第14回 朝が来るなら

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

わたしには、どうやら腎臓が一つしかないらしい。

らしい、というより事実そうなのだが、CTを撮ってその結果を医師から電話で聞いただけなので心情として「どうやらそうらしい」としか言いようがない感じがある。

いったい、腎臓一つ疑惑が立ち上がったのは産後、腎機能がかなり低下しているとかでエコーを当ててみたところ、いくらその辺りを滑らせても片方の腎臓が見当たらない。そこで改めてCTで検査した、といういきさつからなのだった。

だれかに「わたしは腎臓が一つなのです」と話す機会などおそらくないだろうけれど、もしそんなことを聞かされたとしても「お気の毒」と言うしかなく、かといって、じゃあわたしは腎臓が一つでこれまで不自由したかというとそんなこともない。生まれたときから、いや生まれる前から腎臓一個でやってきたのだ。威張ることではないがポンと胸でも叩きたくなるここち。

医師には「まあ結果やはり一個だったんですが、ないものをこれからどうにもできないので、ひとつの腎臓を大切に、交通事故には気をつけてくださいね」と言われて、それはみんな気をつけたほうがいいのだろうけど、「はぁ、ええ、はぁ」とむにゃむにゃ言って電話を切った。

腎臓が一つしかない、というのは字義としてはただ端的に悲劇であるが、なんだか選ばれし者という主人公感もにわかにやってきては威勢よくわたしの肩を叩くようで、勝手に煽てられてすこしニヤニヤしてしまった。母には「製造者としてなんか悪いね」と言われ、夫には「三人合わせて五つの腎臓でがんばろう」と励まされた。私と夫と赤ん坊、秘密の石のようにそれぞれが持ち寄って掲げ、するとたちまち光りだす、わたしたちのまばゆい腎臓――。

母とはそのままLINEで話がつづいていて、「そういえば昨日おばあちゃんと電話した?」とふいに聞かれる。

祖母と話したのは、もう何週間も前だ。卒寿のお祝いに花を送った。お礼の電話がかかってきたのがたぶん、三週間以上は前。一緒に送った子どもの写真を何度も見返している、と言っていた。祖母は九十を過ぎても週に三日はプールに通い、毎日二度、欠かさず犬を散歩に連れ出す。電話の向こうからこちらへ届く声はいつも明るい。変わりない、おばあちゃんはいつも、ずっと元気、と思っていた。

電話したのはかなり前。テンポよくつづいていた母とのLINEが止まった。「そっかぁ」と返事が来て、時間にすれば一分もなかったが、遠く離れていても、そこには沈黙があった。風呂が沸いたことを知らせるメロディがいつもより大きく響いて、夜はしかし昨日と同じように静かで暗い。祖母の話はそれきり、母から猫の写真がつづけて届く。実家の玄関の隅に置かれた段ボールのうえに手足を折り畳んで自分も箱のようになって、目を瞑っている。尻尾がまっすぐに垂れている。

「こうやって一人になりたいときもあるみたい」と母は言った。

はじめてのCT検査は思っていたより大仰なものではなかった。わたしの場合は造影剤も必要ない単純検査というもので、ただ息を止めて大きな輪っかを何度か潜るだけで済んだ。

出産時入院したのが大学病院だったので、検査も同じ、なんというか大きな病院は大掛かりで、人も多い。

生まれてくる子どもについて、成長曲線を下回っているという不安はありながら、それでもわたしは希望をもって子を産むために入院した。けれどもここは、それぞれがおそらくいささか厄介な病気を抱えて、つまりはひとりには持ち切れない不安を携えて訪ずれる人もたくさんいる場所なのだということ。生まれる命以上に、人が亡くなる、それが日ごと繰り返される場所なのだ。

病室のベッドで、眠れないときには仕切りのカーテンの襞を見つめながらそう、ぼんやり考えた。それだって、眠れるときには考えないほど、生まれた子どもの世話で忙しくしていれば目を背けることなどやすいことだった。

通された待合室には午後一番の検査を待つ人でいっぱいで、無音の情報番組をぼんやり眺めながら、どのくらい時間がかかるものかと気を揉んでいた。技師と思われる男性が順に撮影する部位の確認などして回っている。

聞こえてくるそれぞれのすこし不安げな声のなかに、父と同じくらいの、声だけで父なのではないかと思う男性の、造影剤を入れる注射についての質問がこちらまで届く。首を捻ってそちらを向けば、その人は父よりかなり上に見える。でもなんだか、泣きたくなる。なんでだろう。父はいまも元気で、たまにメールのやりとりをする。一回目のコロナワクチンを打ったらしい。満月の日には写真を送ってくる。画素数が粗くぼやけていて、満ちているのか欠けているのか、よく分からない。子どもの写真を送り返すと、今にも喋りだしそうだ、などと言う。でも声は長いこと、聞いていない。

 

「でも知らなければ知らないまま、ということですね」とムーミンが言う。

「だって、見えないのだし、見たこともないのだし」そうつづけて、お茶を注いでくれる。

たしかにそうだ。まあ、全然気にしてないんだけどね、と言うとムーミンはまだ同情のまなざしをこちらに向けている。

「わたしの中身は、なんなのでしょう」ムーミンがお腹の辺りを撫で、軽くひと叩きすると、ぽふ、とかなしい音がする。「見えないのであれば、わたしはなにも知らないことと、それは同じなのですね」

 

その日は近所のミスドで夫と子と、子はベビーカーに乗せたままそれぞれが読書をしたり、わたしは締切に追われて文章を直していた。すると視界の端に認めていたおばあさんが隣の席に荷物を置いた。

おばあさんは全身、上から下まで身にまとうアイテムのすべてが赤い。気づけばするりと至近距離までやってきて、赤ん坊を見つめ、かわいいね、何ヶ月かね、あんよだして寒くないかね、などこちらに話しかけるというよりは独り言のようにつぶやいて、その声はだからこちらに届くよりも小さく、うまく聞きとれない。

夫が(知り合い?)と目線を送ってくる。小刻みに首を振って二人で手を止めたままおばあさんを見上げる。とりとめもなく、どこか歌声のようで、ただおばあさんの口のなかで言葉が回っている。しかもなぜかマスクを外している。遠まわしにこちらに文句があるのでもなく、かといって何か伝えたいことがあるようにも見えない。これはコミュニケーションなのか、分からないまま「ええ」とか「はあ」とかぞんざいな返事をしながら、合間には「ごめんなさいね」とおばあさんは何度も謝るのだった。

おそらく、昔の話をしている。あそこの大学の先生なんかは、とか固有名を挟みながら聞き返すタイミングがつかめない。店員や、周囲がわたしたちの困り顔を見ている。生返事を繰り返しておばあさんはやっとわたしたちを解放してくれた。半ば逃げるように席を立ち、ミスドを後にした。本当は原稿を仕上げてしまいたかった。もっと集中して、有意義に過ごしたかったのに、というおばあさんへのちょっとした苛立ちが登り、けれどそういう自分の了見には苦味がある。

おばあさんを異質なものとして、取り合おうとしなかったこと。周りに見られていたこと。赤ん坊の足をつついたおばあさんの指の細さを、覚えていない。顔も、思い出せない。わたしはおばあさんのことをただその異質さとしてしか把握していなかった。

そのとき「すみません、聞こえません、もうすこしだけ大きな声で話してくれますか」とも「その前にマスクをつけてくれませんか」とも言うことができた。あるいは「いまは忙しくてごめんなさい」と断ることだってできた。でも、わたしたちはそれすらしなかった。

くだんのミスドに行くたびに、いるかな、とちょっと身構える。以来目にしていないが、あのおばあさんは、もしかしてわたしの祖母ではなかったか。病院の待合室で聞こえた声は、父のそれではなかったか。

わたしは、祖母にそれきり電話を掛けていない。祖母は今日もスイミングに行き、犬を散歩へ連れて出る。もしもし、ごめんなさいね、そう知らないだれかに話しかけては煙たがられる、それはわたしの祖母ではなかったか。いや。もしかして変わってしまったかもしれない、祖母を知ってしまうことを避けながら、わたしのなかでそうすれば祖母はいつまでも快活だ。相手に聞こえるかどうか分からずにしゃべりつづけていた人に相対しないことは、いまを歩く祖母を見ないままで追い越すことではないか。

あるいは、きっとこれからどんどん老いてしまう父を置いて、わたしは真実、何をかなしんでいるのだろう。自分の大切な人に元気でいてほしい、というただどうしても切実なねがいは、それだけで随意に果たされるものではけっしてないことをわたしはまだ知らないのだ。

どこからか水が漏れだして、水位の下がったプールにいつまでも浮かんでいるように、気分だけがほんの少し、湿ったままで乾き切らない。ただ新しい朝などない。いや、そう思う向きにただ、いまは寄っている。感じる風やその匂いなど、ほんとうにわたしに新しいものはひとつもなく、思い出のそれを繰り返し取り出しているだけ。目覚めてうれしい朝なんて、そんなのこれまであったんだっけ。七月の、朝はまだ風が涼しい。

もうすこしだけ目を閉じて、自転車で誰もいない広いなめらかな歩道をゆけば、わたしは解放感を覚える。ハンドルから両手をちょっとの間、離してみる。自転車に乗っているときぐらいしか、直によろこびを感じない。ブレーキをかけずに目の前と、その次の信号が青になって、その先は見えないからわからない。どこまで待たずに渡れるだろうか。

自由は目に見えず、腎臓も目に見えない。ムーミンがなんとなく言いそうだ。なんじゃそりゃ、と思う。通り過ぎる床屋のサインポールの回転の速さは、どこも同じなのか。メタセコイアはなぜあんなに、等しくてっぺんが尖っているのだろう。蝉の声がする。平らな夏を生きている。だれと、何と。均された夏を見送って、自分だけが変わらないと信じている。そんなことはない、と言ってくれる人はいるだろうか。

 

 

第13回 夫の逆立ち、わたしたちのサーカス

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

アパートのベランダからは、小学校の校庭がよく見える。おーい、と手をふれば声が届きそうなほど、だから暗くなってからは目を凝らせば職員室の明かりのなかに人がいるかどうかも見える。もし子どもがこの小学校に通うことになれば、体育の時間にベランダから「がんばれー」と声援を送ることもできるかもしれない。平日なら仕事があるか。五年後六年後、まだ教員をつづけているだろうか。そんなことをぼんやり思う。

今日は校庭の奥にズラリと子ども用の自転車が並んでいる。体育座りの子どもたち、先生に、警察官。どうやら自前の自転車を使っての交通安全指導のようだ。先生の「手遊びしないよ」というお叱りがここまでしっかり聞こえてくる。
午前十時、ぐずりながらも寝つかない子を抱っこしながらその様子をしばらく眺めていた。警察官の話は長く、自転車の出番はなかなかやってこない。

今の子どもたちはみんな、ひとり一台自分の自転車を持っているものなのだろうか。自転車のない子は肩身の狭い思いをしないだろうか。余計な心配をしながら、自分の子どもの頃は塾に行くときもピアノのレッスンも、もちろん友だちと遊ぶときにもいつだって自転車に乗っていたことを思い出す。

フリーマーケットで入手したピンクの、ずいぶん古い型の自転車。みんなのとは違ってなんだか車輪がひと回り小さいのがすこし恥ずかしかった。サドルが低く感じるようになってからは、イトーヨーカドーの入口前に並んで売られていた七色のもの。赤を選んだ。どちらの自転車にも、後ろにはしっかりした作りの荷台があって、友だち数人と連れだって出かけるときに自転車のない子を後ろに乗せるのはわたしの役割だった。凹凸の多い道のハンドルの取り方、車道から歩道への段差のちょっとした衝撃、ゆるやかな勾配へ差しかかるときの、右脚の踏んばり方。風にのってきれぎれにやってくる、後ろの荷台に跨った友だちの話し声。そういうものを覚えている。

そうして友だちばかりをたくさん乗せて、いつか恋人を後ろに乗せて一緒に学校帰りなんかに寄り道したい、と思うようになったのは中学生の頃だったか。しかしその後高校生になっても後ろに乗せる人はおらず、長い坂道をいつしかわたしは両手離しで自在に操縦できるようになっていた。ひとりの自転車を持て余して、不必要かつ危険な特技を身につけてしまったのだ。「二人乗り厳禁」とかなり厳しく言われるようになってからは人を乗せることも、とんとなくなった。だから、夫を自転車の後ろに乗せたこともおそらくない。

「もうこの紫陽花はいよいよ今日まで、といったところでしょうか」と背後からムーミンの声がする。ベランダから校庭を眺めながら、子もいつの間にか目を閉じて、ぼんやりしてしまった。

ふり向けばたしかに、食卓に置いた花瓶の紫陽花は萎れている。近くの道の駅で買った紫の紫陽花は、色が吸い上げられたように所どころ、セピア色に変わっている。つい一昨日あたりまでは元気だったのに。数日水遣りをさぼってしまったからかもしれない。ムーミンはすこし、悲しそうだ。

新人賞への応募など、いくつかの締切が重なり、ただおろおろと泣き言を浮かべていたのは先月末で、その間花への水遣りを怠るばかりか家事や子守のほとんどを夫が引き受けてくれていたのだった。特に夜間、よく眠りなよと言って別室で一人で寝かせてもらったおかげでなんとかすべてを無理やり書き上げ、六月は晴れやかな気持ちで迎えることができた。やあこれでゆとりもできたのだし、みんなで公園にピクニックにでも繰り出そうかという折、夫が熱を出した。

夫がこんなにしっかり風邪を引くのも珍しいが、今回は加えてなかなか熱が下がらない。原因はおそらく重なった疲労と寝不足なのだろうけれど、それにしても。もう四日も寝込んでいる。翌日近所の内科へ行き、しかし検査はなしにコロナではなく風邪でしょうと言われさらなる養生を言い渡された。

そんなの、検査もせずに決めつけて、熱だけこんなに長引くなんておかしいと、それを夫にぶつけてつまりはわたしもこの状況に疲弊していた。先の見えないワンオペレーションフル育児は二人体制にすっかり慣れた身にはわりあいしんどく、イライラをまとめて弱った夫に投げつけてしまう。そんなことしたってどうにもならないのに。もう知らないよ、とかなんで治らないの、とか一番困っているのは夫なのにそんなセリフを毎晩浴びせ、おやすみもろくに言わず子と切れ切れの浅い眠りを繰り返した。

果たして夫は徐々に回復した。自作の離乳食盛り上げソングを歌う高らかな声が聞こえてきたときには安堵したし、久方ぶりに夫の逆立ちが見られたときは完全に元気になったのだと確信した。夫は出かけた先で逆立ちをする。なぜだかいつの間にやらそういうルールができて、ゴミ出しのついでに、公園やドラッグストアの広い駐車場で、夫は毎回ほいっと逆立ちをした。それをわたしは記録して、ツイッターに上げたりしている。そういう日常が戻ってきて、うれしい。

されど、なんとこのチームの脆いことだろう。ひとりが倒れれば、そこへ覆うようにしてわたしは文句を垂れ、空気はさらにギクシャクし、すこしの子どものぐずりさえ一切が一瞬間に嫌になってしまう。誰かが大変なときこそ、というのが家族というチームのかくあるべき姿ではなかったか。夫はわたしが締切に追われているとき、不機嫌な顔ひとつせずにすべてを引き受けてくれた。なのにわたしときたら。自分の大変さだけ声高に主張して、それだってもとより好きでやっていることなのに。

そもそも家族って、と思う。たしかにわたしたちは四年前、夫婦になることを選択した。もしも今もう一度選び直す岐路に立つのなら、どうするだろう。結婚という制度に乗っかって二人、同じ名前で、生きたいだろうか。なぜわたしたちは同じ箱に入ることを選んだのだったか。家族とは、家とは錆びついた檻なのだろうか。その錆は、もう力尽くでこすり落とすことはできないのだろうか。

例えば、誰とでも写真に収まってしまえば家族に見えるのだろうか。家族写真が家族たらしめているものってなんだろう。(植本一子『個人的な三ヶ月 にぎやかな季節』)

植本一子さんの新刊にドッグイヤーしていたこの文章を思い出す。ベビーカーを押して、買い物袋を提げて、おしゃべりしながら歩くわたしたちはきっと家族然としている。わたしたちが自分たちのことを家族であると意識することがないのは、それを疑うことなく生きる、そういう毎日を送っているから。家族に見られることは、安心できることなのかもしれない。だれにも変に思われないから。だれからも、指をさされないから。でもそれは、ほんとうに自分のためなのだろうか。

家族という響きは揺るぎない。吹けば飛んでゆくような、やわなものじゃない。そう、思ってはいないか。だれって、そうわたし自身が。

ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」のなかで、一番目の元夫である田中八作(松田龍平)が「夫婦なんて、強いとこじゃなくて弱いとこで繋がってるものなんじゃない」というシーンがある。それに主人公大豆田とわ子(松たか子)は「そうかもね」と微笑んで返す。これは実際には「もしもあのまま夫婦であり続けたとしたら」という二人の想像で、そして二人はそうなることを、選ばなかった。

でも、もちろん頷ける。町を歩くわたしたちはどこにでもいる夫婦、家族で、もしかすると幸せそうだ、と思われることも場合によってはあるかもしれない。けれどこんなにもその内実は脆く壊れやすく、近づいてみれば張りぼてのようにちょっと中が透けている。なかにあるものは。なんてなにもいいものは入っていない。こんな毎日いったいいつまで、と立ち止まって途方に暮れるような変わりのない一日いちにちと、だからふり向いたってなにがあったか、本人たちも覚えていないこだまのような残像のいくつか。

全員の機嫌がいいときなんて、滅多にない。日々はシーソーのようにあなたが不機嫌ならばわたしはちょっとだけ張り切っている。わたしが落ち込むときは、あなたが逆立ちをして見せてくれる。地面を蹴ってしばらくの間、宙に浮かんでそのとき見える瞬きの景色を、わたしたちはすぐに忘れてしまう。

「紫陽花の花言葉をご存知ですか?」とムーミンが言う。知らない。「なんなの?」と聞くと「移り気、冷酷、などもありますが、家族、団欒、和気藹々なんかもそうですね」とのこと。

家族団欒和気藹々。ふーんと思う。漢字ばかり並べてみればなんだか暴走族の当て字みたいだ。みな繋がっているようで、家族だから団欒するわけでも、家族だから和気藹々なわけでも、ほんとうはない。たしかにわたしたちは家族で、はじめはそう意志して夫婦になった。意志して? いや、「流れで」というほうが正しい。好きになったのも気づいてみればそうだったじゃないか。結婚だってその流れのうちでしたことだ。他人同士がそうして気づけば一緒になって、自分を象る輪郭は、相手と手を繋ぐことによってのみ、はっきりとする。わたしたちはほんとうには、はじめから終わりまでをひとりで、けれどもこうして一緒にいる。握る手の力を強めたり、緩めたりしながら。

もうすぐお昼、空腹も感じながら脱力してベッドに身体を蹴伸びするように、滑らせる。すこし前にシーツを夏仕様のひんやりしたものに替えて、摩擦する腕や腿がそのまんま、さらさらとして気持ちいい。うつ伏せの状態から顔を窓のほうへ向けて、梅雨の真ん中、ここ何日も晴れがつづいている。

水色のシーツには紺のほそいストライプが入っている。腕を伸ばして手のひらで大きく表面を撫でればストライプは波打ってそれがゆるやかなカーブになる。道みたいだ。昔よく、車道の白線からはみ出さないように自転車を走らせた。そういうひとりの遊びのようなもの。ちょっとだけ遠くを見るとはみ出さずに漕ぐことができた。べつにこれはなにかの比喩なわけではない。わたしは自転車で、両手離しだってできる。夫はその横で逆立ちのまま、なんだかサーカスみたいだ。子は最近獲得したハイハイで応戦する。だいたいが不機嫌でつまらない毎日を、三人で暮らす。夜露死苦、唯我独尊、喧嘩上等。いいじゃないか、ヤンキー文化。なんかすこしかっこいい。三人でガン飛ばしながら、スーパーへ行こうか。

サーカスよ いくたび生まれ変わっても辿りつけないつばさを見せて 平岡直子