II-1 キャンセル・カルチャーのなにが「イヤ」なのか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

「キャンセル・カルチャー」という言葉はご存知だろうか?

いまでは様々な意味をこめて使われるようになっている言葉であるが、基本的には「著名人の過去の言動やSNSの投稿を掘りかえして批判をおこない、本人に謝罪を求めたり、出演や発表の機会を持たせないようにメディアに要求したり、その地位や権威を剥奪するように本人の所属機関に要求したりするような運動および風潮」のことだと言える。

キャンセル・カルチャーという言葉が日本でも紹介されるようになったのは2019年〜2020年頃であるが、この言葉がとりわけ注目を浴びて人口に膾炙するようになったのは2021年からだろう。東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式をめぐって、キャンセル・カルチャーという言葉がまさにぴったりと当てはまる出来事が、立て続けに起こったからだ。

まず、開会式の楽曲の作曲担当者の一人であったミュージシャンの小山田圭吾が辞任する事件が起こった。その原因は、太田出版から発行されていたサブカルチャー系雑誌「クイック・ジャパン」1995年8月号に掲載された小山田へのインタビュー記事にある。このインタビューは、当時同誌で連載されていた「いじめ紀行」というシリーズのなかでなされたものであるが、そこで小山田は、小学校から高校にかけての学生時代に知的障害者の同級生をいじめ続けていたことを肯定的に語っていたのだ。

ネット上においては「いじめ紀行」の内容を取り上げて小山田を批判するブログが何年も前から存在しており、小山田のインタビューの内容も一部の間では知られていたが、オリンピックという世界的イベント、そしてパラリンピックという「障害者の機会均等」を理念とするイベントに彼が参加することは、大々的な批判を呼び寄せた。それに伴い、インタビューの内容はマスメディアにも取り上げられて世間一般に周知されることになった。当初、オリンピックの組織委員会は「行為は断じて許されるものではないが、開会式が迫るなか、引き続き、準備に努めていただく」として続投させることを表明していたが、その表明が火に油を注ぐことになって、批判の声はさらに高まる。そして、結局、小山田から辞任を申し出ることになったのである。

小山田に続いて、開閉会式のショーディレクターであった、元お笑い芸人で現演出家の小林賢太郎をめぐる騒動も起こった。1998年5月に発売されたビデオ「ネタde笑辞典ライブ Vol.4」に収録された、当時の小林が結成していたお笑いユニット「ラーメンズ」によるNHKの人気教育番組「できるかな」をパロディにしたコントのなかで、ジョークの文脈で「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というセリフが発せられていたのだ。このコントの動画は以前からインターネット上にもアップロードされていたようではあるが、開会式の直前になって、誰とはなしに問題視する声がネット上に投稿されるようになった。そしてアメリカのユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が「東京オリンピックの開会式のディレクターによる反ユダヤ主義の発言を非難する」という声明文を出し、小林は「思うように人を笑わせられなくて、浅はかに人の気を引こうとしていた頃だと思います」としながら謝罪文を発表して、オリンピックの組織委員会は小林を解任したのであった。

小山田と小林の辞任・解任は、1990年代に掲載されたインタビューや発表されたコントが2021年になってから問題視されて、オリンピックという世界的イベントに関わる機会や名誉を奪うに至ったという点で、まさにキャンセル・カルチャーの典型例であったといえる。

インターネット以前からあったキャンセル・カルチャー

キャンセル・カルチャーという言葉が知られるようになったのは2020年代からだとしても、この言葉が指し示す現象は、日本でも以前から起こっていたかもしれない。

たとえば、「炎上」という言葉は2000年代の中頃、SNSが普及する以前でブログが主なネットメディアであった頃から使われていた。元々はブログの記事のコメント欄に批判や誹謗中傷が集まる現象を指していたようであるが、現在では、個人がSNSに投稿した内容に批判が集まることや、企業が発表した製品や広告に差別的要素が含まれていたり漫画やドラマ・アニメなどのフィクションに侮辱的表現が含まれていたりすることが問題視されて否定的な意見が多く投稿されたり議論が巻き起こったりすることも、「炎上」と表現されるようになっている。

近年では、批判を起こしやすい要素をわざと投入することで、話題になって注目を浴びることを狙う「炎上マーケティング」もおこなわれるようになってきた。とはいえ、基本的には、「炎上」が起きることはその対象となる個人や企業にとっては不利益な事態となる。当事者が想定していなかった大量の批判を呼び寄せることは、個人にとっては精神的な負担が多大にかかるし、企業にとってもブランドイメージに傷が付いて経営上の影響を生じかねさせないものであるからだ。

また、キャンセル・カルチャーがSNSの普及に伴って隆盛したことは明らかであっても、「インターネット時代に特有の現象だ」とまで考えるは間違いであるかもしれない。社会道徳に違反したり差別的であったりなどの問題のある人または表現について抗議が巻き起こって、批判対象の人が就いている立場を解任させたり雑誌での連載を中止させたり、あるいは批判対象の表現をテレビで放映させないように要求する……つまり「キャンセル」を求める運動は、インターネット以前から頻繁におこなわれてきた。

とくに日本のマスメディアは事なかれ主義であり、ごく少人数からのクレームでも簡単に屈してしまうことは、昔から問題視されてきた。たとえば、タレントが不倫などのスキャンダルを起こすと、出演しているCMや番組がすぐに放映されなくなるし、犯罪をおかした場合には(それが薬物所持など、直接的には他人を傷付けない犯罪であっても)出演している映画が公開中止になるだけでなく、既に販売されているCDや映像作品すらもが回収の対象になってしまう。わたしが子どもの頃に楽しんで観ていたバラエティ番組のコーナーも、「暴力的だ」というクレームが入ったことが原因で打ち切りになっていた。そして日本のメディアには「自主規制」の悪習も存在しているようであり、誰からのクレームも入っていない時点から、物議を醸したり批判されたりするおそれのある表現の掲載や放送を事前に取り止めてしまうこともある。

したがって、キャンセル・カルチャーは最近になって登場したものではなく、元々から社会に存在していた傾向や風潮がインターネットやSNSによって増幅されたものとみなしたほうがいいだろう。

民主主義の社会では当たり前の営み?

キャンセル・カルチャーについて考えるときに失念してはならないのが、基本的に、この単語は「他称」として使われる言葉であるということだ。つまり、抗議のための提言や運動などをおこなっている人たちが自分たちの行動を表すために使う言葉ではなく、むしろその抗議に対して否定的な意見や感情を持っている人たちによって使われる言葉なのである。

海外だと事情はやや複雑であり、「キャンセル・カルチャー」はともかく「キャンセル」という単語自体は、抗議をしている人たちによっても積極的に使われている。欧米のSNSでは、俳優やミュージシャンやインフルエンサーなどが差別発言をしたり不祥事を起こしたりするたびに、「●●をキャンセルしよう」というハッシュタグがトレンドにのぼっている(たとえば、わたしが英語圏で不祥事を犯したら「#cancel_Benjamin」がトレンドになるかもしれない)。……とはいえ、そのようなキャンセル運動が絶え間なくおこなわれる状況を指す「キャンセル・カルチャー」という単語や、日本ではあまり使われていない類語の「コールアウト・カルチャー」は、欧米でも否定的な文脈で用いられることが多いようだ。有名なところでは、バラク・オバマ元大統領はキャンセル/コールアウト・カルチャーの両方の単語を用いながら、懸念を表明している。

近年ではオバマのようなリベラル派のなかにもキャンセル・カルチャーに批判的な人が増えてくるようになったとはいえ、この単語を用いて抗議運動のことを否定する人の多くは保守派や右派である。逆にいえば、海外でも日本でも、キャンセル(と他称される)行動をおこなっている人の多くはリベラル派や左派であるのだ。そして、彼や彼女たちは、自分たちの運動を「反差別運動」や「市民としての抗議」、あるいは「マジョリティに対する批判」や「マイノリティへの連帯の表明」などと自認しているだろう。キャンセルと呼ばれる行動の多くは、インターネットやSNSという現代的な領域で実践されているから新奇に見えるだけで、実際のところは昔ながらの民主主義が実践されているだけなのかもしれない。権力を持っている人やメディアへの露出が多くて社会的な影響力が強い人が不当な行為をおこなったり、社会的な良識に反したり、他者を傷付けたりしたときに、その人の言動を批判したりその人の関わる組織の責任を追求したりするために抗議運動が巻き起こってデモや集会がおこなわれる、というのは民主主義の社会では当たり前の営みであるとみなすこともできる。

リベラル派や左派のなかには、「キャンセル・カルチャー」とは自分たちに対する保守派や右派の不当な言いがかりでしかなく、この言葉を用いた議論は反動的なものにしかなり得ない、と反論する人もいるようだ。彼や彼女からすれば、自分たちはただ正当な「抗議」や「批判」をしているに過ぎない。その行為に「キャンセル」とのレッテルを貼ることは、抗議や批判の声を封殺して告発を無力化することであり、民主主義を否定することでもあるのだ。したがって、キャンセル・カルチャーを懸念する議論に耳を傾けたり相手にしたりする必要はない、と彼や彼女は主張するのである。

上述の議論には、たしかに的を射ているところもある。とくに日本語圏では「キャンセル」という単語が乱用されていることは否めない。たとえばある俳優の言動やあるアニメの表現について、その俳優の出演を取り止めさせたりそのアニメの表現を修正させたりすることを要求するのでもなく、ただ単に「この言動/表現にはこのような問題がある」と指摘することすらも、キャンセル行為と呼ばれる場合があるのだ。指摘する人のほうとしては、俳優の人格やアニメ作品そのものの是非とは切り離して、一部の言動や表現についての是非や巧拙を論じているつもりであっても、それが第三者に伝わらず、人格や作品そのものの否定として受け止められる。これには、一般の消費者にありがちな「論評」や「批評」に対する拒否反応も関係しているだろう。

また、差別的な言動や反社会的な行為をしている人について批判の声が挙げられないような社会では、不平等が放置されて不正が横行することになり、多くの人にとっては生きづらく抑圧的な世の中になるかもしれない。「キャンセル」というレッテルが妥当であろうとそうでなかろうと、そのような行為が民主主義を機能させてきて、世の中を改善する役割を担ってきたことは否定できそうにもない。数十年前に比べると現代では差別や不平等の規模や程度は大幅に減少していることや、「なにが差別であり、なにが不正であるか」という点に関して社会は昔よりもずっと敏感になっており、過去なら放置されていた差別や不正も看過されないようになっていることを、忘れてはならない。わたしたちはつい目の前で起こっていることにばかり気を取られてしまい、現代の世の中がひどいところであるように思ってしまうが、昔に比べると現代はずっと道徳的で安全な世界になっている。その要因のなかでも大きいのが、過去になされてきた人権運動や反差別運動であるのだ。つまり、リベラルであろうが保守であろうが、わたしたちは過去に実践されてきた民主主義運動≒キャンセル・カルチャーの恩恵を受けながら生きているのである。だとすれば、いまさら「キャンセル」行為を否定するのもお門違いではないだろうか?

……と、上述したように論じることもできるかもしれないが、これはこれで極論だ。なにしろ、あのオバマ大統領ですら懸念を表明しているのである。一般市民の多くも、「キャンセル・カルチャー」と他称される現象や風潮に対して、どこかしらイヤな気持ちを感じているようだ。SNSはキャンセル行為の主戦場であると同時に、それに反対する意見表明も盛んに投稿されている。民主主義的な抗議運動や批判活動に原則として賛成する人のなかにも、それが「行き過ぎ」になると看過できない、と考える人がいる。現代のメディアで繰り広げられるキャンセル・カルチャーは従来の抗議活動とどう違うのか、わたしたちはキャンセル・カルチャーのどこをどのように「イヤ」に感じるのか、もうすこし掘り下げて考えてみよう。

民主主義的営みか? 社会的制裁か?

冒頭で述べた通り、2021年の日本では、東京オリンピックの開閉会式に関わった二人の芸能人がキャンセルされた。ところで、もうひとつ、キャンセル・カルチャーと直接的に関連することではないかもしれないが、わたしの印象に残った出来事がある。それは、2019年に起こった東池袋自動車暴走死傷事故の加害者に下された判決だ。

事故が起きた直後、警察は逃亡や証拠隠滅のおそれがなかったという理由から加害者を現行犯逮捕せず(逮捕の要件を満たさなかったためだ)、またメディアでは「容疑者」と呼称されていなかった(事故直後には警視庁による事情聴取がおこなわれておらず、刑事手続きに入っていなかったからとされる)。しかし、加害者が旧通産省工業技術院の元院長であり、勲章も授与されていたエリートであることから、「加害者は“上級国民”であるから逮捕されず、マスメディアも丁重に扱ったのだ」と憶測する書き込みが相次いだ。そして、そもそも母子二人が死亡した凄惨な事故であることや、加害者が公判中に「ブレーキとアクセルの踏み間違いはなかった」から自動車の欠陥が事故の原因であるとして無罪を表明したことも相まって、ネット上における加害者へのバッシングは激化し、自宅周辺に動画投稿者が訪れたり街宣車が周回して「日本国民の恥」との罵声を浴びせたりするまでに至ったのだ。

2021年の判決では、加害者に対するバッシングが「過度な社会的制裁」とみなされ、量刑を決定するうえで被告側に有利な事情として考慮されることになった。その結果として、検察の求刑であった禁錮七年を下回る、禁錮五年の実刑判決が下されたのである。これは、処罰感情を抱いていた遺族の心情を裏切る結果でもあったのだ。

さて、前節では、他人に対するキャンセルを求める行為は民主主義的な営みであると表現した。しかし、同じ行為を「社会的制裁」と表現することもできる。規範的な政治学の議論などであれば、正統性のある手続きや客観的な理由に基づいた民主主義的な要求と、正統性のない手続きや主観的な感情に基づいた社会的制裁とを区別することができるかもしれない。

しかし、実際問題として、その二つの境界は曖昧で脆いものだ。

そして、あまり正統性のないものを含めて、社会的制裁という行為を無下に否定することも難しいかもしれない。どんな社会であっても、「法律」とは別の領域に「道徳」といったものが存在しているはずであるし、それを消し去ることはそもそも不可能だろう。だれがどのような犯罪を犯しても怒りや軽蔑の声を挙げる市民がただの一人もおらず、その犯罪者に法の裁きが下されるのを皆が粛々と待つだけという世の中は、見方によっては理想的な社会であるだろうが、すこし不気味過ぎる。それに、法律とは、道徳の発展や変遷によって下から突き上げられるかたちで変化させられていくものだ。たとえば、近年では世界各国で#MeToo運動が「性的な加害行為」や「性的同意」に関する社会通念を変化させており、それに伴い刑法の改正も議論されるようになって、一部の国では法改正が実現している。だが、たとえ法改正にまでは至らなくとも、#MeTooによって告発された男性が実際に性的な加害行為をしていたのだとすれば、その人は被害者の女性だけでなく第三者からの怒りや軽蔑の対象になっても仕方がないはずだ。ある人の行為が違法であるかどうかと、道徳的に負の評価が下される対象になるかどうかは、また別の話なのである。

とはいえ、社会運動は法律ではなく道徳の領域に属しているがゆえに、運用や手続きが恣意的であり、法律が持っているような公平さや平等を欠いている、という問題を抱えている。#MeToo運動の場合には、「性的加害をされた」という告発の真偽を判断したり確かめたりすることができず、原則的に告発は真として扱われなければならない、という点が問題だと指摘されてきた。これも難しいところではあり、既存の法律では性的加害の存在や性的合意の不在を(法的に認められるかたちで)立証することが難しく、そのために泣き寝入りさせられてきた女性が数多くいたからこそ、法律とは別の領域で運動を実践する必要があった……ということが#MeTooが隆盛する要因のひとつであったはずである。しかし、告発の真偽を確かめなかったり、あるいは立証のハードルを下げたりすることは、「告発される側」にとって不利益となることもまた事実だ。#MeToo運動に対してはその当初から「虚偽の告発がなされたときにどうするか」という問題が懸念されてきたし、その問題はほとんど解決できていないように見受けられる。

法的な適正手続きの重要性

デュー・プロセス(法律的な適正手続き)の欠如は、社会的制裁やキャンセル・カルチャーにも付きまとう。東池袋自動車暴走死傷事故の加害者は、現在ほど経済的な格差が激しくなく、若者やロスジェネと高齢者や団塊世代との世代間対立が顕著でない時代に事故を起こしていれば、あれ程までのバッシングの対象にはならなかっただろう。事故当時87歳という年齢や「上級国民」という境遇が彼に対する世間の敵意を煽ったことは明白であるが、本来、それらの属性は「事故を起こして母子を殺したこと」の罪の重さや道徳的な問題性とは無関係の要素であるはずなのだ。

小山田についても、彼がおこなった行為が他の不法行為ではなく「いじめ」であったことこそが、ネット上における批判が以前から継続していて、オリンピックという世界的な舞台で活躍する機会を目前としたタイミングで失脚することになった要因である。学生時代にいじめられた経験を持つ人は多いし、そのうちの少なからぬ人数が、成人した後にもいじめられたことについての恨みやトラウマを抱えている。そのなかには、自分をいじめた張本人だけなく、他の学校でいじめをしていた人やいじめを容認したり助長させたりしていた人のことも、恨みや敵意の対象にするようになる人がいる。いじめられていた人がそうなるのは仕方がないことであるし、批判できるようなことでもないだろう。しかし、ある行為が多くの人からの「恨み」と対象となるかどうかと、その行為に対して与えられて然るべき罰の大きさとは、本来は無関係であるべきなのだ。

「とはいえ過去のいじめがあまりにひどいのだから、小山田が開会式を辞退することは当然だ」と考えている人のなかでも、小林の解任は妥当でないと判断する人は多いはずだ。わたしの目から見ても、実際の他人に物理的・精神的な危害を与えてきたとする小山田と、コントのなかで不謹慎で過激なジョークを放った小林とでは、その行為の不当さや悪質さの度合いはまったく異なる。問題となっているコントについては台詞の書き起こしを読んでみたが、ホロコーストに関するもっとドギツいジョークを放っているものは1990年代当時の欧米の映画やドラマのなかにも存在していたのであるし(もっとも、その大半はユダヤ系の出演者や製作者によるものであることには留意すべきだが)、さほど差別的だとも思わない。実際のところ、先に小山田に対する非難が盛り上がっていたという経緯がなければ小林は無事であっただろうし、組織委員会が事なかれ主義ではなくもっと堂々と対応できていれば結果は異なっていたかもしれない。つまり、小林がキャンセルされてしまったことには、偶然や運の悪さも大きく影響しているはずなのだ。

もちろん、法律だって完璧に運用されているわけではない。地方裁判所の裁判官が頓珍漢な判決を出したというニュースは頻繁に話題にのぼっているし、同じ罪を犯しても弁護士の力量によって不起訴になるか有罪になるかが分かれたりすることはごまんとあるだろう。

とはいえ、理念としては、法廷は問題となっている行為に対して相応の判決を出すように機能することを目指している。加害者の属性、関係のない人間が持つ恨みなどのネガティブな感情、時の情勢や世の流れなど、事件や行為と無関係な要素が判決に影響しないように努められているはずだ。情状酌量の余地が考慮される場合はあるが、その際にも過去の判例などの「基準」に基づいた判断がなされる。なにより、特定の犯罪に対する量刑の上限は明確に規定されており、それ以上の罰をくだすことは裁判官にも不可能だ。

法律という領域では、客観性や専門性がある程度以上は担保された手続きや運用がなされることが前提となっており、「行き過ぎ」を起こさないための制度的なブレーキも設定されている。それは、残念ながら社会的制裁やキャンセル・カルチャーなどの「道徳」の領域には期待できないことである。

ネットリンチか? 称賛か?

「ネットリンチ」という単語も、キャンセル・カルチャーとは切っても切り離せない。実際のところ、ある人が別の人に対してネット上で非難の言葉を呈しているとき、その本人は正当で適切な批判をしているつもりであっても、第三者の目からすれば大多数の人が一緒になって行なう「私刑」にその人も加担しているとしか見えない、ということがある。

以下は、『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』という本からの引用だ。

最初に何人かが「ジャスティン・サッコは悪人だ」と意見を述べた。その何人かに対して即座に称賛の声があがった。かのローザ・パークス(訳註:バスに白人席と黒人席があった時代に、運転手に注意されても白人に席を譲らなかった黒人女性)のように、差別に敢然と立ち向かった人として扱われたのだ。すぐに「称賛」というフィードバックがあったことで、称賛された側はそのままの行動を継続する決断を下した。(ロンソン、p.480)

ここに含まれている「称賛」というキーワードは、キャンセル・カルチャーが起こる理由を理解するうえで重要なポイントとなるように思える。

つい先ほど、非難の言葉を投げかけている人は第三者の目からすれば私刑にしか見えないことがある、と書いた。だが、その同じ行為が、別の人からすれば称賛の対象ともなる。自分が嫌いな相手や気に食わないがいたときに、そいつに対して非難を浴びせてくれる人がいたら、ついその人のことを褒めたくなるものだ。

SNSを眺めていると、抗議運動や社会的制裁の音頭をとったり旗を振ったりする役を担う人の数は、意外と少ないことに気付かされる。リベラル派や左派のグループと保守派や右派のグループとに大別することはできるが、各々のグループのなかで「こんなひどいことを言っているやつがいるぞ」「こんなに悪いことが起こっているぞ」という風に非難の対象となる人物や事件を発見して喧伝する人は、だいたいいつも一緒で代わり映えしないのだ。そのような旗振り役の人たちのもとには、対立する陣営からの反論や罵倒が寄せられていると同時に、価値観や問題意識を共有する仲間からの共感や応援の声も集まっているものである。むしろ、非難行為に対する批判の声が大きくなればなるほど、それに対抗するかたちで、仲間たちからの称賛の声も強まるのだ。

進化心理学のなかには「美徳シグナリング」という概念がある。通常、相手を非難したり社会で起こっている問題を指摘したりするなどの道徳的な振る舞いは、相手の行動や考え方を改めさせたり問題を解決したりするなど、「状況を改善させる」ことを目的しておこなわれるものである、と考えられるだろう。しかし、美徳シグナリングの概念によると、状況を改善させることは道徳的な振る舞いの目的ではない。声高に誰かを非難したり不道徳な状況に対する懸念を表明したりすることで、周囲の人たちに「自分は道徳的である」ことや「自分はみんなと同じ価値観を持っている」ことをアピール(シグナリング)するのが、道徳的な振る舞いの本質であるのだ。進化論的に考えると、自分の道徳性を知らしめて評判を上げることは異性からの関心を惹いて生殖するチャンスを得ることにつながり、自分が仲間たちと同じ価値観を持っていることを集団に知らしめることは集団内での居場所を確保して生存に貢献することになる。

美徳シグナリングはあまり学術的な概念ではないし、批判も多い。どんな行動についても「生存と繁殖」に還元して分析する進化心理学の考え方が、現代社会の人間の行動を分析するうえで必ずしも適切であるとは限らないだろう。実際には、だれかを非難したり社会で起こっている問題を指摘したりしている人の大半は、自分の行動によって状況が改善することを期待しているはずだ。……とはいえ、「非難」という行為には周囲に自分の美徳をアピールする効果もあること、それによって称賛という「報酬」を得られるという副次的なメリットもあることは、やはり重要だ。最初は純粋な問題意識や正義感から他人を非難していた人であっても、その行為によって報酬を得る経験をすることで、より多くの報酬を期待して、より頻繁により過激な非難をおこなうようになる、というのは想像に難くないのだ。

多数派の人々が非難に加担しない理由

たとえば、不祥事が発覚して話題になっている芸能人についてSNSやニュースサイトのコメント欄で非難することは、ふつうに考えれば本人にとって時間のムダでしかないことだ。一般市民が生活のなかで芸能人と関わる機会はほとんどないものだし、社会的非難が集まったことによりその芸能人がテレビに出なくなったところで、わたしたちの生活になにか大きな変化がもたらされるわけでもない(テレビ番組の出演者が入れ替わって、番組が前よりつまらなくなるか面白くなるかというだけだ)。しかし、「非難」という行為には美徳をアピールする効果や「報酬」が伴うことを理解すれば、キャンセル・カルチャーや社会的制裁に加担する人が存在する理由も理解できるようになる。

むしろ、ここで忘れてはならないのは、報酬が伴うわりには非難という行為をおこなう人は少ない、ということだ。前節でも述べたとおり、社会的制裁の旗振り役の数は限られている。インターネットは少数の意見が極端に目立ちやすい仕組みになっており、一見すると大々的なネット炎上であっても、実際に書き込んでいる人はネットユーザーの総数に比べるとごく僅かしかでない。ネットの世界は、炎上や社会的制裁に加担する少数派と、そうでない多数派に分かれているのだ。キャンセル・カルチャーが目立つようになっているからといって、それに大多数の人が参加しているかのように錯覚してはならない。

では、多数派の人が「非難」に加担しない理由は何だろうか?

先の文章では、社会的制裁は(法律に対比される)「道徳」の領域に属する、と述べた。だが、道徳とは多層的なものである。道徳に関するわたしたちの感覚や、明文化されていない日常的な規範のなかには、「ズルをしたり他人を傷付けたりして集団に害をもたらすやつは、いくらでも非難して構わないし、集団から排斥してもよい」といった苛烈に懲罰的な傾向が含まれているだろう。だが、それと同時に、「他人のことを非難ばかりしているやつも、ロクでもない」とみなす傾向も含まれているのだ。

会社や学校、サークルやクラブなどの人間の集団とは、多かれ少なかれ「なあなあ」に運用されているものだ。聖人君子はなかなかおらず、少しばかりのズルやサボりは大半の人間がしている。さらに、わたしたちは独善的な存在であり、他人がしているズルには敏感である一方で、自分がズルをしていることは自覚すらできないことがある。人間の道徳心理では、「他人の目のなかのおが屑は見えても、自分の目のなかの丸太は見えない」という状態がデフォルトになっているのだ。したがって、他人のズルを告発して非難することには、自分がしているズルを告発し返される危険が付きまとう。非難や告発が推奨される集団はすぐに「万人の万人による闘争」という状況に陥り、生産性や効率性が失われて、業績を出したり大会で活躍したりするなど集団の本来の目的を果たすことができなくなるだろう。非難ばかりする人が、集団にとってプラスになるとは限らない。だからこそ、健全な集団ではある程度までのズルやサボりに対しては直ちに苛烈な制裁が下されることはなく「ほどほど」で済まされるし、他人を非難することよりも仕事したり練習したりなど自身の義務を果たすことのほうが評価されるような雰囲気が醸成されているものである。

現実の世界では、非難という行為には称賛というリターンだけでなく、コストやリスクが設定されている。非難の対象とした相手に実際に問題があり、非難は正当であったと周りから認められたなら、その非難はやはり称賛されるだろう。しかし、本人は正当であると思っていても周囲からはそう評価されないような非難をしたり、非難した対象から自分の問題を逆に指摘し返されたりした場合には、非難をした人のほうが鼻白まれたり軽蔑されたりすることになる。そのため、現実の集団のなかで非難をする際には、多かれ少なかれ「覚悟」が要求されるのだ。大半の人は非難をする前に「自分のほうにも落ち度はないか」「これはほんとうにわざわざ告発して非難するほどの問題なのか」と考えをめぐらすだろうし、考えたのちに非難を取り止めることもあるだろう。「いや、やはりあいつは非難に値する」と決断した場合にも、もし避難の正当性を示すことができず周囲の人を説得できなかったら、逆に自分が非難の対象になることを受け入れなければいけない。個人の独善性を捌きながら、集団の効率性を維持するためには、非難にコストを課す「道徳」も不可欠であるのだ。

言うまでもなく、このような「道徳」は現状維持的に機能するし、集団のなかで立場の弱い人にとって不利にも機能する。力を持っている人や既に周りからの信頼を得られている人は多少のコストをものともせずに他人を非難することができる一方で、味方がいない人はだれかに傷付けられたとしてもそれを告発するための覚悟が他の人よりも多く必要とされるのだ。このことには不正さや不当さがあることは否めない。インターネットのようなメディア空間が、集団内で立場の弱い人が自集団で起こっている(が、法廷に訴えられるような類ではない)問題について外の集団に訴えることを可能にして、立場の弱い人の状況を改善することに貢献してきた、という経緯も失念すべきではないだろう。

……とはいえ、ネット上で他人を非難する際には、現実の集団で他人を非難するときのような「覚悟」が必要とされないことにも、問題が伴っている。非難の対象も、非難の様子を眺めている第三者たちも、会社や学校のように現実的な利益を共有する集団の仲間ではない。所詮は他人事であり、称賛する側も無責任になれるからだ。さらに、今時はほとんどのSNSに「いいね」ボタンやシェア機能が設定されていることは、自分の言葉で表現する手間を省いて他人の投稿に賛同の意を表明することを可能にした。これらの要素により、インターネット上で他人を非難することは、現実の集団内で他人を非難することよりもずっとお手軽に称賛を得られやすくなっている。「称賛中毒」となる人が出てきても無理はないのだ。

それでも大半の人はインターネットで他人を非難しておらず、ネット上の称賛も求めていないことは、逆に驚くべきことかもしれない。きっと、大体の人は、ネットで称賛を得ることの虚しさや不毛さがわかっているのだろうし(たくさん「いいね」をもらえたからといって、だからなんだというのか?)、現実の世界でやるべきことをやっていて、それに対して然るべき評価をもらっているのだろう。

キャンセル・カルチャーについて考えるときにわたしにとってもっとも奇妙に感じられるのは、ネット上では毎日のように繰り広げられている光景なのに、現実の世界における自分の周囲でキャンセル行為に加担している人の顔はさっぱり思い浮かばないことだ。おそらく、読者の方々の大半にとっても同じだと思われる。前述したように、ネット炎上に加わる人は少数派だ。まともな人付き合いをしていれば、そんな人たちと関わる機会はないのかもしれない。

しかし、本稿で述べてきたように、キャンセル・カルチャーは民主主義の伝統に連なる営みでもある。もしかしたら、これまでの歴史においても、民主主義とは良くも悪くも「まともではない人たち」によって担われてきたのかもしれない。そして、わたしたちが不正や不平等が昔よりも減って多少は快適になっている世界に住んでいるのが先人たちのおかげであるのと同じように、いま「まともではない人たち」によってなされているキャンセル・カルチャーは、弊害を生じさせると同時に世の中を善くもしている可能性は充分にある。キャンセル・カルチャーはイヤなものであるが、そう感じているわたしたちは他人がおこなっている非難や制裁にタダ乗りしているだけであるという可能性からも、目を逸らしてはいけないのだ。


参考文献:
ジョン・ロンソン(著)、夏目大(訳)、『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』、2017、光文社。
参照URL:
https://www.sankei.com/article/20210722-3JOMY5ORBVPRPFVYRXZ3VGAGGQ/?outputType=theme_tokyo2020

https://www.chunichi.co.jp/article/295865

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210719/k10013148591000.html
https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107150000916.html
https://www.sankei.com/article/20211019-DYZRSCNNNNO5HC4JNX3QG5XF5Q/

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記

 

第8回 なぜ動物を傷付けることは「差別」であるのか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

動物倫理と「種差別」

2012年に大学院に進学したとき、わたしが修士論文のトピックに選んだのは「アメリカの動物保護運動の歴史と、動物の扱いに関する倫理学的理論の関係」であった。その後、大学院を卒業してからも「道徳的動物日記」というブログを開設して、当初はいわゆる「動物倫理」の関する考え方や概念についていろいろと解説していたものだ。

動物倫理に関する研究をしたりブログをやっていたりすると、知りあった人たちから動物保護運動や動物倫理に関する質問をされることがある。このとき、わたしは質問をしてくる人の大半が「動物保護運動や動物倫理とは間違っているものであり、否定されるべきものだ」と思っているらしいことに気付かされる。動物保護運動が動物を守るために人間の経済活動を妨害することや、動物倫理の理論では人間とあまり変わらないくらいの道徳的地位が動物にも認められていることは、的外れで常軌を逸している、と彼らは考えているのだ。

また、2012年から2021年までの10年間で、わたしに投げかけられる質問の内容は徐々に変化していった。最初のほうは、反捕鯨運動や反イルカ漁運動について質問されることが多かった。反捕鯨や反イルカ漁の活動はアメリカ人やオーストラリア人などの欧米人が行う運動だというイメージが強く、そしてわたし自身がアメリカ人であるからこそ、このトピックについて質問したくなったのだろう。しかし、近年では、倫理的ビーガニズム(健康や美容に関する理由ではなく、倫理的な理由に基づいて実践される完全菜食主義)や反畜産運動について聞かれることのほうが多くなっている。インターネットを介して自分たちの主張を発信するビーガンの数が年々増えていることにより、ふつうの人々もビーガニズムの考え方に接する機会が増えたことが理由であるのだろう。

動物倫理の問題について考える切り口はさまざまにある。

人からの質問を多く受けているうちにわたしが気付かされたのは、動物の保護を主張する人も動物の利用を肯定する人も、どちらも相手の主張に反対するときには「差別」という言葉を用いていることだ。

これから説明するように、動物倫理にとってキーとなる概念は「種差別」である。捕鯨やイルカ漁にせよ、家畜の肉や乳や卵を得るための畜産業にせよ、人間に対してはおこなわない行為を他の動物に対して行うことを「生物種」の違いに基づいて正当化することは人種差別や性差別と同じように「差別」である、という考え方が現代の動物保護運動やビーガニズムの核心となっているのだ。

その一方で、動物倫理の考え方に反対する人も、「差別」を持ち出すことが多い。たとえば、反捕鯨運動や反イルカ漁運動とは、欧米諸国が寄ってたかってアジアの片隅で細々とおこなわれる伝統文化を叩く運動であり、それはキリスト教の考えをよその国に押し付ける自文化中心主義や文化帝国主義であって、捕鯨やイルカ漁を行う漁師と日本人全体に対する差別である、と彼らは主張するのだ。また、「クジラやイルカは高度な知能を備えた動物であるから殺してはならない」という主張に対して、「ブタやウシは知能が低いから殺してもいいが、クジラやイルカは知能が高いから殺してはいけないというのは、知能に基づく差別だ」という反論がおこなわれることもある。

とはいえ、動物倫理の考え方では、知能の高低に関係なく、苦しみや痛みを感じる動物に苦痛を与えることや動物を殺すことは否定される。それに、近年ではビーガニズムを実践する日本人も増えている。すると、反捕鯨運動に対してなされていたような「知能に基づく差別」との批判や「自文化中心主義」との批判は、ビーガニズムには当てはまらないことになるはずだ。しかし、批判者たちは、ビーガニズムの考え方もけっきょくは差別であると論じる。動物にせよ植物にせよ、「生命」であることには変わりがない。だが、ビーガニズムは苦しみや痛みを感じるという「能力」に基づいて動物と植物との間に線を引き、後者を殺害することを容認する。その点では、「生物種」に基づいて人間と動物との間に線を引き、後者を殺害することを容認する常識的な考え方と、差別的であるという点ではなんら変わりがない……肉食の慣習や畜産制度を擁護する人は、このような主張をおこなうのだ。

上述したような反論については、自身が肉や畜産物を食べる人たちであっても、反応はいくつかに分かれるだろう。「そうだそうだ、動物も植物も同じ生命なのだから、どちらかは食べてよくてどちらかを食べてはいけないというのは差別に決まっている」と賛同する人のほうが多いかもしれない。しかし、家で犬や猫を飼っていたりして日々動物と触れあっている人なら、動物に苦しみや痛みを与えることは道徳的に問題である、という主張に共感できるところはあるだろう。「苦しみや痛みを感じるかどうかということは実際に重大な差異なのであり、そこを無視することは間違っているのではないか」と考える人も、少なくないはずである。

では、いったいなにが差別であるのか? どんなことが差別ではないのか?

動物倫理の問題や、よりひろく道徳全般について考えるうえで、「差別」とは優れた切り口であるように思える。

差別とは「不合理な区別」

「差別とはなにか」という問いに対する答えは、答える人の立場や属性によって異なるものかもしれない。ある社会におけるマジョリティとマイノリティとでは、それぞれが異なる経験をして異なる風景を見ながら生きているために、差別の問題について感じたり考えたりしていることはかなり違ってくるだろう。男性と女性とのあいだでも、差別に対する敏感さにはかなりの差がありそうなものだ。また、社会学や政治学などの各学問では、それぞれの問題意識や考え方に即したかたちで「差別」という言葉が定義付けられている。

しかし、ここはあえてシンプルに言い切ってしまおう。差別とは、「不合理な区別」、あるいは「正当な理由をもたない区別」だ。逆に言えば、合理的な区別や正当な理由をもつ区別は差別ではなく、ただの区別である。

たとえば、現代の日本社会では、日本国籍を持ち18歳以上である人ならだれもが選挙権を持つことができるとされている。

国籍に関する条件はともかく、「18歳以上」という条件については、大半の人々が合理的で正当だと考えるだろう。17歳や16歳が選挙権を持たないことに関しては問題であると主張する人もいるかもしれないが、5歳の子どもが選挙権を持たないことまでをも非合理で不当であると考える人は、ほとんどいない。投票という行為には「自分にとって利益となる政策はどのようなものであるか」を理解したり、各党の公約の内容を理解したうえでその実現可能性を判断したり、それぞれの政治家の資質を評価したり、これまでの政治の歴史や政局の流れについての知識を持っておいたりするなど、複雑で様々な知的能力が要請される。もちろん、18歳以上であっても、すべての人が投票をする際にそのような複雑な能力を駆使したうえで判断しているとは言えないかもしれない。だが、すくなくとも、5歳の子どもは投票を適切におこなうための政治的判断を下す能力を持たないことはほぼ確実だ。だから、5歳の子どもが選挙権を持たないことは、正当な理由に基づいた区別なのである。

一方で、日本でも諸外国でも、男性だけに選挙権があって女性には選挙権がないという時代が長く続いてきた。現代では、選挙権の有無を性別によって区別することは、れっきとした差別であると考えられている。18歳の女性は、すくなくとも18歳の男性と同程度には、自分にとっての利益を認識したうえで投票先を選択する能力があるはずだ。女性であるからといって、投票を適切におこなうための政治的判断能力に欠けているということにはならないから、性別を理由として選挙権を持たせないことは差別であるのだ。同様に、人種や肌の色を理由として選挙権を持たせないことは差別である。ヨーロッパ系であってもアフリカ系であってもアジア系であっても、投票に必要とされる能力はみな同様に持っているからだ。

そして、犬や猫やチンパンジーやクジラが投票権を持たないことは、種差別ではなく区別であると見なせるだろう。愛玩動物に関する政策は犬や猫の生活や生命に大きな影響を与える可能性があるが、彼らには政策の内容を理解したり政策が自分の生活に与える影響について判断したりすることはできない。犬や猫は文字が読めないし、複雑な概念がわからないからだ。犬や猫よりかは知能が高いとされるチンパンジーやクジラであっても、政治家の資質や政局の流れについて判断する能力はないだろう。彼らに選挙権を与えたところで、その権利が適切に行使される可能性は皆無である。だから、犬やチンパンジーが選挙権を持たないことは、正当な理由のある区別なのだ。

選挙権の有無を年齢や生物種で分けることは正当な区別であり、性別や人種で分けることは不当な差別である、ということは明白なように思える。しかし、不当であるか正当であるかが明白ではない分け方も存在する。

たとえば、わたしはアメリカ人であるために日本での選挙権を持たないが、そのことについて「生まれてからずっと住んでいるんだし税金も払っているんだから、選挙にくらい参加させろよ」と思う気持ちはなくもない。その一方で、「でも、外国籍の人でもなんの条件もなく投票できるとなったら、日本国籍の人たちの利益が侵害されるかもしれない」と思う気持ちもある。外国籍の人に選挙権を与えないことは正当な区別であるに決まっていると主張する人もいれば、不当な差別でしかありえないと主張する人もいる。その中間には「条件次第によっては外国籍の人も選挙に参加できるようにするべきだ」と主張する人たちがいて、その「条件」の内容をめぐって丁々発止の議論がおこなわれてもいる。いつかは答えが出るかもしれないが、現時点では正当さがまだ定かでなく、区別であるか差別であるかが宙ぶらりんであるのだ。

いずれにせよ、選挙権の有無を分ける際に核心となるのは「投票を適切に行うための政治的判断を下す能力」だ。なぜその能力が重要になるかというと、その能力を持っている存在であれば、選挙に参加することで自分の利益に関わるコミットメントをすることができるからである。選挙権の有無が年齢や生物種という基準で分別されているのは、それらの基準によって選挙権に関わる利益を持つ存在と持たない存在とを分別することができるからだ。逆にいえば、年齢や生物種による区別は正当ではあるが本質的なものではなく、政治的判断を下す能力の有無や選挙権に関わる利益を間接的に測るための、便宜的なものである。

動物はなんの権利も持たない

「権利」という言葉については、ひとかたまりのセットや束になっているというイメージを持っている人が多いようだ。

たとえば、「基本的人権」という言葉には自由権や生存権などの複数の権利が含められている。自由権や生存権が守る利益の内容は異なっており、それぞれの利益がなぜ守られなければいけないかということはそれぞれ別の理路で議論されるべきことである。だが、わたしたちが普段の生活において物事を考えたり、司法や行政の場で法律が実際に運用されたりする際においては、「それぞれの権利はなんのために存在しているのか」ということを毎回いちいち論じるわけにはいかない。だから、理由はさておき、とにかくわたしたちには諸々の権利がセットになって保証されている、ということが自明の前提となっている。

しかし、実際には、自由権や平等権やその他の諸々の権利が法律で保証されている背景には、ひとつひとつの権利ごとに異なる理由が存在する。自由や平等に関する利益はほぼ全ての人が持つからこそそれらが基本的人権だとして保証されている一方で、一部の人しか持たない利益を保証するための基本的でない権利も存在する。なにかを創作しない人は著作権や意匠権を持たないし、他人に貸す土地を持たない人は底地権を持たない。それらの人は、著作権や底地権が保証するような利益をそもそも持っていないからだ。細かく見てみると、人間たちのあいだでも、権利というものがそれぞれの持つ利益に応じて不均等に配分されることがわかるはずだ。

そして、現行法では、原則として動物はなんの権利も持たない。

たしかに、動物に与える理由がまったくない権利も多数存在する。選挙権はもちろんのこと、著作権や底地権を動物たちに対して認める理由も存在しないだろう。動物たちは創作活動をすることや土地を貸すことに関する利益を持たないからだ。

その一方で、生存権や自由権については断言することができない。日本の法律では生存権は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とされているが、文化的な生活についてはさておき、健康な生活を営むことに関する利益は動物にもあるはずだ。犬でも猫でも、不健康な生活を過ごすと病気になって苦しむことになり、不利益を被るからである。また、大半の動物たちは人間と同じように、自由に行動できることを望む。それまでジャングルのなかで自由に生きていたチンパンジーが檻に入れられたり身体を拘束されたりしたら、不快や不安を感じて、脱出するためにもがくであろう。

不法に身体に侵害を加えられることのない権利である「身体権」に関わる利益は、かなりの部分まで、動物も人間と同じように持っていそうなものだ。わたしたちは、理由や同意もなく誰かに拳で殴られたり、鞭で叩かれたり、包丁で刺されたりしたくないと思っている。そういうことをされたら痛みや苦しみを感じて不利益を被るからだ。そして、犬や猫やチンパンジーも、殴られたり叩かれたり刺されたりすると痛みや苦しみを感じるのである。

選挙権や底地権の有無を生物種に基づいて分けることは合理的な区別であった。だが、生存権や身体権については様子が異なる。健康な生活に関する利益や身体を侵害されないことに関する利益は、人間と同じように動物たちも持っているのだ。そうなると、生物種に基づく区別は不当になってくる。そう、それは種差別なのである。

利益に対する平等な配慮

これまでに述べてきたような考え方のまとめとして、ピーター・シンガーの著作『動物の解放』から引用しよう。

人間と動物のあいだにはいくつかの重要なちがいがある。そしてこれらのちがいはそれぞれが有している権利においてなんらかのちがいを生じるにちがいない。しかし、この明らかな事実を認識することは、平等の基本原理をヒト以外の動物に拡張すべきだという主張に対する障害とはならない。男性と女性のあいだに存在するちがいも同様に打ち消すことができないものである。そして女性解放の支持者たちは、これらのちがいが権利のちがいを生じるかもしれないということを承知している。多くのフェミニストは、女性は必要があれば人工妊娠中絶を行う権利をもっていると主張している。これらのフェミニストたちが男性と女性の平等を求めるキャンペーンを行なっているからといって、彼女らが妊娠中絶を行う男性の権利も支持しなければならないということにはならない。男性は妊娠中絶を行うことができないので、彼がそれを行う権利について論じることは無意味なのである。女性解放や動物解放がそのようなナンセンスにまきこまれるべき理由はない。平等という基本原理をあるグループから別のグループへ拡張することは、私たちが両者を正確に同じやり方で扱わなければならないとか、両者にまったく同じ権利を付与しなければならないということを意味するわけではない。私たちがそうすべきかどうかは、その二つのグループの成員の本性によってちがってくるであろう。平等の基本原則は同一の扱いを要求するわけではない。それは平等な配慮を要求するのである。異なる存在に対して平等な配慮を行なった場合には、異なった扱いや異なる権利が結論として引きだされることになるのかもしれない。(シンガー、p.22-23)

上述の引用文に表れている考え方は「利益に対する平等な配慮」の原理と呼ばれるものであり、シンガーの思想の核心となっている。ただし、シンガーによると、「利益に対する平等な配慮」の原則は彼に限らずほかの多くの倫理学者や哲学者がそれぞれ異なるかたちで表現してきたものであるのだ。

「種差別」という言葉はシンガーが発明したわけではないし、動物への道徳的配慮の必要性を主張する議論も『動物の解放』が出版される以前から存在していた。しかし、シンガーの『動物の解放』は、出版されてから現代にいたるまで動物保護運動の理路的支柱となっているし、倫理学のサブジャンルとして動物倫理が医療倫理や環境倫理と並ぶほどの存在感を持つようになったこともまず間違いなくシンガーの功績だ。だから、「種差別とはなにか? 」というテーマについても、シンガーの主張をベースとしながら論じることは適切であるだろう。

「権利」という言葉からは離れる

ここまでの議論において、わたしは説明の都合から「権利」という言葉を多用してきた。大半の人は道徳的な問題について権利の有無という観点から考えることが多いために、差別と区別の違いについて論じるうえでも権利という言葉を用いたほうが、説明が簡単になるからだ。だが、「“権利”という言葉から距離を置くべき理由」で論じたように、道徳的な問題についてより根本的に考えるためには、そもそも「権利」という言葉からは離れたほうがよい。

『動物の解放』のなかで、シンガーは功利主義者のジェレミー・ベンサムが動物の「権利」について語った議論を引き合いに出している。そして、「問題となるのは、理性を働かせることができるかどうか、とか、話すことができるかどうか、ではなくて、苦しむことができるかどうかということである」で締められるベンサムの文章を引用したうえで、シンガーは以下のように論じるのだ。

ベンサムは私が引用した文章において「権利」について語っているが、その議論は実際には権利についてというよりも、むしろ平等についてのものである。ベンサムは周知のように「自然権」は「ナンセンス」であると述べ、「自然であり規定できない権利」を「支柱に乗ったナンセンス」と呼んだ。彼は人々と動物が道徳的に受けるべき保護に簡潔に言及する方法として、道徳的権利について語った。しかし、道徳的議論の現実の重みは、権利の存在の主張に依拠するわけではない。というのは、今度はこれが、苦しみと幸せの可能性にもとづいて正当化されねばならないからである。このようにして私たちは、権利の究極的性質についての哲学的論争に巻き込まれることなく、動物のための平等を主張できる。

一部の哲学者は、大いに苦労しながら、動物が権利を持たないことを示すための議論を組み立てたが、それらは本書の議論を論駁するための試みとしては間違っていた。彼らは、権利を持つためには自律的でなければならない、あるいはコミュニティの成員でなければならない、あるいは他者の権利を尊重する能力を持たねばならない、あるいは正義の感覚を持たねばならないと主張した。これらの主張は動物解放の論拠とは関係ない。権利という用語は、便利な政治的省略表現である。それはベンサムの時代にそうであったよりも、三〇秒のテレビニュース断片の時代においていっそう役に立つ。しかし私たちの動物に対する態度のラディカルな変革のための議論においては、それはまったく必要ない。

もしある当事者が苦しむならば、その苦しみを考慮に入れることを拒否することは、道徳的に正当化できない。当事者がどんな生きものであろうと、平等の原則は、その苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同等にーー大ざっぱな苦しみの比較が成り立ちうる限りにおいてーー考慮を与えられることを要求するのである。もしその当事者が苦しむことができなかったり、よろこびや幸福を教授することができなかったりするならば、何も考慮しなくてよい。だから、感覚(sentience)をもつということ(苦しんだりよろこびを享受したりする能力を厳密に表わす簡潔な表現とはいえないかもしれないが、便宜上この感覚ということばを使う)は、その生きものの利益を考慮するかどうかについての、唯一の妥当な判断基準である。知性や合理性のようなその他の特質を判断基準とすることは、恣意的であるとのそしりを免れないであろう。皮膚の色のようなその他の特質を選ばない理由は何か?(シンガー、p.29 -30)

ここでシンガーが念頭に置いているのは、動物に対する道徳的配慮の必要性を否定する人たちがおこなってくる、定番の反論のことである。

動物倫理を否定する人たちは、動物は権利に対応する「義務」の存在を認識して守るための知性を持たないから、動物に権利を認めることはできない、と主張することが多い。または、道徳とは人間どうしの合理的な社会契約に由来するものであるから、社会契約に参加できるだけの合理性を持たない動物は道徳の対象にならない、と主張することもある。道徳とはなんらかの相互性に基づくものであると前提したうえで、動物は人間に対して道徳的に行為することができないから人間も動物に対して道徳的に行為する必要はない、と彼らは論じるのだ。

相互性は必要とされない

たしかに、ある種の利益が道徳的に配慮されるためには相互性が必要とされる場合もある。たとえば、国や地域でおこなわれる選挙に参加するためには対象の国や地域に税金を納めていることや一定期間居住していることが条件とされるが、これは不合理な条件ではないように思える。その国や地域に対してなにもコミットメントをしていない人までが投票できてしまうと、その地域の住民たちの意思が選挙の結果に適切に反映される可能性が低くなってしまう。つまり、選挙に参加できるのは同じ国や地域に住んでいて同じように税金を納めている人たちだけにしておかないと、その人たちの利益が侵害されるのを防ぐことができなくなってしまうから、そうでない人たちの利益を制限することは許容されるのだ。また、選挙に限らず、諸々の経済活動における契約行為や、恋愛や夫婦関係に関することなど、道徳的な問題に相互性が必要とされる場面は多々ありそうなものである。

けれども、健康に生きることに関する利益や苦しめられたり痛めつけられたりしないことに関する利益が道徳的に配慮されることにまで、相互性が必要とされるものだろうか?

赤ちゃんは義務の存在を認識するための知性を持っていなさそうだし、社会契約に参加できるだけの合理性も持っていないだろう。しかし、だからと言って赤ちゃんを殴ったり首を絞めて殺したりすることは道徳的に問題ない、と言える人はいないはずだ。これに対して、「赤ちゃんは成長したら知性や合理性を持つ大人になる可能性があるから、特例として道徳的に配慮する必要がある」と反論する人もいる。だが、人間のなかには、大人になってもほかの人たちと同じような知性や合理性を持たない人たちがいる(重度の知的障害者の人たちや、深刻な認知症の人たちなど)。そのような人たちは、高度な知性や合理性を持っている人たちのようには道徳に関する複雑な思考をはたらかせて道徳的に行為することができないかもしれない。だからと言って、生きることや苦しまないことに関する彼らの利益を考慮しなくていいということになるのだろうか?

「殴ったら痛みを感じる存在を無意味に殴ってはいけない」という規範や「生きたいと思っている存在を意味もなく殺してはいけない」という規範を守るうえで、相手がどんな知性を持っているかとか道徳的に行為できる存在であるかどうかは、ほとんど関係がないはずなのだ。

だとすれば、赤ちゃんや知的障害者の人たちを苦しめたり殺したりすることが非道徳であるのと同じように、犬や猫や牛や豚や鶏を苦しめたり殺したりすることも非道徳である。先述したように、健康な生活に関する利益や身体を侵害されないことに関する利益は、動物たちも人間たちと同じように持っているからだ。知性や合理性の有無や高低は赤ちゃんや知的障害者の人たちを苦しめたり殺したりすることを容認する理由にならないのだから、同じように、動物たちを苦しめたり殺したりすることを容認する理由にもならない。それに対して、「動物たちはホモ・サピエンスとは異なる生物種なのだから、仲間である人間たちに対してとは異なる扱いをしてもいいのだ」と反論するとすれば、その発想はまさに種差別である。

上述してきたような考え方が、現代の動物保護運動や倫理的ビーガニズムの根底にある、「動物倫理」の発想の基本といえる。

植物も動物と同等に扱うべきか?

さて、冒頭で述べたように、ビーガニズムに対しては「動物も植物も同じ生命であるから、どちらかを殺害して食べることを許容して、もう片方を殺害して食べることは許容されないというのは差別だ」という批判がなされることが多い。

だが、植物は感覚や意識を持たない。そのために、動物たちが持つような「苦しまないこと」や「痛めつけられないこと」に関する利益を、植物はそもそも持たない。「利益に対する平等な配慮」の考え方のポイントは、行為者がおこなう行為そのものではなく、その行為が被行為者に与える結果のほうを問題視することにある。ある対象をナイフで傷付けるという行為は、その対象が人間の赤ちゃんであっても猫や鶏であっても、「痛みを発生させる」という同様の結果をもたらすから、道徳的に問題となる。しかし、対象が植物である場合には痛みは発生しない。さらに、植物には意識もないのだから、恐怖や焦りなどのその他のネガティブな感覚も発生しない。だから、「人間の赤ちゃんをナイフで傷付けてはいけないが、猫はナイフで傷付けてもよい」という主張は不合理な差別であるが、「人間の赤ちゃんをナイフで傷付けてはいけないが、植物はナイフで傷付けてもよい」という主張は合理的な区別である。同じように、「食べるために牛や鶏を殺害することは許されないが、食べるために植物を殺害することは許される」という主張も差別ではなく合理的な区別であるのだ。

この議論に対してよくおこなわれる反論が、「植物にも動物と同じような感覚や意識が存在する」というものだ。この主張を補強するために、なんらかの最新の科学的発見が持ち出されることもある。しかし、そこで主張される「感覚」や「意識」とは、わたしたちがそれらの言葉にふつう持たせる意味をはるかに超えた、かなり幅広くて曖昧な概念であることがほとんどだ。すくなくとも、植物は動物のような神経を持たないという解剖学的な理由と、そもそも動くことのできない存在である植物が痛覚を発達させるメリットが存在しないという進化論的な理由から(痛覚とは刺激から逃避するための反応として進化してきたものである)、植物が痛覚を持つという可能性は皆無に等しい。同じ理由から、牛や鶏などの哺乳類や鳥類が痛覚を持つことは、ほぼ確実である。魚類や甲殻類にも痛覚が存在する可能性はかなり高いと言われているし、昆虫が痛覚を持つ可能性だって植物に比べればずっと高い。そして、合理的な判断とは、可能性の高低を適切に考慮した判断のことでもある。だから、「植物も痛みを感じるかもしれない」とか「動物は痛みを感じないかもしれない」という可能性の話を持ち出しても、結論はけっきょく変わらないのだ。

では、痛覚や意識の話を度外視して「植物も動物も同じ生命である」と主張すれば、ビーガニズムに対する反論は成立するのだろうか? 残念ながら、対象が生命であるかどうかということ自体は、道徳的にはさほど重要な問題ではない。後述するように、感覚や意識を持つ生命にとっては「殺される」ということは危害になりえる。しかし、感覚や意識を持たない存在は、自分の生命に対していかなる利益を持ちようもない。だから、殺されることも危害にはならないのである。

「どんな生命にも同じ価値があり、同じように大切にするべきだ」という言葉はもっともらしく聞こえるものだし、簡単ですぐに学べるルールでもあるから、子ども相手に教えるものとしては、「利益に対する平等な配慮」のような難しくて複雑な道徳的原理よりも適しているだろう。しかし、すべての生命に同じ価値を認めて同じように大切に扱おうとする規範は、苦痛や危害を発生させる行為とそうでない行為との区別を付けられなくしてしまう。だれかに痛みや苦しみを与える可能性がある問題について考えるときには、慣れ親しんだ言葉にもとづいた単純な発想から脱却して、複雑に考えることが必要とされるのだ。

生に対する利益と「知性」の関係

上述したように、動物と植物とは明確に線引きすることができる。前者は感覚を持つために「苦しまないこと」や「痛めつけられないこと」への利益を持つから、その利益が配慮されるべきである。しかし、後者は感覚を持たないためにそれらの利益を持たず、したがってそれらの利益が配慮される必要性はない。

ところで、苦痛を受けないことに比べると、「死なされないこと」についての利益は複雑だ。ここまでの議論では、「知性」は道徳的配慮をするかしないかの基準としては不適切なものであるかのように論じてきた。だが、実を言うと、ある存在が自分の生に対してどんな利益を持つかには「知性」が密接に関わっているのである。

ごく特殊な人を除けば、わたしたちはだれもが「死にたくない」と思っている。自分の人生はかけがえのない大切なものであり、なにも恐怖や苦痛を感じない安楽死であったとしても、自分の人生が終わらせられることはあってほしくないと思っているはずだ。わたしたちがそう思えるのは、人間には言葉や知性があって、「自分」という概念や「死」という概念を理解できているためである。また、未来についての予測がおこなえて、明日のことや来月のことや来年のことも考慮に入れた長期的な予定が立てられて、「これからはこういうことをしたい」「自分はこんな人間になりたい」といった長期的な目標や計画を立てられるからだ。死は、その人の人生を終了させることで「死にたくない」という気持ちに反する結果を無視したり、その人が人生で立てていた目標や計画を頓挫させたりする。だからこそ、死はわたしたちに危害をもたらすのであり、可能なら避けられるべきことなのだ。

問題なのは、動物たちは自分の生についてどこまでの利益を持っているのか、ということである。大半の動物たちは言葉を持たない以上、「自分」という概念や「死」という概念も理解していない可能性がある。また、長期的な予測を立てて行動できる動物の種類は限られているようであり、生に対する目標や計画を立てられる動物たちがどれだけいるかも疑わしい。その一方で、どうやら言葉が理解できるようであったり、死の概念が理解できていたり、長期的な目標を立てることができたりしそうな動物もいるようなのだ。

知性の高い動物たちは、ふつうの人間ほどには「生」に対して強い利益を持っていないとしても、知性の低い動物たちや、あるいは人間の赤ちゃんや重度な知的障害者よりかは強い利益を「生」に対して持っている。だから、知性の高い動物が死ぬことを知性の低い動物が死ぬことよりも重大な危害であると見なして、どちらかが死ななければいけないときに後者を死なせることは、種差別ではなく合理的な区別だ。逆に、「人間だから」という理由で赤ちゃんや重度な知的障害者たちが死ぬことを知性の高い動物が死ぬことよりも重大な危害であると見積もることは、合理的な区別ではなく種差別である

クジラやイルカ、チンパンジーなどの動物を殺すことが重大視されているのは、上述したような考え方にしたがってのことだ。これまでにおこなわれてきた様々な研究や実験や観察の結果、クジラ類や霊長類の動物たちは言語を使用できていたり「自分」や「死」という概念を理解できていたり長期的な目標を立てることができたりする可能性が、ほかの動物よりも高いからだ。

区別することを放棄する根拠にはならない

この考え方に対してすぐに出てくる批判は「けっきょくは可能性の問題であり、わたしたち人間が理解していないだけで、ほかの動物たちも彼らなりのやり方で死の概念を理解したり長期的な目標を立てていたりするかもしれない」というものだ。そして、この批判には的を射ているところもある。動物たちがどんな知性を持つか、彼らはどんなかたちで世界を認識しているかは、究極のところはわたしたちにはわからない。意識というものは個体ごとに備わり個体ごとに完結するものであり、自分以外の存在がどんな意識を備えているかということを直接的に理解するのは、原理的に不可能であるからだ。また、間接的なかたちで動物たちの知性や認識を理解するためにおこなわれる研究や実験や観察についても、その結果や内容に関する議論は日々更新されている。クジラ類や霊長類はわたしたちが思っているほど賢い存在ではないと主張する学者もいる。その逆に、猫や鳥や魚や虫などはこれまでわたしたちが理解していたよりもずっと高い知性を持った存在である、ということを示す新しい研究結果が日々生み出されていたりもする。

しかし、動物たちの知性についてわたしたちには100パーセント正確にはわからないからといって、そのことは、生に関して彼らが持っている利益の問題を考慮する際に、比較して区別を行うことを放棄する根拠となるのだろうか?

テントウムシが死ぬことより人間が死ぬことのほうがほぼ全ての場合において重大な問題であるということは、真面目に考えれば大半の人が同意できるはずだ。ネズミが死ぬよりも人間が死ぬことのほうが重大であるし、猫の死に比べてもやはり人間の死のほうが重大であるだろう。同じように、テントウムシやネズミが死ぬことよりもクジラやチンパンジーが死ぬことのほうが重大であるように思える。ここで「テントウムシの知性についてもクジラの知性についても人間には100パーセント正確にはわからないのだから、比較できるものではない」と 反論を行なう人もいるだろうが、大半の人は、すこし本気になって考えればテントウムシの死とクジラの死は比較できる、ということに同意せざるをえないはずだ。様々な根拠から、クジラの死はテントウムシの死よりも重大な事態であるということの蓋然性の高さは判断できる。そして、蓋然性の高さにしたがって区別を行なうことは合理的であり、蓋然性を無視した区別は非合理であるのだ。

最善の判断を志向しつづけること

シンガーによる「利益に対する平等な配慮」の原理でも、そのほかの倫理学者たちの考え方でも、行為の善し悪しを判断するためにはなんらかの基準が用いられることが多い。その一方で、基準を用いた判断の不確かさを非難する人も多々いる。ある基準に盲点があったり恣意性があったりすることを指摘して、基準を修正することは有意義であろう。しかし、基準そのものを否定すると、道徳についてなにも判断することができなくなってしまう。だから、限界や欠点があるとしても、区別であるか差別であるかを判断するための基準は絶対に必要なのだ。アメリカの倫理学者ゲイリー・ヴァーナーの著書『人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける』から、「基準」の必要性や蓋然性の高さに基づいた判断の必要性について論じられている箇所を、訳して引用しよう。

基準にもとづいた私の議論に対する、哲学者のコリン・アレンによる批判に対する私の最初の返答は、「ラムズフェルドの返答」と呼ぶことができるかもしれない。最高の装備や改良型の高機動多用途装輪車両が、イラクに向かうアメリカ軍の全軍に対しては配備されていない、という批判に対してアメリカの元国防長官のドナルド・ラムズフェルドが言ったとされる返答に由来しているからである。ラムズフェルドはこう言ったのだ。「君も知っているように、戦争には手元にある軍隊で行かなければならないんだ。自分がこれだけ欲しいと思っている軍隊や、後からこれだけ欲しかったと思うことになる軍隊で戦争に行ける訳じゃないんだ」。ラムズフェルドと同様に、私もこう言おう。倫理的な判断は、自分が欲しいと思っている証拠ではなく、自分が手にしている証拠に基づいて行わなけばならない

科学者や、心の哲学を専門にしている哲学者なら、無期限に結論を保留する余裕があるかもしれない。しかし、倫理学者や立法者は、その判断を下すときに入手可能な最善の証拠に基づいて判断を下さなければならない。そして、日々の生活においては全ての人が倫理学者である。私はいつも自分のことを「倫理学者」ではなく「倫理理論学者(ethical theorist)」と呼んでいる。ポピュラーメディアは、「倫理学者」のことを自分に投げかけられた全ての倫理的問題についての答えを持っている人だと描写するからだ。しかし、問題が投げかけられた時の私の答えとは、多くの場合は「その答えは、事実がどんなものであるかということによる」というものになる。「日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ」という私の主張は、全ての倫理的問題に対して表明できる意見を全ての人が持っている、ということは意味していない。私が言いたいのは、私たちの全員が、倫理的な議論の対象となる判断を数え切れないほど多く下している、ということなのだ。その判断の多くは待つヒマのないものであるし、その問題に関して必要であったり求められたりする情報を全て集める前に判断を下す必要がある。このことは、立法者にとっては明白なことだ。立法者は、広い範囲に重大な結果をもたらす政策や法律を不完全な情報に基づいて頻繁に制定しなければならない。しかし、立法者に比べると判断の与える影響は少ないといえ、同じことは私たちの全員に当てはまるのだ。(Varner, p.115-116)

現実とは不確かなものだ。ある行為がどんな結果をもたらすかということには、予想のできない部分が常に存在する。行為をした後であっても、それによって実際には誰に対してどんな結果がもたらされたか、ということを判断するのが難しい場合すらある。合理的であるという確信を持っておこなった区別が、基準が間違っていたために実際は不合理な差別であった、という事態も多々あるだろう。しかし、「トロッコ問題について考えなければいけない理由」でも論じたように、わたしたちはトレードオフのジレンマから逃れることができない。けっきょくのところ、倫理的な判断とはトレードオフに対して最善の回答を行おうとする判断のことである。いま得られる限りの情報を参照しながら、偏見や思い込みをできる限り排除して、間違っていたことが判明した場合にはすぐに修正をしながらも、最善の判断を志向しつづけることが倫理学であるのだ。とすれば、現代の動物保護運動や倫理的ビーガニズムの背景にある、「種差別」に関する議論はただしく倫理的なものであると言うほかないのだ。

 

<参考文献>

ピーター・シンガー(著)、戸田清(訳)、『動物の解放 改訂版』、2011、人文書院。
Varner, Gary E. Personhood, ethics, and animal cognition : situating animals in Hare's two level utilitarianism. New York: Oxford University Press, 2012.

 

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記