第18回 宙に浮かぶ自我

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第18回は、ロールズの「無知のヴェール」を「負荷なき自我」として批判するサンデルに対し、ロールズの擁護を試みる。

高橋哲哉は、加藤典洋による自国兵士の優先的哀悼の提案を、身内をかばう内向きの議論だと批判して、アレント哲学に求めるべきは、情が残っていたとしても身内贔屓をやめる非情なジャッジメント(裁き=判断)、即ち、正義であると考えた。

復習する。高橋のいうジャッジメントとは、後期アレントに由来しており、決して演劇的にならない「注視者」、スペクテイターによって公平無私の判断が下される。なぜ、その判断が公平といえるのか。スペクテイターは想像力を用いて、――高橋が引用するアレントの言葉でいえば――「自分の判断を他者の現実の判断よりはむしろ他者の可能な判断と比較し、自分自身を他のすべての人の位置におくこと」で達成されるからだ。

この「注視者」は孤独のなかで物語=歴史を判断する。けれども、想像力を介することで、特殊な自分の判断だったものが、共通感覚にアクセスして、誰もがそう判断するだろうという普遍的判断へとバージョンアップする。

孤独のなかで他者と共に。はて、なにかに似ている……そう、ロールズがヴェール的匿名性で目指した公平無私の態度である。

真空の政治へ

舞台上の役者は、全景を見渡せないため、部分的=偏向的=不公正的(partial)な視点しか許されていない。対して、観客(=注視者)はその部分性を克服して全体(主義)的たりうるが、そのうねりは舞台の役者を飲みこむ貪欲を秘めている。そこにおいてロールズ的当事者(parties)の観点の先取は、実現していない部分的=偏向的=不公正的な自分自身という模擬を経て、舞台と客席の仕切り直しを命じる。

ヴェールを用いてペルソナとノッペラボウを改めて面会させようとするここでの発想は、「私利私欲」(加藤典洋)のシステムに引きずられすぎないように、高橋哲哉的正義論を改鋳することで、頼りない「私」をその頼りなさの程度含めて点検する方法に替える、という計画でもある。

とはいえ、高橋は――そして元ネタになったアレントも――おそらくヴェール的匿名性に賛意を示さないだろう。

なぜならば、高橋にとって、正義の実行とは、アイヒマン裁判や従軍慰安婦問題での加害者や犠牲者の位置に身を置いて、つまりあくまでも歴史内在的に判断することに相当するが、ヴェールは歴史的証言を括弧にかけた抽象空間で判断することを迫っているからだ。

ペルソナが声の政治を、ノッペラボウが息遣いの政治を司るのならば、ヴェールは人間関係や歴史の重力に縛られた「空気」を排して成り立つ真空の政治を暗示する。高橋やアレントに、そのたぐいの情報制限の道具立てをわざわざ自らに課そうという意欲は存在しない。

負荷はどこへ消えた?

実在感がなくてフワフワしているようにみえるこの思念体への疑問は、マイケル・サンデル『リベラリズムと正義の限界』によっても提起されていた。

二〇一〇年、ハーヴァード大学での講義のテレビ放送をきっかけに日本で一躍有名人となったサンデルは、元々、ロールズ正義論を批判することでキャリアを積んでいった政治哲学者だった。

サンデルが説明するに、ヴェール下の当事者は、自分と他者との識別できるような既知の特徴を無くしてしまうため、その人格の理解は個人主義的だ。「原初状態」は他者との合意の体裁をとってはいるが、実は観念の一人相撲に等しい。これをサンデルは批判的に「負荷なき自我 the unencumbered self」と呼ぶ。重みを失ってフワフワ浮かんでしまう風船のようなイメージだ。

対して、現実の自我には負荷がある。つまり、「各個人は、独特の時間や空間に位置づけられ、特定の家族や社会のもとに生まれるのであり、このような環境や、それから生じる利益・価値・大望がともに、偶発的であることから、人々は分けられ、現在の特定の人格となる」。決して自分の意志で選んだわけではないこの共同体への組み込まれ状態が、個々人の負荷ある個体化のコードを司っている。

多元的な人格を生み出すこの個体化のコードなくして、個性豊かな多数の人間存在を認めることはできない。このような負荷性は、やがて『民主政の不満』で「位置づけられた自我」と名づけられることになる。サンデルのロールズ批判はコミュニタリアニズムの代表的論客らしい主張に繋がっていく。つまり、頭の中で抽象的に導き出された正義の原理なんかよりも経験的に得てきた共通善が我々にはあるじゃないか、というわけだ。

功利主義の没人格に抗って

ヴェール下の当事者が個人主義的だというのは、それなりに理解できる。

ロールズは『正義論』において、既存の道徳学説を検討するなかで、快苦の計算で善し悪しを決定する功利主義を非難する。そのとき訴えかけるのが、古典功利主義がもっていた複数の人格間の区別に対する無視であった。

安藤馨の統治功利主義を見ても分かる通り、功利主義は個人を、量の多寡、集計可能な快苦に還元することで、ある人間がどんなユニークな人格をもっているかという観点をしばしばなおざりにする。その計算が偏りのない観察者に託されるのならば――現代ならばスマートな統治のために最適化されたアーキテクチャ?――、文句が出るはずがないではないか。ロールズの言葉を借りていえば、「不偏不党で共感的な観察者の是認は正義の基準として採択され、そしてこのことが没人格性 impersonalityに、すなわちすべての欲求をひとつのシステムへと合体することに、帰着する」。正しく、ノッペラボウ的匿名性にペルソナが消えていく。

けれども、ロールズは個人の人格=ペルソナを手放さない。ヴェールの当事者は独りで生きていくことはできず人々との社会的協働に参画することを予期しており、人格がなければ相互の協働で築かれるシステムは維持できない。だからこそ、「功利主義の学説の誤りは、没人格性を不偏不党性 impartialityと取り違えている点にある」。ヴェール的匿名性が切り拓く公正性とは、ペルソナを破壊した合計というノッペラボウのそれとは異なる。ヴェールはペルソナを破壊するのではなく、その内容を未知なるものに代えているだけだ。

ロールズを擁護する

ロールズに対してサンデルのように個人主義の偏見だと難ずることも不可能ではないかもしれない。けれども、サンデルのロールズ批判にどれくらい真剣に付き合えばいいのか、いささか疑問なところもある。

一旦「負荷なき自我」の批判にくみしつつも、あくまでロールズ正義論のもつ抽象的な正しさを擁護しようとする井上達夫の好意的な工夫を思い出してもいい。

こういうことだ。然り、現実の自我(主体)は具体的な共同体の伝統のなかに位置づけられている。その位置を無視した理論は空論である……が、その共同体の伝統の理解は果たして周知のものか? 同じ共同体のメンバーでさえその解釈は相互に相違してしまうのではないか? 我々は既成のお仕着せ解釈で満足しない「自己解釈的存在」であり、自分が依って立つものの解釈多様性にこそ、ロールズ的発想を延命させるだけでなく、鍛え上げもする――コミュニタリアニズムとの対決を経て止揚された――「逞しきリベラリズム」の契機が認められる、と。

ただ、それ以前に、ヴェールや原初状態といった道具立ては(ロールズにとっては正義の原理を導き出すための)単なる「方法論」であるのに過ぎないのに、サンデルはそもそもそれを「存在論」=「哲学的人間学」と取り違えてしまっている、という渡辺幹雄が指摘する問題がある。方法論の段階で個人主義を採用したとしても、それは共同体に基礎づけられた人間の生を否定するものではない。

つまり、サンデルは人工的なベキの世界に対してデアルの難癖をつけている、というわけだ。立っている土俵が違う。

自分の信じる理論を論敵に押しつけて勝った気になってるだけ。ロールズからしてみれば、そもそもそんな話してないんですけど……、といったところだろうか。

参考文献

  • 井上達夫『他者への自由――公共性の哲学としてのリベラリズム』、創文社、一九九九年。とりわけ、一六〇頁から一六二頁。
  • サンデル『リベラリズムと正義の限界』、勁草書房、二〇〇九年。とりわけ、五七頁、五八頁。
  • サンデル『民主政の不満――公共哲学を求めるアメリカ』上巻、小林正弥訳、二〇一一年。とりわけ、一四八頁。
  • 高橋哲哉『戦後責任論』、講談社学術文庫、二〇〇五年。とりわけ、一一五頁。元の単行本は講談社、一九九九年。
  • ロールズ『正義論』、川本隆史+福間聡+神島裕子訳、紀伊国屋書店、二〇一〇年。とりわけ、二五五頁、二五八頁。原著は一九七一年(改訂版は一九九九年)。
  • 渡辺幹雄『ロールズ正義論とその周辺――コミュニタリアニズム、共和主義、ポストモダニズム』、春秋社、二〇〇七年。とりわけ、九八頁。