コロナと道徳、混ぜるな危険

燃えるリプ欄、ざわつくトレンド、闇鍋を煮詰めたタイムライン……。「いいね!」じゃなくて「どうでもいいね!」こそが、窒息寸前社会を救う? サブカルチャーを追い続けてきたジャーナリストによるネット時評。

「再び緊急事態宣言を発出し、ゴールデンウィークという多くの人々が休みに入る機会をとらえ、ウイルスの勢いを抑え込む必要があると判断した」

菅義偉首相は4月23日、東京・大阪・京都・兵庫の4都府県に緊急事態宣言を発令した。

期間は4月25日から5月11日まで。1〜3月の2度目の宣言では飲食店に的を絞って時短営業を要請したが、3度目となる今回は酒類を提供する飲食店に加え、百貨店やショッピングセンターなど幅広い業種に休業を求める強い措置となった。

正式発表に先立ち、TBSは東京都による休業要請の対象を《1000平米を超える劇場や映画館、百貨店などの商業施設、家電量販店、書店。また、スポーツクラブやパチンコ店、ゲームセンターに美術館、動物園など》と報道

ありとあらゆる娯楽・商業施設、文化施設に広範に規制の網をかける内容にひっくり返った。大半の客が静かに過ごす書店や美術館に、感染リスクなんてほとんどないはずなのに。

映画館に密閉空間のイメージを持つ人もいるかもしれないが、実は高い換気能力があり、20分ほどで館内の空気がすべて入れ替わるとされている。観客動員2876万人を超えた『鬼滅の刃』の大ブームにあっても、「映画館クラスター」が発生したという話は寡聞にして知らない。

パチンコ店も昨春の緊急事態宣言の際にバッシングを受けたが、いまだに1件のクラスターも報告されていないのが現実だ。科学的な根拠や感染リスクの冷静な分析を欠いたまま、「このご時世にパチンコなんて」「ゲームセンターなんて」という道徳成分を1ミリでも、1グラムでも混ぜ込むべきではない。

厳令の

《エビデンスと無関係に、娯楽・享楽=悪みたいな風潮は危うい。コロナと道徳は混ぜるな危険》

Twitterにそう投稿すると5千回以上リツイートされ、「ぜいたくは敵だ!を思い出す」「欲しがりません勝つまでは、と何も変わらん」といった反響が寄せられた。

ダメ押しが、小池百合子都知事が記者会見で述べた「街灯を除くすべての明かりを消すように徹底していきたい」という言葉だった。夜間の人手を減らすため、午後8時以降、街頭のネオンやイルミネーションを消すように商店街などに求めるという。

発言を受け、たちまち「灯火管制」「空襲警報」という物騒なワードがTwitterのトレンドに躍り出た。「灯火管制」とは、第二次世界大戦中、空襲の標的になることを避けるため、家屋の光を外に漏らさないように敷かれた規制を意味する。

「灯火管制キター!」「いよいよ本土決戦」「戦時中かよ」。タイムラインは沸き立ち、さながら大喜利状態となった。

去年の6月には、「東京アラート」とかいう謎の独自宣言をぶち上げ、レインボーブリッジを真っ赤にライトアップしてみせた小池知事。

最近も東京五輪まで100日となる4月14 日に、東京スカイツリーや東京タワーが五輪カラーに染め上げられた。小池知事も記念式典で、「コロナを抑え込み、みなさまとともに100日後に大会を開催したい」と挨拶していたはずだ。

明かりをつけたり、消したり、随分と忙しい人である。それとも、五輪のライトアップは綺麗な明かり、飲み屋のネオンサインは汚い明かりとでも言うのだろうか。

「軍靴の足音」というのは左派系メディアの常套句だ。新聞紙面などで見かける度に「幻聴乙」とスルーしてきたが、今回ばかりはタップダンスばりに乱打される足音が私にもハッキリと聞こえた……気がする。やばい、疲れてるのかもしれない。

「70年代のオイルショックの時には、銀座の街の電気が消えた。10年前の東日本大震災のときは極力消灯に努めて、東京の夜の街が相当暗くなった。これの目的は、電力をいかにして使わないかということでありましたけれども、今回は人の流れを抑制するための措置ということであります」と小池知事は言う。

要するに、「人っ子一人いない真っ暗な街」という寒々とした光景をつくり出し、緊迫した戒厳令の夜を演出したいということなのだろう。「フリップ芸の魔術師」「やってる感の女王」としての政治手腕には、ただただ感服するばかりだ。

しさの

少し「昔話」をさせてほしい。

2010年代に入って、ダンスクラブの摘発が相次いだ。深夜のダンス営業を禁じる風俗営業法に違反したというのが理由で、新聞記者だった私はこの問題を集中的に取材していた。

「ダンス禁止」「NO DANCING」。ダンスを楽しむはずのクラブに、踊りを禁じる警告文が掲げられるシュールな事態。貼り紙をしたところで警察の取り締まりを免れることはできないのだが、店側も藁にもすがる思いだったに違いない。

規制に反発するクラブ利用者や弁護士、ミュージシャンらによる署名運動が盛り上がり、2015年に風営法は改正された。かなり厳しい条件付きではあるが、現在では許可をとれば終夜営業できるようになっている。

法改正の過程では、与党議員から「夜は寝るもんだ」「行き過ぎた緩和だ」という反対の声があがった。風営法違反で逮捕された元クラブ経営者の公判では、検察側が次のように主張した。

「音楽を流すことなどによって、客が楽しく踊れるような雰囲気を醸成していたものと言えるから、たまたま店内でダンスをする客がいたと評価すべきではなく、『客にダンスをさせ』ていたものと認められる」

夜は寝るのが当たり前で、楽しいことは罪である――。そんな道徳観念の浸潤が見てとれる。法規制と道徳は簡単に混ざり合う。しかも台湾まぜそば並みに相性抜群だ。私が「コロナと道徳、混ぜるな危険」と事あるごとに口すっぱく言っているのは、風営法改正運動の取材で、嫌というほどそういう景色を目撃してきたからにほかならない。

実際、コロナ禍でも同様の事態が繰り返されている。前述のパチンコ店への非難然り。「夜の街」に対する苛烈なバッシング然り。「パチンコなんて」「夜の街なんて」と言っているうちに、ついには書店や美術館まで「なんて」グループに組み入れられてしまった。

ウイルスは夜行性ではない。道徳感情に訴えた自粛要請は、「昼間ならいいんでしょ」「路上飲みだったら問題ないよね?」「ステイホームだし、ホームパーティーで盛り上がろっか」という誤解・曲解を広げる副作用を生むことにもなった。

思議のニッポン

規制なんてけしからん、何でもありで好き放題やらせろ!と声高に叫ぶ気はさらさらない。感染リスクを考えれば、複数人での会食や同居する人以外との旅行は極力避けるべきだし、「ノーマスクピクニック」などもってのほかだ。感染力の高い変異株の動向に注意を払う必要がある。

ただ、それでも政府や東京都のチグハグな対応を見るにつけ、ふつふつと疑問が湧いてくるのだ。違和感の原因は、言うまでもなく東京五輪にある。

4月16日の段階で「エッセンシャルワーカーなど、どうしても出勤が必要な方以外は可能な限り東京に来ないでください」と呼びかけていた小池知事は、23日の会見で東京五輪について問われ、「安全安心な大会を開催するということについては東京都の方針は変わっておりません」とのたまった。

通勤できないけど、五輪はできる国。本屋や映画館は開けないけど、オリンピックは開ける国。不思議の国ニッポンに、私たちは暮らしている。

火リレーとッハ会長

前回の緊急事態宣言が打ち切られたのは3月21 日。3月25日に聖火リレーが始まる直前だった。そして3度目の宣言の期限は5月11日。6日後の17日には国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長の来日が予定されている。

菅首相は宣言を出した4月23日の記者会見で「オリンピックの聖火リレーがあるから解除したとか、しないとか、そういうことはまったく関係しておりません」と述べたが、勘ぐりたくなるような絶好のタイミングである。

「東京オリンピックですけれども、これの開催はIOCが権限を持っております。IOCが東京大会を開催することを、既に世界のそれぞれのIOCの中で決めています」

五輪に関する質問に、「IOC」を連呼しながら答える菅首相。数えてみたら会見中に合計9回、IOCと言っていた。IOCがどうあれ、国内での感染拡大を防ぐ最終責任は菅首相にある。「だってIOCが言ってるんだもん」で片付けられる話ではない。

「何がなんでも開催」の精神論で突っ走ってインパール作戦のような惨状を招く前に、どういう条件なら開催でき、どんな場合は中止せざるを得ないのか、いまからでも「最悪」を想定したプランBを準備しておくべきだ。

会見では、菅首相が同席した新型コロナ分科会の尾身茂会長を「森会長」と呼び間違える場面もあった。思わずオリンピックへの情熱があふれてしまったのだろうか? 菅さんも疲労困憊なのかもしれない。でもごめん、国民もだいぶ疲れてるんだ。

芸場の

3度目の宣言の広範囲にわたる厳しい規制が、五輪の「何がなんでも開催」を念頭に置いたものだとすれば、(まったく納得はできないが)意図は理解できる。

為政者の側は「これぐらい強く言っとかないと、お前ら飲み会に行っちゃうんだろ?」と国民をナメているし、国民の側は「そうは言ってもオリンピックはやるんでしょ。完全にダブスタじゃねーか」と見透かしている。相互不信のループのなかで、公衆衛生の威を借る道徳権力だけが肥大化し、「不要不急」はますます痩せ細っていく。

《東京寄席組合(鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場)及び一般社団法人落語協会・公益社団法人落語芸術協会にて協議の結果『寄席は社会生活の維持に必要なもの』と判断し『4月25日以降の公演についても予定通り有観客開催』と決定いたしました》

都から「無観客開催」を要請された東京・上野の鈴本演芸場は、Twitterにこう投稿した。「お上」に逆らう勇気ある決断に、「断固支持します」「粋だよ!そうでなくちゃ!!」と賛同が広がり、1万回以上リツイートされた。

そもそも寄席の無観客開催ってなんなんだ。休業補償をしたくないから「無観客」を求めているのがミエミエじゃないか。

ルポライターの竹中労が1971年に綴った『「価値なき自由」を守ること』と題する文章は、いま読み返してもまったく古びていない。

《国家権力の[文化思想・風俗統制]は、かならず市民社会的良識の衣をまとい、大衆のコモンセンスに依拠して行われる。フリー・セックスまでは認めよう、だが“異常”性欲はどうもという一般の世論にコンセンサスを求める形で、権力の干渉はまずその弱い環にむけられるのである》

《国家権力が容易に突きくずすことのできる言論表現の最も弱い環を、弱い環であるがゆえにボクたちは死守しなくてはならぬ。そのパラドックスがわからぬものには、人間の自由を語る資格はない》

(決定版『ルポライター事始』)

半世紀前の竹中の警句を受け止め、「無意味」で「無価値」な自由をこそ慈しみたい。

 

――汝の不要不急を愛せよ。

 

 

1983年、埼玉県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、2005年に朝日新聞社入社。文化くらし報道部やデジタル編集部で記者をつとめ、2015年にダンス営業規制問題を追った『ルポ風営法改正 踊れる国のつくりかた』(河出書房新社)を上梓。2017年にオンラインメディアへ。関心領域はサブカルチャー、ネット関連、映画など。取材活動のかたわら、ABEMA「ABEMAヒルズ」やTOKYO FM 「ONE MORNING」 、NHKラジオ「三宅民夫のマイあさ!」にコメンテーターとして出演中。

『うっせぇわ』を文部省唱歌に

燃えるリプ欄、ざわつくトレンド、闇鍋を煮詰めたタイムライン……。「いいね!」じゃなくて「どうでもいいね!」こそが、窒息寸前社会を救う? サブカルチャーを追い続けてきたジャーナリストによるネット時評。

「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」

18歳の女性シンガーAdoが、挑発的な声でたたみかけるように歌う『うっせぇわ』が話題になっている。昨年10月にミュージックビデオを公開して以来、半年ほどでYouTubeの再生数が1億回を突破。昨年、ネット発で流行した瑛人の『香水』を上回るペースで、このままいくと上半期最大のヒット曲になりそうだ。

《純情な精神で入社しワーク 社会人じゃ当然のルールです》

《酒が空いたグラスあれば 直ぐに注ぎなさい》

《会計や注文は先陣を切る 不文律最低限のマナーです》

『うっせぇわ』

社会人が直面する不条理への憤りを歌った歌詞と、Adoの年齢にギャップを感じる人もいるだろうが、作詞作曲はAdoではなく25歳の男性アーティストsyudouだ。

syudouは小学6年生でボーカロイドの「初音ミク」に出会い、中学・高校時代にボカロPとしてシーンを牽引していたハチ(現在の米津玄師)に憧れて作曲活動を本格化させる。大学卒業後は地元・栃木の企業に就職。2019年に発表した『ビターチョコデコレーション』がスマッシュヒットし、翌年に会社を辞めてミュージシャンとして一本立ちした。

《集団参加の終身刑 またへーこらへーこら言っちゃって》

《毎朝毎晩もう限界 宗教的社会の集団リンチ でも決して発狂しないように》

『ビターチョコデコレーション』

『ビターチョコデコレーション』の時点でグツグツと煮えたぎっていた同調圧力への違和感を、よりストレートな形で表明したのが『うっせぇわ』だと言えるかもしれない。AdoはTOKYO FMの『SCHOOL OF LOCK!』でこう語っている。

「『うっせぇわ』は、社会人の想いを歌った曲ではあるんですけど…。その想いが全体的に“怒り”なんですよね。私はその“怒り”を、みなさんのストレス発散にしてもらいたいな、と言うか。これを聴いてみんな強くなって欲しい、じゃないですけど(笑)、私がみなさんの怒りを代わりに歌うので、みなさんは頑張って、明るく生きて欲しいなって思いますね」

『うっせぇわ』には「マジヤバない?」「クソだりぃな」「やろがい」など、いわゆるJ-POPではあまり見かけないような生々しいスラングが、自然な形で使われている。令和の言文一致運動と言ったら大袈裟だが、ひりつくような言葉選びにはヒップホップ的なセンスも光る。

ッズがビロテ

そんな『うっせぇわ』に対しては、「スカッとする」「めっちゃ共感」といった称賛の一方で、「不快」「言葉遣いが悪い」「子どもに歌わせたくない」といった反発もあるようだ。ヒット曲の宿命で小中学生が夢中になって聴いているので、どうしても副作用が出てしまうのだろう。

我が家でも小学生の娘がYouTubeでヘビロテしている。私も一応、人の親。教育効果も考えて、「藤井風の『もうええわ』じゃダメかな?」とさりげなく誘導してみたのだが、「何それ?」と一顧だにしてもらえなかった。子どもは何度も繰り返して曲を聴くので、1億再生の何分の1かはキッズが担っている可能性もある。

思わず笑ってしまったのは、「宿題をやれというと『うっせぇわ』と言われる」という保護者の不満の声だ。

アニメの『妖怪ウォッチ』が流行ると、「子どもがなんでも妖怪のせいにしてくる」。小島よしおの一発ギャグが一世を風靡すれば、「何を言っても『そんなの関係ねぇ!』と返されて困る」。いつの世も、親たちの悩みの種は変わらない。

祖「うるさい」系ングは?

実は「うるさい」系ソングは枚挙にいとまがない。歌詞サイト「歌ネット」でフレーズ検索すると、結構な数がヒットした。

「うるさい」…974件

「うるせえ」…127件

「うるせー」…82件

「うっさい」…26件

「うっせー」…24件

「うっせぇ」…16件

比較的最近のものだと、サビで「うるせー」を連呼するThe Mirraz『うるせー』(2012年)は、爽快感があって大声で歌うとスッキリできるのでオススメだ。

ニュース解説を務めているTOKYO FMの『ONE MORNING』で『うっせぇわ』を特集した際、パーソナリティーで声優の鈴村健一さんに教えてもらったのが『青葉春助 ザ・根性』。

1982年に放送されたアニメ『The♥かぼちゃワイン』のエンディングテーマで、作詞・伊藤アキラ、作曲・小林亜星という豪華コンビによる楽曲を、主人公・青葉春助の声を演じる古川登志夫がコミカルに歌いあげている。ポップな曲調ながらも「うっせえ!うっせえ!うっせえ!うっせえ!」と繰り返す歌詞は、『うっせぇわ』を彷彿とさせ……なくもない。

セント・ルイスの

J-CASTニュースは《「うっせぇわ」の源流? 尾崎豊・チェッカーズより昔...漫才コンビが歌った「ウッセー・ウッセー」を知っているか》という記事で、漫才コンビ「星セント・ルイス」が1979年に発表した『ウッセー・ウッセー』(作詞・榎雄一郎、作曲・石田勝範)を紹介している。

AOR風のメロディーに乗せ、《ウッセー ウッセー 文句を言うな 他人じゃ解らぬ オイラの気持ち》と訴える珍曲。「歌う」というより「吟じる」というニュアンスが近い気もする。漫才めいた掛け合いも織り交ぜられ、トーキングブルースかポエトリーリーディングのような妙味がある。

星セント・ルイスは大瀧詠一とも親交があり、『LET'S ONDO AGAIN』(1978年)収録の『ハンド・クラッピング音頭』にもゲスト出演しているぐらいなので、もともと音楽分野への関心があったのだろう。

『ウッセー・ウッセー』を収めたオムニバス盤『SMILE』のライナーノーツでも、「テンポの良い漫才からは、音楽的センスも持ち合わせていたことが察せられ、本曲もコミックソングとしては高水準の出来」と評されている。

少納言の

では、この曲が元祖『うっせぇわ』なのだろうか? 確かに数年ではあるが、青葉春助よりも古い。そこで注目したいのが、星セントと大瀧との対談のやりとりだ。

セント:「メンデル」の法則ってあるでしょ?

大瀧:そら豆をまいて、遺伝子を研究したっていうアレね。

セント:そう。その法則はね、「人間はすべて人間のコピーである」ということを言ってんの。だから、オリジナルなんてないんだね(笑)

大瀧:それはいいことを聞いた(笑)

『Big Music』1982年6月号/文藝別冊『大瀧詠一』再録

「オリジナルなんてない」というセントの言葉通り、「うるさい」系ソングの系譜も遡ろうと思えばいくらでも遡ることができる。

たとえば、フォーリーブスの『ブルドッグ』(1977年)。初っぱなから《黙れ! うるさいぞお前ら》とタンカを切っている。青葉春助と同じ伊藤アキラが作詞を手がけているのも、奇妙な偶然だ。単に伊藤氏が「うるさがり」なだけかもしれないが。作曲の都倉俊一はJASRAC会長や特別顧問を歴任し、いまや文化庁長官を務めている。

歴史を振り返れば、かの清少納言も『枕草子』で、大したことのない人間が得意げに物を言っているのが嫌だとか、酔っ払いがわめいて人に盃を勧めてくるのがシャクに障るとか、毒づきまくっている。

《なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたう言ひたる》

《酒飲みてあめき、口を探り、鬚ある者はそれをなで、盃、異人に取らするほどのけしき、いみじうにくしと見ゆ》

『枕草子』 にくきもの

これだって、言ってみれば『うっせぇわ』である。古の昔から、『うっせぇわ』は人類普遍の真理だったのだ。ピラミッドの壁画に象形文字で『うっせぇわ』と刻まれているのが発見されたとしても、私は驚かないだろう。

っせぇわ』は教育にいか

それでも『うっせぇわ』が教育に悪いという人には、こんなに安心安全な反骨ソングもそうそうありませんよ、と言いたい。組織や大人への不平不満をぶちまけながらも、《つっても私模範人間 殴ったりするのはノーセンキュー》。決して実力行使には出ない冷静さと優しさが、いかにもZ世代の若者らしい理知性を感じさせる。

《盗んだバイクで走り出す》の歌詞がよく引き合いに出される尾崎豊はもとより、《くそくらえったら死んじまえ》と歌った岡林信康や、《銃をとれ》と叫んだ頭脳警察、《飛行機ぶんどって何が悪い》と聴衆を挑発した三上寛のような発売禁止/放送禁止歌手(※)と比べても、『うっせぇわ』は極めて穏当。極めて健全。文部省唱歌に追加してもいいぐらいだ。

歌詞にイラつき不快に思ったのなら、うっせぇわと「言う側」ではなく「言われる側」の大人になった、ということだろう。「中二病だ」と揶揄する向きもあるが、実際に小中学生が熱狂しているわけで、そこに目くじらを立てても仕方がない。

私の両親はわりあい厳格で、子どもの頃は『おぼっちゃまくん』も『仮面ノリダー』も見せてもらえなかった。無菌状態で育ったはずなのに、結果こじらせて三上寛や頭脳警察を愛聴するような人間になってしまった。育成失敗とは思わないが、たぶん成功もしていない。

作品から何を受け取り、受け取らないかはその人次第だ。ひょっとしたら、『うっせぇわ』にハマっている今の子どもたちも、社会の理不尽に対してきちんと異議申し立てのできる、意志の強い人間に育つかもしれない。いまのうちに多少ともザラッとした表現に触れて、免疫をつけておくのも悪くないのではないか。

子どもがどれだけ『うっせぇわ』を聴こうが、《どうだっていいぜ問題はナシ》だと言っておこう。
 


放送禁止歌:「放送禁止歌」は俗称で、正式名称は「要注意歌謡曲」。日本民間放送連盟は1959年から1980年代にかけて、自主規制ガイドラインに基づいて「要注意歌謡曲」を指定。岡林信康や頭脳警察、三上寛の楽曲も指定を受けた。同制度については森達也『放送禁止歌』(解放出版社)に詳しい。

1983年、埼玉県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、2005年に朝日新聞社入社。文化くらし報道部やデジタル編集部で記者をつとめ、2015年にダンス営業規制問題を追った『ルポ風営法改正 踊れる国のつくりかた』(河出書房新社)を上梓。2017年にオンラインメディアへ。関心領域はサブカルチャー、ネット関連、映画など。取材活動のかたわら、ABEMA「ABEMAヒルズ」やTOKYO FM 「ONE MORNING」 、NHKラジオ「三宅民夫のマイあさ!」にコメンテーターとして出演中。