなんだろうか。つまり、「消費の美学(aesthetics of comsumption)」について考察を深めていくことになる。そうすることで、労働の美学についての理解も同時に深まることになるだろう。


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[1] もちろん、労働廃絶主義に対する批判もある。労働には内在的な価値があり、労働は個人と社会の幸福にとって依然として不可欠であると主張したり(Noonan 2020; Breen & Deranty 2024)、問題はあるがポジティブな側面を強化すべきだとされたり(Deranty 2022)、労働を介した承認の必要性が主張されたりしている(Turner 2024)。なお、賃金労働に限られない、社会的な目的に役立つ活動を指す意味での労働の価値を擁護する立場に私は反対しない(cf. Kandiyali & Gomberg 2024)。むろん、労働以後の世界の実現可能性についても丁寧な議論が必要であるが、本稿ではその議論を行わない。例えば、資本主義との両立不可能性については、Stubbs(2024)を、民主主義との関係については、Crandall et al.(2024)を参照のこと。とはいえ、本稿で行う労働の美学的分析は、そもそも労働に見出されているポジティブな価値の素性を明らかにするために必須の作業であり、批判的な議論と協働して進められる価値があると考えている。
[2] 以下、「労働」は「賃労働」を指す。
[3] 日本においては、ヨーロッパとは独立した形で、議論の余地はあるが、浄土宗における勤勉さ(cf. 飯沼 2024)がある種の資本主義の精神になぞらえられるような商売・労働規範の一つの源であるかもしれない。
[4] 私は別の場所で、労働の論理を支える美的論理の一つとしてのゲーム的主体のありようについてニーチェの力への意志と絡めた発表を行った。こちらも参照のこと(難波 2023)。