第2回 クレタ島のメネラオス

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。

サントリーニ島を出た船がクレタ島のイラクリオンに着いたのは、到着予定時刻を90分も過ぎた夕方の5時。港に迎えに来ているはずのメネラオスがまだ待ってくれているか心配だったが、船を降りてほんの数秒で彼を見つけた。「長い時間待っていてくれてありがとう」と固い握手。短い指のひとつひとつに太い皴が刻まれた手。

島の中心地である港町イラクリオンは素通りして、南海岸にあるマタラに滞在することにする。1970年代にジョニ・ミッチェルが滞在していたことで知られる、かつてヒッピーの聖地と呼ばれた町。港からは70㎞ほど離れていて車では2時間以上かかる。そこまで行けば、誰の目も気にせずにのんびり過ごせるだろう。

隣で運転しているメネラオスが豊かな白いひげを触りながら「マタラか…」とつぶやく。「僕らの若き日々、光輝く土地、マタラ…」彼ははるか遠くに視点を定めながらそう言う。あとでわかったことだが、メネラオスはごく個人的な感傷を惜しげもなくさらけ出す。人の顔色を伺って自分の表現を変えようとするような卑屈なところがない。きっと卑屈になるほど複雑な感情生活を送っていないのだ。彼はジョニがマタラにいたのと同じ時期に、若き青年としてその地でヒッピー生活を満喫したらしい。酒とドラッグ、フリーセックス、自由奔放な生活、有機栽培、実存主義……。ヒッピー文化のさまざまなキーワードが浮かぶが、メネラオスはどこまで深入りしていたのだろうか。当時のマタラにはアメリカや西ドイツなどから多くの若者がやってきていたらしいが、メネラオスは生まれも育ちもクレタ島である。

2時間10分かけてマタラに着く。メネラオスに「疲れたんじゃないかい?」と尋ねると、「まさか、マタラに着いたら疲れなんて吹き飛んじゃったよ」と言う。車を降りると「ついてきて」と言うので僕はメネラオスに従う。日の暮れたマタラの町は随分くたびれて見える。メネラオスは「このあたりは変わったな」とつぶやきながら、天啓に導かれるように早足に進んでいく。

彼が目的地に選んだのは、土産屋の通りが尽きたところにあるビーチフロントのバー。店に入ったとたんに独特の甘い香りの煙が漂っていて、ここはもしかしてと思う。メネラオスに言われるままにカウンターに座り、ビールとおつまみを注文する。マタラではすでにヒッピーが歴史化されていて、いまはありふれたリゾート地になっているというガイドをどこかで読んだが、この店は1970年代をそのまま冷凍保存した後に、たったいま解凍してお目見えさせたような雰囲気だ。猥雑で落ち着かないが、いきなりマタラのディープさを目の当たりにした気分になる。

店内では爆音でロックミュージックが流れている。AC/DC、The Doorsと続いたあとにBon JoviのLivin’ On A Prayerが鳴り始めた。Bon Joviは80年代だから少しだけ新しい。店の客がいるスペースはせいぜい6畳くらいしかないのに10人以上の老若男女が他人と体を擦り合わせながらヨロヨロと踊っている。注文したおつまみが目の前のカウンターに置かれると、踊っている若者たちの手が伸びてたちまちに奪い取られる。なんだよこいつらと思うが、その様子を見るメネラオスは何も言わないからこれがこの場所のルールなのだと思ってみる。いや、彼らは単におつまみが食べたいから食べていて、メネラオスも咎めるほどのことではないから咎めないのだろう。空になったおつまみの皿の横にある重々しいビールのジョッキを持ち上げる。さすがにジョッキを奪おうとする輩はいない。

メネラオスには明日も運転を依頼しているので「メネラオスは今晩どこに寝るの?」と尋ねると、「ビーチで寝るよ。うーん、なんてことだ。40年ぶりにマタラのビーチで一晩を過ごすよ。ワクワクする」と少年のように目を輝かせている。いくらヨーロッパの南端にあるクレタ島といえども、9月の夜は冷える。一晩を外で過ごすなんて体壊すよと心配になって、僕が取ってる宿で寝たらいいじゃないと誘うが、「カズ、僕のせっかくの自由を奪わないで! こんなチャンスは二度とないかもしれないんだから」とグシャグシャに笑いながら言う。メネラオスは心の底からビーチで寝たいらしい。いやマジか、信じられない。きっと彼と僕とでは体のつくりが違うんだと思って了解する。じゃあ、また明日の9時に会おうねと言って別れる。

朝起きて宿のベランダに出ると、一面にマタラのビーチが広がって見える。開放的な気持ちよさにふわっと意識が遠のく。ビーチは入り江になっていて、ビーチ奥の崖には洞窟のような穴が無数に開いている。もしかしてメネラオスはどこかあの穴のひとつで寝ているんじゃないかなと想像する。

朝日を浴びながらパンツひとつで『余白の芸術』という本を読んでいたらメネラオスがやってきた。まだ7時50分なんだけど...と思いながら、メネラオスに「眠れたかい?」と尋ねると、「うーん、よく眠れたかは分からないけど自然とひとつになっていた」と言う。彼がついてきてと言うのでシャツを乱雑に羽織ってついて行くと、朝食はここがいいよと宿のすぐそばの小さなレストランに案内してくれる。席に座ると朝早くから泳いでいる人たちの姿が見える。「朝から寒くないかな?」と言うと、「寒くても問題ない。ビーチに寝転がって太陽を浴びれば温かくなるよ」とメネラオスは答える。たしかにビーチにはすでにトドのように横たわる人たちの姿が点々と見える。彼らはサウナで温まった後に冷水浴をするように、日光浴と海水浴を繰り返すらしい。

この日はメネラオスと島の南部を中心に1日いろいろな場所を回った。クレタ島の観光といえばミノス文明などの古代遺跡が有名だが、遺跡にはあまり興味がないので、現役の教会堂や修道院、そして峡谷やビーチに連れていってもらった。圧巻の景観をもつプレヴェリのビーチで泳いだ後に、近くの修道院に向かう。メネラオスに「カズ、君の宗教は何だい?」と尋ねられて「僕はカトリックで、生まれて間もなく幼児洗礼を受けたんだ。自ら選んだわけではない。メネラオスは正教会だよね」と答える。メネラオスは少し間を置いて、「うん、もちろんそうだよ。カズはカトリックか、まあ、同じ神をもつ仲間だね」と言って何か考え込んでいる。

プレヴェリ修道院に着いた。メネラオスは、入口でドネーションを払う僕を尻目に「信者はお金は要らないんだよ」と言いながら我が物顔で敷地内に入っていく。クレタ島の古い修道院はたいていトルコ人たちとの血なまぐさい戦闘の歴史を持っていて、この修道院は崖っぷちの高台に建っているので要塞にも見える。

訛りのある英語を話す女性ガイドが10名程度の団体に向かって話している。「人を殺してはいけない。そんなことは当たり前です。でも、物事はそんなに単純ではないし、原理原則が通用しないこともあります。クレタ島はギリシャ本土と、トルコ、さらにアフリカとほとんど同じ距離の場所に位置しています。だから交易で栄えてきた一方で、苦難の歴史をたくさん持っています。この場所にはその歴史が凝縮されています。」聴衆たちは暑い日ざしを浴びながら彼女の話に聞き入っている。クレタ島は、「原理原則が通用しないこともある」という真理が人々の心に深く織り込まれている土地なのかもしれない。人はときに歓待し、ときに抵抗する。それが生きることの比喩でもある。でも結局のところ、何事もなるようにしかならないのである。これは運命の話だ。

地中海の島々は日本の人たちが想像するほど豊かな土地ではない。クレタ島も例外ではなく、モンスーンの恩恵を受けた湿潤な土地から来た人間から見ると、全てが干からびて見える。大きな河川はひとつもなく、褐色のテラロッサの上にすね毛のようなオリーブの木がこびりついている。しかし、そんな島の中にも豊かな水が湧き出る「泉の村」がある。プレヴェリから20㎞ほど北東の内陸部にある村スピリにはプラタヌスの大きな木が2本生えた広場があり、そこにはケファロフリシという泉があって、25頭並んだライオンの口から冷たい水が流れ出る。メネラオスはライオンに身を捧げるかのように全身をかがめて、頭部全体にビシャビシャと冷水を浴びせ始める。彼は人目を気にするということを知らない。僕もメネラオスの真似をして頭から冷水をざぶっとかぶる。ああ、気持ちがいい。人目を気にしないところに特別な快感がある。ここの泉の水温は年じゅう13度に保たれているらしく、浴びた後には頭がキンキンした。

広場にあるタヴェルナに入って、真っ赤なザクロのフレッシュジュースを飲む。プラタヌスの木陰に守られてとても涼しい。メネラオスに「プラタヌスといえばプラトンだね」と言うと、だから何だという顔をされる。「ランチは食べなくていいの?」と尋ねると、「うーん」といかにも嘆かわしいという顔をした後に「空腹になったら食べて、眠くなったら寝たらいいんだよ」と言う。きっと規則正しい生活というのは、定時に仕事をしなければならない人たちにとっての知恵なのだ。彼は規則正しい生活よりも、身体に生活を委ねることを大切にしている。きっと彼だけでなくこの島に住む多くの人たちも。彼らにとって、食事を名付けることに意味はないし、定時に食事をとる必要もない。

「カズ、ポメグラネート(ザクロ)といえば子宝の象徴だよ。君は子どもはいるのかい?」 またその質問か──海外で旅をしていると、必ずといってもいいほど尋ねられる質問だ──と面倒くさく感じながら「いないよ」と答える。メネラオスは「なんてこと…」と顔をしわくちゃにしながら僕の両手を彼の両手で包み込む。まさか子どもがいないことはそんなに悲劇的なことなのだろうか。「何年前に結婚したの?」「もう20年近く前」「そうか…、君の妻は何歳?」「僕の2つ下」「そうか、諦めずに祈ろう……、あなた方が子を授かりますように、アミン(アーメン)」メネラオスは僕の両手をぎゅっと握りしめる。僕の手には力が入らない。彼の顔は紅潮していて、泣き出しそうになっている。

僕は顔面の5センチ前方で涙ぐむメネラオスに違和感を覚えながら、さすがここはギリシャだと思った。彼らはきっと結婚は子づくりのためにあると信じ切っているのだ[1]。子どもがいなければ、男として恥ずかしいとさえ思っているのかもしれない[2]。いや、もっとシンプルに、子どもがいない人生は寂しいと考えてそれを嘆いているだけかもしれないが。それでも、この確信めいた嘆きはきっと歴史的な裏打ちがなくては生じないはずだ。嘆きはこの土地を這っている。でも、もし僕にとって結婚というのがひどい病気のときに必要とされる投薬を意味していたとしたらどうする。子どもがいないことがそのまま愛の選択であったとしたらどうする。そしたらあなたはその嘆きをどこに仕舞ってくれるのか。

その後訪れたある教会は、海岸線から10㎞以上離れているのに地下から塩水が出るという話だった。地下水を飲ませてもらったが塩味が感じられずに要領を得ない顔をしていたら、メネラオスに「塩の味がするだろ!」とすごまれて、僕は仕方なく「そうだね」と答えた。その塩水は Holy Water (聖水)として名高いそうで、「この水をパンといっしょに毎日少しずつ口に含むといい」と神妙な顔をしたメネラオスから容器に入った聖水とパンを手渡された。

メネラオスは日本人女性のアキコさんと結婚していて日本びいきである。(ちなみにメネラオスはアキコさんに紹介してもらった。)若いころには全く信仰心がなかった彼を180度変えたのには、彼とアキコさんが人生で出くわした壮絶な経験が背景にあった。また、彼にとって子どもがなぜそれほどに大切な存在かということも、その経験を通して醸成された深い確信だということが分かった。彼は涙をボロボロこぼしながらそのときの辛い記憶を話した。その詳細はここには書けない。とにかく僕たちはそのとき夕日を浴びて、南海岸の絶壁の上に座っていた。彼の涙も夕日色に染まっていた。「空が少しだけ白いね」と僕が言うと、「サハラの砂が飛んできているんだよ、アフリカは目と鼻の先だからね」と彼は答えた。僕はいまサハラの砂を浴びながらメネラオスの人生の切れ端を貪っている。旅をしていると思った。その日、宿に戻ったのは予定より4時間も遅い21時ごろ。12時間もいっしょに島を周ったことになる。ひとりの人間の素朴な情熱に長い時間触れるというのは、それだけで代えがたい経験だ。メネラオスと全部が通じ合うことはないけど、でも僕は彼のことが好きだ。

その後の数日はマタラで無目的な時間を過ごした。最終日はジャニスも通っていたというレッドビーチまで歩いて、“BEST MOJITO OF THE WORLD — JANNIS”と書かれたピンク色の看板に惹かれて、ビーチハウスでモヒートを2杯飲んだ。たった2杯なのに泥酔して、白髪のおじさんに介抱されながら宿に戻ったようだ。粘つくサンオイルのにおいと体の上を転がる砂の不快感で目を覚ましたときには、全裸でベッドに寝ていて頭が重かった。急に思い立って財布の中身を確認したが、何の異常もなかった。時計は朝の8時を示していて、もう一度メネラオスが迎えに来てくれるまであと1時間だった。それなのに、僕はいま激しくお腹を壊している。

ベランダに出る。最終日も変わらず雲ひとつない空だ。この変わらない青空がきっと住む人たちの思考をシンプルにしている。時間通りにやってきたメネラオスに、この数日のことを話した。そして昨日の失敗について、つまり、泥酔したこと、ドイツ語をしゃべるおじさんに介抱してもらったこと、いつの間にか全裸だったこと、さらに、昨日の昼間に大量のムール貝を食べたせいかひどい腹痛であることを話した。「この島はどこで全裸になってもいいんだから、気にすることはない」「この島の住民はムール貝なんて食べないよ。こんな温暖なところで気取ったものを食べるものじゃない。変なものを食わされたね。」そうやってメネラオスはひとつひとつに熱っぽく反応した。

14時の飛行機まで少しだけ時間があったので、スーパーでトマトとチーズ、パスタ麺を買って、イクラリオンの丘の上にあるメネラオスの自宅に立ち寄った。部屋が10以上あって、広い庭にはオリーブやたくさんの野菜が育っている。アキコさんはいま日本にいるらしい。「今度来るときにはここに何か月だって泊っていいよ」と愉快そうに言う。食卓に着いて10分も経たないうちに、3種類のブドウ、オリーブオイルに浸かったフェタチーズ、肉料理、そしてトマトやピーマンなど5種類の野菜が入ったグリークサラダ、さらにシンプルなトマトベースのパスタが並ぶ。魔法みたいな早業だ。そして魔法の国のご飯はほんとうに美味しい。「美味しい、美味しい」と言いながら食べるので、メネラオスはこれもあれも食べてと次々に勧めてくる。「美味しい、美味しい」と言いながら、母がつくったぼたもちを食べすぎた幼年時代を思い出した。

食事が終わるとメネラオスが自宅の奥から物騒なものを持ち出してきた。長さ1m近くはあると思われる銃。実物を見るのが初めてでよくわからないが散弾銃だろうか。メネラオスは手慣れたようすで彼の親指より太いスラグ弾を装填して庭に向かって「ドーンッ」と弾を撃つ。十数メートル離れたところにあった標的の空き缶が激しく飛び跳ねる。驚いた鳥たちが一斉に飛んでいく。メネラオスは、「ほら、カズもやってみて。でもアキコには言わないでね、怒られるから」と言う。僕は、「いや、やらないよ」と申し出を拒む。でも、メネラオスは「ほら、やってみるんだよ」と強引に銃を持たせようとする。仕方がないので恐る恐る銃を握る。幼い頃にプールの飛び込みを無理にやらされたときの感覚を思い出す。銃はずっしりとした重みがある。そして底知れぬ恐怖を感じる。これで人が死ぬんだから。

意を決して弾を撃つ。反動で左手が跳ねて、弾は標的のはるか上方を飛んでいく。「さあ、もう1回やるんだよ」メネラオスに言われてもう一度銃を握りしめ、弾を撃つ。今度は標的のゴムのバケツに命中して、バケツのまん中に大きな穴が空いた。こんなに簡単に命中するなんて怖ろしい。僕はこれで人を殺せる。銃を降ろした後も体が震えていた。空中が痙攣してその波動をそのまま受けたのだ。波が穏やかになるのを待つ。

ギリシャでの銃所持は許可制で、クレタ島は歴史的な政治不安や自衛組織の発達といった理由から国内では突出して銃所持率が高いそうだ。島民の2人に1人は銃を持っているという統計さえある[3]。古代ギリシャ・ローマにおいて世界の中心と捉えられていたこの島は、歴史の波に大いに翻弄された後、いまは西ヨーロッパで最も貧しいとされる国ギリシャの片田舎という位置に甘んじている。その生活感情はとてもシンプルで、だから土地に根づいた怒りもシンプルなままに可視化されている。

帰りはイクラリオン空港での別れだった。メネラオスが「これは大切なことだから、最後にカズに言いたい」と言う。「僕はカズのことがすごく気に入ったよ。心を通わせていい友達になった。でも、カズはひとつだけ直したほうがいいところがある。君はマジメだから、いつも肩に力が入っている。そうだろ、もっと自由な魂で生きたらいいんだよ。そんなにいつも冷静でなくていい。このクレタという場所では、もっともっと羽目を外したらよかったんだよ。」そう僕の肩を揺らしながら言うメネラオスの目は涙でにじんでいた。「もし失礼なことを言っていたらごめん」と言うので、「いや、僕にはメネラオスが言いたいことがわかる。でも、羽目を外すというのは僕にとって修行みたいなもので、このクレタでも自分なりに精いっぱい試みたんだよ」と答える。最後に熱いハグ。これからも人生のダンスは続いていくのだ。

 

クレタ島の乾燥した大地とオリーブ畑 フェストス

[1] ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅳ 肉の告白 Les aveux de la chair』(新潮社)のギリシャ文化に関する叙述(2章)より。
[2] クレタ島を舞台にした映画、マイケル・カコヤニス監督『その男ゾルバ』(1964年)における主人公の台詞を参照。
[3] ジャン・テュラール著『クレタ島』(白水社)の訳者あとがき(幸田礼雅)より。

 

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。

第1回 バリ島のゲストハウス

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。

クロボカンのゲストハウスからは歩いて3分でビーチに着いた。そこは波に侵食された平らな岩が広がっていて、泳ぐのには適しなかったが日光浴には最適の場所だった。車で10分も走れば、スミニャックにもっと華やかなビーチがある。そのせいか昼間はほとんど誰もいなくて、僕は全裸で太陽に温められた岩に寝そべったり、沖まで泳いで海底の深さを確かめたりした。

夕方になると、目を光らせた野犬たちがビーチにやってきて、きまって遠吠えを始める。初日は怖ろしくなって退散したが、2日目からは素肌に上着を羽織って彼らのようすを観察することにした。(何かあれば上着を振り回して防戦しようと考えていた。)彼らは沈む太陽に向かってしきりと咆えていたが、太陽が沈んでしまうと同時に町の中に消えていった。羽織った上着は濡れた水着に触れた部分だけじっとりと濡れて色が濃くなっていた。

その小さなゲストハウスには玄関を入るとすぐに食堂があって、朝晩は他のビジターといっしょに食事をとった。ゲストたちからパッキンと呼ばれる宿主がいて、滞在初日から「ジャパンはいい国だね」「君もそうだけどジャパンは人もいいよ」と見つめながら変に褒めるので、少し気味が悪かった。経験的に海外でジャパンをことさらにほめる人と関わっていいことはないのだが、その予感が部分的に当たることをこのときの僕はまだ知らない。

最初の夜、表面がパリパリに乾燥したオムレツを食べながら会話したのは、旅慣れた雰囲気をまとったオランダ人の老夫婦。食堂に入ってきたパッキンが言う。「この夫婦は奇跡なんだよ。」

ふたりは78歳と76歳の夫婦で、夫のダーンは筋骨逞しく、70代どころか60歳くらいにしか見えない。「なんて若く見えるんですか!」とふたりに言うと、横にいたリサが「ただ人生を楽しんでいるだけよ。」と言う。「あなたは何歳なの?」

僕が「39歳」と答えると、ダーンがいきなりドーンと机に手をついて立ち上がり「なんてことだ、君は22歳くらいに見えるよ!」と叫ぶ。パッキンはじめ周りで食事を取っていた人たちもしきりにそうだそうだと頷く。

「日本人は若く見えるんだよ。」

日本人らしい見かけの若い男性と、それよりは10歳くらい年上と思われる白人の男性が部屋に入ってきた。

「はじめまして。日本のどこに住んでいるの?」

日本人かと思われた男性は流暢な英語を話す。日本人ではないのかもしれない。

「福岡です。日本の主要な4つの島のうち、最も南にある島の九州にある、南日本では最大の都市。」

「福岡なら知っているよ。僕は釜山出身で、福岡には何度も行ったことがあるから。」

彼は韓国人だった。だとすると、もうひとりの男性とはどういう関係なんだろう。そう考えながら、僕は話を続ける。

「釜山、近いですね! 僕も釜山は何度も行きましたよ。近くの慶州も何度か。」

「慶州。確かに韓国の中ではいいところだけど、京都のほうが何倍も素晴らしいよ。」

京都か。僕は彼ほど京都のことを好きじゃないかもしれないし、そもそもよく知らないかもしれない。話題を続けることに少しだけ引け目を感じる。

「京都は何度も行ったことがあるの?」

「何度も。日本で、いや世界で一番好きな場所だから。」

彼は色白で僕より少し背が高く、そしてはにかんだ笑顔が素敵な人だ。抑揚のあるくっきりとした英語を話す。彼には京都に大切な友人がいるらしい。京都大学の学生らしく、僕の元生徒の中にもいま京都大学に通っている子がいるよと話をする。

「僕にとっても京都は印象深い場所のひとつです。数年に一度は訪れます。でも、京都は整いすぎていると感じることがあります。」

「どういうこと?」

「日本の文化には移ろいを楽しむところに核心があります。それが西洋の文化との違いであり、石の文化と木の文化の違いです。でも、いまの京都を見ていると、例えば、東福寺の完成された庭園や建物を見ていると、移ろいを楽しんでいるようには見えません。それは整いすぎていて、変化よりも完全な美を求めているように見えて、それは私にとって少し堅苦しく感じるものなんです。その点、京都の山奥や奈良はいいですよ。」

「それは興味深い話ですね。私はやはり完全な美が好きです。ただ、それが完全ならば一瞬のものでもいいのだけれど。」

「言っていることはわかる気がします。」

もう一人の白人の男性は、彼と僕を交互に見ながらうっすらと笑みを浮かべてただ話を聞いている。話し始めて10分くらい経ったころに、彼らはふたり揃ってじゃあねと部屋に入っていった。彼らともっと話してみたいなと思う。

「実は彼らはゲイなんだ。」彼らが去るのを見届けたダーンが言う。僕はさもありなんと思う。「この場所は、魂をありのままに解放していい。だから彼らはここにくるんだ。僕たちだってそうだろ。」

次の日の夜も食堂に行くと、ダーンとリサが座って楽しそうにパスタを食べていた。「ハロー!」と巨体のダーンに包まれるようにハグされた僕はたじろぎながら「サンキュー」と口走ってしまい、何を言ってるんだとひとりで赤面した。

ダーンに「今日はどこに行ったの?」と尋ねると、彼は「ここだよ」と床を指して笑った。長期滞在に慣れた彼らは、ゲストハウスの小さなプールのそばで、どこにも行かずにのんびりと過ごす日が多いのだ。

この日は乾いたパンをグァバジュースで押し込んでいる最中に、60代くらいの見覚えがない男女ふたりが玄関から入ってきた。彼らは豪州のパースからやってきた夫婦らしい。「バリ島は何回目?」と尋ねるとウフフと笑って「20回目よ」とジェニファーが答える。回数の多さに驚いていると、ウブドに別荘を持っていること、いまは数日ビーチで遊びたいからここに滞在していること、バリは豪州から最も近い楽園だから、年に少なくとも3ヶ月は滞在していることなどを話してくれた。

「日本と言えば……」ジェニファーの隣に座っていたジャックがいきなり「キッキッキッ」と床がきしむような笑い声を出しながらおもむろにごそごそとバッグをあさり始めた。そしてタブレットを取り出して、画面にうつる写真を僕に見せた。

「以前、東京に行ったときにカプセルホテルに泊まったんだ!」「見てよ!こんなに狭いんだよ!!」どこかのアクション俳優のような声で言うジャックは、最高に楽しそうだ。

「カプセルホテルでは、妻と別のフロアに泊まらなくてはならなかったんだ。部屋に入ったとき、妻との別れが寂しくて涙が出たよ。」そう言いながら夫婦で目を合わせて笑い始めた。「私も寂しくて死ぬかと思った。」「そう、50年間たった1日も欠かさずに朝に訪れていたイレクションがその日に止まったんだ!なんてことだ日本!」もう涙が出るくらい夫婦で笑い合っている。幸せなふたりだ。

彼らはタブレッドでいろんな写真を見せてくれた。ブログを書いているらしく、パース近郊のベストビーチだよと言って見せてくれた写真の中で、ふたりは全裸で突っ立ったまま大笑いしていた。彼らはヌーディストらしい。ふたりはウブドの安くて美味しいフレンチを教えてくれたので、おかげで次の日には絶品のランチを食べることができた。

食べ終わって、そろそろ部屋に戻ろうかなと思っているころに、昨日話した韓国の彼と白人の彼氏が入ってきた。ふたりはバリで2週間前に出会ったばかりらしい。クタでダイビングツアーに参加し、そこで意気投合したそうだ。

「バリにもきれいな海があってうれしかったよ。」
人懐っこい笑顔で話すヨンジュンは素潜りからダイビングまで、とにかく海で泳ぐことが好きで、これまでも世界中のいろいろなところで潜ったらしい。ヨンジュンの白い筋肉が海の中でひらひらと漂う姿を想像する。パラオやサイパン、タイのクラビなど、互いに行ったことがある場所がたくさんあって、おのずと話は盛り上がる。そして、僕とヨンジュンが見出した結論は、何といってもフィリピンのパラワン島にあるコロンのビーチは最高だということだ。

「でも、バリ島のビーチはベストだとは思えない。」ダーンが言う。

「僕もそうだとは思います。」ヨンジュンが答える。

「あなたにとってのベストビーチはどこ?」僕が尋ねると、ダーンは「いい質問だ……」と考え込む。

「カリブの海はよかった。特にジャマイカのビーチは。カリビアンブルーだよ。限りなく美しくて透明なんだ。でも、ベストとなるとカナリア諸島かな。カナリアは特別な雰囲気がある。自然がダイナミックで美しいし、そして食べ物もすごく美味しい。ハワイとイビサ島のいいとこどりだよ。」

それにしても、旅先で旅についての情報交換をすることほど楽しいことはない。こういう旅慣れた人しか泊まらないゲストハウスだと相手も間違いなく旅好きだから、何の遠慮もいらない。

「韓国もチェジュはいいじゃない。」ヨンジュンの隣に座っている彼、アントンが言う。ちなみにアントンもオランダ人らしい。インドネシアの旧宗主国だからオランダ人がよく来るのか、たまたまなのかは分からない。アントンは骨格の全てがヨンジュンよりひとまわり大きい。

「いいよチェジュは。確かノースショアにいいビーチがあったよ。」すかさずダーンが同意する。彼はきっとどこにだって行ったことがあるのだ。

「チェジュは山もいいですよね。ハルラ山。」私が言うと、「そう、チェジュの山はフォルムが独特で美しい。」今度はアントンが相槌を入れる。

「でも、沖縄がすごいじゃない!」ヨンジュンが言う。

「沖縄の海は本当に美しい。珊瑚もあるし、ダイビングもできる。」

「メインアイランド(本島)は珊瑚があまりないでしょう。もしかして慶良間まで行ったの?」

「そうそう、ケラマ。最高だった。僕は人生で最も美しい珊瑚を見たんだ。トバさんが他におすすめの沖縄の島をひとつ私に教えてほしい。」

僕はうーんとしばらく考えてから答える。

「慶良間もいいし、宮古もいいけれど、僕は西表島が一番好きだよ。僕は美しいビーチがあるだけでは満足できなくて、雨水を十分に蓄えられるくらいの山がある島が好きなんだ。西表は山や滝がほんとうにダイナミックですごいんだ。イリオモテヤマネコという謎めいたネコもいる。気候はメインアイランドに比べてかなり暖かい。真冬でも晴れたら泳げるくらいだから。」

ヨンジュンはさっそく西表島についてサムソンのスマホで調べながら、「絶対に行くよ」と言って目をきらきらさせている。

「西表島はとてもよさそうだけど、歴史的な場所はあるの? メインアイランドにはグスクだっけ、古いキャッスルの跡がたくさんあるじゃない? 沖縄独特の歴史的な場所にも僕は興味があって。」

「うーん。西表はその点、メインアイランドとは事情が異なるんだ。確かに僕らはふつう、その場所の「歴史」を見に行く。僕たちはその土地に歴史や伝統、そして文化のようなものが当たり前のように存在すると考えて、それに出会うことを期待して出かける。でも、西表に行くと、それ自体がひとつの偏った見方であることに気づかされるんだ。西表にあるのは一言で表現すれば、断絶の歴史。継承すべきものが、マラリアの惨禍によって、ときには猛烈な台風や津波によって幾度も途絶えた凄絶な歴史。歴史化されなかったことが呻き声となって響いているような場所がいくつもあるんだ。島の南西部地域は、ひとつの集落だけを残して、あとの集落は全て廃村になってしまった。いまだ僅かに生活の痕跡が残る場所もあれば、すっかりジャングルの森の中に姿を消してしまった集落もある。そこで僕たちが見出すことができるのは、歴史というよりは人々の流浪そのものと言ったらいいのかな。西表に行ったら、もちろん美しい海を見てほしいけど、それだけじゃなくて、どうしようもなく足場の悪いジャングルの道を3,4時間歩いた末にようやく辿り着く滝や、船でしか訪れることができない船浮集落、そしてマングローブの中に埋もれている炭坑跡などに行ってみるのをお勧めするよ。」

僕の話をじっと真剣に聞いていたヨンジュンは、少し頬を紅潮させて真っ直ぐに僕の方を向いて話し始める。
「そう言われてみれば、韓国にも歴史というよりは、断絶の歴史、つまり歴史になり損なったような場所がいくつもある。でも、そういう場所に、無理に歴史性を作り出そうとするんだよ。韓国という国は、きっと日本以上に歴史をやり損なった部分に対してトラウマのようなものを抱えている。だからほとんど暴力的に何でも歴史化したがる。いまの話を聞いて僕は、あらゆる歴史というのは、元々は流浪でしかない気がして、いま僕がこうしてバリ島に辿り着いたのも、ひとつの流浪の表現だという気がした。僕のような(ゲイという)セクシャリティは特に、定住せずに流浪するというライフスタイルで生きざるをえない部分があるんだよ。でも、矛盾するようだけど、僕たちは歴史化しなければ、きっと生きていけない。それは生き延びていくために必要なことだよ。そう思いませんか、トバさん。その意味で、歴史をやり損なったために強力な歴史化を進めようとする韓国という国家に、僕は深い慈しみを感じている。」

そこまで話したところでヨンジュンは背を向けてトイレに行く。僕は食べ損なってすっかり冷えたポテトフライを口に煩張りながら、ヨンジュンの言葉を反芻する。「僕たちは、歴史化しなければ生きていけない。」とても切実な言葉だ。

「バリにいいゲイビーチはあったかい?」ダーンがヨンジュンに尋ねる。

「ゲイ専用というわけではないけれど、スミニャックのほうに、雰囲気のいいビーチバーがあって楽しかったよ。」

「バリはゲイの人たちにとっていい場所なの?」僕はヨンジュンに尋ねる。

「うん、とてもいい場所だよ。みんな寛容だし。韓国は…日本もそうだと思うけど、どんなに性的マイノリティへの理解を社会的なトピックとして扱ったところで、根っ子のところで寛容さがないんだ。ゲイがゲイのまま社会で生きていくことは難しい。インドネシアはイスラム圏だけど、バリはヒンドゥーだからね。みんなおおらかだから、自然なことだと見てくれる感じがする。そういえば、意外にイスラム圏も最悪ではないんだ。トルコやイラン、パキスタンに行ったけれど、別に大丈夫だった、というか、壁を作られる感じがないというか……。北欧とかって、すごく寛容なイメージあるじゃない? でも違う。セパレートするためのシステムが巧妙なだけなんだよ。韓国や日本がこれから目指す方向なんだろうけど。」

ヨンジュンの話は本当に面白い。彼はちゃんと体で物を考えている感じがする。

「トバさんはどこかのビーチに行ったの?」とヨンジュンに尋ねられたので、僕はここから歩いて3分のビーチが案外お気に入りなんだと話した。

「トバさん、あのビーチは沖まで泳いではいけない。潮の流れのせいであっという間に沖合に流されてしまう。そうなったら一巻の終わりだよ。」パッキンは僕に言い聞かせるように言う。僕は危険なことはしないと、パッキンと小指を掛け合わせて約束をする。

「夕方になるとビーチに野生の犬が来て怖ろしいんだ。」
僕がそう言うと、パッキンは「野生というより、あれはビーチの犬だ」と答える。「ビーチの犬」という彼の言葉に要領を得ない顔をしていると、「きっと、所有というステレオタイプの概念が君を混乱させている」とアントンが言う。

アントンの説明によるとこうだ。そもそも犬などのペットを所有するという考え方がこの島では優勢ではない。町の中にいる犬たちは、そのほとんどが放し飼いで飼われている犬だ。飼い主がひとりとは限らず、村の犬、ビーチの犬というかんじでなんとなくその場所で飼われているから、責任の所在が明らかではないことのほうが多い。というか、責任の所在なんて小難しいことを考えている人がそもそも少ない。その犬たちは野犬(wild dog)ではなくて、野良犬(stray dog)ともちょっと違う。彼らは単に人間と同じ生活圏を生きていて、良いところも悪いところもある仲間なんだよ。

すぐ隣では、ジェニファーとジャックが例の笑い声を出しながら、今日の昼間、運転中に突然レンタルバイクのハンドルが左方向だけ動かなくなったというトラブルについて語っている。

「バリ島は丸いから、右にしか曲がれなくてもいつかゴールにたどり着けると思って進もうとしたんだよ。でも知ってた? 完全にまっすぐな道はないんだよ。だからちょっとしたカーブで曲がれずに大きな車とぶつかりそうになってね。」

そんなウソみたいな話を激しいジェスチャーつきでパッキンに話すジャックの隣でジェニファーは「左に動かなくたって、あなた、右を3度繰り返せば左になるわよ!」と言いながら声を上げて笑っている。ふたりはいつもこんな感じなんだろうなと思う。

5日目の朝、ゲストハウスを発つときには、ダーンとリサが部屋から出てきてお別れのハグをしてくれた。ヨンジュンとアントンはたった30分前に発ったらしく、「ヨンジュンはしきりにトバさんとビーチに行きたがっていたよ」と、パッキンはいかにも惜しかったねという表情で言った。

「ところで、パッキンというのは本名なの?」と僕が尋ねると、

「違うよ、パッキンというのはアンクルキム(キムおじさん)という意味だよ。もう十年以上前にゲストの誰かが呼び始めて、それからずっとゲストの間で呼び名が引き継がれているんだよ」と彼はちょっと誇らしげに答えた。

チェックアウトの支払いも終わって「バイバイ、アンクルキム。スクスモー、アリガトー!」と玄関を出ようとする僕をわざわざ引き留めて、「こまったときはおたがいさま」とパッキンは唐突に日本語でしゃべって僕を驚かせた。

彼から突然メールが来たのはそれから3か月後である。そのメールには、「いま僕は日本に来ているが、お金をなくしてしまい手持ちのお金がなくなってしまった、ここに8万円送金してほしい。困ったときは互いに助け合う気持ちが大切だ、僕を助けて!」とあり、メールの最後には振込先の銀行口座が英文で示されていた。

彼はおそらく同じようなメールを宿泊者たちに送っているんだろうと思いながら、「いま日本のどこにいて、どのような状況か詳しく教えてくれ、送金以外の方法で助けられることがあると思う」とメールしたが、そのメールに対する返信はなかった。

僕がもし再度あのゲストハウスに行くことがあれば、最初にやるべきことは「あのとき、日本で大丈夫だったかい?」「誰かあなたに送金してくれたの?」とパッキンに尋ねることだ。

ゲストハウス近くのビーチ

 

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。