第10回 手をふっている

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

布団に入る前にはたいていムーミンがお茶を淹れてくれる。そのとき「アイスでも食べる?」と聞くとたいてい夫は二つ返事で「食べる〜」と言う。

今日はTwitterで見て気になっていたバターアイスを食べた。ほんとにバターだ! 罪深い! と口々に感心しながら食べ終えて、あとは歯を磨いて寝るだけ。なのに夫はたまにこの最後の工程、歯磨きをスルーして布団にダイブしてしまう。

わたしとムーミンから非難を受けても構わずに、「じゃあ聞きますけどムーミンは歯を磨くんですか?」とか言う。

そんなこと言ったら、生活におけるあらゆることはたいてい面倒くさい。食べたあとに食器を洗って乾かして、それらを食器棚の定位置に戻すことも、服を着て脱いで洗って取り込んで、ひとつずつ畳んでクローゼットにしまうことも考え出したらおそろしいほど、家事労働ってまったくクリエイティブじゃない。しかも毎日それを繰り返しているなんてあほらしくて脱力してしまう。

 宇宙的スパンで見れば風呂のあとまたすぐ風呂の生物だろう 虫武一俊

という短歌があるが、同じことを飽きずに(いやもうほんとは飽きている)繰り返して繰り返してそうして死ぬんだから生きることとはすなわちお風呂に入ること、歯を磨くこと、そしてたまに我に返ってほとほと嫌になってサボって臭くなったり虫歯になったりすることでしかない。

夫はそのようにしてあざやかに歯磨きを怠った結果、歯医者で歯周病予備軍と言われた。自分の口内にうごめく菌を見せられて一度は改心したはずなのに、時が経てばほらこのとおりなのだから生活とはまさにハムスターの回し車のようだ。

いつだったか、歯磨きをせずに布団に入った夫を見かねて「じゃあわたしが磨いてあげようか」と提案すると喜んで大きく口を開けてこちらに身をあずけてきたけれど、磨き終えて口をゆすぐためには自分の力で洗面所に立たないといけないと気づいてたいそう悔しがっていた。情けない。

しかしまあわたしだってたいして人のことは言えず、身体なんてものの十秒もあれば洗い終わるくらいテキトーで、一緒に温泉に入った友人に「もう洗い終わったの?!」と驚かれたりする。身のまわりのことだってたとえば洗面台はすぐにぬめぬめにするし、風呂掃除はいつももやもやと垢のあたりを撫でるだけだ。汚して拭ってまた汚して、甚だうんざりするがすべてを怠れば、最後に行き着くところはすなち死。

窓辺のパキラに長いこと水をやり忘れていたら新しい葉が生えてこなくなってしまったように、人間だって食べることや眠ること、もしもあらゆる身の回りの世話をしなくなれば比喩ではなくて、いずれ死ぬ。そう考えれば趣味も恋も勉強も、やりたいからやっているのだと、その理由を考えなくて済むようなことにわたしたちはなんとか生かされているのだろうと思う。

だからふとふり返って今までせっせと埃をはらって掃除して、つとめて住み心地のよさを維持してきたこの部屋の奥に、あぁこんなところに引き戸があったなと暗がりに目を細めれればそこには死が、こちらのようすを息をひそめて窺っている。もしも全部に嫌気がさして、家具をなぎ倒し壁紙をビリビリに破けばすぐにそれは剥き出しになるだろう。そこまでいってしまえばあとはもう話が早い。

さっきの夫の屁理屈に間を置いて氏は、

「夫さん、そうは言ってもわたくしは…ムーミントロールですから」

とかなしそうな顔をして、ふたたび本に目を落とした。トロールは歯を磨かなくてもトロールだけど、わたしたちは人間として、歯を磨いて生きるしかない。夫は黙って洗面所に立つ。

このように生活のすべてが面倒ならば、人とかかわり合うことなんて信じられないくらいに面倒なはずなのに、LINEの返事をおいたまま、けれどすがるようにTwitterをひらくときがある。求めていることがちぐはぐで、そういうときは自分がなんだかすごく嫌になる。

わたしはけっこう、人には好かれるほうだと思ってきた。いや、害がないと言ったほうが正しいかもしれない。子どもの頃は友だちづくりに苦労することなく周りにはいつもだれかがいてくれて、でもどうしてだろう大人になって、気づけばそばにいるのは夫と子どもと、ムーミンだけになってしまった。といってこれは大仰な話だけれど、それでもわたしは随分と、多くの関係を自分から手放してきてしまったんだろうなと思う。

友だちのことで泣いたのはいつが最後だろう。

高校生の頃、部活で仲良くなった隣のクラスのMちゃんが習いごとが忙しくなってきたからと、急に退部すると知ったあのときがもしかするとしまいだったか。同じ学校なのに、いなくなるわけじゃないのに、なんでかこころが打ちのめされて、干あがった川の横を自転車でいつもより時間をかけて歩く速さで涙を落としながら帰ったことを覚えている。

わたしにはあのときのような他者への情熱というものがもうないんだろうか。そうするとたちまち自分が冷たくてものすごく厭な感じの生きもののように思えてくる。

だから映画「花束みたいな恋をした」でわたしが一番ぐっときたのは、エンドロールのなかの二人の姿だった。

菅田将暉演じる「麦」が描いたシンプルな線のイラストでふり返る、いとしい二人の日々。そのなかに劇中にはおそらく描かれていない、スープストックの前にたたずむ二人が流れてきて、こんなシーンあったっけ? と不思議に思った。

そしてあれ、と思う間もなくすぐに二人はスクリーンからぽわんといなくなり、今思い出そうとしてもあいまいに、もしかすると店の前に佇んでたんじゃなくて店内でスープを食べるイラストだったかもしれない。

試しにTwitterで「花束みたいな恋をした スープストック」と検索したらひとりだけ、「エンドロールにスープストックでスープを食べる二人のイラストがあった気がするんだけど気のせいかなぁ」とつぶやく人を見つけた。

けれどたしかに観る者にとってこんなにあいまいに通りすぎてゆくだけの、でもそうだよな、麦と絹、二人が過ごした五年の間、当然わたしの知らない二人だけの一日がたくさんあったのだ。当たり前のそのことに、なぜかものすごくあたたかい気持ちになって、流れるエンドロールを追いながら喉がぐっと苦しくなった。

当然のごとく、だれかとだれかの間にはわたしの知らない、知ることのない親密なやりとりがあり、また知らない諍いがある。そしてそれ以上に数多くの、本人たちも忘れてしまうようなうつくしく瑣末な日常がある。

そんなふうだから、たとえば町のスタバで向かい合ってフラペチーノに目を落とす、かつての絹と麦のような楽しげな二人を見ると、彼女たちも涙と唾でぐちゃぐちゃなキスをするのだろうか、とかぼんやり思ってしまうのだ。

なんて話をムーミンにすると、

「そりゃそういう日もたしかにあるのかもしれません。でもわれわれが知るところのものではないでしょうね。だってわれわれは彼らとなんにも、関係していないのですから」と言われた。楽しげな二人の国に今まで積もって固まった、その地層を他人は知ることはない。他者の関係性への想像力ははたしてどこまで飛ばしてよいものなのだろう。

近所の寺の前の掲示板には、週替わりなのか月替わりなのか、住職が考えたものと思われるありがたいお言葉が書になって貼られている。あまり意識せずにいたが、理由があるのかないのかおそらくもう半年以上、
「悩みのない家庭なんてひとつもない、悲観するな」
という文言が貼られっぱなしになっている。悲観の悲の字が大胆にかすれているのがなんだかわざとらしい。

これを目にしたあなたが何に悩んでいるかはわからない、けれどみんな悩んでいるのは同じだから大丈夫、そう思うだけで安心するってもんでしょう、という意味か。でもそんなの。

宇宙の大きさに比べたらわたしの悩みなんてちっぽけだ、ってやつになんだか似ている。でもそれにもあんまり、納得はできない。そんな風に宇宙レベルのでっかさに悩みをビュンと飛ばしても、結局そのボールはいつかは自分の手元に戻ってくるのだから。パンパンに空気の入ったボールをどうにか手懐けて、みんなに見られる前に早く自分のお腹にしまわないといけないのに。

もちろん、人の悩みのすべてを知ることはできないし、だれかのしんどさをずっと横で肩代わりすることもかなわない。

「人には人の乳酸菌」みたいなフランクなノリで、しかしほんとうに、人には人の地獄がある。そのことへの想像力と、その人の地獄を覗かせてもらうことがコミュニケーションなのだとしたら、わたしはこれまでどんなにたくさんの関係を失ってきたのだろう。LINEの返事を怠り、いかにもいい友人ぶって「いつでも話、聞くからね!」なんてそんな言い方じゃだれもわたしに大事なことを話してくれはしない。あなたにとって無害な友人は無害なまま、わたしはいつのまにかどうでもいい友だちになってしまったのだろうと思う。

そんなことばかりつづけて、ほんとうは今もあなたと話したいのに、でももうわたしから話しかけることはできなくなってしまった。全然だめだと思う。わかっていながらそういう関係をいくつもいくつも、見送ってきたのだ。

映画のなかに描かれないところで人は生きている。だれにも見せるつもりのない、日記にさえ書かずに終わるようなことを気兼ねなく話すこと、イラつく自分をためらわずに見せていくこと、そして辛抱づよくあなたも見せてと言いつづけること、ままならない自分とままならない他者のいっさいを引き受合う、しかも一回きりじゃない。何度もなんども引き受けつづけることでしか、関係性は持続できない。何度も後悔したはずなのに。

夢のなかに出てくるかつての友人はやさしい。でも表情がここからでは遠くて、全然わからないのだ。

 春に眠れば春に別れてそれきりの友だちみんな手を振っている 服部真里子

 

第9回 いくつかの花言葉

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

午睡のまどろみのなかで、わたしと母と妹はカフェを探していた。あそこは混んでそうだし、もう少し先のところならたしか外にも席があったはず。寒いけど、屋外のほうが安心だよね。うつむきながら風をよけ、3人で少し遠くのカフェを目指した。

それはつまりとうとう、夢のなかにまでコロナの現実がやってきたということで、考えてみればどうやら夢にわたしの生活が反映されるまでにはいつも多少の時差が生じるらしい。

だから大学生になったときも、結婚したときも夢のなかでしばらくは高校生であったり、独身だったりした。そのうち遅れて夢の中身もアップデートされ、そこにようやくリアルなわたしが映し出される。もっと精巧なあたまならば、アップデートも早いのかもしれないが、わたしのほうでは半年くらいはそのまんまだ。

そういうわけでまだ、夢のなかにわたしの子どもは出てこない。代わりに妊娠中の夢は今も見ることがある。そこでわたしはビニル袋に水を湛えたかのような、スケルトンのお腹を抱えてひやひやしながら自転車に乗っていたりする。中身は透けているはずなのに、赤ちゃんの顔は曇って見ることができない。

「やっと眠りましたね」と言ってムーミンがお茶を淹れようと、お湯を沸かしにキッチンへ立った。ありがとうと返しながら、よいしょとソファへ腰掛ける。

子は、ひとしきり泣いて泣き疲れたのか身体を反らしたまま、ぱかーんと口を開けて天を仰いで寝てしまった。求肥のようなふるふる生まれたての肌から乳児湿疹を経て、まだつっぱった皮膚、ところどころめくれた皮、泣いたあとのまばらな睫毛。鼻の穴には立派な鼻くそまで、呼吸とともに見え隠れしている。大人みたいなくしゃみをしてつづけてあくびをして、ようやく眠りに落ちた顔にそういう跡を見つけるときに生きてんだな、と思って急にどうしても、ぐんと涙が湧いてくる。

わたしが赤ちゃんとともに帰宅した日、ムーミンは食卓に花を飾って待っていてくれた。

「スターチス、あなたの誕生花です」と言って子とわたしとを交互に見、

「花言葉は『変わらぬ心、途絶えぬ記憶』」とつづけた。

沈黙。夫を見ると笑っている。

花言葉ってなんかクサイね、とわたしも笑うとムーミンはそうですかね? と真面目に返した。そして子のもとへしゃがみ、

「はじめまして、私の名前はムーミントロール。あなたの名前は?」と問いかけた。そうして、しばらくの間子をじっと見つめていた。

 

一つ前の冬にエッセイ集を出した。

とにかくたくさんの悪口が言いたかった。気に食わないことばかり、うまくいかないことだらけ、世界が憎かった。憎悪と嫉妬を煮えたぎらせて半ばやけになってまとめ上げた一冊を、『せいいっぱいの悪口』と名づけた。

何かを生み出してしまえばそれでおしまい、投げた石が小さすぎて波紋もなくただ沈んでしまうように、だれからも反応がないのでは、と考えれば考えるほどにこわかった。こわかったけれど、その実わたしが目をつぶって手に掴んで無言でエイと投げたものは石ではなく、だから返ってきたのは色んなひとの、さまざまな声だった。そのどれもがひとしくうれしいもので、声が返ってくるたびに生きていていい、生きていていいと言われているような気さえした。

とくに、心に残っている声がふたつある。

「同じ悩みを持っていると思って共感したけれど、結局楽しそうに、幸せそうに生きてるんだと思って萎えた」という言葉には落ち込んだ。ごめんなさいと思った。そう思わせてしまったことを、詫びたかった。

本を読み終えてからTwitterを覗いてくれたのだろう。

「搾乳中にたくさんおっぱいが出はじめると夫が歌を歌って盛り上げてくれる」だの、「雪が降ってうれしくて深夜一人で外に出てみた」だの、たしかにわたしのツイートはたいてい楽しげだ。そしてこちらから何を弁明しようにも、ブロックされているので言葉を返すこともできない。きっとそのくらいの拒絶感ということだ。共感していたからこその、なんだこいつも結局幸せかよという落胆。仲間だと思って思わせられて損したと、その怒りをエネルギーとしてそのままわたしにぶつけてくれたのかもしれない。

「読んだ後にTwitterを見ると出産されていて、自問自答をやめて新しい命に出会うことを選んだんだなと思った」

というつぶやきも、よく思い出す。こちらは決して激しい言葉ではないけれど、ふたつはもしかすると似ているのかもしれないと思った。

そのひとは「まだわたしは子を産む決断はできないから、すでに生まれて存在する、猫をひたすら甘やかしたい」とつづけて書いていて、まったくそれこそが正しく誠実な命とのかかわり方なのではないかと、一気に冷たい水が胸を満たして溺れるような、そうしてその水が時間をかけてお腹へとひと筋ずつ下りてゆくのを息をつめて耐えているような。それと同じ速さで時間をかけて自分の選択をじりじりと反省するしかないような、ただそんな心地になるのだった。

悩んでいたことは、嘘ではない。悩みが消えてなくなったわけでもない。わたしは本のなかで、こう書いた。

「生まれてきた生、というものへの全肯定のまなざしと、しかしまだ生まれていないものについての、それならば無理やりこんな世界に引きずりこむというその必要のなさ、について考える。考えてもわからなくて、子どもを作るというのは、問うことを止めることなんじゃないかという話になる。そうなのかもしれない。やめなければ子どもなんて作れない」

 

どうしてわたしは子どもがほしいのか。寂しいから子どもがほしいのか。何度問うてもそれ以上は説明のつかない自問自答に、子どもができたことでわたしは考えることを、問うことをいっさい止めた。

川上未映子『夏物語』のなかで主人公の夏子は「あなたに会いたい」とまだどこにも存在しない子を指してそう強く願っていたけれど、「あなた」とはいったいだれなのか。まだ知らないその子に、会いたいということがいったいどうしてわかるのだろうか。わたしは、わたしのまだ知らない自分の子どもに会いたくて、子どもを得ようとしたのだろうか。

「選ぼうとしてしまうことが、そして多くは自分の意志で選べてしまうことが、こんなにももどかしくてままならない」

わたしは本のなかでこうも書いた。この一文だけが、読み返すたびなんだか字体が違って変に浮いている。だからいつも、ここでわたしは目を止める。

わたしは今まで何を選んできたのだろう。わたしはほんとうには、なにかを選ぶことができていたのだろうか。学校を選んで仕事を選んで、パートナーを選んで、そして子どもをもつ人生を選んだ。選んだからすべて、わたしはそれらを得ることができたのだろうか。

子どもがほしい、と思ってしまったことは事実だ。ほんとうはそう思うことを後ろめたく感じることもないはずだ。けれどあの日、自分も親も友だちも、この世界の何もかもがいつかは必ず終わってしまうと気づいてしまったあのときの、身体いっぱいのかなしさは消えないのだからと思うたび、一つひとつこの世のかなしいことを拾い集めて両手いっぱい見せつけるような、そんなことはもう、だれにも必要ないはずなのに。

こうして悩んでだれかを裏切ったような気持ちになって、反省して、すると突然泣き声がする。わたしは子を抱き上げて揺らしてその顔を見つめる。近ごろようやくぼんやりと、こちらを見つめ返すような気がしている。ついさっきまで泣いていたことが嘘のように、ご機嫌になって「あうー」とか「えうー」とか言っている。発語することそれ自体への果敢なチャレンジに、こちらも同じ音で返事をする。すると話しが通じたとでも思うのか、とたん呼吸は荒くなり必死に声を出そうとする。目を見てくれる。伝えようとしてくれる。そのこと自体の尊さに、わたしを充たす冷たい水はじんわりと体温をとり戻してゆく。

ほんとうはずっとこわい、ずっと苦しい。わからない。これからのことがわからないから、あらゆる方向のあらゆる可能性を考えはじめたらもうどうしていいのかわからない。どうにかこうにか、うつむいてなんとかやり過ごしてやってきたのに、丁寧に隠されていたものが剥き出しになってこちらを見ている。見ないようにしていたのに。それは真っ暗で、いくつも目があって、そのどれとも視線が交わることはない。じっと見つめようとすれば、吸い込まれるような、そうして目を閉じれば耳のなかにだけ轟音が響きだす。死ぬのはこわい。生きるのもこんなにしんどい。こんな絶望をこれ以上。これ以上だれかがあたらしく味わう理由なんてどこにもない。そんな勝手なこと、ほんとうはゆるされないはずなのに。

でも目の前で泣き出すから駆け寄る。考えることは先延ばしになる。何も解決していない。

信じられることがあるとすれば、今目の前の子は、わたしを、いやわたしの乳を欲しているということだけだ。あたたかいこの部屋、窓の外のくもり空、昼寝する夫の寝息。

刹那的といえばまったくそうで、瞬間を生きることは何かを猶予することではない。

 

「ルイボスティーを淹れましたよ」と言ってムーミンがお茶を運んできてくれた。夫も子も寝入った土曜の午後に、ムーミンとひそひそおしゃべりしながらお茶を飲む。

スターチス、紫いろが鮮やかで感じがいい。花自体が乾いているから、まだ枯れずにずっと、うつくしいままだ。花瓶を見ていると、

「紫のスターチスにはまた別に『上品』『しとやか』という花言葉があるんですよ」という。へえ、と返しながらなんかやっぱり花言葉はクサイなあと笑ってしまう。上品でなくても、おしとやかでなくてもいい。ただわたしに、まだ言葉にならない音そのものを懸命に伝えようとしてくれることが、泣きそうなくらい今はうれしい。

みんな好きに生きてゆきあう後付けの運命論にこぼれるなみだ  山階基