第5回 ぎっくり

年末にぎっくり腰になってしまった。

よく、腰が抜けるというけれど、ぎっくり腰で立たなくなるのは、単に抜けるというよりも、群発する痛みに対して体が瞬時に立つことを放棄するという感じだ。放棄するといっても、ただ全身が脱力するというのではなく、股関節から大腿まわりの筋肉のどこかがきかなくなって、それを他の筋肉で補おうとしながら結局果たせず、もうだめだと雪崩をうつようにあきらめていく、というのが高速に起こっている。だから、ばたんと上半身ごと倒れるのではなく、下半身の腰のあたりからへなへなとその場にへたりこんでしまう。

それにしてもこうしてぎっくり腰になってみると、「ぎっくり」というオノマトペは誠に味わい深い音だ。「ぎ」という決定的な音が無音の「っ」で強調されたのちに、「く」というややくぐもったことばが来る。この「く」でまさに腰がくずおれる感じ、尖った痛みがそのまま体の変調となってあらわになる感じがして、何度唱えても「ぎっくり」とはまさにあの、腰に一撃が来た瞬間とそのあとのへなへなとなる感じをよく捉えているなと思う。

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日本語では子音と母音(もしくは単独の母音)が音の単位になっている。これを「モーラ」という。日本語のオノマトペには、「ぱっと咲く」の「ぱ」、「ぎっと鳴る」の「ぎ」のように一つのモーラ(子音+母音)で表されるものと「ぱかっと開く」の「ぱか」、「ぎくっとする」の「ぎく」ように二つのモーラで表されるものがある。「ぎっと鳴る」なら、「ぎ」のイメージだけを考えればよいのだけれど、「ぎくっとする」だと、「ぎ」と「く」の両方について考えなければならないから、ちょっと話がややこしい。

昔は、こうした二つのモーラから成るオノマトペを考えるときに、単純に第一のモーラだけに注目するか、第一のモーラのイメージと第二のモーラのイメージとを混ぜ合わせることで説明していた。これに対して言語学者の浜野祥子は、さまざまなオノマトペを比較した上で、第一のモーラと第二のモーラでは同じ音であっても象徴されているものが異なるという説を唱えた。

1998年に発表された彼女の説によれば、第一のモーラはものごとの性質を表す一方、第二のモーラはものごとの動きの性質を表す。もう少し詳しく書くと、第一のモーラの子音は重さやその触感/動きを表し、母音は形/大きさを表す一方、第二のモーラの子音は動きを表し、母音は運動の形/大きさを表す。わたしなりに言い換えてしまうと、第一のモーラは瞬間のできごとを空間的に捉えた感じ、第二のモーラはできごとの時間経過を微細に見ている感じ、というところだろうか。

たとえば同じkの音でも、第一モーラにくるときは硬い(軽く小さく細かい)表面を表し、第二モーラにくるときは開くこと、(内から外に)飛び出ることなどを表す。また、母音の「う」は、先行する子音の小ささや突出性を表す。

では、浜野説に従って「ぎく」について考えてみよう。「ぎ」は第一モーラで、gの音は大きく硬くて粗い感覚を示す。これはさしずめ第一の衝撃の大きさ・硬さ・粗さを表しているということになるだろう。一方、「く」は第二モーラだから、先に述べたように衝撃自体の性質よりもその動き、時間的な変化を担っている。kの飛び出す性質、「う」の突出性を合わせると、それはなにものかが内側から突出してくるイメージを表していることになる。

これは何かに驚いて「ぎく」っとするときの情動の現れのイメージ、硬く粗い「ぎ」が内側から突出してくるイメージによく合っている。ちなみに「ぎ」と「く」の間に入る「っ」は促音と呼んでいるけれど実際には無音区間で、これが入ると音のもたらす象徴がより強調されると言われている。「ぎくり」よりも「ぎっくり」、「びくり」よりも「びっくり」。声に出すと「っ」のもたらす強さが実感できるだろう。

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「ぎっくり」というのは、単純に驚くときにも使うけれど、「ぎっくり腰」のように身体的なできごとに用いられるとまた別の感じが出る。わたしたちは、痛みを感じるだけでなく、痛みに対して体を大きく動かしてしまうことがある。特に突発的な痛みに対してはそうだ。ぎっくり腰の「く」には、単に痛みだけでなく、痛みに対する体の反応に近いイメージが感じられる。そしてこの体の反応は、もちろん、痛みに対して内側から外側に突出してくるのであるのだが、それは痛みによって力を得るイメージというよりは、痛みに耐えがたくなった体から力が抜けていくイメージである。

試みにいくつか「くり」で終わるオノマトペを思い出すと、むっくり、ぷっくりのように、何か兆しが現れるような語がある一方で、こっくり、ぽっくり、がっくりのように、下方に落ちるイメージを表す語もある。もともと「く」の音には、くぎ、くい、くき、くさ、くびのように、細く突出した名詞が目立つ一方で、古語の消(く)、屈(く)す、暗い、くすむ、朽ちるなど、消え落ちていくイメージを持つ語も多く見られる。陰影に富んだ音なのだ。

それでわたしは、浜野説にさらに消えゆく「く」のイメージを手前勝手にくっつけて、「ぎっくり」の音に、痛みに対して体が下方へと崩れていくイメージを感じ取っている。学術的に正しいかどうかはわからないのだが、少なくともそういうイメージを思い浮かべながらぎっくりぎっくりと唱えると、なんだか自分の体に表れ消えるものを考えるのが楽しくなってくる。これは理論というよりは、痛みをなだめるための歌のようなものかもしれない。

Profile

1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声の身体動作の調整の研究。日常会話、介護場面など協働のさまざまな場面で、発語とジェスチャーの微細な構造を分析している。最近ではマンガ、アニメーション、演劇へと分析の対象は広がっている。『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書)、『浅草十二階(増補新版)』『絵はがきの時代』(青土社)など著書多数。ネット連載に「チェルフィッチュ再入門」、マンバ通信の「おしゃべり風船 吹き出しで考えるマンガ論」などがある。

第4回 羽犬塚

久留米に行く仕事で、あいにく市内は宿がいっぱいだったので、少し離れたところに泊まることにした。トランクをごろごろ引きずっていたら、知り合いにどこに泊まってるの、と尋ねられた。初めての土地で、その土地の名を口にすることには、どこか戸惑いが伴う。とりわけ、読み方のわからないものはそうだ。宿からのメールには「羽犬塚」とある。はねいぬずか?とおずおず言ってみたものの、読み方にもイントネーションにも、まるで自信がない。尋ねた側もこの土地の人ではなく、へえ、久留米市内じゃないのかと言うだけで、こういう言い方でよかったのかどうかわからない。

 

その夜、アニメーション版『この世界の片隅に』の片渕須直監督とご一緒する時間があった。

 

『この世界の片隅に』のすずもまた、「呉」という土地の名を発することに戸惑う人だ。すずは広島から呉に嫁いできた。広島と呉は同じ広島県だし、呉線一本で行けるのだし、嫁ぐ前からすずは何度か「呉」の名を口にしてきたはずだ。けれど、「くれ」というその二文字が、はたして呉という土地でどのように発音されるかまでは知らない。マンガ版では、彼女は嫁いだばかりの家で、実兄にはがきを書こうとして、おずおずと新しい家族にこう尋ねる。「あのお……………ここって呉市…?の何町…?の何番ですか?」 もちろん、すずが尋ねたのは発音というよりは正確な住所なのだろうけれど、「呉市…?」というところに記された三点リーダーは、すずが微かに感じているであろう、言い慣れない土地の名への戸惑いを示している。

 

そして、すずの戸惑いは、ただの杞憂ではない。実は広島弁と呉弁では、「呉」の発音は微妙に違う。広島では「↑く↓れ」と頭を高く発音するが、呉のいくつかの地域では「く↑れぇ↓」と、むしろ「れ」を持ち上げてから語尾で下げる。おそらくすずは嫁いでから、「くれ」に代表される広島と呉の微妙なことばの差に、嫁ぎ先で感じるさまざまな違和の感覚を重ねたに違いない。

 

このような微妙なイントネーションの差は、マンガ版の文字には顕れない。しかし、アニメーション版には声が伴う。そして驚くべきことに、このアニメーション版では、よそものには判じがたいこの「くれ」の微細な発音の差が使い分けられている。広島から呉に嫁いだばかりのすずは、最初「↑く↓れ」と広島風に発音しているのだが、映画の終盤では「く↑れぇ↓」と呉風の発音に変化している。広島弁と呉弁の微細な差を知る者は、そこからすずの嫁ぎ先での変化を感じ取ることができる。それを演じ分ける、のんの発音は見事なものだ。そしてこの差を意識的に演出したのは、片渕監督自身である。

 

大阪生まれで関東育ちの監督は、広島や呉のあちこちでいろいろな人に話をきくうちに、方言の微妙な差が身についたのだそうだ。「いよいよ映画を作るために呉の人たちの前で話をしたら、コイツは地名の発音が土地のことばだから信用できる、ということになりました」。こともなげにそうおっしゃるのだが、民俗学者や文化人類学者でも、なかなかそこまではいかないものだ。おそらく天性の耳のよさをお持ちなのだろう。それは、監督自らがこの映画の音響設計に携わり、空襲の音響をはじめ、細部の音に入念な演出を施されていることからもわかる。

 

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焼き鳥を食べ、地酒を飲み、宿に帰るべく久留米駅から電車に乗ったら、「はいぬづか」というアナウンスが聞こえて、しばらくしてようやくそれが「羽犬塚」の読み方なのだと気づいた。「はね」ではなく「は」だったのか。それに「は」と「いぬ」の間が予想外に詰まっている。漢字を知らなかったら「ハイヌ」という単語だと思っただろう。

 

しかし、駅のアナウンスだけでは、まだ本当の発音は分からない。宿に着いて、フロントの人に「はいぬづかって、地元ではどんな発音ですか」ときいてみた。「→はいぬ↓づ↓か、ですかね、でもわたしもこの辺の人間ではないので」。答えはどうも心許ない。ちょうど向かいに、よさそうな店構えの焼き鳥屋があった。さっき久留米で焼き鳥を食ったばかりだが、たいそう旨かったし、この店なら土地のことばをきけるかもしれないと思うと、もう少し食える気になった。

 

しかし、いざ一人で飲み屋に入ってみると、いきなり地名がどうのという話にもならない。向こうの客は、出張で来ているのか、大阪弁で仕事の話をしている。串を何本か食べ、少しく飲んでから主人が「どちらから?」と声をかけてくれたのをきっかけに、おずおずと「はいぬづか」のことを尋ねてみた。「うーん、ぼくは熊本の出ですから」。それで話は「はいぬづか」をすっ飛ばして、わたしの住んでいる滋賀と彼の出身地である熊本の話になった。

 

大阪弁の客たちは帰ってしまい、結局、のれんを片付けるまで主人と話してから、「そうそう、この店の向こう側に、絵を描いてもらったんですよ」と店の横の壁面の前に案内された。そこには、背中に羽の生えた犬が描かれていた。羽と犬が、あっさりつながっている。そうか、これがハイヌだ。

Profile

1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声の身体動作の調整の研究。日常会話、介護場面など協働のさまざまな場面で、発語とジェスチャーの微細な構造を分析している。最近ではマンガ、アニメーション、演劇へと分析の対象は広がっている。『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書)、『浅草十二階(増補新版)』『絵はがきの時代』(青土社)など著書多数。ネット連載に「チェルフィッチュ再入門」、マンバ通信の「おしゃべり風船 吹き出しで考えるマンガ論」などがある。