第3回 「権利」という言葉から距離を置くべき理由

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

わたしたちは、社会問題や道徳が絡む問題を考えるときに「権利」や「人権」という言葉を用いることが多い。

権利という言葉は、契約に関する場面などでは「義務」とセットで用いられることもある。しかし、社会問題や道徳問題においては、権利という言葉は「絶対に守られるべきであり、それが侵害されるという時点で道徳的に不正な状況が発生している」ものとして用いられることが多いようだ。このような考え方は、法哲学においては、「切り札としての人権」論と呼ばれるらしい。

そして、世の中にはまさに「不正」であるとしか言いようがない状況がある。そのような状況に対しては、「人権が侵害されている」という言葉が問題なく当てはまるように思える。

たとえば、アメリカの警察による無実の黒人市民の射殺、中国政府によるウィグル人の弾圧、東京入国管理局における難民の虐待などだ。これらの事態では、力のない弱者や市民の人権が公権力によって侵害されていることは明白である、と多くの人が認める。それらよりは規模が小さくなるが、通り魔や強盗殺人、強姦などの性暴力、親による子どもの虐待などにおいても、その被害者の人権が侵害されていることを大半の人は認めるだろう。

アメリカの警察当局や中国政府や日本の入管当局など、権利を侵害していると批判されている側であれば、批判されている行為や状況を自分たちが発生させた理由をくどくどと述べて、「人権侵害には当たらない」と反論しようとするかもしれない。それぞれの国における保守的・右翼的な政治家や市民たちの多くも、その主張に同調するだろう。しかし、該当の国の外に住んでいる人や、国内でも「自国のやることはなんでも正しい」と思っているタイプの人でなければ、政府側がいくら言い訳しようと耳を貸さずに「この状況は人権侵害だ」と判断するはずだ。政府と同じように通り魔や強姦魔や虐待親にも、自分の行為を正当化するための言い分があるかもしれない。しかし、彼らが自分の行為をいくら正当化したところで、部外者の目から見れば、状況が「不正」であることは議論の余地なく明白であるのだ。

権利と権利はしばしば対立する

一方で、誰かが「権利が侵害されている」と訴えてはいるが、その状況が「不正」であるかどうかはただちには言えない、という状況も存在する。当事者たちの間で、それぞれ異なる権利が対立している場合だ。

たとえば、公共の場に掲載されていた性的な要素の強いイラストが市民の批判によって撤回された、という場合だ。イラストの作者やその支持者は、「表現の自由の権利」が侵害されている、と訴えるだろう。しかし、撤回を要求した市民も、「女性が性的なモノとして表現されない権利」や「女性が公の場で環境的セクハラを受けない権利」などを主張しているのだ。この場合、イラストが撤回されたことで前者の権利が侵害されたが、後者の権利は救済された。撤回されずにイラストが残ったままであった場合には、状況は逆になっていたのである。

禁煙運動に対して「自由にタバコを吸う権利」を標榜して反対している人がいるが、彼らの権利は他の人々の「受動喫煙の被害にあわない権利」と対立する。コロナ禍においては「マスクをつけない権利」や「行動を制限されない権利」が、「感染症をうつされない権利」や「安全な社会に暮らす権利」と対立していると言えるだろう。

また、妊娠中絶の問題の背景には、「選ぶ権利」を訴える女性たちと、胎児の「生きる権利」を胎児に代わって訴える市民や宗教家たちとの論争の歴史がある。そして、宗教的な理由によって自分の子どもが病院で輸血を受けることを拒否する人は、子どもの「適切な治療を受ける権利」を侵害しているとの批判に対して、「信仰の自由の権利」を訴えるはずだ。

人によっては、これらの事例についても、「表現の自由は絶対的なものであり、どんな理由があろうと表現が撤回させられることは不正なことだ」とか「胎児には成人と同等の権利が存在しないことは自明であり、女性の選ぶ権利は常に胎児の生きる権利より優先される」とか言い切ってしまうことができるだろう。

しかし、大半の人々はそうではない。各問題で対立している権利の両方について理解を示して、それぞれの側の言い分のどちらにも「もっともらしさ」を感じる。そして、どちらの権利が優先されるべきか、ただちに言い切ることはできないはずだ。

政府や当局による弾圧や暴力犯罪などが不正であることに議論の余地がないのとは違って、権利と権利とが対立する問題には、議論の余地がたっぷり残っているのである。

議論の余地がない事例では、政府当局や加害犯が自分たちの行為を正当化するためにどんな理由を並べたとしても、「でもあなたたちは人権を侵害しているのであり、その行為は認められない」と言って、彼らの主張を拒むことができる。「弾圧する権利」や「加害する権利」を普通の人にも納得のいくような理屈で主張することは、おそらくほぼ不可能だ。そこでは権利と権利が対立する事態は起こっていないのであり、トレードオフは発生しておらず、バランスをとったり利害を調整することを考慮する必要はない。ただ、「不正な行為を止めろ」と要求するだけでいい。

このような事例においては、「権利」という言葉が担うべき役割が正しく発揮されているように思える。

一方で、権利と権利が対立する事態では、トレードオフが発生している。どこかでバランスをとったり利害を調整したりすることが要求されるはずだ。対立する当事者のうちのどちらかの権利を守る代わりに、どちらかの権利が侵害されることを許容しなければいけない。あるいは、両方の当事者の権利に一定の制限をかけたところに、利害のバランスが一致する妥協点のようなものがあるかもしれない。いずれにせよ、このような事態では権利は絶対的なものではなくある。権利がなんらかのかたちで侵害されたり制限がかけられたりしたとしても、その状況が「不正」であるとは限らなくなるからだ。

そして、権利が絶対的なものでなくなるとしたら、代わりとなる「基準」が必要になる。どちらの権利を優先するべきか、権利に対する制限はどのようにかけるべきか、というトレードオフを考える段階になったなら、もはや「権利」という発想に頼ることはできなくなるのだ。

権利同士の対立を解決する功利主義

「権利」を相対化して、権利と権利との間の対立を別の基準を持ち込むことによって解決する発想のなかでも代表なものが、「最大多数の最大幸福」を重視する功利主義である。

功利主義にかかれば、権利と権利が対立する問題も、「どうすれば幸福を最大化できるか」という問題に還元される。当事者たちのうち片方の権利を優先した方がより多くの幸福が生み出せることが自明であるなら、そうするべきだ。どうあがいても誰かが不利益を被る状況であるが、当事者の両方の権利にほどほどの制限をかけることで生じる不利益が最小化されるなら、そうするべきである。

功利主義に基づいて考えようとすると、幸福をどうやって計算するか、特定の権利を制限することで生じる長期的な結果や二次的な結果などについてはどこまで考慮するべきか、などの様々な難問が新たに生まれることはたしかである。しかし、少なくとも権利同士の対立を解決する道筋は明確になる。権利だけに基づいて考えると、「権利は絶対に守られるべきだ」という発想に縛られてしまうために、ジレンマに対処できない。しかし、功利主義であれば、“なぜ”権利は守られるべきかということから考えて、権利の先にあるものに目を向けることで、トレードオフに対処することができるようになるのだ。

というわけで、権利同士が対立する、「議論の余地のある」問題に対処するうえでは、功利主義は有益である。しかし、功利主義の発想を敷衍すると、「議論の余地のない」問題においても権利が相対化されて、人権侵害が容認されかねない。

「最大多数の最大幸福」が実現できるのあれば警官が黒人市民を射殺することも政府がウイグル人を弾圧することも当局が難民を虐待することも認められる、ということになってしまうのではないか? 倫理学者を含む多くの人々が功利主義を批判して否定する理由はいくつか存在するが、おそらく最大の理由は、「功利主義は場合によっては基本的人権の侵害すら容認する」というものであるだろう。

しかし、功利主義を批判したところで、権利同士が対立した時のジレンマをどうするかという問題は残り続ける。そして、功利主義の創始者であるジェレミー・ベンサムをはじめとして、18世紀から現在に至るまで、功利主義者たちは「権利」について批判的に論じ続けてきた。彼らの主張にも、耳を傾ける価値があるはずだ。

今回は、功利主義において「権利」がどう論じられるかを示すために、功利主義に書かれた本のなかでも比較的最近のものである、ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』を紹介しよう。

「共有地の悲劇」を回避するために

グリーンは、哲学者であると同時に、実験心理学や神経科学を研究する心理学者である。『モラル・トライブズ』にも彼のこれまでの研究が反映されており、道徳に関して人間が抱いている心理はどういうものであるかという事実に関する主張が展開された後で、その心理学的知見を前提としながら「我々は道徳の問題をどのように考えるべきか?」という規範的な主張が論じられる、という構成になっている。

ただし、注意するべきは、グリーンは「道徳に関する人間の心理はこうなっているから、道徳に関する理論もそれに従うべきだ」とは論じていないことだ。むしろ、彼の主張はその逆である。「道徳に関する人間の心理には欠点や限界があるからこそ、道徳に関する理論は、心理的な反応に左右されない理性的なものでなければいけない」という主張が展開されているのだ。

グリーンによると、道徳に関して人間が持つ様々な心理や、世界各地の社会でそれぞれに発展してきた道徳や規範に関する慣習や制度は、元々は「共有地の悲劇」を回避するために進化してきた。共有地の悲劇とは、集団に属する個人たちが合理的に自分の利益を追求してしまうと、結果として集団全体にとっては不利益が生じたり集団が破滅したりしてしまう、という状況のことを指す。このような状況では、個人は自分の利益を追求することを留めて、他人と歩調を合わせて「協力」を行うことを選択しなければならない。

「私」の利益と「私たち」の利益が対立するジレンマが起こったときに、「私たち」の利益を優先させるように促すのが、道徳の持つ機能である。「道徳という一連の心理的適応のおかげで、本来は利己的な個体が協力の恩恵にあずかることができる」 (p.30)。

協力に役立つ道徳感情のなかには、共感、感謝、許し、忠誠心、謙遜、高潔さ、畏怖、義憤といったポジティブなイメージの強いものがある。一方で、怒り、嫌悪感、復讐心、羞恥心、罪悪感、他人に対する厳しさ、ゴシップ、自意識、恥じ入り、部族主義、処罰感情などの一見すると道徳的であるとは思えない感情も、実際には、集団内での協力を成立させる機能を持っている。ポジティブなものにせよネガティブなものにせよ、これらの感情は自己利益の追求を抑制して他の人と協力するように私たちを促すか、協力せずに自己利益を追求している他人を非難したり処罰したりするように私たちを誘導するのだ。そして、宗教や伝統を通じて集団内に共有されてきた慣習や制度は、これらの道徳感情の役割を補強するのである。

また、道徳感情は他の情動と同じように自動的に機能する。共感や感謝にせよ、怒りや嫌悪感にせよ、「このような気持ちを感じたいから、感じよう」と思って感じられるものではない。それらの感情を引き起こすトリガーとなる出来事や状況に触れることで、本人の意思とは関係なく、情動が発生するのだ。

道徳の「オートモード」と「マニュアルモード」

グリーンは、ダニエル・カーネマンが『ファスト&スロー』で展開した「二重過程論」を下敷きにしながら、道徳感情のことを「オートモードの道徳」と呼んでいる。

情動は自動的なプロセスであり、行動の効率性を上げるための装置なのだ。カメラのオートモードのように、情動は、一般に適応的な、何をすべきかについての意識を必要としない行動を生み出す。そしてカメラのオートモードのように、環境からのインプットを行動としてのアウトプットにどう対応させるかという情動反応の設計は、過去の経験という教訓を組み込んでいる。(p.176)

対処すべき問題が「集団内」のものである限りは、オートモードの道徳はうまく機能する。集団の構成員たちを互いに協力するように誘導したり、他人を出し抜いて自分だけ利益を得ようとするフリーライダーの存在を突き止めて処罰を行わせたりすることができるからだ。集団内のジレンマについては、感情ではなく理性に基づいて計画的・打算的に判断しようとする人の方が、不適切で誤った行動にたどり着いてしまいやすいのである。

しかし、オートモードの道徳が有効に機能しない場合もある。それは、集団内ではなく集団間における対立、「私たち」と「彼ら」との利益が衝突する場合だ。

道徳感情の一種でもある部族主義は、「私たち」の範囲内に含まれる人に対する配慮を促す代わりに、その範囲の外にいる人たちに対する冷淡さや敵対意識をもたらしてしまう。

また、「人はどの程度まで自己利益を求めることが許されるべきであり、どの程度まで集団のために協力を行うことが求められるべきか」というバランスについては集団によって慣習的な規範が異なり、個人主義に偏っている集団もあれば全体主義に偏っている規範もある。どのようなものをタブーとするか、どのような行為が罪でありそれに対してはどれほどの罰が与えられるべきか、どんな神を信じるかということも、集団によって異なるのだ。

異なる集団同士が出くわす状況とは、部族主義や価値観の不一致によって、そもそも対立が生じやすい状況である。そして、グローバル化や国内での多様性が発展している現代では、異なる集団同士が衝突する状況がかつてなく増えている。

感情に基づいたオートモードの道徳は、あくまで集団内のジレンマを解決するために発展したものであり、集団間のジレンマを対処する役には立たない。むしろ、オートモードの道徳は部族主義を加熱させて問題を悪化させてしまう可能性が高い。そのため、集団間の問題に対処するためには、感情ではなく理性に基づいた、マニュアルモードの道徳が必要とされる。マニュアルモードはオートモードに比べて効率性が低い代わりに、自動的な反応に頼らずに問題についてじっくり分析して適切な対象方法について考えることを可能にする、柔軟性の高いモードであるからだ。

マニュアルモードの道徳にも、いくつかの候補がある。「権利」に基づく発想のほか、神の教えから答えを見つけようとする方法、数学の定理を証明するように道徳的真理を証明しようとする方法、科学的事実に基づいて道徳を証明しようとする方法などだ。しかし、グリーンは、これらのいずれの方法も問題があるものとして否定する。

そもそも、グリーンが求めているのはあくまで「違った価値観を持つ異なる集団が衝突して、道徳に関する問題について争っているときに、問題に回答を与えて解決するための道徳とは何か」という、実用主義的なものとしての道徳だ。倫理学者の多くは「道徳的真理」が存在することを論じようとしたり、またはそのような真理が存在しないことを証明しようとしたりするが、彼の関心はそこにはない。

そして、実用主義の観点からグリーンが選択する道徳が、功利主義なのである。

「メタ道徳」としての功利主義

功利主義であれば、すべての問題を、それが人々の「幸福」にいかなる影響を与えるか、という問題に落とし込んで論じることができる。問題について異なる対処法が提案されているときには、それぞれの対処法が人々の幸福に対してどのような影響が与えられるか、という「結果」の予測に基づいて判断することができるのだ。そして、どれだけ直感に適していたり特定の部族の慣習に沿っている提案であっても、それが人々の幸福に芳しくない影響を与える結果が予測されるなら、その提案は却下されることになる。功利主義は、異なる対処法の良し悪しを測って、より優れた方を選択することのできる基準となるのだ(そのため、グリーンは功利主義のことを「メタ道徳」や「共通通貨」とも呼んでいる)。

功利主義は道徳に関する様々な直感や慣習に反しているために、感情的には支持されにくい。

しかし、どんな集団に属する人であっても、理性を用いて「なにが大切なのか」「なにを重視するべきなのか」ということを冷静に考えてみれば、大半の人は功利主義を支持するであろう、とグリーンは論じる。

彼は思考実験として「押すと、自分が骨折することを避けられるボタン」「押すと、誰かが骨折することを避けられるボタン」「押すと、誰かが骨折することを避けられる代わりに別の誰かが蚊に刺されるボタン」「一人の骨折を避けられるボタンAと十人の骨折を避けられるボタンB」などの問題を提示して、ごく一部の冷淡な人やサイコパスを除けば、どんな集団に属する人であってもボタンを押す(最後の問題ではボタンBを押す)であろう、と予測する。自分が慣れ親しんでいる慣習や制度がどのようなものであろうと、マニュアルモードを用いれば、自分だけでなく他者の幸福についても配慮できるうえ、「結果」や「数」を考慮した結論を下すことができるはずであるからだ。

まず、私たちは、他の条件がすべて等しければ、少ない幸福より多い幸福を好み、それは自分たちだけでなく他者に対してもあてはまることをはっきりさせた。次に、他者について考えるときは、個人の幸福の多寡だけでなく、影響を受ける人数の両方を考慮に入れ、すべての個人の幸福の総和を気にかけることをあきらかにした。他の条件がすべて等しければ、私たちはすべての人の幸福の総和が増すことを好む。(p.254)

功利主義を理解するには、第二部で説明した二重過程の枠組みを思い出す必要がある。私の考えが正しければ、功利主義は、人間のマニュアルモードに本来備わっている哲学であり、功利主義への反発は、どれも突き詰めればオートモードに由来する。功利主義が誰にとっても理にかなっているのは、すべての人にほぼ同じマニュアルモードの機構が組み込まれているからだ。という訳で、功利主義だけが、私たちのメタ道徳にふさわしく、かけがえのない共通通貨を与えてくれる。(p.257)

しかし、先述したように、功利主義に対する最大の批判は「最大多数の最大幸福が達成されるのであれば、功利主義は場合によっては基本的人権の侵害すら容認する」というものである。この批判のなかでもとりわけ有名なものが、ジョン・ロールズによる「功利主義は奴隷制を原理的に否定することができない」という議論だ。

この問題に対して、グリーンはどう答えているか? 彼は、「奴隷制度によって奴隷にもたらされる不幸が、奴隷主や他の人たちが得られる幸福を上回ることは有り得ない」と論じる。そして、功利主義に対する反論を以下のようにして退けるのである。

……さしあたって重要なのは、現実世界の功利主義は、批判者たちがいうような、奴隷制度のようにあきらかに不当な社会的取り決めにつながるものではないということだ。あなたが、功利主義について原理的に何をいおうと、 実際問題として、世界を可能なかぎり幸福にすることは抑圧につながらない。(p.373-374)

この主張は、倫理や道徳についての哲学的な議論としてみれば、かなり逃げ腰で不十分なものであるだろう。功利主義に対する批判者を納得させることも、難しいものであるように思える。

しかし、先述したように、グリーンが功利主義を支持するのはそれが道徳的真理を明らかにするからではなく、問題に適切な対処を行うための実用主義的な理由からだ。そのため、原理的にではなく実際的には功利主義がどのような判断を行うかということや、代替案となる他の理論と比べれば最善の選択肢であるということの方が、重要なのである。

なぜ「権利」から距離を置くべきか

以上、オートモードの道徳とマニュアルモードによる道徳の二重過程論、そしてマニュアルモードの最善の選択肢としての功利主義、というグリーンの主張を紹介してきた。

そろそろ、この記事の本題に戻ろう。なぜ、「権利」という言葉から距離を置くべきなのか?

「権利」という言葉を用いた議論自体は、功利主義と同じように、マニュアルモードによるものである。

しかし、功利主義は、マニュアルモードを「客観的で公平な立場から、道徳的な問題に対処して、解決する」という目的で使用した場合に辿り着く理論だ。一方で、権利を用いた議論は、「主観的な感情を、客観的で公平に聞こえる言葉で正当化する」という目的でマニュアルモードを使用した場合に陥るものであるのだ。

……道徳家として論争しているときの私たちは、主観的感情を客観的事実の認識として提示できるために、権利と義務の言い回しが大好きだ。私たちが、権利と義務の言い回しを好むのは、主観的感情が、「そこに」あるものの心像であるかのように(実際にはそうでなくても)しばしば感じられるからだ。

……(中略)……

ある人にある権利があると言うとき、あなたは、その人に指が一〇本あるという事実のように、その人が所有するものについての客観的事実を述べているように見える。

私が正しいならば、権利と義務は、とらえどころのない感情を、理解し操作できる、より物体めいたものに変換する、マニュアルモードの企てなのだ。マニュアルモードはもっぱら、行為、出来事、そして、それらを結ぶ因果関係といった外界の物質的な事物を処理するために存在する。であるなら、マニュアルモードの本来の概念体系は、具体的な「名詞」と「動詞」の概念体系である。それでは、オートモードの出力である、どこからともなく湧きあがる謎の感情を、どう理解すればよいだろう?それさえなければ完全に理にかなっていそうな行動に異議を申し立てる(もしくは、それさえなければ選択の余地がありそうな行動を命じる)謎の感情のことだ。答えはこうだ。オートモードは、こうした感情を外部にあるものの心像として表象している。感情が名詞化されるのだ。なされるべきではないと言う不定形の感情が、「権利」と呼ばれる……(中略)……現実のものの心像としてイメージされる。(p.404-406)

つまり、権利という言葉は、わたしたちの内側にある感情に、実在する物体であるかのようなもっともらしい表現を与えたものであった、ということだ。

功利主義と比べると、権利に基づいた議論には様々な難点が存在する。

まず、功利主義なら、問題に対する対処法を証拠に基づいて評価することができる。ある対処法が問題を解決することに成功したか失敗したかは、その対処法が人々の幸福を促進させたかどうかで測れば、実証することができるのだ。もし、誰かがオートモードの感情を功利主義的な理屈で正当化しようとした場合にも、「その主張に従っても、人々の幸福を増やすという結果をもたらされない」ことが示せれば、その主張を退けることができる。功利主義的な主張には反証の余地があり、そのために、感情の正当化として濫用されることを予防することができるのだ。

しかし、権利に基づいた主張は、証拠によって評価することはできない。また、「現時点では、どの人がどの権利をもつのかをあきらかにする方法のうち、循環論法でないものはない」(p.407)。その主張がどれだけ理性的で論理的に聞こえようとも、権利に訴えるということは、自分たちが大切だと思っている物事を根拠なしに押し付けているに過ぎないのである。

また、功利主義は、私たちの意識の外側にある「結果」をも考慮に入れる。そのために、ある社会ですっかり定着していて常識とされている慣習や制度についても、それが引き起こしている結果を冷静に見つめ直すことで問題の存在を発見して、異議を唱えることが可能になるのだ。創始者であるベンサムやJ・S・ミルの時代から、功利主義は奴隷制度に反対して、女性を男性と平等に扱うことを求めて、同性愛者に対する差別を非難して、さらには動物に対しても道徳的に配慮する必要性を説くことができた。功利主義者は権利を批判するとはいえ、現代の社会に定着している「権利」 の多くは、功利主義者たちによって発見されてきたものであるのだ。

一方で、「権利」という発想だけに頼る人は、すでに制度的に認められている権利ばかりを重視してしまい、法律などで権利が制定されていない存在に対しては目を向けられなくなってしまうおそれがある。18世紀にアメリカやフランスで採択された「人権宣言」が、女性の権利も、白人以外の人々の権利も考慮に入れていなかったことは象徴的だ。現代においても、動物の権利運動は、「肉を食べる権利」などの「人権」が障壁となって阻まれている状態にあるといえるだろう。

「権利」は適用範囲を見極めて

それでも、功利主義による権利批判には、やはり不安が残る。冒頭でわたしが「議論の余地のない事例」と呼んだ事態……無実の市民の殺害、少数民族への弾圧、難民への虐待などを非難するうえでは、「権利」という言葉は意味を持つように思える。このような事例を非難するのに、「その行為は全体として人々の幸福を減らしているから、正しくない」という言い回しを用いるのは回りくどく、本質からもズレているような感覚が強い。

功利主義は、このような事態でも「権利」という言葉を否定するのだろうか?

……実際には、功利主義者たちの大半も、「方便」としてであれば権利という言葉を使うことは認めているのだ。ただし、それは権利の存在を認めているからではなく、権利という言葉を用いた方が良い結果がもたらされる場合に限るのだが。

グリーンは、情動を強く刺激する「権利」という言葉が人種差別撤廃運動の成功に果たした役割などを評価しつつ、あくまで実用主義の観点から、以下のように論じるのである。

私たち、現代の羊飼いは、奴隷制度、レイプ、大虐殺は、断じて受け入れられないと合意している。その理由は様々だ。ある者は神の意志に、あるものは人権に訴える。私と似た考え人たちは、圧倒的で不要な苦しみをそれらが引き起こすために反対している。そして、おそらくほとんどの人は、道徳的常識の問題として、心の中でとくに正当化することもなく、たんに反対している。しかし私たちはみな、これらのことはまったく受け入れられないという点で合意している。言い換えると、一部の道徳判断は、本当に共通感覚(常識)なのだ。共通とは普遍という意味ではない。実用的・政治的目的にとって十分共通という意味だ。これは解決済みの問題なのだ。

本当に解決済みの道徳問題を扱う場合には、権利を持ち出すことに意味がある。なぜか?権利の言い回しは、私たちのもっとも堅固な道徳的傾倒を的確に表現しているからだ。いくつかの確固とした信念をもち、いくつかの考えを即座にはねつけるのはよいことだ。それは、こういったあらゆる事例に関して、私たちが正しいと保証されているからではない。間違っているリスクの方が、ぐらついているリスクより小さいからだ。(p.409-410)

けっきょく、権利という言葉を用いることが適切となる場合は「解決済みの問題」に限られるようだ。

逆に言えば、「表現の自由の権利」と「女性が性的なモノとして表現されない権利」とが衝突する事例をはじめとした、現在進行形で論争が起きているという未解決の問題では、権利という言葉を用いることはやっぱり不適切なのである。

最後に一つだけ、わたしの考えを述べよう。

「権利」を主張するロジックは、国や政府や権力から市民の利益を守るためという文脈では、おおむね有効に機能するように思える。問題なのは、市民と市民との間で利益が対立している事例で、権力に対する時と同じように「権利」という単語が用いられることだ。

「表現の自由の権利」が権力から保護されることは正当であるだろうが、その表現が他の市民を傷付けている場合には、もはや批判を受け付けない絶対的な権利であると言い張ることはできなくなる。

あるいは、これまで権力の大部分は男性によって握られてきたからこそ女性たちの権利を権力から守ることは重要であるが、その女性たちの利益がさらにマイノリティで弱い立場にある存在と衝突する場合には、女性の権利だけを主張することはもはや通じない。

しかし、グリーンが論じたように、「権利」という名詞はまるでそれが現実に存在するかのような印象を人々に与える。対権力の文脈では「表現の自由の権利」や「女性の権利」という言葉が有益であるゆえに、実際に何度も用いられてきたからこそ、それらの権利が存在するという感覚が人々に強く刷り込まれた。だから、別の文脈でも、権利という言葉から離れることができなくなってしまったのである。

しかし、何度も言うように、権利と権利が対立した時点で、権利という言葉はもはや問題解決には役立たない。必要となるのは、たとえば功利主義のような、トレードオフを冷静に処理できる考え方であるのだ。

参考文献:
ジョシュア・グリーン(著)、竹田円(訳)、『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』(上下巻)、2015、岩波書店。

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記

 

第2回 結局、人文学は何の役に立つのか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

2020年10月11日、橋下徹・元大阪府知事は「日本の人文系の学者の酷さ」を指摘するツイートを行なった[1]。橋下によると、「"自分は賢い!一般国民はバカ"という認識が骨の髄まで染みている」日本の人文系の学者は、「税金もらって自分の好きなことができる時間を与えてもらって勉強させてもらっていること」や「社会に対して何の貢献をしているのかわからん仕事」をして生きていることへの「謙虚さが微塵もない」そうだ。

橋下のツイートは、9月に起こった管政権による学術会議の任命拒否問題を受けてのことである。学術会議の問題については、学者たちは政権の恣意に振り回される被害者であるはずだ。しかし、市井の人々は必ずしも「学者」や「学問」の味方をしているわけではない。むしろ、菅や橋下といった政治家たちに賛意を示している人も多いようである。

これはいまに始まったことではない。学問や学者に対する敵意は、学術会議の問題が起こるはるか以前から、日本社会に共有されてきた。橋下のツイートは、市井の人々が持っている敵意を煽ることで自分が支持を得るための、ポピュリズム的な戦略を持ったツイートであることは明白だろう。

そして、「市井の人々はなぜ、学者や学問に反発や敵意を抱くのか」ということに関しては、すでにかなり多くの人々が語っていることでもある。この問題に関する本は古典的なものも新しいものも数多く出ている。インターネットでも、この問題は「日本社会における反知性主義」と言った枠組みで語られることが多く、学者や院生や学問ファンの人たちがSNSやブログなどで自分の意見を各々に展開している。

だから、「日本社会における反知性主義」といったテーマについてわたしがなにか書いても、なにか新鮮な意見が言えるということはないだろう。

しかし、学術会議の問題は本来ならば文系も理系も関係なく学問全般に関わることであるはずなのに、橋下のツイートでは「人文系の学者」が狙い打ちにされていることは、すこし興味深い。また、人文系に浴びせる非難として「社会に対して何の貢献をしているのかわからん」という言葉が選ばれていることについても、考えてみる価値はあるかもしれない。

「人文系の学問は社会に対してどんな貢献をもたらしているのか?」、あるいは「人文系の学問は何の役に立つのか?」という問いは、しばしば話題になる。

理系の学問は科学技術を発展させて産業や医療に貢献するという点で「役に立っている」ことが明白であるのに比べて、文系の学問は何の役に立っているかということが直感的には分かりづらく、説明が必要とされる、ということはあるだろう。

だが、人文系の学問と学者たちに対して「何の役に立つのか?」という問いが向けられるとき、それは単なる疑問ではなく、非難の意図が含まれていることも多い。つまり、市井の人々は人文学の存在意義をわかっていないというだけでなく、人文学に関わるものや人を積極的に嫌っている可能性があるのだ。

その一方で、人文系の学問に関わる学者や読書家などの間には、「人文系の学問は何の役に立つのか」ということについて正面から回答することを拒みたがる、という傾向を見出すことができる。

外野から見ていれば「人文学は、これこれこういう理由で、こういう風に役立つ」と答えればいいのにと思うし、実際にそのような形で答えている人もいるのだが、そうでない人も多い。そして、彼らは、「人文学は何の役に立つのか?」という問いがなされること自体になんらかの憤慨や心外を感じており、そのような問いは的外れであるだけでなく、非道徳的で反社会的なものであるとも思っているようだ。

その理由の一部は、「 何の役に立つのか?」という問いは単なる疑問だけでなく敵意を含むものであるということを問われる側も察している、という点にあるのだろう。

しかし、わたしが興味深く思うのは、彼らのそのような反応自体が、人文学に関わる人々の一部に共有されるファッションやマナーを体現していることである。そして、それ自体が、たとえば「理系」の学問には抱かれないような懐疑が「文系」の学問に対しては抱かれて、独特の反発や敵意が生まれる理由のひとつになっているかもしれない。

まずは、人文学に関わる人が「人文学は何の役に立つのか?」という問いを拒否しようとする場合について、いくつかのパターンに分けて見てみよう。

 疑問に見せかけた"攻撃"

ひとつめは、先述した、問う側の「敵意」に関するものだ。

具体的には、以下のようなものである:「"人文学は何の役に立つのか?"という問いをしてくること自体が、実際には疑問に見せかけた"攻撃"であり、それに対して答えることに意味はない。相手は回答を求めているのではなく、ただ、人文系の学問とそれを専攻する学者を攻撃するための口実を必要としているだけだからだ」。

このような反論は、たとえば上述の橋下のツイートに対するものとしては的を射ているように思える。

ポピュリズム的な政治家なりタレントなりは、すでに多くの人から嫌われているものを大衆の目の前で非難して吊るし上げて「公開処刑」することで、大衆の溜飲を下げさせて、彼らからの支持を得ようとする。彼らにとっては「人文学を攻撃すること」や「人文系の学者をやりこめること」が目的となっているのであり、「人文学は何の役に立つのか」について議論することは目的とされていないのだ。もし、人文系の学問が社会に対してなしている貢献を丁寧に説明しても、橋下がそれを理解して納得するという姿勢を外に示すことはないだろう。人文系の学者に対して対話や理解の姿勢を示して妥協をしてしまったら、大衆をスカッとさせて溜飲を下げさせることができなくなってしまうからだ。

とはいえ、疑問ではなく攻撃のために「人文学は何の役に立つのか?」という問いを発してくる人がいるからといって、それは、説明責任を放棄していい理由にはならない。

他のことに使えるはずの公金が、人文系の学科や専攻に投入されていることは事実なのだ。他の国に比べてどれほど少なかったり、人文学という制度を支えるためには全く足りていない量の金額ではあるとしても、それなりの金額ではあるはずだ。そして、ごく単純に考えると、その金額が別のところに投入されていれば、人の生命が救えたり、少子化対策になったり、国防を増強したり、あるいは科学技術の発展につながっていたりしたかもしれないのである。その金があえて人文学にまわされるからには、その理由は説明されて正当化されなければならない。

「人文学は何の役に立つのか?」という問いは、敵意を含んでいたり攻撃として用いられたりすることがあるとしても、それ自体は真っ当な問いであるのだ。

質問に対して、質問で答える

ふたつめは、「"役に立つ"の定義とは何か?」と、質問を質問で返すパターンだ。これは特に哲学系の人がやりがちな反論であり、「哲学っぽい」反論であると言っていいかもしれない。

もう少し丁寧なものとしては、「"役に立つ"という言葉の定義自体を問うことが、哲学をはじめとする人文学の役割だ。なにかを役に立つと判断したり役に立たないと判断したりすること自体が、人文学がないと成り立たないのだ」という言い方がされる場合もある。

どちらにせよ、「役に立つ」という言葉の定義を云々すること、そして人文学には言葉に定義を与えることについての特権性があるということを匂わすことで、「何の役に立つのか?」ということについて答えることを回避しようとしているのだ。

たしかに、わたしたちが日常的に使っている言葉について深掘りして、厳密な定義を与えることは、人文学の仕事のひとつではある。

たとえば、もしも相手が「役に立つ」という言葉について「お金を稼げる」とか「経済や軍事などの国力に貢献する」などの限定的な意味しか与えていないのであれば、そのことを指摘して、「"役に立つ"という言葉には様々な意味があり得る」という点を示すことは、議論において有益な行為であるだろう。

しかし、言葉について厳密に定義することは人文学の仕事のひとつではあるが、それだけが人文学の仕事ではない。そして、人文学であっても、言葉を厳密には定義しなかったりほどほどの定義で済ませたりしておいてから具体的な物事について議論をすることは、ふつうに行われている。定義論というものは往々にしてキリがないものであるし、そればっかりしていたら他のことが議論できなくなってしまうのだ。

実際には、こういう議論の場において「"役に立つ"の定義とは何か?」と聞き返してくる人の多くは、厳密な定義を与えたり議論を生産的なものにしようとしているわけではない。彼らはただ単に相手の疑問を混ぜっ返しているだけなのであり、それで相手が返答に窮すれば儲けもの、という浅はかな期待を抱いているのに過ぎない。

しかし、説明責任を求められている側が定義論を選択的に持ち出して議論を煙に巻こうとすることは、不誠実というしかない。このような反論は、言っている本人やごく一部の人文学徒からは「うまいこと言い返してやった」という風に見えるかもしれないが、大半の人にとっては、問いに対して真面目に向き合わずに議論から逃げようとしているようにしか思われないだろう。

そして、自分たちの存在意義を証明しなければならない「弱い」立場に追い込まれている人たちがそのような「逃げ」を選択することは、本人たちにとっても何のメリットもない戦略であるのだ。

中立的な立場からの質問ではない

ふたつめの反応が「哲学っぽい」ものだとすれば、みっつめの反応は「社会学っぽい」ものである。

具体的には、以下のようなものである:「何かについて"役に立つのか?"と問うこと自体が、そもそも中立な質問ではなく、特定の立場へのコミットメントを示すものだ。もしその問いが人間に向けられたら、生産性のない人間は存在意義がないから生きていなくてもいい、という優生思想になるだろう。役に立ったり価値がなかったりしなければ存在してはいけない、という考え方自体が問題であるのだから、"役に立つのか?"という問いには答えないことによって、その根源にある功利主義的な考え方を否定すべきだ」。

とはいえ、現状の社会では人文学以外にも多くのものが「役に立つのか?」という観点から判断されて、そのうえでどれだけの資金や公金を投入するかどうかが決定されている。企業にせよ国家にせよ、それどころか一般家庭でも、限られた予算を何に使用するかを判断するうえでは、生産性や効率などを考慮しながら「役に立つかどうか」を検討するものだろう。それは、近代以前の昔から行われてきた営みであるはずなのだ。

言うまでもなく、このような考え方が優生思想に直結するという証拠は全くない。さらには、他のものに対して「役に立つのか?」という問いが向けられているなかで人文学だけがその問いを回避したところで、「"役に立つのか?という問いの根源にある功利主義的な考え方」が否定できるというわけでもないのだ。

そもそも、相手はなにも「人文学には価値がなくて役に立たないのであれば、人文学は存在してはいけない」とまで主張しているわけではない。大半の場合は、「他のところにもまわせる公金を人文学にまわせというなら、それを正当化するだけの価値が人文学にあることや、人文学が何らかの役に立つことを示せ」と要請しているだけなのだ。先述したように、これ自体は真っ当な要請である。そして、人文学だけが「"価値"や"役に立つ"を云々することはよくない考え方につながるので、その質問には答えません」として回答を拒否できる道理はないのだ。

上述したような回答のうち「哲学っぽい」ものと「社会学っぽい」ものは、どちらも人文学に関わる人に特有のファッションやマナーに影響されたものである。

人文学を専攻する人たちの間では、問いに答えることよりも、問いをズラしたり問いの前提を問い直すこと(つまり、問いに答えないこと)の方が知的で高尚であり、格好いいとされることが多い。逆に、問いに対して正面から答えることは野暮で格好が悪いことであるとされるのだ。実際に大学で人文学を専攻して、ゼミや読書会などに出席していた人であれば、この傾向には心当たりがあるかもしれない。そうでなくても、現代の高名な思想家や批評家の本をいくつか手に取れば、この傾向の存在を察することができるだろう。

とはいえ、答えを回避すること自体が、人文学の本質であるというわけではない。

そして、「人文学は何の役に立つのか?」という問いを正面から受け止めて、答えを提示しようとしている人文学者も、数多く存在しているのだ。

批判的思考と想像力

理系の学問については、高度な計算やプログラミングができるようになったり、機械や人体の構造やメカニズムについて正確な理解ができて問題が起こった場合の対処もできるようになったりするなど、それを修めることでどのような能力が得られて、そこからどのような価値を生み出せるようになるかは明白だ。

それに比べると、人文学を修めた人が得られる能力とそれによって生み出される価値は、曖昧にしか論じられないものである。

また、理系の学問によって得られる能力が「技術」的なものであることが多い一方で、文系の学問によって得られる能力は「批判的思考」であったり「想像力」であったりと、存在を証明することが難しいものであることも問題だ。ある人がどのような技術を身に付けているかについては、その技術に対応する課題に取り組んでそれを解決することで客観的に証明することができるが、想像力や批判的思考についてはそういうわけにはいかない。

さらには、高度な技術はどこかでそれを学ばなければ習得することが不可能である一方で、批判的思考や想像力は、それ自体は大半の人にもとから備わっているものである。人文学を学ぶことはこれらの能力を深めさせてはくれるが、人文学を学ばなくても優れた批判的思考や想像力を発揮できる人はいるだろうし、その逆の場合もあるだろう。人文学は、せいぜいが「滋養」という程度のはたらきしかできないかもしれない。

そんな人文学が社会に対してどのような貢献をして、どのように役に立つのかというと……多くの論者が指摘しているのは、「民主主義が健全に機能するためには、一定数以上の市民が人文学に触れて、批判的思考や想像力を適切に培わなければならない」ということだ。

たとえば、日本の哲学者である三谷尚澄は、『哲学しててもいいですか?:文系学部不要論へのささやかな反論』で、哲学を学ぶことの意義は批判的思考とともに「箱の外に出て思考する力」を養うことである、としている。

職業教育などにおいては、あらかじめ目的とルールが「箱の中の論理」として定められており、ルールが不変であることを前提としたうえで、目的を合理的に満たすための教育が行われる。一方で、哲学の教育においては、「箱」を成り立たせるルールに変動が起こり、これまでの前提が通じなくなったときにも、一旦「箱」の外に出てルールと目的を設定しなおす能力が身に付けられる。いわば、必要に応じて思考の習慣を切り替えられる能力である。

もちろん、世に暮らす人びとの全員もしくは大多数に対して、こういった「思考の習慣の切り替え」を望もうとは思わない。後にまたふれることになるが、自分たちの思考や行動の基盤を形成している習慣に変更を加えることが、どれほどの困難を伴う要求であるかはわたしも理解しているつもりだ。しかし、このことが、十人に一人か二人でよい、「箱の外」で思考する習慣を身につけ、また「中のルール」を第一とする人びとに向けて対案を提起する能力を備えた人間が存在することの意義を否定することにつながるわけではないはずだ。(三谷、p.148)

学生たちに「箱の外」で思考する習慣を身につけさせることの社会的意義については、三谷は次のように論じている。

この問いに対するわたし自身の考えは、哲学の学びを通じて、人は「外の思考に対して開かれる」という「態度」や「習慣」を身につけることができる、というものである(この章において、わたしが「箱の外の思考」に対して頻繁に「思考の習慣」や「生活態度」という言い換え表現を用いてきたのはそのような事情による)。あるいは、「異質なもの」や「自分とは違った考え方や意見」に対する「感受性」や「耐性」が育まれるのだ。そんな表現を用いて見てもよいだろう。あるいは、古めかしい哲学の用語を導入して、哲学の学びには、さまざまな状況に柔軟に対応するために必要とされる「器量」(アレーテー)を育成する効果を見いだすことができる。そんな言い方をしてもよい。

詳細は次章であらためて論じることになるが、たとえば、自分たちの暮らすコミュニティにおいて、外国から来た隣人とのちょっとしたいざこざが生じたときなどにどのような態度をとることができるか。そんなときに、「これだから外国人は」とか「わたしはやっぱりあの国の人間が嫌いだ」とか、自分たちにとってだけ都合の良い言説のなかに閉じこもるのではなく、「ひょっとすると、基本的な生活習慣の違いかもしれないよな」と一呼吸おくことができるということ。そして、そういった感情から結論への飛躍を一時のあいだ宙吊りにすることで、「感情的なライト右翼」たちの発言に待ったをかけることのできる人間が、社会のあちこちに存在しているということ。

単独で取り出してみれば、これ自体は非常にささいなことであるかもしれない。しかし、地域住民のうち「十人に一人」とはいえ、「反発的衝動を抑え、感情から結論へ跳躍地点に緩衝板を設置しておく」ことの重要性を知る人間が存在し、みなに向かって発言する態度を身につけているということ。このことには、決して小さくはない社会的効果を認めることができるのではないだろうか。(三谷、 p.151 - 152)

「箱」の外に出て思考する

『哲学しててもいいですか?』の結論は、以下のようになっている。

外へと開かれ、本当の意味でみずから思考する習慣を身につけた人間を育成するということ。繰り返し述べてきたように、このような目標のもとに遂行される教育の社会的存在意義を、テストの点数や資格、さらには具体的な就職先のリストや生涯獲得賃金といった数値化可能なデータに基づいて証明してみせるのは難しいことだろうと思う。しかし、それでもなお、「哲学の器量」を身につけた市民たちが、世のあちこちに居場所を確保していることの重要性は誰にも否定できないはずである。そして、それゆえにこそ、「哲学の器量を備えた市民の育成」を目的とする教育がこの国の大学から姿を消すことがあってはならないのである。(三谷、p.195)

三谷の主張については、わたしもおおむねは賛同している。

ただし、哲学の教育を受けた学生や教授たちですら、本人は「箱」の外に出て思考していると思っているつもりが、実際には「哲学っぽい態度」という新しい「箱」を作ってそのなかに収まっているだけ、という危険性については常に留意しなければならないだろう。

たとえば、先述したような、「人文学は役に立つのか?」という問いに対して定義論を行うことで問い自体を回避しようとするタイプの人は、本人は批判的思考を行なっているつもりであっても、実際にはパターンやクリシェにしたがっているだけである可能性が高い。

また、ほんとうに「箱の外」に出て思考しているのであれば様々な問題に対する結論は多種多様なものになりそうなところを、「左派」や「リベラル」などの特定の政治的態度に偏った結論が主流になりがちである、という問題もある。

これについては、そもそも左派やリベラルは右派や保守に比べて理性的な政治的態度であるのだから、批判的思考を行なったのちに得られる結論が左派やリベラルに傾くのはごく自然なことなのだ、と論じることもできるだろう。……とはいえ、人文系の学者たちの「左傾化」を非難する人たちのなかには、彼らの政治的傾向は批判的思考の結果ではなく、学会の政治的なパワーバランスや同調圧力によるものではないか、と疑っている人もいるはずだ。わたしの目から見ても、右っぽいものを目にしたら脊髄反射で否定する、という学者がいることは否めない。

いずれにせよ、「器量」を備えた市民を育成する、という主張そのものは哲学教育の社会的意義を論じる主張としてはかなり妥当なものであるように思える。

ただし、論理性や抽象性を重んじる哲学は、人文系の学問のなかではやや特殊なものである。そのため、文学や歴史学などの哲学以外の人文系の学問については、哲学とは異なるかたちでその社会的意義を論じる必要があるかもしれない。

だが、アメリカの哲学者であるマーサ・ヌスバウムは、著書『経済成長がすべてか?:デモクラシーが人文学を必要とする理由』で、民主主義を健全に機能させるためには市民たちは批判的思考とともに想像力を身に付ける必要があると強調して、文学や芸術をはじめとする人文学全般の社会的意義を主張しているのだ。

市民は、事実に基づく知識と論理だけでは彼らを取り巻く複雑な世界とうまく関わることはできません。これら二つの市民の能力と密接に関連している第三の能力は、物語的想像力とでも呼ぶべきものです。これは、異なる人の立場に自分が置かれたらどうなるだろうかと考え、その人の物語の知的な読者となり、そのような状況に置かれた人の心情や願望や欲求を理解できる能力のことです。思いやりの滋養は、西洋諸国であれ非西洋諸国であれ、民主教育についてのもっとも優れた考え方の根幹をなしています。こうした滋養の多くは家族においてなされる必要がありますが、学校および大学も重要な役割を果たしています。この役割をしっかり果たしたいのであれば、学校は人文学や芸術をカリキュラムの中心に据え、他人の眼から世界を見る能力を活発化し洗練するような、参加型の教育を築いていく必要があります。(ヌスバウム、p.125)

つまり、学校や大学における芸術の役割は二つあります。遊びと感情移入の一般的な能力を養うことと、各文化固有の盲点を扱うことです。一番目の役割は、学生が生きている時代や場所から隔たった作品──どのような作品でもよいというわけではありませんが──によって果たされます。二番目の役割に関しては、社会不安の領域により焦点を当てる必要があります。この二つの役割はある意味では連続的なものです。ひとたび一般的な能力が発達すれば、根深い盲点に取り組むことがずっと容易になるからです。(ヌスバウム、p.140 - 141)

哲学や芸術以外の人文系学問も、批判的思考能力と想像力のどちらかは養えそうなものだ。社会学はわたしたちが「当たり前」と思っていることを哲学とは違ったかたちで問い直す学問であるし、歴史を学ぶことで過去の時代に起きたことを知ることは現在や将来について想像するうえでも有益であるはずだ。

そして、民主主義の社会に暮らす市民として批判的思考能力と想像力を発揮することは、地域自治というレベルでも国政というレベルでも有益な選択につながるという点で、社会に貢献していると言えるだろう。

時代遅れで戦略的に不利であったとしても

繰り返すが、わたしとしては、三谷やヌスバウムの主張は正当であると思っている。人文学が大学で研究されて、教えられることは、市民性や公共性の育成にとって重要なことであるはずだ。そういう点では、人文学は「役に立つ」ものだと、胸を張って主張するべきなのだ。

しかし、「民主主義を健全に機能させるためには、(一定数以上の)市民が批判的思考や想像力を備えていなければならない」という前提は、ある種の人からは「エリート主義」と見なされるものであるだろう。

文字通りの民主主義であれば、たとえば日本の国籍を持っていれば、だれでも日本の国政選挙権が地方選挙権を持つのであり、その点では平等とされる。それに対して、批判的思考や想像力の重要性を強調することは、それらの能力を持つ人と持たない人の間では市民としての価値や格が異なるという主張だと思われかねない。自分たちが批判的思考や想像力を「持たざる者」であると自覚している人たちは、「健全な民主主義」論を認めたがらないはずだ。

先述したように、理系的な能力と違って文系的な能力は外に対して存在の証明を行うことが難しいものである。科学者や医者に対しては「自分にはできないことがこの人にはできるんだろうな」と認められる人であっても、人文系の学者に対しては「この人と自分のどこが違うというのか、大したこともできず金も稼げないくせに、口だけは偉そうなことばかり言って」と反感を抱くかもしれない。……そして、橋下のようなポピュリストは「自分は賢い! 一般国民はバカ」や「謙虚さが微塵もない」という言葉を用いることで、その反感を巧みに煽るのだ。

そもそも、市民が批判的思考や想像力を持つことを前提とした民主主義は、ポピュリズム的な民主主義とは真逆に近いものである。ポピュリストはそのことを理解しているからこそ、人文学を目の敵にするかもしれない。

さらには、アメリカや欧米の凋落が見えてきて代わりに中国が台頭してきた昨今では、市民が「民主主義」を求めなくなってきた、という可能性もある。実際、近年では若い世代ほど民主主義を軽視する傾向があることは、日本だけでなく欧米でも指摘されているのだ[2]

となると、人文学の意義として「民主主義を健全に機能させるための市民性の滋養」を主張することは、時代遅れで不利な戦略かもしれないのだ。

とはいえ、時代遅れであったり戦略的に不利であったりするからといって、それが間違っていたり虚偽であったりするというわけではない。

また、「時代が変わったから別の意義を主張しなきゃ」と慌てたところで、より戦略的に有利な主張が見つかるとも限らない。たとえば「人文学もビジネスやお金儲けにつながります」と強弁して、実際にビジネスにつながった事例を持ち出したところで、「ではビジネスにつながりそうなものだけは残して、他は潰そう」となるのがオチだろう。

だから、エリート主義の誹りが免れない、時代遅れな回答であっても、批判的思考や想像力とそれらによって成り立つ市民性の重要さについて地道に主張し続けることが、けっきょくはいちばんマシな選択であるかもしれない。すくなくとも、「人文学は何の役に立つのか?」という問いから逃げずに回答しているという点では、社会的責任を誠実に果たしている。その回答に納得しない政治家や市井の人々がいるとしても、それはもう知ったことではないのだ。

 

参考文献:
三谷尚澄、ナカニシヤ出版、2017、『哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論』
マーサ・ヌスバウム(著)、小沢自然・小野正嗣(訳)、岩波書店、2013、『経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由』
[1] https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1315093415571288064

[2] https://webronza.asahi.com/politics/articles/2018071800002.html

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記