第7回 ストア哲学の幸福論は現代にも通じるのか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

「幸福」「意味」とはどういうことか?

古代から、人間は「幸福」や「人生の意味」について悩んできた。どうすれば幸せで有意義な人生を送れるのか? そもそも、「幸福」や「意味」とはどういうことなのか?

すこし前までは、こんな難しい問題について考えて答えようとするのは、宗教家と哲学者と文学者しかいなかった。とくに哲学においては、現代においても幸福論や人生の意味論は主要なテーマとなっており、多くの哲学者がこの難題について日夜考え続けている。また、本屋に行けば、過去の有名な哲学者たちによる幸福論や人生論を現代の著者が解説している新書本やソフトカバーの単行本を、いくつも探すことができるだろう。

ただし、過去の時代にいた哲学者がいくら有名であったとしても、彼の唱えていることが正しいとは限らない。幸福論は多数の哲学者によって書かれてきたからこそ、すべての幸福論を並べてみたら、ある哲学者の言っていることと全く正反対のことを別の哲学者が言っている、ということもざらに起こっているはずだ。こんな場合には、単純に考えて、少なくともどちらかの一方の意見は間違っている。そして、間違った幸福論を唱えている人のアドバイスに従ったら、幸福に近付くどころか遠ざかってしまうはずである。

この連載の第一回で紹介した「ダーウィニアン・レフト」論とは、要するに「道徳について考える場合には、自然科学の知見を含めた、正しい事実認識に基づかなければいけない」というものであった。誤った事実認識に基づいて道徳判断をしようとしても、判断を誤って、他人に迷惑をかけたり危害を生じさせたりするおそれがある。同じように、自分の幸福や人生について考える場合にも、正しい事実認識に基づいておいたほうがいい。そこで判断を誤ると、自分が損をしたり失敗したりするおそれがあるからだ。

そして、現代では、心理学や経済学などをはじめとする自然科学や社会科学の観点から幸福について論じた研究が蓄積されている。哲学者による幸福論や人生論を参考にしようとする場合にも、どの哲学者の意見を頼りにするかは、科学的な知見に照らしあわせたうえで選択するべきだ。人間や社会というもののあり様について科学が明らかにした事実とあまりにかけ離れた議論は、いくら有名な哲学者が唱えているものだとしても、真に受けないほうがよいであろう。

上記のことを意識したうえで、今回は、古代のギリシアやローマで活躍した「ストア派」の哲学者たちの意見を紹介しよう。エピクテトスやセネカ、マルクス・アウレリウスなどなど。ただし、彼らの原典を引きながら紹介することは、現在のわたしにはちょっと力量不足なので、やめておく。

その代わりに、心理学をはじめとする現代的な学問の知見と照らしあわせながら21世紀におけるストア哲学の価値を説いたアメリカの哲学教授、ウィリアム・アーヴァイン氏による議論を紹介しよう。いわば、「ストア哲学入門」のさらに入門、という内容になる。

そして、アーヴァインが論じるようなストア派の考え方に対してわたしが抱いている疑問や不安についても、あわせて述べさせてもらうことしよう。

人生は一度きりしか生きられない

さて、アーヴァインによると、人は「間違った人生を生きる」ことを避けるために、人生哲学を持つべきだ。

だれにせよ、自分の人生は一度きりにしか生きられない。そして、確たる指標や考えを持たず、身のまわりにいる人々や偶然に起こる出来事、時代や社会の流れなどに振りまわされて右往左往しながら生きてしまうと、死の床についたときになってようやく、「自分は間違った仕方で生きていた、自分は人生を無駄にしてしまった」ということに気が付く羽目になるかもしれない。その一方で、ただしい人生哲学を持ち、それに従って生きることさえできれば、ぼうっとしているうちに無駄で有害なものに気を散らされることを避けて、ほんとうに価値のあるものを追求する人生を過ごすことができるかもしれない。

ストア哲学は、なにが「価値のあるもの」であるかということを考えるとともに、「無駄で有害なもの」についても考える思想だ。ひとことでいうと、それは「欲求」である。わたしたちの心は、放っておくとついつい欲求に振りまわされてしまうものである。だが、ストア哲学者たちによると、欲求をコントロールして「心の平静」を得ることこそが、有意義で幸福な人生を過ごすために目指すべきものなのだ。

欲求のメカニズム

そもそも、欲求とはなにであるか?アーヴァインは、「生物学的インセンティブ・システム」という表現を用いながら、欲求のメカニズムを説明している。

わたしたちの身体には、空腹になれば「食事をしたい」という欲求を生じさせたり、喉が乾けば「水が飲みたい」という欲求を生じさせたりすることで、生存のために必要な行動をわたしたちが行うように動機付ける仕組みが備わっている。また、「不潔な場所から離れたい」「危険な人物と会うことを避けたい」「身体を酷使する仕事をサボりたい」などの負の欲求も、生存にとって悪影響となる物事を回避するためにわたしたちを動機付ける仕組みだといえる。

そして、生存に関する欲求だけでなく、繁殖に関する欲求も、わたしたちの身体には備わっている。ある年代までの男女は、「セックスしたい」という欲求を強く持ち続けて、セックスできる相手がいないときには強く悩まされて、セックスをするために様々な行動を取るように動機付けられる。また、めでたく恋人ができた人であっても、「フラれたくない、捨てられたくない」という負の欲求を抱き続けるものだ。そして、結婚をして、安定してセックスできる相手を確保した人の多くは、こんどは「子どもがほしい」という欲求を抱くことになるだろう。

食事をしたいという欲求が充たされたりセックスしたいという欲求が充たされたりすると、わたしたちはなんらかの「快感」を得る。その一方で、「不潔な場所から離れたくない」「恋人に捨てられたくない」という負の欲求が充たされない場合には、わたしたちには「不快感」が生じる。そして、欲求を充たした場合に得られる快感や負の欲求を充たせられなかった場合に生じる不快感の存在について身体が覚えていたり頭で理解していたりするからこそ、前者を獲得して後者を回避するように、わたしたちの行動が動機付けられるのだ。つまり、快感は「報酬」として、不快感は「罰」として、それぞれがインセンティブとしての機能を持ってわたしたちの行動に影響を与えているのである。

生存と繁殖に貢献するインセンティブ・システム

欲求を通じて生存と繁殖へとわたしたちを動機付けるインセンティブの仕組みは、進化の歴史を通じて発展してきた。たとえば、胃のなかになにも残っておらず身体を動かすエネルギーが尽きかけている状態であっても「お腹が空いた」と思えず食事に対する欲求が湧かないような人は、まともに生存することもできず、子どもを残すことができる前に死んでしまう可能性が高いだろう。また、自分自身の生存に関するインセンティブ・システムが正常に機能している人であっても、「セックスしたい」という欲望をまったく抱かず「子どもがほしい」ともまったく思わないのであれば、その人が子孫を残す可能性はほとんどないはずだ。そのような人たちが淘汰されていくことで、生存と繁殖に貢献するようなインセンティブ・システムを持った人の遺伝子だけが残っていき、現代のわたしたちにも引き継がれることになったのである。

ただし、生物学的インセンティブ・システムは、あくまで生存と繁殖のみのために発達してきたのであり、わたしたち個人の幸福を考慮して設計されたものではない。

たとえば、ひとくちに食欲といっても、糖分や塩分や脂質が多く含まれた食事に対して、わたしたちはより強い欲求を抱くものだ。その理由は、人類史のつい最近まで、人間は糖分や塩分や脂質を入手する機会が限られている環境で生きてきたことにある。限られた栄養分に対する強い欲求が設定されることで、それらの栄養分を摂取する貴重な機会が訪れたときにも、逃さずに摂取することができるようになったのだ。

しかし、科学技術が発達して生産力の工場した現代社会では、過去のようには糖分や塩分や脂質は不足していない。わたしたちが生きる環境の変化は、生物学的インセンティブ・システムの発達を凌駕する、きわめて速いスピードで起こった。そのために、糖分や塩分や脂質に対する強い欲求はわたしたちの身体のなかに残り続けており、ついついこれらの栄養分を過剰に摂取してしまうことになる。だが、たとえば糖分を過剰摂取したら糖尿病となるように、栄養の過剰摂取は長期的にはわたしたちの身体に病気を引き起こすことになる。言うまでもなく、病気はわたしたちに苦痛を与えて、わたしたちを不幸にしてしまう。だが、生物学的インセンティブ・システムは、「特定の栄養分に対する強い欲求を設定することで、それが有り余っている時代にわたしたちはどうなるか」ということまで考慮して設定されていないのだ。

繁殖に関する欲求も、わたしたちの幸福を考慮してくれるとは限らない。たとえば、所属している集団の人間関係の状況や本人の身体的魅力、あるいは経済状況の問題から、だれかとセックスすることがどうしても困難であるという人は多くいるものだ。あるいは、恋人がもうすでに他の人に心を奪われてしまって、なにをどうしても相手が自分のもとから離れることは防ぎようがない、という状態に陥る人もいる。このような人たちにとっては「セックスしたい」という欲求や「恋人にフラれたくない」という負の欲求は充たされることがないものであり、それらはただ焦燥感や不満感や苛立ちを引き起こすものでしかなく、学業や仕事など人生においてやらなければいけないことに対する集中を妨害してしまうものでもある。しかし、生物学的インセンティブ・システムは個人が経験している状況などおかまいなしに、セックスや恋愛(そして、それらを経て子どもを残すこと)に対する欲求をわたしたちに押し付けてくる。うまくいかない状況ならセックスや恋人のことをあきらめられるくらいに弱い欲求しか持たないような人は、そもそもセックスをせずに子どもを残さない可能性が高いために、そのような人の遺伝子はとっくに淘汰されてしまっているからだ。

つまり、生物学的インセンティブ・システムはあくまでわたしたちをある年齢まで生存させて子どもを残させることを目的にして設計されたシステムなのある。欲求に振りまわされて辛く惨めな人生を送ることになっても、子どもさえ残してしまえれば、生物学的インセンティブ・システムの目的は達成されてしまうのだ。そこで、わたしたちの幸福が考慮される必要性はないのである。

 後天的な条件付けで先天的システムを上書き

だが、わたしたちの行動のすべてが、生物学的インセンティブ・システムに支配されているわけではない。

インセンティブ・システムは、手に痛みを感じたら手を引っ込めてしまう、という「反射」のシステムとは異なる。欲求とはあくまで行動を動機付けるだけのものであり、欲求に抗って行動を抑えることは可能なのだ。そもそも、すこしでも食欲を感じたら他のことが考えられなくなって一目散に食べ物に飛びついてしまうような人間や、性欲を感じたら手近な異性を襲ってセックスをしようとする人がいたとしても、そんな人たちは生存も繁殖もまともに行うことはできないだろう。インセンティブ・システムは報酬と罰をもってわたしたちの行動をコントロールしようとするが、わたしたちの側にも、そのコントロールに従うかどうかを選択する能力は与えられているのである。

躾をされた犬は食事を目の前にしても我慢ができるように、動物であっても、後天的な条件付けによって、先天的なインセンティブ・システムを上書きさせることができる。人間であれば、家庭や学校における教育や諸々の集団への順応を通じて、社会一般や特定の集団に存在するルールを理解したうえで、それにあわせて自分の欲求をある程度までは自覚的にコントロールすることもできるだろう。そして、人間には理性があるために、「生物学的インセンティブ・システムは、わたしたち個人の幸福ではなく、生存と繁殖を目標として設計されている」という事実を理解することもできるのだ。

生物学的インセンティブ・システムがどのような報酬や罰を設定しているかを経験や知識に基づいて理解しながら、「自分が幸福になること」や「自分がよい人生を生きること」を目標に据えたうえで、生き方や考え方の戦略を練ることで生物学的インセンティブ・システムを出し抜くことが、人間であるわたしたちには可能なのだ。これを、アーヴァインは、進化という「奴隷主」に対して「奴隷」であるわたしたちが反乱を起こすことにたとえている。

現実の奴隷の状態を考えてみよう。たしかに奴隷たちは、主人とそのインセンティブ・システムから逃れることはできないかもしれない。だが、それでも彼らは、屈従によってみずからの人間としての価値が奪われるのを拒否するかもしれない。とくに仲間の奴隷を助けるためとあれば、全力を尽くそうとするかもしれない。そうなれば当然、ときとして主人の命令を拒むことになる。主人の目標達成に手を貸せば、みずからの生きるプランが設定した目標を損なうからだ。たとえば彼らは、仲間の奴隷を鞭で打てという主人の命令を拒むかもしれない。そうすればむろん奴隷監督から罰せられるだろう。だがそれは、意味ある人生を送るためにはわずかな代償にすぎない。宇宙的に見たら意味あるものではないかもしれないが、個人として見れば大きな意味をもつ。大事なのはまず間違いなくそこなのである。

私たち「進化の奴隷」もまた、自分たちのおかれた状況に対して、これと同じような戦略を使うことができる。自分自身が生きるための個人的プランを作り上げ、それを進化の主人が課したプランに重ねるのである。こうすれば私たちはもはや、進化の主人の命令に従っているだけの存在ではなくなる。みずからの人生を手にし、その人生で何かをーーみずからが意味あるものと考える何かをーーしているはずだ。そしてそれによって、私たちはできうるかぎりにおいて、自分の生活に意味を与えていることだろう。

ここで心に留めておきたいのは、みずから生きるためのプランを形成するとき、私たちは進化の主人を欺いているということだ。彼が私たちに欲望する能力を与えたのは、それによって彼の目標とする私たちの生存と繁殖が達成されやすくなるからである。だが私たちに与えられた欲望能力には、いくつかのオプションから選択する能力もまた含まれる。BIS(生物学的インセンティブシステム)が罰を与えるような事柄さえ選ぶこともできるのである。それゆえ、自分のライフプランを形成するというのは、事実上、この選択する能力を「濫用」していることにほかならない。私たちはその能力を、進化の主人が定めた目標を達成するためではなく、自分のために定めたべつの目標ーー進化の主人の目標とは相容れない目標ーーを達成するために使っているのだ。友人や隣人、あるいは職場のボスを欺くのは悪いことかもしれないが、進化の主人を欺くのは道徳的に何ひとつ問題ではないと私は思う。

(アーヴァイン、2007、p.281-282)

「進化の主人」に対して反乱を起こす方法は様々にあるだろう。キリスト教やイスラム教のような宗教が課す戒律に従って生きることができれば、欲求に振りまわされる人生からは脱却できそうなものだ。仏教も欲求をコントロールすることには定評があり、とくに禅の発想は現代の欧米でも注目されて、多くの人が実践している。そして、アーヴァインは、理性を駆使して欲求をコントロールする実践的なライフハックとして、ストア哲学を現代に復活させたのである。

ストア哲学の欲求コントロール

では、具体的には、ストア哲学では欲求をどのようにしてコントロールされるのか?

その主たる方針は、世の中には「自分の力でなんとかなること」と「自分の力ではどうにもできないこと」があることを認めたうえで、前者のみに力を尽くすことだ。

たとえば、コミュニティで一番の美女に恋慕の感情を抱いたところで、引く手あまたの女性が自分のことに興味を持って好意を抱いてくれて、他の男を差し置いて自分を選んでくれるかどうかは、相手次第である。そのようなことについて悩んでしまっても、時間と気力を消耗するだけだ。もし、美女のことで悩むのに使ったエネルギーを、代わりに運動であったり勉強であったりなどの自己研鑽に使えていれば、より快活に日々を過ごすことができていただろう。

恋愛でなくとも、たとえば社会的な地位や評判といったものに対する欲求が充たされるかどうかは、最終的には他人次第だ。収入をどれだけアップできるかは偶発的な事情に左右されるし、努力を積み重ねて築いた財産であっても、なんらかの失敗や災害によってあっという間に失われるおそれは常に潜んでいる。

自分の外側にいる他人や偶発的な事情に左右される物事に希望を抱いたり人生における幸福を見出そうとしたりすることは、分が悪い賭けであるのだ。それよりも、日々の生活において自分の能力を研鑽したり自分の心身の調子を良くする習慣を身に付けたりするなど、自分がコントロールできることに力を尽くしたほうが、安定して幸福を得ることができる。つまり、負ける可能性のあるゲームは避けて、勝てるゲームだけをすることが、ストア流の幸福の秘訣であるのだ。

とはいえ、実際のところ、まともに社会生活を送っている人間であれば自分のコントロールの範囲外の物事についても関わらなければならない。また、「自分のコントロールが完全には及ばないが、努力次第である程度まではコントロールが効いたり、目標が達成されたりする可能性を高められる」という物事にも、人生では多々直面することになるだろう。

そんなときには、「目標を内部化する」ことが重要になる。スポーツの試合でたとえるなら、「試合に勝つ」ことから「試合でベストを尽くす」へと、目標をずらせばよいのだ。ベストを尽くすことができれば試合に勝てる可能性も大幅に高められるだろうが、仮に負けたとしても、どのみち目標は達成されることになる。「試合に勝つ」という目標は、対戦相手の実力などの外部要因や偶然が絡んでくるために、達成されるかどうかは常に不安定だ。しかし、目標を内部化することで、どんな結果になったとしても心の平静を保ったままポジティブな感情を得ることができるようになるのだ。

「目標の内部化」という戦略は、仕事に対する向き合い方にも適用できる。結果として出世できたり立派なキャリアが築けたりするかどうかということにこだわるのではなく、仕事に対して自分がどれだけ真剣に取り組めるか、ということを目標にすればいい。同様のことは、恋愛を含んだ、他人との関わりにも当てはまる。他人の心とはコントロールできないものであるが、自分自身が恥じたり後悔の気持ちを残したりすることなく、他人に対して最大限に誠実に向き合うことを目標とすればいいのだ。そうすれば、うまくいったり運が良かったりする場合には社交や恋愛から得られる喜びを味わうことができるし、そうでない場合にも、自分の目標が達成されずに不幸や空虚感を味わうことは避けられるのである。

 ネガティブ・ビジュアリゼーション

しかし、「欲求をコントロールすればいい」「目標を内部化すればいい」という発想には、「言うは易く行うは難し」という感想を抱く人もいるだろう。実際、多くの人は「欲求は抑制したほうが良い生き方ができる」ということについて理性では同意しているだろうが、日々の生活でそれを実践することができないからこそ困っているのである。

アーヴァインによると、古代のストア哲学者たちは机上の空論を唱えていたのではなく、欲求をコントロールするための具体的なテクニックを編み出して、それを実践していた。さらに、ストア流のテクニックは、現代における心理学の知見とも一致しているのである。

欲求を抑えるテクニックのなかでも基本となるものが、「ネガティブ・ビジュアリゼーション」だ。人生がいまよりもつらいものになることや、自分が築いてきた地位や財産が失われること、恋人や配偶者や子どもなどの大切な人々が亡くなってしまうことを想像する、という行為である。当たり前に存在していると思っているものがなくなってしまう事態を想像することで、逆説的に、いま自分が手にしているものの価値やありがたみを再発見することができる。それは、手にしていないものを獲得しようとする欲求を抑制することにもつながるのだ。

ネガティブ・ビュジュアリゼーションは、マーケティングの世界ではお馴染みの、「アンカリング(錨)効果」という心理学的知見を活用したテクニックである。

たとえば、まったく同じシャツを同じ値段で売るとしても、単に「定価3200円」で売るより「定価は4000円だが、20パーセントの割引セールにより3200円」という価格設定で売るほうが、客の購買意欲をそそりやすい。定価の4000円という金額を「錨」として客の潜在意識に沈めることで、3200円という金額を安価に感じるように仕向けられるからだ。同じように、ネガティブ・ビジュアリゼーションでは、「自分が手にしているものがなくなってしまった状況」を錨にして自分自身の潜在意識に沈めることで、いま自分が手にしているものの価値を感じやすくなるように、自分自身を仕向けさせるわけである。

アーヴァインによると、ネガティブ・ビジュアリゼーションは定期的に行うことが重要である。順調に日々を過ごしていると、「いま自分が手にしているものは、当たり前に存在し続けるものだ」とついつい思ってしまい、潜在意識に沈めた錨がいつの間にか外れてしまうからだ。

また、ネガティブ・ビジュアリゼーションは時間をかけて行う必要はないが、具体的な状況を想像しながら集中して行わなければいけない。たとえば「恋人が亡くなる」ということを想像する場合には、死んだことを相手の家族から電話で知らされる場面や葬式に参加している場面など、相手が亡くなった場合に実際に自分の身に起こりそうなことを想像したほうが効果的であるのだ。リアルな場面を想像すればするほど、生きている恋人と会ったときの喜びや感謝の気持ちは深くなるのである。

フレーミング効果を活用

アンカリング効果とあわせてストア哲学者たちが活用してきた心理学的テクニックは、「フレーミング(枠組み)効果」を活用したものだ。自分が経験している状況を認識する枠組みを変化させることで、その状況に対して自分が抱いている感情を変化させられる、というテクニックである。つまり、同じ事態にあっても、「気の持ちよう」次第によってその事態から自分が受ける影響は変えられる、ということだ。

たとえば、わたしたちには自分のことを正当化する傾向があるため、他人とのあいだでトラブルがあったときには「自分は悪くなくて、相手のほうが悪い」と枠組みで認識してしまうことが多い。しかし、「相手の悪意によって自分が傷付けられた」という考えを抱いていると、相手に対する怒りや被害者意識からストレスを感じてしまい、心の平静や幸福から遠ざかってしまう。それよりも、「自分にも悪い点があった」という枠組みで認識することで、怒りや被害者意識からは解放されて、同じようなトラブルが起こらないように反省したり欠点を改善したりすることにもつながり、生産性のある幸福な日々を過ごしやすくなるのだ。

そのほかにも、自分が直面している状況を悲劇ではなく喜劇として認識することができれば、いやな出来事があってもユーモアを持ちながら笑い話として処理することができる。または、自分の人生を運命論的に捉えるという枠組みもある。そうすると、どれだけ理不尽な不幸が起こったとしても、「最終的には、この不幸にもなんらかの意味がある」と見なしたり「この出来事は自分が成長するための試練として起こっているのだ」と見なしたりすることができて、前向きに生きることができるだろう。このように、フレーミング効果を駆使すれば、他人や社会などの外部要因や偶然によりどんなことが起こったとしても、「こういう感情を持ちたい」と自分が思う方向に感情を調整できる可能性がある。

感情の影響力は、しばしば過大評価されている。18世紀イギリスの哲学者デビッド・ヒュームによる「理性は情念の奴隷である」という言葉は有名だ。しかし、アンカリング効果を用いたテクニックにせよフレーミング効果を用いたテクニックにせよ、「感情」というものがどのようなタイミングで生じたりどのように機能したりするかを認識したうえで、発生する感情の種類やその感情が自分に与える影響を「理性」によって戦略的にコントロールする、という点が肝心となっている。感情と欲求は一直線に結びついていることをふまえると、これこそが、生物学的インセンティブ・システムという「奴隷主」に対して反乱を行う「奴隷」が手に取るべき、強力な武器だといえるだろう。

老人のための考え方?

さて、わたしがストア哲学……というか、アーヴァインの本に初めて触れたのは、ちょうど30歳のときであった。とくに『良き人生について:ローマの鉄人に学ぶ生き方の知恵』を最初に読んだときには、いたく感銘を受けたものだ。

30歳とは、「若者」と呼ぶにはそろそろ厳しくもなってくる年齢である。ただ単に快楽や刺激を得ながら生きることにも飽きや疲れを感じてきて、自分の身に降りかかる様々な出来事や他人との関係に振りまわされることへの虚しさを抱くようになり、自分の人生をいかに生きるべきかということについて改めて考え直すには、ぴったりの時期であった。『良き人生について』を読んだ当時は一年半近く付き合ってきた恋人と別れた直後だったということもあり、自分の外側に存在しておりコントロールが効かない他者ではなく、自分の心の平静を保つことや物事に対して自分がどう向き合うかということから人生における意味や幸福を見出す、という考え方には深く同意できるところがあった。

ただし、30歳とは、「若者」としての気分や感覚にまだ引きずられている年齢でもある。結婚をしたり天職に就いたりして落ち着いている人もいるだろうが、まだまだ人生の方針が見つからず物事の優先順位も定められずに迷っている人も多い年齢であるだろう。そんな年齢においては、地位や財産に対する欲求を捨てたり他者との関わりから得られる喜びを後回しにしたりして、自分の心の平静をなによりも重視する生き方を選択することには、尻込みしてしまうところもあった。実際、同世代の友人たちにストア哲学の考え方について紹介しても、賛同が得られないことが多い。アーヴァインも、自分が教える若い学生たちがストア哲学の考え方を受け入れることを拒みがちである点について嘆いている。

ストア哲学には「老人のための考え方」という側面がどうしても存在するのだ。たとえば子どもの頃からストアの考え方を実践することができて、恋人や親友のことを想って心が揺さぶられることもなく、「自分が活躍して地位や名声を取得してやろう」という野心を抱くこともいちどもないまま生涯を過ごすことができた人が存在するとしても、そのような人生を羨ましいと思えて、「自分もそんな人生を過ごしたい」と考える人の数は少ないはずである。

幸福を得るためには感情が必要

先述したように、生物としてのわたしたちが抱く欲求は、生存と繁殖を目的として設計されたものであり、わたしたちが幸福になるか不幸になるかを考慮して設計されたものではない。財産や地位に対する欲求、あるいは性欲や食欲などの明らかに低次元な欲求を充たすことだけを目的として日々を過ごしてしまった場合には、たしかに、意味がなくて不幸な人生となってしまう可能性が高いだろう。

しかし、「自分の人生には意味がある」と確信を持って思えるようになるためには、生きていくなかで「自分はいま意味のある人生を過ごしている」という感情を抱くことが必要となるはずだ。そして、理性が戦略を駆使することで感情をコントロールできるとしても、無から有を生み出すことはできない。心の平静を保つだけであれば理性のみに頼ることもできるかもしれないが、幸福を得るためには、けっきょくは感情が必要となるはずなのだ。

心理学者のダグラス・ケンリックの著書『野蛮な進化心理学:殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』では、「人生の意味とはなにか」という問いについて、進化心理学の観点から説明することが試みられている。

ケンリックは、まず、マーケティングの分野などで有名な心理学者であるアルフレッド・マズローによる「欲求のピラミッド」の理論を持ち出す。

マズローは、人間の欲求を、飢えや乾きや身の安全などを求める「生理的欲求」、恋人や友人を求めたり世間における地位や名声などを求めたりする「社会的欲求」、そして自分の才能を発揮したいという「自己実現」への欲求とに分別した。ピラミッドの基底部にあるのは生理的欲求であり、頂点にあるのが自己実現への欲求だ。どんな人間であっても、まずは飢えや乾きが充たされたり自分の身の安全が保証されたりすることを必要とする。しかし、それらの欲求がいちど充たされると、その次には他者からの親愛の情や、社会からの承認がほしくなる。それらを得られたら、こんどは、自己実現を目指したくなるのが人間というものである……と、マズローは論じたのだ。

ケンリックは、マズローの描いたピラミッドを進化心理学の観点から補修した。補修されたピラミッドでも基底部にあるのは生理的欲求に変わりないが、ピラミッドの頂点にあるのは自己実現ではなく「子育て」となっており、その下には「配偶者の獲得」や「配偶者の維持」がある。マズローのピラミッドでは上部に位置していた社会的欲求や自己実現への欲求は、ケンリックのピラミッドでは中間部に移動されている。生物として見た場合の人間の究極の目標は「繁殖」である以上、社会的地位を得て財産を築いたり自己実現をして魅力のある人間になったりすることも、異性を惹きつけて一緒に子どもを養い続けるという目的のための手段にすぎないと見なせるからだ。

自己実現を頂点に据えるマズローのピラミッドが個人主義的なものであったのに対して、子育てや配偶者を上部に据えたケンリックのピラミッドでは、「他者との結びつき」に関する欲求の重要性が高く見積もられている。そして、ストア哲学の発想と類似点があるのは、明らかにマズローのほうであるだろう。生理的欲求に価値を見出すべきではないのはもちろんのこと、他者からの承認や地位などの社会的欲求も、「自分の力ではどうにもできないこと」であるから執着してはいけない。ストア哲学が「心の平静」を目標としていることとマズローが「自己実現」を頂点に据えていることも、他者に左右されずに自分の意思と能力に基づいて実現できるものを理想にしているという点で、共通している。

他者がいないと充たされない

その一方で、ケンリックのピラミッドの上部にある欲求は、他者がいないと充たされないものだ。ストア哲学の考え方に基づけば、充たされるかどうかが不安定であるから抑制されなければならない欲求である。しかし、ケンリックは、わたしたちが「人生の意味」や幸福を感じられるようになるためにはこれらの欲求を充たすことが欠かせない、と論じる。社会的な生物である人間にとっては、他者との結びつきや家族を築くことへの欲求は根深くて重要なものだ。それを充たすことができなければ、いくら心の平静を保てたり自己実現できたりしたとしても、人生には空虚さが残り続けるかもしれないのだ。

人間主義を標榜する心理学者たちは、ときとして、どう見てもひとりよがりとしか思えないほど個人的な現象を重視するーー世界の見え方がお気に召さないなら、考え方を変えればいい。つまり、何事も自分次第というわけだ。自身の心を見つめ、独自の考えにふけり、自分の好きなことをするのは、ある基準においてはけっこうなことだ。だが突き詰めていえば、人間はそのようにできてはいない。私たちはそこまで自己中心的じゃないのだ。また、周囲の人々と一線を画していると思っている場合でも、それは別に高次の存在になっているのではない。大人になっても他者の要求に気を配れない人は、実は自己実現ができているのではなく、病的な状態であるだけかもしれないのだ。

(ケンリック、2014、p.163)

理性を重視するストア派の哲学者たちであれば、セックスに対する欲求は低次のものとして一蹴して、価値を認めないだろう。しかし、ケンリックは、セックスをすることやセックスを通じて配偶者と関係を維持することや子どもを生み出すことと、自己実現や人生の意味などの高尚な物事に対する欲求は密接に関係している、と論じているのである。

 ライフステージに応じての実践を

では、実際のところ、どちらの側の言い分がただしいのだろうか?

いまのところ、わたしとしては、「時と場合による」としか答えられない。

先述したように、子どもや若者である時分からストア哲学を完璧に実践しようとすると、その人の人生は中心に空洞が空いたような虚しく不健全なものとなるはずだ。意味のある人生を送るためには、どこかの段階で、他者との結びつきを求めたり、自分ではどうにもならないことに対して欲求を抱いたりすることが必要となるはずなのである。

その一方で、歳をとって、ある程度の財産を蓄えて家庭も築いた段階になれば、欲求を抑制して心の平静を保つことの重要性は増していくはずだ。財産が欠乏している状態では人は不幸になるが、財産を蓄積すればするほど幸福になれるというものでもない、ということは経済学の研究などでもよく指摘されている。中年くらいになれば、必要以上に多くのものを得ようと欲求するよりも、たとえばネガティブ・ビジュアリーゼションを行うことでいま得ているものに満足して欲求を抑制したほうが、人生を有意義に過ごしやすくなるだろう。

なお、ケンリックも、人間の欲求はライフステージによって変動するということを指摘している。どんな人でも「繁殖努力」期である青年時代まではセックスに対する欲求が強くなるが、ある年齢を過ぎた頃から「子育て努力」期へと徐々に移行して、セックスそのものに対してではなく家庭を築くことに対する欲求のほうが強くなっていくのだ。もしかしたら、ストア哲学も、ライフステージに応じて実践するのがちょうどいいのかもしれない。繁殖努力期のあいだは魅力的な異性を獲得することや自分自身の魅力を増すことに向けて精一杯努力するべきであり、様々な欲求は努力に火をつけるガソリンとなるから無理に抑えるべきでないが、それらの欲求が無駄で重荷となってくるライフステージに差しかかってきたら、欲求に対するコントロールを徐々に強めていけばよいのである。

ただし、不遇な生い立ちであることや、自身の能力や魅力が根本的に不足していたりするなどの理由で、どれだけ頑張っても「配偶者の獲得」といったピラミッドの中間段階にある欲求すら充たせられないという人だって、世の中には多く存在しているはずだ。

そういう人たちについては、不利な境遇のなかで欲求を充たそうと無理に頑張るよりも、早い段階からストア哲学を実践したほうが、有意義な人生を過ごしやすくなるかもしれない。「自分の力ではどうにもできないこと」への切望はさっさと捨ててしまって、自分にも達成できることに集中したり、あるいは自分の境遇について考える際のフレーミングを変えたりすることで、ふつうであれば他人よりも不幸になるはずの人生でも幸福に過ごせる可能性が出てくるかもしれないのだ。

ただし、このように考えるとストア哲学は対処療法的な幸福論ということになるし、「負け組」のための幸福論ということになってしまいかねない。

そうでなくても、他者に振りまわされることを拒んで自分がコントロールできる範囲の幸福を強調するストア哲学の発想には、自閉的な雰囲気が付きまとう。わたしたちの多くは、自分の外部にある物事に対する欲求や希望を捨てて自分の内側だけに幸福を求めるというストア哲学の考え方に、多かれ少なかれ拒否感を抱くはずだ。

しかし、だれであっても人生のどこかの段階からは「心の平静」を目指したくなるということだって、また確かなはずなのである。人それぞれの事情や特性に合わせながらほどほどに実践するぶんには、やはり、ストア哲学は現代にも通じる有益な幸福論であることは間違いないだろう。

 

<参考文献>
ウィリアム・アーヴァイン(著)、竹内和世(訳)、『欲望について』、白揚社、2007年。
ウィリアム・アーヴァイン(著)、竹内和世(訳)、『良き人生について:ローマの鉄人に学ぶ生き方の知恵』、白揚社、2013年。
ウィリアム・アーヴァイン(著)、月沢李歌子(訳)、『ストイック・チャレンジ:逆境を「最高の喜び」に変える心の技法』、NHK出版、2020年。
ダグラス・ケンリック(著)、山形浩生・森本正史(訳)、『『野蛮な進化心理学:殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』、白揚社、2014年。

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記

 

第6回 フェミニズムは「男性問題」を語れるか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

マンスプレイニング、有害な男らしさ、家父長制

最近のフェミニズムの特徴のひとつは、男性に関する問題が取り上げられるようになっていることだ。

たとえば、「マンスプレイニング」という言葉がある。この言葉は「男(man)」と「説明(explain)」を合わせた造語であり、フェミニストであるレベッカ・ソルニットの著作『説教したがる男たち』によって広められた。「男性が、目の前の女性は自分よりも無知であると決めつけて、横柄で偉そうな態度で物事について解説する」といった行為を指す言葉である。マンスプレイニングという単語が流行することになったのは、ソルニットをはじめとする多くの女性たちに、「偉そうな男に、上から目線で説教された」という経験があるからだろう。

また、フェミニズムではこれまでにも「女性同士の連帯」や「シスターフッド」が重視されてきて、男性を介在させずに女性同士で支え合うことが理想化されてきた。それに伴い、最近では「男性同士のケア」の必要性も唱えられるようになっている。これまでの社会では男性が女性にケア役割を押し付けてきたが、女性たちが男性の元を去ってシスターフッドを育むのだとすれば、男性たちは自分たち同士でケアをしなければならない、ということだ。また、「男性同士のケア」は、自分に異性の恋人がいないことに孤独を感じて嘆き苦しむ男性への処方箋として提示されることもある。「親密に慈しみ合う関係は異性としか築けない」という発想は「異性愛規範的」だから捨ててしまい、男性は同性の友人と相互に配慮しあう関係を築いたり悩みや苦しみを打ち明けあったりする男性同士のコミュニティに参加することで、恋人がいないことによる孤独や苦しみから解放されるはずだ、と論じられているのだ。

そして、男性が女性に上から目線で説教したり、男性同士のケア関係を築けなかったりする理由として持ち出されるのが、「有害な男らしさ」である。フェミニズムによると、男性たちが女性に対して横柄な態度をとったり他人への配慮ができなかったりすることの原因は、社会がそのような振る舞いを「男らしさ」という美徳であると定義していることにある。男性たちは社会の規範にしたがって男らしい人間であろうとするが、その「男らしさ」とは、実際には本人に対しても周囲に対しても害をまき散らすものだ。そのため、男性は既存の「男らしさ」の呪縛から逃れて、他人に対して丁重に接したり他人をケアしたりするなど、これまでの「男らしさ」の定義からは外れた振る舞いをできるようにならなければいけない、とされるのである。

具体的な社会問題に関する議論でも、「有害な男らしさ」論が持ち出されることがある。たとえば、日本のみならず世界中の国々の大半では、自殺者の割合は女性よりも男性のほうが高い。原則として女性を被害者の側に位置付けて男性を加害者の側に位置付けるフェミニズムにおいては、女性よりも男性のほうが多くの被害を受けているように見える自殺の問題を説明することは難しい。しかし、「有害な男らしさ」論を持ち出せば、自殺の問題も説明してしまうことができる。「男性は一家の長として家族を養うべきだ」とか「男性は他人に対して泣き言を言ったり弱音を見せたりするべきではない」とかいった「男らしさ」規範が社会によって男性に押し付けられることで、男性は「高い社会的地位を維持しなければならない」というプレッシャーを常に感じ、つらい時にも友人や家族に相談したりカウンセリングを受けたりするという発想も持てなくなってしまうので、辛さに耐えきれなくなって、やがて自殺してしまう……という風に論じられるのだ。

社会によって女性たちに「女らしさ」が押し付けられて、彼女たちの振る舞いが抑圧されたりキャリアが制限されたりすることは、フェミニズムがずっと問題視してきたことである。「有害な男らしさ」論は、「女らしさ」論を男性の問題に転用した考え方だと言えるであろう。男女のいずれの問題にせよ、その原因は「らしさ」という規範を押し付ける社会にある、というのがフェミニズムの基本的な発想だ。

ただし、フェミニズムが想定する「社会」とは、男性たちが権益を独占して女性たちを搾取する「家父長制」のことである。男らしさにせよ女らしさにせよ、それらの規範は家父長制社会を効率的に機能させるために構築されるものであると見なされる。この議論においては、女性は一方的な被害者であるのに対し、男性は社会と共犯関係にあり、不当な特権を得ている加害者の側にいるとされる。そのため、たとえ「有害な男らしさ」が男性自身を苦しめていて自殺などの深刻な問題を引き起こしているとしても、男性の「被害者性」が手放しで認められることはない。一部の男性たちが「男らしさ」によって苦しめられているとしても、それは、女性たちに「女らしさ」を押し付けてケア役割などを担わせることでキャリアの自由などの利益を享受している男性たちが多くいるなかでの副作用に過ぎない、と考えられるのである。

「男性問題」に関するフェミニズムの議論は社会構築論を前提としているために、提案される解決策は、「男性は男らしさを自ら放棄すべきだ」というものであったり「女性が担わされているケア役割を男性が引き受けるべきものだ」というものであったりする。問題の原因が「らしさ」や「役割」という社会規範であるとすれば、そこから脱却すれば問題は解決するということだ。そして、ただ自分が社会規範から解放されるだけでなく、男性以上に社会規範に拘束されて苦しむ女性のことを助けられるような人間になれたほうが、より望ましいとされるだろう。

社会規範だけでは説明がつかない

現代では、「性別」が関わる問題といえばジェンダー論やフェミニズムの枠組みで語られることは、もはや当たり前になっている。

しかし、そもそも、男性問題はほんとうに「男らしさ」の規範によって引き起こされているのだろうか?

フェミニストの大半は、男らしさや女らしさには「自然」な要素があるかもしれない、という考え方を否定する。

だが、「役割」や「らしさ」が社会的に構築されるものであるとして、それらが具体的にはどのようなプロセスを経て内面化されるか、ということが説得的に示されることはあまりない。「学校や家庭における教育や、メディアやフィクションにおける表現などによって、性別に関する役割や規範が子どもの頃から刷り込まれて再生産される」と論じられることが多く、だからこそ、「ひとりひとりの個性を尊重する教育を行ったり、性役割に縛られない表現を増やしたりすること」などが解決策として提示されることになる。しかし、教育や表現を通じて個々人のなかで「役割」や「らしさ」はどのように構築されていくか、という過程についての具体的な説明には欠けているのである。

ひとりの男性としての自分の経験をふまえても、フェミニズムにおける「男性問題」論には、納得のいかないところが多い。「男性とは実際にはどのような存在であるか」ということに関する関心も分析も足りていない、地に足の着いていない議論であるように思えるのだ。

わたしはティーンエイジャーの頃からジェンダー論に興味を抱いており、文学や社会についてジェンダーやフェミニズムの枠組みで分析する書物をいくつも読んできた。漫画や映画などで描かれているステレオタイプ的な性別表現の問題点を指摘する議論にも触れてきたし、マッチョイズムを批判する「男性学」の議論にも目を通してきた。だから、わたしは人生の早い段階から、「男性役割」や「男らしさ」といった規範を相対化する視点を身に付けて、それにプレッシャーを感じたり呪縛されたりしないように生きていたつもりである。
また、1989年生まれであるわたしの周りの男性たちのことを考えてみても(20代後半から30代前半の人たちが多い)、社会規範としての「男らしさ」に縛られている人は少ないようだ。

そもそも昨今では社会の価値観が多様化しており、旧来の規範の影響力が減じているということがあるだろう。また、ジェンダー論の考え方が学校などで教えられるようになり、雑誌やテレビなどのメディアでも取り上げられる程度に普及したことで、すこし意識の高い人であれば、性役割を相対化する視点を多かれ少なかれ身に付けているものだ。

しかし、「男性役割」や「男らしさ」を相対化する視点を得て、その呪縛から解き放たれるようになっているはずの男性たちであっても、よくよく彼らを観察してみると、男性に特有の欠点や問題をやはり抱えているようなのである。

彼らは苦悩やつらさを他人に打ち明けることが苦手であるし、他人から悩みを打ち明けられたときにそれに共感して対応することも、多くの女性に比べると不得手だ。セルフケアを怠って、自分の身体や精神の健康にも気を遣わない人も多い。一見すると口調や物腰は柔らかであっても内心は競争的でプライドが高く、自分の地位や能力が他人に劣ってしまうことに我慢がならない人もいる。
フェミニストたちに言わせれば、「彼らは表面的には男らしさや男性役割から解放されているように見えるが、実際には、まだ、男らしさにとらわれたまま。性役割や性的規範とは、それだけ根深いものであり、知識を身に付けた程度で脱出できるものではない。必要なのは、家父長的な社会の仕組みそのものを変えることだ」ということにでもなるかもしれない。
だが、答えはもっと本質的なものかもしれない。男性たちが抱えている問題は、男らしさや男性役割のせいではなく、男性であることそのものから生じている。男性たちに一般的に備わっている生物学的な傾向こそが、「男性問題」のそもそもの原因であるかもしれないのだ。

 男女における生物学的な違いの傾向

フェミニズムからいちど離れて、発達心理学や進化心理学に目を向けてみると、男女の傾向に関する生物学的な説明を参照することができる。

男女の傾向の基本的な違いとは、男性は「モノ」に対する興味が強い一方で、女性は「ヒト」に対する興味が強いことだ。

たとえば、おもちゃ箱のなかに複数の種類のおもちゃが入っているとき、女性の赤ちゃんは人形やぬいぐるみなどの「人格」が関わるおもちゃを選ぶことが多く、男性の赤ちゃんはミニカーやボールなどの「物」らしいおもちゃを選ぶのが多いことは、よく知られている。普段は女性の赤ちゃんにミニカーを与え続けたり男性の赤ちゃんにぬいぐるみを与え続けたりしていても、両方のおもちゃからひとつを選ぶとなると、赤ちゃんたちは自分の性別に典型的なおもちゃを選ぶことが多いのである。

この傾向は、大人になってからも持続する。男性は抽象的な物事に関する関心が高い一方で、女性は具体的な物事に対する関心が強い。たとえば、大学に進学するときに専攻を決める際には、哲学や数学などの特に抽象的な学問では男性の比率が高くなる一方で、看護学や心理学などの人間が関わる学問では女性の比率が高くなるのだ。

男性の「対物志向」と女性の「対人志向」の背景には、男性の「システム化思考」と女性の「共感思考」との違いが存在する。発達心理学者のサイモン・バロン=コーエンの著書、『共感する女脳、システム化する男脳』における整理を見てみよう。

女性の脳は共感する傾向が優位になるようにできている。男性型の脳はシステムを理解し、構築する傾向が優位になるようにできている。(バロン=コーエン、p.10)

 「共感」とはほかの誰かが何を感じ、何を考えているのかを知り、さらにそれに反応して適切な感情を催す傾向である。相手が考えていることや感じていることをただ機械的に推測すること(これはマインドリーディングと呼ばれることがある)を共感とはいわない。推測するだけの能力ならサイコパス(反社会的な人格障害)と呼ばれる人々にもある。他人の感情が引き金になって自分の中にも何らかの感情が生じたとき、初めて共感するに至ったといえる。そしてそれは他人を理解したい、その行動を予測したい、相手と感情的な結びつきを持ちたいという動機で起きる感情的な反応である。(同上、p.11)

「システム化」とはシステムを分析、検討し、システムのパターンを支配する隠れた規則を探り出そうとする衝動や、システムを構築しようとする傾向を指す。システム化がよくできる人は物事がどのように機能しているのか、どのような規則に従ってシステムが動いているのかを直感的に見抜くことができる。そしてそれによってシステムに対する理解を深め、次の展開を予測し、あるいは新しいシステムを作り出す。(同上、p.13) 

また、男性は女性に比べて社会的地位に対する執着が強く、他人を支配しようと振る舞うことは、フェミニストもよく指摘することだ。この特徴の背景にもシステム化思考があり、さらには進化の歴史における男女間の繁殖戦略の違いが存在するのである。

ある行動を取れば地位を失い、別の行動を取れば地位が上がる。システム化にすぐれた者はその動きをつぶさに見て学ぶ。これは政治といってよいだろう。個人のレベルでいえば巧妙に立ち回って同僚より目立ち、競争に勝って昇進する(地位を上げる)ための駆け引きである。集団のレベルでは、部族内の力関係も政治なら、集団として領土を拡張することも、資源を巡って戦うことも政治といえる。

(……中略……)

人が常に社会的地位を気にするのは、それがダーウィンのいう「性選択」に結びついているためである。多くの種に共通することだが、特に霊長類ではメスが相手を選択することが多い(つまり、メスが選択の主導権を握っている)。子孫を生み、育てるのにメスが費やす時間と労力を考えればそれも当然だろう。男性は一度の性行為で数秒から数分かければすむかもしれないが、女性は妊娠期間だけでも九か月を要する。それでは女性はどのように相手を選ぶのだろうか。手がかりのひとつになるのが、社会的地位である。

その結果、男性にとっては高い地位に就くことが女性に近づく機会を増やすことになる。高い地位にあるということは健康な遺伝子を持ち、家族を養い、保護する能力も高いと考えられる。これまで述べてきたように、システム化にすぐれていれば高い社会的地位を得る可能性が高い。(バロン=コーエン、p.214-215)

 

男性は威嚇するだけでなく、力や地位を誇示することでライバルを圧倒し、女性を引きつけようとする。単なる腕力ではなく、社会的集団の頂点に登る能力が女性を引きつけるといえるかもしれない。この場合、共感傾向が強くないほうが誰かを殴ったり傷つけたりしやすい。そこまでいかなくても、競争で打ち負かしたり、自分にとって役に立たなくなった相手を見捨てたりするには、共感をあまりしないほうが都合がよい。

第4章で見てきたように、他者の感情を見分ける能力を調べると、たいてい男性は女性ほど成績がよくない。しかし、まっすぐ目を見てくる相手からの威嚇──社会的地位を奪われることを恐れている者にとっては重大な意味を持つ──を読み取ることや支配関係(男性どうしの争いの焦点)を読み取る感覚の鋭さでは男性は女性より成績がよい。これは、共感ではなくシステム化にすぐれていることを示すものだ。(バロン=コーエン、p.216)

男性の対物志向やシステム化思考に、女性の対人志向や共感思考という特徴は、バロン=コーエンのみならず、多くの心理学者が発見して論じていることだ。ただし、これらの議論 はあくまでも男女それぞれについての統計上の平均値に関するものであり、「すべての男性はシステム化思考をしており、すべての女性は共感思考をしている」ということが主張されているわけではない。また、システム化思考のほうが共感思考よりも優れている、という議論がされているわけでもないのである。

しかし、フェミニストたちは、「男女の心理や脳に関する特徴の違い」という議論と聞くと、「男性は優れていて女性は劣っている、と決めつけるための疑似科学に違いない」と頭ごなしに否定して、取り合おうとしないことが多い。バロン=コーエンは、フェミニストたちからの批判を意識しながら、以下のように書いている。

数十年前なら、男性と女性の間に心理学的な違いがあると言っただけで非難の的になっていただろう。六〇年代や七〇年代に広まっていたイデオロギーによれば、心理学的な性差など幻想に過ぎない、実際にあるとしても本質的なものではない、とされていた。つまり、性差とは男性と女性に根本的な違いがあるために生じるのではなく、文化的な力が働いて生み出されたものだという。しかし、その後数十年の間にさまざまな研究室で積み上げられてきた多くの研究の結果から、私は世に問うだけの本質的な違いが確かにあると考えるようになった。今日の知識から見ると、すべての性差が文化的な要因から生じるという旧来の考え方は現実を単純化しすぎている。(バロン=コーエン、p.25-26)

 男性同士のケアが難しい理由

さて、フェミニズムが指摘する「男性問題 」の多くは、男性の共感能力の低さや人に対する興味のなさ、権力や支配に対する執着などによって説明することが可能だ。

たとえば、自殺について研究しており自殺予防のためのカウンセリングなども行っている心理学者、トマス・ジョイナーの著書である、『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんひとりぼっち:男性の成功の高い代償)』では、「男性の自殺」という問題が一冊にわたって取り上げられている。ジョイナーは、「孤独」は人を自殺に至らしめる重大な要因であることを説明したうえで、男性の自殺率の高さの原因を男性は女性よりも孤独になりやすいという統計的な傾向に見出す。そして、ジョイナーの分析によると、男性が孤独になりやすい理由にはシステム化思考が関わっているのである。

人とのコミュニケーションに若い頃から関心を抱くことが多い女性たちとは違い、男性たちは対人スキルを訓練する機会を持たないために、学校を卒業した後になって新たに友人を作ることが不得手である。また、学生時代からの友人についても、女性は「友人との関係を維持しよう」と努力することが多い一方で、男性は連絡をしたり同窓会に出席したりすることを億劫に思うために、昔からの友人ともいつの間にか疎遠になってしまいがちだ。そして、仕事で活躍できる年齢になった男性は、 キャリアを追求するがあまりに友人や家族との関係を犠牲にしてしまう。これらの要素が重なることで、中年や壮年になった男性は、社会的地位を得た代わりに家族との関係が悪化してしまい、昔からの友人も誰も残っていない、「てっぺんでひとりぼっち」の状態になる。こうして孤独になる男性が多いという事実が、男性の自殺率の高さを説明する……というのが、ジョイナーの議論のあらましだ。

そして、ジョイナーは、男性は共感能力が低いために他人に対する配慮ができない、とも論じている。たとえば、姉や妹がいる人は、当人が男性であっても女性であっても、「自分は不幸である」「自分には頼れる相手がいない」という感情を抱くことが他の人たちより少なくなる。しかし、兄や弟は、妹や姉のようにはきょうだいの心の支えとならない。同じことは友人関係にも当てはまり、友人が離婚や病気などつらい目にあったときの対応をみると、 相手の感情を考慮しながら適切に慰めたり励ましたりできる女性が多いのに比べて、男性は友人がつらい目にあっていてもどう対応すればいいかわからずに戸惑ってしまうことが多いのだ。

この現象は、「男性同士のケア」が難しい理由の説明にもなるだろう。フェミニストが指摘するように、 男性たちは、同性の友人にではなく家族や恋人の女性に対してケア役割を期待することが多いようである。しかし、その理由は、「ケア役割は女性がするものだ」という規範が社会によって構築されているから、とは限らない。おそらく、多くの男性は同性の友人たちと普段から関わっているからこそ、「周りの男たちには、自分が苦しんでいるときや傷付いているときに配慮をしたり慰めたりしてくれることは期待できない」と考えているのであろう。

 マンスプレイニングと「共感の障害」

「マンスプレイニング」という現象について考えるうえでも、バロン=コーエンの議論は参考になる。

バロン=コーエンによると、自閉症の人やアスペルガー症候群の人は、「システム化」思考が平均的な男性よりもさらに顕著である、「極端な男性型の脳」の人である。彼らの思考の特徴とは、以下のようなものだ。

このような人びとはまず、どんな問題でも自分で解決しようとする。いつも頭の中は目の前にある物やシステムでいっぱいで、ほかの人が何か知っているかもしれないと考えてみるようなことはない。これが極端な男性型の脳を持った人びとである。

(……中略……)

この人びとに、誰かがあることを考えているかもしれない、感じているかもしれない、という推測や客観的事実とはいえない話題を持ち出しても、何の興味も示さない。それどころか避けようとする。そのようなことを事実として知ることは不可能で、確実に予測することはできないからだ。(バロン=コーエン、p.233)

 

自閉症は共感の障害といえる。自閉症の人は「マインドリーディング」を行うことが著しく困難である。つまり、他人の立場に身を置いて、その人の目には世界がどう見えているかを想像することができず、相手の感情に対して適切な反応をすることもできない。私は以前書いた本の中で、自閉症の人を「マインド・ブラインドネス(心が見えない)」状態にあると表現した。(バロン=コーエン、p.239)

これらの特徴は、システム化思考が極端になった場合に生じるものではある。だが、自閉症やアスペルガー症候群と診断されるほど極端でない場合にしても、システム化思考が顕著な人たちは目の前の人に対して共感をはたらかせることが苦手である、ということを示してもいるのだ。

「自分がこんなこと言ったら、相手はどう思うか」「今から自分がはじめようと思っている話題については、相手にも考えや意見があり、不用意に自分の意見を開陳してしまうと相手に不快感を抱かせてしまうかもしれない」などといった配慮をはたらかせるためには、共感的な思考をおこなうことが必要となる。そして、それができない人の言葉は、相手からはハラスメントや「上から目線の説教」であると感じられてしまう可能性が高いのだ。

フェミニズムによれば、男性がマンスプレイニングを行うことは、彼らが「女性は男性よりも無知で劣った存在だ」という偏見を抱いていたり「男性が女性に対して下手にでることはみっともないことである」という社会規範を内面化していたりすることが原因である、とされる。しかし、実際には、マンスプレイニングを行う男性はただ単にマインドリーディングができておらず、「自分が説明しようとする知識を、相手が知っているかどうか」ということに考えをめぐらしたり「自分がいまから発しようとしている言葉で、相手はどんな感情を抱くであろうか」ということを予測して察したりすることができないだけ、であるかもしれない。

「有害な男らしさ」への新たな視座

現代の欧米諸国では、フェミニズムの主張は社会に浸透しており、制度における性差別は過去に比べると大幅に改善されて、法律や各種の規約などにおいても男女平等の理念が明示されるようになった。だからこそ、近年では、メディアにおける表現や日常的なコミュニケーションなどの曖昧な領域に存在する男女差別が注目されるようになっている。同様の傾向は、男女差別に限らず人種差別などの問題についても存在している。その結果、差別的な用語を使っていない発言や表現であっても、文脈や社会的な事情をふまえると特定の属性の人々の尊厳を傷付けたり不愉快にさせたりするようなものである場合には差別的であるとみなす、「スピーチ・コード(会話に関する規範)」が発展したのだ。最近になってマンスプレイニングが取り沙汰されるようになったことも、この傾向の一環であろう。

しかし、システム化思考を行う人にとっては、自分のどのような発言や振る舞いが相手を傷付けるかを予測することは難しい。差別とされる用語や表現があらかじめ明示されている場合には、それらを用いないようにすることはできるが、文脈や社会的な事情などの「空気」を読むためには、共感的な思考が必要とされるのだ。このことをふまえると、自身がアスペルガー症候群である進化心理学者のジェフリー・ミラーが発表した「ニューロダイバーシティと言論の自由」という論考には一読の価値がある。性や人種の「多様性」を考慮するために発言や振る舞い方などに関するルールが複雑で曖昧になっていくことは、アスペルガー症候群や自閉症を持つ人たちを排除する結果をもたらすために「脳神経特性の多様性」に反している、とミラーは主張するのだ。

先述したように、男性の思考がシステム化に偏っており女性の思考が共感に偏っているということは、あくまでも統計的な平均値の話に過ぎない。他人に対して共感することが得意な男性もいれば、物事をシステム化して考えることが得意な女性もいる。そして、マンスプレイニングはシステム化思考が要因となっていると考えれば、男性に比べると少数であるが「上から目線の説教」を行う女性がいることについても、容易に説明が付く。

マンスプレイニングという言葉は、男性たちからの説教を受けた側である女性たちが考案したものだ。「上から目線の説教」は女性よりも男性のほうに顕著である、という点では、彼女たちの考えも正しいだろう。しかし、「男性に顕著である」ことは「男性に特有である」ことを意味しない。また、マンスプレイニングという現象についての議論は、説教を受けた側からの視点によって語られることが多いために、「マンスプレイニングを行う側である人は、実際のところ、どのような理由でそのような行為をしたのか」ということについての検討がなおざりになってしまいがちなのだ。

 社会規範だけでなく生物学的な議論も

男性が引き起こす個別の問題についてフェミニズム的な問題意識や社会構築論を前提にせずに具体的に検討していくと、社会の構造や規範のみならず男性の心理や思考に関する生物学的な特徴も問題の一因となっていることは、否定できないように思える。

そうなると、「有害な男らしさ」についても、これまでとは違った視点から考えることが可能だ。フェミニズムやジェンダー論では「男らしさ」とは社会的に構築される規範とされるが、システム化思考の特徴と「男らしさ」の具体例は、かなりの部分が重なっている。そして、「有害な男らしさ」とはシステム化思考の特徴のうち本人や他人に対して害を与えたり迷惑をかけたりするもののことである、と見なすこともできるだろう。

「男性問題」に目を向けるようになったフェミニズムでは、母親としての立場から、「男の子が有害な男らしさを身に付けないようにするためには、どう教育すればいいか」ということについても議論されるようになった。そのなかでも代表的な著作が、レイチェル・ギーザの『ボーイズ  男の子はなぜ「男らしく」育つのか』である。しかし、フェミニズムの通例にしたがって、この本のなかでも男女の特徴に関する生物学的な議論は「無視されるべきもの」であるかのように扱われていた。

マンスプレイニングに関する議論を展開したソルニットにせよ、有害な男らしさに関する議論を展開したギーザにせよ、彼女たちは男性問題について語りながらも、「実際には、男性とはどのような存在であるか」ということに対する関心は希薄であるようだ。フェミニズムおける「男性問題」論は、男性に向けてではなく、フェミニストとして問題意識を共有する女性に向けて語られている側面が強いようなのである。

どうやら、フェミニズムが「男性問題」について論じているからといって、その議論が参考になるものであるとは限らないようだ。生物学的な要素を無視して社会構築的な要素を強調するという偏向や、女性の立場からの問題意識が議論に混入しているために、問題の原因に関する冷静で正確な分析が行われているとは期待しがたいのである。そして、原因に関する分析に間違いがあれば、提案される対処法も自ずと的外れなものになる。

ただし、「男性問題」が存在すること自体を指摘して、問題が解決される必要性を論じたという点では、フェミニズムにもたしかな功績があるかもしれない。男性のなかには、マンスプレイニング的な行為をした経験があって反省していたり、自分が思わぬところで女性を傷付けたり不愉快にさせたりすることを避けたいと思っていたりする人もいるだろう。また、自分が他人に対して十分な配慮や気配りができていないことや、女性の恋人や家族にケアを一方的にしてもらっていることを自覚していて、居心地の悪い思いをしている男性もいるかもしれない。フェミニズムの議論に触れることで自分のなかの「有害な男らしさ」を発見して、なんとか対処したいと考える男性もいるだろう。

だが、男性が自分の問題に本気で対処するためには、フェミニズムやジェンダー論とは異なる視点も必要となるかもしれない。社会的な規範や家父長制が自分の言動に与える影響について考慮するのもいいだろうが、それと同時に、「自分はシステム化思考に偏っており、共感思考に欠如しているのではないか」という可能性についても考えてみるべきなのだ。 規範や制度などの「外」にある問題だけでなく、思考の傾向やパーソナリティなどの「内」にある問題にも目を向けたほうが、有意義で実践的な結論を得られやすいはずである。

 

〈参考文献〉

サイモン・バロン=コーエン(著)、三宅真砂子(訳)、『共感する女脳、システム化する男脳』、NHK出版、2005年。
レベッカ・ソルニット(著)、ハーン小路恭子(訳)、『説教したがる男たち』、左右社、2018年。
レイチェル・ギーザ(著)、冨田直子(訳)、『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』、DU BOOKS、2019年。
Joiner, Thomas. Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success. Palgrave Macmillan.2011.
Miller, Geoffrey. Virtue Signaling: Essays on Darwinian Politics & Free Speech. Cambrian Moon.2019.

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記