第6回 クリスマスがやってこない

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

いつもちょっとぬるいな、と思うカフェオレを飲みながら、店内に流れるオールディーズを聞く。ミスドの音楽がなんか好きだ。流行りの曲に感情は動かされないけれど、遠い昔の曲には子どものころ、母と好んで通った雑貨屋に流れていたあの曲と同じ、みたいな思い出が必ずくっついてやってくる。

客はわたししかいない。ひとりのために、冷房は過度に効いて、肩や首のあたりがすーすーする。店員が二人ともレジの前で人ひとり分の距離を保って、前を向いたまま何か話している。その声もこちらには届かずに、スーパーのなかに併設された平日夕方のミスドは、森閑としている。

もうすこし季節がすすんでクリスマスが近づけば、ここにもクリスマスソングが流れるんだろうな。高校生のころ、地元のミスドで日本史の問題集を開きながら、お皿のうえのドーナツを立てつづけに三つ食べ切ってしまって手持ち無沙汰で、流れるクリスマスソングをぼんやり聞いていた。犬上御田鋤と何度か書いて、字の間違いに気づく。そんなことを繰り返すから全然時代がひらかれていかないままテストを迎えた。

だれも来ない僻地のミスド、と思っていたらおばあさんがゆっくり手押し車を押しながらテーブルに辿りつく。「668円です」と店長が言い、それにしたがっておばあさんがゆっくりゆっくり小銭を数えてトレーに載せている。ついたての磨りガラス越しに、けれどその表情はここからは見えない。反対側の大きな窓には「おうちdeハロウィン」という賑やかな文字が、かぼちゃやおばけのイラストともに反転して写っている。もうずい分、気づけば日が落ちるのが早くなった。

クリスマス、べつに特別な思い出がなくったって毎年近づけばワクワクするのはなぜなのだろう。

地元の駅の改札を出て、まっすぐ歩けば辿りつくこの町いちばんの大きなデパートに、寒いからってとりあえず入ってゆく、そのとき全身で浴びるあたたかい風。何を買う目的もなくぶらぶらと練り歩くデパ地下の、ほうじ茶の匂い。そのお茶屋さんを抜けた先の角に、こぢんまりしたクレープ屋があった。円形のガラス越しに、クレープが焼かれて台に重ねられてゆくのを見ることができる。

小学生のころ、放課後自転車で町に出てきて友だちと食べたのはマクドナルドの60円のハンバーガーか、このクレープ屋の一番安い砂糖とバターのみのクレープだった。おいしいのかどうなのか、ほんとうは分からずに口のなかでジャリジャリ言わせてうすいクレープを唇の端でちぎっていた。流れるクリスマスソングにちょっと浮かされるようにして話す、好きな人のこと、ついこの前まで好きだった人のこと、もしかしたら好きになるかもしれない人のこと。

デパートの入り口に飾られたツリーは見上げるほどに大きくて、これどうやってここまで運んできたのかね? どうやってあんなてっぺんに星の飾り、つけたのかね? なんてさほど疑問でもないのに言い合って、じゃあまた明日ねってそれぞれの自転車に跨って帰った。ちょっと覚悟を決めるみたいにマフラーをきつく巻き直して、寒く暗い道をたまに立ち漕ぎで走らせる。途中から寒さは気にならなくなって、案外早く着いたマンションの下の雨ざらしの自転車置き場に雑に止めた。目の端で捉えるゴミ置き場の横の、発光する自販機。クリスマスまであとすこし。

ゆっくり席についてお勘定をしていたおばあさんも去り、またひとりになったミスドに、するとにわかに客が流れ込んでくる。一気にドーナツの棚の前に列ができて、しかし店員は慌てるでもなく、てきぱきと対応している。店にはこういう「波」が必ず存在することを、経験上知っているのだ。

大学生のころ、渋谷センター街のマクドナルドでバイトしていたときにもこの波というものをいつも感じていた。ドでかいポテトの飾りがビルに張りついたマクドナルド。

「この店はセンター街の顔だ」と店長がいつも言っていた。ここが渋谷の顔かねえ、と思いながらトレーをもたもた拭いたり、忙しなく人が往来するセンター街の十字路を見つめながら、のんびりガムシロップやコーヒーフレッシュの補充をした。それでもなお暇なときもあれば、あれよという間にレジ前に行列ができ、ビッグマックセットを間違えて十セット厨房に通してしまうほど訳も分からず忙しくなることもあった。「ほんとにビッグマックじゅう〜?!」と厨房から叫ぶ声が聞こえて、店長がわたしのレジに飛んでくる。

嵐のような高波を超え、静寂の戻ったフロアの汚れた床を眺めながら、波、これは波だなあと思っていた。そのたび、「ひさびさのビッグウェーブ、でしたね」とさっきひどいミスをしたくせに呑気に隣のレジのバイト仲間に話しかけた。

なんにでも波ってあるんだよねえ、と寝る前に布団のなかで夫に話したことがあるが、たしかあまり賛同は得られなかった。そういう人の波だけじゃなくてさ、お腹が痛いのだって、なんか波があるじゃん? と言ったらちょっと分かってくれたみたいだった。「バイオリズムってやつ?」と言われたけれど、うーん。とにかく、一定じゃないんだよ。万物、森羅万象は。

実家にいたころ、毎年クリスマスには父が鶏の丸焼きを作ってくれた。日ごろ料理をしない父が一年に一度だけ家族にふるまうご馳走。その昔、通っていた料理教室で習ったレシピで、父が料理教室に通っていたことにも今さらながら驚くけれど、でも覚えている。図書館横の地区センターの調理室のなかを、窓の外から母と覗いて手をふったことを。どのくらい通ったのか、結局父がその教室で習得したのは鶏の丸焼きとプリンだけだったけれど。

クリスマスのその日、父はひねもすキッチンに篭城してオーブンの調子を確かめたり、鶏肉のなかにピラフを詰め込んだり、ゆっくり慌ただしく、くるくると動き回っていた。ふだん使わない台所のどこに何があるのか、分からないからあれはどこだどこいった? とそのたびに母に訊ねる。そういうやりとりの断片が、自分の部屋まで聞こえてきた。つけ合わせのクレソンを買い忘れた、と言っておつかいに出されることもあった。

「たくさん食べで大きくなりや」と、ナイフじゃなくて包丁で鶏の脚を一所懸命切り落としながら、わたしや妹の皿にどんどん載せてくれた。小学生のときも高校生のときも社会人になってからも、毎年同じことを言ってくる。妹もわたしも、もう大きくならないんだけど、とはいつからか返さなくなって、ただ「うん」とか「はあ」とつぶやいてやり過ごした。

オーブンで時間をかけて焼かれた鶏は、ジューシーでおいしい。おいしいね、と毎回一応は父を労って褒めるけれど、肉と一緒に焼いた野菜やオレンジを煮詰めて作るグレービーソースを、母は毎年ちょっと味がうすいねえ、と評した。母はだれにも褒められずに、毎日ご飯を作ってくれたんだもんな、と今になって思う。ああそうかなあ、すんまへんなあ、と父が言うそのやりとり。様式美、という言葉を覚えたのは大学生になってからだっただろうか。それが果たして様式美なのかは分からないけれど。

その年は、家族が揃う日ということで天皇誕生日にクリスマス会がひらかれることになっていた。カレンダーには筆ペンで丸がつけてある。

ご飯のころには帰っておいでね、という母のメールを見ただけで、恋人との逢瀬にうつつを抜かしていたわたしは返事をせずに、結局帰宅したときにパーティは終わっていた。大学生にもなってそんなん。家族のクリスマスなんてべつに。先に食べててくれればいいのに、ずいぶん長く帰りを待っていてくれたみたいだった。テーブルにはわたしのお皿にきれいに取り分けられた鶏の大きな脚が載っている。なんとなく、そうろっと席に着くと、母が「あんたが好きそうだと思ったから」とおいしそうなフルーツのサイダーを冷蔵庫から出してくれた。あまり喋らずに食べ終えて、それからお風呂のなかでちょっとだけ泣いた。

自分の気持ちも世界もすべて、全部ぜんぶ知らないうちに変わってしまうのがこわい。万物流転、パンタレイ、三日見ぬ間の桜かな。あの日のクリスマス、実は時計を気にしながら、恋人が映画館のなかで耳を寄せて冗談を言って笑ったことも、わたしが返した言葉も通過してふり返るまでもなく、ほんとうにそうだったのか分からずに、だから後から首を傾げる。変わるはずなどないのだと、高を括って、いや他人ごとみたいに知らん顔で、だから変わってしまったことにも気づかない。相手を顧みない。顔を洗ったあとに目が合う自分の表情が、なんだか変だ。

今年、わたしの町に、あなたの街に、クリスマスソングはちゃんと流れるだろうか。去年と同じように。クリスマスなんて、ほんとうはもう来ないのかもしれない。大きな波が、知らないうちにみんなの大切なものをすべて攫っていってしまったから。

いつまでも面倒で出したままのクリスマスツリーにはいよいよ埃がかぶって、ジャンケンで負けてしぶしぶ押し入れに片付けたあと、猫が転がした飾りのひとつがソファの下から出てきてもー! と無気力にぼやく。あのときは、お父さん、ごめんね。何も言えずにただ勝手に悲しくなったあの年のクリスマスだってそうだ。そういう断片を今になってあわててかき集めて懐かしんでいるばかりならあのときの声を、表情を、なんでそのまま抱きしめて今までずっと、大事にとっておかなかったのだろう。

去年のクリスマスは、夫とムーミンとフィギュアスケートを並んで観た。いや、それは一昨年だったか。「拝啓、ジョン・レノン」に合わせて夫がめちゃくちゃに踊るのをムーミンと眺めていたのが去年だったかもしれない。友だちとハリーポッターを観に行ったのは。妹が生まれてすぐ、その枕元にお風呂で遊ぶ潜水艦のおもちゃが置かれていたのは。クラスの友人のお父さんのお通夜に行ったのは。クリスマスケーキを食べたのは。食べなかったのは。駅前の中途半端なイルミネーションを眺めて帰ったのは。すべてあった日のいつかのクリスマス、わたしは何をしていただろう。なにもかも、一緒になってひっくり返ってその箱のなかは、もうだれのものか分からない。

そんなんだから、わたしはこわいのだ。ほんとうに今年もわたしたちのもとへクリスマスがやってくるのかどうか。こんなに怠惰だけど、来ると信じて待っていてもいいのだろうか。

もしも無事にクリスマスを迎えることができたら、そのときはムーミンにクリスマスの帽子をかぶってもらいたい。ムーミンは「なかなか浮かれた被りものですね」と言って真面目な顔でわたしたちを見つめるだろう。

そして「お二人は被らないんですか?」と聞くだろう。

もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く  大森静佳

 

第5回 おくびょうな恐竜

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

もうこれ新しい季節「死」だろ、というツイートが流れてくる。たしかにそのくらい、ここ数日はとくに暑い。夏、本気だな。スマホをつるつると動かしながら、しばらくぼうっと扇風機の風に当たっていた。夫はもう起き出しているらしい。

いつもダイニングの定位置にいるはずのムーミンが今朝はいない。読みかけの本だけが伏せてある。ふりかえると、本棚の隅にペタンと座っていた。なんでそんなところに? と聞くと「夫さんがひょいとどかしたんです、それでそのままここに」というではないか。本棚の角におさまるムーミンは、いつもより小さく見える。そしてちょっと、かなしそうだ。抱き抱えて、いつもの位置に座らせる。もちろん、自分の意思でそうすることもできるのだけど。ありがとうございます、とムーミンは言ってふたたび本を読みはじめた。『炎上CMでよみとくジェンダー論』、ついこの前夫が読んでいたものだ。色んなことに興味があるんだな。

金曜の朝。いや土曜だったか。長いお盆休みのさなかにいて、曜日感覚がなくなっている。ムーミンが既に読んだあとの新聞をめくっていると、シャワーを浴びていた夫がバスタオルを首からマントみたいにして掛けて出てきた。ソファに座ってバスタオルで髪をわしゃわしゃやったあと、さてとと言ってテレビをつける。お、あれだな。

パネルでポン、というゲームがある。スーパーファミコンのパズルゲームだ。けっこう地味なゲームだけど、有名なんだろうか。一昨年の冬、発売以来話題になっていたミニスーファミをいいじゃんいいじゃんと勢いにまかせて買った。ゲームなんか普段しないのに。よっぽど暇だったに違いない。なかには予め21種のスーパーファミコンのゲームが内蔵されている。子どもの頃もとくにゲームっ子ではなかったので、どのタイトルも馴染みはないけれど、そのなかの「ヨッシーアイランド」だけはものすごく、なつかしかった。

小学生の夏休み、クーラーをがんがんに効かせた叔父の部屋で寝転びながら、いとこがおしゃぶりをくわえた赤ちゃんマリオを背負うヨッシーを山へ谷へと自在に動かすのをずっと見ていた。クレヨンのようなタッチの画面に、ほわんほわんしたやさしいゲーム音楽。いつまでもいつまでも、ヨッシーは赤ちゃんマリオを背負って地獄へ空へ、駆けるのに忙しい。あの頃はそれにしても一日が長かったなと思う。お昼に下の台所で祖母が茹でたそうめんを食べてから、どのくらい経ったんだっけ。小学生の頃は昼を食べたあとで眠くなって寝てしまうことも、今みたいにはなかった。今が午後の二時なのか三時なのか、ずっといとこのコントローラーをいじる手元と、そしてテレビ画面を見ていた。叔父は「うちのタマ知りませんか?」が当時好きだったようで、本棚や机の上に動かなくなって置き物と化したタマの時計や、ほこりをかぶったぬいぐるみなんかが飾ってあったことを思い出す。あなたんちのタマ、どこにいったんですか。どこかにいってしまったんですか。思えばなんだ、不思議なタイトルだな。

ぴこぴことした楽しげな音が流れはじめて、いつものように夫がパネルでポンをやっている。すでに前のめりだ。

ミニスーファミがうちにやってきてから、夫とわたしはパネルでポンにどっぷりはまった。というよりわたしがこれまでそれなりにゲームに興じてきた夫と対等に戦えるゲームがこれしかなかった、のだけど。マリオカートでハンドルを握ればたちまち元気に逆走してしまうし、カービィは空気をめいっぱい口に溜めこんでゲップを出させることしかできない。たまたまやってみて、なぜか同じくらいのレベルで楽しめたのがこのパネルでポンだったのだ。星やハートや三角など、同じブロックを左右上下に重ねて消してゆく。そして消したものが相手に邪魔なブロックとなって、お見舞いされる。画面が経過とともにせり上がり、先にいっぱいいっぱいになって天井についてしまった方が負けだ。負けても勝ってもわーっと声が出る。いや~とか頭を掻いたりする。愉快なゲームなのだ。

以来、かくして食後のひとときに、土曜日の朝に、日曜日の夕方に、われわれはパネルでポンでしのぎを削った。「パネポンやる?」が合図である。お互いに誘われたら断ることはしないのが暗黙のルールだ。そうしてしばらくやりつづけるうちに、ただ漫然とやるだけじゃあつまらない、ということで途中から「賭け」がはじまった。それは勝った回数に応じて、寝る前にマッサージをしてもらえるというもの。わたしたちは就寝前のマッサージ権を賭けてほぼ毎日、パネルでポンにいそしんだ。

ただただ、真剣勝負である。普段おだやかなわれわれも、このときばかりは画面越しに相手を煽り、けしかけ、口を極めて冷罵する。「まじで弱いな」「ねえ、いつから本気出すの?」「今日は全勝しちゃうな~」そう言い合ってそのたびに言われたほうは「はあ?」とか「そう言ってられるのも今のうちだと思いますけど」とか返すのだ。
不思議とどちらか一方が強くなるということはなく、今日負けたと思ったら次の日には勝つ。しかし勝ちがつづくことはない。均衡のとれた戦いが今もつづいている。

しかし今夫がやっているのはひとりパネポンである。このお盆休みを使って、夫は一人対戦のノーミスクリアを目指していた。戦う相手は花や水や炎などの妖精たち。倒すと仲間になってくれる。仲間になった妖精たちを引き連れて挑むのはドラゴン、魔王、そして最後に待っているのは女神である。お互いに協力し合いながら、あるいは夫一人で、苦戦しながらもこのエンディングに辿りついたことはこれまでにあるものの、一度もだれにも倒されずにクリアしたことはまだない。昨日はたしかドラゴンに負けた。今日はどうだろう。

それとなく画面を眺めていたムーミンが、「今日はついに達成できるような気がします」とつぶやく。そうかなあ、と言いながら、夫はどんどん妖精を倒し、ドラゴンをぺしゃんこにし、ついに最後の敵、女神コーデリアにノーミスで辿りついた。おお。わたしとムーミンも思わず前のめりになる。熱戦の末、しかし夫はコーデリアに負けた。主人公の花の妖精は「わたしは むりょく」と言っていた。夫が「もー!!」と叫ぶ。

眠る前、今日の奮闘を労って夫の背中をマッサージしていると「あと五年で死ぬとしたらどうする?」といきなり聞かれる。いきなりなんだなんだ、と思いながら「えー、別にふつうに過ごすかなぁ」とあまり考えずに答える。
「死にたくないな」と夫が言う。うつぶせになって、わたしにお尻を揉まれながら。

「明日死ぬかもしれないのにこんなことしてていいのかなあって思う。おいしいもん食べて、だらだら夜まで昼寝して。ぎゃーぎゃー言いながらパネポンやって。どんだけ長く人生つづくと思ってんのかよって。こんな弛緩したままでいいのかよって」そう夫はつづけた。わたしはマッサージには飽きて無言でずっと夫の尻のあたりをもやもやとさする。

人はいずれ死ぬという真理に気づいた者を世界は放ってはおかない。その真理に気づいた者は、正気ではいられないし、そんな者はこの世界に邪魔なのだという。言うと見つかってしまうから。世界はすべて、聞いているから。夫はそう矢継ぎ早に言って、今度はお返しにわたしの背中を押しはじめた。ぐっぐっといつもより力強い。う、あ、と声が出る。

そうなのかな。どうなのかな。背中をぐいぐい押されながら、高校生のころ、まだ暑い夕方と夜のあわいを友だちと帰りながら、膝から崩れ落ちるくらいただひたすらおかしくて笑っていたことをふっと思い出す。何についてそんなに笑っていたのか、わからない。息ができなくなるくらい笑い合って、暗やみになりかけの坂道をふらつきながら駆けていた。世界の全部を飲みこんで、だから全部が自分になってしまうくらいに大げさな、声と感情。戻りたい、というよりまたああなりたい。立ってられなくなるくらい、笑いたい。いや、泣くんでもいい。怒るんでもいい。そこに立ってられなくなるくらいの、大きなわたし。そういうのは、もうなくなってしまったなあと思う。それはすこし、寂しい。そういう気持ちとは、ちょっと違うだろうか。

「こんなに考えてるのにこうして考えてる主体がいつか消えてなくなるなんてわかんなすぎる…わかんなすぎる!」と言って夫はわたしのふくらはぎをバシバシ叩く。

そうだねえ。ちょっと痛いよ、と言いながら頭はまだあんまり夫の話についていけていない。パネルでポンでだらだら何度も勝ったり負けたり、安いお酒を気持ち悪くなるまで飲んで後悔して、暑い、かゆいって頭を掻きむしって。いいじゃないそれで。一葦にすぎないわれわれの、だれも見ていない毎日の暮らし。いいのかなあ。いいんだよ。でも感情がなあ。感情? 感情がだめだなあ。もっと深く息を吸いたい。自分がすべてになるくらい、世界を感じたい。それは、今のわたしたちには無理なのかな。さあねえ。どうだろうねえ。でもわたしたちは、一緒でうれしいね。そうだね。そうだよね。たぶんね。多分だけどね。とか言ってのほほんとしちゃうからいけないんだよ! そう言って夫はくるりと向きを変えて、寝てしまった。明日も暑いのかなあ。そうつぶやいて、けれど返事はかえってこなかった。明日こそは、夫は女神コーデリアを倒せるだろうか。倒せても、倒せなくてもまあどっちでもいいや。そう思って、夫につづいて目を閉じる。なんもない、一日だったなあ。わたしは今日の日を、いつまで覚えていられるだろうか。夫がコーデリアに負けた日を。暑くてアイスを二個食べた日を。考えているうちに、ようやく眠くなってきた。隣からは、すでに夫の健康な寝息がきこえてくる。波みたいだな。おだやかな、夫の寝息。

炎吐くことをためらう臆病な恐竜みたいな寝息に眠る