II-3 男性にも「ことば」が必要だ

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

女性も男性も、それぞれ不利益を受けている日本

見方によっては、日本で女性が不利益を受けていることは明らかだ。

世界経済フォーラムが毎年発表している「ジェンダー・ギャップ指数」の2021年版によると、日本の順位は156か国中120位であり、先進国のなかでは最低クラス、東南アジア諸国よりも低い[1]。例年、日本ではとくに「ジェンダー間の経済的参加度および機会」および「政治的エンパワーメント」の指標が低いことがポイントだ(逆に、「教育達成度」と「健康と生存」の数値は他の先進国とほぼ変わりない)。日本の女性は、政治や経済という「公」の領域から、いまだに締め出されつづけている。

また、2021年に小田急電鉄小田原線で起こった刺傷事件では、容疑者が取り調べで「幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」と発言したことから、女性という属性をターゲットにしたヘイトクライムや「フェミサイド」であると論じられた[2]。自身も強姦事件の被害者であるジャーナリストの伊藤詩織も論じているように、日本は性犯罪の被害者に対する社会的サポートに欠けているうえに、刑法で性犯罪の加害者の罪を処罰することも難しい制度になっている[3]。日本の女性は、痴漢や強姦から殺人まで、さまざまな性犯罪や暴力犯罪のリスクに晒されていると言えるだろう。

その一方で、見方によっては、日本では男性が不利益を受けていることも明らかだ。

厚労省の発表している自殺者の年次推移を見ると、1978年から2020年まで、各年の男性の自殺者数や自殺率は女性の2倍前後でありつづけてきた[4]。ただし、近年のアメリカでは男性は女性の3倍、ヨーロッパや南米やアフリカなどのほとんどの国でも男性の自殺者数は女性の2倍や3倍であり、他の国に比べると日本は女性の自殺率も高いほうだ。とはいえ、2016年の調査によると日本の自殺率は約90ケ国中6位であり、その自殺者のおよそ7割が男性であることを考えると、日本の男性は世界の男女に比べても自殺のリスクに晒されているとは言えるはずだ[5]

また、日本の男性は、女性よりも不幸感を抱いている。2017年の世界価値観調査に基づいて男性の幸福度と女性の幸福度を比較してみると、日本では女性のほうが幸福度が高く、男性との差は世界で2位だ[6]。さらに、OECDが発表している幸福度白書の2020年版(How’s Life 2020)における「ネガティブな感情の抱きやすさ(negative affect)」の指標を見ると、他の国々では女性のほうがネガティブな感情を抱きやすいのに対して、日本だけが唯一、男性のほうがネガティブな感情を抱きやすくなっている[7]。男性の不幸さという点では、日本は世界でも際立っているのだ。

「変えたほうがいい」という点で一致はしているものの

このように、日本では女性も男性のどちらも不利益を受けている。これは、矛盾した事実であるのか?

「矛盾していない」と答えることもできるし、そう論じられることも多い。

たとえば、社会学者の筒井淳也は、ジェンダー・ギャップと男性の幸福度の低さの両方の問題に触れながら、海外に比べて「男性的な働き方」がスタンダードとなりつづけていることが両方の問題の原因であると指摘している[8]。ジェンダー・ギャップ指数の「経済」の指標ではとくに「管理職ポジションに就いている男女の人数の差」のスコアが低いが、これは、日本の管理職は長時間労働や転勤など「専業主婦ありき」の働き方をするという前提がいまだ根強いためである。家事育児との両立も困難になるから女性は管理職になるのをためらい、男性は「自分が稼がなければならない」というプレッシャーを感じながら過酷な労働に耐えることになる。結果として、女性は経済の領域から締め出されて、その領域のなかにいる男性は不幸を感じる、という状況ができあがってしまうのだ。

つまり、性別役割分業を前提とした昔ながらの労働モデルは、キャリアアップを困難にさせたり経済的な領域で活躍することを尻込みさせたりすることで、女性に「機会の不平等」をもたらしている。一方で、男性は長時間労働や転勤によって体力・精神力を磨耗させられたり家族と関わるタイミングを奪われたりすることで「不幸」にさせられている。かたちは異なっているが、このどちらも不利益や被害ではある。

また、多くの女性はどこかで結婚して経済的に夫に依存せざるをえないから、人生の設計図を自分の意志で描くという意味での自由が制限されていると言える。そして、生活時間の大部分が労働に奪われたりキャリアのために夢を諦めさせられたりするという点で、男性の自由もまた制限されているのだ。ひとくちに「自由」と言ってもその定義や内実は多様であり、女性と男性では制限されている自由の種類が異なるといえそうだが、いずれにせよ、自由を制限されることも不利益や被害だ。

女性と男性が被っている不利益の原因が同じである場合には、話は簡単だ。改善できるのであれば、日本的な労働モデルは改善したほうがいいのだろう。実際、このことには多くの人が同意している。日本的な「メンバーシップ型雇用」ではない欧米の「ジョブ型雇用」にも特有の問題点があることが指摘されているとか、あまりにも長く存在してきたモデルであるうえに既存の権益や慣習が深く絡み合っているためにどこから手をつけていいわからないとか、さまざまな課題や困難が待ち受けてはいるのだが、ともかく変えたほうがいいという点では男女の双方が同意しているのだ。

だが、男女の受ける不利益の原因が異なる場合には、話はややこしくなる。

ゼロサムゲームになってしまう理由

どちらの性別にせよ、自分たちが被っている不利益について訴えて改善を要求すると、もう片方の性別が「こっちの不利益のほうが深刻なのだから、こっちの原因のほうを先に改善せよ」と言ってくる。「自分が不利益を被っている」という認識を強く抱いている人は、物事についてゼロサムゲーム的に考えることが多い。別々の問題のそれぞれの原因について並行して対処をすすめることが可能だというイメージを持たず、原因に対処するためのリソースが有限であり、奪い合わなければならないかのようなイメージを持つのだ。なかには、自分の被っている不利益が放置されること以上に、他人の不利益が改善されそうになることを問題視して騒ぎ立てる人もいる。

そして、問題の原因が共通している場合にすら、互いに互いを責め立てあうこともある。日本の労働モデルによってキャリアを制限されてしまった女性のなかには「自分が会社で活躍する機会は男性に奪われた」と考える人もいるようだ。逆に、長時間労働によって疲弊した男性のなかには「自分がこんなに苦労して不幸になっているのは、金を稼ぐ役割を女性に押し付けられたからだ」と考える人がいるようである。

それは個人的な不平不満や愚痴にとどまらず、ある種の理論や思想にまで発展する。ジェンダー論などでは、日本の労働モデルに留まらず世界的な資本主義全般が家父長制によって構築されたものであり、男性が(経済や政治などの)公的な領域における機会や利益や権利を独占しつつ、女性を私的な領域に押し込めて抑圧して搾取するためのものである、といった主張がなされることが多い。そして、アカデミックな世界ではあまり目立たないが、逆の立場からの考え方もある。つまり、女性は(恋愛や家庭という)私的な領域において優位で権力を持っており、男性を公的な領域に追い立てて競争させておいてその果実を搾取している、という主張だ。

前者の考え方は、以前からフェミニストたちが提唱してきたものだ。後者の考え方は近年になって目立ってきたものである。その提唱者たちは、「弱者男性論者」と呼称されることが多い。どちらの考え方についても、ある点では的を射ているかもしれないし、ある点では誤っているかもしれない。

こうして紹介すると、女性と男性との状況は鏡写しであるようにも見えてくるし、対称的なものであるように思えるかもしれない。

だが、「自分は不利益を被っている」と認識している人たちは、どちらの側であるにせよ、自分たちの状況を対称であるとは見なさないものだ。

とくに最近のジェンダー論やフェミニズムは、男女の置かれている状況の非対称さを示すことで、女性の被っている被害が男性のそれよりも深刻であることを論じようとしてきた。そして、弱者男性論者の主張は、そのようなフェミニズムの主張(そして、後述する男性学者たちの主張)に対抗するかたちで登場してきたものであるのだ。

男性が受けている不利益を説明する理論はほとんどない

これまで、男性と女性が受ける不利益の非対称さを論じる言説は、フェミニズムによるものが大半だった。したがって、女性が受けている不利益については、それを説明して強調するためのさまざまな様々な理論や概念が発達してきた。

たとえば、経済や政治におけるジェンダー・ギャップや大学で理数系の学部を専攻する女性が少ないことについては、女性は若い頃から学校やメディアなどで「女に政治は向いていない」「女に数学は向いていない」などの言説を見聞させられることでそれらの分野に進むのをためらってしまうなど、ジェンダー規範や「女性差別的な文化」が一因であると論じられる。そのほかにも、前回に論じた「男性特権」や小田急線の殺傷事件に関する議論で用いられた「フェミサイド」など、女性の受けている不利益のかたちを定義して名前を付けて単語にした言葉は多々あり、その種類は近年になってますます豊富になっている。

そして、フェミニズム的な議論や概念の発達は、アカデミズムやメディアの世界における議論にとどまらず、実際の人々の行動や組織の政策にも影響を与えるようになっている。小田急線の事件の後には全国でフェミサイドに抗議することを目的としたデモが起こった[9]。アファマーティブ・アクション(積極的是正措置)のために、大学や私企業は理系の女性に向けた奨学金を給付している[10]。フェミサイドにせよジェンダー・ギャップにせよ、その原因が女性に対する「差別」であるのなら、社会の構成員である個人や組織はその差別をなくすために何らかの行動をしなければならない、ということだ。「日本にはさまざまな領域で女性差別が存在している」という見方はいまや人口に膾炙しており、女性が受けている不利益を是正することの必要性は、社会的に認識されるようになっているのだ。

ここに、ひとつの非対称性が存在する。男性が受けている不利益について説明する理論はほとんど発達しておらず、概念化もされていない。したがって、男性が受けている不利益は、女性のそれのように社会的に注目を浴びて問題視されることがほとんどない。

たとえば法務省が発表している犯罪白書によると、女性が被害者となった殺人罪の認知件数は416件であるのに対して男性が被害者となったのは507件である[11]。過去の統計を見ても、殺人事件や強盗事件などの暴力犯罪の被害者は女性よりも男性のほうが多い[12]。これは日本に限らず世界的に共通する一般的な傾向だ。また、理数系の学問の男女比が男性に偏っているのと同じように、人文系の学問の男女比は女性に偏っている。多くの大学では、文学部や心理学部、国際系の学部などに入学する学生は女子のほうが多いのだ。……しかし、ある殺人事件の被害者が男性であったとしても、そこで「性別」が社会的に注目されることはほぼない。また、心理学部や文学部に男性が進学しないことについてジェンダー規範が一因であると論じられることはあまりないし、ましてや「男性差別的な文化」が取り沙汰されることはまずない。

ほかにも、世の中で起こっている問題のなかには、不利益を被っている人の数としては男性のほうが多いのに女性が当事者となった場合のほうが注目されるものがある。ホームレスになる人の数は以前から男性のほうが多いが、コロナ禍や不況で女性のホームレスの数が増えたことは問題視されるようになった(そして、ホームレスに対する暴行・殺人事件も以前から起こっていたが、その被害者が女性であったときには報道されたりSNSで話題になったりする頻度は明らかに多かったように見受けられる)。冒頭で述べた通り自殺者の数も男性のほうが多いが、2020年はコロナ禍が原因で女性の自殺者数が前年に比べて912人増加して7026人となった。その一方で男性の自殺者は前年比で23人の減少となったことから、「女性の自殺」の問題はとりわけ重要視されるようになり、その背景にある原因や構造について議論されている[13]。だが、その2020年ですら男性の自殺者は16681人であり、女性の2倍以上だったのだ。

ジェンダーギャップが生まれるのにもそれなりの理由がある

とはいえ、これらのいずれの問題についても、人数とは別の理由から、「女性が不利益を被っていること」について注目されるのが妥当だと見なすこともできる。

たとえば、殺人事件や暴力犯罪の被害者となる割合は男性のほうが多いとはいえ、加害者の割合はさらに男性のほうが偏っている(殺人事件の検挙人員における女性の割合は、例年20パーセント強しかない)[14]。また、女性が「女性であること」を理由に暴力や殺人の対象に選ばれている(ヘイトクライムやフェミサイドの犠牲になる)のに比べると、男性が「男性であること」を理由に犯罪の被害に遭うことはほとんどなさそうだ。男性が暴力犯罪の被害に遭いやすいことは、男性の就いている職業や所属している集団や住んでいる地域などが女性のそれに比べて暴力を受けやすいものであるという、間接的な理由のほうが大きいだろう(もっとも、「職業や所属集団や居住地域が非対称であること」に不平等や差別を見出すこともできるかもしれないが)。さらに、男性は一般的に女性に比べてリスクに鈍感で無防備であり、酔っ払ったり羽目を外したりもしやすければ、他人を挑発したり他人の怒りを買ったりするような行動もしやすい。これらの男性に特有な行動の傾向も、男性が殺人や暴力の被害者になりやすいことの大きな要因であることは否めないはずだ。

また、女性の割合が多い学部(文学部や心理学部、看護学部など)よりも男性の割合が多い学部(理数系の学部や法学部、医学部など)のほうが卒業後に高収入な職や社会的地位が高い職を得やすいことから、両性ともに専攻する学部に偏りがあるとしても、それがもたらす不利益は女性のほうが大きいと判断することはできる。ホームレスや自殺の問題についても、これまでは比較的当事者になりづらかった属性であったのに最近になって当事者となる数の人が増えたのだとしたら、それはある種の異常事態であり、注目が集まることは当たり前だ。たとえば「男性の自殺者の多さ」は数十年以上にわたって継続してきた慢性的な傾向であるからこそ対策が難しい一方で、「コロナ禍で女性の自殺者が増えたこと」は最近になって起きた短期的な出来事であるからこそ、原因が特定しやすく対策も取りやすいかもしれない。したがって、このような問題について「男性の被害者に注目せずに女性の被害者にばかり注目するのは男性差別だ」と論じることも、的外れではある。

だけれど、上述したような要素を考慮してもなお、男性の被害はあまりに無視され過ぎているように思える。

女性が受けている不利益のほうをより強調すべき理由も、それなりにあるだろう。しかし、それだって程度問題であるはずだ。世の中の報道や街場の議論、本屋に並ぶ著作物などには、女性の被害のほうが強調されやすいという性別バイアスがやはり存在するように見受けられるのだ。

特権に実態はあるのか?

どれだけ合理的な理由があるとしても、気持ちの問題としてそれに納得できるかどうかは別の話だ。

女性の受けている不利益や被害の問題ばかりがメディアなどで取り沙汰されている状況は、それ自体が、一部の男性にとって心苦しいものとなりえる。自分の属性が受けている被害には注目されないどころか、自分の属性が加害者として批判や糾弾されてばかりでいるということからは、「社会は自分たちを気にかけていない」とか「自分の被害はだれにも共感したり同情したりしてもらうことができない」というメッセージを受け取っても無理はない。そして、社会的地位が低かったり収入が低かったりする男性、あるいは孤独であったり不幸であったりする男性にとってほど、そのメッセージは重たく響くだろう。

前回の記事で論じた「男性特権」といった概念にも、ある種の逆進的な作用がある。いい会社でいい地位についているなど経済的な領域で活躍できている男性や、女性の少ない理数系の学部や医学部や法学部などに進学したことで人生の展望を有利にできた男性については、「自分は下駄を履かされてきたのだ」と自覚させて反省させることにも意味があるだろう。しかし、経済や政治の領域や一部の学問の進学率などにおいて男性特権が存在するとしても、世の中にはその特権を行使する機会も持てなかった男性がごまんといる。元々の能力や気質、生まれ育った家庭の環境に経済状況、地域的な事情や通った学校のレベルなどのさまざまな事情から、大学に進学すること自体が実質的に不可能な男性もいれば、理数系の学部や法学などの経済的に有利な学問が選択肢に入れられない男性もいるし、日本的な労働モデルに適応して会社で出世することが困難な男性も多々いるのだ。

また、大学に進学しなかった人や地方在住者も含めると、ほとんどの男性にとって医学や政治の世界には縁がない。だから、多くの男性にとっては、医学部入試の女性差別や女性政治家の少なさといった問題は、社会問題であることは認められるとしても、自分の人生と直接に関係のある問題ではないはずだ。それらの領域にジェンダー・ギャップがあり、女性差別があるとしても、それはそもそも医者や政治家を目指せる程度には恵まれた人たちの世界での問題なのであり、他の世界の男性たちがその下駄を履けるわけではないのだ。

しかし、男性特権という概念にかかると、どんな状況であっても「男性である」というだけで特権があることにされる。特権を行使できて利益を享受して生きてきた男性であっても、特権を行使する機会もなくさして利益を感じずに生きてきた男性であっても、同じように責任が問われて、同じように罪悪感を抱いたり反省したりすることが求められる。

アファーマティブ・アクションの是非

ここまでは他人事のように書いてきたが、「男性の被害が無視されていること」から受け取れるメッセージは孤独であったり不幸であったりするほど重くなるというのは、わたし自身の経験に基づいたことだ。

多くの人の人生がそうであるように、現在33歳であるわたしの人生にも、それなりの浮き沈みはあった。大学院を卒業したのちに就職に失敗して、フリーターとして過ごしていた数年間はとくに沈んでいた時期であり、孤独感や不幸感はかなり増していた。そして、自分の将来の展望も見えず、自分がいま陥っている状態からなにをどうすれば脱出できるのかもわからないという状態でいるときには、自分以外の他人に助けの手が差し伸べられているような事例について知ると、言いようのないフラストレーションを抱いてしまったものだ。

とくに覚えているのが、東京大学が女子学生向けに家賃補助支援制度を導入したというニュースである[15]。この制度は東大の女子学生の少なさを改善するための施策であり、女子は男子に比べて両親から一人暮らしを反対されやすいことが、家賃補助というかたちの支援になった一因であるようだ(大学からの支援があれば両親を説得する理由となるし、両親の支援が得られずに独力で進学する場合にも助けとなる)。そして、一般的に、男子は女子に比べて両親から一人暮らしを反対されることが少ない。だから、家賃支援というかたちで女子にのみアファーマティブ・アクションを行うことは効率的であり合理的だ。……とはいえそれはあくまで一般論であり、男子のなかにも、一人暮らしを両親に反対される人もいる。わたしもそのひとりであり、東京の大学に進学できなかったことについて、長らく恨みを抱いていた。一度も地元を出る機会を得ないままフリーターになり、キャリア的・経済的な理由から将来に一人暮らしをする展望もまったく見えなってしまった状況では、その恨みはさらに強まった。だから、女子にだけ家賃支援がされるという報道を見たときには、他人事ながらかなりイヤな気持ちを抱いてしまったものだ。そして、若かった頃のわたしと同じように、両親から一人暮らしを反対されたせいで東京に進学できなかった男子学生も、女子に対する進学支援について知ると忸怩たる思いを抱くかもしれない。

ついでに書いておくと、男性の自殺率の高さという問題についてわたしがとくにこだわっているのも、フリーターであった時期に自殺することを考えたことが何度かあって他人事ではないからだ。……とはいえ、先述したように、女性の自殺率について注目されることにもそれなりの合理性がある。いくら自分に当事者性がある問題でも、報道や制度の背景にある合理性を無視して「男性側の不利益や被害が考慮されていない」と強調することは、逆恨みにしかならない。

しかし、不幸であったり孤独であったりするという状況は、まさにその「恨み」を募らせる。逆恨みであることを自覚できて、女性に対する支援策に対する文句を実際に口に出すことは差し控えたとしても、「自分のことは配慮してもらえなかった」という思いはダメージとして残りえる。これは感情の問題であるからだ。

「ことば」はむしろ溢れている

男性が被っている不利益や被害については理論化や概念化がほとんどなされていないために、男性が自分たちでそれらを語ることも難しい。

このこと自体が、女性と男性との間にある非対称のなかでも、かなり重大なものだ。

韓国のフェミニストのイ・ミンギョンの著書の題名は『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』であるが、大きめの本屋に行けば、フェミニストによる「ことば」だらけであることに気付かされる。アカデミックなものから個人的なエッセイまで、日本のものもあれば欧米や韓国からの翻訳もあってと、特にここ数年ではフェミニズムの本は雨後の筍のごとく出版されつづけている。それらの本の多くでは女性が受けている不利益や被害について客観的なデータや主観的なエピソードが示されたのちに、問題の原因となっている男性たちや諸々の制度(家父長制とか資本主義とか国家とか新自由主義とか)に対する批判がなされたり怒りが表現されたりしたうえで、社会を改善する必要が論じられたりシスターフッドのメッセージが示されたりする。実際の社会において女性が受けている不利益や被害はなかなか改善しないのに比べると、それについて女性が語る「ことば」だけは、むしろ溢れている状況であるのだ。

そして、「ことば」は、本を出版する機会を持つアカデミシャンやエッセイストに限らず、市井の女性たちでも放つことができる。昨今では、学校に行ったり本を読んだりしなくても、インターネットで検索したりSNSでフェミニストのアカウントをフォローすればフェミニズムの理論や概念にはいくらでも触れられる。女性たちは、自分の受けている不利益や被害について、すでに認められているかたちで語ることができて、共感や連帯を誘うことができる。……そして、女性に比べると、男性は自分たちの被害や不利益を語ることばを、ほとんど持っていない。

フェミニズムのメッセージを伝える本の多さや、近年ではシスターフッドをテーマにした映画などのフィクションが増えていることには、率直に言って羨ましさを感じるところがある。現実の状況がどうであれ、本屋に行ったり映画館に行ったりすれば、女性はエンパワメントされるだろう。その一方で、男性をエンパワメントする議論やフィクションは、今の世の中にはほとんど存在しない。

男性学にはなんの期待も抱けない?

ジェンダーや性別に関する学問としては、フェミニズムのほかにも「男性学」という分野が存在している。男性学はたしかに「男のつらさ」について理論化や概念化を行い、男性のための「ことば」を作ろうとしてきたかもしれない。しかし、わたしを含めた多くの男性にとって、男性学はなんの期待も抱けないものとなっている。

ひとくちに男性学といっても社会学や精神分析から当事者研究やフィクション研究などの多様な学問が関わっており、「男性学者」「男性研究者」などの肩書きを自称する人もいれば、そう自称はしないが研究の対象が「男性性」であったりジェンダー論の枠組みを用いながら男性について論じたりする人もいる。当人たちがどう思っているかはさておき、問題意識や議論のトピックはだいたい一緒であるから、「男性学」とひとまとめにしてもいいだろう。

また、男性学はフェミニズムと関わりの深い学問であるために、個別の問題について論じる際にも、フェミニズムの道具立てを流用することが多い。

アイデンティティに関わる学問では、ある理論や概念は規範を主張するためのものであるのか事実について分析したり記述したりするためのものであるのか、という境目が曖昧になることが多い。フェミニズムの場合には、社会には「家父長制」や「男性中心主義」などの女性差別的な制度やイデオロギーが存在することを前提としたうえで、それらの制度やイデオロギーによる権力作用やジェンダー規範が社会のなかの個人や組織の思考や行動に影響して、女性差別をはじめとする様々な問題を引き起こしている、といった議論がされがちだ。……これは単純化した説明であるが、ポイントとなるのは、個別の問題に関して分析されたり記述されたりするときにも、その背景には「社会は女性差別的である」という前提があるということだ。また、男女の行動や選択について「当人にとっての利益を合理的に追求している」とする経済学的な考え方に基づいて分析することや、「生得的な男女差が影響を与えている」とする生物学的な前提に基づいて論じることは、忌避されることが多い(むしろ、経済学や生物学自体に性差別的な前提が潜むとして批判されたりする)。

社会は女性差別的であるとするならば、社会は男性にとって有利なものである。このような前提があるために、そもそも有利なはずである男性が被っている不利益や男性たちが感じている「つらさ」について論じること自体が、難しく複雑な作業となってしまう。

たとえば「有害な男らしさ」が存在するとして

男性学でよくあるタイプの議論は、家父長制や性別役割分業によって社会的な地位や高収入なキャリアを得ることが「男らしさ」と定義されているから、男性は「男らしさ」を追い求めて長時間労働も厭わずに出世競争に明け暮れてしまい、それにより肉体的に疲弊するうえに趣味や家族に費やす時間もなくなって精神的な癒しを得られなくなることから「つらさ」を感じる、というものだ。

あるいは、粗暴な振る舞いや相手の話を聞かないガサツなコミュニケーション、感情よりも論理を重視してしまったり弱音を吐いたり涙を見せることをためらってしまったりなどの「有害な男らしさ」がメディアや教育を通じてインストールさせられてしまうことによって、人間関係を維持することがヘタで孤独になったり、自分が抱いている苦悩について自覚して対処することや他人に苦悩を打ち明けることができなくなって不幸が増したりする、と論じられることもある。

これらの議論にはそれなりの妥当性がある。多くの男性が、自分の健康や精神的な豊かさを犠牲にしてでも、自らすすんで長時間労働を行ったり激務に就いたりしていることは確かだろう。また、男性は女性に比べてコミュニケーション能力やセルフケア能力に欠けていることが男性の孤独や不幸の一因になっているという主張は、わたしの目から見ても説得力がある。……しかし、丸々受け入れることはできない。反論できるところも多々ある。

たとえば、「有害な男らしさ」が存在するとしても、それはメディアや教育などによって社会的に構築されるものばかりではなく、男性という性別にもとから備わっている生物学的な傾向も含まれていることは、進化心理学や脳科学の知見から指摘できるだろう。

男性が弱音を吐かなかったり涙を見せなかったりすることの影響も、過大視されているきらいがある。わたしはわりと簡単に弱音を吐いたり泣いたりするタイプだが、そのことがわたしの人生のクオリティにさしてポジティブな影響を与えているようには思えない。

また、最近では、「男らしさが悪いものだと言われても、そこから簡単に降りることはできない」という反論がよく聞かれるようになった。結局のところ、生きていくためには自分で金を稼いでキャリアアップするか誰かに扶養されるかする必要があり、そして実際問題としてこの社会では男性が女性に扶養される事例は少数である。共働きであっても、男性のほうがより多くの収入を稼いで女性のほうが育児によりコミットすることが、良し悪しはともかくとして一般的な事例であるのだ。したがって、キャリアアップを諦めて低収入にとどまることは、幸せで充実した生活を過ごしたいと思っている男性にとってはリアリティのある選択ではない。

とくに労働と扶養に関する問題については、そもそも男性が社会的地位や高収入なキャリアを追求している原因は女性のほうの選択や選好にある、という反論もなされている。つまり、多くの女性が経済力の高い男性をパートナーに望むために、男性は恋人や配偶者を得られずに孤独になることを避けるために「男らしさ」を追い求めざるをえない、ということだ。

この反論に対しては、家父長制社会や性別役割分業によって女性の賃金は男性のそれよりも低くされているから、女性は嫌でも男性に経済的に依存せざるをえなくなっているだけだ、という再反論がなされている。それに対して、高収入な女性であっても男性を扶養したがらないという指摘がさらになされることもある。……わたし自身の経験をふまえても、キャリアアップについて考えをめぐらすのは、その当時に付き合っている恋人の存在を意識してのことが多かった。わたしは社会的地位や権力にこだわりがあるほうではないが、恋人との関係を維持するうえで「しっかりした収入や職業」を相手から求められることが何度かあったし、その際には対応せざるを得なかった。多くの男性が同様の経験をしている。良し悪しはさておき、パートナーからの要望は、ジェンダー規範とか家父長制のイデオロギーとかいったものよりもはるかに直接的に男性の行動や意識に影響を与えるものなのだ。

いずれにせよ、女性のつらさの原因の一部が男性の行動や選択にあるように、男性のつらさの原因の一部が女性の行動や選択にあることを否定するのは難しいだろう。両性のつらさの原因が共通している場合には男女の利害は一致するが、互いが互いのつらさの原因である場合には、男女の利害は対立していることになる。しかし、男性学は「社会は女性差別的である」というフェミニズムの前提を共有しているため、女性のほうの不利益を強調して、男性のほうの不利益を見過ごしたり過小評価したりしてしまいがちだ。男性と男性学との間には、利益相反的な関係があるかもしれない。

ジェンダー論では取り上げられない「孤独」の問題

雑誌でジェンダー論が特集されるときには男性学者とフェミニストの両方の名が載っていることが多いし、同じ学会に所属していたり、メディアやイベントを通じて関ったりすることも多いだろう。理論的な前提をフェミニズムと共有していることのほかにも、男性学に関わる人たちとフェミニズムに関わる人たちとの距離が近いこと自体が、男性学の議論に大きな影響を与えているようだ。

フェミニストのなかには、男性学が男性のつらさや不利益に焦点を当てることを許さない人たちがいる。男性特権が実在していると信じている彼女たちは、男性のつらさや不利益が存在するとしてもそれは特権を持つことの取るに足らないコストや副作用に過ぎず、不平不満を言う前に自分が特権から不当な利益を得ていることを自覚して反省することのほうが先だ、といった主張をするのだ。具体的には、澁谷知美や江原由美子などのフェミニストが、男性学が「男の生きづらさ」を扱っていることについて批判している[16]。そして、男性学者たちには澁谷や江原のような批判を無視したり跳ね除けたりすることができないようだ。

このような事情があるために、男性学では男性のつらさや不利益についてシンプルに論じることもできなくなっている。まずは男性特権について反省して、この社会では女性(や性的少数者やその他のマイノリティなど)が男性に比べてはるかに重大な不利益を受けていることを示したうえで、その後にようやく「男の生きづらさ」を取り上げる、というまわりくどいかたちでしか論じられないのだ。また、男性が受けている被害や不利益についても、その原因は「ホモソーシャル」や「男性集団」または「男性性」など、社会の状況や制度や他の属性の人々ではなく、男性という属性の内部のみに見出さなければならない。

たとえば、臨床心理士であり研究者でもある西井開の著書『「非モテ」からはじめる男性学』では、女性と付き合ったことがない「非モテ」の人たちが感じる苦悩の原因は、恋人がいないことや女性から好意を向けられないことではなく、男性集団からからかわれて排除されることにある、と論じられている。また、社会学者の平山亮は、インタビューのなかで男性が自殺することの原因は「男性が支配の志向にこだわりつづけてしまう」ことであると主張した[17]

まず、西井の主張については「非モテ」の当事者たちのなかにも共感できる人はいるようだが、非モテの苦悩の原因について「恋人がいないこと」よりも「男性集団からからかわれて排除されること」のほうを強調するのは、かなり不自然で無理があるように感じられる。それは非モテの苦悩の一因となるかもしれないが、主因になるようには思えない。西井の著書を読んでもわたしは説得力を感じなかったし、議論の展開の仕方が「無難」な結論を導き出すために不自然に誘導されるように読めてしまった。恋人がいないこと……つまり付き合ってくれる女性がいないことによって生じる苦悩について論じたところで必ずしも女性の責任を問うことにはならないが、苦悩の原因には女性の行動や選択が関わっていることを示すことにはなる。それよりも、問題の原因を男性集団や男性間のコミュニケーションに帰着させたほうが、女性やフェミニストでも安心して受け入れられる議論となる。男性集団や男性的なコミュニケーションが悪いことはフェミニストにとっては自明なことであるし、非モテの問題が男性同士の問題であるのなら女性は他人事として眺めることができるからだ。実際、先述した澁谷は『「非モテ」からはじめる男性学』を好意的に評価しているし、ほかにも多くの女性たちが西井の議論を好意的に受け止めているようだ。

西井のものに限らず、男性同士の関係の過酷さや暴力性を強調して、「暴力」や「権力」や「支配」などのネガティブなワードで表現しながら、従来的な関係性の代わりに「男性同士のケア」を称揚するという議論は、最近では頻繁に見かけるようになった。しかし、これらの議論には、男性が抱える苦悩の原因を「男性集団」というわかりやすいターゲットに閉じ込めることで、他のところにも原因がある可能性から目を逸らさせたり「男性の苦悩は他の属性の人々も目を向けるべき社会問題である」という主張を封殺したりする機能がある。そして、無難であるからこそ最近の男性学は多くの女性に受け入れられており、女性のほうから男性に対して「男性学の本を読むべきだ」と推薦する状況も見受けられるようになっている。同様の事態はフェミニズムでは決して起こり得ないことは留意するべきだ。男性が平穏な気分で読めて気軽に女性に推薦できるような無難な議論をするのではなく、男性を不安にさせて居心地を悪くするような「挑発的」な議論をするほうがフェミニズムの本懐であると、多くのフェミニストは思っているだろう。

そして、平山の主張にはさらに深刻な問題が存在する。自殺の問題については個人的な事情からわたし自身も調べており、人に自殺という選択をさせる原因について論じた心理学の本なども読んできたが、男性の自殺率の高さを「支配の志向」に見出す議論は見たことがない。たとえば、カウンセリングなどを通じて自殺という問題について現場で向き合ってきたトマス・ジョイナーは、孤独は人を自殺に導く大きな要因であることを指摘したうえで、女性よりも孤独になりやすいことが男性の自殺率の高さの原因である、と論じている[18]

ジョイナーは男性が孤独になりやすいことの要因として「物質主義」や「地位や名声に対する執着」などの男性に備わった生物学的な傾向も挙げている一方で、「女性と比べて男性は人間関係を維持するためのスキルや意欲を若い頃に獲得しない」といった社会的な要因も挙げている。ジョイナーの主張には男性学の議論に近いところもある。だが、重要なのは、ジョイナーは男性の自殺率の高さを問題だとみなして改善するための議論を行なっており、自殺の予防につながる具体的な提案も行っているのに対して、平山の主張は男性に対する非難や断罪にしかならないことだ。まさに自殺を検討したことのある当の男性たちに対して、自分の言葉がどのような感情をもたらすかを考慮したようにも思えない。

男性たちの「生きづらさ」の議論の必要性

現状の男性学や、「男性性」について取り上げた社会学や哲学などの議論は、現状の社会に適応してうまく人生を過ごしている男性に対して反省を促せられるものにはなっているし、男性特権や男性集団の問題をあげつらうことで女性たちの気分を良くするものにもなっている。だが、被害や不利益を受けている男性たちの「ことば」を代弁するものにはなっていない。そして、当の男性たちもそのことを理解しているために、男性学やそのほかの学問に対する呆れや失望の声も表明されるようになっているのだ。

上述したような状況に対する反動から、近年では、弱者男性論者たちの主張が勢いづいている。アカデミアではなくインターネットを主戦場とするアマチュアが中心ではあるが、その影響力はバカにならない。男性と女性との利害の対立をことさらに強調して、女性嫌悪を煽る言論も目立つようになっており、多くの男性がそれに影響されてしまっている。

男女に利害の対立があるとしてもそれを実際以上に誇張して表現することは誤っているし、女性を嫌悪したところで男性の人生が好転するはずもない。わたしには、弱者男性論はそれを支持する当の男性たちを不幸にするものであるように見受けられる。もちろん、嫌悪の対象となる側である女性にとっても、弱者男性論が流行するのはたまったものではないだろう。……だが、実際問題として、多くの男性が弱者男性論に吸い寄せられている。自分たちの不利益や被害について取り上げて向き合ってくれる「ことば」が、ほかにないからだ。

だから、男性たちの「生きづらさ」を正面から取り上げた議論が必要なのだ。

その際に男性特権などの疑わしい理論や概念を用いる必要はなく、現実の社会の状況についてごまかすことなく目を向ければいい。不利益や被害のかたちをひとつずつ明確化していって、それが生じる原因を客観的に分析して、社会や個人がとれる対策を検討していけばいい(たとえば自殺の問題に関しては、ジョイナーの著書ではそれが実践できている)。分析した結果、特定の問題については男性の利害と女性の利害がバッティングしていることが明らかになるかもしれないが、その際にはどちらの改善を優先したりどう利害を妥協させたりするかも、その都度に考えていけばいい。本来、世の中に存在する問題とはそうやって解決していくものだ。男性の問題だけが後まわしにされたり無視されたりするいわれはないのである。


参考文献:西井開、『「非モテ」からはじめる男性学』、集英社、2021年。

 

[1] https://www.gender.go.jp/public/kyodosankaku/2021/202105/202105_05.html
https://www3.weforum.org/docs/WEF_GGGR_2021.pdf
[2] https://www.tokyo-np.co.jp/article/122491
[3] https://president.jp/articles/-/46392
[4] https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/jisatsu/R03/R02_jisatuno_joukyou.pdf
[5] https://www.mhlw.go.jp/content/h30h-1-10.pdf
https://www.sankei.com/article/20170530-RZEI624YOZLKBPDZ5UCDXVNDKQ/
[6] http://honkawa2.sakura.ne.jp/2472.html
[7] https://www.oecd.org/statistics/how-s-life-23089679.htm
[8] https://president.jp/articles/-/35456
[9] https://www.tokyo-np.co.jp/article/123766
[10] https://www.shibaura-it.ac.jp/news/nid00001842.html
https://globaledu.jp/shinfdn2022
[11] https://www.moj.go.jp/content/001365735.pdf
[12] https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/44/nfm/n_44_2_5_3_6_1.html#H005003006001E
[13] https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/1-01.pdf
[14] https://www.moj.go.jp/content/000105802.pdf
[15] https://kimino.ct.u-tokyo.ac.jp/90/
[16] https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66706
[17] https://wezz-y.com/archives/49587/3
[18] https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79839

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記

 

II-2 「特権」について語ることに意味はあるのか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

特権はマジョリティのもの?

近頃の社会学や社会運動に関わっている人たちの、あるいは哲学に関わっている人たちの間では、「特権」という言葉が用いられることが多くなっている。

辞書によれば、特権とは「特別の権利。ある身分・資格のある者だけがもっている権利」を意味する[1]。また、「貴族」のことは「一つの社会において、格段に高い政治的ないし法的な特権と栄誉をもつことを社会的かつ伝統的に承認された集団。」と定義されていた[2]。通常の用法では、特権とは貴族のように特別な地位を占める集団が保持しており、そして平民たちには与えられていない権利のことを示している。人数だけを見れば、特権を持っていない平民たちのほうが多数派であり、特権を持っている貴族たちのほうが少数派であることは、単純だが重要なポイントだ。特権とは、一握りの特別な人たちにしか与えられていない権利であるからこそ、特権なのである。

しかし、近頃に問題視されている「特権」とは、貴族のような少数派ではなく、ある社会における「マジョリティ」が持つものだとされているのだ。これには、社会学などでは、人数のうえでは必ずしも多数派でなかったとしてもある社会でより多くの権力を持っていたりより有利な位置を占めていたりする属性やグループのことが「マジョリティ」と呼称されることが関係している。

具体的な例を挙げると、アメリカでは「白人特権」(White Privilege)などが問題となっている。日本でとくに話題に上がるのは「男性特権」(Male Privilege)だ。本稿でも、主に男性特権について取り上げながら、特権という言葉がなにを意味してどのような効果をもたらしているかについて考察してみよう。

ニュートラルな状態を特権と呼ぶ不思議

男性が持っていて女性が持っていない特権とはなにか?

近年のニュースからは「入学試験での優位」を想起する人が多いかもしれない。たとえば、東京の都立高校や近畿の私立中学では「男女別定員制度」が設定されており、男子と女子は同じ試験を受けながらも、女子は女子の人数の枠内で他の女子たちと競い男子は男子の人数の枠内で他の男子たちと競うことになる。2021年度の都立高校入試では、男女合同定員制であれば合格していたはずの女子が約700人も不合格になっていたことが判明した。つまり、女子間の競争には負けたが、入学した男子たちよりかは高い点数を取っていた女子たちが失格させられていたのだ。一般的に中学入試や高校入試では女子のほうが高い点数を取れることが多いので、男女別定員制度は女子に競い負ける男子を優遇する制度であるといえる。また、東大をはじめとする国立大学や難関私立大学への合格者を多数輩出している進学校は、そもそも女子を入学させない男子校であることも多い。

さらに、2018年には東京医科大学の一般入試で女子受験者の得点を一律に減点して、合格者数が抑えられていたことが判明した(同様の事態は他の大学の医学部の入試でも起こっていると考えられる)[3]。問題が発覚したことを受けて女性の減点が廃止されたであろう2022年には日本で初めて女性が男性を医学部の合格者数で上回ったという事実は、2021年以前までは多くの男性受験生が下駄を履かされてきたことを示している。中学校受験から医学部受験に至るまで、試験で同じ点数を取っても男性は入学できて女性は入学できないことがあるという事態については、男性が特権を持っていると表現しても的外れではなさそうだ。

……ところが、近頃における「特権」とは、「入学試験での優位」のような積極的なものではなく、もっと消極的で間接的なものを表す言葉として使われているのだ。

たとえば、男性は女性に比べて、性に関する暴力や攻撃の被害を受けづらい。痴漢や強姦などの性的な暴力は、男性も受けることがあるとはいえ、実際の被害者の数は女性のほうがずっと多いことは明らかだ(そして、加害者の数も、男性のほうがずっと多い)。職場や学校におけるセクシュアル・ハラスメントに関しても、最近では男性の被害も注目されるようになってきたが、数や可能性としてはやはり女性のほうが被害に遭いやすいだろう。したがって、男性よりも女性のほうが性的な被害を受ける経験が多かったり、被害のリスクが高い環境に生きていたりする。

満員電車に乗るときには、多くの女性は痴漢の被害にあう可能性を想定して警戒したり不安になったりしているだろう。一方で、多くの男性は、電車に乗るときに警戒したり不安を抱いたりすることなく生きている。夜道を歩くときやクラブなどに行くとき、初対面の異性と会うときや異性の知人の部屋を訪問するときなどにも、女性はその身体的な性別のゆえに被害を受けるリスクに晒されていてそれによる精神的な負担も生じさせられているが、男性はそうではない。

……このこと自体は以前から言われてきたことであるし、わざわざ否定する人も少ないだろう。性暴力という問題に関して、一般的に、女性は男性よりも不利益を被っている。男性に比べて、より多くの女性が被害者になりやすいし、なっている。あるいは、これは「差別」という言葉の定義によっても変わってくるだろうが、性暴力という問題に関して女性は被差別者である、つまり差別されていると表現することもできるかもしれない。

ポイントは、自然に発想すれば、性暴力という問題における男女間の状況の違いを表現するときには、女性側に起こっているネガティブな状態のほうが注目されてそれが強調されるということだ。そもそもの前提として、女性にせよ男性にせよ、性暴力なんて受けないほうが望ましい。女性にとっても男性にとっても正常でニュートラルな状態とは、性暴力を受けていなかったり性暴力のリスクにさらされていなかったりする状態のことだ。通常、ニュートラルな状態がわざわざ注目されることはなく、名前が付けられることもない。何らかのモノや事態についてわたしたちが思考するときには、異常であるほうに注目することがデフォルトだ。

ところが、社会学や社会運動などでは、ネガティブな状態ではなくニュートラルな状態のほうを特徴付けるために特権という言葉が用いられる。性暴力という問題に関しては、女性が被害にあいやすいことではなく、男性が被害にあいにくいことのほうが強調される。つまり、性暴力の被害にあう可能性が低いことや、性暴力について恒常的に警戒せずとも生きていられることが、「男性特権」だと表現されるのである。

生得的な属性までも特権と言われる

性暴力のほかにも、「男性特権」として表現される事象は様々に存在する。たとえば、著述家の清田隆之は、男性は結婚したときに苗字を変更するという選択肢について考えなくて済まずに生きられることも男性特権であると指摘している[4]。社会の慣習や規範のために日本ではほとんどの場合に夫ではなく妻のほうが姓を変えているから、女性は若いうちからいつか結婚して姓を変える未来を想起させられながら生きているが、男性はそうではない。

このように、ネガティブな事態ではなくニュートラルな事態のほうを特徴付けるものとしての「特権」という言葉が広まるにつれて、「マジョリティとは自分の特権に気づかなくても生きていける人たちのことだ」といった物言いも盛んになされるようになった。

また、批評家の杉田俊介は、特権という言葉について以下のように説明している。

マジョリティが特権集団であるとは、その全員が金持ちだったり幸福だったりするという意味ではなく、マジョリティはただ単に存在しているだけでさまざまな一定の利益を得ているということであり、多種多様なマイノリティ集団のことを抑圧し、不利益を強いているということです。

ここで、抑圧と差別を区別しましょう。差別とは、何らかのアクティヴな行動のことです。抑圧とは、構造的に他者を抑圧し続けることです。たとえ言葉や行動によって差別しなくても、あるいは道徳的な善意を持っている場合ですら、マジョリティ集団が存在すること、生活を維持することそのものが構造的な抑圧を維持し、強化していることになります。

たとえば女性が男性に対してステレオタイプ的な見方をしたり、同性愛者が異性愛者に偏見を持ったり、在日コリアンが日本人を嫌悪したりすることはあるでしょう。しかし、それらの偏見や嫌悪は、ここでいう意味での構造的な「抑圧」ではありません。女性やマイノリティの中にも偏見やレッテルを拡散する人々がいる、という事実は、現在の社会には抑圧的な構造がある、という現実を相対化したり、打ち消したりするものではありません。

そもそも、マイノリティが日々自分たちのマイノリティ性に直面せざるをえないのに対し、マジョリティは日常生活のほとんどの場面で自分たちがマジョリティであるとことさら意識せずにすみます。自覚し、意識しなくても、生活を送れるのです。そのこと自体が最大の特権であり、優位性なのです。それはしばしば「水の中の魚」にたとえられます。水の中にいることが当たり前であるならば、自分たちが水の中に住んでいること、自分の周りに水が存在することに気づくことも難しいのです。(杉田、p.40-p.42)[5]

特権に関する議論に初めて触れる人であれば、「マジョリティ集団が存在することと生活を維持することそのものが構造的な抑圧を維持し、強化していること」というあたりにギョッとなるかもしれない。

これが「差別」に関する議論であれば、話は簡単だ。誰かを直接的に傷付けたり誰かに不利益を被らせたりする行動に対して「差別的だ」と批判する主張については、多くの人が賛同するだろう。「気付いていないかもしれないけれど、実はこういった理由から、あなたの行為は特定の属性の人に対する差別になっているんですよ」と言われた場合にも、そこで説明される理由に妥当性があるなら、多くの人は納得して、「これからはそういう行為を止めたり控えたりしよう」と考えるようになるはずだ(意固地な人や、自覚的な差別主義者である人ならそうもいかないだろうが)。行為に関する議論はわかりやすいし、解決や改善をしやすい。

しかし、特権に関する議論では、差別的な行為をまったくしない人であっても、マイノリティに対する抑圧構造が存在する社会のなかでマジョリティとして生きているだけで、抑圧に加担することになる。ここでは「構造」と同時に生得的な「属性」についても語られていることも重要だ。あなたが男性であったり、(アメリカやヨーロッパで)白人であったり(日本で)日本人であったりするなら、それだけで、あなたは構造的な抑圧を維持して強化していることになる。しかし、原則として、性別や人種や国籍などの属性を変えることはできない。差別的な行動や思考については問題を指摘されたときに反省して改めることができるのに対して、特権を指摘されたときに自分に改められることはないのだ。そのため、「特権に関する議論は、マジョリティとして生まれ落ちることを“原罪”であるかのように論じるものだ」といった批判もなされてきた。

また、特権について指摘する議論では、「特権を指摘された人たちの反応」に関する議論もセットになっていることが多い。たとえば、アメリカの社会学者ロビン・ディアンジェロの著書『ホワイト・フラジリティ──私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』では、白人特権を指摘された白人が「特権なんてない」「不当な言いがかりだ」などと反応することが「ホワイト・フラジリティ(白人の心の脆さ)」と表現されているのだ。杉田も、著書のなかで特権とは「制度論的な事実」であると表現している。特権が存在するのは事実であるとされるからこそ、それを指摘されたときに否定するほうが間違っていることになって、否認する人には「フラジリティ」というラベルが貼られることになる。

だが、わたしには、「特権に関する議論は人に原罪を背負わせるものだ」という批判にも一理あるように思える。

多くの人は、「あなたには特権がある」と指摘されたとき、それを単なる事実の指摘だとは考えずに、自分に対する非難批判として受け止めるはずだ。

実際のところ、特権に関する議論では単なる事実の問題に留まらず道徳や責任の問題についても論じられていることが大半である。男性が男性特権について語ることとは他の男性たちに「君たちもわたしと一緒に反省しましょう」と呼びかけることであり、女性が男性特権について指摘することとは「お前たちはわたしたちに対して責任があるのだぞ」と追求することである。

以下では、特権という単語にはどのような意味が含まれているのか、特権という単語はどのように機能するのかについて、掘り下げて考えてみよう。

「特権/抑圧」と「搾取/被搾取」の構造の違い

特権という概念の特徴のひとつは、それが引き算によって導出されることだ。

まず、社会のなかに「抑圧を受けている集団」が存在することが前提となり、社会からその集団を引いた残りの人々が「特権を持つ集団」ということにされる。

「特権/抑圧」の構造は、「搾取/被搾取」など、他の社会問題や道徳的な問題に関する構図と似たようなものに思えるかもしれない。

しかし、搾取とは、搾取者が利得を得るために非搾取者の利得を不当に侵害することだ。搾取とは目的を持って行われる行為である。「資本家による労働者の搾取」といった狭い意味での搾取だけでなく、「グローバル資本主義における先進国の消費者の、発展途上国の労働者に対する搾取」といった広い意味での搾取にも、このことは当てはまる。たとえばアフリカの児童労働によって収穫されたカカオを使ったチョコレートとそうでないチョコレートがスーパーに並んでいて、安いからという理由で消費者が前者のチョコレートを購入することも、搾取だと言うことはできそうだ。消費者は「チョコレートを安価に食べたい」という目的のために、それを選択して購入するという行為をしているからである。

目的を持って行われた行為が不当であったり不道徳であったりしたときに、その行為をした人には道徳的な責任があると見なすことは、ごく自然な発想だろう。したがって、搾取の問題について資本家や先進国の消費者を批判するのはもっともなことである。

一方で、特権に関する議論では、問題となるのは行為ではない。マジョリティが「抑圧を受けないこと」や「マジョリティであると意識せずに生きること」は、行為ではなく状態である。状態に目的はない。さらにいえば、それらの状態は、「抑圧を受けずに生きるぞ」とか「マジョリティであることを意識せずに生きていくぞ」とかいった目的に基づく行為の結果としてもたらされたものですらない。それらは、通常の議論では注目されないようなニュートラルな状態であり、世の中から「抑圧を受けている状態」を引き算した結果に名前が付けて特徴付けられたものでしかないからだ。

これだけを見れば、特権という単語は、世の中の状態についてトリッキーなかたちで「記述」する言葉であるようにも思える。「速記的表現」とも言えるだろう。「抑圧の構造があり、そのなかでマイノリティが不利益を被ったりマイノリティ性を自覚させられたりしながら生きているのに比して、マジョリティはそうでないこと」と毎回表現するのはまだるっこしいから、この長い一文を「特権」と言い換えているだけ、ということである。

しかし、先述したように、特権という言葉が使われるときにはほぼ必ず批判や非難が伴う。だれかに「あなたには男性特権がある」と言われたときに、「この人はわたしを責めているわけじゃなくて、ただ世の中の状態について記述しているだけなのだな」と受け取ることは的外れである場合が多い。特権という単語自体は記述的なものであったとしても、それが使われる文脈は規範的なものだ。

心理学と倫理学の両方を研究するジョシュア・グリーンは、「権利」という言葉について、以下のような指摘をしている。

……道徳家として論争しているときの私たちは、主観的感情を客観的事実の認識として提示できるために、権利と義務の言い回しが大好きだ。私たちが、権利と義務の言い回しを好むのは、主観的感情が、「そこに」あるものの心像であるかのように(実際にはそうでなくても)しばしば感じられるからだ。

……(中略)……

ある人にある権利があると言うとき、あなたは、その人に指が一〇本あるという事実のように、その人が所有するものについての客観的事実を述べているように見える。(グリーン、p.404-p.405)[6]

わたしが思うに、「特権」という単語にも、「権利」という単語と似たような性質が存在する。

たとえば、男性特権という言葉は「女性が受けている抑圧や被っている不利益を、男性は受けたり被ったりしていないこと」という状態を指すものであった。しかし、「男性特権」という名詞は、ことではなくモノを指しているかのように聞こえる。個々の男性たちが、特権を所有しているイメージが想起されるのだ。

ただし、権利が正当なものであるのとは異なり、特権とは不当なものである。男性たちが特権を所有しているとすれば、それは盗品を所有しているのと同じように不当なことだ。だから、「わたしには権利がある」という主張が事実の記述ではなく「わたしのモノに手を出すな」という要求として機能するのと同じように、「あなたには特権がある」という主張は事実の記述ではなく「あなたは不当にモノを所有しているのだ」という非難として機能する。

さらに、男性特権である場合には女性から盗んだモノであるかのような、白人特権である場合には黒人から盗んだモノであるかのようなイメージも伴うだろう。ある人がモノを不当に所有しているとすれば、そのモノを不当に奪われた人もいるはずだから。結果として、特権という概念自体は「抑圧」に関するものであったはずなのに、「搾取」に関するものであるかのようにイメージが滑っていく。そして、先述したとおり、搾取のような行為に対しては責任を問うことができる。だから、「あなたには特権がある」という主張を認めてしまうことは、女性や黒人に対して自分が行ったことにされる搾取についての責任を取らされることにまでつながりかねない。

ふつう、身に覚えのないことで非難をされたり責任を追求されたりした人は、その非難や追求に対して反発するものだ。自分はなにも不当に所有しているつもりはないのに、そうであるかのように非難されて、その責任まで追求されそうになったら、まず真っ先に出てくる反応は「それは違う、不当な言いがかりだ」だろう。……しかし、特権という言葉を使う人たちは、その自然な反応に「フラジリティ」などのラベルを貼る。彼や彼女は、特権を指摘することは実質的に非難や責任の追求として機能していることをおそらくは自覚しながらも、表向きには事実を記述する主張をしているつもりでいるからだ。

わたしの見立てでは、特権という言葉が反発を受ける背景には、上述したような構図がある。この見立てが正しいなら、特権に関する議論が拒否反応を招いている原因は、特権を指摘されている側ではなく指摘している側のほうにあるだろう。

自らのマイノリティ性の課題に向き合う?

心理学者の出口真紀子は、インタビューのなかで、以下のように答えている。

特権に無自覚だったマジョリティー側の人が、自分の世界観や信念を否定されるような情報にぶつかると、抵抗を示すことがあります。女性差別が語られる場で、男性が「差別されているのは自分の方だ」と主張するようなケースです。

抵抗の背景には、その人の抑圧体験があります。マイノリティー性に伴う問題で苦しんでいるときに、「あなたには特権がある」と言われても受け入れられないのも理解できます。自らのマイノリティー性の課題に向き合い、ケアをしない限り、自分の権力を弱者に行使し、加害行為に発展してしまう可能性もあります。男性の敵は女性ではなく、家父長制です。男性が生きづらさを感じているのであれば、女性に怒りをぶつけるのではなく、家父長制を形成している社会に怒りの矛先を変える必要があります[7]

このような主張は、出口に限らず、特権について論じている人の多くが行なっているものだ。つまり、「男性特権を指摘されて抵抗を感じても、男性特権の存在を否定するのではなく、自分が持っている他の属性やマイノリティ性に起因する抑圧の経験に思いを馳せることで、女性の受けている抑圧のことも連想して共感することができる」といった議論である。

とはいえ、日本に生まれ育って日本の国籍を持っている男性のなかで、自覚できるほどの「マイノリティ性」を持っている人はなかなか少ないかもしれない。その点に関しては、ある意味、わたしは恵まれている。在日アメリカ人として日本に生まれて日本で育った経験のなかに、多かれ少なかれマイノリティ性が伴っていることは明白だから。というわけで、ここからは視点を変えて、わたし自身が経験した「抑圧」をテコにしながら、特権の問題について考えてみよう。

わたしが日常でマイノリティ性を感じるのは、なんといっても居酒屋やバーに行ったときだ(最近はコロナ禍で行く機会も少なくなったけれど)。白人の見た目で日本語が流暢に喋れる人は、2020年代の東京であってもまだ珍しい。そのために、とくに酔っ払いが多くいるような場所に行くときには、話しかけられたり絡まれたりすることを警戒しなければならない。だいたいは日本に滞在している期間とか日本語が上手に喋れる理由を教えて相手がそれに対して感想やコメントを言えば会話は終わるのだが、それで済まずに執拗に質問され続けたり不愉快なことを言われたりするときもある。バーは人との交流を期待して行く側面もあるから多少は我慢すべきだとしても、食事を楽しみにして居酒屋に入ったときにしたくもない会話をさせられることは、かなりキツい。店に入った瞬間に客の目つきや顔つきから酔っ払い具合や性格の雰囲気を察知して、「絡まれそうだ」と思ったらすぐに退散することもある。……おそらく、大多数の日本人男性は、飲みに行く店を選ぶときに自分が他の客から絡まれたり不愉快なことを言われたりするリスクを想定する必要がない。一方で、女性の場合には日々そのようなリスクを警戒しているであろうことは察しが付く。だから、この点に関しては、たしかにわたしは女性の感じている「抑圧」に共感することができる。

また、日本では賃貸物件の多くが「外国人お断り」であり、引っ越しをする際に部屋の選択肢が非常に限定されることも、わたしが感じたことのある抑圧だ。不動産業界による「差別」だと言ってもいいかもしれない。「いいな」と思った部屋がことごとく外国人お断りであり、しかもその情報がネットでも公開されていないために、選択肢が狭まるだけでなく部屋探しにかかる手間や時間もかなり増えてしまう。とくにリベラルで開放的なイメージのある高円寺で部屋を探していたときには、ほとんど全ての物件が外国人だからという理由で断られてしまい、面食らったものだ。……ちなみに、「外国人でもOKだが女性限定」ということで入居できなかった部屋もあることは言っておいていいだろう。賃貸物件の選択肢という点では、女性のほうがむしろ有利だと言える。

選挙の時期に友人たちがどこに投票するか話しあっているのを聞くたびに、自分には参政権がないことを思い知らされることも、抑圧と言えるかもしれない。永住権は持っているが日本国籍は持っていないので、どこに投票することもできないのだ。ヨーロッパの一部やニューヨーク州では外国人でも地方参政権が認められているらしいので、それくらいなら日本でもやってほしいものだと思う。……ただし、頭では参政権の重要さはわかっていても、気持ちとしては「寂しいな」「あったらいいな」くらいで、そこまで強く欲しているわけではないことも、打ち明けておかねばならない。自分の一票が加わった程度で選挙の結果が目に見えて変わるわけではないこともわかっているからだ。

なお、わたしが在日アメリカ人で白人であることを原因に様々な不利益を被っていたり抑圧を感じたりしているとしても、日本国内にいる他の国籍や人種の人たちはさらに多大な不利益や抑圧を受けていることには留意しなければならない。日本語を流暢に喋れるアフリカ系の人が居酒屋やバーで絡まれたり不愉快なことを言われたりする可能性は、白人よりもさらに高くなるだろう。不動産業者から部屋を紹介されるときに、「アジアの人ならダメだけど、欧米の人なら借りられるよ」と言われることもあった。歴史的な経緯から、参政権は在日コリアンの人々にとってとりわけ重要な権利であることも理解している。

特権を指摘しても問題の解決には結びつかない

さて、「絡まれる心配なく居酒屋に入れること」や「国籍を理由にして賃貸物件を断られないこと」や「参政権を持っていること」は、「日本人特権」になるのだろうか?

これまでに論じてきた「特権」の定義からすると、そういうことになるはずだ。マイノリティであるだれか(わたし)が不利益を被ったり「抑圧」を感じたりしているときには、それらの不利益や抑圧から逃れられている人は特権を持っているということになるのだから。……だけれど、居住の自由に関する権利や参政権を特権と呼ぶことは、馬鹿らしいレトリックでしかないように思える。それらは特権ではなく人権だ。もちろん、わたしのような外国人にもそれらの人権が制度的に保証されたとすれば有り難いことであるが、すでに日本人にはそれらの人権を保証されていることを特権呼ばわりするのは不毛である。

また、どこかの日本人男性が居酒屋に入るたびに「おれが外国人や女性のように絡まれる心配がなく居酒屋で飲めることは特権なのだな」と思いを馳せて罪悪感を抱いていたとしても、こちらとしてはなんの得にもならない。大切なのはわたしが絡まれることなく酒を飲めることであり、だれかに特権を自覚してもらうことではないのだ。

以上のように、自分自身のマイノリティ性に向き合って考えてみると、「特権」(や「構造」)という発想に基づく議論の役に立たなさや不毛さがさらに際立ってしまう。抽象的で曖昧な構造についてあれこれ考えて、だれかを非難することやだれかに罪悪感を抱いてもらうことよりも、個別の問題に目を向けてその問題の対処法を考えるほうがずっと生産的だ。

また、どの問題についても、それを解決することを難しくさせている理由があることから目を逸らしてはいけない。国民国家という制度の存在意義を考慮すれば、外国人の参政権には多かれ少なかれ制限が必要かもしれない。わたしには居住の自由に関する権利があるとしても、家主や不動産業者のほうにも契約の自由に関する権利がある。酔っ払いが人に絡むことを抑止するのはそもそも困難だ。これらの理由が存在するからといって、問題に向き合わないことが正当化されるわけでもないし、問題に対処することが不可能になるわけでもない。ただ、どんな問題であっても、それに対して実践的に向きあうためには道徳的なお題目や政治的なスローガン以上のものが必要になるということだ。

はっきりしているのは、わたし以外のだれかの特権をあげつらったところで、わたしが直面する問題はなにひとつ解決しないということである。

不毛な争いをもたらすだけ

なにをするにせよ、反発なんて、あるよりないほうがいい。女性やその他のマイノリティがこの社会の構造のなかで抑圧を受けているとすれば、その構造は変えられるべきだろう。だが、そのために、男性やマジョリティの反発を呼び起こす言葉をわざわざ使う必要があるとは限らない。

問題について指摘する側の人たちが「特権」という概念を好んでいる理由はいくつか考えられる。

まず、ネガティブな状態に注目する通常の発想からニュートラルな状態に注目する特殊な発想であること自体が、レトリカルで知的で気が利いていて、格好いい。一部の人は、「発想の転換」や「主客の転倒」という営み自体に魅力を感じるものだ。

また、表面上、男性特権などを指摘することには、「自分はこの問題には関係がない」と思っていた人に当事者意識を抱かせて問題に引き込むことができる、という効果が期待できるように思える。……しかし、これまでに説明してきた通り、多くの人に対しては特権を指摘することはむしろ逆効果だ。実際のところ、たとえば男性特権を指摘されて素直に受け入れられる男性とは、指摘される以前からジェンダー論やフェミニズムに親和的であって女性の直面している問題について関心や責任感を抱いているタイプの男性であるだろう。無知な人に問題について気付かせるというよりも、すでに抱かれている問題意識を再確認するために用いられているのである。

特権という言葉を広めるにしても、世間の人たちが自分たちの思う通りにこの言葉を使ってくれると期待してはいけない。

学問や社会運動に関わる人たちは、自分たちが使っている「抑圧」や「構造」や「権力」や「マジョリティ」といった言葉が特定の思想や理論を前提としていることを、しばしば忘れてしまいがちだ。他の人たちが自分たちと同じ目で世界を見ているとは限らない。SNSを検索してみれば、多くの男性が「女性特権」について語っていることが見てとれる。意趣返しや皮肉、嫌がらせとしてその言葉を使っている人もいるだろうが、なかには女性特権が実在していると本気で考えている人もいるだろう。彼らのなかには、男性ではなく女性のほうに権力があり、女性のほうがマジョリティであって、男性は構造的に抑圧されているとする理論や思想を構築している人もいるはずだ。

また、男性特権という言葉すらも、トランスジェンダー女性の人々に対して悪意や差別をぶつける文脈で用いられている場合があることを失念してはならない。

特権というレトリックが「ほんとうに抑圧されているのはどちらであり、ほんとうに権力を持っていてマジョリティであるのはどちらか」ということをめぐる不毛な争いをもたらすのは、火を見るよりも明らかだ。

この事態を避けるためには、そもそも特権なんて指摘しなければよい。

ネガティブな状態ではなくニュートラルな状態のほうをわざわざ特徴付けたり、発想を転換したり主客を転倒させたりする必要なんてない。様々な場面で女性が男性よりも不利益を被っていて、差別されていて、被害者であるという事実を、そのまま論じればよいのだ。そして、その事実が「不正義」や「不平等」「不公正」であることを論じて、改善されるべきだと主張すればよいのである。

ただし、個々の男性には事態の改善に協力することについての積極的な義務か消極的な義務が存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。義務がなかったとしても、善行として事態の改善に協力することを呼びかけることができるかもしれない。いずれにせよ、ある事態に関してだれにどのような責任が存在するかというのは、かなり難しい問題だ。事実や状態について記述することとは違い、だれかの責任を問うこととは規範的な主張であり、それを正当化するためには段階をふまえながら多くの条件をクリアしなければならない。本来なら、倫理学や政治学などの規範論に基づきながら、慎重な議論を行うことが必要とされるはずである。それは、「特権」や「抑圧の構造」を指摘してお手軽に済ませられるような問題ではないのだ。


[1] https://kotobank.jp/word/%E7%89%B9%E6%A8%A9-105369
[2] https://kotobank.jp/word/%E8%B2%B4%E6%97%8F-50723
[3] https://bunshun.jp/articles/-/51395
[4] https://qjweb.jp/journal/12613/
[5] 杉田俊介、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち』、集英社、2021年。
[6] ジョシュア・グリーン(著)、竹田円(訳)、『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』(上下巻)、2015、岩波書店
[7] http://ictj-report.joho.or.jp/2106/sp01.html

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記