第1回 「誰でもない」を生きること

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。

 

誰しも「誰でもない」と言うことで大きな難所を切り抜けた経験があるものだ。

ホメロス『オデュッセイア』第九歌。トロイア戦争凱旋のおり、船が難破して遭難してしまい、なんとか故郷に還らんとするオデュッセウスは、その帰路でキュクロプスたちに囚われる。

キュクロプス、英語読みすればサイクロプス(Cyclops)とは、一つ目の巨大な怪物のことである。オデュッセウス一行は、見張りのキュクロプスを言葉巧みに騙し、酒で酔わせ、ついには丸太でその目を潰す。

肝心なのは怪物退治で用いたオデュッセウスの作戦である。「お前の名前をいってみよ」というキュクロプスの問いに、オデュッセウスはそのとき「ウーティスoutis」、つまりは「誰でもない nobody」と返答する。めしいた見張りの悲鳴を聞きつけ、仲間の怪物たちが集まり、報復のため犯人の名を問いただすが、見張りが答えるに、「誰でもない」。誰でもないのだから、仕返しのしようがない。こうして、オデュッセウスたちの脱出がまんまと成功するのだ。

偽名を使うこと、しかも、ほとんど名の体裁をもたないような名を名乗ること。つまりは、匿名になること。英雄のイメージとは程遠い、この姑息な作戦は、しかし、現代に生きる私たちにとっても決して無縁のものではない。

仕事で大きなミスしたとき、上司から「誰がやったのか?」とその帰責を問われる。誰も傷つかない唯一の答え方は、誰かがやりました(=誰がやったのか分かりません)、であり、その先に待っているのは、誰もがやりました(=みんなの責任です)、である。「誰」が特定できないならば、責任は拡散して、ある集団のメンバーが小さくその責めを分担することになる。

責任のシェアリング、これを古い言葉で連帯責任という。

つ づ き を 読 む

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo