いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。
アルセニオスは突如として漆黒の表情を浮かべて静かに語り始めた。「先月に彼女は死んだんだ」と。予想もしない話に僕は「え...?」と言ったきり何も言えなくなる。
コーンロウスタイルの黒髪と褐色の肌を持つアルセニオスは、たった1時間前にハバナのホテル街の外れで出会ったばかりの青年だ。オレンジの花が描かれた黒いTシャツを着ている。もし彼に日本で出会っていたら、遊び人風情の若者だと思っただろう。そういう軽さが彼にはある。
アルセニオスの恋人はトーカという名前の日本人だった。4年前、彼女は友人とともにハバナを訪れ、ビーチ沿いのカフェでアルセニオスと出会った。彼女の親たちの反対で結婚は1年、2年と延期され、その間にトーカは交通事故で命を落としてしまった。どこで事故に遭ったのか尋ねると、彼は少し考えた後に「シブヤ...」と答える。まだ2週間前のことで、彼女の両親は電話越しに「早くあなたと結婚させてあげたらよかった」と言って泣いていたという。
アルセニオスが奢ってくれた苦々しいコーヒーを啜りながら、彼の話は本当だろうかと考える。しかし、嘘としては一線を越えている。だってトーカは死んでしまっているんだから。でもここで気を取り直す。人を信じるということは、その人の言葉を真に受けてみることから始まるんだから。僕は、キューバと日本という離れた土地のふたりの間に儚い心のやりとりがあったことを想像してみる。
「信じる」ということについて前日の会話を思い出す。僕の滞在先のホテル、ナシオナル・デ・クーバにハバナ大のマリア・テレジア教授を招いて話を聞かせてもらった。彼女は中学卒業後、仕事を持って育児をしながらも30年以上にわたって学校への出入りを繰り返しながら研究を続け、現在はハバナ大の経済学部で教鞭をとっている。
僕がある質問をしたときにマリアは言った。「外国から来た方、特に資本主義国から来た作家やジャーナリストの方から感じられるのは、端(はな)からキューバという国のこと、そして私のことを信頼していないということです。失礼ながら、鳥羽先生の質問の中にも私はそのニュアンスを感じました。あなたはおそらく社会主義の中には民主主義がないと錯覚していらっしゃるし、革命が過去の出来事ではなく、いまも革命のための努力が続けられている最中(さなか)であるということを理解していらっしゃらない。アメリカの制裁の影響はあまりに大きく、経済状況は芳しくありません。しかし、不断の努力があってこそ、この国の大義は守られてきました。だから、特に医療や教育といった人々の命を支える事業については最優先に取り組まれてきたのです。」
このとき僕が質問したのは「大学の会議や講義の中で、国の政策についての批判をすることはできるのか。また、それは一般的に行われていることか」というものだった。このとき、通訳の西原さんは明らかに顔を曇らせていて、申し訳なかったと思う。この質問自体はおかしいものではないかもしれないが、最低限の共通了解があって成立する質問というのは確かに存在する。その点について僕は敬意を欠いていて、それを見透かされたのだと思う。
アルセニオスと入ったカフェのカウンターには、チェ・ゲバラの大きなイラストとキューバの国旗が掲げられている。「ゲバラがいま生きていたら何と言うだろうか、と考える人はたくさんいます。」昨日のマリアの言葉を思い出す。「資本主義的価値観の下では、競争に勝つことがイコール豊かさであるという思い違いが横行しています。直接的にそう表現しなくても、現実的に社会がそう構築されており、そのことに疑問を持たずに生きている人が多いことに懸念を持っています。私たちに必要なのは物質的豊かさではありません。求めるべきは身の丈にあった発展であり、そのための努力を続けていかなくてはなりません。」
それにしても、キューバの革命家たちの見栄えのよさといったらない。町の至るところにある彼らのイメージを繰り返し見ているだけで、好きになってしまいそうだ。特にゲバラは、素朴な正義感、自己犠牲を惜しまない勇敢さ、類いまれなき知性、さらに男らしさを兼ね備えたアイコンとして、いまも多くの国民から敬愛されている。
「男らしさ」と言えば、僕はハバナの地では何度か迫害を受けた。前日はホテルでマリアとのツーショット写真を撮ってもらったのだが、「あなたは男性なんだから、笑ってないでもっとしかめっ面をして男性らしくしないと!」とホテルマンから言われた。何を余計なことを。隣のマリアは何も言わずに笑っていた。中肉の男性から発せられたmore like a man!という言葉がしばらく頭から離れなかった。勘弁してくれと思った。
カフェの入口側の二面の壁にはコンパイ・セグンドやオマーラ・ポルトゥオンド、ルベーン・ゴンザレスといったブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの巨人たちのポスターがデカデカと貼ってある。ポスターの四隅には何度か破れて付け替えられたあとがあり、彼らがこの店で長く愛されてきたことが伝わってくる。
「ブエナビスタがアメリカのグラミーという権威的なコンペティションで評価されたことについて、複雑な思いはありますか?」そんな質問が頭に浮かんだが、意地悪と受け取られるかもしれないのでしまっておく。
店の外から失われた夢のような音楽が聞こえてくると思ったら、3人の男たちが歌いながら店内に入ってきた。3人はそれぞれにギター、マラカス、ボンゴを持っている。アルセニオスがピュィィーっと口笛を鳴らして彼らを歓迎する。3人は長い夢から覚めたような表情で明るい歌を歌い出す。
「これはキューバ人なら誰でも知っている男が女を愛する歌だ。」そう言っていっしょに歌っていたアルセニオスは、次に見たときには携帯を取り出して誰かと話している。スペイン語は分からないが「ハポン(=日本人)」と聞こえたから僕のことを話しているんだろう。カフェでは誘われるままに、バーカウンターに入ってカクテルを作ってみたり、ボンゴを叩いて皆でいっしょに踊ったりした。
次にアルセニオスは近くのマーケットに行くと言う。「さっき、君を連れて行くって友達に話したんだ」。すっかり彼のガイドで街歩きをする格好になったが、彼から「日本人?」と最初に声を掛けられたときに、僕はちょっとくらいボラれてもいいから彼と楽しい時間を過ごそうと決めていたわけだ。「日本のどこ出身なの?」と尋ねられて僕が「福岡」と答えると、アルセニオスは「福岡、よく知ってるよ!」と勢いよく答えたものの、その直後に「はい、ひょっこりはん!」と謎の日本語ネタを披露し始めたので、福岡の何を知っているかはわからなかった。
タンクトップ姿の友達はアントニーという名で、肉体労働者たる逞しい躯体を汗で光らせていた。彼は靴や雑貨から電化製品まで雑多なものをそこで売っていて、何かないかなと物色してみるもののめぼしいものはない。
アルセニオスは僕が何も買いそうにないことを察すると、「次に行こう」と言って市場の出口に向かっていく。「お腹すいてないかい?」と聞くので「まあ、そろそろ食べてもいいよね」と答える。そのときすでに13時を回っていて、ふだん昼食をほとんど取らない僕はどっちでもよかったが、彼と一緒にローカルフードを食べるのも悪くないかなと思った。
市場を出る直前に一人の豊満な女性とすれ違って、アルセニオスが判別のつかない奇声を上げる。そして、「いい女だろ、あれ」「ほら、あのデカい尻(ケツ)を見てみろよ」「カズも女は好きだろ?」「オレが女を誂えてやろうか?」と畳み掛ける。酔っぱらったカエルみたいな顔をしやがって。
このときとっさにアルセニオスと話を合わせれば同志になれたのかもしれないが、僕が芳しい反応を示さないので「え? 女が好きじゃないのか?」といかにも面白くなさそうに言って、そのまま市場を出てすぐの角を曲がる。
しばらくして、アルセニオスは唐突に立ち止まってしゃがみ込む。「ここはwifiが繋がるんだ」。目の前の店には「coffee shop」と書かれた看板があって、つまり彼はこの店のwifiを拝借しているんだろう。
「このマンガ、知ってる?」と尋ねられて彼の黒い携帯(おそらく中国製のガラケーだ)の画面を覗き込むと、「七つの大罪」と書いてある。「聞いたことはあるけど知らない」と答える。「じゃあこれは?」と言って別のマンガを指差す。今度は「東京喰種」と書いてある。「僕は知らない...ていうか、これなんて読むんだろう...」と呟いていると、「トーキヨ、グールだよ」とちょっとガッカリしたように言う。日本人だったら誰でもマンガに詳しいと思ったら大間違いだと呟きながら、それを控えめな英語で伝える。
「キューバでは日本のマンガが人気なの?」と聞くと、「めちゃくちゃ人気、最近携帯を持ち始めた若い人はだいたい読んでるよ」とのこと。マンガのセリフは全てスペイン語で書かれていて、提供しているのは中国系のサイトだ。いわゆる違法ダウンロードである。国際的な秩序を破っているわけだが、これがキューバ流の国際社会に対する適応であり、この国ではこういう類いのことがライフハック的に行われているようだ。
パッションピンク色のドアから中に入ると、こぢんまりとしたレストランだ。エメラルドグリーンのテーブルに座ると真っ赤なメニュー表にはスペイン語表記しかなく、アルセニオスがこれはこういう料理だと粗雑な英語で説明をしてくれる。「これは焼き魚で、甘いソースがかかっている」と言うのでそれにする。「ここのレストランのシェフは腕がいいんだ」そう言いながら携帯で注文を伝えている。彼はおそらくシェフと同じコミュニティで生活しているのだ。ふとイヤな予感がした。
しばらくすると、店の外から全長50㎝はあると思われる大きな魚を抱えた男性が入ってくる。この店には他に誰もいないし、もしやあれを調理したものを食べるのかと思うと、なんだか怖ろしいことに巻き込まれたような気分になる。
その2、3分後に、一人の女性が店内に入ってくる。アルセニオスはまたもや尻に目が釘付けで、「このデカい尻、ほら、お前の尻デカいんだよ」と言いながら女性の尻を平手で2、3度叩く。なんで叩くのか理解できずに少し嫌な気持ちになる。彼はプルンとした尻の肉の跳ね返りを楽しんでいることがわかる。女性は一言だけ「何よ、あんた」と言って店の奥に入っていく。
「カズは日本で何の仕事をしてるの?」アルセニオスが尋ねる。「十代の生徒たちに勉強を教えたり、書店をやったり、そして文章を書く仕事をしたりしてる」。アルセニオスはとたんに未知の花弁を見つけたような表情になって「オレのことも書いてくれるかい?」と聞いてくる。「うん、書くよ。デカい尻が大好きなアルセニオスの日常について」。アルセニオスはその日一番の明るい声で笑う。
「アントニオの仕事は?」と尋ねると、「何だと思う?」とじらしてくる。じらしているだけだと思ったら何も言わない。そして携帯でまた誰かにメッセージを送っている。もしかして、僕がイメージしている仕事と、この国の仕事のあり方は根本的に違うところがあるのかもしれない。また前日の会話を思い出す。
「マリア先生のように子育てをしたあとに大学に進学する人は、日本では極めて限られています。」
彼女は難解なパズルの前に立つような表情をして答える。
「なぜ限られているのか理解に苦しみます。それはとても自然なことですから。この国では全く珍しいことではありません。」
彼女の「とても自然なこと」という言葉に大きく頷く。
「日本では中学、高校、大学とストレートに進んだあと、そのまま就職すべきという規範がとても強いのです。それがもっとも生産的(プロダクティヴィティー)であると過去と現在の社会が判断した帰結かもしれませんが。」
「生産的」という言葉を聞いたときに、マリアの右眉の隅がはっきりとつり上がったのがわかる。マリアは少し考えた後、言葉を選ぶようにして言う。
「研究(スタディー)への出会いのタイミングは個人によって異なります。自分のタイミングで学ばないと研究は発動しません。そうではないですか?」
「そうだと思います。日本では学校の学び(ラーニング)がすっかりキャリアを目的としたコンペティションになっていて、研究の面白さに出会う機会が失われています。」
マリアは無表情にコーヒーを口に含む。そして「ほら、マリポーサが水に濡れてきれい」と中庭を指しながら、まるで花と一体になったような表情で西原さんに話しかける。西原さんも満面の笑みで「きれいですね」と応じる。
「鳥羽先生、この国では学歴がキャリアに直結しません。医者や大学教授がホテルや観光地で通訳のアルバイトなどをしているのを見ると、海外の方は滑稽だと思われるでしょう。実際、月に何日か観光客相手に仕事をするだけで、定職の何倍もの収入を得られるのです。そして多くの友人たちが海外の知人や親戚からの送金に生活を支えられています。このような経済状況は他国から見たら不思議に思われるでしょうが、そういう国だからこそ、教育や研究の神聖さが守られているとも言えます。」
日本での学びは、受験勉強だけでなく大人の「学び直し」も含めて全てキャリアアップという目的に回収される。しかし、学ぶことがキャリアと結びつかないこの国では、学びたいから学ぶという純粋な動機のままに学んでいる人、研究している人たちが大勢いるということだろうか。うらやましいと思う。一方でその経済について疑問も生じる。
「多くの人が外貨に頼る生活の中で、労働者は仕事に熱心になることができるでしょうか。」
「熱心というのがどのような状態と程度を表すかによりますが、熱心な人もいれば、そうでない人もいます。でも、だから何だと言うのですか? やはり生産性を問題にしたいのでしょうか。それよりも大切なことは「生産手段としての人間」から解放された人間であることです。例えば、労働時間に生産手段として働き、余暇の時間に人間らしさを回復するために芸術やスポーツに没頭するようなあり方は、決して人間的とは言えません。日本では学校さえも「生産手段としての人間」を育成する場になっているのですよね。それは悍ましいことです。」
満を持してテーブルに持ち込まれた魚料理は思った以上にデカい。アルセニオスは初めからいっしょに食べるつもりだったらしく、鎧のような魚の表皮をビリッと破ってふわふわの白身にフォークを刺す。「ほら、カズも食べなよ」と誘われて、湯気が立った部分の左側の表皮をめくって白身を掻き出す。
ほくほくの白身を口に入れたとたんに奥からシェフがやってきて「美味しいかい?」と尋ねてくる。客が口にものを入れているときに話しかけるのはやめてほしい。僕はとりあえずうんうんと頷く。「魚が新鮮で、しかもロドリゲスが調理したんだから美味しいにきまってる」。アルセニオスは満足げに言う。実際のところ、とても美味しい。さっきは気づかなかったが、シェフのロドリゲスはキュートな垂れ目顔で、人のよさそうな笑みを顔に浮かべている。体格もよく、いかにも頼れる好男子という感じだ。「彼は素敵だね」と言うと、アルセニオスは「あいつは女にモテるんだよ」と言いながら腰を振り始めた。
魚とサラダとパンをもう食べきれないほど食べて店を出る。アルセニオスが払っておくと言うので彼が店から出てくるのを外で待つ。店の前ではペーソスの化石のような老人が座ってギターを弾いている。チップ入れがあって小銭が入っている。よく見ると弦が1本足りないが、巧みな技術でそれを補っている。
「それにしても昼からよく食べたよ」と店から出てきたアルセニオスに声を掛けると、「キューバ人はランチがメインだから、夜はあまり食べない。だからアメリカのトランプみたいに太ったやつは少ないし、いたら後ろ指を指される」と言う。彼は少し差別的なことを口走ることに対して躊躇がない。
しばらく歩いた後に、「さっきの会計は?」と金額を尋ねると、アルセニオスが急に改まった顔になって「80ドル。米ドルで払ってほしい」と言う。仰天する。80ドルはあまりに高すぎる。最初に来たときにテーブルに置いてあったメニュー表には15ドル(15CUC)以上のメニューはひとつも載っていなかったんだから。
こいつはオレからボルつもりだな、と瞬間的に戦闘モードになるものの、ちょっと冷静になって考えてみる。80ドルは確かに高い。キューバの平均月給の約3か月分にあたる額で、あまりに高すぎる。しかし、あの魚は確かにデカいし旨かった。そもそもあんなデカい魚は要らなかったんだけど、でもあの魚料理はフロリダで食べたら同じ海の魚なのに80ドルでは済まないだろう。今朝オンラインで見た市内観光ガイドツアー(英語)は半日で60ドルだった。アルセニオスは女性の尻ばかり追っかけていたが、でもこの半日は僕なりに十分に楽しんだのでは…? 魚だけでなく、スープにサラダ、少し硬いパン、そしてロゼワインも2杯飲んだしな。
「50ドルなら払うよ」と交渉してみる。彼は「いや、ロドリゲスに払わないといけないからダメだよ…」と答えた後、うーんと考える。「あの魚は特別に仕入れたもので、誰でも手に入れられるものじゃないんだ」。そう真剣な顔で言った後「じゃあ、70ドルね」と続ける。
アルセニオスは日本人のカモが捕まったぜ、しめしめ……と思いながらこの半日、僕と一緒にいたんだろうな……寂しいな……という思いが急に胸を駆け巡る。トーコはやっぱり嘘なんだろうか。もう別になんでもいいやと思って70ドル支払う。
別れ際はろくな挨拶もしないまま、歩いてホテルに向かう。後味が悪いけどしょうがない。ああ、これがアルセニオス流のライフハックかと思い至る。通貨も社会資本も脆弱で、国家が機能不全にあるときには、自然発生的にアナキズムが勃興する。彼のこの日の振る舞いも、日本人の僕という資源を活用した仲間内でのアナキズムの実践と言えまいか。キューバはいまだに革命の途中なのだ。それが感覚としてわかった。そんな気分になって、ふわふわと面白い気分になってくる。キューバに観光に行く外国人たちは、多かれ少なかれ彼らのアナキズム的ライフハックの手伝いをしているわけだ。
ああ、それにしても疲れた。ホテルに着くと、フロントに立つ大柄の女性が声を上げて笑ったり歌ったりしながらチェックイン作業をこなしている。なんて楽しそうなんだろう。作業効率は極めて悪い。でも、そんなことはたいした問題ではないのだろう。
確かに彼らは生きるために働くというより、生きるように働いている。アナキズム万歳である。
店に入って歌い始める3人組
Back Number
- 第8回 オルセー美術館のサイ
- 第7回 受難のメキシコと今村
- 第6回 ジャワ島のミコの家で
- 第5回 アシジと僕の不完全さ
- 第4回 ハバナのアルセニオス
- 第3回 スリランカの教会にて
- 第2回 クレタ島のメネラオス
- 第1回 バリ島のゲストハウス