「誰でもない」の応答は、しばしば日本的と見做される連帯責任を帰結させた。ところで、ウーティスと真反対にみえる責任の様態に、「自己責任」がある。
たとえば、海外で日本人がテロリスト集団の人質になると決まって話題になるのが「自己責任」論だ。彼らは危険な場所だと分かって赴いたのではないのか? 自分で決めたことなのだから仕方がない。このような責任観ならば、拡散していく連帯責任=「無責任の体系」を回避することができるかにみえる。
けれども、速断は慎まなければならない。というのも、多くの場合「自己責任」の言明は、その「自己」自身である当事者から名乗りが上がるのではなく、部外者によって見出されて追及される責任の形態であるようにみえるからだ。
他者による責任追及一般が無効であるとはいえない。ただし、そこで見出される「自己」なるものは、前回みたように拡散した責任を個人に集約させ、すべてをなすりつけるスケープ・ゴーティングの産物なのではないか、と疑ってみる必要はあるだろう。ある個人の帰責と同時に、その裏では様々な関与者、政府やときにはその部外者自身の免責が行われているのかもしれない。
実際、阿部昌樹は、インターネット上にある「ユーザ」や「お客様」に対する「自己責任」勧告のテクスト分析から、ネット上の「自己責任」論の多くがいわんとしているのは、「書き手自らは責任を負わないことを宣言する、責任回避の発話」であるとの仮説を唱えている。
だとするならば、「自己責任」もまた、自分には関係なく、すべては他人のせいだ、という思考を支える「無責任の体系」の副産物にすぎない。ここにおいて、自己責任は自業自得と大差なく、大局的にいえば連帯責任の一つの帰結、ときに悪質な責任転嫁の論理に過ぎなくなる。
赤木智弘の「自己責任」批判
「自己責任」という無責任、を回避するため、瀧川裕英のように、一見直結しているようにみえる自己決定と自己責任の概念を細かに分析することもできる。自己決定が、直ちに自己責任を帰結させないことは、戦後世代の戦争責任のように自己決定していないのに負うべきとされる責任があること、また薬物中毒のように自己決定しているのに責任が免除される場合があることを考えてみれば、一目瞭然だ。
しかしながら、「自己責任」を部外者に押し返す、再転嫁だけで満足するべきではない。とりあえずは、曖昧な場所で踏みとどまらねばならない。
自己責任が話題になった事件はほかにもあった。二〇〇七年、フリーライターの赤木智弘が、「希望は、戦争。」という派手なキャッチフレーズとともに、三〇代フリーターという進路を自己責任だとする言説を激しく批判したことは記憶に新しい。
赤木によれば、ポストバブル世代(=団塊ジュニア世代)の弱者男性は、自己責任という名目の下、社会的に抑圧されている。就職時に不況であったという偶然的な要因だけで年収一三〇万円以下の不安定な労働を押しつけているにも拘らず、その人生は自分で選んだものなのだから社会的に保護する必要はないと問題に蓋をする自己責任論は、女性や子供といったテンプレ的弱者とは異なる、目立たない弱者、即ち弱者男性の切り捨てに他ならない。
座して惨めな死を待つくらいならば戦争のような国家的事業のガラガラポンにすべてを賭けたいと思っている若者は多い、というのがその主張の旨である。「希望は、戦争。」とは、東大エリートであった丸山眞男――皮肉にも「無責任の体系」の放置を厳しく批判した男――が戦場では中学にも進んでいない一等兵にイジメぬかれたというエピソードが象徴する逆転劇へのスローガンである。
吉本隆明や鶴見俊輔なども応答することで、論壇の巨大トピックになった赤木論は、フリーターの困難を訴えたことも然ることながら、単なる経済的格差だけでなく、社会的承認の格差を問題提起したことを一つの特徴としている。
無気力で努力しないワガママ、国のGDPを下げる厄介者、といった俗流若者論から始まり、結婚や子供といった「普通」のライフステージも見込めないフリーターの人生は著しく尊厳を奪われた状況にある。赤木がその立論のなかでときおり垣間見せる、看取る家族もおらず一人で自殺するくらいだったら戦争の「英霊」として祀られた方がマシ、といった自尊心に関する欲望は、カネに還元できない社会的価値への切望を暗示している。
敵意の先取
ただし、ここで直観的な疑問が生じる。果たして、我々の社会において、自由業一般に対する自己責任論的な攻撃に直接出会うこと――お前が決めたことなんだから、私は知らないよ!――は、それほどまでに多いだろうか。
そう感じてしまうのは、赤木の摘発するフリーターイジメの実例が、いささか的を外しているようにもみえるからだ。
たとえば、赤木は二〇〇五年に七歳の女児が殺害される事件を受けて盛り上がった、登下校のさいにスクールバスを導入しようという議論に反発する。「そこで危険なものと認識される「他者」とは、家から学校の間にいる他人です。〔中略〕彼らの念頭にあるのは、平日の昼間に働いていない、不安定な立場の非正規労働者でしょう」と述べ、「スクールバスの論理を安易に認めることは、安定した生活を送れない人間を犯罪予備軍であると、暗に認めているのと同じことになる」と推論する。
或いはまた、監視カメラの設置についても同じことが述べられる。つまり「「子どもの安全・安心のために街頭にカメラを設置して不審者を監視する」とアナウンサーが読み上げるのを聞いて、「ああ、不審者ってのは、平日の昼間に外をうろついている、俺みたいなオッサンのことか」と打ちのめされる」。
断っておけば、これら推論は実際には正当かもしれない。スクールバスの提案者や監視カメラ支持者の圧倒的多数は、脳内では非正規労働者を犯罪予備軍に数えているのかもしれない。
けれども、三〇代フリーターへの直接的な言及がなく、またそれに類する資料の提示もない以上、推論は説得力を欠いているようにみえる。端的にいえば、深読みに思える。彼らが念頭においている犯罪者(仮)が、浮浪者や外国人労働者、正社員として働きつつもその裏で拉致の計画をたくらむ小児愛者であったとしても、依然としてスクールバスや監視カメラを推奨することに矛盾は生じない。
赤木は、ここで敵意の先取を行っている。様々な社会的アクションを自分への攻撃としてコレクションしている。彼らは自分たちを馬鹿にしているハズだ。このハズの累積は、焦燥感の証明にはなれど、被害の客観的な実証としてはほとんど寄与しない。
格差是正を訴える社会評論の体裁をとりながらも、赤木のテクストが興味深いのは、こういった議論の性急さであり、そこから透かして見えてくるのは、言葉による共感さえ期待できない書き手個人の実存的絶望である。
弱さのコレクション
赤木批判をしたいわけではない。赤木の鬱屈感は、本人にとっては誰であれ決して否定できないリアリティーをもっているはずであるし、そもそも、テクストに表れていないだけで非正規雇用に関して実際に個人的な攻撃を受けた経験があるのかもしれない。なにより、様々な政策傾向から、社会全体が非正規労働者にとって生きにくい制度設計になっていること自体は客観的な事実として認めてよいように思える。
にも拘らず、テクストに宿っていた性急さを切り捨てるべきではない。そこに表れている敵意の先取は、責任を押しつけられやすい「自己」が抱える特徴的な心性を、作者の意図を超えて表現しているようにみえるからだ。
いささか気取った言い方をすれば、次のように洞察したくなる。おそらくは貧困や社会的承認の不足から来る、ある種の弱さとは、弱さを手放せなくなるという弱さなのではないか。自分が獲得した弱さを後生大事に守るだけでなく、負の財産に目が眩んだかのように、あれもこれもと弱さの蒐集に没頭する弱さなのではないか。
自己責任論は、アトム化した諸個人の自由な経済的闘争を推し進める一方、そこからこぼれ落ちた敗者には何の手当もなされないという、新自由主義(ネオリベラリズム、略してネオリベ)の代表的イデオロギーだとしばしば総括される。
仲正昌樹は、その理解を退け、「〝三十代〟の若者に対して、「自己責任だ! 負け犬!」という罵声が浴びせかけられるドラマチックな光景が日常化しているのなら話は別だが、私は見たことがない」と、自己責任論信者の実在を疑っている。これは十分首肯できる意見だ。個人的な話をしてよければ、筆者も五年間ほどフリーター生活をしているが、そのような「ドラマチックな光景」に出会ったことはない。
では、赤木の鬱屈は所詮、被害妄想に過ぎないのか。そうではない。言語化困難な被害感情を遡っていくと、「誰でもない」者の差別的な視線の先取に行き着く。「誰でもない」者を回避できたと一瞬思えた自己責任論は、その「自己」からすれば、世の中のあらゆる禍の原因を方々から押しつけてくる無責任なウーティスの包囲網として実感される。
羊(ゴート)のまなこには鵺しか写らない。
ドラマに登場しない観客たちがかもしだす空気や雰囲気こそ、弱さを集めよ、と弱者に命じるのだ。
参考文献
- 赤木智弘『若者を見殺しにする国』、朝日文庫、二〇一一年。とりわけ一五六頁、二一〇頁。元の単行本は双風舎、二〇〇七年。
- 阿部昌樹「「自己責任」の法社会学」、『法学セミナー』二〇〇一年九月号。とりわけ、三八頁。
- 瀧川裕英「「自己決定」と「自己責任」――法哲学的考察」、『法学セミナー』二〇〇一年九月号。とりわけ、三三頁。
- 仲正昌樹「自己決定と自己責任」、『一冊の本』二〇〇八年三月号。とりわけ、五六頁。