第15回 仮面淑女の闘い

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第15回は、伊藤整の長編小説『火の鳥』のヒロイン・生島エミの日本的「空気の支配」との闘いぶりから見えてくるもの。

サイクロプスは、洞窟に住んでいる一つ目の巨人であるが、たまたま島を探検しようと十二人の部下を連れてその洞窟に入って来たオディッセウスは、この巨人の捕虜になり、朝晩に二人ずつ部下をとって食われる。トロイ戦で第一の智将と言われたオディッセウスは、謀を案じ、携えていた葡萄酒をこの巨人に飲ませ、酔いつぶれて寝たところを、その巨人の杖の一端を切った材木を削りとがらせたのを火で焼いて、その眼に突き刺し、ようやく逃れて、船に乗り、海上へと漕ぎ去る。(伊藤整『得能五郎の生活と意見』第一〇章)

詩人として出発しながらも、昭和初期の文壇に新心理主義をいち早く導入した小説家の伊藤整は、ジョイス『ユリシーズ』を訳出するにあたって、その元となった『オデュッセイア』を読む必要に直面した。その甲斐あってか、長篇小説『海鳴仙吉』や、いま引用した『得能五郎の生活と意見』などには学習の成果を反映するかのように日本のオデュッセウスの影が作全体に落ちている。

ただ、文士仲間から聞いたポパイの一エピソードから『オデュッセイア』を連想する、冒頭で引用した場面では、私たちにとって重要なポイントが無視されている。勿論、ウーティスの策略である。

では、伊藤整は「誰でもない」の想像力をまともに受け止めなかったのだろうか。勿論、そんなことはない。注目したいのは『火の鳥』という長篇小説だ。

三〇歳を超えてベテランの域に達しつつあるイギリス人と日本人のあいだのハーフ、生島エミは、演劇理論家である田島愛美の小劇団「薔薇座」の看板女優だ。かつて劇団員で堕胎騒動を起こした杉山、エミを自分の理論の最高の体現者と考えて愛人関係を結ぶ田島、そして映画で共演することになる若き俳優志望の長沼とのロマンス……。数々の男性たちと肉体関係を結びながらも、エミは自分の核にある不安定なアイデンティティに向き合っていく。

一九四九年から一九五三年までに発表した連作の短篇をつなぎ合わせて、一個の長篇として五三年の八月に光文社から単行本化された。

配役の不自由

エミの格闘は、いわば日本的(と形容される)「空気の支配」をいかにねじ伏せるか、に傾斜している。「日本の家庭で、未来の同じような家庭の主婦になる鋳型にはめ込まれながら育って来た少女たちは、自分の意見、自分の一人立ちの心を持っていないのだ。何かにもたれ、絡まり、陰口を言う。私はそんな風に育たなかった」。けれども、そんなエミも、周囲の日本人を無視して独立独歩を貫くことはできない。とりわけ、混血児であることにコンプレックスを抱く彼女は、周囲の視線を過剰に意識し、日常生活でも幼い頃から演技的に振る舞ってしまう。だからこそ役者とはエミにとって天職に等しい。

どのように、ねじ伏せるか。エミは演技の洗練を目指すことで、舞台の支配権を手中に握ろうとする。花形として舞台を統べ、他の役者が結果的に自分の引き立て役になってしまうとき、エミは自分に憑依した「配役を支配する力」を自覚する。

役者の不足はいつも役だ。配役さえあれば。その配役だけが役者の自由にならないものだ。劇団がもめたり、分裂したりする。それはどんな名目であろうともその実質は配役への不満からだ、と役者仲間では信じている。その配役の実在しない責任が私の背中にかぶさってしまった。あの人たちの私に見せる表情、気がねした物言い、注意深いキッカケの渡しかた、それが皆その幻影の及ぼす力なのだ。(『火の鳥』第二章第三節)

卓越したアクションは、舞台監督・田島の指導を離れて、場面を牽引し、ときに自分が最も輝くように周囲を組織する力を帯びてしまう。実際、エミは所詮は西洋への憧憬にすぎない田島の演技指導に従わず、学校という舞台で培ってきた自分の演技力の方を信じる。

ここで発生している「責任」とは、ペルソナの分節(=配役)に由来している、根柢では連帯的なものだ。エミの日本的「空気」への抵抗運動は、「空気」の外を目指すというよりも、毒食らわば皿まで、誰よりも声を響かさせることで「空気」を我が意にかなうものとして取り扱える操縦権の独占を意味している。

郷に入っては郷に従え、服従の徹底化こそが他郷を自分の王国に変える唯一の手段だ。

映画は編集できる

エミの自負は、映画女優に対する優越感からも伺える。たまたま入った蕎麦屋で、エミは映画の脇役で活躍している後輩と彼が連れていた新聞にも写真の出る新進の若い女優に出くわす。「どうしても私は映画人を、あのノッペリした大衆志向の均一菓子のような顔を軽蔑せずにいることができない」と思うエミは、顰蹙を買うことも恐れず、彼女を「芸なしの人形」と揶揄する。

なぜ、エミは映画人を敵視するのか。彼女の言葉に従えば、同じ役者でも「顔の美術的な魅力をアップで利かせる映画俳優と、自分で作品を理解した人間にだけ出来る配役と自分の性格の合致という難かしいことを全身でやるのが条件の舞台俳優」は、その行っている内容において大きく相違する。つまり、「切れ切れの、監督が出す一コマずつの演技の切れっ端でしかない映画の撮影に必要な演技は、あれは監督の心の中の演技なので、俳優の演技とは言われない」。

かつてベンヤミンが指摘していたように、舞台と違って、映画は編集可能性に開かれている。現在進行形のアクションを後から切り刻んで、監督の思うがままツギハギして再構成できるのが映画最大の特徴だ。田島の演劇理論さえも無視して己の演技に集中しようとするエミは、これに我慢がならない。そこで生じているのは自分の卓越した演技を殺して、支配権を他人に譲り渡すことであり、翻っていえば、この要求に迎合する演技など真正のアクションと呼べないからだ。だから映画俳優は演技(=「芸」)のない「人形」というべきだ。

ペルソナによってアイデンティティを獲得するエミにとって、大根役者でも編集次第でどうにでもなる映画は、ペルソナの尊厳を奪い、果ては演技を壊しかねない危険なものだ。いってみれば、映画人の「ノッペリ」した表情には、ノッペラボウに転落してしまう危機感が予告されている。もしペルソナが必要ないのなら、自分は、監督の考えるまま、そして「空気」の流れるままに、流されてしまうかもしれない!

演技の日常化

けれども、『火の鳥』というテクストが興味深いのは、映画人を毛嫌いするこのエミが、気紛れにも主役として映画撮影に参加し、そこで出会った新人俳優(=「ニュー・フェイス」)の長沼と恋愛まがいの事件さえも起こすということだ。「火の鳥」とは、この映画の題名でもあった。ハーフの彼女は、その技能においても、分裂的な状態に身を置こうとする。つまりは、舞台人かつ映画人として。

けれども、過剰演技といえるほどの芸の追求は、彼女の日常を確実に蝕んでいく。映画会社でストライキが生じて馘首されたことを機に左翼演劇を始めた長沼から舞台への出演を頼まれたエミは、その誘いを受け入れる。けれども、当日、舞台終盤で警官が乱入して暴動に発展。エミは騒動のさなか警官から殴打を食らう。そのことが新聞のスキャンダルとなって、彼女は薔薇座での立場を失いかける。

座の人たちといる間じゅう、私は、あの新聞記事に書かれたとおりの人間として、ずっと先生をだましていた人間、長沼敬一を愛していて左翼の学生グループをずっと前から援助していた女として行動し、表現しているのに気がついた。(『火の鳥』第五章第七節)

虚実入り混じった新聞記事という名の台本の通りに、無意識のまま演技してしまっている自分に彼女は気づく。洗練された演技にアイデンティティを求めたエミは、その果てに空っぽな自分、つまり演技しているのではなく――たとえば対他的な「空気」によって――演技させられている自分の不確かさに直面する。「前から見られる自分は、顔も姿もあるが、後ろは、紙をかためて作った面のように凹んでいる空っぽのお面のように感じた」。日常生活に演劇が浸透し、複数のペルソナを常態的に使い回すことで、誰への回帰を約束しない裏に隠れていたノッペラボウが露呈する。

演技に使役されるに従って彼女は薔薇座の裏方への配慮を高めていく。具体的には「舞台裏の人々の間をまわって、皆に煙草を一つずつ配った。そして、それが私の日課になった」のは、まことに象徴的だ。根回しがなければ劇は崩壊する。舞台は仮面を被った役者だけで成り立っているのではない。

仮面紳士と逃亡奴隷

このような小説の筋立ては、「『火の鳥』は『小説の方法』の理論に基く作品」(「私の実験工場と作品」)という自作評を仲介せずとも、伊藤が抱いていた文学観を容易に連想させる。

伊藤が提唱した有名な概念に「仮面紳士」と「逃亡奴隷」という対がある。これは伊藤文学論の代表作『小説の方法』(一九四八年)にも通底している、その名も「仮面紳士と逃亡奴隷」というエッセイのなかで提示された。

伊藤によれば、日本の小説は外国文学のスタンダードな歴史からしてみれば奇矯な進化を遂げている。いわばガラパゴス化している。どういうことかといえば、日本では作家の身辺雑記をフィクションを交えず、あるがままに曝け出すような自伝的私小説が強い力をもっているが、こういったことは虚構の作品世界をつくりこむ本格小説を王道とする海外では余り見られない現象だ。

なぜこのようなことが生じるのか。伊藤の説明によれば、社交界に象徴される公的な場で他者と頻繁にコミュニケーションをせねばならない西洋の作家は、円滑なコミュニケーションのために自分のエゴイズムを抑圧する偽善的な仮面を身につける必要がある。これと並行して、本来ならば己の醜いエゴを仮託したいと思っている文学作品の主人公さえも素直に造形することはかなわず(危ない奴だと思われたらどうしよう!)、社会の調和を乱すような性格はことごとく虚構のものとして仮装しなければならない。そうでないと、社交の仲間からハブられてしまう。

これとは反対に、日本では生活の糧を出版業界に求めることで、厳しい社会(現世)から逃走して、社会人的常識を身につけない自由人として振る舞うことが許される。芸術への邁進によって道徳を逸脱したり身を崩したりしても、その事実そのものを嘘偽りなく暴露することで芸術至上主義的な評価に転換する術が日本の作家には残されている。

無論、西洋作家は「仮面紳士」で、日本作家は「逃亡奴隷」に分類される。「日本人は仮面を必要としない。フィクションなどは阿保らしいのである。フィクションなどというのは、夕方に燕尾服を着て出かける連中のすることである。奴隷にていさいはいらない」のだ。

本連載の言葉でいえば、「逃亡奴隷」とは、他者に頓着しないキュクロプスにほかならない。

参考文献

  • 伊藤整『得能五郎の生活と意見』、『伊藤整全集』第四巻、新潮社、一九七二年。とりわけ、一四九頁。もとの単行本は、河出書房、一九四一年。
  • 伊藤整「仮面紳士と逃亡奴隷」、『伊藤整全集』第一六巻、新潮社、一九七三年。とりわけ二九一頁。
  • 伊藤整『火の鳥』、『伊藤整全集』第五巻、新潮社、一九七二年。とりわけ、三一四頁、三二五頁、三三七頁、三三八頁、三六三頁、三六七頁、三八四頁、四〇二頁、四一二頁。もとの単行本は、光文社、一九五三年。
  • 伊藤整「私の実験工場と製品」、『伊藤整全集』第一七巻、新潮社、一九七三年。とりわけ、四四〇頁。初出は『朝日新聞』、一九五四年九月三~五日号。
  • 多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』、岩波現代文庫、二〇〇〇年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo

第14回 キュクロプス再考

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第14回は再び本連載の出発点に戻り、キュクロプスとオデュッセウスのエピソードについての考察から。

二つの提案に引き裂かれている。

一つは、各々のペルソナに相応しい責任をちゃんと自覚しながら、「空気」に流されない強い自分を維持すること。もう一つは、「空気」をより客観的に計算することで、個人の強い責任意識なしでも上手く回るスマートなシステムを構築すること。

二つをつなぐとこういうことになる。ペルソナとノッペラボウを上手く組み合わせて有効活用することで、深刻な帰結を与える「無責任の体系」を可能な限り回避するほかない。

実のところ、これが本連載の大枠での結論といって差し支えない。

驚くべきことに、ウーティスをめぐる私たちの航海は、この精彩を欠いた凡庸な結論に至る。しかもここには依然として、「無責任の体系」はおろか、スケープゴーティングや全体主義の危険さえも確かに潜伏しているのだ。

快刀乱麻というには余りに程遠い。完全なる打開策とは到底いえない、このパッチワークの弥縫策を、粗末と断じるのは簡単だ。けれども、私たちが遊覧してきたのは、「誰」への執着が反対に「誰でもない」を中継せざるをえず、そしてどんな「誰でもない」の責任論も、ある場面の欠陥を埋めるのには重宝できても、それ単独で手放しに誉めるには躊躇が要る、ということだ。

逆からもいえる。「誰でもない」の思想は、一見、ヒロイズムの欠片もない未組織な人間集団の弱さや愚かしさに支配された粗雑な世界を素描するが、他方、人間はそのような領域から完全に身を引き離して生きていくこともできない。それぐらい人間は弱い。

再びキュクロプスの国へ

最初の問題設定に戻ってみる。オデュッセウスは「誰でもない」の力を借りて、我らが宿敵のキュクロプスを撃退した。

そもそも、退治すべきキュクロプスとはなんだったのか。『オデュッセイア』から、その奇妙な生態を拾ってみる。

第一に、キュクロプスの国は豊かな風土に恵まれ、小麦も大麦も葡萄も放っておけば自然に育つ。だから、怪物たちは労働を必要とせず、悠々自適に暮らしていくことができる。

第二に、彼らは統治の法を必要としておらず、自分たちの領域の外に出ようとしない。「ここには評議の場たる集会も定まった掟もないし、彼らは高い山岳の頂きにある、空ろな洞窟に住み、それぞれ自分の妻子は取り締まるけれども、他とは互いに全く無関心で暮らしている」。

こうした非コミュニカティヴな性格は、彼らが航海に耐える頑丈な船や修繕を担当する船大工をもたないことにもよく表れている。「船さえあれば大方の人間たちが船を用いて海を渡り、互いに通交する如く、あちこちの町を訪れては、たいていの用事は果たせるであろう」が、楽園で暮らす怪物たちは他者に無関心で、そのような交通の機会に対してなんの意欲ももたない。

キュクロプスは一つ目の怪物であった。その単眼にはノッペリとした現在しか写らない。というのも、私たちの双眼は右目と左目の二つの異なる角度から視差を得て、脳内で立体感ある視界を構成しているが、キュクロプスの場合、単一のアングルのなかでしかこの世界を観察するほかないからだ。坂部恵によれば、カントは専門分野のことはなんでも知っているけれど他者からどう見えるかを全く吟味しない専門バカのことを「一眼巨人」と呼んでいたそうだが、ここにも他者性不在の生活を予告するものがある。異なる視角=視覚の統合が彼らには必要ないのだから。

ジェイムズ・ジョイスは、『オデュッセイア』を大胆に現代的に翻案した大作『ユリシーズ』の第一二章で、オデュッセウスとキュクロプスとの対決を、ユダヤ人である主人公のブルームと「市民 the citizen」という渾名をもつ名物男との酒場での喧嘩話に変形させている。国産のビールを飲む「市民」は熱烈なナショナリストで、ユダヤ人を嫌い、当然、ブルームのことを快く思っていない。「シン・フェイン党万歳!」と、「我ら自身で」を意味するアイルランドのナショナリズム政党の名でもってブルームの言葉を断ち切るその乱暴に、キュクロプスの単眼を読むことは難しくない。

ホルクハイマー&アドルノの『オデュッセイア』批判

アレント的にいえば、キュクロプスとは、他者とのアクティヴなコミュニケーションやペルソナの装着といった公的領域を必要としない私人たちの群れである。当然、「あいだ」の緊張も存在しない。しかも、彼らは私的なものを特徴づける労働(レイバー)さえも無用と斥け、満ち足りた生活を送っている。幸福な私的空間へと引きこもっている。

実のところ、キュクロプスの世界は、ノッペラボウ的匿名性だけを信頼して安住してしまった未来的人間像の戯画として読める。

再び問うてみる。なぜ、彼らは退治されねばならないのか。いや、もしかすると退治しようとする使命感そのものが間違っていたのではないか。余計なお世話。彼らは幸福に暮らしているのだから、そっとしておいてやれよ! 余所者のオデュッセウスの方が空気を読まなければならない?

実際、ホルクハイマー&アドルノは共著『啓蒙の弁証法』において、『オデュッセイア』を西洋の啓蒙的理性が野蛮で土着的な神話的世界を蹂躙して手懐ける暴力の過程の翻訳と読んだ。

彼らの観点に立てば、「誰でもない」に関する一連の応答も、神話世界の「非同一的なもの」を屈服させることで称揚される理性の自己確立、お膳立てられた詭計にすぎない、と解釈される。

オデュッセイアに一撃を食らわせられた盲目のキュクロプスは、その名をポリュペモスといい、その意味するところは、名の知れたである。名の知れたが「誰でもない」に打ち倒されるというこの筋立てが、私たちにとって印象深いことはいうまでもない。そして、匿名性を操る力は、名前の姑息な言葉遊び――固有名オデュッセウスの音に似た非名ウーティスの掛詞――を使って馬鹿な野蛮巨人を巧みに騙す、稀代の詐欺師を誕生させる。「形なきものへの擬態をつうじて自分の生存を維持する」オデュッセウスは、「思いあがりの虜」になっている、と二人は書く。

ホルクハイマーとアドルノは、驚くべきことに、キュクロプスの強力な弁護人であった。私たちもまた、責任などという面倒なことをがなり立てるのはやめて、素直に弁護陣営に下るべきなのではないか?

統治功利主義への違和感

安藤馨の「統治功利主義」を再び取り上げてみよう。安藤は「人格亡きあとのリベラリズム」を正当化するために統治の対象となる分割の単位が変化してきた歴史を参照している。

個人主義の浸透によって、家長を中心とした家族というかつての「連座制」から、個々の人格が解き放たれて、自由ではあるがその反面で強い自己責任を求められる世界が到来した。同様に、今後、その単位を時間的に一貫した個人主義的人格という「連座制」に閉じ込めておく法はない。連座の解体をさらに推し進め、一瞬一瞬のうちに生起する苦痛の感覚自体を単位として認めたとき、功利主義は「人格」をことさらに奉る必要がなくなる。

生活保護受給者が過去に自業自得な愚行を重ねていたからといってなんなのか。いま、彼が苦痛を感じているということだけが問題だ。これが安藤の「人格亡きあとのリベラリズム」であった。

このような構想には、しかし素朴な疑問が生じる。

たとえば、大屋雄裕のもの。自動的に苦痛に配慮するシステム自体は結構。けれども、その構想は誰に対する提言なのか? 明らかに統治者の「個人」や「人格」ではない。そうではなく、統治功利主義に従って制度化された環境自体である。では、環境は誰が構築・整備するのか? その構築者や整備者は、「人格亡きあとのリベラリズム」を信じる「人格」をもつのではないか? そのとき、「ソラリスの海」の環境は残余としての外部性を残すことになるが、彼がリベラリズムを裏切る専制を発揮しないとなぜいえるのか?

または、この論点に関係した稲葉振一郎のもの。統治功利主義的な「よき全体主義」が最適な仕方で人々を幸せにすることを認めるとして、その管理の担い手(全体主義の統率者?)は幸福なのだろうか? 人々の行動を対面しながら適切なものへと指導し、また自身の後継者を育てるようなコミュニケーションが一切なくなった世界は、単純に楽しいのだろうか?

ペルソナとノッペラボウの接触面

言い換えてみる。ノッペラボウに安住するのは結構だ。けれども、ノッペラボウに向き合うには、つまり八雲的にいえば「卵」のような一定の外形が縁どられた輪郭をもつには、私人の限界を示すペルソナが必要である。「卵」は(少し分かりにくい表現を使えば)対面困難なものとの対面可能性のために用意された怪異の人間的翻訳にほかならない。

或いはまた、別の言い方で。一般意志はたしかにある傾向性に収斂する。けれども、一般意志を可視化しようとする意志、一般意志を積極的に表示し参照しようとする意志は、その外部に存在しなければならない。そのとき、集合的無意識はここで自らに融解し尽くされない意識に出会っているはずだ。

要するに、他人に無関心なはずのキュクロプスは、実際にオデュッセウス一行に出会って問答を繰り広げている。この一事が不可避であることに集中せねばならない。

目的を修正しよう。私人の群れとしてのキュクロプスの完全な退治を目指してはいけない。それは公私を分節するペルソナがその背面で否応なく生み出してしまったツケのようなものだからだ。とはいえ、完全に放置することも不可能だ。ノッペラボウはすべてを包括できるわけではなく、その外部には必ずペルソナが生じている。

ならば、この二つが暴走せずに並走できる上手い方法を編み出さなければならない。

オデュッセウスは怪物との交渉に際して、持参していた美酒を勧めていた。前述したように、キュクロプス国は肥沃な土地に恵まれているから、わざわざ他人から頂き物をもらわずとも見事な葡萄酒を手に入れることができる。にも拘らず、産地の異なるその酒は「正にアンブロシアとネクタルのお流れといってもよい逸品」との味わいを怪物に与え、結果、オデュッセウスは問答を有利に進めることができた。アンブロシアとは神の口にする食物、ネクタルとはその飲み物のことだ。

自分の領土で自足できる者を魅了するのは、自分とは異なるもの、その違いを楽しもうと誘惑してくる、彼らが拒否していたはずの交通の魅力だった。たしかに自国産の葡萄酒はケチのつけようのないくらい最上のものかもしれない。けれども、外から来た別の土地の別の酒は、自国のものに慣れ親しんで満足を覚える舌に、また異なる快楽を与えるのかもしれない。

ペルソナとノッペラボウの間の調整は、単にペルソナ出現の不可避という一方的な都合によってだけ要請されるのではなく、ノッペラボウ側の豊かな変容のためにも求められるはずだ。

参考文献

  • 安藤馨『統治と功利――統治主義リベラリズムの擁護』、勁草書房、二〇〇七年。とりわけ二七九頁。
  • 稲葉振一郎『「公共性」論』、NTT出版、二〇〇八年。とりわけ三〇六頁。
  • 大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?――二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』、筑摩書房、二〇一四年。とりわけ一九六頁。
  • 稲葉振一郎『「公共性」論』、NTT出版、二〇〇八年。とりわけ一九八頁。
  • 大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?――二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』、筑摩書房、二〇一四年。とりわけ一九六頁。
  • ジョイス『ユリシーズ』第一巻、伊藤整+永松定訳、新潮社、一九五五年。とりわけ三八三頁。原著は一九二二年。
  • ホメロス『オデュッセイア』上巻、松平千秋訳、岩波文庫、一九九四年。とりわけ二二三~二二四頁。
  • ホルクハイマー+アドルノ『啓蒙の弁証法』、徳永恂訳、岩波文庫、二〇〇七年。一四〇~一四一頁。原著は一九四七年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo