II-7 弱者男性のための正義論(前編)

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

 

1:「理念」に基づいた弱者男性論が必要な理由

1-1:規範に関する議論の性質

これまで、この連載では「特権」や「トーン・ポリシング」、「マイクロアグレッション」という概念や理論について取り上げてきた。これらのいずれもが、「この社会のなかでマイノリティは不利な立場に置かれており、その生活や活動には不当な制限が課せられている」という差別構造の問題を指摘するために用いられるものであった。

差別構造を取り上げた理論では、マイノリティの不利さとともにマジョリティの有利さが強調される。マジョリティは特権を持っているために、トーン・ポリシングもマイクロアグレッションも受けることがないとされる。だからこそ社会はマイノリティの利益を考慮したものへと変革されるべきであり、個々人としてのマジョリティは自分の特権を反省しながらマイノリティのための社会変革に協力すべきである……という風に主張が展開されていくのだ。

表面的には、特権やマイクロアグレッションに関する議論は記述的なものに見える。社会学や心理学の理論を用いながら、社会の構造やそれによって個人にもたらされる影響といった「事実」を明らかにする、という風に議論が展開されていく。だが、実際には、これらの議論の多くは明らかに規範的なものであった。つまり、「社会はこのように変革されるべきだ」「個人はこのような行動をするべきである」といったべき論が、特権やマイクロアグレッションに関する議論には内包されているのだ。

慎重に考えるなら、たとえば「社会にはマイノリティに対する差別構造が存在する」という事実を明らかにしたとしても、それだけでは「社会はこのように変革されるべきだ」という主張をすることはできない。社会学の理論は差別構造を分析して特定するためには役立つとしても、本来、記述的な議論と規範的な議論とは別物であるはずだ。「現在の社会はこうなっている」という発見と「これからの社会はこのように変わるべきだ」という提言をつなげるためには、「理想的には、社会はこのようであるべきだ」という理念が必要になる。

 

理念について論じる学問のなかでも代表的なのが倫理学である。ただし、倫理学は組織や社会を対象にすることもあるとはいえ、基本的には個人に焦点を当てた学問だ。「ある人の行動や判断の基準とはどのようなものであるべきか」「人はどのような生き方をすべきであるか」といった問題が倫理学の中心にあり、それは「社会はどうあるべきか」という問題と関連していることも多いが、イコールではない。

社会、あるいはもっと具体的に「国家」や「政治制度」を対象として、それがどうあるべきかという理念を論じる学問としては政治哲学が存在する。ただし、ひとくちに政治哲学といってもその範囲は広く、「そもそも政治とはなんであるか」「国家とはどのような存在であるのか」といった記述的な問題について原理的なレベルで考えることも含まれている。政治哲学のなかでもとくに規範や理念に関して研究・議論する分野が正義論だ。

正義論で扱われる問題のひとつが、ある政策が決定されるまでにはどのような過程があるべきか、すべての問題を民主主義的な多数決によって判断されるべきかそれとも問題の種類によっては専門家や権力者の判断に委ねられるべきか、といった手続き的正義に関する議論である。

もうひとつが、財産や資源や自由や権利はどのような根拠に基づいてどのような割合で人々に分配されるべきか、機会と結果や義務と責任の考えをどのように考えてそれぞれにどれくらいの重みを置くか、といった分配的正義の問題だ。ある人の能力や社会に対する功績とその人が得られる報酬はどれくらい比例すべきであるか、他の項目よりもとくに自由が全員に分配されることを最優先すべきか否か、機会の平等と結果の平等のどちらを重視するか……といった様々なトピックについて各論者が「公正な分配とはこのようなものである」ということを主張していきながら議論を行い、互いの主張を批判したり訂正したりしながら「正義」の理念を探ることが、正義論という分野で行われている営みだ。

倫理学と同じように、正義論を行なっている人たちは自分たちが「べき論」を唱えていることに意識的だ。だからこそ、これらの分野で「〜すべきだ」という結論を出すためには、かなりの段階を踏むことになる。自分とはまったく異なる規範を唱えている人を議論の相手にしなければいけないし、自分が唱えようとしている規範に対して想定される数々の批判に応答するための準備も整えなければいけない。議論を経ながら、自分の唱える規範の詳細についてじっくりと論理的に説明していき、多くの人になんとか納得してもらえるように主張を深めなければならない。

他人に対して倫理や正義を説くときには、理に適った議論を行う必要がある。その結果として、倫理学や正義論に基づいた主張は、ニュートラルでフラットなものになることが多い。自分の属している立場にとってばかり都合が良くて他の立場の人のことを考慮しないような主張が納得してもらえることはないから、どんな立場の人にもそれぞれの利害や言い分があることを前提にしたうえで、客観的な視点を意識した議論を展開することになる。マイノリティが受けている不利益を無視するような主張は批判されるだろうが、マジョリティに不条理な義務や責任を課す主張もそうそう受け入れられない。「べき論」を明示的に主張するためには、マイノリティやマジョリティを問わず誰しもに存在する理性に訴えかけることが不可欠になるのだ。

1-2:「裏技」で規範を主張することの問題

本連載でトーン・ポリシングについて論じた稿では、この概念は民主主義的な議論に求められる要件をすっ飛ばして自分たちの要求を通すことを正当化するための「裏技」のようなものである、と記した[1]。そして、トーン・ポリシングに限らず、特権理論やマイクロアグレッション理論を含む近年のポリティカル・コレクトネス的な理論や概念には、多かれ少なかれ「裏技」的な側面がある。

ある種の議論では、「べき論」を展開する代わりにマイノリティに対する差別構造やマジョリティが有利な立場にいるという事象を記述することによって、マイノリティを優遇する主張やマジョリティに義務や責任を追加する主張を正当化しようとする。このとき、「正しい社会とはどのようなものであるか」という理念に基づきながら「マイノリティの不利益にはどのような配慮をして、マジョリティの有利さにはどのように対処するべきか」といった規範を明示的に論じることは回避される。

そして、過去の記事では、「裏技」は他の立場の人からも利用されるという問題を指摘した。昨今の状況では、「自分たちの利益も考慮されるべきだ」「自分たちにはこのような義務や責任を課せられるいわれはない」と論じるためには、「自分たちこそが被害者の立場にいる」と主張するのが近道になってしまう。「べき論」を展開する代わりに差別構造の存在や立場の有利不利を指摘することが、規範を主張するときの作法になっているからだ。しかし、構造や立場に関する議論とはゼロサムゲーム的なものとなることが多い。「不利な立場にいるほうが絶対的に配慮されるべきであり、義務や責任は有利な立場にいるほうにのみ課されるべきだ」という論調が強くなる。規範について明示的に論じる場合とはちがい、互いの利害や言い分を考慮しながら適切な落としどころや妥協を探るということは行われない。

だが、前稿でも論じた通り、被害者という立場を追い求めることは本人の精神衛生や幸福に害を及ぼす[2]。結果として起こっているのは「底辺への競争」とでも言うべき事態だ。利害の対立する当事者たちのどちらもが「自分は不利な立場にいる」と力説することは、当事者たちにとっても社会全体にとってもネガティブな影響をもたらすのである。

 

本稿のテーマは「弱者男性論」である。

この文章でわたしが示したいのは、どんな立場の人であっても、自分たちの利益に配慮するよう社会に要求するなら、理念を提示して人々の理性に訴えるかたちで主張すべきである、ということだ。

自分たちに対する配慮を社会に求めるなら、できるだけ他の立場の人にも届いて納得してもらえるような議論をしたほうがいい。また、民主主義的な社会においてはどんな立場の人であっても自分と他人を対等な存在に扱うことが求められる。そして、結局のところ、全ての人が平等に配慮される公正な社会を実現するためには、理念や理性に基づいた議論を積み重ねるほかに方法はないのである。

1-3:「弱者男性論」の概要

ひとくちに「弱者男性論」と言っても、その実態を把握することは難しい。

「男性学」がアカデミックな一分野として確立しており、自他ともに「男性学者」と認める人たちによる書籍や論文が多数出版されているのに対して、弱者男性論はそのように制度化されていない。その主張のほとんどはTwitterを主とするSNSやブログサイトで展開されており、書籍などの形式でまとめられることはごく稀だ。また、他人からは「弱者男性論者である」と見なされているが本人はそう思っていない場合もあれば、その逆もある。

その一方で、2010年前後から本邦のインターネットで展開されてきた論争の風景を観察している人であれば、「弱者男性論」とカテゴライズされる一連の主張が強い存在感を示し続けていることに気が付いてきたはずである。

ひとまず、弱者男性論とは「自分たちは「弱者」であると自称する男性たちが、自分が感じているつらさや苦しみや自分たちが被っている不利益を訴えて、自分たちの境遇の改善を求める議論」と定義しておこう。

男性のつらさを取り上げるという点では、弱者男性論は男性学と類似しているところもある。だが、男性学者たちの主張がジェンダー論やフェミニズムの理論を前提にしたものであるのに対して、多くの弱者男性論者たちはフェミニストこそが主要な論敵だと見なしている。「社会の構造は女性差別的であり、不利益や被害を受けているのは女性である」というフェミニズムの主張に対して「社会の構造は男性差別的であり、不利益や被害を受けているのは男性である」という主張をぶつけるのが、彼らの議論の基本だ。したがって、フェミニストの対義語であるマスキュリニストというカテゴリで呼ぶこともできるかもしれない。

ただし、基本的にフェミニズムの主張では「社会から女性差別をなくすべきだ」という規範的な主張やそのための具体的な提言がセットになっているのに対して、弱者男性論者たちのなかには主張が曖昧な者も多い。「この社会から男性差別の被害はなくならない」と諦観して受け入れているようでありながらも、フェミニズムの主張を反転させる「ミラーリング」という行為に固執したり、フェミニストの主張に対するパロディや揶揄などの「からかい」を繰り返したりする論者もいる。だから、自分たちの境遇の改善を本気で求めているのか、それとも「男性が受けている不利益や被害」を喧伝するのは女性たちの主張を否定したり女性たちに嫌がらせしたりするための手段に過ぎないのか、判断が付かないような場合も多々あるのだ。

とはいえ、弱者男性論においても、男性の「つらさ」をストレートに訴えて、男性が受けている不利益が是正されるべきだと主張されることもある。そして、このときに論じられる「つらさ」とは恋愛結婚に関わるものであることが多い。弱者男性論は「非モテ論」と呼ばれる議論にも接近している。いちども異性と付き合うことができず結婚もできないこと、そのために人生において孤独感や承認の欠如を感じ続けてきたこと、そしてそのような状況は女性よりも男性のほうが経験しやすいことが、「男性のつらさ」と表現されるのだ。

また、弱者男性論や非モテ論では「キモくて金のないおっさん」という自嘲的な表現が使われることがある。男性が女性と付き合えたり結婚したりするかどうかには、コミュニケーション能力や外見に関するセルフケア能力も関わってくるが(これらが欠けている男性が「キモい」ということだ)、それ以上に経済力が重要であることが、しばしば強調される。貧困であったり充分な収入が得られていなかったりする男性は、女性から恋愛や結婚のパートナーとして選ばれず、恋人や配偶者を得られない可能性が高い。したがって、経済力が欠如している男性は、恋愛や結婚もできないという二重苦を経験することになる。その一方で、女性の場合は収入が低かったり正規職に就けていなかったりしても恋愛や結婚を経験できる人は多い。このことから、貧困であることは女性にとってよりも男性にとってのほうがさらに深刻な問題であると主張される。

さらに、「男性にも「ことば」が必要だ」の稿でも触れたような「男性の幸福度の低さ」や「男性の自殺率の高さ」について問題視することも、弱者男性論では定番の主張である[3]。このとき、長時間労働や残業などの仕事の負荷が男性に偏っていることが、幸福度の低さや自殺率の高さの原因であると指摘されることも多い。一方で、恋愛を経験できないことによる孤独感や未婚率の高さがこれらの問題の原因として挙げられる場合もある。

他にも、弱者男性論(またはマスキュリニズム)にカテゴライズされる主張にはいくつかの種類がある。たとえば、「自衛隊員(軍人)や消防士、建設労働者やトラック運転手やゴミ回収業者などの身体や生命の危険を伴う仕事に就いている人の大半が男性であるという事実は、社会に男性差別が存在することを示している」というものだ。

また、弱者男性論は「オタク」による運動と重なっている場合もある。性的な表現を含んだ漫画やアニメなどのフィクションを流通させることや、性的と見なされる女性キャラクターのイラストを公共空間に掲示することに関する自由や権利を守るための運動をしている人のなかには女性も含まれているとはいえ、その多くは男性である。そして、これらの運動ではフェミニストが主要な論敵と目されていることが多いために、オタクたちは共通の「敵」を介して弱者男性論と結び付く。単純に言うと、弱者男性論者のなかには「性的な表現の自由は守られるべきだ」という主張をしている人も多いということだ。

1-4:弱者男性論に日の目が当たらない理由

上述したような弱者男性論の主張は、インターネットやSNSにハマっている人の一部にとっては馴染み深いものかもしれない。しかし、弱者男性論はあくまでネットを中心として展開されている議論であり、リアルの場ではほとんど流通していない。議論や思想が好きな人であっても、書店や図書館に通っていたり大学や学会に通っていたりするだけであれば、目にする機会はまったくないかもしれない。だからこそ、弱者男性論はかなり扱いにくいものとなっている。

弱者男性論の主張が流通しない理由のひとつは、現状のアカデミアでは、「男性のつらさ」を訴える議論は「男性学」にしか回収され得ないということだ。「男性にも「ことば」が必要だ」でも指摘したように、男性学は男性たちよりも女性たちのほうを向きながら論じられているきらいがあり、多くの男性にとっては自分たちの利益や主張を代弁してくれるものではなくなっている。女性にとってのフェミニズムや、性的・人種マイノリティの人々にとってのマイノリティ・スタディーズに相当するものは、男性にとっては存在しない。したがって、男性が受けている不利益や被害を男性の立場から訴える主張、あるいはフラットでニュートラルな立場から論じる主張すらもが、アカデミックな世界では居場所を見つけられず、こぼれ落ちてしまうのだ。

同様の問題は、学者ではない小説家や批評家などによる著作物にも存在している。物書きの世界ですら「男性のつらさ」について(男性の立場から)論じる文章は流行外れになっているのだ。これにはジェンダーについて書かれた本やエッセイ本を買うのは女性のほうが多いという点も影響しているだろう。出版社や本屋からは、弱者男性論やマスキュリニズムはフェミニズムの本に比べて商品価値のないものだと見なされているかもしれない。

しかし、弱者男性論者たちの側にも問題はある。

彼らは、自分たちの主張を適切に理論化して、社会に向けて訴えることができていない。その一因は、彼らの多くが自分たちの境遇を改善するよりも女性やフェミニズムを非難することを優先している点にある。また、ニヒリズムに傾倒して、規範や理念についての議論を軽んじたり冷笑したりする人も多い。彼らは、倫理学や正義論に基づいた議論を理解したり受け入れたりすることができない。したがって、「男性が受けている不利益や被害の問題には、公的な対処がされなければならない」という主張を、他の立場の人たちからも納得が得られるようなかたちで提言することが困難になっているのだ。

現状の弱者男性論は、規範や理念に繋がる経路を失っているか、自分たちの利益だけを考慮して他の立場の人のことを無視した自己中心的で極端な規範しか提言できなくなっている。

とはいえ、状況を現在のままにしておく必要はない。本稿では、マジョリティと見なされがちな「男性」という属性が受けている不利益について具体的に分析したのちに、「男性が不利益を受けていることは正義に反しており、公的な対処が必要な問題である」と主張できるかどうか、リベラリズムをはじめとする様々な正義論を参照しながら検討しよう。

なお、本項では、男性の受ける不利益のなかでも「恋愛や結婚の欠如」とそこから生じる「孤独」というトピックについてとくに焦点を当てることにする。弱者男性論のなかでも恋愛や結婚に関する問題は他に比べて話題になることが多く、中心的なトピックだと見なせることが、主な理由だ。

また、わたし自身、個人的な経歴から「危険な仕事が男性に偏っていること」や「性的な表現の自由」といったトピックよりも、「孤独」や「(経済的な理由により)恋愛や結婚ができないこと」というトピックに対する関心のほうが強い。どんな問題においても、自分自身が関心のあるトピックに関して論じたほうが、問題について真剣に考慮した中身のある議論を展開できるものだ。このことも、これらのトピックを本項で取り上げる理由である。

 

2:恋人がいないことや結婚できないことの不利益とはなにか?

2-1:恋愛や結婚できないことが「損」だと主張しづらい背景

そもそものところから始めよう。ほしいと思っているのに恋人ができないことや、したいと思っているのに結婚できないことは、問題だと見なされるべきだろうか?

おそらく、一般的には、それらを求めているのに恋人がいなかったり結婚できなかったりすることにはなにかしらの不利益や「損」が含まれている、と考えられるだろう。だいたいの人は、自分自身がそういう立場に置かれることを嫌がるはずだ。そして、他人に恋人がいなかったり結婚できなかったりすることも、その状況は本人が選択したのではない不本意なものであるのなら、その人のことを気の毒に思うだろう。

しかし、とくに昨今では、恋人がいないことや結婚できないことが問題であると指摘するのも難しくなっているところがある。たとえば、若者の「草食化」はわたしが若者であった10年以上前から注目されていたが、最近では若者の「恋愛離れ」に関するニュースがよりいっそう注目されるようになった。VTuberに代表されるようなバーチャル・リアリティの発展と普及、あるいは「推し」の文化が知名度を得たことにより、メディアでは「最近の若者はVTuberやアイドルへの推し活動をすることでロマンス的な感情を満たしており、身近にいる特定の生身の人間と恋愛することは億劫で魅力がないものだと感じている」という議論がもっともらしく語られている。

また、性的少数者に配慮する意識が普及したことにより、一般論のレベルで「恋愛」や「結婚」が個人の幸福にとって大切であると主張するのも憚られるようになってきた。「恋愛には価値がある」と言ってしまうと「アロマンティックの人の人生には価値がない」と主張しているように思われてしまうかもしれない。結婚の大切さを説くことは、結婚することが法律で認められていない同性愛者に配慮していないと批判されるかもしれない。

一方で、性的少数者の人々が受けている苦痛や不利益の原因がマジョリティの偏見や家父長的な婚姻制度にあるとすれば、それは深刻で不道徳な「差別」であるということはわかりやすい。学問の世界では性的少数者の問題が取り沙汰されやすくなった。その代わりに、シスジェンダーでヘテロセクシュアルの人々による「ふつうの恋愛」についての注目は薄れているのだ[4]

しかし、表面的な風潮がどうであれ、多くの男女にとって恋愛や結婚はいまだに人生の一大事である。

たとえば、VTuberや「推し」文化が登場する前からも、「オタクの若者はアニメやゲームなど二次元のキャラクターに萌えることで性や恋に関する欲求を満たしており、生身の異性には興味を抱かなくなっている」という言説は若者論の定番であった。しかし、わたしが大学時代に入っていたオタク系のサークルでは、二次元キャラに萌えているはずのオタクたちが生身の異性を対象とした恋愛感情を抱いており、同棲生活を楽しんでいたり片想いで苦しんでいたり三角関係の泥沼に嵌まっていたりした。

また、現代でもマッチングアプリをスワイプしてみれば、多くの若い男女が恋人を求めていることは見て取れる。

結局のところ、特定の(生身の)相手を対象にして、会話やデートやセックスを繰り返しながら互いに関する理解を深めていき互いを慈しみあう「絆」を結ぶことは、古来から人間に伝わる普遍的な欲求であるのだ。例外はあるし、社会制度や科学技術や文化や経済の状況で多少は変動するだろうが、それでも人間のデフォルトはそう易々と変わるものではない。メディアやアカデミズムから離れてふつうの人々の世界に目を向けてみれば、大半の人は恋愛や結婚を求めていること、そして求めているのにそれらが得られないのは損や不利益であるということは、現在でも常識として共有されている考え方であるように思える。

2-2:「親密性」とカップル関係

アカデミックな議論、そのなかでも人文学においては、常識を擁護したり常識に立脚した主張を展開したりすることは難しい。

前著『21世紀の道徳』では、恋愛・結婚に関する「絆」への欲求は普遍的なものであると論じるために、脳科学や文化人類学や進化心理学などの知見を参照した。しかし、これらの学問も、必ずしも万人からの支持を得られているわけでもない。とくに人文学に携わる人々や人文学的な考え方に馴染みのある人にとっては、人間の生物学的な性質や傾向を前提とした議論は受け入れ難いであろう。

とはいえ、生物学を経由せずとも、「恋愛や結婚は大半の人間にとって重要なものだ」という主張を補強することはできる。以下では、「親密性」に関する社会学の議論を参照してみよう。

社会学者である筒井淳也の著書『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』では、「親密な他者との情緒的つながりは、私たちに幸福感をもたらす極めて大きな要素 (筒井、p.236)」であると指摘したうえで、「カップルを形成してそこで子どもを作る」ことをできる人とできない人との差が広がった現代は「家族の不平等体制」であると表現されている。

他人と関わることによる情緒的な満足は、友人との交流や行きつけの店の店員とのコミュニケーションからも得ることはできるが、それらは安定していない。いつ店を辞めるかもわからないアルバイト店員と、長期的で親密な関係を築くことは難しい。店長と仲良くなったとしても、店自体が閉まったり潰れたりする可能性もある。また、いくら仲の良い友人がいたとしても、いつか遠くに引っ越してしまうかもしれない。友人が近くに住んでいたとしても、相手が結婚して家族ができたなら、友達付き合いの機会は減るだろう。

一方で、原則として「一対一」で行われる恋愛や結婚には「排他性」という特徴がある。別れたり浮気や不倫をされたりする可能性もあるとはいえ、基本的には、カップル関係とは継続的で安定したものだ。誰かと付き合っているなら、週末にデートしたり同じ建物で寝食を共にしたりするというコミュニケーションを定期的に行うことができる。結婚していればコミュニケーションの頻度はさらに増すだけでなく、「二人は夫婦である」と周囲からも認められたり婚姻関係に対する法的な保護(と義務)が与えられたりすることで、関係はさらに安定したものになる。もし仕事の都合などで引っ越しする必要がある場合にも、配偶者が一緒に付いてきてくれることが期待できるだろう。

カップルとは「人間関係の最小単位」であり、そのために店員との交流や友人関係よりも「あてにできる長期的なパーソナル関係」である(筒井、p243)。友人しかいない人と比べて、恋人や配偶者がいる人は、親密性とそこから得られる情緒的な満足を確保できているという点で優位な立場にいる。……だからこそ、カップルを形成できている人といない人という差が存在する社会の状況は、不平等であると問題視することができるかもしれない。

2-3:男性の友人関係や親子関係は希薄である

カップル関係とは、同性愛の場合を除けば一人の男性と一人の女性との間で築かれるものだ。ごく単純に考えると、恋人や配偶者のいない男性がいれば、それと同じ数だけ、恋人や配偶者のいない女性がいることになる[5]。すると、「カップルが形成できないことで親密性を得られない」という不利益は男女の両方にとって同じように深刻な問題であり、どちらかの性に偏って生じているわけではない、と考えることもできるだろう。

しかし、おそらく、カップルを形成できないことの問題は男性にとってのほうがより深刻だ。男性に比べると女性はカップル以外の関係からも親密性を安定して得られる場合が多いために、筒井が述べているような「カップル以外の親密性はあてにならない」という問題は、とくに男性にとって顕著な問題となる。

心理学者のトマス・ジョイナーの著書『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』では、男性は対人スキルを身に付けないまま成長してしまうために、昔からの友人関係を維持したり新しい友人を作ったりするのが女性に比べて不得意になる、という問題が指摘されている。

ジョイナーによると、多くの女性は、男性と比べて、子供の頃から複雑な人間関係を経験している。男の子どうしの関係とは違い、女の子どうしの関係では、互いに対して気配りをし合うことが要求される。さらに、大半の男の子には同級生の男友達しかいないが、女の子は年上や年下の子とも友人になることが多い。気配りをし合う関係や異なる年齢の友人とも関わる経験を通じて、女性は、対人スキルを身に付けるための「訓練」を子供の頃から受けることになる。

結果として、多くの女性は大人になってからも新しい人と友人になることができて、その人との関係を継続する能力も身に付けている。たとえば社会人になったあとにも、女性同士は互いにランチに誘ったり連絡先を交換することが多く、会社内で人間関係を構築したり新しい友人を作ったりすることが男性よりも得意であるのだ。

「女性同士の友人関係は面倒くさくてドロドロしている一方で、男性同士の友人関係はさっぱりとしていて純粋なものである」というイメージを持っている人は多いかもしれない。だが、男性同士の関係がさっぱりしているように見えるのは、ただ単にお互いに配慮しあっていないことの裏返しでもある。女性たちに比べると、男性たちは友人に対して気配りすることが少なく、こまめに連絡を取り合うなどして関係を継続する努力も怠る。そのため、男性どうしの友人関係とは、脆くて信頼のおけないものである場合が多い。

さらに、子供の頃に複雑な人間関係を経験しないがゆえに、男性は女性に比べて対人スキルを身につける機会がなく大人になる。そのため、昔からの友人がいなくなったときに新しい友人を見つけることも、男性にとっては難しい。会社の同僚ともビジネスライクな関係しか持てず、プライベートな話をしたり仕事が終わった後に遊びに誘ったりすることにも抵抗感を抱いてしまう男性は多くいるだろう。

ジョイナーの議論はアメリカに限らず日本にも当てはまるように思える。わたしの周囲の男女を観察しても、子ども時代や学生時代からの友人との関係を社会人になっても維持して、一年に一度の同窓会というレベルでもなくもっと頻繁に交流を続けられている人は、女性のほうに多い。また、わたしの身近には男性同士・女性同士のそれぞれでシェアハウスを経験した人たちがいるが、男たちのシェアハウスは破綻したのに対して女たちのシェアハウスはいまでも続いている。

もちろん男女ともに例外は多々あるだろうが、女性は同性に対しても異性に対しても配慮や気配りができるために親密な友人関係も薄く広い交友関係も維持できること、男性はそうではないために人間関係のプールが狭くなりがちなことは、一般論や平均的な傾向としては事実であるように思える。

さらに、私見を述べると、日本の男性は実の家族からの親密性を得られていないことが多そうだ。

たとえば、女性のなかには大人になってからも母親と良好な関係を維持して、一緒に食事や買い物や旅行に行く人が多い。定期的に電話をして互いの現状を報告するという習慣も、とくに母と娘との間で一般的なようだ。それに比べると、「父と娘」や「母と息子」、「父と息子」の関係は希薄に見える。成人した男性が両親のどちらかと一緒に遊びに出かけることは珍しい。また、進学や就職で実家を出てからは、具体的な用事もないのに両親に電話をかけたり連絡したりすることはない、という男性はわたしの周りに多くいる。

わたしの場合は、おそらく「家族は大切であり、コミュニケーションは定期的に行うべきだ」というアメリカ的な価値観の影響もあってか、社会人になってからも母親が毎週のように電話をかけてくる。「めんどうくさいな」と思うこともあるし、「毎週電話をしている」と同世代の男性に話すと奇異に思われることもあるが、そのおかげで親子関係の「親密性」がいまだ失われていないとも言えるだろう。逆に言うと、日本の母親は息子が実家にいる間は世話をしたりするかもしれないが、息子とのコミュニケーションに積極的ではないのかもしれない。

また、ジョイナーは、男性は子供の頃から「甘やかされる」ことも対人スキルを成長させられない一因であると指摘している。男子は何もしなくても両親から気配りされて、成長しても家族に対して自分のほうから気配りしたりしなくても許されることが多い(それに比べると、女子には家族に対して気配りすることを求めるプレッシャーがかけられる)。おそらく、この傾向は、アメリカよりも日本においてさらに強い。日本の男性の多くは、親と定期的にコミュニケーションしたり感謝を表明したりすることに気恥ずかしさを感じるだろうし、「そうしなくても許されるものだ」という通念を抱いているようだ。

結果として、日本の男性は女性に比べて希薄な親子関係しか経験できず、そこから情緒的な満足を得ることもできなくなっているのかもしれない。

2-4:「親密性の不平等」を問題視するべきか?

ジョイナーの議論やわたしの観察が妥当であるとすれば、以下のことが言える。とくに(日本の)男性にとっては、友人関係や親子関係は親密性として不安定で希薄なものでしかなく、情緒的な満足を得るうえで頼りになるものではない。

したがって、恋愛や結婚などのカップル関係が、安定して信頼できる親密性の「最後の砦」として重要になってくる。

だが、誰もがカップル関係を築けているわけではない。

とくに近年では経済の影響からカップル関係が築ける人と築けない人との差が拡がっている。そして、第1節でも触れたように、経済力の有無と恋人や配偶者の有無はとくに男性の場合には関係がある。収入が低い男性にとって、付き合ったり結婚したりするのは困難である。結果として、弱者男性は、経済力の欠如親密性の欠如という二重苦を味わうことになるのだ。

とはいえ、上記の主張に対して「親密性やそこから得られる情緒的な満足には、具体的にはどのような価値があるのか?それはそこまで重要なものであるのか?」という疑問を抱く人もいるかもしれない。

お金が生活の質に直結していることは明白だから、収入や資産がだれにとっても重要であるということはわかりやすい。「経済的な格差や不平等は、是正されるべき問題だ」と主張することは簡単だ。「わたしはお金がなくても幸せだ」と言う人もいるかもしれないが、社会問題や政策について考える際に、その人の意見を真剣に取り上げる必要はないだろう。

だが、親密性についてはそうではない。「わたしには恋人も友人もいないが、本を読んだりひとりで散歩をしたりすることに満足しており、充実した人生を過ごしている」と主張する人はいるはずだ。「他人と交流できる状況のほうが、そうでない状況よりも望ましい」と主張することに対して「人間関係を重視する価値観の押し付けだ」と批判する人もいるだろう。これらの意見は「お金がなくても幸せだ」と言っている人の意見と比べて説得力を持つものだと見なされており、無下に退けることはできない。収入の不平等と異なり、「親密性の不平等は是正されるべき問題だ」という主張は自明ではないのだ。

「経済の不平等が問題であることは広く同意が得られているのに対して、親密性の不平等が問題であることには同意が得られていない」という問題については、第3節で、正義論における「公私分離」の問題という観点から取り上げる。

その前に、以下では、「親密性」が欠如した状態……つまり「孤独」が人にもたらす不利益とはどのようなものであるかについて、より具体的に記述しよう。

2-5:孤独は病気と自殺のリスクをもたらす

まず、孤独は、だれにとっても不利益や損である物事をもたらす。それは、不健康病気だ。

神経科学者のジョン・T・カシオポは、ジャーナリストのウィリアム・パトリックとの著書『孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか』のなかで、以下のように書いている。

社会的孤立が健康に与える影響というのは、私たちが取り組むのに理想的な問題のように思えた。その一〇年余り前、疫学者のリサ・バークマンが、他者とのつながりがほとんどない人は多くの触れ合いがある人よりも、九年間の追跡調査の間に死ぬ確率が二倍から三倍高かったことを発見していた。社会とのつながりがほとんどない人は、虚血性心臓病、脳血管や循環器の疾患、癌、さらには呼吸器や胃腸の疾患など、死に至るあらゆる疾患を含む、より広範な原因で死ぬリスクが高かった。

(カシオポ、パトリック、p.128)

『孤独の科学』によると、主観的な孤独感は、それ自体が「痛み」のような感覚を本人にもたらす。また、孤独感は自己コントロールに関する機能を低下させて、健康的な行動を取ることを難しくする。加えて、孤独は、ストレス要因への抵抗力を弱めたり、睡眠など治癒機能の働きを低下させたりもする。さらに、孤独感は自己評価を下げる効果をもたらし、社会的なコミュニケーションにも悪影響を与えるのだ。

より具体的に描写すると、他人と交流する機会が少ない孤独な人は「自分は他者から大切にされている」という感覚を抱けないために、自分の身体を大切にしなくなる。また、孤独感自体がストレスとなるうえに、自己コントロール機能も低下しているから、ジョギングなどの健康的ではあるが意志力を要する方法でストレスを解消するという選択を取ることが難しくなり、飲酒や過食や喫煙などの不健康な方法でストレスを緩和するようになってしまう。……これらが相まって、孤独感の高さは、様々な病気や死亡のリスクをもたらすのである。

一方で、人と一緒に暮らすことには、健康や生活習慣の面で様々なメリットがある。たとえば、顔色の悪さや肌の調子に声色などの体調不良を示す些細なシグナルは、自分自身では気付なくても自分を気遣ってくれる他人が指摘してくれることがある。また、夜更かしや飲酒過多や味付けの濃い料理ばかりを食べるなどの不健康な生活習慣は、独身のままならそれが問題であることにも気付かずに死ぬまで継続してしまうかもしれないが、一緒に暮らしている人がいれば「改善したほうがいい」と忠告されるだろう。さらに、恋愛したり結婚したりしているほうが「自分は他者から大切にされている」という感覚を抱けて、自分の健康や生活習慣に配慮するという意志も抱きやすくなるものである。

どこの国でも、独身男性の寿命は他の属性の男女よりも短い。一般的に男性は女性よりもセルフケアに対する意識が低いから、不健康な生活を過ごしがちである。孤独が不健康をもたらすことと、配偶者がいないことは生活や習慣の改善を遠ざけることとが合わさって、独身男性は他の人よりも早死にしやすい存在になっているのだろう。

孤独は不健康や病気による死亡だけでなく、自殺にも直結している。

先述したジョイナーが提唱しており専門家からも広く支持を得られている「自殺の対人関係理論」によると、人が自殺を行うに至る三つの主要因のうちのひとつが「所属感の減弱」である[6]。具体的には「人間同士の集まりや関わりから自分は疎外されている」という感覚を強くする、ということだ。「所属感の減弱」とは要するに「孤独」のことである。実際、男性の自殺率が高い主な原因は男性が女性に比べて孤独になりやすいことにある、とジョイナーは論じているのだ。

つまり、孤独は、病死や自殺という形で人を死に追い込む。死ぬまでには至らなくとも人を不健康にさせるし、情緒にも悪影響を及ぼす。

また、カシオポとジョイナーの両方が指摘しているのは、現代の思想や文学では孤独が美化されがちであり、そのために孤独のもたらす悪影響が軽んじられてしまうことだ。

ここでもまた、現代思想のじつに多くが賛美する「実存主義のカウボーイ」、つまり全世界を相手に回す一匹狼としては人間がうまくやっていかれない理由がわかる。「人は独りで生まれてくる」ことも「人は独りで死ぬ」ことも文字通り真実かもしれないが、他者とのつながりは進化の過程で人類が今の姿になる一助となっただけでなく、現在も私たち一人ひとりがどんな人間になるのかを決めるカギも握っているのだ。どちらの場合にも、人間どうしのつながりや精神の健康、生理的な健康、情動面での健全性はすべて、互いに切り離せないほど密接に結びついている。

(カシオポ、パトリック、p.173)

なお、恋人がいなかったり配偶者がいなかったりすることの問題は、病気や自殺のリスクという「マイナス」が生じることだけに限られない。

むしろ、恋人や配偶者がいないことの不利益として多くの人が想定するのは、他の人々が恋愛や結婚を通じて経験している満足感や人生の充実という「プラス」を得られないことのほうであるだろう。病気や自殺のリスクは、恋人や配偶者(や他のかたちの親密性)を得られずに孤独になることで発生する、あくまで間接的なものである。

本節であえて病気や自殺のリスクを強調したのは、これらは「人生の充実が得られない」という問題に比べて具体的であり、「病気にかかったり自殺願望を抱いたりすることは不利益である」という点については同意を得られやすいからだ。一方で、先述したように、「親密性が欠如していること」や「恋愛や結婚が得られないこと」それ自体が不利益であるという主張は自明ではない。この主張について他の人々に納得してもらうためには、より多くの議論が必要となる。

第5節では、哲学者のマーサ・ヌスバウムによる「潜在能力アプローチ」を援用することで、「恋愛や結婚が得られないこと」も不公正や不正義の対象と見なせる、という議論を行おう。

その前に、次節では、従来のリベラリズムに基づく正義論では「親密性の欠如」や弱者男性の問題を扱うことが難しい理由を解説する。

(中編に続く)


<参考文献>
アマルティア・セン、池本幸生・野上裕生・佐藤仁(訳)、『不平等の再検討 潜在能力と自由』、岩波書店、1997年。
マーサ・ヌスバウム、池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ(訳)、『女性と人間開発』、岩波書店、2005年。
マーサ・ヌスバウム、神島裕子(訳)、『正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』、法政大学出版局、2012年。
ウィル・キムリッカ、『新版 現代政治理論』、千葉眞・岡崎晴輝 (監訳)、日本経済評論社、2005年。
ジョン・T・カシオポ、ウィリアム・パトリック、柴田裕之(訳)、『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか』、河出書房新社、2010年。
筒井淳也、『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』、光文社、2016年。
金野美奈子、『ロールズと自由な社会のジェンダー』、勁草書房、2016年。
山田昌弘、『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか? 結婚・出産が回避される本当の原因』、光文社、2020年。
大沢真知子、『21世紀の女性と仕事』、左右社、2018年。
神島裕子、『ポスト・ロールズの正義論 ポッゲ・セン・ヌスバウム』、ミネルヴァ書房、2015年。
Joiner, Thomas. Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success. Palgrave Macmillan.2011.
[1] http://s-scrap.com/7554
[2] http://s-scrap.com/7850
[3] http://s-scrap.com/7509
[4]この問題については前著『21世紀の道徳』の第9章「ロマンティック・ラブを擁護する」のなかで詳しく論じている。
[5] 実際には男女で人口が違っていたり(日本では総人口を見ると女性のほうが多いが、二十代や三十代は男性のほうが多い)、複数の人と同時に付き合う男女がいたりすることから、厳密には「恋人や配偶者のいない男性」と「恋人や配偶者のいない女性」の数が同じということにはならない。
[6] ほかの二つの要因は「負担感の知覚:自分の存在が家族や友人に対して重荷になっている、という感覚を抱くこと」と「自殺潜在能力:過去に痛みやショッキングな体験を経験してきたことで、自殺行為をする際に生じる痛みや恐怖に耐性があること」

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記

 

II-6 「被害者意識の文化」と「マイクロアグレッション」

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

前回の記事では、昨今の学問や言論の世界では「危害」と見なされる行為や主張の範囲が拡がっている、という問題に触れた。

これまでは危険だとされていなかった物事に危害を見出すための概念や考え方はさまざまに登場しているが、この潮流をとくに象徴するのが「マイクロアグレッション」理論である。

危害の範囲が拡大されると、「個人の自由は、他人に危害を与えない範囲内において最大限に認められるべきだ」というジョン・スチュアート・ミルの「危害原則」は形骸化し、わたしたちの自由は不合理なまでに制限されてしまう。しかし、もたらされる問題はそれだけではない。些細な言葉や振る舞いまでもが「危害」と定義されるようになると、人々の目には危険が誇張されて映り、自分や他人のことをすぐに傷つけられる脆弱な存在だと見なすようになる。すると、わたしたちは自分の生きる世界をネガティブに捉えるようになり、他人と関わることを恐れるようになるのだ。

本稿では、「マイクロアグレッション」理論について批判的に分析しながら、「被害者意識の文化」とも呼ばれる昨今の風潮の問題点について検討しよう。

マイクロアグレッション理論とは?

マイクロアグレッションは1970年代にアフリカ系アメリカ人の精神科医であるチェスター・ピアスという学者によって提唱されて、2000年代にアジア系アメリカ人の臨床心理学者であるデラルド・ウィン・スーが有名にした概念だ。スーによる定義は下記の通りである。

マイクロアグレッションというのは、ありふれた日常の中にある、ちょっとした言葉や行動や状況であり、意図の有無にかかわらず、特定の人や集団を標的とし、人種、ジェンダー、性的指向、宗教を軽視したり侮辱したりするような、敵意ある否定的な表現のことである。(スー、p.34)

また、日本の人権活動家の渡辺雅之は、以下のように表現している。

それは日頃から心の中に潜んでいるものが口に出たということであり、口にした本人に“誰かを差別したり、傷つけたりする意図があるなしとは関係なく、対象になった人やグループを軽視したり侮辱するような敵対・中傷・否定のメッセージを含んでおり、それゆえに受け手の心にダメージを与える言動”であるということです。(渡辺、p.5)

スーがマイクロアグレッションの具体例として挙げるものについて、いくつか抜粋して紹介しよう。

・あるゲイの青年は、クラスメートたちの「それ、ゲイみたいじゃん」と言いながらふざけたりばかみたいな身振りをしたりすることに対してしょっちゅう不快感を感じていた(ここに隠されているメッセージは、同性愛者は倒錯している、ということ)。

・ある目が不自由な男性は、人々が彼に話しかける時によく声のトーンを上げる、ということを報告している。ある善意に満ちた看護師は、実際薬を渡す時、彼にむかって「叫んで」きた。彼は「どうか、大声を出さないでください。私にはあなたの声が非常によく聞こえていますよ」と答えた(ここに隠されているメッセージは、障害を持っている人は、あらゆる機能が劣っている、ということである)。

・16歳のジーザス・フェルナンデスの保護者面談の時、教師は母親に、ジーザスは学習上の問題を抱えている、とそれとなく伝えた。ジーザスは授業に関心がなく、やる気がなく、宿題を期日までに出さず、しょっちゅう席で居眠りをしているからだ。しかし先生は、ジーザスが学校が終わってから4〜5時間、家族を助けるために働いていることを知らなかった(ここに隠されているメッセージは、貧しさの中で生きていくことがいかに人々のエネルギーを奪っていくのかに対して意識がない、ということである)。

(スー、p.47-48)

日本においては、「ハーフ」の人や外国人に対するマイクロアグレッションが注目されることが多い。

たとえば、心理学者の出口真紀子は初対面の相手に「お父さんはなに人? お母さんは?」と聞いたり「ハーフってうらやましい」と言ったりすることや、日本に暮らす外国人に「納豆食べられる?」「日本のどこが好き?」と聞くことはマイクロアグレッションである、と述べている[1]。これらの行為は、「ハーフ」や「外国人」というステレオタイプを相手に押し付けるものであるからだ。

中立的なものとは言い難い

そもそも、アグレッション(aggression)とは「攻撃」のことである。スーの著作では、マイクロアグレッションは対象にとって「ストレッサー」となり、生理的にも心理的にもストレスを引き起こしてさまざまな悪影響を生じさせる、と論じられている。この点に注目すれば、マイクロアグレッションが「危害」であるという主張はわかりやすい。

一方で、スーの著作の別の箇所や日本の議論を眺めていると、被害者に対する影響よりも加害者が「無意識の偏見」や「ステレオタイプ」を抱いていること自体のほうが問題視されている場合も多い。この種の議論におけるマイクロアグレッションという概念からは、学校に掲示されている「標語」のような雰囲気がただよう。「自分が何気なく言った言葉でも、相手にとっては侮辱に感じられたり敵対的なメッセージに思われたりするかもしれないから、マイノリティの人と話すときには自分が無意識の偏見やステレオタイプを抱いていないかどうか充分に注意して、慎重に言葉を選んで話しましょう」ということだ。

そして、マイクロアグレッション理論は以前に論じた「特権」理論や、差別に関するその他の社会学的な理論や概念と結び付けて論じられるのが一般的であることにも留意したほうがいいだろう[2]

単純に考えると、マジョリティの人や社会的に差別されているわけではないがなんらかの特徴を持っている人に対しても、マイクロアグレッションは発生しそうなものだ。

たとえば、わたしには身長が185cmを超える男性の友人がいるが、彼はよく他人から「バスケが上手いんでしょう」と言われたり「モテるんでしょ」と言われたりしている。それに対して友人は「いつもそんなことを言われるけれど、背が高いからってバスケが上手いとかモテるとか限らないんだって」とボヤいている。通常、背が高いという特徴を持っている人は、それだけではマイノリティであるとか被差別グループに属しているとは見なされない(むしろ、背の高さはさまざま面で社会的な有利さにつながっていることはよく知られている)。しかし、わたしの友人が「背が高い男はバスケが上手くてモテるものだ」という偏見やステレオタイプを他人からぶつけられていることは事実だし、それによって彼はストレスを受けているかもしれない。

同じようなことは、東大や京大などの名門大学に通っている学生、医師や弁護士などの高度な資格業に就いている人、単にお金持ちである人などにも当てはまりそうなものだ。自分が東大生であることや医師であることやお金持ちであることに基づいた偏見やステレオタイプを他人からぶつけられていて、それによってストレスを受けている、という愚痴や文句はよく耳にする。東大生や医師やお金持ちはマイノリティではないし、弱者でもない。しかし、マイクロアグレッションがステレオタイプや侮辱に関するものだとすれば、彼らもマイクロアグレッションの被害者だと言ってもおかしくないはずである。

だが、スーの著作を見るとマジョリティの人に対するマイクロアグレッションはほとんど注目されていないし、そもそもマジョリティに対してマイクロアグレッションが発生し得るとは考えられていないことがわかる。マイクロアグレッションが発生するためには、加害者の側に「偏見」や「ステレオタイプ」があることや、被害者が「敵意」や「侮辱」を感じることだけでは十分でなく、それらが「差別構造」に紐付いたものであるということも必要な条件とされているのだ。

このため、マイクロアグレッション理論は中立的なものであるとは言い難い。この理論は、個人の心理に対して発生する影響や社会のなかで行われるコミュニケーションの様態を単に記述するためのものではなく、多かれ少なかれ、規範に関する含みがある。「マイクロアグレッション」は、マイノリティが敵意や侮辱を感じてストレスを受けることを問題視して、マジョリティが偏見やステレオタイプを抱いていることを批判するという目標のために、スローガンとして用いられている言葉でもあるのだ。

マイクロアグレッション理論の問題点

英語圏では、マイクロアグレッション理論やスーの著作について批判する論文や書籍がいくつか発表されている。以下では、社会学者のブラッドベリー・キャンベルとジェイソン・マニングの共著『被害者意識の文化の興隆:マイクロアグレッション、セーフ・スペース、そして新しい文化戦争』や、社会心理学者のジョナサン・ハイトと憲法学者のグレッグ・ルキアノフの共著『アメリカン・マインドの甘やかし』などの書籍でなされている批判を参考にしながら、この理論の問題点について説明しよう。

まず指摘されるのが、マイクロアグレッションという概念はきわめて主観的なものである、という問題だ。

通常、わたしたちが「攻撃」や「侮辱」という事象について考えるときには、多かれ少なかれ、加害者や差別者の「意図」の存在を前提する必要がある。たとえばAさんの行為によってBさんが怪我をしたとき、Aさんに「Bさんを怪我させてやろう」という意図があったかどうかは、「Aさんの行為はどれくらい悪質であり、非難に値するか」ということを判断するうえで重要なポイントになる、と大半の人は考えるはずだ。これは子どもでも身に付けているような日常的で常識的な直感であるが、同時に、専門的な倫理学の議論や実際の法律の運用においても重視されている考え方である(たとえば傷害罪や殺人罪が成立するためには「故意」の存在が要件とされる)。

ある人が他人の行為によって死亡したとき、それが殺人であったとしても事故であったとしても、わたしたちは被害者のことを気の毒に思ったり悼んだりするだろう。しかし、殺人の場合にわたしたちが加害者に対して感じるような怒りや悍ましさは、事故の場合には感じられないものである(加害者が飲酒運転や危険運転などをしていた場合には、通常の事故に比べて怒りは増すかもしれないが)。また、ある人が他人の言動によって傷ついたとき、その言動が相手を侮辱するつもりで発されたのではなく、たまたま相手のトラウマを刺激してしまったり誤解によって相手を傷つけてしまったという場合でも、わたしたちは傷ついた人のことを気の毒に思ったり同情したりするだろう。とはいえ、そのような場合に、言動を発した人のことを怒ったり非難したりしようとは思わないはずだ。だが、もしその言動が「相手のことを侮辱してやろう」という意図によって発せられたものだったとしたら、言動を発した人は怒りや非難の対象になるだろう。

つまり、意図の有無は「被害」について考えるうえではさほど重視されないが、「加害」や「攻撃」という物事を考えるうえでは欠かせない。ある加害行為がどれほど悪質であるか、攻撃をした人はどれくらい非難されるべきかを判断するうえで、意図という要素を抜きにすることはほとんど不可能だろう。

とはいえ、故意なく相手を怪我させたり死亡させたりした人でも過失傷害罪や過失致死罪に問われるように、意図されていない行為であっても加害を生じさせること自体に問題が含まれている、ともわたしたちは考えている。たとえば、セクシュアル・ハラスメントやパワー・ハラスメントは加害者に悪意がなくても起こり得る、ということが周知されるようになって久しい。だが、ハラスメントのような問題については、客観的で外形的な「基準」を設けて対処することが一般的である。

具体例を挙げると、日本の厚生労働省の指針ではパワー・ハラスメントは「職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものであり、①から③までの要素を全て満たすものをいう」と定義されている[3]。また、セクシュアル・ハラスメントは「職場において行われる、労働者の意に反する性的な言動に対する労働者の対応によりその労働者が労働条件について不利益を受けたり、性的な言動により就業環境が害されること」と定義されているのだ[4]。もちろん、厚生労働省の定義が絶対だというわけではない。この定義は狭すぎると批判する人もいれば、曖昧で厳密さに欠けると論じる人もいるだろう。しかし、少なくとも、ハラスメントの問題については基準を設けられることや、実際にトラブルが生じた際にも基準に基づいてハラスメントか否かの判断ができるということについては、多くの人が同意しているのだ。

被害者側の主観に委ねられている

マイクロアグレッション理論には、加害行為やハラスメントに関する通常の考え方とは異なるところがある。

まず、冒頭に引用したスーや渡辺の定義で示されている通り、意図の有無は問題とされない。そして、「どのような行為や言動がマイクロアグレッションとなるか」については、外形的で客観的な基準を設けることは困難だ。加害者側の行為や言動に「軽視」や「侮辱」や「敵意」が含まれているかを判断するうえで、加害者側の意図は考慮すべきでないとすれば、実質的には被害者側の主観に委ねるしかなくなる。つまり、BさんがAさんの言動に軽視や侮辱や敵意を感じたとすれば、それだけで、Aさんはマイクロアグレッションを行なっていることにされるのだ。

ハラスメントについてよくある粗雑な批判が、「そんなことを言い出したらなんでもかんでもがハラスメントということにされてしまって、部下や同僚とのコミュニケーションもまともにできなくなってしまうじゃないか」というものである。このような批判は、ハラスメントの定義には「業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより〜」といった基準が設けられているのを無視しているという点で、的外れだ。しかし、マイクロアグレッションという概念については、この粗雑な批判でも的を射てしまうかもしれない。

たとえば、自分の受け持っている生徒が宿題を提出しておらず授業中に居眠りしているとき、そのことを保護者に伝えるのは、生徒にどんな背景事情があろうとも、教師という職業にとっての「業務上必要かつ相当な範囲」に収まる行為であるはずだ。しかし、前述の引用部分で示している通り、スーはまさにこの行為をマイクロアグレッションの例として挙げているのである。

また、スーは自身が経験した事例として、以下のような出来事を挙げている:アジア系であるスーとアフリカ系である彼の同僚が小型飛行機に乗ったとき、白人の乗務員は、「どこに座ってもよい」と言ったから、彼らは通路が一方から他方へと交差する前の方の席に座った。その後、白人男性の乗客が三人乗り込んできて、スーたちの近くの席に座った。飛行機が離陸する直前、乗務員は、「飛行機の重さの配分を均等に整えるために席を移動してほしい」とスーたちに頼んだ。スーたちは席を移動したが、後から来た白人たちではなく自分たちが席を移動させられたことに怒りを感じて、「あなたは、二人の有色人種の客に対して、『バス』の後方に行けと頼んだことを自覚していますか?」と乗務員に言った。それに対して乗務員は「私は人種差別などしてませんよ!私はただ飛行機のバランスを保つためにあなたがたに移動をお願いしただけです。私はあなたがたにより広い、よりプライバシーが守られる空間を提供しようとしただけです」と反論したのである(スー、p.89-90)。

キャンベルらは、上記の事例で乗務員の行為や言動がマイクロアグレッションであったかどうかの判断はスーの主観に一存されている、という問題を指摘している。また、見方によってはスーの言動のほうがマイクロアグレッションと言えるのではないか、という疑問も呈している(Campbell and Manning、p.10)。乗務員としての業務をいつも通りにこなしていたら、(男性であり大学教授でもある)乗客がいきなり怒り出して、人種差別主義者だと非難されてしまうことは、「いわれもなく敵意や侮辱をぶつけられた」という経験だと感じられてもおかしくないからだ。……しかし、たとえば白人男性の小学生教師が自分の受けたマイクロアグレッションについて語ろうとしたときにスーが「それはマイクロアグレッションという概念を誤って適用している」と批判したように、彼にとって「白人はマイクロアグレッションを経験し得ない」ということが前提になっている(Campbell and Manning、p.10)。このことから、キャンベルらはスーの議論は恣意的なものであると批判しているのだ。

他人を責めたり非難したりする目的でマイクロアグレッションという概念を乱用するべきではない、ということはスーやその他のマイクロアグレッション概念の支持者も主張していることではある。しかし、実際のところ、この概念がだれかを責めたり非難したりするうえでかなり便利なものであることは明白だ。相手に故意があったことを論証する手間を省いて、相手の行為や言動が客観的な基準に抵触していることを論じる必要も抜きにして、「自分が被害を感じた」という経験だけを根拠にして、相手が「攻撃」や「差別」を行なったと主張することができてしまうからである。

背景にある道徳文化の変遷を理解する

キャンベルらによると、社会学的にはマイクロアグレッションは「だれかが発する主張」の種類や「だれかが行う行為」の種類を示すものではなく、むしろ「だれかの主張や行為に対して別のだれかが貼るラベル」と見なすべきである。なんらかの行為や言動をマイクロアグレッションだと主張することは、物事について記述したり分析したりするのではなく、なにが善でなにが悪かを定めようとする道徳主義的な行為(moralistic behavior)である、と彼らは論じる。

そして、現代のアメリカ(のアカデミアなどの一部界隈)でマイクロアグレッションという概念が普及した理由を理解するためには、その背景にある道徳文化(moral culture)の変遷を理解することが重要である、とキャンベルらは主張する。ここで具体的に参照されるのは、心理学者のリチャード・ニスベットとドヴ・コーエンの共著『名誉と暴力:アメリカ南部の文化と心理』などで展開された、「名誉の文化」と「尊厳の文化」に関する分析である。この分析を下敷きにしながら、マイクロアグレッションという概念が広まった背景には「被害者意識の文化」が存在する、とキャンベルらは論じるのだ。

ニスベットらによると、「名誉の文化(Culture of Honor)」とは世界中の牧畜民の間で一般的であり、現代のアメリカ南部にも存在する文化である。また、アメリカの北部や日本などの他の国々においても、ギャングや不良(ヤンキーなど)の世界には名誉の文化が存在する、と指摘されることも多い。

名誉の文化の特徴は、「自力救済」の重視と、「侮辱」に対する敏感さだ。

名誉の文化は、世界中の多くの社会で互いに独立して生み出されてきた。これらの文化は互いに多くの点で異なるが、ある要素を共通して持っている。すなわち、人々は暴力に訴えることで、自分の高潔さや強さやあるいはその両方の評判を守ろうとする。こうした文化は、①各個人がその仲間たちからの経済的なリスクにさらされている場所で、しかも、②政府が弱いかあるいは存在せず、したがって財産の窃盗を抑止することも、それに制裁を加えることもできないような場所で、特に発達しやすいようである。そして通常は、この2つの条件は同時に成立する。たとえば、牧畜は辺境地域に適した生産手段であるが、そうした場所は政府の統制が及びにくい。(ニスベット、コーエン、p. 7)

 

名誉の文化の鍵となるのは、侮辱とそれに対抗することの必要性が、どれほど重要視されているかである。侮辱は、そのターゲットとなった者が苛められるのにふさわしいほどの弱い者であることを暗に示す。強さについての評判は名誉の文化において最も重要なものなので、誰かを侮辱した者はその撤回を強いられる。彼がそれを拒否すれば、暴力あるいは死という制裁を受けることになる。侮辱のなかでも特に重要な意味を持つのは、家族の女性たちに向けられたものである。(ニスベット、コーエン、p. 8)

名誉とは「評判」のことでもあり、この文化のもとに暮らす人たちは「他人からどう思われるか」ということを意識せざるを得ない。周りから「こいつは弱そうだ」「こいつはチョロそうだ」と見なされたら、財産を奪われたり、いいように利用されたりしてしまう。そのために、日本の心理学者の石井敬子が表現しているように、他人からの侮辱には敏感に気付いて「なめんなよ!」と反応することで、「タフである」という評判や「男らしさ」を維持しなければならない[5]

名誉の文化のもとでは殺人や争い事が起きやすく、子どもに対する体罰を含む暴力にも寛容だ。そして、女性たちも名誉の文化には無縁ではない。母親たちは自分の息子に「だれかに暴力を振るわれたら、相手を訴えるのではなく、絶対で自分の力に解決しなさい!」と教えこむだけでなく、必要とあれば女性たち自身で暴力を行使することも稀ではないのだ。

「名誉の文化」に特徴的な行動の具体的な例としては、2022年3月にアカデミー賞の授賞式で起こった事件が挙げられるだろう。俳優のウィル・スミスは妻のジェダ・ピンケット=スミスと一緒に出席していたが、プレゼンターであったコメディアンのクリス・ロックは、脱毛症であるジェイダの髪型をジョークの題材にした。これに対して怒ったウィルは、壇上に上がってクリスに平手打ちをしたのだ。この行動にはアメリカでも日本でも賛否が分かれて、アカデミー賞理事会がウィルを授賞式や関連イベントから10年間出席停止にした判断を支持する人もいれば、クリスのジョークは病気の人に対する侮辱であると批判してウィルの行動を支持する人もいた。……しかし、良し悪しはさておき、妻に向けられた「侮辱」に敏感に反応して自力で暴力を振るい報復するというウィルの行動は、まさに「名誉の文化」の特徴を揃えているものであったのだ。

寛容と交渉が重視される「尊厳の文化」

「尊厳の文化(Culture of Dignity)」は現代の西洋社会に広く普及しており、多くの点で、名誉の文化とは正反対の規範が採用されている。

この文化が名誉の代わりに重視する「尊厳」とは、他人からどう思われるかということに関係なく、すべての人に内在的に備わっているとされるものだ。したがって、この文化のもとでは「評判」は重視されず、タフさや男らしさを積極的に示す必要もない。尊厳の文化のもとで暮らす人々は他人からの侮辱に対して敏感ではないし、むしろ、侮辱を気にせずに無視することのほうが望ましいとされる。

尊厳の文化のもとで親たちが子供に教えるのは「棒や石は私の骨を折るかもしれないが、言葉が私を傷つけることはない」という考え方だ。また、この文化では自分を抑制することが重視されるために、人々は他人からの侮辱に対する怒りを抑えるだけでなく、自分が(意図的であるかそうであるかに関わらず)他人を侮辱することも控えようと努めることになる。

尊厳の文化では自力救済は忌み嫌われ、必要とあれば警察や法廷などの第三者に訴えるべきだとされる。ただし、窃盗や殺人などの明らかな加害に対しては法的な対応が必要とされるが、だれかと意見や利害が対立しているような場合や悪意のない事故が起こった場合には、裁判をするよりも前に話し合いや交渉を行なって当事者間で問題解決を目指すことが望ましいとされる。他者に対して寛容になって理性的に議論することが尊厳の文化の理想なのであり、みだりに法廷や権威に訴えることは「軽薄」であると非難されるのだ。裁判は利用するとしても交渉が決裂した後の最終手段であるし、それもできるだけ静かに手短に済ませたほうがいい。つまり、尊厳の文化では「寛容」と同時に「交渉」が重視されるのだ。

名誉の文化が世界各国に存在しており、「周囲から攻撃されるリスクの高さ」と「信頼できる政府や法的機関の不在」という特徴を兼ね備えた社会ではどこでも自然発生する可能性があるのに比べると、尊厳の文化は人為的な要素が強いことには留意しておこう。

「尊厳」という価値が他人からの評判や集団内での地位とは関わらずに誰しもに内在的に存在している、という考え方はイマニュエル・カントをはじめとする哲学者たちの議論を想起させるものであり、明らかに西洋的なものである。現代の先進国では法治システムが普及しており基本的人権の存在が前提とされる以上、非西洋諸国であっても多かれ少なかれ「尊厳の文化」を取り入れなければならない。一方で、尊厳の文化が組織の指針としてどれほど重視されたり人々の意識にどこまで浸透しているかということには地域によってギャップがあるかもしれない。たとえば、日本では、ウィル・スミスの行動に対する批判よりもアカデミー賞の決定に対する批判のほうが知識人の間でも目立っていたように見受けられた。この事態は、西洋では「尊厳」という概念が非常に重視されているという点や、そのために自己を抑制せずに品位ある場で暴力を振るう行為には厳しい処罰がされるという点に関する理解が日本では浸透していないことを示しているだろう。

「被害者であること」が道徳的ステータスに

近代以降の西洋社会では、尊厳の文化が普及していった。そして、最近になって登場した第三の文化が「被害者意識の文化(Culture of Victimhood)」である。

被害者意識の文化には「侮辱に対する敏感さ」という名誉の文化と共通する特徴がある一方で、名誉の文化のもうひとつの特徴である自力救済は否定されて、代わりに権威や第三者に訴えることが是とされる。ただし、尊厳の文化と異なり、「まずは相手に対して寛容になって交渉することが大切であり、裁判に訴えるのは最終手段だ」といった自己抑制は重視されない。言葉による侮辱も「被害」だと見なして、「自分が被害を受けた」と喧伝して、すぐに他人に助けを求めることが、被害者意識の文化の特徴なのだ。

この文化では、名誉や尊厳の代わりに「被害者であること」が道徳的なステータス(moral status)の条件になっている。名誉の文化では「弱く見られること」は財産を奪われたり弱みにつけこまれたりするコストをもたらしていたのが、被害者意識の文化では他人からの支持を得たり権威に訴えることを可能にしたりするというベネフィットをもたらすのだ。そのため、人々は、自分のタフさや男らしさを誇示したり、自分には尊厳が備わっていると主張したりする代わりに、自分が被害者であることを強調することで自分の要求を通そうとする。

キャンベルらによると、被害者意識の文化が最も定着しているのは(アメリカの)大学だ。学生たちは「被害」を喧伝する抗議デモやキャンペーンを行い、多くの場合に大学当局は学生たちの訴えを聞き入れて、「加害者」とされる教員や他の学生などに勧告や懲戒などのペナルティを与えている。……逆に言えば、大学の外では被害者意識の文化はそれほど普及していないし、奇異なものとして見られることも多い。結局のところ、法廷を利用するためには単に「侮辱された」や「言葉で傷つけられた」以上の法的根拠が必要となるし、大学当局に比べると営利企業は「被害」の訴えを聞き入れるとは限らないからだ。

そして、被害者意識の文化に影響されているのは左派やマイノリティに限らない。たしかに、被害や「抑圧」を強調する被害者意識の文化は左派の発想と相性が良い。また、「被害者である」ということが道徳的なステータスになるから、そのステータスを確保して独占するために、特権理論やマイクロアグレッション理論のように「抑圧や被害はマイノリティにしか発生しない」という理屈が生み出されることになる。……しかし、右派やマジョリティの学生も大学に通っている以上、被害者意識の文化が行き渡った環境を共有することになる。名誉の文化のもとではどんな人も「名誉」を求めて、尊厳の文化のもとではどんな人も「尊厳」を求めるのと同じように、被害者意識の文化のもとではどんな人も「被害者であること」を求める。そうしないと、自分には道徳的なステータスがないということになってしまうからだ。

したがって、昨今ではマジョリティや右派も、マイノリティや左派が利用しているのと同じ戦略を自分たちも用いることになった。彼らは彼らで、「自分たちこそが被害者である」という理屈を編み出して、それを喧伝しているのだ。たとえば日本でも見られる光景として、フェミニズムの理論に基づいて性差別主義者であると批判された男性たちが、「むしろフェミニズムの理論のほうが男性差別主義的である」と反論するということがある。

つまり、被害者意識の文化のもとでは、「被害者であること」が自分の立場を守って相手を攻撃する「武器」となる。左派も右派も、マイノリティもマジョリティも「我こそが被害者である」と主張することに躍起になり、自分の被害者意識を主張しながら相手の被害者意識を否定するためのさまざまな議論を行う。そして、「相手に対して寛容になって交渉する」という尊厳の文化の規範が失われているために、落とし所を見つけたり妥協や相互理解を目指したりするという筋道を取ることもできなくなってしまったのだ。

日本社会にも浸透している「被害者意識の文化」

上述したように、キャンベルらは「被害者意識の文化」は(アメリカの)大学に特異なものと見なしており、「名誉の文化」や「尊厳の文化」のようには広く普及していないと考えているようだ。被害者意識の文化は、法律の対象にもならない些細な言動や曖昧な物事について「傷つけられた」と訴えたときに、「それは問題だ」と訴えに反応して対処してくれる権威や組織が存在するほうが成立しやすい。いまのところ、欧米でも、そのような組織は大学のほかにはあまりないだろう。

一方で、読者のなかには「被害者意識の文化は日本にも浸透している」と思った人もいるはずだ。

実際、日本でもマイクロアグレッションという言葉は浸透してきているし、SNSを眺めてみても書店のエッセイコーナーを訪れてみても、多くの人が「自分は傷つけられた被害者である」と訴えている様子を観察することができる。人種やエスニシティの問題は日本ではあまり前面化しないが、「自分たちは社会の性差別によって被害を受けている」と主張する女性たちと、彼女らに対抗するかたちで「自分たちのほうが社会の女尊男卑によって被害を受けている」と主張する男性たちの姿は、Twitterではもはや定番のものとなっている。また、書店に並ぶエッセイや漫画などでは、作者の「繊細さ」をアピールしながら、鈍感で無関心な周囲の人間たちのせいで自分が受けた被害のエピソードが描かれていたりする。そして、一部の若者たちは「親ガチャ」や「毒親」に対する不平を言いながら「家庭環境の問題や社会の格差構造のために、自分は生まれ落ちた時点から被害者である」と主張しているのだ。

……もちろん、日本社会に女性差別が存在することや男性も「つらさ」を感じていること、悪質な家庭環境や経済格差などが存在することは事実だ。被害者意識の文化やマイクロアグレッションという概念の問題を論じるにしても、勢いあまってマクロな問題の存在を否定すること、つまり実際に深刻な影響をもたらしている被害のことまでをも矮小化して捉えることをしないように注意すべきだろう。

だが、それはそれとして、「被害者であること」が道徳的なステータスと見なされており、多くの人がそのステータスを追い求める風潮は、アメリカの大学だけでなく日本にも広く存在しているようである。たとえばSNSで被害者意識を訴えたとしても、その訴えになんらかの組織が対応してくれることはほとんどないはずだ。では、人はなぜ被害を訴えるのか?

キャンベルらの著作では、「党派精神(Partisanship)」や「紛争の解決」に関するドナルド・ブラックという社会学者の理論を参照しながら、被害者であるというステータスが「第三者(Third Party)」の人々に与える影響についても論じられている。ブラックの理論を簡単にまとめると、以下のようなものだ:AさんとBさんが揉めているときに、Cさんは二人のうち自分と共通点を持つ人のほうか、立場が強い人のほうの肩を持ちやすい。立場が弱い人のほうの肩を持つ、いわゆる「判官びいき」は、ごく限定的な状況でしか成立しない。そのため、立場が強くあることは、相手との紛争に勝って自分の要求を通すためには重要である。

ふつうに考えたら、加害者とは立場の強い人であることが多く、被害者とは立場の弱い人であるだろう。しかし、被害者意識の文化のもとでは、被害者であることがステータスとなって、立場の強さにつながる。つまり、第三者からの支持や擁護を得るためには、自分が被害者であると強調したほうがいい。

ここでいう第三者とは「世論」のことでもある。組織からの具体的なサポートは得られないとしても、世論(やSNSのフォロワーたち)が自分に共感してくれて、敵対している相手のほうではなく自分のほうを支持してくれるというのは、大半の人にとって魅力的だ。人間は社会的な生き物であるために、たとえ実利がないとしても、他人から承認されたり「自分にはたくさんの味方がいる」と思えたりすることを望むのである。

そして、すでに被害者意識の文化が発達した国で生み出されたマイクロアグレッションや特権に関する理論は、別の国に輸入することができる。したがって、アメリカの学生たちが行っているような「自分たちはマイクロアグレッションを受けているから支持・支援されるべきであり、加害者たちは非難・排除されるべきだ」というキャンペーンが日本でも模倣されることは、ごく自然な流れだと考えられるかもしれない。

近視的でネガティブな社会観をもたらす可能性

被害者意識の文化が成立するためには、規範に関する意識が一定以上に発達することが前提になる、という点には留意しておこう。

被害者であることがステータスとなって、第三者が被害者に共感や支持を寄せるようになるためには、その前段階として、「平等は重要である」という理念や「だれかが差別されたり抑圧されたりすることは避けられるべきだ」という信念が社会に広く普及していなければならない。たとえば名誉の文化のもとで暮らす人々は、自分が受けた被害を喧伝する人のことを軽蔑したり嘲笑したりして、弱みにつけこめる「カモ」としか見なさないから、被害者意識の文化が登場することは困難だろう。一方で、尊厳の文化のもとでは平等や人権に関する理念が浸透するから、被害者意識の文化が登場する下準備が整う。

マイクロアグレッション理論にしても、それを主張するためにはマクロな差別の問題がある程度までは解決されていなければならない。たとえば人種隔離政策が公式に残っている時代や、女性が選挙権も持たず社会進出も強く制限されている時代には、その時点で起こっている制度的な差別の問題があまりに深刻であるために、マイクロアグレッションに注目することはマイノリティからも「いまはそれよりも先に解決すべき大きな問題がある」と思われる可能性が高いだろう。

もちろん、マクロな問題が解決されたのならマイクロな問題は放っておけばいい、ということにはならない。「差別問題や不当な格差が存在するのなら、その規模や程度の大小に関わらず、最終的にはすべて是正されたり解決されたりするべきである」という主張は、それ自体は間違ったものではない。……しかし、いま現在の状況は、社会が進歩して過去に存在してきた多くの問題が解決された後であるからこそ到来している、という視点も忘れるべきではないのだ。

被害者意識の文化の問題のひとつが、近視的でネガティブな社会観をもたらすことだ。この文化のもとでは、「自分が被害者である」と考えている人だけでなく、「被害者である人を支援したい」と思っている人も、社会や世の中の「おかしさ」に注目して、それを他の人たちに喧伝するようになる。差別や不平等の問題の範囲を「無意識の偏見」や「悪意のない言動」というレベルにまで拡大すれば、おそらくほぼ無限に、世の中の「おかしさ」を発見して喧伝し続けることができるだろう。

さらに、以前の記事でも触れた「美徳シグナリング」という問題も関わってくる[6]。自分の周りの人たちがマイクロな問題を深刻視していたら、「あなたたちと同じように、わたしも社会の問題について真剣に考えていますよ」とアピールするために、自分も同調せざるを得ない。逆に、「その問題は世間で言われているほど深刻ではないかもしれませんよ」と疑問を呈することには、差別や不平等の問題を矮小化して放置する悪人だと思われるリスクが伴ってしまう。

これらの傾向のために、個別の問題について世間の注目が集まって取り沙汰されるということはあっても、「将来的に世の中をどうしていくべきか」といった社会像に関する建設的な議論が後回しにされてしまい、長期的な目標を掲げることも難しくなってしまうのだ。

被害者自身にも害をもたらすもの

ここまでのわたしの議論に対しては、以下のような反論が想定できるかもしれない:「マイクロアグレッションという概念や被害者意識の文化に問題があるとしても、これらによって、いままでは無視されていた被害や差別が注目されるようになったことは事実だ。マイクロなものであるとしても、被害や差別であることに変わりはないのだから、それらが是正されるにこしたことはない。だから、弱者のことを思えば、マイクロアグレッション理論や被害者意識の文化はやはり有益なのだ」。……たしかに、このような反論には的を射ているところがあるかもしれない。ただし、キャンベルらやハイトらは、被害者意識の文化は被害者(または、「自分は被害者だ」と思っている人)自身にも害をもたらす、とも論じているのである。

どんな文化でも、人が持ついくつかの性質や性向のことを「徳」とみなして、それらの徳を持つ人のことを褒めたり称えたりするものだ。たとえば、名誉の文化のもとでは、自分の財産を奪ったり侮辱をしたりしてきた相手に対してきちん報復できる「怒り」を持つことが徳と見なされるだろう。尊厳の文化のもとでは、侮辱にも動じずに冷静に対処する「温和さ」や「抑制」のほうが徳と見なされる。前者の文化では親たちは怒るべきときに怒れるように子どもたちを育てて、後者の文化では怒りを適切に抑制できるように育てる。しかし、被害者意識の文化では、侮辱に対して傷つきやすい「脆弱さ」や、他人の些細な言動にも害や悪意を見出す「過敏さ」が徳となってしまうのだ。

被害者意識の文化のもとでは、「自分は弱者だ」「自分は傷つけられた」と見なすことに、ステータスの向上というインセンティブがはたらく。そのため、この文化に影響された人ほど、自発的に脆弱で過敏な人間になっていくだろう。

だが、言うまでもなく、すぐに傷ついたり被害者意識を抱いたりすることは、本人の人生にとってはプラスにならない。他人の言動によっていちいち自分の心が揺れ動かされるような人は、前向きで自律した生き方からは程遠い、受け身で無気力な人生を過ごしてしまうことになるからだ。

「被害者意識を抱くことは、他人に対して権利を主張したり他人からの支援を求めたりするために役立つとしても、本人の人生を改善することとは相反する」という問題は、「被害意識の文化」が登場する以前から多くの哲学者や心理学者によって指摘されてきたことでもある。フリードニヒ・ニーチェによる「ルサンチマン」の議論を思い浮かべる人もいるかもしれない。また、日本の哲学者の内田樹も、「被害者の呪い」というエッセイを記している。

「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。

「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。

(…中略…)

そして一度、自分の採用した説明に居着いてしまうと、もうその人はそのあと、何らかの行動を起こして自力で現況を改善するということができなくなる。

というのは、自助努力によって自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現し得た場合、その事実によって、「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになるからである。

「強大な何か」による自己実現の妨害をはねのけることができたという事実は「私が自由に生きることを妨害する強大な何かがある」という前提と背馳する。それゆえ、一度「強大な何かによる自己実現の妨害」という説明を採用してしまった人間は、以後自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、偏在的であり、全能であることを必要とするようになる。

自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、人は自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸であることを願うようになる。(内田、p.90-91)

認知の歪みを悪化させる

心理学者であるハイトは、認知行動療法の観点からスーの主張の問題を指摘している。

認知行動療法とは臨床心理の現場で行われる精神療法の一種であり、うつ病や不安症などの治療、また夫婦関係を改善するためのセラピーやストレスケアなどにも用いられている。この療法の根底にあるのは、ある人が自分の置かれた状況や身の回りの環境や他人のことについてどのように受け止めてどのように考えるか(認知するか)が、その人が人生を前向きで健康に過ごせるかどうかを左右する、という発想だ。認知行動療法では、精神的な症状やトラブルが生じている人の感情は、物事をネガティブに受け取ったり自分の状況を誤って解釈したりする「自動思考」や「認知の歪み」に影響されていると判断される。そして、その人の認知の誤りを客観的に示して、その人が直面している状況を具体的に明らかにしたうえで、考え方や行動などの変えやすい部分から改善していくことによって問題を解決することが目指されるのだ。

ハイトによると、認知行動療法とはアカデミズムで行われる「批判的思考」に近い。どちらにおいても、「自分がいま抱いている考えや認識は感情に左右された誤ったものであるかもしれない」と自覚したうえで、客観的な情報や理性的な思考によって自分の感情や認識を吟味して問題点があれば修正する、というプロセスが必要とされるからだ。一方で、近年のアカデミアにおけるポリティカル・コレクトネスの風潮は批判的思考を軽視して「感情的推論」を重視してしまっている、とハイトは批判する。感情的推論とは「自分の感情や感覚は正しい」と前提して、感情に基づいた判断や結論を後付けの理屈で正当化することであり、それ自体が「認知の歪み」の一種でもある。

マイクロアグレッション理論も人々の認知の歪みを是正するどころか悪化させる効果をもたらすものだと、ハイトは論じる。そもそも、相手の意図の有無に関わらず「自分が傷つけられた」という感覚が「侮辱」や「差別」の存在を立証する根拠になる、というマイクロアグレッションの発想は感情的推論にかなり近い。また、マイクロアグレッション理論は他の種類の「認知の歪み」と関連している。些細な言動をも攻撃や侮辱だとして捉えることは「拡大解釈」であるし、「相手の言動の裏には自分に対する侮辱や敵意があるのだ」と推測することは「心の読み過ぎ」であるし、「自分に対して侮辱や攻撃を行なっているから差別者である」と決め付けることは「ラベリング」だ(これらのいずれもが、認知行動療法の代表的な理論家であるデビッド・バーンズが作成した「10種類の認知の歪み」のリストに含まれている)。

しかし、スーの理論によれば、「自分の抱えている問題は社会の差別構造が原因で起こっている」と思っている人に対して「その問題の原因はあなたの認知の歪みのせいかもしれませんからそれを改善してみましょう」と提案すること自体が、差別を実感している個人の感情を否定するマイクロアグレッションだということになってしまう。このため、精神科医や心理士がマイクロアグレッション理論を真に受けている限り、患者の認知の歪みを是正することができなくなるおそれがある。もちろん、それは患者にとっても有害な事態である。そして、同じような事態はアカデミアでも起こり得るだろう(教師が学生の感情を否定することを恐れて適切な指導ができなくなる、同僚の感情を否定したくない学者が論文に対して反論することを尻込みするようになる、など)。

……とはいえ、ハイトと同じようにスーも心理学者であることには留意しておいたほうがいいだろう。スーとハイトの主張の対立は、心理学や心理療法の方法論の対立として捉えることができるかもしれない。また、認知行動療法を「新自由主義的」や「個人主義的」として批判する心理士や精神科医がいることもたしかだ。しかし、逆にいえば、スーの議論はあまりに「社会的」で「政治的」であり、個人の抱えている問題を改善する役に立つかどうかもわたしには疑わしく思えるのだ。

フレーミングとマイクロアグレッション

認知行動療法と関連して、「フレーミング」とマイクロアグレッションの関係についても触れておこう。

ある人が特定の状況に対して抱く感情は、その人がその状況を認知する枠組み(フレーミング)によって変化する。そして、物理的な暴力を振われることや財産を奪われること、あるいは社会で活躍する機会が制限されることなどの外形的な被害とは異なり、マイクロアグレッションのような心理的・内面的な問題がもたらす影響の深刻さはフレーミングによって上下する。たとえば、同じ相手に同じことを言われたとしても、その言葉を「自分に対する攻撃だ」と捉える人はダメージを受けるだろうが、「単なる意見を言っているんだな」と捉えられる人はダメージを受けない。尊厳の文化のもとで「棒や石は私の骨を折るかもしれないが、言葉が私を傷つけることはない」と子どもたちに教えられるのは、子どもたちを無用に傷つかせないようにするためでもあるのだ。

ただし、認知やフレーミングを強調する議論にも危うさはある。「どんな言動が差別と感じられるかは気持ち次第なのだから、とにかくなにを言われても気にしないようにすればいいのさ」という主張だと受け止められてしまうおそれがあるのだ。

たとえば実際に差別を受けていたり抑圧された立場にいたりする人に対してこのようなことを言うのは、「適応的選好形成」を押し付けていると批判できるだろう。劣悪な環境にいる人は、その環境に適応するために、些細な物事にも満足できるように幸福の基準を下げてしまうかもしれない。それによって実際にその人が幸福を感じているとしても、それとは関係なく劣悪な環境は改善しなければならない、というのが一般的な見解だ。……同じように、言葉や振る舞いによる加害という問題についても、「ヘイトスピーチ」や「ハラスメント」を認定するための客観的な基準を設けて、その言動で被害者が受ける心理的ダメージがどれほどであるかに関わらず基準に抵触する言動は非難する、ということは必要とされるだろう。

しかし、程度問題であるとはいえ、認知やフレーミングという観点はマイクロアグレッションの問題について考えるうえで有益だ。また、認知行動療法の発想の背景には古代ギリシャのストア哲学の教えが存在する。たとえば、ストア派の哲学者であるエピクテトスについて紹介するウィリアム・アーヴァインの議論は、マイクロアグレッションや「被害者意識の文化」といった問題にも関連しているのだ。

今日では、侮辱に対してユーモアで応えるとか、何も言わないとかいった対応は、ほとんどの人から好まれないだろう。とくに差別的表現の撤廃(ポリティカル・コレクトネス)を求める人びとは、一定の侮辱については罰を与えるべきだと考える。彼らの矛先が向かうのは、マイノリティ・グループや心身障害者をはじめ社会的・経済的に困難をかかえた人びとなど、「恵まれない」人びとに向けられた侮辱である。彼らはこう主張する──恵まれない人びとは、心理的に傷つきやすい、したがって世間からの侮辱を放置していたら深刻な心理的ダメージを被るだろう。そのために彼らは、恵まれない人々を侮辱する者たちへの処罰を求めて、政府、雇用者、学校行政当局に請願するのである。

エピクテトスならば、この対応はきわめて逆効果だとして拒むだろう。たぶん彼は次のように指摘するのではないか。まず第一に差別的表現撤廃運動にはいくつかの厄介な副作用がある。その副作用のひとつは、恵まれない人びとを侮辱から守るプロセスが、逆に彼らを侮辱に対して過敏にさせる傾向があることだ。その結果彼らは、直接の侮辱だけでなく、侮辱のほのめかしにさえ、針を感じることになる。ふたつめの副作用は、恵まれない人びとが、自分だけでは侮辱に対処できないと思い込んでしまうことである。当局に介入してもらわない限り、無力な自分にはどうすることもできない、と。

エピクテトスならばこう言うだろう。最も良い方法は、侮辱する人間を罰するのではなく、恵まれない人びとに侮辱から身を守るテクニックを教えることである。彼らに一番必要なのは、自分に向けられた侮辱から針を取り除く方法を学ぶことだ。そうしない限り、彼らは侮辱に対して過剰に敏感になり、その結果、侮辱されれば相当な苦痛を経験することだろう。(アーヴァイン、p.159 - 160)

コミュニケーションとは「そういうもの」

マイクロアグレッション理論について指摘される別の問題として、「異なる文化やエスニシティの人々の交流が困難になる」ということがある。

前述したように、日本に暮らす外国人に「納豆食べられる?」「日本のどこが好き?」と聞くこともマイクロアグレッションと見なされ得る。また、スーの著作などでは、多民族社会であるアメリカにおいて「あなたはどこから来たの?(あなたは何系なの?)」と聞いたり、留学生や外国人に対して「あなたの国の言葉だとこの単語はなんて言うの?」と質問したりすることもマイクロアグレッションとされているのだ。

これらの質問がマイクロアグレッションであるのは、質問を発する側のマジョリティ(日本における日本人やアメリカにおける白人)と質問をされる側のマイノリティ(外国人や有色人種)との権力関係が前提にないとできない質問であるからだ、とされる。また、質問をする側は好意でしているつもりであっても、されている側はステレオタイプを押し付けられていると思うかもしれないし、「お前はわたしたちマジョリティの仲間ではなく、別のグループに所属している人間なんだぞ」というメッセージを受け取るかもしれない。マジョリティの文化に溶け込もうと努力している人は、そんな質問をされることで傷つくかもしれない。

一方で、マジョリティがマイノリティに対して互いの違いを強調せずに対等の存在として扱おうとすることも、またもやマイクロアグレッションと見なされる可能性がある。たとえば、白人が有色人種の人に対して「君がどんな人種なんてあるかは気にならないよ」という態度で接することは、相手が実際に有色人種としての人生を経験しているという事実を無視して「人種的差異に気づかない振りをすることによって社会的交流において偏見を持たないと見せないようにする」ことであり、「戦略的カラーブラインド」を行使しているのである、とスーは批判する(スー、p.209 – 210)。……この議論には、特権理論や現代における「差別」概念の「キャッチ=22」的な性質が露骨に示されている。マジョリティは特権があるから差別に対して鈍感であると批判されるが、差別をしないように意識的になることも特権を隠蔽して維持しようとする行為である、と批判されてしまうのだ。

しかし、一般論として、自分とは異なる背景を持つ人に関心を抱いて、相手のことを理解しようとすることは、望ましい姿勢だと見なされるはずだ。マジョリティやマイノリティということに関係なく、そもそも、コミュニケーションとはそういうものである。さらに、多文化社会やグローバル化した世界においては、質問を交わしながらお互いの文化や価値観について積極的に理解を含めることの必要性は増している。近年では異文化間コミュニケーションの機会を増やす施策がさまざまに実践されていることをふまえると、マイクロアグレッション理論には社会の潮流に逆行しているところもある。

相手の背景やアイデンティティに関わる質問をするのがマイクロアグレッションである(そして相手と自分との差異に注目しないのもマイクロアグレッションである)としたら、他人を傷つけたくないと思う人は、自分とは異なる背景を持つ人とのコミュニケーションを避けるようになるだろう。危害の範囲が拡大されて、批判される行為の種類が増えていくほど、「なにもしない」ことが最善策となるからだ。……だが、マジョリティがマイノリティとの交流を敬遠するようになったら、分断は深まるばかりである。

マイクロアグレッション理論は、二重の意味で、提唱者たちの意図に反する結果をもたらす。まず、マイノリティは本来なら無視できるような言動や気にも留めなかった他人の言動までをも「攻撃」と捉えるようになって、悲観的で緊張に満ちた人生を過ごすようになる。そして、マジョリティのなかでも良識を持つ人ほど、自分の些細な言動や善意の言葉すらもがマイノリティを傷つける可能性をおそれて、彼らと関わらないことを選択するようになるだろう。すると、マイノリティが交流する機会を持つマジョリティとは、鈍感な人や悪意を持った人になる。そのような人たちとのコミュニケーションにおいては、実際に攻撃されたり侮辱されたりする可能性は増してしまうだろう。

善意の言葉をポジティブに受けとめる

ノルウェー出身のコメディアンであり数年前から日本に移住しているミスターヤバタンは、インタビューのなかで以下のように述べている。

ステレオタイプって生まれることそのものはごく自然なことで、それをうまく利用したり崩していくことに意味があると思うんですよ。例えば、「外国人なのにお箸上手ですね」ってよく言われますけど、それってステレオタイプじゃないですか。でもそれを「外国人だからお箸が下手だと思ってたの?」って不快に思うのではなくて、「ありがとうございます」と純粋に受け取る。そこからまた会話が広がっていくんです。僕も逆の立場だったら、「お箸上手だなあ」って思うかもしれないな、と相手の気持ちを考えるようにはしていますね。

ソフト面のことを言ってはいますが、外国人がより日本で暮らしやすくなるためには、お互いのバックボーンや気持ちをイマジンすること、そしてコミュニケーションを取ることだと思います。完璧なコミュニケーションじゃなくてもいいんです。僕だって完璧じゃないし、ずっと笑顔とジェスチャーで日本の皆さんと通じています。笑顔って言葉より伝わる気がしています。ドアを開けてあげたり、目が合ったらほほ笑んだり……小さいことでもやってみたら、世界が変わってくる気がします。[7]

出身国から自分の意志で移住してきたヤバタンとは違い、わたしは両親が日本に引っ越した後で生まれてきたので、移民1世か2世であるかという点で彼とは立場は異なる。しかし、このインタビューでヤバタンが述べている経験には、わたしにも馴染みがあるものが多い。彼の考え方の多くにもわたしは同意する。また、日本に在住している欧米人たちの多くも、ヤバタンと同じような経験や考え方をしているだろう。

そして、ヤバタンの考え方は、本稿で示してきた、マイクロアグレッション理論が引き起こすネガティブな問題に対する処方箋にもなる。たしかに、「外国人なのにお箸が上手ですね」(または「外国人なのに納豆食べられるんですね」など)と言うのは、ステレオタイプに基づいた発言であるかもしれない。しかし、ステレオタイプに基づいているからといって悪意があるとは限らない。その発言を侮辱と捉えるか褒め言葉と捉えるかは、結局は発言をされた聞き手次第である。そして、善意の言葉をポジティブに受け止めることは、相手にとってだけでなく自分にとっても有益であるのだ。

また、互いの背景や事情を想像しながらコミュニケーションを取ることは、日本人と外国人という立場の異なる人たちの間にある溝を埋めるためには不可欠である。

わたしの経験からしても、だれかになにかを言われたときにその言葉の意図を推測したり悪意があるかどうかを判断したりするためには、相手の属性や立場や経験を想像することが必要になる。たとえば、都会に暮らしているときよりも田舎に旅行しているときのほうが「外国人なのに日本語が上手ですね」などと言われる可能性は高くなるし、高齢者の人は他の年齢層の人々に比べてもプライバシーに関わるものを含めてずけずけと質問してくることが多い。しかし、それは、平均的・一般論的な事象として都会より田舎のほうが外国人を目にする機会が少ないからわたしのような人間が物珍しいことや、若い人に比べると高齢者の人は外国人とコミュニケーションをしてきた経験が少なかったりすることが原因である、と考えられる。そのような事情を想像して考慮したうえで相手の言動を寛容に解釈するというコミュニケーションスキルは、外国人として日本に暮らす多くの人が否応なく身に付けていくものであるだろう。……ここで、「マジョリティが必要としないようなコミュニケーションスキルをマイノリティが身に付けさせられることも不利益や差別であるのだ」と言うことはできるかもしれないが、わたしにはかなり不毛な議論であるように思える。

もちろん、日本人が実際に外国人に対して侮辱したり悪意のある発言をしたりする事態も多々ある。相手の言動が好意であるか悪意であるかは、その場の状況や経緯や文脈、相手の表情や声のトーンなどで判断することになる。……この時、相手の意図を間違って解釈してしまう場合もあるだろう。しかし、ほとんどの場合、好意であるか悪意であるかという違いはおおむね的確に理解できるものだ。言語を介したコミュニケーションとは複雑で多様な情報を直感的に処理する行為であり、明確な基準や法則によって判断することはできないが、それでも一般的にわたしたちはかなり高い精度で相手の意図を把握することができる。だからこそ、言い手の「意図」を問わずに聞き手の感情だけに基づいて「攻撃」を定義するマイクロアグレッション理論は、コミュニケーションの現実にそぐわない。

とはいえ、わたし自身やわたしの家族、大学や外資系企業で知り合った他の欧米人たちの振る舞いのことを考えてみても、日本人から言われたことをどう受け止めるかには個人差がある。たとえば、わたしは他の面では被害者意識を抱きやすい人間ではあるが、自分がアメリカ人であるという事実に関して何かを言われることには鈍感な傾向があり、自分から積極的にネタ化したり自虐したりすることもある。そのために、悪意や侮辱を含んだ言動をされた時にもヘラヘラと笑ってやり過ごしてしまい、後から思い出して「あの時はもうちょっと怒ったり、毅然とした態度を取っていたりすればよかったな」と後悔する場合もある。わたしのような人については、適応的選好形成をしてしまっていると言えるかもしれない。……一方で、明らかに悪意のない些細な言動に対しても過敏に反応して怒る欧米人もいるし、そういう現場を目にすると、怒られている日本人のほうが気の毒になる。怒っている本人も自分の人生を無用に生きづらくしているだろう。つまり、感情や生き方に関する物事の大半がそうであるように、バランスが取れていて中庸であることが最善なのだ。

欧米人(白人)ではない外国人や移民、そのなかでも東アジア系の人々は、悪意のある言動や侮辱の標的とされる機会が多いことには留意しておくべきだろう。植民地時代を含めた歴史的経緯や、社会に残存する差別的な意識や制度のために、日本で東アジア系の人が経験する問題は欧米人が経験する問題と単純に比較できるものではない。東南アジア系やアフリカ系やヒスパニックの人々に対して向けられる侮辱やステレオタイプも、白人のそれとは質や程度が異なるはずだ。……しかし、これらの問題はマイクロアグレッションというよりも、マクロな「差別」として論じたほうがいいだろう。むしろ、マイクロアグレッションにこだわると歴史的経緯や制度の問題が見えなくなり、日本では欧米人も東アジア系の人も同様に「侮辱」という被害を受けている、という現実からズレた発想につながりかねない。かといって「欧米人の受ける侮辱はマイクロアグレッションではない」と定義すると、こんどは理論があまりに恣意的なものとなる。

「被害者意識の文化」から「尊厳の文化」へ

キャンベルらが論じているように、マイクロアグレッション理論が「被害者意識の文化」という時代の産物であることは明白だ。

そして、本稿で示してきたように、この理論は客観性がなく恣意的なものであり、マイノリティにとってもマジョリティにとっても益より害をもたらす可能性があり、現に存在する差別に対処することにも理想的な社会のあり方を想像することにも貢献しない。

「特権」に関する理論を含めて、現代のポリティカル・コレクトネスの風潮のもとで創造される理論や概念の多くに、同様の特徴がある。世の中で起こっている事態について精確に理解しようとしたり、あるべき規範について深く考察したりするためではなく、マジョリティを批判してマイノリティの立場を良くするための新たな「武器」を生み出したい、という目先の目標に捉われた人々が生産する理論や概念であるからだ。

そして、特権理論と同じく、マイクロアグレッション理論もマジョリティが被害者意識を訴えて道徳的なステータスを得るために逆利用されるようになることは想像に難くない。実際の戦争と同じように、ステータスや道徳をめぐる論争においても、武器を大量生産することは事態を泥沼化して悪化することにつながる。いまの世の中で必要とされるのは「被害者意識の文化」から「尊厳の文化」に引き戻ることであり、そのためには、過剰に生産された理論や概念を手放さなければならないのだ。


参考文献:
Campbell, B. and Manning, J. (2018) The rise of victimhood culture: Microaggressions, safe spaces, and the new culture wars. Springer International Publishing.
Haidt, J. and Lukianoff, G. (2019) The coddling of the American mind: How good intentions and bad ideas are setting up a generation for failure. Penguin Books.
デラルド・ウィン・スー/マイクロアグレッション研究会 (訳)、『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』、明石書店、2020年。
リチャード・E・ニスベット、ドヴ・コーエン/石井敬子、結城雅樹(訳)、『名誉と暴力: アメリカ南部の文化と心理』、北大路書房、2009年。
ウィリアム・アーヴァイン/竹内和世(訳)、『良き人生について:ローマの鉄人に学ぶ生き方の知恵』、白揚社、2013年。
渡辺雅之、『マイクロアグレッションを吹っ飛ばせ』、高文研、2021年。
内田樹、『邪悪なものの鎮め方』、バジリコ、2010年。
[1] https://mainichi.jp/articles/20220512/k00/00m/040/095000c
[2] http://s-scrap.com/7423
[3] https://www.no-harassment.mhlw.go.jp/pdf/harassment_sisin_baltusui.pdf
[4] https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000181888.pdf
[5] https://psych.or.jp/publication/world077/pw04/
[6] http://s-scrap.com/7328
[7] https://media.lifull.com/stories/20220301195/

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
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