第18回 偽りのない夫人 後編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『或る夫人の手紙』三宅やす子 1926(大正15)年

『或る夫人の手紙』の著者三宅やす子は、1890(明治23)年に京都師範学校長とその権妻(妾)の間に生まれた。妻妾同居の家で育ち、正妻を母、実母をばあやと呼んでいた。16歳で父が死去し、叔父で枢密顧問も務めた加藤弘之の世話になりながら「良妻賢母主義全盛時代」(三宅やす子「目標の推移」)のお茶の水高等女学校(現お茶の水女子大学附属高等学校)を卒業する。その間、雑誌『女子文壇』などに投稿もしていた。卒業後、見合いで昆虫学者の三宅恒方と結婚。四児をもうけ二児を失う。学究肌の夫とは性格が合わずひたすら迎合に努めるが、夫の仕事上の不遇な立場を文章にすべく夏目漱石の門をくぐる。漱石亡き後は小宮豊隆に師事するも、11年の結婚生活を経て31歳のときに夫と死別、二児を抱え本格的に文筆で立つこととなる。

このような境遇の女性作家によくあるように、やす子は猛烈に仕事をしている。さまざまな媒体に大量の原稿を書き飛ばし、講演や座談会、雑誌『ウーマン・カレント』の運営などに奔走しているが、そのわりに三宅やす子の業績や作品はあまり知られていない。

その理由とも考えられる点について平塚らいてうはこう喝破した。曰く〈やす子さんの生活は若〈も〉しくは生活態度はその一歩から常識的であり、世間的であり、打算的であり、実際的であります。いかにもイィジィゴォイングであります〉〈忌憚なく言えば作家としてのやす子さんの天分にはあまり多くの期待を持ち得ないでしょう〉〈やす子さんの思想又は意見は要するに時代と歩調を共にすること、時代に妥協し迎合して行くことこれ以上でないようです。新しい思想を説き又新しい思想に共鳴するのではなく、既に時代がこうなって来たからこうすべきだというのが総てのようです〉。(「私の見た三宅やす子さん」)。

確かにやす子は歴史に残るような革新的な論を展開することはなかったが、当事者による『未亡人論』(文化生活研究会、1923年)などは、世間の「未亡人」への貞淑であれというレッテルや無神経なおせっかいに真正面からもの申した、いわば人権宣言のような一書で、戦後に復刊された際にも戦争未亡人たちを勇気づけたと思われる(但し、未亡人をポルノグラフィに繋がるイメージとして確立させたと小田光雄は書く)。大上段に構えた女権論者ばかりが偉いということはないのだ。

さらに翌年、らいてうの筆はやす子の作品の登場人物にまで及ぶ。〈彼女たちは徹頭徹尾コンヴェンショナルな女性である〉としつつ、〈しかしそれにしても氏の作品の中の母はどれもこれもあまりと言えばあまりに母らしくない母ばかりである〉〈その母子関係は、あまりに冷たく、寂しく、厭わしく、時として恨めしく、呪わしくさえ思われる〉。もっとも、〈氏が母性の尊重者でも、又母愛の礼賛者でもないことは氏のお書きになった感想などで私は以前から察していた〉とし、とある女性だけの会合で、ある人が自分の子どもに対して可愛くてたまらないから世話や教育をするので義務からするのではないと言ったところ、やす子は自分は愛ばかりで世話をしていない、責任感からであると言ったらしく、そのことをらいてうは〈不思議にはっきりと私の記憶にのこっている〉と書く(「三宅やす子氏の創作の中の女性に就いて」)。筆者には、理想論ばかり言っている女性たちに比べてやす子の方がよほど地に足がついているように見える。子どもが可愛くてたまらないから世話をするのであれば、何かのきっかけで可愛くなくなったらどうするのだろうか。どう考えても責任感は必要だろう。ともあれ、さすがに小説にまで口を出されて腹に据えかねたか、やす子は翌月に「らいてう氏の蒙を拓く」として八つの点を挙げて反論。なかでも四の〈「世間と容易に妥協し得る女」と云われるが、妥協は或る意味で決して容易ではない。少くとも無反省な反抗よりも、意識した妥協の中には消し切れないものがある〉は本意だろう。また〈母性愛礼賛などという古めかしい事は、文部省の母性愛映画にでも任せておけば足りる〉はなかなか痛快である。なお、らいてうはさらに小馬鹿にしたような反論「『らいてう氏の蒙を拓く』を読みて 三宅やす子さんに」を書いているが、長くなるのでここでは省く。ただ、〈ずいぶんお怒りになりましたね、ほんとうに意外です〉〈あれが私の知っている三宅さんかしらと可成り驚きました〉については意外でもなんでもない、らいてうは最初から見誤っているのだと言いたい。

もっとも大きな見誤りは、最初の記事「私の見た三宅やす子さん」のなかで〈こういうやす子さんは恋愛を経験するには恐らく最も不向きな人でしょう。その過去に恋愛の情熱に自分を燃やしたような経験をもたないらしいこの人は多分今後の生活に於ても持ち得ないのではないでしょうか〉と書いている点。

実はやす子、この時期密かに大恋愛の真っ最中だったのだ。

その辺りのことも著書と著者が一致しているやす子らしく「偽れる未亡人」として隠さず書いている(著者急逝により未完。タイトルは編集部作)。

相手は夫の一番弟子で小説のなかでは「牧」、吉屋信子のエッセイ「偽れる未亡人」のなかでは「Y理学士」とされる2〜3歳下の男性。

亡き師の後片付けなどで通ううちに親しくなり交際に発展、彼の弟がやす子の雑誌を手伝うなどほとんど家族ぐるみの関係だった。当時、まさに「或る夫人の手紙」と同様に彼に縁談が持ち上がってやす子に見破られて断るということがあったらしい。

小説「偽れる未亡人」のなかの芳子(やす子)は〈「私が、得心のゆくお嫁さんを貰って頂戴」〉〈(引用者注:縁談は)早晩来ることなんだから。只其時が一寸いやなだけね。何でもないわ。行ってらっしゃい。そうして私に何でも話して頂戴。私にわかる事は、また何でもお手伝いしてよ」〉と気丈に言うものの、牧の帰った後に〈「黙って泣いて居ます」〉という手紙を出している。「或る夫人の手紙」よりはあっさりしているが、言うに言えない本音を小説にしたのかもしれない。その後、長女が15、6歳になる6年後に結婚しようと話はまとまった。

それから牧はロックフェラー財団によるスカラーシップで2年のアメリカ留学に向かう。ちょうどこの頃「或る夫人の手紙」を収載したやす子初の単行本が出ている。つまり、彼の帰国後の結婚、未亡人から夫人への転身を強く信じていた時期に書かれた「或る夫人の手紙」の終わりが急転直下の駆け落ちになっているのも今でいう「匂わせ」だったのかもしれない。

小説「偽れる夫人」の方はここで途絶しているが、吉屋信子によれば、留学中のY理学士からの手紙は次第に遠のき、帰国時期になっても連絡がないので同僚に聞いてみるととっくに帰国して京都の大学に戻っていた。しばらくして訪ねてきた本人の口から婚約破棄を言われたという。夫の七回忌の際、未亡人から新たな道を行くようなことを皆んなの前で宣言した矢先だった。

彼がどこかの女性と結婚する日、〈やす子はわが家の椅子に身を投げかけて式の挙げられる時間に刻々針の進む時計をじっと睨みつけて動かなかった〉(吉屋信子「偽れる未亡人」)。
その後、風采のいいAなる男性との恋愛に入るが〈原稿料や印税も、もっぱらその人につぎ込まれていくようだった〉(舟橋聖一「三宅やす子」)という歪な関係で、〈Y氏との恋愛破綻の鎮痛剤としてA氏を服用した〉(吉屋信子「偽れる未亡人」)とは吉屋信子の見立てである。

やす子と仲が良く、ふたりで恋愛話に興じていたという宇野千代はAについて「あんな男、どうしてやめないの」と聞いたときのやす子の答えを書いている。曰く〈「好いじゃないの、どんな偉そうな男だって、馬鹿な半玉か何かに平気でだまされてるじゃないの、あたしみんな分かってるんですもの」〉。

常識的で迎合的だと揶揄された三宅やす子は恋に溺れつつ、それを客観的に楽しむことのできる女性だった。

確かに師匠漱石に「大味」と言われるような作品であり性質でもあったが、率直で行動的なやす子の主張は当時の女性たちを鼓舞した。

吉屋信子はやす子を〈時々ガーガー鳴ったりした古い大型ラジオ〉と形容するが〈いまなお私の記憶にしかと腰を据えてこの未亡人は生きている〉と書く。

それは残された作品だけを読む者には窺い知れない、人間というものの持つ複雑さなのだろう。

 


〈おもな参考文献〉

和泉あき「三宅やす子著『未亡人論』解説」『未亡人論』(不二出版、1986年)
岩見照代「第27巻解題 三宅やす子『真実に歩む』」『時代が求めた「女性像」ー「女性像」の変容と変遷ー 第27巻 時代を映す「女性像」1』(ゆまに書房、2014年)
平塚らいてう「私の見た三宅やす子さん」『婦人公論』10(1)(112)(中央公論社、1925年)
平塚らいてう「三宅やす子氏の創作の中の女性に就いて」『婦人公論』11(8)(132)(中央公論社、1926年)
三宅やす子「らいてう氏の蒙を拓く」『婦人公論』11(9)(133)(中央公論社、1926年)
吉屋信子「偽れる未亡人」『自伝的女流文壇史』(中央公論社、1962年)
宇野千代「三宅やす子さん」「三宅さんを憶ふ」「三宅さんと戀人」『女の愛情』(鱒書房、1939年)
舟橋聖一「三宅やす子」『わが女人抄』(朝日新聞社、1965年)
三宅やす子「自叙伝の一節」『未亡人論』(不二出版、1986年)
小田光雄「古本屋散策(101)三宅やす子『偽れる未亡人』『未亡人論』」(『日本古書通信』(973)、2010年)
小田光雄「古本屋散策(102)『ウーマン・カレント』と文化生活研究会」(『日本古書通信』(974)、2010年)

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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第17回 偽りのない夫人 前編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『或る夫人の手紙』三宅やす子 1926(大正15)年

1926年といえば、昭和金融恐慌前夜。

もともと不景気だったところに震災手形不良債権化のせいで多くの企業が倒産するなど大不況の嵐が吹き荒れていた頃である。前年には普通選挙法(満25歳以上の男子に選挙権が与えられた)と治安維持法が成立、そして初のラジオ放送が開始。

改造社が一冊一円の予約制全集、通称「円本」の発売を始めたのが大正15年、いよいよ教養の大衆化を思わせる出来事だった。

この年、「ある(または或る)夫人」と名のつく小説が4本も生まれている。

三宅やす子『或る夫人の手紙』、井上康文『或る夫人〈マダム〉の部屋』、岡本瑣二『或る夫人』、志垣みた子『或る令夫人の手記より』……空前の「或る夫人」ブームである(もちろんただの偶然だが)。

ともあれ、今回は三宅やす子の作品を見ていこう。

小説は、夫も子もある夫人「たづ」が恋人「敏様」に宛てた九通の手紙から成っている。

敏様の返事はなく全編たづの手紙のみの書簡体小説である。

一通目はたづの疑惑から始まる。若い「敏様」に人妻であるたづは何かと「早く良い奥さんをお貰いになって幸福に暮らして下さい」と言うがそれはあくまで口のうえだけのこと。だが、この日の男の態度から何か具体的な結婚話があるようだと勘づき「どうぞ、何も彼も打ち明けて話して下さい。それで私は今更驚くんじゃありません」と嘆願する。

二通目はそれでも何もないと言い張っているらしき男に、誕生日にネクタイをあげたときに「今年は、こうして、贈物を満足して受けて下さるけれど、来年は誰の手で結んでお貰いになるのでしょうね」「来年の今日、敏様独身でいらっしゃるかしら」などとたづが言ったときに男が〈眼を私の顔から反らして、何処を見るともない上ずった眼なざしで「そうね」と一寸考えるような風をなすった〉、〈「大丈夫、私に結婚なんて意志はありません」といつものようにハッキリ〉言わなかったことで〈肩からザーッと冷水を浴ぶせられたように、背中にはゾクゾクと悪寒をおぼえた〉と訴え、〈たづにはみんな解ります。教えて頂戴。〉と畳みかける。ネタはみんな上がってるんだ、と机を叩く刑事のような雰囲気である。

三通目、どうやら男が郷里に帰ったときに縁談が持ち上がったと白状したらしく、たづは一夜泣き明かしたとある。そして「綺麗な方?」と聞いたら〈「美人なもんですか」と敏様から極〈きま〉って聞く言葉が〉なく、「そうね、まあ美人の方でしょうね」「眼が非常にいいのです」などと思わぬ返事を聞き、半狂乱になるたづ。そしてやにわに、自分は青木という夫と愛のない結婚をし、気づけば三児の母になってしまった、敏様が自分と一緒になれないのかと言ったときは下の子が小さくて無理だった、〈子供に母が必要なら、母と子が結合して居ればいいじゃありませんか。それだのに、子供というものがあるために、愛のない夫婦でも、一つの家に向かい合って住まなければならないという(中略)天地の自然の約束というものがサッパリわかりません〉〈母性って一体何〉〈そうまでして、人間は心にもなく子供に引きずられなければならないように、自然は子供という弱者を保護しようとしているのでしょうか〉などとひとしきり母であるわが身の不遇を嘆く。そして毎日自分のラブレターを受け取りながら見合い写真を眺めるなんて〈浅ましいとお思いにならないの?〉と今度は男を責め、結局は運命に逆らえず〈あなたの姿の見えなくなるまで、只見送って、見送って。涙が出ます。〉と締める。

四通目、たづ夫人の手紙に心を動かされたか、男は見合いの相手と会わないと書いてきたらしい。その言葉にひとまずほっとするたづ。しかし、縁談そのものを断る必要はない、と書く。断ったところで男の人生に責任がとれないということか。

五通目は〈昨日は失礼。あんなに驚きにならなくてもよかったのよ〉という言葉から始まる。〈女はね、命がけになれば何でもして見せますものよ〉とあり、一緒になれないなら死を選ぶと言いつつ駆け落ちをも匂わす。〈考えて見れば、私が前にキッパリした決心を敏様から促された時には、私の頭には、子供もありましたが、恐ろしい「世間」もありました〉。しかし今やそんなものは気にしない、もし敏様が見合い相手と結婚するのなら自分の瞳から輝きが失われると書く。それは死を意味するのだろうか、だとすると立派な脅迫である。

六通目、郷里に帰る男を思って一日床に臥せっている苦しみを訴える。

七通目、返事が来ないことに苦しみ、このまま病気になって死にたいと書く。

八通目、男からの続けて二通の手紙を受け取り、縁談を断ったと聞いて欣喜雀躍するたづ。「早くお家庭をお持ちになって」だの「私は免れられない束縛がある」などと言っていたのは心と反対の言葉であることが今ではよくわかった、〈あなたはお仕事が惜しいでしょう、私は子供が気にかかります。でも、そんな事は、心にもなく私達が別れて了うために払う犠牲に比べて、小さなものです。ね、そうはお思いにならないこと? 何もお目に懸ってから。只これだけを急いで書きました〉ととるものもとりあえずといった様子。

九通目は三か月後らしい。〈敏様。もうすっかりお支度はお出来になって。私はもう、何も彼もすっかり整えました。あとの事についても、もう心残りはありません。〉と書き出し、しばし子供と愛のない態度の夫について筆を費やした後、二人で日本を脱出するが〈それが、私の生まれて来た本当の意義でした。敏様、たづはそれはそれは強くなりましたのよ。もう泣きは致しませんわ〉と宣言をして終わる。

まあ、なんと面倒くさい夫人であることか。

いやよいやよも好きのうち、ではないが本音と逆のことを言って相手に否定させるという暗黙の了解を強いた挙句、一たびそれが破られるとショックを受けて大騒ぎ。

駆け引きを仕掛けてくる時点でわたしなら百年の恋も醒める……と言いたいところだが、敏様はまさかの駆け落ちを選んだ。

ちょっと信じられないような気もする。

三通目の手紙の途中に母性についての長々しいくだりがある。

どうもここがこの小説のひとつの要点のようだ。

母性保護論争があったのはこの7~8年前のことだが(第12回参照)、果たして三宅やす子の母性についての意見はどうだったのか。

小説の2年前に発表した「近代的母性」(『私達の問題』アルス、1924年)と題する評論には、母性、いわゆる母が子を愛する気持ちは〈凡ての女性が一人も取り除けなしに持つ感情〉としつつ、最近はそのかたちが変わってきたとする。

昔は〈頭ごなしの母性尊重感が凡ての婦人の肩から終生子という事を取りはずさしめなかった〉が、今の母親は〈「私には私の生活があり、子供にはやがて子供の生活が開けます」〉というように母も子もそれぞれが自立した感覚を持っている。それは昔のように老いた親が成長した子供に頼らないことを意味し、〈女性を解放する第一段階〉であると同時に〈大きな試練〉であるとも説く。

この伝でいけば、物語のなかのたづ夫人は旧来の母性から解き放たれて目覚めた女性ということになるだろうか。

それにしても七通目までの稚拙な駆け引きや言い訳があまりに強烈で、駆け落ちという結末は取ってつけた感が拭えない。

実はこれには、三宅やす子自身の人生も関係する。

というのも、平塚らいてうをして〈この人ほど著者と著書の一致している人も恐らく少いでしょう〉(「三宅やす子さん(大正十三年)」)と言わしめるほど、自分の経験からしか書けない人なのだ。

次回はそんな三宅やす子という作家について見ていく。

 


〈おもな参考文献〉

三宅やす子「近代的母性」『私達の問題』(アルス、1924年)
平塚明「三宅やす子さん(大正十三年)」『雲・草・人』(小山書店、1933年)
三宅やす子「目標の推移」『三宅やす子全集 第二巻』(中央公論社、1932年)

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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