第4回 NHK (4)

失踪をくり返す父を撮り続けた衝撃の作品『father』を世に問うた若き写真家、金川晋吾さんが、「ひとのわからなさ」「わからないひと」との撮影の日々を描く。
シャッターを切る「まえ」と「あと」で生まれ出る世界とは。

1月24日(火)

富士本さんから連絡が来た。「今度は東京での金川さんの普段の生活の様子が撮れたらと思っています。お仕事をされているところや、お家で作業をしているところなんかを見せていただくことはできますか」とのこと。自分がやっている校正の仕事の現場にカメラを入れることはできないので、それは丁重にお断りをした。自分の部屋を見られるのは恥部を見られるようで若干抵抗があったが、断るほどのことでもないので来てもらうことにした。

 

2月1日(水)

明日の自宅での撮影に備えて、一日かけて部屋を片づけた。私の部屋はすぐに散らかってしまう。自分は片づけが下手だということを、私はここ数年でやっと自覚をした。なぜ散らかるのかはわかっている。元にあった場所にきちんと戻さないからだ。

本棚も整理しようかと思ったが、やり始めてすぐに挫折した。

 

2月2日(木)

この日は富士本さん、丘山さんに加え、音声の森高千里さんもやって来た。森高千里というのは当然だが本名とのこと。とりあえず富士本さんたちを撮影しようとすると、富士本さんが「森高さんは写真に撮られるのが苦手だそうです」と言った。本人に理由を聞いても、「小さいころからなんとなく苦手で」と言うだけではっきりした理由があるわけではなかった。私は「そういう人はたくさんいる。自分もかつてはそうだった」と思い、森高さんを説得しようとした。

「それは思い込みだと思います。少しきつめの言葉を使うなら、惰性だと思います。人生のどこかのタイミングで一度嫌だなと思って、それがなんとなく今まで続いているだけなんだと思います」

「僕もかつてはあまり撮られるのが好きじゃなかったんです。自分の姿を見ることに抵抗があったんだと思います。でも、ここ5年ほどのあいだに、自分の姿が写真に残るというのはやっぱりいいものだなと思うようになりました。当たり前ですが、写真は撮っておかないと残らないんですよね。残っていないより、残っているほうがいいと思うんです。こんなふうに思うようになったのは年齢も関係しているかもしれませんが」

「別にわざわざ嫌がるほどのことではないと思うんです。嫌がるというか怖がるですね。怖がっているんだと思うんです、写真に撮られることを。でも、写真を撮られることは怖がるほどのことではないんです」

重ねた私の言葉に森高さんはまったく感じるものがないようだった(何の根拠もなくただ自分の実感を喋っているだけなのでそれは当然だろう)。丘山さんはすでにカメラを回して私を撮影していた。私はカメラの前で写真家を演じているような気持ちになっていた。自分が何かうさんくさい人間になっているように思えたが、それはけっこう楽しかった。

苦笑いを浮かべながらじっと黙って聞いていた森高さんだったが、つぶやくように「でも、写真を撮られることに、何かメリットってあるんでしょうか」と言った。「あるかないかで言えばメリットはある」と思ったので、私はとっさに「ある」と答えた。「ある」と答えたからには何か言わなければいけないと思ったが、「写真はないよりもあったほうがいいんじゃないか」というさっきと同じ漠然とした実感を述べることしかできなかった。

今の自分には森高さんを納得させることは無理だと思ったので、「写真を撮ったとしても、それを使うかどうかはまだわからないです。それはテレビと同じです。なので、とりあえず撮ってみましょう。もし何かに使う場合は必ず森高さんに確認をとるので、そのとき考えることにしましょう」と言って、とりあえず撮影してしまおうとした。森高さんは抵抗するのが面倒くさくなったようで、撮影に応じてくれた。ただ、ポートレートだけは勘弁してくれと言われた。

いざ撮影をしようとすると、PENTAX 67はフィルムの巻上げ部分が壊れていてフィルムが装填できなくなっていた。1月に富士本さんに撮影してもらったときにどうやら故障してしまったようだ。富士本さんは「私が触ると壊れるということがときどきあるんです」と言った。私は「そういうことじゃないと思いますよ」と言ったが、そういうことが起こりやすい人というのはいるのかもしれないと思った(後日、修理に出してみると経年劣化による故障だと言われた)。仕方がないので、35mmフィルムの一眼レフCONTAX RXで撮影した。

 

私の普段の作業の様子を見たいということなので、フィルムをスキャンして、データのゴミ取りをして、プリントするという一連の作業をやって見せた。とても地味な作業だ。「こんなところを撮ってどうするんだ」と思ったが、これは私が父に繰り返し言われていることでもあった。ただ、父が口にするとき、そこには非難はふくまれていない。少なくとも私はそれをまったく感じていない。今の私の思いには非難がふくまれている。

「こうやって撮影されることに、一体何のメリットがあるんだ」と私は思った。ついさっき森高さんが自分に向けた問いだ。こうやって自分が「メリット」とか言い出すのは、何かを怖がっているからだ。でも一体何を怖がっているのか。自分のことを他人に預けるのが怖いのか。自分のことが他人にどう扱われるのかわからないのが怖いのか。

作業をしている私にカメラが向けられる。カメラを向けられじっと待たれていると、何かを話さないといけないと思う。だが、とくに話したいことはない。いや、話したいことは本当はいろいろとあるのだが、それはわざわざカメラに向かって話すべきことなのかと考えてしまう。

自分について話していると、自分の話に整合性をもたせようとしてしまう。そして、その反動で、でたらめなことも言いたくなる。でも、自分がこの場ででたらめなことを言っても、たいしておもしろいことは言えないし、他人を混乱させるだけなので、結局はそんなことはしない。というか、できない。

 

富士本さんが「この前撮影させてもらって思ったことなんですが、金川さんがお父さんを撮るのは『復讐』でもあるのかなと思いました」と言った。私は富士本さんが言うことはある意味では的確だと思った(先日、展覧会に合わせてやった批評家の竹内万里子さんとのトークイベントでも「復讐」という言葉は出てきた)。でも、自分としては「復讐」ではないということはちゃんと言わないといけないと思った。

「たしかに、父を撮り始めたときにはそういうものがなかったわけではないかもしれません。ただ、今の私としては復讐ではないと思っていますし、見る人に復讐だと思われてしまってはいけないと思っています。いけないというのは、復讐ということになってしまうとそういうものとして了解されてしまうというか、とても個人的なものに還元されてしまうというか。それは私が望んでいることではないです。写真を撮るということは、自分でも何をやっているのかよくわからないようなところがあって、何かもっと開かれたものだと思っています。こういうことは私が撮った写真にあらわれていると思っているのですが、それがうまく伝わっていないのであれば、私はもう少し見せ方を考えないといけないのかもしれません」

自分は作品について喋りすぎていると思った。ドキュメンタリーを撮られるというのは作品にとって過剰なことで、自分は余計なことをしているのかもしれないと思った。だが、こうやって向こうからやってくるものを切り捨てたくはないとも思った。

「『復讐』という言葉は、金川さんが撮った写真からではなくて、この前の撮影を見せてもらったときの印象から出てきました。でも、金川さんがおしゃっていることはわかります。一度お父様ご自身の思いをもお聞きしたほうがよさそうですね」と富士本さんは言った。

「私たちだけでお父さんのところにお邪魔しても大丈夫ですか」と富士本さんが訊いてきたので、私は「全然いいですよ」と言った。ついでに「もし父の家に行くのであれば何でもいいので、できれば父だけでなく何か気になるものを適当に写真に撮って来てください」というお願いもした。カメラはどうしようか迷ったが、カメラを預けるのも富士本さんたちの負担になってしまうので、いつも父が自撮りをしているカメラを使ってもらうことにした。具体的な次の撮影の予定は決めずに、「また連絡します」と言って富士本さんたちは帰っていった。

 

2月15日(火)

今日はまた改めて私の部屋でインタビューをしたいとのこと。先日、富士本さんたちは父の家にも行って来たらしい。そのときに撮ったフィルムを富士本さんから受け取った。

富士本さん、丘山さんに加えて、今日は蟹江可南子さんという音声さんがやってきた。蟹江さんは写真に撮られることをすんなりと了承してくれた。

今日は富士本さんのポートレートを撮るのに時間をかけた。丘山さんに比べて、富士本さんは私に撮られることに抵抗があるように見える。私も富士本さんをどういうふうに撮ればいいのか、撮りたいと思っているのか、正直よくわかっていない。とりあえず私は富士本さんをただ正面から撮ることにした。今の自分にはそれ以外に撮る方法がないような気がした(撮った写真を見返すと、もう少し何かやりようがあったんじゃないのか、何でもいいのでもっといろいろと試しておくべきだったと思う)。

私が富士本さんたちを撮り終えると、丘山さんはカメラを三脚で固定し、富士本さんは私にその前に座るように指示をした。いつもよりも改まった感じがあった。富士本さんは言った。

「これまでいろいろと撮影させていただいて感じるところはたくさんあったのですが、今の私の興味は、これからお父さんと金川さんの関係がどうなっていくのかということなんです。金川さんはこれからお父さんとの関係をどうしていきたいとお考えなのでしょうか。これからも写真を撮っていくとか、どういう写真を撮っていきたいかとかいうことではなくて」

 

「これからどうしていきたいか(写真どうこう抜きにして)」

そんなこと私はこれまでちゃんと考えたことがなかった。

「写真を撮ることは続けたいと思っています。というか、父が自撮りを続けてくれているので、父がやめないかぎり、私が撮らなくても勝手に撮影は続いていくことになりますよね。自撮りは続けてほしいので、私から父に続けるように働きかけることはしていくと思いますが。でも、富士本さんが聞きたいのはそういう写真のことじゃないんですよね」

答えあぐねている私を見て、富士本さんは「では、今のお父さんとの関係をどのように感じていらっしゃいますか」と質問を変えてくれたが、それでも同じことだった。

私はそんなことをちゃんと考えたことがなかった。「そういう種類の考えるべきことがあるのだ」と、質問されることで初めて気がついた。これまでちゃんと考えたことはなかったにしろ、何か漠然と感じていることはあるはずなので、それを何とか言葉にしてみようとしてみるのだが、結局うまくいかずに、「あまり考えたことがないですね」とか「よくわからないです」とか言ってしまうことになった。

 

私が父を撮り始めた2008年ごろ、「何が理由で家を出たのか」「今、どういう気持ちなのか。何を考えているのか」「これからどうするつもりなのか」と問いかける私に対して、父は「わからない」「考えたことがない」「考えていない」「考えられない」をくり返していたが、私はそのときの父の気持ちがわかるような気がした。自分のことだけれど考えていない、考えたことがない。だから、質問されても答えられない。

「写真を撮られて、お父さんはどういうお気持ちなんでしょうね」と富士本さんは言った。そんなことは私にはわからないし、父自身もうまく答えられないだろうと思った。富士本さんは続けた。

「これまで取材させてもらって、私には撮られているときのお父さんが辛そうに見えたんですね。なので、そのことを金川さんがどう思っているのか、お聞きしたかったんです」

私はそんなふうにはまったく考えていなかった。

私は父は撮影されることを別に嫌がってはいないだろうと漠然と思っていた(面倒くさいと思うことはあったとしても)。父が苦痛を感じていないということを前提にして、私は父の撮影をつづけていた。私は富士本さんの指摘に釈然としなかったが、丘山さんに訊いてみても、「そういうふうに見える部分はありました」と言われた。

父が苦痛を感じていないからこそ、私が撮っているようなああいう写真にはなっていると自分では思っていた。でも、富士本さんにも丘山さんにもそう見えたのなら、そういう部分はあるのかもしれないと思った(父自身も自覚していないかもしれないが)。とりあえず、もう一度みんなで京都の父の家に行って、私が父を撮影するところを富士本さんたちに見てもらって、それから改めて考えてみようということになった。

 

 

Profile

1981年、京都府生まれ。2006年、神戸大学発達科学部人間発達科学科卒業。2015年、東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞。著書に写真集『father』(青幻舎)。近年の主な展覧会「悪い予感のかけらもないさ展」あざみ野市民ギャラリー(2016年)、「STANCE or DSTANCE?わたしと世界をつなぐ『距離』」熊本市現代美術館(2015年)など。
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第3回 NHK(3)

失踪をくり返す父を撮り続けた衝撃の作品『father』を世に問うた若き写真家、金川晋吾さんが、「ひとのわからなさ」「わからないひと」との撮影の日々を描く。
シャッターを切る「まえ」と「あと」で生まれ出る世界とは。

12月9日(金)
富士本さんから電話があり、企画が通ったので1月から撮影に入りたいとのこと。どうなるのか楽しみだけど不安もある。

1月17日(火)
向日町駅で待ち合わせ。駅まで母に車で送ってもらった。車のなかで母に「おかんもNHKの人たちと話してみる? 向こうとしては興味があると思うんやけど」と言うと、母はちょっと考えて「私はいいわ。もうあの人とは直接には関係のない人間やしね」と言った。私が少しほっとしながら(ほっとするならそもそも言わなければいいのだが)「まあ、それはそうや」と言うと、母は「うん、私にはもう関係のないことやから。まあ話すとしたらあんたの母親としてなら話せるかな」と言った。

駅に着くと富士本さんとカメラマンの男性が待っていた。私が車から降り、「母です」と紹介すると、富士本さんは「なんと。お母様ですか」と少しあわてて運転席の母に挨拶をした。朝のラッシュ時で駅前があわただしかったこともあり、母は車に乗ったままで挨拶をした。一通り挨拶をしたあと、最後に「息子と元旦那をどうぞよろしくお願いしますね」と「元旦那」のところで誘い笑いをして、母は車で去っていった。

富士本さんが「お母様、明るい感じの方ですね」と言ったので、私は「まあそうですね。今日もいろいろと予定が入っているみたいで、じっとしていないですね。ただ、ちょっと富士本さんたちと話したがってるようにも見えたかな。若い人と話をするのが嫌いじゃないんですよ」と言うと、富士本さんは「それはぜひお話したかったですね」と言ってくれた。

カメラマンの男性と名刺のやり取りなどはせずに簡単に挨拶をする。名前は丘山さんといって、年齢は私より少し上に見える。初対面でも人を緊張させない雰囲気があって、とてもつき合いやすそうな人だと思った。

とりあえず簡単に打ち合わせをするために、駅前の喫茶店に入った。席に座ろうとしたときに、撮影機材を入れたバッグを母の車の後部座席に忘れていることに気づいた。自分で自分に呆れるが、こんなことはこれまでにもくり返してきたし、これからもくり返すのだろうと思う。すぐに携帯に電話をすると、母は戻って来てくれるとのこと。15分ほどで来てくれたので、「おかんの時間が大丈夫なら、一緒にお茶でもするか」と訊くと、「ほなちょっとお邪魔させてもらおうかしら」と言ってお店に入ってきた。

私と母が隣りあって座り、富士本さんと丘山さんと向かいあった。思わぬかたちで母と二人でインタビューにこたえるような格好になった。私のことを訊かれると、母は「この人は昔から本当に手のかからん子でね」と言って私のことを褒めだした。これはずっと昔からのことで、こういうことを言えば親バカだと思われるということは本人もわかってはいるようだが、事実なのだからこう言うしかないのだと開き直っている。

いや、開き直るということすら母はおそらくしていなくて、自分の実感をただ正直に話をしているのだろうと思われる。母が他人に向かって私の良さを語ることに対して、私も恥ずかしさを感じないわけではないが、私自身「でも実際にそうだったのだろう」とその事実を受け入れているところがある。なので、そういう場面に遭遇しても「まあまあ、おかん」と適当になだめながら聞き流していることが多々あるのだが、この日もそんな感じだった。

母は「元旦那」のことを訊かれても口ごもることなく変わらぬ調子で話し続けた。

「子どもが小さいときは面倒見のいい父親だったと思いますよ。家のこともよく手伝ってくれましたしね」「私はね、あの人が蒸発して戻ってくるたびに、これでもう二度としないだろうと思っていたんです」「二度としないと思っていたというか、またするだろうとかそういうことをそもそも考えていなかったのかな」「実際のところ、あの人のことをあんまりよくわかっていなかったのかもしれませんね」「今はちゃんと暮らしているみたいで、まあなによりだと思います」「それもやっぱりこの子のおかげやと私は思ってます」

最後の母の言葉を聞きながら、私も「まあやっぱりそうだろうな」と思っていた。

富士本さんが少し言いにくそうに「昔一緒に生活していた人のことが、こうやって本になって出版されることに対しては、お母様はどういうお気持ちなのでしょうか?実際にご覧になって、どうでしたか?」と訊くと、母は「見てみるといろいろと思うことがないわけではないですが、今の私とは直接には関係のない話ですからね。こうやって本になったことは本当によかったと思ってます」と言った。ただ、質問が父の蒸発の具体的な事実、たとえば蒸発の回数や頻度や期間などになると、母は曖昧にしか答えられなくなった。これは母に限らず、私も兄も、そして父自身も同じで、 誰もちゃんと覚えていない。みんななんとなく「あの時期、よくいなくなっていたな」という漠然とした認識をもっているだけなのだ。

富士本さんたちも自分の家族の話をしてくれた。富士本さんのお父さんは印度哲学の教授だったが、40過ぎまではまったくお金を稼がずに研究を続けていて、お母さんの教師としての収入で富士本家の生活は成り立っていた。そういう両親を見ているので、富士本さんはやりたいことがある人は無理して働く必要はないと考えているらしい。

丘山さんは中学生のときに激しい反抗期を迎え、そのときのからの軋轢が今も残っているとのこと。丘山さんのような優しくて人あたりがよさそうな人が親とそんなことになるなんてとても意外だと思ったが、本当は別に意外でも何でもないんだろうとあとで思った。自分はよくも悪くも反抗期がなかったので、反抗期というものがよくわからないのだと思う。他人の家族の話を聞くのはやはりとても興味深いと思った。

1時間ほど話し込み、父との約束の時間をすでに過ぎていたので喫茶店を出て母と別れた。私はひと仕事終えたような疲れをすでに感じていた。

富士本さんは機材を載せたタクシーで大山崎駅に向かい、私と丘山さんの二人だけで駅に向かった。改札を通るところからカメラが回った。自分が歩いている姿を後ろから撮影される。歯に何かが挟まっていたり、チャックが半開きだったりしないだろうかと不安になる。私は自分にほころびが生じても適当に笑ってごまかして生きてきたような人間だ。カメラの前でほころびは避けられないだろうが、できれば避けたいと思う。

ホームで電車を待つ。丘山さんは少し離れたところにいる。電車が来るまでにはまだけっこう時間がある。「電車までまだ時間がありますね。って、こうやって話しかけたりあまりしないほうがいいですか?」と私が声をかける。丘山さんは「全然大丈夫ですよ」と丘山さんはファインダーから顔を外し、ノーファインダーのまま撮影しながら言った。

「いきなり2人きりというのもどうしたらいいかわからないですよね。本当は撮影に入る前に、一度会って飲んだりしたりすることが多いんです。今回はそういうことがなかったのは、富士本の意向なんです。実は僕、申し訳ないんですが『father』もまだ読んでいないんですよ。富士本から渡されていなくて。できる限り事前に情報を僕に与えたくないみたいで。富士本がそうはっきりと言ったわけではないんですが、本のことを訊いても、『いや、とりあえず読まなくて大丈夫です』と言うので、僕もそれ以上は突っ込まないようにしています。あいつなりに何か狙いがあるみたいですよ」と言った後、最後に「まあ富士本はとくに何も考えていないかもしれませんけどね」と笑って付け足した。

富士本さんがこの番組をどういうものにするべきか考えて、演出をしている。それは当たり前のことだが、私を感慨深い気持ちにさせた。が、「とくに何も考えていないかもしれない」という丘山さんの言葉にも感じるものがあった。

電車内はすいていたが、撮影しやすいようにと人がいないドアのそばに立つことにする。カメラを向けられているのを意識しながら、カメラのほうを見ないようにする。今撮られている映像はどのように使われるのか。自分はどんなふうにうつっているのか。誰がこれを見るのか。そもそも本当に誰かがこれを見るのか。そんなことをひとつひとつ考えているわけではないのだが、撮られているという状態には漠然としたわからなさがつきまとう。そして、そのわからなさが不安をつれてくる。撮られていると自分の手のやり場に困り、ずっと手を組んでいて、手を組んでいるということにずっと意識が向かう(でも、それはそのうち終わる)。

撮影をはじめた2008年ごろ、私はよく電車内で父をビデオで撮っていたことを思い出した。そのときの父は何を思い、感じていたのだろうか。また、そのときの私は父が何を思い、感じていると考えていたのだろうか。たぶんそのときの私は、父が何を感じているかなんてことをそもそもあまり考えてなかったと思う。そのときの父は撮られるということにとくに何も思っていないように見えていた。

カメラを向けられることに対して、父が私に何かを言ってきたことはなかった。ただの一度もなかったと思う。カメラを向けられても、父はとくに困っているようには見えなかった。本当は困っていたのだろうか。私がいろんなことを忘れているだけなのだろうか。父の映像はかなり撮っていたが、今のところそれを作品としてまとめることはできていない。とくに何かに使われることもなく、見返されることもなく、ハードディスクにたくさんの映像が眠っている。

そんなことを考えていると、撮られているという意識はかなりうすれていた。撮られている自分を意識し続けることもできないものだと思った。完全に意識しないこともできないが。

10分ほどで山崎駅に着いた。駅前のデイリーストアでウイスキーを買って、タクシーで父の住むアパートに向かった。アパートの目の前でタクシーは降りたが、一旦そこから少し離れて、私が父の家に向かって歩くところから撮り直す。家のなかに入ってもでカメラは止めず、ずっと撮り続けるとのこと。父の家に入るとき、いつも自分が何て言っていたのか思い出そうとするが出てこない。「毎度」という言葉が浮かぶがそんなことを言ったことはない。私が子どものころにそう言って家に遊びに来る大人がいたことの記憶がかすかにあるような気がする(あるいは父が使っていたのか)。とりあえず「おじゃまします」と言ってなかに入った。出迎えた父も一瞬何と言おうか考えているように見えたが、父はとくに何も言わずにただ苦笑いをした。

ひとしきり挨拶がすみ、会話が止まった。私は指示を求めるように富士本さんの顔を見た。富士本さんは私を見るつもりになっていたのか、私に見返されたことに一瞬ひるんだように見えたが、すぐにもちなおして「とりあえず、金川さんがお父さんの写真を撮るところを見せていただけますか」と言った。言われるまでもなくそうするべきなのだが、私は言われるまではやろうとしなかった。

今の私は父を撮ることへの興味を失くしている。その変化についてはうまく説明できなくて、以前も別に撮りたくてしょうがないと思っていたわけではなかったが、かつては父を撮ることに何か未知のものを期待するところがあったような気がする。あるいは、かつては私の中に父をイメージ化することへの欲求があったのかもしれない。期待や欲求がなくなったのは、父自身や父が置かれている状況や、父と私の関係性、あるいは私自身が変化したからだと思われるが、かと言って撮影を完全にやめにしたいわけでもなかった。興味をなくしても撮影はつづけたいということを、どう説明したらいいのかがまだよくわからない。

私は父という人間よりも、NHKの取材が来ているというこの状況の方を写真にしたいと思っていた。今、私が京都にいるのは、NHKの取材があるからで、そうでなければ私はここに来ることはなかったのだ。そのことが富士本さんや丘山さん、それにこの番組を見るであろう人たちに伝わるようにしたかった。

私は父単独の写真はまったく撮らずに、丘山さんとのツーショットや、富士本さんを交えてのスリーショットを撮った。丘山さんはこの状況をおもしろがってくれているようだったが、富士本さんは様子が少しちがっていた。富士本さんは撮影の合間に「お父さんだけを撮ったりしないんですか?」と訊いてきた。そう言いながら私のほうを見る富士本さんの顔は戸惑っているように、ともするとやる気のない私に憤っているようにも見えた。

写真は撮っておいて後悔することはまずなくて、だいたいいつも「もっと撮っておけばよかった」と思うことが多い。なので、とりあえずがんばって撮っておくよう自分を励ましたが、マスコミが父の家に来るのも神戸新聞、テレビ大阪、そして今回のNHKと、実はこれで三度目で、撮影スタッフと父との組み合わせにも私は若干飽きていた。

ペンタ67で40枚、昨日買った「現場監督」という日付入りの35ミリのフィルムカメラで数枚撮ったところで、撮影はやめにした。今日みたいな適当な撮影でも、撮影が終わるとやはり疲れていたので、少し休憩をとることにした。テレビでは宮根誠司が喋っていて、とりあえずみんなそれを眺めていた。丘山さんはファインダーをのぞいてはいないが、おそらくカメラは回し続けている。

「お父さんは、この時間はいつもミヤネ屋ですか?」と富士本さんが訊くと、「とくに決めているわけではないんやけど。まあそうですかね」と父。さらに富士本さんは「お父さんが欠かさずご覧になっている番組ってあるんですか」と尋ねるが、「うーん、とくにないんとちがうかなあ」という父の答え。「昔はおとんが動物番組をよく見ていたのを覚えてるわ」と私が言うと、父は「そうやったかもな」と言うので、私が「今はそんなに見てないの」と尋ねると、「今はそうでもないかな」と父。

父が動物番組が好きだったということは、何か特別な意味をもつ事実として私のなかに残っていた。世俗的な番組よりも動物番組を好むあたりに、父という人間の現実逃避的な側面が垣間見えると私は思っていた。私はそのことを富士本さんたちに伝えたいと思ったが、実際に話してみると、こんなことを話してもたいして面白くないというか、余計な説明を加えているだけのような気がしてきて気持ちが萎えた。

富士本さんに「もうすでに何度かお聞きしていますが、金川さんがお父様を撮ろうと思ったきっかけを改めてカメラの前でお話していただけますか」と言われ、「私が中学、高校に通っていたころに、父は蒸発をよくしていて、」と私はこれまでに何度も話している話を始めた。自分のことを説明する定型文ができあがっていることに違和感を感じるが、面倒くさいのでそのまま話す。自分のことを話しているうちに、「なんでわざわざ自分はこんなことをしているのか」という気持ちが強くなってきた。

これまでにもたびたび感じてきたことだが、カメラを前にすると、「なんで自分は」という思いはより強くなった。こうやって質問され撮影される状況をつくったのは他でもない自分なのだが、こういう状況に置かれていることが不条理のように感じた。かと言って、喋りたくないわけではなくて、むしろ喋りたいことはたくさんあるのだが、カメラの前で調子よく喋っている自分がなんだか馬鹿みたいにも思えてきた。そもそも自分は誰に向かって話しているのか。

買ってきていた菓子パンに手をとり、話の途中でかじりついた。カメラの前で話をしながら菓子パンは食べないほうがいいに決まっている。それはわかっているのだが、ついやってしまった。撮られていることを一方では意識してはいるのだが、疲れからか頭全体はぼんやりとしてきて、どうでもよくなってくる。座椅子の背もたれからずり落ちて、ほぼ寝ているような状態で話す。自分のなかにだらしなさを晒したがっているような部分があるような気もする。そんなものを晒すのは情けないことだとも思う。

インタビューは1時間ほど続き、けっこう疲れた。夕飯にはまだ少し早い時間だったがおなかも減ってきたので、「寿司の出前でも取ろうか」と私が言い出した。「銀のさら」に電話をすると配達には1時間ぐらいかかるということなので、父の冷蔵庫のなかにあるつまみを食べながらみんなで飲むことにした。父が漬けている糠漬け、にしんを焼いたもの、もやしのナムル、キムチ、鶏のささみなど酒のあてがいろいろ出てきた。

丘山さんもお酒は嫌いではないようだ。富士本さんはさすがにこの日は飲みすぎないように気をつけていたが、人並みには飲んでくれていた。父もいい調子で飲んでいた。丘山さんは飲みながらも、一般向けの小さなカメラは回していた。

今、大阪の服部のギャラリーで父の自撮りのシリーズの展覧会をしているので、明日は富士本さんたちとそこに行く予定になっていたのだが、父も一緒に行くかどうかはまだ決めていなかった。父は明日は予定があるらしいが、撮影について行ったほうがよければ、予定をキャンセルすることはできると言った。富士本さんは「私はどちらでも大丈夫です」と言った。父も「わしもどっちでもええよ」と言った。

私は父を連れていくかどうか迷った。写真集が出るまでは、自撮りの写真は父本人には一枚も見せないようにしてきた。一枚も見ずに自撮りを続けていること、そのことがこの作品にとっては重要だと思っていた。だが今は、そうやってコントロールしようとすることがちょっと違うような気がしてきている。というか、面倒になってきている。私は成り行きに任せたかった。ただ、この場合はどうすることが成り行き任せなのかよくわからなかった。

私は決断を先延ばしにするために、「展覧会はおとんが本当に見に行きたいと思ったときに見に行くことにしよう。明日はおとんに用事があるようなのでとりあえずまた今度ということで」と言った。その言葉を聞いた父は、携帯を取り出し、どこかに電話をかけて明日の用事をキャンセルしてしまった。父の態度表明とも言えるその振る舞いを見ているときの私の顔はびっくりするぐらい呆然としていたと、あとで富士本さんに言われた。一旦決まってしまうと、父と一緒に展覧会に行くのはごく自然なことであり、なんでそんなことで迷っていたのだろうかと思った。

酒が進み、話題も昔のことに。私が小学生のころはサッカー少年団に入っていて、父もその少年団のコーチをしていたという話をしていると、父は昔使っていたジャージのポケットに入っていたという一枚の写真を取り出した。その写真には、ゴールキーパーのユニフォームを着て満面の笑みで誰かと握手をしている父が写っていた。まだだいぶ若い。40代半ばかそれよりも若いぐらいだろうか。見ているこっちが困惑するような、突き抜けた明るさがある。

「たぶんなんかの大会でMVPをもらったときの写真やと思う。決勝がPK戦にまでもつれたんやけど、わしが相手のPKを止めて勝ったんとちがったけな」

富士本さんたちにはその写真に写っている父がとても新鮮に見えるらしい。「全然別の人に見えます」と富士本さんたちは言った。当たり前だが私には別の人にはまったく見えない。父の写真の経験の仕方が、自分と他の人とでは全然ちがうということを今さらながら思い知らされる。

さらに酒が進み、昔の話が続いた。父は若いころはフリーで機械設計の仕事を自宅でしていたので、兄の保育園のお迎えにもよく行っていたらしいのだが、そんなことを話しているうちに、父は兄の保育園にいた自閉症の女の子のことを話し始めた。

その女の子は他の友達とはうまく遊べなかったのだが、父にはとてもよくなついていて、父はお迎えにいったついでに、その女の子とよく遊んであげていたらしい。「めっちゃかわいらしいこでな。わしが保育園に行くと、『おっちゃん、あそぼ』って言ってスッと近づいてくるんや」そう話す父の様子はさっきとは明らかにちがっていた。鼻をくすんくすんと鳴らし、こみあげてくるものをこらえながら話しているのだった。富士本さんも丘山さんも父の変化に気づいたようで、少し驚いたような顔をして私のほうを見た。

「それから何年もたって、わしが少年団のコーチのために神足小学校に行ったときのことやねんけどな。グラウンドのそばを歩いてたら、『おっちゃん、あそぼ』って声をかけられてな。見たらその女の子なんや。小学生になってだいぶ大きくなってたけど、ぱっと見てわかった。少年団はもう始まる時間やったけど、そのまま女の子とジャングルジムで遊んであげてな」

父の目は真っ赤になり、声もうわずって、こみあげてくるものをこれ以上おさえることができなくなっていた。

私はとてもいい話だと思った。

自分にはとうていできないことだと思った。

ただ、こうやって感情が極まっている父を見るのは、決して居心地がいいものではなかった。これまでに父が私や兄、父にとっては元妻になる私の母、あるいは祖父母や伯母のことを話しているとき、つまり家族の話をしているときに、こんなふうに感情が乱れて涙を流すというようなことはなかった。もっと昔にならあったような気もするが、私は思い出せない。他人のことで泣くのなら、家族のことでも泣くべきだと思ったわけではないし、自分はそんなふうに考えたいわけではないのだが、何とも言えない違和感が残った。

20時ごろ、父の携帯が鳴った。父の飲み仲間からのお呼び出しだった。ちょうどいい頃合いだったので、私たちも帰ることにして、タクシーを呼んでみんなで父の家を出ることにした。

父と別れてから、さっきの父の涙について富士本さんたちと話をした。富士本さんたちも父の涙にうまく説明できない違和感を覚えたと言っていた。

 

1月18日(水)
朝11時に阪急宝塚線服部駅で待ち合わせて、ギャラリーへ。この展覧会では、父の自撮りの写真のシリーズ「father 2009.04.10-」を展示していたのだが、自撮りのなかでも父が上半身裸になっている写真だけを展示した。いわば、「初老の男性の自撮りのヌード写真の展覧会」になっているのだが、そうすることで、写真を媒介にして成立している、今の父と私との関係性を提示できるのではないかと思ったのだ。

父は実際に展示を見ても、裸のことについては何も言わなかった。ただ、自分の撮り方については何か思うところはあったようで、「やっぱりどれも下からあおって撮ってしまっているな」とつぶやいていた。それ以外のことについては父からはとくに何の感想も出てこなかった。

今日もとりあえず富士本さんに「どうしましょうか」と訊いてみるが、富士本さんは「いや、とくに私としてはどうしてもらってもけっこうですので」と言った。とりあえず父を撮ることにした。

父を撮ることへのモチベーションは相変わらずあがらないが、しょっちゅう撮れる場面でもないし、とりあえず撮っておいて後悔することはないと自分を励まして撮った。

自分で撮るのにも飽きてきたので、富士本さんにカメラを渡して撮影してもらう。マニュアルのカメラは使ったことがないとのことだったので、手動でピントを合わせる方法を説明する。父と私が並んでいる写真を撮ってもらったあと、私は「フィルム一本分、10枚全部を富士本さんが撮ってください」というお願いをした。富士本さんはどうしたものかと少し考えたあと、「二人で自由に歩き回ってください」という指示を出し、やけっぱち気味に連続してシャッターを切りだした。

富士本さんはファインダーからずっと顔を離さなかった。ペンタックス67特有の大きなシャッター音がしばらくくり返され、そろそろ10枚撮りきったかというところで音が止まった。富士本さんはファインダーから顔をはずし、カメラをしげしげと見ている。「すいません、動かなくなりました」と富士本さん。カメラを見てみると、あと1枚は撮れるはずなのだが、シャッターが押せなくなっていて、フィルムの巻き上げもできなくなっている。いろいろ試してみたがやっぱり動かない。どうしようもないので、撮影は終えるしかなくなった。

慣れない人に無理やりカメラを使わせたのは私なので、富士本さんにはまったく責任はない。だが、私にそう言われたところで、「ですよね」とも言えず、かと言って謝るのもおかしいので、富士本さんは微妙な顔になっていた。丘山さんが「壊れたんですかね?」と聞いてきたので、「いや、壊れたのではなくて、巻上げがうまくいかなくなっているだけなので、フィルムさえ取り出せばまた動くと思いますよ」と答える。富士本さんはやっぱり微妙な顔をしていて、私は申し訳ないことをしたなと思った。

「僕の撮影は終わろうと思うのですが、この後どうしますか」と訊くと、富士本さんは「金川さんが終わりでオッケーなら、こちらも終わりでオッケーです」と言った。そう言われると、なんだかこのまま終わるのはもったいないような気がしてきたので、私は父にギャラリーのなかを壁に沿って何周も歩いてもらい、それを自分のビデオカメラで撮ることにした。自分の顔の写真が展示された空間をぐるぐると周り続ける男の映像というのは、なんとなく面白いかもしれないという単なる思いつきだった。

ここ数年、父は左ひざの調子が悪く、立っているだけで負荷がかかり、歩くときも左足を少しかばいながら歩くようになっているのだが、それもまた映像にとってはいい効果になるのではないかと思った。「歩いているときつくなると思うけど、足をひきずりながらでも全然いいので、できるだけがんばってもらえるとありがたいです」と私は笑いながら言った。富士本さんたちも笑いながら「非道い」「鬼だ」「過酷」などと口々につぶやいた。ただ、私はそうは言いながらもそれは半分冗談で、本当に足を痛めるようなことは避けてもらいたいという私の思いは伝わっているつもりでいた。

私はギャラリー全体が見渡せる入り口にカメラをセットした。父が片足をひきずり気味にギャラリーをぐるぐる周っているところを撮影しながら、「これはやっぱり全然だめだな」と思っていた。4周ほど歩いたところで、父が「こんなもんでええか」と言ってきたので、撮影を終えることにした。

撮影を終えると、父は椅子に腰かけて顔を少ししかめながら調子の悪いほうの足をさすっていた。「え、大丈夫?」と私が驚いて言うと、「いやいや、まあ全然大丈夫や」と父は言ったが、足をずっとさすっていた。「マジか」と私は思わずつぶやいた。そう言えば父はこういう人だったと改めて思った(この数ヶ月後、父は足の手術をすることになった。別にこのときのことが直接的な原因ではないし、もし少なくとも何らかの影響を与えたのだとしても自分が責任を感じる必要はないとは思っているが、今回のことから学ぶべきことはあると思っている)。

父は足の調子が悪くなっていたので先に帰ることになり、三人で昼食を食べるため中華屋に入った。私はこの2日間の感想を話そうとするがあまりうまく話せなかった。

「撮られていると、何とも言えないストレスというか、何か澱みのようなものが自分のなかにたまっていく感じがあります」「でも、これは自分が撮る側の人間だから意識し過ぎているだけなのかも。ただの自意識過剰というか、慣れていないだけかもしれませんね」「自意識過剰もそんなに続くわけでもなくて、そのうちどうでもよくもなってくるんですが」

撮られることに対して文句をつけるような物言いになりそうだったので、そうならないように気をつかった。自分のことを撮ってくれるのはありがたいし、面白いことだとは思っている。ただ、未知の経験なので、自分がびびってしまっているのだ。

富士本さんにこの2日間の感想を訊いてみると、富士本さんは「思うところはいろいろありましたね。いろいろありました」とだけ言って、それ以上は何も言わずしばらく沈黙が続いた。たまらず丘山さんが「それだけなの」と言った。私もそう思っていた。富士本さんは「いや、本当に思うところはいろいろとあったので、それをどうお話すればいいのかまだよくわからないというか、そんなことお話しても結局同じことかなと思いまして」と言った。私が、「何か言ってもらえるとありがたいです」と言うと、富士本さんは「わかりました」と言って、考えながらゆっくりと話し出した。

「まずはいい撮影ができたなと思いました。いいものが見れたなと思います。ただ、金川さんがお父さんを撮影しているところを見させてもらって思ったのですが、この作品、『father』という作品のピークは過ぎたように感じました。私の興味は『father』という作品や、金川さんとお父さんの関係性ということよりも、金川さん自身に移ってきているような気がします。金川さんがこれからどんな写真家になるのかなと。まだ何者でもない金川さん自身に興味がありますね」

「この作品のピークが過ぎている」という富士本さんの指摘はまちがっていないと思った。しかし、私としてはピークを過ぎたあとに起こっている変化がおもしろいと思っていて、その変化を撮ってもらいたいと思っていた。そして、富士本さんもそこに興味があるのだろうと私は勝手に思っていた。ただ、富士本さんがどのように考えようとそれは富士本さんの自由なので、それは問題ない。それより何より、私は「まだ何者でもない金川さん」と言われたことにけっこう驚いてしまっていた。言われてみると、たしかに自分はまだ何者でもないのであり、よくても、「たまに失踪する自分の親父を撮っている人」でしかないのだ(自分も他の写真家のことを「ああ、あの〇〇ばっかり撮ってる人でしょ」とか言ってしまっていることを思い出した)。

「自分がどんな写真家になるのか」そんなことは私にも全然わからない。そもそもそんなことに興味をもつ人がいるのだろうか。そんなぼんやりしたものをテーマにしたらもまったく見どころのない番組になってしまうのではないか。私は心もとなくなった。私のためにも、またNHKのためにも、『father』という作品からは離れない方がいいんじゃないかと思った。

大阪から三人で東京に戻るのかと思っていたが、富士本さんと丘山さんは「京都の風景」のカットを撮るためにこれから京都駅に向かうとのこと。「京都の風景」のカットなんて必要だろうかと思ったが、そんなことは言わないようにした。

私は疲れていたので一人で東京に戻ることにした。

 

Profile

1981年、京都府生まれ。2006年、神戸大学発達科学部人間発達科学科卒業。2015年、東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞。著書に写真集『father』(青幻舎)。近年の主な展覧会「悪い予感のかけらもないさ展」あざみ野市民ギャラリー(2016年)、「STANCE or DSTANCE?わたしと世界をつなぐ『距離』」熊本市現代美術館(2015年)など。
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