第16回 吹雪の日には

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

「そういえば、この前実家に帰ってたんですね」と友人に言われて、そうですそうですと答えた。

近所に新しくできたスタバの隅の席で、「急に寒くなりましたねぇ」とか「夜なのに、田舎なのに人多いですねぇ」とか、こうして友人と二人、おしゃべりしている。お互い0歳児を育てながら、今夜は子どもを夫に任せて家を出てきた。友人は店内を見回しながら、かつて新宿で働いていたときのことを「昔はよくスタバ行ったな〜」とふり返る。しばらく店内にいると、ここがどこのスタバなんだかわからなくなってきますね、と話してちょっと笑う。

去年十一月に生まれた子どもを、まだ父と妹に会わせられていなかったこともあって、先日二年近くぶりに帰省した。夫は仕事で、子どもと二人、はじめての長旅にわたしはすっかり疲弊していた。しかし実家に来て三日経っても抜けきらない「気疲れ」があった。

その日は、わたしと子どもも合わせて家族全員で近所のジンギスカン屋に行った。授乳を終えて飲む念願のビールも、そこまで進まないしあまり酔いが回らない。家族でする外食自体がもう二年ぶりとか、と母は言っていた。遅れて合流した父は、この午後に次の自動車免許更新のためにはじめてメガネを作ってくると言っていた。しかし本人も母も妹も、そのことを話題にはしない。どんなメガネ選んだの、とかメガネ見せてよ、とか聞くでもない。父の方から見せるでもない。ただみんな、黙々と肉を焼く。誰も話さない。子どもが泣いて、わたしが一人で立ってあやしている間も会話はない。黙っていても間が持つからジンギスカンでよかった、と思った。

わたしが帰らなかった約二年の間に、わたしの知っていた実家は少し変わったようだった。家を出て、四年と少し。もちろんそこに暮らすメンバーが変われば関係性も変わるだろう。だから長いこと不在だったわたしが居づらく感じるのも、ほんとうはそんなにおかしいことじゃない。でも。ここは実家なのにな。わたしはいつでもここへ帰ってきて、両足を放り出してあー疲れた、って言えるはずじゃないんだろうか。実家って、無条件に居心地のいい場所なんじゃ、なかったっけ。そう考えるのはわたしの思い込みで、ただ甘えているだけ、図々しいんだ。

子どもとはじめて対面する妹も父も、ああこんな顔するんだと思うような破顔一笑、こんな声でこんな風に子どもに呼びかけてくれるんだ、とちょっと泣きそうになった。そうやって実家のリビングを好奇心いっぱい動き回る子どもを一緒に観察したり、母も父も妹も、それぞれと話すときは楽しいのに、わたしは、久しぶりに顔を合わせて話せることがこんなにもうれしいのに、なぜかもう、「みんな」で話すことはできなくなっている。会話のラリーってもっと自然に、たとえばわたしを除いた三人の間で誰かが話しかけて、そうやって関心をひらいて応えるということがない。そのことにわたしは帰省して三日目の夜に、ジンギスカンを焼きながらやっと気づいて、眠る前に少し泣いた。

「一番居心地のいい場所って変わりますよね」と友人は言う。そう、もうわたしは自分の帰る場所を新たに見つけたのだと言えばそうなのだ。だから家族はわたしが思うほど、別に大きく変わった訳じゃないのかもしれない。はたから見ればハラハラしても、本人たちは案外どうってことないのかもしれない。それでも、ずっと考えてしまう。

スタバからの帰り道、自転車を押しながら友人と並んで歩く。営業を終えた暗いガソリンスタンドの存在感に気づいて、「ここ、前からありましたよね?」「あったあった、ガソリンスタンドってやってない方が存在感あるんですねぇ」と言い合って通り過ぎた。またお茶しましょうねと手をふって別れてから、一人自転車を漕ぐ。「藤村食料品店」と書かれたぼろぼろのシャッターの前には小さなポストと、電話ボックスが隣り合って立っている。古式リラクゼーションの前の申し訳程度の弱々しいイルミネーションの光。整形外科の、煌々と白さを放つバカでかい看板。ペンキ塗りたての「歩行者注意」。夜だから、田舎だから、歩いている人はほかにいない。車もほとんど通らない。暗闇で生まれたての青い信号。呼応のような信号の点滅。街灯もわずかで、暗くて自転車を進めるのが怖い。ひゃ〜とか声に出て、ずんずん進む。いつもいつも、自転車に乗りながら感傷に浸るのはばかみたいだ。

わたしは実家の家族のことが大切だ。楽しかった、大切にされた記憶をいつまでも抱きしめて、ほんとうは一人ひとりが今考えていることを知らない。まだ小さい頃、父が母の手を繋ごうとして、わたしがそれを見つけて駆けて間に割って入って飛び跳ねながら帰った。思い出は漫画のコマのようにいつの間にか俯瞰される。あったことは変わらない。変わったのは関係なんだ。誰が悪い訳じゃない。それぞれの、父と母の、母と妹の、妹と父の関係をわたしは知らない。もしかしたら、許せないことがあったのかもしれない。ぶつかることをなんとか回避して、やってきたのかもしれない。「上手くやっている家族」として見過ごされない、消費されない、飲み込めない、えずくような脂身の塊のようなものがいつまでもあったのだとしたら。わたしはそれを知らずに、知ろうとせずにここまで来たのだ。

昼間、子どもが眠る横でムーミンとお茶をする。向かい合ってお茶を飲むのはわたしたちの日課で、夫がいることもあるが、たいてい二人でぽつぽつ喋りながら、あるいは黙ってお茶を飲む。

ムーミンはわたしの話を聞いて、「家族っていったい何なのでしょうね」と言った。うーん、と言ったきり黙っていると、

「私は、家族でしょうか」

いたって真面目な声。ムーミンの瞳は深い青色をしている。

 

 ロマンチック・ラブ・イデオロギー吹雪から猛吹雪になるところがきれい 北山あさひ

 

好きな人と恋愛して、結婚して、子どもを産む。それが普通で正しい人間の営みなのだ、と掲げるロマンチック・ラブ・イデオロギーを、そのど真ん中を突き進みながらわたしはけれどいま、疑う。しあわせなわたしは、いつまでもこの状態だからしあわせなのか。しあわせだね、というまなざしをつねに誰かに向けられながら、それには微笑んで、けれど泣いて夫を罵る日がある。吹雪のなかを行くわれわれの視界は真っ白だ。目の前も、手を引き合う人の横顔さえも見えない。吹雪のなかでは風のうねりが耳を塞いで呼び合う声も聞こえない。さらに風は強くなり、雪がどんどん目や口に入る。猛吹雪に変わりつつあることを、渦中のわたしたちは知り得ない。それがうつくしいと言うひとは、ここではないどこかで、この吹雪を眺めている。

 先日、いつも子どもと行くプレイルームで託児付きのワークショップが開かれた。ロープを編んで簡単な壁掛けのタペストリーを作るもので、抽選に当たった自分を含む「ママ」たちが集う。

講師の女性は明るかったが、参加者はなんとなく疲れて、コミュニケーションをこの場で取ることを始めから望んではいないようだった。おしゃべりしながらわいわいやるものだと思っていたから少し驚いて、しかしわたしもすぐにその空気に順応した。会議室に等間隔に座って手先に集中するそれぞれ、みんながみんな、同じように俯いている。全員が左手薬指に指輪を嵌めている。きれいに身なりを整えて俯きながら無言で黙々と指先を動かす一人ひとりが、そうするとみな重なりあってひとりになる――。

もしもわたしたちがこれからも一緒に生きていくならば。それは仮定ではなく、絶対の約束だった。運命なのだと、思い込んで微笑んで、みんなの前で誓い合った。今でもひどい言い合いの後には夫の首元に濡れた顔面を押しつけて「好きだよ」と言う。わたしたちを繋ぎ止めるこの「親密さ」こそが、誰にも渡せない、誰もほしがらない、このぐちゃぐちゃな編み目のマフラーだけが、吹雪のなかを進むためのたったひとつのアイテムなのだ。寒すぎる。凍えてしまう。家族は所与のものではない。だからきっと、わたしたちはわたしたちの家の窓を開けておかなければならないのだ。このほころびから、家族の破れ目から他者を招き入れて、お茶やお酒や、ご飯をふるまう。他愛もない話をいくらでもする。家族のほころびから生まれるだれかとの関係によって、束の間わたしたちの声は気丈さを取り戻すことができるのだ。

ふと、実家から帰る飛行機のなかのことを思い出す。子どもはひとしきりはしゃいだ後、こてんと寝た。着陸体制に入った飛行機がゆっくりと旋回して、そのとき光が太く、小さな窓に入ってわたしと、子どもの左頬を照らした。読んでいた本で子どもの頬を隠して、視界の端で陽光をわたしは感じていた。窓から覗く海面は深いみどりで、波はちいさく均されている。どんどん街が見えて、毎週行くスーパー、コジマ、ここいらでは高層のマンションの煉瓦色、そして街を象徴する興産の工場の、二本の煙突が見えた。高度を下げて、着陸する寸前まで煙突の煙がずっと見えて、ここに帰ってきたのだと思った。

家族のなかの、言葉がある。わたしたちだけのコミュニケーションがある。実家にもそれがあったのだ。「やだー」とか、「信じられないー」とか言って笑って、弾む会話があった。きっといまも、その破片をひとつず拾って、見せ合うことはできる。壊れたんじゃない。壊したのでもない。関係は、変わるのだからわたしはこれからも実家の家族が大切で、元気でいてほしくて、ほんとうは縋っているだけなのかもしれない。大切だからって壊さないように覆い被さってしまうのではなく、割れたって仕方ない。次はそう思ってひとりの他者として、子どもを連れてまた実家へ帰ればいい。家を離れた自分だから、束の間家族を繋ぐことができるかもしれない。

そしてわたしはわたしの家の窓を、寒くたって吹雪いてたって、いつも開けておかなければいけない。そのようにして、ムーミンはこの家にやってきたのだから。

 

第15回 わたしの綱

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

子どもを寝かしつけた後、真っ暗な寝室でそのまま、夫と寝転びながらぽつぽつ話す。今日出かけたスーパーで日曜日を過ごす人々の往来を見ながら、なんだかずっと夢みたいだと思ったこと。ほんとはずっとわたしたちは並行世界を生きてるんじゃないか。

先頃、コロナに罹った妊婦が自宅出産し、新生児が亡くなった。搬送先が見つかっていれば助かった命だ。そのニュースが頭から離れない。コロナなんてなかったら。現にこのパソコンに「コロナ」は予測変換されない。横浜に住む家族が心配だ。早くワクチンを打ってほしい。もしも、と思うだけで喉がぐっと狭くなって苦しい。もうずっと、ほんとうは心がめちゃくちゃだ。

もしも病気がなかったら、という可能性を二人で考えて、しかしそうなれば睡眠も必須ではなくなるかもしれない、働きづめになるかもしれないと夫が言う。じゃあ病気になることは滅多にない、とか。死ぬ年齢がみんな百歳、とか。偶然のない世界。不条理は嫌だが偶然はどうか。

でも、と夫が言う。すべてに理由や原因があればそれは自己責任論に簡単に結びつくよね。たしかにそうだ。でもわたしはずっと死ぬのがこわいのに。ちゃんと手に綱は摑んでいるはずで、自分の分と、家族の分。大丈夫と言い聞かせて実家にもこまめにメールをして。子どもの写真も添えて。守れるものを気持ちで守っているはずで。何かがさっと通り過ぎて、あえなく死んでしまうかもしれないと思うだけで、また喉が苦しい。

夫は骨髄バンクのドナー登録をしている。

白血球抗原(HLA)が患者と適合すればドナー候補になったことが告げられ、問診や検査など問題なく進むとドナーになる。夫は過去にも三度、候補になったことがあった。そして最近、四度目の〈ドナー候補のお知らせ〉が届いた。ちょうど育休中なこともあり、時間の融通も効く。今度こそなれたらいいなと意気込んでいた。

以前中止になってしまった要因の腰痛についても今回は丁寧に状態を説明してクリアし、クリニックでの検査へと進んだ。ほんとうにドナーになる、なれるかもしれない、と親へも事情を話し、承諾を得、二人でその場合の家事や育児の分担、シュミレーションなども具体的に考えていた矢先だった。コーディネーターから「ドナー打ち切りが決定しました」と連絡が入った。

検査時に体調面の確認をした際、何度か失神したことがあると話したことがどうも原因らしい。しかし原因不明のものではない。「迷走神経反射」と診断もついて、こちらとしては深刻に捉えていなかったものだった。それでだめになるのか、なら黙っていればよかったか、でもそれはそれで何かあったときに大問題にもなりかねない。それでもすぐに呑みこめるわけではなかった。

コーディネーターは「ドナーの健康第一ですから」と繰り返した。途中から断ってスピーカーオンにした夫のスマホから聞こえる顔の知らないその人の声に泣きそうになる。

わたしが思い出していたのは、前回夫がドナー候補になったときのことだった。数ヶ月後に自分たちの結婚式を控えていた。一度きりの大事なときにもし夫になにかあったらと思うと、わたしはどうしても、頷けなかった。

ドナーになるには、家族の同意が必須である。患者にはドナー候補が見つかったことは既に知らされている。しかしこちらは、自分のほかに候補が他に何人いるのかは明かされない。つまり、自分だけが候補の可能性もある。もしもこの綱を離してしまったら――。そのときもわたしは泣いていた。夫の表情は覚えていない。自分のことしか考えられないのが情けなかった、ふり返ればそう思える。なぜ、あのときわたしは泣いたのだろう。

ドナー打ち切りの連絡を受け、夫は拍子抜けのぽかんとした顔になる。こちらとしては懸念されていた自分の体調や体質も問題ないと理解している。病院で検査にあたった医師も平気でしょうと言っていたのに。こんな大事になるとは思っていなかった。

もう一度コーディネーターに掛け合ってみようと二人で話し合って、翌日改めて臨んだ場。「妻も実は今このやりとりを聞いているんです。話したいみたいなのでいいですか」と夫が言って、わたしが話したのは、先の件なのだった。話し出すまで、自分が何を言うかわからなかった。

あのとき以来、夫にも話していない。一度自分の都合でドナーを断ってしまったこと、そのときの後悔がずっと胸にあること、だから今回こそは、と強く思っていること。そんなつもりはもちろんなく、けれど話せばそのうちに涙が頭の後ろのほうからやってくる。知らない人との、声だけのやりとりのなかで泣いている。あのとき助けられなかった人は、今回助けられるかもしれない人と、関係がない。そもそも助けるなんてわたしが思うことではない。助けることができるかもしれないのは夫だ。わたしは、わたしの都合だけで気持ちを楽にしたいと思っているだけなのに。「奥さまのお気持ちはよくわかりました。もう一度、お二人の思いをスタッフに共有します」とコーディネーターは言った。

ずらっと並んだコーラのペットボトルのなかから、躊躇いなくその一番奥のひとつを取っていく人がいる。スーパーに行くたびに必ず目にする光景なのに、それでも毎度怯む。その人が去った後、ついコーラを確認してしまう。一番手前のものでも賞味期限は来年の十月。今選ばれたコーラは半年後に飲んでも大丈夫なものなのに、そんなところで未来への保険を当たり前にこちらへぐいと引き寄せようとする手つきに勝手に傷ついている。夫は「ただ冷えたものが欲しかっただけかもよ」と言うけれど、そうだとしてもあまり変わらない。

意識すらしない自分の生への執着が、ときにこんなに見苦しい。みんなきちんと間隔をあけてレジに並んで、清算の順番を待つ。そこにマスクをしていない人などいない。帰り道でも交通ルールを守って、わたしは日々運転する人々の、そのアクセルを踏むときの右足の慎重であんなに繊細な踏み込みと、しかし一番賞味期限の遠いコーラを得ようとする乱暴すぎる心とが、同じであることが信じられない。もちろん、それらの行為が同一人物のうちに一致するわけではないが、それでも。そして角度を変えればわたしだって知らぬ間に生きることの執着心を剥きだしにしてだれかにゾッとされているかもしれない。気づいていないだけで。

いや、生というよりただ欲望のままに、ただ一点すこし未来の自分が困らないためだけに、他者の生を冒したのはだれでもなく、わたしだったのに。

実家に暮らしていた頃、最寄り駅前の交番に「県内の事故数 昨日の死亡者」という看板があって、それは嫌でも目に入った。特に「昨日の死亡者」はどうしても確認せずにはいられずに、だいたいが毎日0と1か2を繰り返すのだった。0の日は安堵する。1や2の日はそのとき一瞬間、鋭くかなしくて、しかし改札を通り一分後に発車する電車に乗るために走って扉が閉まってタオルハンカチで汗を押さえる頃にはわたしはその数字のことを忘れている。運よく乗れた急行電車に運ばれながら、バイトや学校、遊びのことをあかるく想像しているのだった。

震災だってコロナだって、一年間の自殺者数だって、こう羅列してしまえることがしんそこ厭なのだ。そこにわたしの知るだれかがいないことと、たくさんの死者の数字。数字で知るだれかの死に、あるいはもっと経緯まで知る凄惨な事件・事故の死に、それでもわたしは明くる日にはもう涙を流さない。ただそこにわずかに残るほんのすこしの悲観的な空気はだんだん湿り気を帯びて、何かが兆す。ふいに頭が痛くなる。呼吸がうっすらしづらくなっていく。何もせず、安全な場所にいながら所在なく、ただかなしめる自分が醜いと思う。

匂いから懐かしさを何度でも手繰り寄せて、雲はこんなに奥行きがあるし、風がなまぬるい。「息抜きしておいで」と言われてコメダ珈琲に行った帰り道、黄色い点字ブロックと並走しながら、このまま一本道を行けばじき家に着く。思春期の延長線上をどこまで行くのだろうわたしは。かなしいこともうれしいこともどんどん均されて、自己愛だけが膨張していく。

この前まであった整骨院はいつの間にかなくなって、移転のお知らせがちらと見えた。母親にしがみついて両手で母親を揺さぶっている男の子。こうして立ち止まっては書き継いでいくからいつまでも信号が渡れない。でも目にした瞬間に書いておかないと忘れてしまう。忘れてしまっていけないことなどあるだろうか。ましてやこんな瑣末な風景。夫が乗っていた自転車はサドルの位置がいやに高く、片足のつま先立ちで信号を待つ。スマホから目を離した遠近法の視界には等間隔に幹のなめらかな木が立って、ところどころ今は百日紅が見えている。あかるい色だ。

結局、夫は今回もドナーになれなかった。それどころか、失神の一件でドナー登録も抹消されることになってしまった。まあ、それならこれからも献血をつづけるしかないや、と言って夫はかなり沈んでいる。わたしは今のところ思い当たる疾患はないが、腎臓は一つしかないからやはりドナーになれないかもしれない。己の剥き出しの不安に蓋をするように、だれかを助けたいと衝動的に思う。

わたしがドナー登録のためにはじめて献血に行ってから、数えればちょうど一年半になる。職場で親しくしてくれた同僚の娘さんが白血病だと聞いた。しかしとても遠い。わたしが助けられるのはその娘さんではない。何も言葉を返せずに、勝手に苦しくなってそれでいて、他者へはこんなにも及ばない。ぎゅっと自分の綱を握り直す。自分の分と、家族の分。もっとたくさん、友だちや大切な人はまだいるのに、両手はふさがっている。綱ははてしなく長い。とき折、ものすごい力で引っ張られることがある。そのようにして運動会の綱引きを思い出す。

ぐっと摑んで踏ん張らないとすぐにずるずると引き込まれてしまう。手のひらに指に、ごわごわした綱が喰い込む。砂埃が立つ。みんな、こうしてそれぞれがそれぞれを守っている。偶然はこわい。やっぱりみんな、百歳まで生きて死ぬのがいいんじゃないか。いっそ、碇ゲンドウの人類補完計画は成功すべきだったのではないだろうか。ふり向いて、家族は友だちは、自分の綱をちゃんと力いっぱい引いているだろうか。砂埃でよく見えない。

ただ冷たい風がここを通り過ぎて、驟雨に身体が濡れている。わたしはわたしを、大切な人を、ほんとうには守れない。自分が生きてずっと、必死に摑んできたそのロープの先には、しんじつ何もない。じゃあなんでこんなに、この綱は重いんだろう。何がこの綱を引いているのだろう。わたしが助けられるのはだれだろう。死ぬのはずっとこわい。でもやっぱり、わたしはこの綱を諦めることができない。