第2回 おにぎりから湯気は出ない

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

三月の終わりからあたらしく書き始めた日記がノート一冊、一か月経たないうちに終わってしまった。家にこもるだけの平らな毎日に、けれどペンを持てば出てくる言葉はこんなにある、ということに驚く。

土曜日の朝、ゆっくり風呂に入って出て、ベランダにバスタオルを干す。風が気持ちよくて、外に出てみる。このアパートに越してきたときにIKEAで買った、ベランダ用のテーブルと椅子。すでに洗濯物干し専用の台になっているけれど、久しぶりに腰掛けてみる。日光のもとで腕や足のムダ毛が目立ち、しげしげと眺めたり、たわむれに抜き始めてみたりする。実家の猫がベランダに出てやっていたことと、同じだ。

目線を上げると、目の前には小学校があって、校庭は工事中。昨年旧校舎が取り壊されて以来、体育館がまだない。建設会社の旗がたなびく。そのもっと先には立派な鯉のぼりが見えて、鯉のぼりの先端の風車がせわしなく回っている。こどもの日は過ぎたけれど、すぐにしまわれてしまうよりも、こうしてのんびり泳ぐこいのぼりが見られるほうが、わたしは楽しい。

昨夜はLINE電話で友だちと久しぶりに飲みながらおしゃべりをした。友人はこれを機に大掃除をしたり、布マスクを作ったりステイホームの毎日を有効に過ごしているようだ。ひとしきり話したあと、ちょっとの間があったときに「今着てるのは、寝まき? 部屋着?」と聞かれて、これはね、部屋着。「おっきくてかわいいね」と言われる。だぼだぼのクタクタでとても着やすく、これをほぼ毎日ティーシャツの上から被っている。元は夫のものだったのを、こうしていつのまにか横取りして着るようになった。

腕には、「Terumichi.M」という名前が刺繍されている。ふだん気にすることはないけど、いったいだれなんだろうテルミチ。夫の名はテルミチではない。夫の友だちにもテルミチはいないという。テルミチのTがおだやかな波のような、筆記体の刺繍。

明日が来るのが楽しみじゃない、と布団に入って思う。そういう毎日に、いつのまにかなっていることに気づく。じゃあ一か月前は、二か月前はそれ以前は、そうではなかったのか。明日がわたしは、待ち遠しかっただろうか。そんなこともなかったはずだけど。

でも、こんな気持ちになるのは浪人生のころ以来だなと思う。

予備校に行くのが怖くて、というのはつねにまわりと自分とを比較して落ち込んでしまうのが目に見えて、通う勇気が持てなかった。月一で開かれる模試の会場で、「今この単語帳使ってる」「いいよねそれ」「ネクステージどこまで進んだ?」「二周目入ったー」という会話を耳にするだけで吐き気がするほどだった。

自宅浪人生として、近くの図書館に通う毎日はしかし退屈だった。母に作ってもらったお弁当を提げて、坂道を登る。だいたい寝坊して、着く頃には窓ぎわのいい席はすでに埋まっている。かろうじて空いている、雑誌コーナーの前のダイニングテーブルのような席にいつも仕方なく腰を下ろしていたが、家族団らんのように他人とテーブルを囲んでいるのが滑稽だった。勉強はしたくないから、働かない頭でも読めそうなカラーの図鑑や料理本をめくる。そうして午前の時間を潰して、お昼の時間しか楽しみはない。週に一度か二度、図書館のとなりのスーパーでひとつだけお惣菜を買い足すのが当時のわたしのよろこびのすべてだった。そのときの気分であげ餅やコロッケ、焼き鳥などを選んで、図書館の外のベンチで輪ゴムで留めたプラスチックパックを広げる。お弁当は、毎日のり弁をお願いしていた。かつおぶしの上に海苔が乗っている。醤油が染みたごはん、その冷えたごはんがおいしかった。

食べたいものを、目を閉じてなかば瞑想のていでめぐらすとき、なんの感慨もなく食べていた母の手料理が思い浮かぶ。ソースのかかっていないプレーンなハンバーグ。各自、ケチャップとソースをハンバーグの上に乗せて箸で混ぜる仕様。ハンバーグはおそらくほぼ赤身の肉で、箸で割っても肉汁は出てこない。文句を言いながら、あれが食べたい。

普通のオムライス。鶏胸肉と玉ねぎのオーソドックスなチキンライスを、たっぷりの牛乳でふんわりトロトロに焼いてやさしく乗せた、あんなイイやつではない、ただの薄焼き卵でがっちりと包んだもの。二人前は超えるケチャップライスはフライパンの大きさいっぱいで、皿に乗って目の前に置かれるオムライスはだから平べったい。ラグビーボールのような理想的なオムライスの形では、ない。ケチャップでその平らな卵に絵を描いて、塗りつぶして、さらにケチャップを足す。飲み込む勢いで、どんどん食べ進める。麦茶をごくごく言わす。今日は土曜日で、午後から塾のテスト前の補習がある。あと二十分もすれば家を出ないと。そんなオムライス。

味の薄い煮しめ。しらすの卵焼き。ほうれん草の入った、蒸しシュウマイ。ねぎの青い部分がたくさんの、豚の角煮。ザワークラウト。炊飯器で炊くカレーピラフ。レーズンが入っている。

しかし今、鍋にはカレーが残っている。カレーの気分ではないという理由で数日置かれたまま十分に熟されたカレーを、今日こそ食べないといけない。こういうときは、気持ちを自らカレーに寄せていく。

テレビをつけて、Amazonプライムから「孤独のグルメ」を選択する。毎日のように見るもんだから、もうだいたい五郎さんが今まで何を食べてきたのか、記憶している。オーソドックスなカレーの回は、シーズン1の11だ。

谷中銀座の飲み屋で、五郎さんはまず鳥の煮込みを食べはじめた。

となりで一緒に見ていたムーミンが、
「あの湯気ははたしてホンモノでしょうかね」と画面に顔を寄せて、言う。ムーミンはグルメドラマの湯気に厳しい。言われてみれば、不自然なようにも見える。

ドラマなどで映る食べ物のその湯気は本物なのか、どうか。孤独のグルメとて、初期のころはあからさまなその湯気をわたしとムーミンは疑った。おかず、ごはん、おかずと食べ進めてやっと手をつけるみそ汁からは、もう湯気は出ないはずである。そのぬるくなったみそ汁をそれでも目を閉じてすする、そのときの味をわたしたちは知りたいのに。今運ばれたかのような湯気の絶えないみそ汁を冷ましながら飲む井之頭五郎にわれわれはたびたび、共感を失ったものだった。

ムーミンはそんなとき、ひととき目を閉じ、

「あからさまなシズル感というのは、真にリアルなおいしさを損なってしまう場合がまま、あるものですね」と言う。そして小さくひとつ、ため息をつく。

さて、鳥の煮込み、サバサンドを経由しやっとお目当てのカレーライスが五郎のもとにやってくる。ドロドロで、じゃがいもがごろごろだ。ご飯はやや小盛りで、ルーが多い。つややかならっきょが五つ、添えてある。五郎さん曰く、「ばあちゃん言うところの、ライスカレー」。カレー、いいぞ、断然食べたくなってきた。

こんな風にそれが食べたいと、見たらこうして必ず思ってしまうことの不思議を毎度感じる。
見たものを今すぐ食べたいと思うなら、ほんとうにじゃあ今食べたいものはなんなのか。
今ほんとうに食べたいものなど、つねに揺らいで変化して、ほんとうには存在しないのかもしれない。食べたい自分に無理やり寄せていくなんてこんなの飽食の時代の、シュミの悪い遊びのような、そんな気もする。

最近、こんな風に井之頭五郎の料理から立ちのぼる湯気を監視しながら、毎食何が食べたいのかさっぱりわからなくなっている。前日の残り物を詰めて持参していた弁当を何も考えずに、時間を気にしながら食べていた頃がもうなつかしい。

わたしは今何が食べたいのか――神経を研ぎ澄ませて考える。
毎日ソファに寝転んで本をめくったり閉じたりしながら、次の食事のことを考えている。全神経を集中させて。いや、神経を集中させるってほんとはよくわからない。とにかくあたまと、カラダの両方で考える。わたしは、いま、何が食べたいのか。

そんなとき思い出すのは、急いで勢いでかきこんだご飯のこと。選ぶ時間もなくて、だから完璧なチョイスだったのかは分からない。焦りながらなんとか注文して時計を気にしながら待っている間、ふと壁に気づかなかったメニューを見つけてアーと思ったりする。それでもドン、と目の前に運ばれた具だくさんのタンメンの湯気に、もうこれを一所懸命すすることしか、考えられなくなっている。

先輩のオーケストラの演奏会に間に合うかどうか、ヤバイけどでもお腹すいた! と言い合って友だちと駆け込んで食べた渋谷センター街のすき家の、高菜明太マヨ牛丼。映画の上映時間ギリギリ前に入って立ち食いした、東中野の富士そばのカツ丼。目をギュッとつぶったり大きく開いたり、合間に水をゴクゴクやりながら飲み込んだ、どんぶりメシ。あれが、シチュエーションもまるごと含めて今、恋しい。

ベランダでぼうっと風を浴びながら、「おにぎりが食べたいかもしれない」としかし今日のわたしは急にひらめいて、そのひらめきは確信に変わった。原点回帰、そうだおにぎりだ。

部屋に戻って、試しにおにぎりが食べたいと強く主張したら夫がおにぎり屋さんを開いてくれることになった。思いのほか、迫力があったようだ。しかし断られたら自分で作るつもりだったから、しめたもんである。ありがたいことに具も選べたので、わたしは梅干し、おかか&ツナマヨ、ワカメの混ぜこんだものを注文した。

オープンしたばかりのおにぎり屋さんは準備にかなり手間取っているようだったけれど、ずい分待ってからようやく、「お待ちどうさま」と声がかかった。危うく気が変わるところだった。

運ばれたおにぎり定食には、玉子焼きと残りの炒めもの、味噌汁もついてきた。都内のおにぎり有名店「ぼんご」を目指したというそれは、今にも崩れそうな危うさでなんとか成り立っており、手に持つと海苔のわきからご飯がこぼれ落ちそう。わあわあ言いながら、お米をほおばる。握られたお米をわっしわっしとほおばることには結構な、よろこびがあるのだなあということを改めて、知る。

父に、両頬にねこのひげをマジックペンで描いてもらって、両手を振って幼稚園に登園したことがある。おにぎりを食べながら、あれ、なんでこんな思い出が。

ほっぺたにねこのひげが描いてあるなんて、なんて特別なんだろう。鏡の前で何度も頰を膨らませたり動かしたり、うっとりする。しかし、登園中にバッグをかなり揺らしてしまったからか、その日のお弁当のなかのおにぎりと、チキチキボーンとそのとなりのシロップ漬けの桃はぐちゃぐちゃになっていた。甘いおにぎりは、まずかったが、ねこのひげはみんなに褒められてうれしかった。

ゆるく握った拳ほどの大きさのおにぎりを実に三つ、食べ終えたけれど、まだいくつも残っている。お皿にラップをして、夜に食べた。海苔がしっとりと張りついた、冷えたそれもまたしみじみとおいしいのだった。

おむすびはピラミッドなり中心の梅干しの炉のあかく灯りて  笹公人

 

第1回 わたしたち、とても大きなハムスター

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

春はあけぼの

「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山ぎわ少しあかりて」と生徒たちの前で音読するとき、目の前には明け方の空ではなく、なぜかまだ暗くなる前の、白っぽいパステルカラーの大きな夕焼けが見えてくる。これは、いつの記憶の空だろう。

「山ぎわ」と「山の端」の違いを説明するために、黒板になだらかな山をいくつも連ねて、その稜線を黄色いチョークで太くゆっくりなぞっていく。ふと生徒たちのほうを見ると、全員机に突っ伏して眠りこけている。おかしいな。

春だから、みんな眠いのかもしれない。

春だから、学校の前の通りを過ぎる車の音が、目線をやるまでもなくゆっくりと滑らかに去ってゆく。それを聞きながら、わたしもどうしたってねむくなってくる。

ずっと一緒にいると決めてもいいのだろうか春はトラックのんびり走る

という短歌をかつて作ったことがあるが、春はそういうエフェクトをかけたようにいつもより少しぼんやりと映る。ひかりは強いが、やわらかい。眠気がそれをいや増すように、わたしを包む空気はほんわかしている。けれどピントを合わせて見つめる一つひとつの解像度はこんなにも高い。東京では目にしたことのなかった地方特有の、ひと回り小さなポストはいよいよ色褪せてその朱色が目に迫る。とおく見遣る、忙しない鳥のしかしくっきりと、たしかにスローモーションの羽ばたき。

そんなような気がする、ですまされているあらゆることが、ほんとうのこととしてわたしに訴えかけてくる。

かと思えばいきなり連発でくしゃみが出て鼻もつまるが、匂いだって春だからと思えば記憶と結びついてわたしを離さない。

リプトンの水出しアイスティー

今、冷蔵庫から取り出したリプトンの水出しアイスティーはハムスター飼育用のあたらしいおがくずの匂いがする。匂いさえそこにフォーカスすればこんなにあかるくわたしを覗きこむのか。

小学生のころ、ハムスターを飼っていた。小脇に抱えるほどの大きさの、細長いビニルのパックにぱんぱんに詰められた大量のおがくず。袋の端を破って、ゆびで掻きだしてゲージのなかに敷きつめてゆく。ゲージの、メリットシャンプーみたいなあかるいみどり色。

全部あたらしいものに替えてしまうと落ち着かないだろうから、すこしだけ、今までの自分の匂いの染みついたおがくずも残しておいてあたらしいものと混ぜてやるといい。小屋の掃除のために小さな箱に入れておいたはずのハムスターは、しかしどこにも見当たらない。おがくずをせっせと詰めていた、自分の手が気づけばピンク色。そして四本になっている。しかも毛が生えて…見上げるとゲージの扉が閉められている。

「わ、なんか固まってこっち見上げてる」
「きょとん、て感じやね」
「かわいい」
「というよりかアホっぽい」

しばらく訳もわからず、ぼうっとしていたわたしはハッとしてそれからせっせとゲージのなかの匂いを嗅ぎまくる。自分のものじゃない匂いに落ち着かず、そこら辺を手でかき分けかき分け進んでゆく。おがくずが、ゲージを越えて散らばってゆく。部屋が暗くなって、ドアが閉まる――。

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの    池田澄子

という句を取り出してあたまのなかでくり返しつぶやくことがある。遊び尽くしたスライムのように、わたしの引き出しにおさまっているこの俳句は、埃やチリや食べもののカスやらが付着してにごっている。もともとはきれいなみず色だったのに。じゃんけんで負けて、わたしは。そのあとがわからない。じゃんけんで負けて(勝って・あいこで)蛍に(人間に・鹿に・カーテンレールに・ハムスターに・先の尖った電信柱に) 生まれたの(生まれなかったの・生まれていたかもしれないの)。

東京にいたころは蛍など見たことがなかったが、この本州の最西端に越してきてから二度見ることがかなった。これが自然の生きものであることが驚きだった。呼吸のように鋭く暗やみに映る、ひかりそのもの。蛍を見ているときに、この俳句をしかしわたしは思いださずにいた。

カバでも妖精でもなく今ここにいるもの

ふと、友人からLINEで「自分は前からわりと死にたいほうだと思ってたけど、それがもしかして本当に迫ってくるかもしれないとなると死にたくないと思うものだね」と言われたことを思い出す。「今回のことに限らず、ずっと病気になるのを待ってるみたいでやだよ」とわたしは返したのだった。「やだね」「こわいね」「手洗いうがいだよ」「マスクもだよ」「でもあんま売ってないよね」「そうだね」「やだね」「こわいね」

未知のウイルスが世界的に広がるさまを半分人ごとのように二人でいつまでもこわがっていた。

とつぜんだけれど、うちにはひとりのムーミンがいる。ムーミンていうのはあの、ムーミン谷のムーミンだ。ムーミントロール。決してカバの妖精ではない。「えっカバじゃなかったの?」と大仰に驚いて見せると、ムーミンは怒る。そして、「ちがいますよ、わたしはムーミントロール。カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの――」そう、静かに言うのだ。

ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして。昼寝から覚めでぼんやりしたままドアを開けて、そこに所在なく立っていたのがムーミンだった。

北欧っぽいテイストのものはもともと好きだがムーミンの熱狂的なファンだったわけでは正直ない。だから大きくて真っ白なそのからだに驚いて、しかしせっかくはるばる訪ねてきてくれたのだから、わたしはムーミンを部屋のなかへ招き入れた。ムーミンは「どうもすみません」と言った。

どうやら夫に頼まれて、うちにやってきたらしい。しかし夫は、ほんとうはムーミンとぼのぼのを間違えていた(わたしは昔からいがらしみきおの『ぼのぼの』が好きだ)。色も国も違うふたつのキャラクター。間違えられてやってきたもう片方の、そのひとり。もちろん、ムーミンにそのことは話していない。

それから、三人の暮らしが始まった。

夫はそんな風にときどき間違える。人の名前を間違えるし、年号や日づけを間違える。間違えたことでこうして始まった暮らし。そのことはもうだれも気にしない。夫は温厚でやさしく、そしてよくものを考える。わたしが考えることを放棄してしまったあとも、そのよくわからないモノを拾っていろんな角度から眺めてひとりで根気づよく考えつづけている。でも、「ゲロ吐きそうになるくらいなら、そのことについては考えなくていい」と言う。

もしかしたらいつの日か、わたしたち夫婦のもとに生まれてくるかもしれないそのひとりの、有限かつ無限の可能性のことを話していたとき、夫ははじめてそう言った。「もうゲロ吐きそうになるくらいなら考えないほうがいいよ」と。

うつむいてたから、知らなかった

「おんなじ待合室だったんだね」
と、その後くだんのLINEのやりとりをしていた友人からはそういう返事が来たのだった。わたしは「今回のことに限らずに、ほんとはずっと病気になるの待ってるみたいだ、やだな」と返した。

病気になることそのことが、イコール死をあらわすわけではないが、わたしはいつか自分の名前が呼ばれてしまうのが昔からずっとこわい。小説やドラマに出てくる主人公が罹る病に自分も罹っていると思いこんで、こころのなかで、わたしはずっと何かしらの重い病気であるという設定でいる。設定というよりそれをほんとうだと今も思っている。母はそんなわたしを見て、ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』の主人公のようだとよく言っていた。一種のこれも病気なんだろうと思う。

わたしたち、今までおんなじ待合室で、うつむいて座っていたんだ。うつむいてたから、知らなかったね。

「てかその待合室が人生じゃんね、やだなあ」
「でも、みんなで待ってたらそこが死への待合室でも、マシかもよ」

「だから、毎日大事に生きないといけないね、っていうすごい真面目な結論に着地しそうになってるんだけどそれはどうなの」と友人は言う。

でもほんとうはそんな風に、帰着するはずはないのだ。今を大切に生きようと思ったその決心は、明日にはたいてい消えている。灰色のいくつもの小さな竜巻によって、日常がさらわれるように。

「絶望先生だねえ」と友人は続ける。絶望して、忘れてふりだしに戻る。その繰り返しは早送りすればハムスターの回し車のようだ。一生懸命絶望しながら日常を生きる。たまに嫌気がさして、あるいはなにもかもがわからなくなって、その手足をぴたりと止める。

「わ、回し車やめてこっち見上げてる」
「かわいい」
「かわいいけどやっぱりアホっぽい」

わたしは、そんな自分のことを自分でかわいがってやることができない。絶望先生まっ最中のわたしは、だってこんなにも絶望に忙しい。自分を可能なかぎりのちからで抱きしめて、その両手は、背中に回しても届かない。届かないことがもどかしくて、自分で自分を抱きしめたって仕方ない。

ムーミンが、心配そうにこちらを覗く。

そのときひとりの死は、祝祭だ

「100日後に死ぬワニ」がおめでたいのは、さながら結婚式の要領で死ぬ日がぱんぱかぱーんと定められて、その日までのカウントダウンをあんなに多くの人たちによって小刻みに祝福されるからだ。「死ぬ時が決まってるなんて羨ましすぎない? そんなの人生が輝いて見えるに決まってない??」というSNSの知人のツイートを思い出す。そのときひとりの死は、祝祭だ。

「もっともかけがえのないものとは、『私たち』にとってすら、そもそもはじめから与えられていないものであり、失われることも断ち切られることもなく、知られることも、思い浮かべられることも、いかなる感情を呼び起こされることもないような何かである」(「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」『断片的なものの社会学』岸政彦)

「ワニ、明日死んじゃうのかー」や「ほんとに死んじゃったじゃんか」と思うとき置き去りにされる「わたしの死」に気づくことさえない。もし「待ってわたしだっていつか死んじゃうんじゃん」とハッとしたとしても、その気づきおよび「だから限られたかけがえのない毎日を大切に、ていねいに生きないとね」は持続しない。持続不可能だからこそ、日常生活が可能だとも言えるのかもしれない。

そうだわたしたちは、とても大きなハムスター。

「ムーミンはさ、妖精なんだよね」
「ムーミントロールとは、まあそういうような意味ですね」
「妖精は死ぬの?不死身なの?」
「それは、わたしにも分かりません」

そう言って、ムーミンはお茶をすする。
コト、とカップを置く音がひとつ、部屋は静かだ。

わたしたちは、ふり返るまでもなくまぎれもなく、ひとり一人がかけがえのない生を生きている。生きているはずである。病気に怯えて、目の前のタスクに追われて、上司が転べばいいと思ったり、酔っ払った夜中のカラオケでぶ厚い角ハイボールのジョッキを何度もぶつけ合ってしまいに割る。なにごともなくすべり落ちていったすべての怠惰な日。家に持ち帰ったとたん、すぐに元気をなくしていったミモザ。茶しぶのとれないカップの内側の輪っか。今ゆっくりととおざかる、トラックのなめらかな音。

大事に抱えておかないと、手元からこぼれ落ちてバラバラになってしまうであろう、一つひとつ。ほんとうは気づかないうちに、ぽとぽとと落としていっている。そのひとつに気がついて、声をかけてくれる人がいるかもしれない。

「あのこれ」「え」「落ちてました」「わ、すみませんありがとうございます」「この上に乗せたらいいですかね」「はい、でもすでに落ちそう」「じゃあこれは、わたしがもらっておきましょうか」「え」「それがいい」「えっこんなのいります?」「はい」

書写の授業でいつか、「自分の好きな字を書いてみましょう」という時間を設けたい。わたしはそのときお手本で、「メメント・モリ」と書いて生徒の前にその半紙をにっこりと掲げる。「さあ、みなさんも好きな言葉を、書きましょう。うまく書けない人はお手本を書いてあげますよ」そう言って、ゆっくり机間巡視する。
後日、教室のうしろには「友情」「博愛」「あつまれどうぶつの森」「ぴえん」「アルフォート」「バスケ魂」「定言命法」「恋人募集」「お小遣い」「切磋琢磨」にまじって「メメント・モリ」も貼ってもらっているのを眺める。担任の先生に頼んでおいたのだ。

このクラスに来るときだけは、思い出せるかもしれない。かけがえのない、この一瞬。この、まばたきの呼吸。

ああ、やだなあ。毎日が。こんなの毎日がエブリデイじゃん、って言って失笑された高校生のころ。こんなの、なんでもなくって重大で、痛いのに痛くないって強がって、腕をさすって。でもそうか、同じ待合室なんだよな。ずっとうつむいていた顔をすこしだけ上げてみる。

「どうしたんですか、さっきから」と言って、ムーミンがこちらをやっぱり覗きこむ。

風の日の待合室で向かい合う行くあてもなく見えただろうか   榊原紘