第12回 消費される夫人 中編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『夫人と運転手心中するまで:小説』徳田春風 1917(大正6)年
『伯爵夫人:千葉情話』青木緑園 1917(大正6)年

さて、前回は伯爵家の家付き娘で夫も子もある芳川鎌子が自邸の運転手と心中事件を起こした、そのあらまし(の前半部分ではあるのだが)を見てきた。加えて、事件は「千葉心中」と名付けられて報道合戦が過熱し、流行語が生まれ、小説が書かれ、芝居、映画、流行歌、講談、浪花節になるなど話題沸騰となったことも記した。

本連載のテーマ「夫人小説」であるところの徳田春風『夫人と運転手心中するまで:小説』、青木緑園『伯爵夫人:千葉情話』の話になかなか辿り着かないが、寄り道ついでに今回は事件に対する当時の女性知識人たちの反応を浚ってみよう。

まずは、平塚らいてう、与謝野晶子、山川菊栄、山田わかの4名から。この一年後にいわゆる「母性保護論争」を巻き起こすメンバーである。なお、4人が同人だった日本初の女性文芸誌『青鞜』は事件の前年に廃刊している。

まずは平塚らいてう。自身も作家の森田草平と「煤煙事件」とよばれる心中未遂事件を起こしバッシングされた過去がある。らいてうは今回の事件に際し上流家庭の目を覚まさせたとして「痛快にさえ感じ」たという(以下、「茅ヶ崎より」)。そして親に決められた結婚をした鎌子は「その結婚に対して責任をもって居ないのでありますから」恋愛結婚の末の不義よりは罪が軽いと説く。恋愛至上主義の「新しい女」としては、本人たちを差し置いた家同士の結婚の失敗に、そら見たことかと言いたいところだろう。また、「男女間の愛とさえ言えばすぐ劣情とか痴情とか言って暗黙の裡に非難の声と共に葬り去ろうとする私共の社会の習慣をたまらなく不快に思って居ます」「併し夫人が折角その愛を肯定するところまで乗り出しながら、愛の肯定は即ち情死であるというより以上の思案を見出されなかったことは何より残念な、腑甲斐ないことでした」とするのは自身の過去への思いもありそうだ。最後に、鎌子の母校である学習院女学部の主事が「私は何かの間違いだと思って居ますなどとしらばっくれた末」徳育にさらに力を入れていくと語った記事について「ああ、彼等の無知をいつまで続けようとするのでありましょう」と嘆く。

らいてうは今回の事件の責任は「上流階級の結婚制度と教育」と見ている。

では、与謝野晶子の意見はどうか。『東京朝日新聞』では「もともと素質の良くない女が倫理的に猥雑である家庭で我儘に育ち、其上に愛情の尠い良人の下に冷たく暮して居ると云うような境遇にあれば(中略)自然にこう云う過失と破滅とに向かう危険が醸されます」(「芳川鎌子さんの情死」)とにべもない。その後『横浜貿易新報』に寄せた原稿では「ここに少しく別の所感を述べてみたいと思います」として、鎌子の遺伝的素質(父が浮気性であること、母が元芸者であることを指す)が良くないと書く(以下、引用は「芳川鎌子さんの情死(再び)」)。晶子は実家の老舗和菓子屋が傾いたときに弱冠12、3歳で経営に携わり、22、3歳までに一人で建て直したという自負がある。「母性保護論争」でも「貧しい階級の者の中には怠惰な稟性のために此境遇に停滞して居る者も尠く無いのです」と書くなど、自己責任論にしがちである。とはいえ、「親はたとい親たらずとも、良人は其愛情と聡明とを以て、妻に対し、良人としての熱愛と保護とを加える人でありはせぬか」と夫を責める。この辺りは、妻子ある鉄幹を体当たりでもぎ取ったロマンチック・ラブ派ならではの意見である。また、「其れ程久しく夫婦の愛情の睽離〈けいり〉して居るのを知りながら、なぜ男らしく離別して伯爵家から身を退かなかったか」という夫寛治への疑問は現代の感覚に近い。そもそも伯爵は鎌子の身分であり夫は入婿であったのに、事件以降は鎌子が廃嫡され寛治が襲爵、再婚までしている。いかに女性の地位が低いかわかろうというものだ。

ともあれ、晶子の考える事件の責任は「周囲の不良(おもに夫)」ということになる。

山川菊栄は鎌子の行動を上流階級の空虚な生活に対する「消極的反抗」と見る(「女と消極的反抗」)。菊栄自身、進歩的な母のもとで育ったインテリ女性でかなりのリアリストとあって、とにかく筆が辛辣である。鎌子の意志薄弱ぶり、健全な反抗のできない態度は下等な労働者と同じで「社会の最上層と最下層とその属する階級こそ違え(中略)現代の生活が生んだ一種の劣敗者」とまで書く(以下、「芳川鎌子と九条武子と伊藤白蓮……新聞紙に呪われたる彼女の愛子」)。さらに返す刀で「同じ貴婦人でも、九条武子とか、伊藤白蓮とかいう高慢チキな、そのくせ臆病な体裁屋、もったいぶり屋、虚飾屋とちがって、赤裸々で厭味がなく、はるかに人間らしく思われます」と実名を出してぶった斬る。「無能は同点だとしたら、鎌子と彼らとの相違は、前者は恋ゆえに富を捨て、爵位を捨て、世間を捨てたに引きかえて、後者は金ゆえに恋を葬り、肉を売ったという点であります」という理屈である。

伊藤白蓮の本名は伊藤燁子、伯爵家の娘である。父の取り決めで14歳で知的障害のある子爵の息子と結婚、一児をもうけ20歳で離婚したが、25歳で父親ほどの年齢の炭鉱王伊藤伝兵衛と再婚させられた。上流階級の娘と労働者上りの成金との結婚は当時としてもあまりに露骨で「華族の令嬢が売りに出た」と話題になった。燁子の兄はこの結婚について「(燁子は)出戻りですからな」と答えたというが、家に逆らった者への意趣返しの意味もあったのだろう。伝兵衛は不身持な男で、虚しい気持ちを持て余した燁子は白蓮と名乗って短歌を詠み始める。山川菊栄が「高慢チキ」と書いたのはこの頃のことである。しかし、四年後の1919(大正10)年に燁子は社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちし、新聞紙上に伝兵衛宛ての絶縁状を発表する、いわゆる「白蓮事件」を起こす。つまり鎌子と同じように「恋ゆえに富を捨て、爵位を捨て、世間を捨てた」のである。山川菊栄の断罪は少し早計だったといえる。

九条武子は京都西本願寺の令嬢で同じく伯爵家出身の歌人である。夫の九条良致は天文学を学ぶためにロンドンに在住し結婚一年目で別居、十数年もの間武子はひとりで暮らしていた。社会事業家、歌人として活動しながら夫を待ち続けた武子の姿は良妻の鑑とされたが、実際には夫婦ともに恋人がいたとも言われている。「体裁屋」という悪口はこの辺りからきているのかもしれない。

山川菊栄の見る今回の事件の責任は「上流社会の自堕落な風潮」、そして「本人」である。

山田わかは異色の経歴の持ち主である。16歳で結婚するも実家が傾き、助けてくれない夫に見切りをつけて18歳で渡米する。が、騙されてシアトルで3年間セックスワーカーとなるなど苦労を重ねる。サンフランシスコに逃れ、キリスト教に入信して社会学者山田嘉吉と知り合い結婚、帰国後は福祉活動に従事するかたわら、英語力を活かして翻訳をしたり使節としてファーストレディに会見するなど活躍した。

事件に関する見解は、昔からよくあることで、他人がふたりについてとやかく言う権利はないとする。そのうえで、「家庭が健全であれば如何なる似非議論も這入って行く隙間はない」「真の意味の貞淑は百万意をつくして性欲道徳の神聖を実行し、夫にも其れを実行させる事によって始めて〈ママ〉価値があるのである」と言い、女性にばかり貞淑を求めて男性に求めない世間に憤る。ただし鎌子については「一切を私事として取扱おうとした事は真の恋愛を解せず、盲目な本能に翻弄された奴隷である。其の無知は憐れむべきも其の無責任は許す事が出来ない」と書く(以下、「芳川鎌子夫人の情死沙汰を如何に観るか」)。また、本能は社会を進歩させるが本能の標準(基準のことか)が必要でそれを無視するものは亡びるしかなく「鎌子夫人の死は何にもならぬこの亡びである」とする(鎌子は死んではいないが、死亡の誤報が出たときかもしくは社会的な死を指しているのか)。山田わかの見る事件の責任は「本人の無知」と「性欲道徳の不健全な社会」である。

それぞれの生い立ちや立場の違いで意見が割れるところもあるが、男性中心社会や上流階級の腐敗への異議が中心となっている。

同時代のその他の女性の意見はどうか。

女子教育家で婦人矯風会を立ち上げた矢島楫子は、一夫一婦制の大切さを男性にも徹底する必要があり、事件の責任はそれができない「教育者にある」(「芳川伯爵気の若夫人は何故情死したか 上流子弟の憐むべき状態」)と言い、作家、編集者の長谷川時雨は「私は知らないことを、分明〈はっきり〉と言うだけの勇気は持っていない。またその代りに、独断で彼女を悪い女としてしまうことも忍び得ない」「ことに複雑した心理の、近代人の、しかも気の変りやすい、動きやすい女性の心の解剖は、とても、不可能であると思っている」(「芳川鎌子」)とあくまで新聞報道や世間の白眼視を諌める。なお、長谷川時雨は当時の一般人の受け止め方についても記している。「因習にとらわれ、不遇に泣いているような細君たちまでも、無智から来る、他人の欠点〈あら〉を罵しれば我身が高くでもなるような眺めかたで、彼女を不倫呼ばわりをして、そういう女のあったのを、女性全体の恥辱でもあるように言ってやまなかった。けれどもそういう女たちのなかには、卑屈な服従も美徳であると思い違え、恋愛は絶対に罪悪だと信じられているからでもある」「立派な紳士でさえ「沙汰〈さた〉のかぎりだ」という言葉で眉根〈まゆね〉をひそめただけで、彼女に対する一切を取片附けてしまったのが多かった」。ただでさえ評判の悪い上流階級のそれも女性が醜聞を起こすということは嘲罵されても仕方がないという雰囲気だったのだ。

最後に、毛色の変わった意見をふたつ紹介して中編の幕を閉じよう。

雑誌『法治国』には無記名の法律家が、鎌子は姦通罪、または自殺教唆の罪で6ヶ月以上3年以下の懲役に処されるべき立場だが、その責任は家庭や社会制度にもあると書いており、鎌子のみを裁くのにはしのびないという心情が垣間見える。

また、これも無記名だが雑誌『東京』の記事「芳川家若夫人の事件 より以上の事が カフェーの夜話」には、カフェーで耳にしたとある男爵家の男と新聞記者らしき男の会話を記している。曰く、華族夫人の醜聞などはよくあることで鎌子は心中未遂をしたから暴露されたが、発表されずに済んだ者たちに罪はないのか、マスコミの権威を疑うと男爵が言えば、記者は芳川家がマスコミ対応を元警視総監の岡喜七郎に頼んだのが間違いだと意外なことを言う。「岡は警察の事だって碌すっぽ知ってやしない、芳川家から急報に接した時に、岡は確かにノロマの新聞屋なんぞに未だ此の事件を嗅ぎ付け得やしまいと考えたのが大間違いさ。否や岡の馬鹿野郎と言えば、彼の芳川家の事が新聞に出てから三日ばかり経つと急に狼狽して各新聞社の社会部長とやら云うものを招待し、萬望〈どうぞ〉此の上深く芳川家の内情を突込んで書いて呉れるなと叩頭百拝して頼んだそうです。間抜けも此位だと警保局長も勤まりますね」と驚きの暴露に及んだ。確かに、ふたりの遺言の存在を隠したり、新聞記者をまくために囮の車を出したりと、芳川家が木で鼻を括ったような対応をしたことも世人の反感を買った。これらの指示を岡喜七郎がしていたとしたら、風向きを読み誤ったと言うしかない。一握りの権力者よりも大衆の声が次第に大きくなった大正らしい挿話ではある。

 


 

〈おもな参考文献〉
平塚らいてう「茅ヶ崎より」(『現代の男女へ:らいてう第三文集』南北社、大正6年)
与謝野晶子「芳川鎌子さんの情死」「芳川鎌子さんの情死(再び)」(『鉄幹晶子全集18』青弓社、平成13年)
山川菊栄「女と消極的反抗」(『山川菊栄集 評論篇 第一巻 女の立場から』岩波書店、平成18年)
山川菊栄「芳川鎌子と九条武子と伊藤白蓮……新聞紙に呪われたる彼女の愛子」(『山川菊栄集 評論篇 第二巻 女性の反逆』岩波書店、平成13年)
山田わか「芳川鎌子夫人の情死沙汰を如何に観るか」(『第三帝国』(83)第三帝国社、大正6年4月)
長谷川時雨「芳川鎌子」(『新編 近代美人伝(上)』岩波文庫、昭和60年)
「芳川伯爵気の若夫人は何故情死したか 上流子弟の憐むべき状態」大正6年3月10日付東京朝日新聞
無記名「法律時評」『法治国』(30)(東京法律事務所、大正6年4月)
「芳川家若夫人の事件 より以上の事が カフェーの夜話」(『東京』1(4)帝京社、大正6年4月)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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第11回 消費される夫人 前編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『夫人と運転手心中するまで:小説』徳田春風 1917(大正6)年
『伯爵夫人:千葉情話』青木緑園 1917(大正6)年

今回は、小説そのものよりも元凶となった実際の事件とその反応におもに焦点を当てていきたい。

本連載は、第1回でも謳ったとおり「「夫人小説」に現れた夫人(女性)、世相、風俗描写を通して読者に求められ、受け入れられてきた近現代日本の夫人像の変遷」を辿るというものなので、本邦の夫人史(そんなものがあるとして)に大きな爪痕を残したこの椿事を扱わないわけにはいかない。

まず、あらましから見ていこう。

それが起こったのは1917(大正6)年3月7日18時55分のこと。

省線(国鉄)千葉駅発本千葉駅行き列車が県立女子師範学校(現千葉市中央区富士見1-11)横を進行中、線路脇で抱き合って蹲っていた男女が立ち上がり、上着を脱ぎ捨てて飛び込んだ。

ふたりともはね飛ばされたが、顔面を強打して血まみれの女性に対し男性は軽傷のようで、すぐさま女性に駆け寄った。

驚いた機関士が汽車を停めると、男性は女性の耳元で「あなた一人殺しはしません、私も必ず死にます」などと叫んでいたが、人が集まって騒ぎになったため土手に行き、持っていた短刀で首を突いて自死した。

女性は病院に搬送され、左頭部に重症を負いながらも死は免れた。

ふたりは、伯爵家の娘、芳川鎌子※(27)とお抱え運転手の倉持陸助(24)。

陸助は独身だったが、鎌子には夫の寛治と4歳の娘があった。

事件の詳細をすっぱ抜いたのは大阪朝日新聞で、都新聞が「千葉県の心中 東京の男女らし」(3月8日付)などと報じるなか、翌朝にはいち早く二人の素性と写真を大きく掲げ、その関係性や前日の行動を詳報した。

高貴な家柄の女性と雇い人の心中事件はただでさえスキャンダラスだが、大朝に出し抜かれたことで他のマスコミにも火が点き報道合戦が加熱、「千葉心中」という呼称までついて一大センセーションを巻き起こした。

流行語が生まれ(「鎌子式」「鎌子病」「鎌子コンプレックス」「運転手になるのだっけ」「運転手にご注意」など)、小説が書かれ(『伯爵夫人 恋の仇夢』『伯爵夫人 後の仇夢』『小説 生別死別』など)、芝居になり(『千葉心中』『長澤兼子』など)、映画になり(『玉子夫人』)、流行歌ができ(『千葉心中』『伯爵夫人 千葉情死』など)、講談(『千葉情話 浜子夫人』)や浪花節(『鉄道情死 千葉心中」)になり、そのうち浄瑠璃ができるだろうと嘲罵された。
また、平塚らいてう、与謝野晶子、近松秋江、山川菊栄、下田歌子、矢島楫子など、さまざまな知識人が是非論を展開した。

というのも、この件には勘案すべき点が多々あったためだ。

芳川鎌子は1891(明治24)年に芳川顕正伯爵の四女として生まれ、学習院女学部時代には「非常な高襟〈ハイカラ〉の跳ねっ返り」だったが、父の一番のお気に入りで甘やかされて育ったという。

学習院卒業後に曾根荒助子爵の次男寛治を婿に取り、四女の身ながら家督を継いだ。

これは六人兄弟中男子二名が早世し、長女と次女は縁付いたあとに出戻っていたためである。

運転手の倉持陸助は1894(明治27)年に栃木県佐野市に生まれ、中学を退学していくつか職を変えた後に三井物産株式会社に入り、自動車の運転免許を取得して運転手となった。

同じく三井物産に勤務する鎌子の夫の寛治の運転担当となった関係で、事件の前年に芳川家で自動車を購入してからはお抱え運転手として邸内に住み込んでいた。

鎌子の父、顕正は1842(天保12)年生まれ、阿波国(現徳島県)の藩士から官僚となり、山懸有朋の右腕として司法、文部、内務、逓信大臣を歴任し、東京府知事、枢密院副議長を務めた大物。

1896(明治29)年に子爵に、1900(明治40)年には伯爵に叙された、いわゆる新華族である。

また、長女以外すべて正妻の子どもではなくそれぞれ別で、そのうえ元芸者の妾を囲うなど女性関係が乱れていた。

鎌子の夫の寛治は1882(明治15)年生まれで鎌子の9歳上、三井物産に勤務していたが、これまた遊び人で花柳界に入り浸るほか妾宅も持っていた。

事件の後には、鎌子の姉(芳川家次女)とも通じているという噂がまことしやかに囁かれた。

華族にありがちな爛れた環境だったといえる。

出戻り娘の姉二人は本来であれば再婚してしかるべきだが(とくに長女は惣領として婿をとるのが自然である)、独身のまま実家にいる点から、父が娘たちに強く言えなかったことが透けて見える。

なぜか四女の鎌子が跡取りをすること、その鎌子は権妻(妾)の子どもで、長女は正妻の子どもであることを考えると、家のなかで密かな権力争いがあったことも想像に難くない。

次女が鎌子の夫の寛治と通じていたのも家督を狙ってのことだったのではという邪推も働く。

さらに言えば、寛治の実家は子爵であり、伯爵である芳川家のなかでなんとなく軽んじられていたという話もある。

どの角度から見ても家庭内はバランスを欠いていた。

鎌子は、買い物に行く際に車を出させたり、上野精養軒での食事に付き合わせたりと陸助と何かと行動を共にしていた。

事件の4日前の3月3日、姉たちはふたりの関係が怪しいと言い立て、陸助を解雇し、鎌子を軟禁状態に置いた。

寛治は入婿の立場で強く言えず、ますます外で憂さ晴らしをする悪循環に陥っていた。

それから心中に至るまでに何があったかは不明である。

ただ、ふたりが午前0時に邸を抜け出して千葉町に向かい、陸助の親戚が営む宿屋で紹介された旅館で一晩を過ごし、翌朝また親戚の宿屋に引き返したことはわかっている。

そこで朝食を摂った後に巻紙、絵葉書、封筒、硯箱を取り寄せて何事かをしたため、午後三時に出発、死に場所をさがして数時間彷徨って線路に行き着いたと考えられた。

マスコミは当事者に話を聞けないため周辺情報を探ったが、芳川家は前警保局長の岡喜七郎をスポークスマンに立てて対抗、ふたりの遺書は小使い(雑用係)が破棄したと言ったり(その後、12日付都新聞に遺書らしきものが出たが「やったやった 倉持はやった、三面記事をよごしてくれ」など真贋のわからないものだった)、鎌子退院の際にも囮の車を出してマスコミとカーチェイスを繰り広げるなどしたため、芳川家の対応が高慢だと世間のさらなる反感を買った。

退院後の鎌子は姉の家や別邸に身を隠したが、板塀に「姦婦鎌子ここにあり」と書かれるなど、行く先々で嫌がらせに遭った。

結局、寛治とは離婚したが、養子の寛治が芳川家を継ぎ実子の鎌子が分家することになった。

父は事件の一週間後に枢密院副議長の座を辞して隠遁、それでも可愛い娘を突き放すのに忍びなく、寛治に妹と思って面倒をみてくれと頼んだという。

事件のおおまかな説明をするだけで一回分に達してしまったが、複雑な事情が絡み合っていることがおわかりいただけたかと思う。

実はこの後も成り行きが二転三転するのだが、ひとまず経緯を追うのはここまでとする。

次回はこの事件に関する著名人の見解から、当時の受け止めや考え方を探っていこうと考える。

※戸籍上は「鎌」だが、報道などに倣ってここでは「鎌子」とした。

 


 

〈おもな参考文献〉
無記名「千葉県の心中 東京の男女らし」(『都新聞』大正6年3月8日)
菅野聡美『消費される恋愛論 大正知識人と性』(青弓社、平成13年)
千田稔『明治・大正・昭和 華族事件録』(新潮文庫、平成18年)
長谷川時雨『近代美人伝(上)』(岩波文庫、平成13年)
杉本苑子「伯爵夫人の肖像」(『杉本苑子全集 第12巻』(中央公論社、平成10年)
秋山清『秋山清著作集 第7巻 自由おんな論争』(ぱる出版、平成18年)
朝日新聞社編『朝日新聞100年の記事に見る恋愛と結婚〔明治〕〔大正〕』(朝日文庫、平成9年)
西沢爽『日本近代歌謡史(下)』(おうふう、平成元年)
末國善己『夜の日本史』(辰巳出版、平成26年)
岩井良衛『女藝者の時代』(青蛙房、昭和49年)
菅原孝雄『狭間に立つ近代文学者たち』(沖積社、平成12年)
村上信彦『大正女性史(上)市民生活』(理論社、昭和57年)
城北童子「情死した鎌子夫人」(帝京社『東京』1(4)、大正6年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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