第8回 その日はあいにく空いてなくてね──Bobby Charles, “Save Me Jesus”

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

ドクターQと一緒に暮らしたのは一年も満たなかった。

本名は明かせないからドクターQ。年齢も教えられない。そんなこと教えられるわけがない。どこで誰が聞いてるかわからないからね。CIAに追われてるんだ。昨日もあの角から誰かに見られてたんだ。昔はバークレーの大学院で法哲学をかじったよ。イエスという男はまったく変なやつだね。神とは思えんがね。僕は無神論者だよ。

会話の成り行きでわかったのは、彼がフィリピン系アメリカ人ということだけ。母親がフィリピンから出てきたのか、それとも彼もフィリピンで生まれて移住してきたのか、あるいは別のルートをたどってきたのか、わからない。両親は健在なのだろうか。シングルマザーだったのか。兄弟はいるのだろうか。ドクターQの来歴はいくつもの問いからできていて、確実な答えに落ち着くことはない。たしかに顔つきはアジア系で、黒い縮毛がほうぼうにカールしている。ヒゲは伸び放題で顔を覆い、髪の毛との境目はほとんどなくて。髪の毛の隙間から覗く右目は見えないのか、見えにくいのか、青白く濁っている。

ジョンはわざわざドクターQのためにエアベッドをどこからか見つけてきたが、結局それはいつも壁に立てかけてあってとうとう使われることなく、ドクターQはリビングのカーペットの上に、二枚重ねた段ボールをしいてその上で寝ていた。こっちの方が寝心地がいいんだ。段ボールといってもなんでもいいわけじゃない。このなみなみのクッションが大事なんだ。

シャワーを浴びているところは見たことがなかった。シャワーでもどうぞ、そう勧めると、ドクターQは弁明するようにもごもごと言う。どうもありがとう。でも心配いらないよ。三日に一回は洗面台で髪の毛を洗うようにしてるから。

ドクターQは何年、路上で生活していたのだろうか。路上での生活が屋根の下での生活よりも長いことは、どこか怯えたような足取りからも、くたびれた、影のような背中からも、誰かに殴られたとかで片方のレンズが割れたメガネからも、確実であるように思えた。

バークレーではホームレスが珍しくはなかった。ヒッピーの末裔のような白人の若者が、駅前にいつもたむろしていたし、高騰するばかりだった家賃は、路上を生活の場に変えた。それでもドクターQのように高齢で、しかもアジア系のホームレスを見かけることはあまりなかった。ドクターQは、これまでずっとアメリカ社会の隅で生きてきたのだろうか。家を持たずに生きてきたのだろうか。

ドクターQは、毛布一枚かけずに寝ていた。バークレーの気温はいつもどこか暑くて、どこか寒い。ちょうどいい服装というものが見つからず、シャツか薄手のアウターを持ち歩いて、寒くなればそれを着て、暑くなったらまた脱ぐ。少ない写真を見返してみても、どれも同じような服装なので、それがいつの季節なのかわからない。天候が記憶を妨げる。ドクターQはよれよれの黒いコートを着ていて、ポケットにはしわくちゃのナプキンがいくつも入っていた。いつ必要になってもいいようにね。

他に持ち物は肌身離さず持っているポシェットと、リュックサックひとつ、それだけ。中身はけっして人には見せない。

***

わたしたち夫婦がアメリカ西海岸のバークレーにわたったのは、2014年の夏のこと。それまでの一年半は台湾にいて、アメリカに住むのは初めてだった。バークレーには、急な坂をえっさえっさと登った先の丘に、神学校がいくつか点在している。だからそこはホーリーヒル、聖なる丘と、愛称とも皮肉とも取れるようなありがたい名称で呼ばれていて――神学生はその名前に誇りを抱いていたのだが――、わたしはそのなかの神学校のひとつに行くことになっていた。

神学校には寮がついている。神学生のための寮は格安で、他に部屋を探すまでもなかった。もっとも相部屋だったから、百々子も一緒に暮らせるか定かではなく、どうなるだろうかと、とりあえずきてみればどうにかなるんじゃないかと、何とも当てずっぽうにふたりでここまできたのだ。

同室はジョンといった。キャップをかぶった、Tシャツに半ズボンの、いかにもカリフォルニアという感じのやさしそうな白人の青年。

実は結婚しててね、パートナーと一緒に住めたらと思うんだけど、できないかな?

そう聞くと、ジョンはどうしてか我が意を得たりというように、そのきらきらした瞳を一層輝かせて、早口の西海岸訛りで、何か言っている。

もちろんさ! それはクールだ! 実にクールだ! 僕もね、君に言っておかなきゃいけないことがあって......

結局、彼の言葉を最後まで曖昧にしか聞き取れぬまま、わたしはとにかく百々子と一緒に暮らせる算段はついたようだと早合点して、そのことを彼女に報告した。

寮で暮らせるみたい。個室みたいだから大丈夫そう。なんか言ってたんだけど、ちゃんと聞き取れなかった。ホームレスのおじさんも、住んでるって言ってたような,,,

そこ大事でしょ。なんで聞き返さないの。

 

その翌日、部屋に行くと、ジョンとドクターQがいた。ドクターQが通りで暴徒に襲われているのをたまたま見かけたジョンが、彼を助けたのだという。そして行く先のなかったドクターQを、寮まで連れてきた。

君たちが同室でほんとによかった。ああ、いい同室をもった。神様に感謝しないと。奇跡だ、これは! 祈りは聴かれるんだな。クールだ。ジョンは興奮して喋り続けている。

ジョンは熱心なクリスチャンだった。聖書の言葉を一言一句そのままに信じる彼は、リベラルな気風だったその神学校では異質で、よく教授や他の学生と議論を交わしていた。ジョンにとってドクターQを助けることは、彼なりの「イエスの愛」の実践だったのだろう。ドクターQが神を信じれば、万事彼は救われるはずだった。そのホームレス状態からも、強迫的な幻覚からも、寂しそうな背中からも。教会でも、シェルターでもなく、ジョンは神に頼ろうとした。

もっとも、徹頭徹尾、無神論者で皮肉屋のドクターQは、ジョンに連れられて映画館で開かれるロックコンサートのような礼拝に出ても、ジョンに半ば無理やり聖書を押しつけられても、大木のようになびかなかった。ジョンはジョンで、めげずに彼の「伝道」をやめない。イエスに出会ってそのままでいるってことは、シャツを汚さないでスパゲッティを食べるようなことだ。不可能なんだ。

そんな二人は、とても仲が良さそうに見えた。

***

ジョンとドクターQ、わたしと百々子という奇妙なバークレーでの四人生活は、思いの外すんなりと進んでいった。ドクターQのスケジュールはいつも決まっていて、朝早くに、段ボールのベッドを畳んで、外に出ていく。帰ってくるのは夜になってから。

ときどき街でドクターQを見かけることがあった。当てもなく通りをぶらついていて、目は虚で。部屋にいるときとは別人のように見えて、声はかけづらかった。それでもストリートは彼にとって自由とか、故郷とか、そういう言葉にもっとも近づける場所だったのかもしれない。それともあの小さな部屋は、ドクターQがとうとう見つけた家だったのだろうか。

ドクターQはバークレーの街のいつ、どこで無料の食べ物が配られているのか、そういう情報にめっぽう詳しくて、わたしたちにも教えてくれた。そんな情報がドクターQの命の綱だったのだ。ソルー、あそこのピザ屋で無料ビザを配っているぞとか、今日は教会で炊き出しがある日だとか。わたしたちもだんだんそういう事情に詳しくなっていって、どこかでフリーフードを見かけたときは、ドクターQに教えた。

あれはサンフランシスコ・ジャイアンツがワールドシリーズで優勝した夜、ピザ屋の店頭に人だかりができていて、何事かと思って近づいてみると、ピザがまるまる一枚配られている。わたしたちも人を押しのけペパロニのホールピザを二枚受け取り、狭い部屋に帰って、ジョンとドクターQと食べた。こんな偶然、聖霊の働きに違いない! テスト期間にピザにありつけるなんて! 僕は最高にクールなルームメイトを持ったよ。これはジョンの言葉。

何がきっかけだったか忘れたが、毎晩、ドクターQが英語の単語を一つずつ教えてくれるようになった。大方、わたしのつたない英語を見かねたのだろう。ソルー、プリンセス・モモ、英語を教えてやろう。紙と鉛筆を持ってきなさい。書いてあげよう。

discombobulated (混乱した)、rain check (その日はあいにく空いてなくてね、別の日ならいいんだけど)。

毎晩の英語教室で学んだ短く、難解な単語たちは、ドクターQの曖昧で、謎だらけの来歴の隙間を少し埋めてくれた。あの単語はさぁ、ドクターQのことをよく表しているなぁと思ってたんだよ。百々子が言う。そうかもしれない。現実と幻想を行き来するドクターQにとって、世界はとても、とても混乱していただろうし、敵意があふれているように見えただろう。誰かに誘われても、レイン・チェック。また今度。自分の身を守るため、そんな言葉がいつしか手放せなくなった。ドクターQにとって善意のかたまりのようなジョンは、その一方的な愛情は、どんなにか心強かっただろう。

ドクターQは、音楽が好きだった。部屋で音楽を流していると、いつの間にかドクターQ が戸口に立っていて、それはライ・クーダーかとか、コルトレーンはいいねとか言いながら、部屋に入ってくる。ジャクソン・ブラウンのコカインという曲のどかで拾ってきたライブ音源を聴かせると、忘れもしないのだが、ドクターQはこうつぶやく、こんなに下手くそに歌うジャクソン・ブラウンは聴いたことがない。こと音楽に関しては、好みがはっきりしていて、辛辣な人だった。

夜遅く、わたしとドクターQとジョンの三人でリビングに集まって、パソコンを回しながら音楽を聞くことが何度かあった。真夜中の音楽鑑賞会。参加者は三名。服装は自由。順番は厳格に決まっていて、ジョン、ドクターQ、そしてわたし。好きな音楽をかけることが鉄則で、批評は惜しまない。

ある晩のこと、まずはジョンがいつものように、現代風のクリスチャン・ポップミュージックを流す。ドクターQのコメントはここでも辛辣で、おいジョン、これは音楽とは言わんぞ。うるさいだけじゃないか。それからドクターQの番になる。彼はまったくの現実の中にいる。ソルー、そうだな、ニール・ヤングはどうだ。ハーベストから流してくれ。ジョン、よく聴いておきなさい、これが音楽だ。そうして最後はわたしの番。ジョンにも、ドクターQにも通用するような音楽がいい。

迷った挙句、ボビー・チャールズのSave Me Jesusをかけた。チェスレコードから初の白人シンガーとしてデビューした彼が、ニューオリンズから東部の田舎町、ウッドストックへと流れ着き、彼の地の名うてのミュージシャンと作成したソロアルバムに収められている、ウッドストック流のゴスペル曲。

主よ、お救いください

主よ、お救いください

主よ、お救いください、主よ、お救いください

この神が見捨てた地から

曲が終わると、ドクターQはニヤッと笑って言った。ジョン、ソルーは音楽を知ってるぞ。

 

ドクターQは数ヶ月であっけなく部屋を出ていった。ドクターQが寮にいることが問題になり、部屋にいられなくなったのだ。

彼のいない、空っぽになったリビングには、律儀に段ボールが畳まれていた。

***

日本に一時帰国していたとき立ち寄った京都のレコード屋で、ボビー・チャールズのレコードを見つけた。日本盤だった。レトリバーと戯れるボビー・チャールズのジャケットを見て、あっと思った。すぐにドクターQとジョンのことを思い出した。ドクターQはまだバークレーの路上にいるのだろうか。また二人に会いたくなった。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。

第7回 クリスマスのレコードはボイコットする

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

クリスマスが近づいてきて、街にもクリスマスソングが溢れるようになると、わたしもあの偉大な作家ではないけれど、「十一月も終わりに近い朝」のことをふと思い浮かべてしまう。

子どもの頃は島にいて、その島は十二月もすぐそこだというのに半袖で過ごせるほどの暖かさで、それでもサンタの鈴が近くに聞こえてくるほどにはクリスマスの気配があって、朝の陽を浴びて海はキラキラと光っていて、サトウキビが刈られはじめて、どこからかゴミ収集車の奏でる「エリーゼのために」が響いていて、それ以外の音は全部なくなってしまったみたいに静かだった。

父がクリスマスツリーを組み立てれば、それがクリスマスの季節の始まりの合図、リビングは瞬く間に色を変えた。木製のアドベントカレンダーは赤と緑で、二十五個の小さな窓の向こうには、動物やら人形やらボールやらがこっそりと隠れていた。重たいスノーボールは、落とさないようにゆっくりひっくり返すと、この島ではまず見ることのない雪をふわふわと降らせて、水中の雪だるまの上にひとつ、ふたつと積もっては、はらはらと落ちた。祖父母から毎年決まって送られてくるのは駄菓子がこれでもかと詰まった赤い靴下とクッキーハウス。つんとした匂いは、今考えるとジンジャーだったかもしれない。「拝啓」と書き出される手紙がいつも添えられていて、その言葉はいつでもわたしを厳粛な気持ちにさせた。小さな島のクリスマス。

大人になってアメリカに移ってからは、向こうで七回のクリスマスを過ごした。

クリスマスの季節になると、どこからともなく現れたツリー屋が、一年で一番きらびやかになった通りにぽつぽつと立ち並ぶ。もみの木の匂いは、わたしが想像していたクリスマスの匂いだった。

初めてツリーを手に入れたのはニューヨークに来て二年目のこと。ジャケットを羽織っても意味がないほどの寒い冬だった。働いていた教会の近く、たしか六番街のあたりでツリーを買った。首元くらいまである高さのツリーを抱えて、こんなときだけ力持ちだと隣を歩く百々子に皮肉られたりもしたが、気にならない。いいのだ、クリスマスツリーを買うんだから。そう決意してフーフー言いながら一ブロックほど歩いた頃には、手のひらに透明の樹液がベタついて、なかなかとれなかった。大都会のクリスマスはあまりに眩しくて、映画の中にいるようで我を失いそうになるのだけれど、教会の四階の閉ざされた部屋に置かれたどこか気の抜けたような不恰好なツリーは、自分の分身のようにも見えた。

その翌年はノースカロライナでクリスマスを迎え、またツリーを買った。

鮮やかに紅葉した木々がその葉を落とす頃、メソジスト教会の隣の空き地がツリー・マーケットになる。大、中、小のもみの木がそれぞれ選り分けられ、並んでいる。その中を迷路のようにさまよい歩いて、この木はバランスが悪いだとか、この木はすぐに枯れそうだとか考えながら、そのクリスマスの一本を探す。そのとき百々子は身重で、わたしは一人だった。越してきたばかりで車もまだなく、どうやってツリーを家まで運ぶのか心配する彼女をよそに、わたしはいつものごとく見切り発車で、最悪バスに乗せて帰ればいいと――チャペル・ヒルの街には無料のシャトルバスがいくつも走っていた――、たかをくくっていたのだった。

ツリーを選び、敷地内の簡易の事務所に行く。出てきたのは、たしかにこのような場所に典型の風貌と言われればそう思えてくるような細身の、作業服姿のおじさん。中でコーヒーでも飲んでいくかと聞くので、わたしは二つ返事でガスストーブのたかれた狭い小屋に入った。曇り空の風が強い日で、暖かければそれだけでありがたかった。インスタントのコーヒーが瞬く間にできあがる。薄いコーヒーを飲みながら、おじさんと話した。普段は木こりで、クリスマスの時期になるとここでツリーを売っているという。最近、二人目の赤ん坊が生まれたばかりで、夜泣きがひどい。昨日は二時間しか寝てないよ。そう言う無精髭の生えたおじさんの表情からは、憔悴がにじみでている。

お前も父親になるなら覚悟しとけよ。眠れないぞ。スリープトレーニングとかしてるやつもいるようだけど、信じられないね。泣いてる赤ん坊をほっとけるなんて。俺にはとてもできない。

おじさんはベビーベッドに転がる女の子があーあーとうなっている動画を、こちらの手に押しつける。わたしの長女は翌年の4月に生まれる予定だった。父になるなどとは信じられなかったが、いつのまにか父になっていた。

俺のかみさんは、あの大学病院で看護師してるから。

それは長女が生まれる予定の病院で、そんな偶然を、わたしたちは喜んだ。

車がないなら、ツリーは配達してあげよう。今日の夕方には持っていけると思うぞ。

その言葉通り、その日の午後、クリスマスツリーを屋根にくくりつけた白いステーションワゴンが家のロータリーに滑り込んで、わたしたちは無事にその年のツリーを手に入れた。

もみの木の枝に短いろうそくをいくつも灯して、あかりを消した部屋の中、それが一本、一本ゆらゆらと、最後まで消えていくのをただ眺めていれば、暗闇に残るのは焦げたもみの葉から漂うクリスマスの匂いだけだった。

ノースカロライナで初めてのクリスマスはどのクリスマスソングを聴いていただろうか。ドリフターズのホワイト・クリスマスを繰り返し聴いていたかもしれない。あるいは、あの街はジェイムズ・テイラーの生まれた街だったから、彼のクリスマスアルバムを聴いていたかもしれない。

高校生の頃に、The BeatmasのXMAS!というアルバムをBeatlesが出した最新のクリスマスアルバムと勘違いして買って以来――The BeatmasというのはデンマークのRubber Bandというビートルズのコピーバンドの別称で、Ticket To Rideのイントロがホワイト・クリスマスに接続されていたりとなかなかごきげんで、買った当初は、BeatmasをBeatlesの棚にしれっと並べた誰かを恨めしく思ったり、それをとうの昔に解散していたビートルズの新作と微塵も疑わずに嬉々として手に取った自分を呪いもしたが、結局愛聴盤となった――、そして特にレコードを集め出してからは、毎年、クリスマスのレコードを買うようになった。

ある年はニック・ロウのクリスマスアルバム、ある年はヴィンス・ガラルディのクラシック、またある年はレコード屋の3ドルコーナーで見つけたフィル・スペクターのナイアガラ・コンピレーション。クリスマスアルバムというのはとにかく名盤が多く、毎年一枚のペースではとても間に合わないのだが、それでも毎年十一月のある朝まではクリスマスソングを聴くのを控えるように、できるだけそのクリスマスの一枚を吟味するようにしている。

しかし今年は十一月のある朝はおろか、クリスマスまであと一週間を切った今でさえ、レコードを買えずにいる。たぶん今年はクリスマスのレコードを買わないだろう。遠くのガザで起こっている現在進行形の虐殺は、あらゆる混じり気のない喜びを不可能にしてしまう。ポール・マッカートニーの楽天は明るすぎるし、かといってジョン・レノンの壮大な理想主義はあれから50年後の今、戦争が続く今、無邪気に信じるのは難しい。だからわたしは、クリスマスのレコードを一枚、ボイコットする。いや、ボイコットという言葉は尊大かもしれない。ただ、今年のクリスマスは、レコードを買うような気持ちになれないのだ。そんなあまりにささやかで、ひとりよがりで、人知れない行為であっても、何かを諦めなければならないような気持ちでいる。

もちろんそのような虐殺からまったくの自由であったクリスマスがあったかどうかは疑わしい。そもそもイエスの誕生物語は、ヘロデ王によるベツレヘムの子どもたちの虐殺物語と表裏一体であり、クリスマスの物語にはすでに幼児の泣き声が響いている。

「ラマで声が聞こえた。

激しく嘆き悲しむ声だ。

ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、

子供たちがもういないからだ」

(マタイによる福音書2章18節)

1963年、公民権運動最中のアメリカでは、作家のジェイムズ・ボールドウィンらがクリスマスのボイコットを訴えている。その年の9月15日の日曜日、アラバマ州バーミングハム、16番街バプテスト教会が白人優越主義者の仕掛けたダイナマイトで爆破され、日曜学校の準備中だった4人の少女が殺されていた。この事件を目の当たりにして、地下室へと駆け込み、自作の銃を作ろうとしたのはニーナ・シモンで、しかし当時の夫だったアンディ・ストラウドに止められ、彼女は代わりに「ミシシッピ・ゴッダム」を書いた。一方、ボールドウィンをはじめとする「自由のための芸術家協会」は、クリスマスのボイコットを訴えた。

「わたしたちはかれら[子どもたち]に、今年はサンタが来ないと伝える義務があります。なぜなら、サンタは今年も、次の年も、その次の年もプレゼントをもらえないバーミングハムの子どもたちを悼んでいるからです。そして、これをまだ理解できない幼い子どもたちには、箱やカンやロープ、去年のおもちゃ、紙を貼ったり、描いたり、木や愛で、プレゼントやおもちゃを手作りしましょう」

これは『次は火だ』を書いて、公民権運動のヒーローとして絶頂期にあるボールドウィン。まだ人間の良心を信じていて、未来の好転を疑っていない。その点、世界の終わりを望んだニーナ・シモンは彼の一歩先を行っていた。それからしばらくして、『巷に名もなく』を書いたボールドウィンもまた、アメリカにおける人種正義実現の困難について、絶望を引き受けることになる。

わたしがレコードを一枚ボイコットしたところで、この現実はかすり傷ひとつ負うことなく、進んでいくだろう。わたしもまた、その中の一人として、かれらの死の責任の一端を免れ得ないだろう。だからわたしはまったく別の、もうひとつの世界を、このクリスマスに想像する。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。