第7回 痛いですか?

歯医者で「痛いですか?」ときかれるとき、みんなどうしているのだろう?

わたしの行きつけの歯医者の先生は、まるで人が返答できない状態でいるときを狙いすましたように「痛いですか?」ときいてくる。そう尋ねられても、こちらは口をあんぐりと開けており、いままさにドリルがきゅうきゅうとあの頭にさわる音をたてて歯を削っているのだ。「いたくないです」と言おうとすると、「えあああえええ」、というわけのわからない声になる。首を縦横に振って身振りで示したいのだが、あいにく顔を固定されている。手を上げ下げするとうっかり機器に触りそうで怖い。もし万が一、手が先生の腕に当たって、ドリルが歯肉を間違って削り出したらどうしよう、などと、いつもなら一笑に付すことのできるスプラッターな想像が、やけにリアルに迫ってくる、それが歯医者という場所だ。

しかし、ドリルが歯の神経を強引に削って患者が失神したとか、ドリルが誤って頬を貫いたという人にいままでお目にかかったことはない。世界のいたるところで起こっているはずのこの危機的状況は、何度となく回避され続けているのだろう。

わたしの場合は、最近、偶然に解決した。あるとき、わたしが痛さに思わず「うっ」と喉の奥でうめくと、先生は「あ、痛い?」とドリルを離してくれたのである。

これは使える。

以後、「痛い?」と問われて痛いときは、同じ調子で「うっ」と喉を鳴らすことにした。では痛くない場合はどうするか。無言で何もしないと繰り返し「痛い?」と聞かれるので、頭を縦に振りたいのだが、頭が固定されているので、目玉だけが上下する。最初は虚しい動きだと自分で思っていたのだが、先生は黙って作業を続行する。どうやら、目玉の上下で意志は伝わっているらしい。

こうして、イエスは目玉の上下、ノーは「うっ」という、先生とわたしのローカルルールが確立した。ちなみにこの歯科医では3台の椅子が並列しているのだが、あちこちから「うっ」と聞こえるかといえばそうでもない。人によっては手元で手をひらひらさせているかもしれないし、顔をしかめているかもしれない。おそらく先生は患者ごとに微妙に異なるルールを作り合っているのだろう。

異なるローカルルールがその場でできるということは、そのようなローカルルールを生むルールなり前提があるはずだ。それはどういうものだろう。

***

会話分析には「隣接ペア」という考え方がある。これは一つにはわたしたちがよく用いている会話のパターンを言い当てる考え方である。

わたしたちは問いに答え、依頼に応じ、命令にことばで返答する。こうした営みでは、片方の発話に片方が応じるという形式が取られる。このとき、二つの発話を隣接ペアと呼ぶ。たとえば、タロウがハナに「楽しい?」と尋ね、ハナがすぐに「うん」と答えたとしよう。このとき、「楽しい?」「うん」という二つの発話は隣接ペアである。答えは肯定である必要はない。「楽しい?」「楽しくない」でも隣接ペアだ。

隣接ペアという考え方の奥深さは、これがわたしたちが会話をするときの一種の予測モデルになっているという点だ。問いを発した話し手は、相手はほどなく答えを返してくるだろうと予測する。聞き手は聞き手で、いま問うている相手はほどなく自分が答えを返すことを期待しているだろうなと予測する。そんなことは当たり前ではないか、と言われるかもしれないけれど、これらの予測があるのとないのとでは大違いだ。予測するおかげで話し手は、相手が「う」と言おうが「ほい」と言おうが「ぷ」と言おうが、それを問いに対する答えとして解釈しようとする。首を縦に振ろうが横に振ろうが振っているのが手であろうが足であろうが、それは何らかの返事ではないかと考える。聞き手は聞き手で、相手はたとえ自分が手を振ろうが足を振ろうが目を上下させようが、それを何らかの返事として解釈するだろうなと期待する。

予測モデルとしての隣接ペアがあるおかげで、わたしたちは他では見られないような応答をその場で作り出すことすらできる。たとえば「痛いですか?」に対して、ある患者が目を上下させる。謎めいた表現だが、これは「痛いですか?」に対する何らかの応答に違いない。「あ、窓の外に円盤が!」でも「あ、頭に画期的なアイディアがひらめきました」でもなく、「痛いですか?」に対する応答だと思ってもらえるだけで、一歩前進である。では目を上下させるしぐさは「痛い」を意味するのか「痛くない」を意味するのか。それを確かめるためには再びドリルで歯を掘り進め始めてみればよい。確たる反応がなければそれは「痛くない」だったのであり、再び目が上下すれば「痛い」だったのだろう。上下している目が涙目だったりしたら、さらに確度は高まる。

このように、予測モデルとしての隣接ペアは、わたしたちが応答を行うための前提となり、新たな応答のやり方を作り出すためのエンジンとなっているのである。

***

裏を返せば、予測モデルとしての隣接ペアの力は強い。特に、歯の治療のように、医師と患者の緊密な共同作業が行われる際には、隣接ペアという予測モデルは必須である。ここは痛みますかと尋ねられた直後に発声される「う」という声も、口を開けて下さいと依頼された直後に開く口も、隣接ペアの力によって治療の受け答えとして解釈される。たとえわたしが「痛いですか?」と問われたまさにそのときに、窓の外に空飛ぶ円盤を発見して「う」と言ったとしても、その発見が伝わる可能性はゼロに近い。

では、ほんとに空飛ぶ円盤を見かけてしまったらどうするか。「う」などと悠長な発声をしている場合ではない。目をぱちくりさせ「あああああああ!」とか「ぐるるるるる!」とか、隣接ペアを、いや、治療自体を中断させるくらいの、医師がたじろいで思わずドリルを口からはずすくらいの表情や奇声を用いるべきなのだ。隣接ペアという頑強な予測モデルをぶちこわし、「痛いですか?」という問いをなきものにして、空飛ぶ円盤を目撃したことを相手に理解してもらうには、それくらいとんでもない大胆さが必要なのである。

Profile

1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声の身体動作の調整の研究。日常会話、介護場面など協働のさまざまな場面で、発語とジェスチャーの微細な構造を分析している。最近ではマンガ、アニメーション、演劇へと分析の対象は広がっている。『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書)、『浅草十二階(増補新版)』『絵はがきの時代』(青土社)など著書多数。ネット連載に「チェルフィッチュ再入門」、マンバ通信の「おしゃべり風船 吹き出しで考えるマンガ論」などがある。

第6回 叫びと転倒

ひょずー、と叫び声、そしてずどんという響き。

声と音は大学内の、屋根のある渡り廊下からで、行ってみると学生が一人転んでいた。折からの寒波と雪で、濡れた靴が運んできた水が廊下の床で再び凍って、滑りやすくなっていたのだった。学生はどうやら腰を打ったようで、そばにいた人につかまって立ち上がり「あ、大丈夫です」と言ってひょこひょこ歩き出した。

薄情なわたしは、彼の腰を案じるかわりに、彼の叫び声を思い出してちょっとおかしくなった。ひょずー、か。わー、でも、きゃー、でもなく、彼は確かに「ひょずー」と叫んだ。人は予期せぬことが起こったときに、思わぬ声を出すものだ。それにしてもなぜ「ひょずー」だったのだろう。ビデオを撮っておけばよかったな。しかし人が不意にスリップして叫び声をあげる瞬間をあらかじめ狙うというわけにもいかない。

試しにYouTubeで「slip on ice」などで検索をかけると、他人が転ぶところを集めた映像というのはけっこうあるもので、ずらずらと人の転ぶ動画がヒットした。意外にも、一人で転ぶときに叫び声をあげる人は少なく、転んだ直後に撮影者に対して笑ったり叫んだりする人が多い。転ぶ瞬間に声をあげているのは、どちらかというと何人かで転ぶのを楽しんでいる人たちで、遊び半分でこれから転ぶぞという身構えをしてから、ひゃーとかひょえーという声をあげて転ぶ場合が目立つ。叫び声というのはもしかすると、生理的に驚いたときに出るというよりは、社会的に必要があって出るものなのかもしれない。

してみると、ひょずー、の学生も、もし一人だったらあんなに素っ頓狂な声をあげたりしなかったのではないか。かといって、その学生の様子からすると、あらかじめ滑るつもりでそろそろと歩いて転んだというよりは、急に予想もしないことが起こったという風だった。もしかしたら、何か傍らの人に「ひょ」だか「ひ」だかから始まることばを語りかけようとして、その語りかけが叫び声に転換したということなのかもしれない。

このような推測をいろいろ巡らしながら、ふと、自分の想念の方が、叫び声以上にどうにも奇妙であることに気づいた。わたしはひょずーという声とずどんという転びの音の両方をきいたのだ。だから、「ひょずー」と「ずどん」の前後関係を思い出すことができれば、声のどの部分で腰を打ったのかが音によって推測できるはずだ。ところが、いくら思いだそうとしても、両者のタイミングが解らない。ひょずーが先だったか、どすんが先だったか。

もともとわたしの聞いた音は、ひょずーとずどんとの渾然一体となった組み合わせ、たとえば「ひょどずん」とか「ずどひょんずー」といった、二つの音が分離不可能な塊だったはずだ。それがなぜ、記憶の中ではきれいに「ひょずー」と「ずどん」に分離しており、しかも両者のタイミングがどうだったかを思い出せないのだろう。

人間は両耳二枚の鼓膜の振動に基づいて音を二枚するしかない。仮にあなたに鼓膜の振動がつぶさに見えたとしても、その揺れ動くさまから風の音や人の声、あるいは何かの衝撃音を目で理解するのはほとんど不可能だろう。にもかかわらず実際には、人間の脳は、こうしたただの波からいくつもの特徴を見出し、複雑にからみあった音のひとつひとつを割り出すことができる。このような過程を、認知心理学者のアルバート・ブレグマンは「音響シーン分析 Auditory Scene Analysis」と呼んだ。「分析」という名前がついているけれど、これは研究者が画面を見つめて行う分析ではなく、誰もが脳の中で行っている音声認知の過程を指している。

人がどのように音響シーン分析を行っているかは現在でも認知科学や人工知能モデルの重要な課題で、少なくともこの問題を解くためには、ただ波形を逐一細かく分析するだけでは難しく、「この音はたぶんこういう音に違いない」という推測をまず行った上で、トップダウン的な処理をする必要があることがわかっている。また、こうした処理をするために、人は特定のできごとに注意を向けているらしいこともわかっている。わたしは、音が聞こえる前に、すでにその渡り廊下に向かうべく注意を向けている。そしてそこからきこえてくる音にはある程度狭い可能性しかなく(人の歩く音、話し声など)そうした可能性から、突然の音には人の声が含まれているであろうこと、人の立てた音が含まれているであろうことを推測できる。おそらく、わたしが突如聞こえた不思議な音声を、鳥の声やブルドーザーのエンジン音ではなく、叫び声とずどんという音として分離できたのは、わたしが目の前の状況からトップダウン的にありうべき音を絞り込んでいったせいではないだろうか。

それにしてもおもしろいのは、人間の脳の中でいったん音響シーン分析が行われ、鼓膜の振動から人の声と転ぶ音が別々に割り出されてしまうと、あとからそれが鼓膜上でどのようなタイミングで重ねられていたかを思い出せないということだ。どうやらわたしの聴覚的な記憶はいたって記号的なものらしい。わたしの鼓膜は人の声と何かと何かが衝突する音が渾然一体となった音に対して鳴ったはずなのに、それは自動的に脳内で「叫び声」「転ぶ音」という形に処理され、いったん処理されてしまうともう、できごとの生々しい音は思い出せなくなっているのだ。わたしの耳にきこえたことと、わたしの脳がきいたことは、けして同じではない。そして、わたしの脳は、耳できこえたことから複数の音を割り出す一方で、その重なりがどのようなものであったかを忘れてしまうらしいのである。

Profile

1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声の身体動作の調整の研究。日常会話、介護場面など協働のさまざまな場面で、発語とジェスチャーの微細な構造を分析している。最近ではマンガ、アニメーション、演劇へと分析の対象は広がっている。『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書)、『浅草十二階(増補新版)』『絵はがきの時代』(青土社)など著書多数。ネット連載に「チェルフィッチュ再入門」、マンバ通信の「おしゃべり風船 吹き出しで考えるマンガ論」などがある。