第12回 メイド・イン・ジャパン

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

1971年にジム・モリソンが死んだ辺りで、ヒッピーたちの楽園は70年代の初頭には潰えた感がある。そして70年代のロックは、60年代とは違った色合いを見せるようになってゆく。新しいバンドがいくつも登場して、ロックのイメージを塗り替えていったのである。69年にレッド・ツェッペリンとキング・クリムゾンが最初のアルバムを出している。つまりハードロックとプログレッシブロックという二つの潮流が、その存在感を主張し始めたわけだがそれに伴ってアルバムジャケットも凝ったアートワークになっていった。文化進化である。70年代こそはロックの黄金期だ。この時代のロックを一言で言い表すとしたら、それは絢爛豪華ということになろうか。ド派手で華美な方向へ、つまりは巨大な産業化へと向かったのである。レコード産業は右肩上がりで、コンサートも照明や舞台装置など、派手な演出を取り入れるようになった。一番わかりやすいのは、この時代のローリング・ストーンズである。ミック・テイラーが加入したのでハードロック的な楽曲をアルバムに加え、舞台装置は大がかりになった上にグラムロックが流行っていたのでミック・ジャガーは濃い化粧をしていた。派手派手である。70年代ロックの総合商社か。実際、ジャガーは経済学部にいた人なので、この頃には既に経営者の視点でバンドを運営していたのではないか。60年代の時点で元々は単なる流行歌手であるロックスターが、社会的な影響力を持つ文化人足りえることに気がついていた人である。この、企業の経営者が自らパフォーマンス乃至プレゼンを行うというスタイルはおそらく、60年代カウンターカルチャーの後継者の中で最大の成功をおさめたシリコンバレーの活動家たちに大きな影響を与えている。スティーヴ・ジョブズとビル・ゲイツがロックンロール誕生の年である1955年生まれなのは偶然ではない。彼らは十代の多感な時期にジョン・レノンやボブ・ディランがエレキギターで世界を変えるのを目撃したのである。ジョブズが亡くなった今も我々は、彼のパフォーマンスを動画で観ることができる。大勢の聴衆を相手に楽しげにAppleのビジョンを語るジョブズは、パフォーマンスアーティストであり、メッセージの送り手である。おそらく、この頃になるとミュージシャンたちはロックが資本主義の権化であることに気がついていた。なので、キッスのジーン・シモンズ、ブラック・サバスにいたオジー・オズボーンのような人たちは経営者としてのセンスを身につけ、言ってみればサーカスの座長のようなスタンスで活動を行うようになる。後にバンドを脱退し、ソロになったオズボーンはクワイエット・ライオットにいた若くて有能なギタリスト、ランディ・ローズを抜擢する。ローズは飛行機事故によって悲劇の死を迎えるが若きギターヒーローとして伝説的な存在となった。その後もオジー・オズボーンバンドは何人もの著名なプレイヤーたちを輩出している。後にヴァン・ヘイレンのボーカルだったデイヴィッド・リー・ロスがバンドを脱退してソロになった際にはスティーヴ・ヴァイという若手のギタリストをバンドに招聘している。オズボーンもリー・ロスも、その後は元いたバンドに戻ったりしている。二人ともバンドのフロントマンである自覚こそあったものの、ステージの上で歌う自分の横にはギターヒーローが必要であることをよくわかっていたのだ。スターであるボーカルと、そのバックバンドという構成ではロックにならないのである。極論を言うと、メンバーが一人変わっただけで別のバンドになってしまう。それがロックというミニマムな文化である。だからこそ、レッド・ツェッペリンはドラムのジョン・ボーナムが死ぬと速やかに解散した。潔い。ボーナムなしにレッド・ツェッペリンは成立しない。それは決してロマンチックなボーナムへの哀悼だけではなく、物理的にボーナムのドラミングを再現できる人材が存在しないことを意味している。極端に個性的なドラマーを擁したバンドで、ドラムが最初に死んでしまった大物バンドとしてはザ・フーがいる。ザ・フーのキース・ムーンはボーナムよりも二年ほど前に死んだ。ザ・フーは彼の死後、スモール・フェイセズからフェイセズでドラムを叩いていたケニー・ジョーンズをドラムに迎え、活動を続けた。この選択は決して間違っていたとは思えないのだが、やはりムーンがいた頃とは違うのだという感触を多くのファンが持った。つい最近、ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツが癌で亡くなってしまったわけだが、バンドはスティーヴ・ジョーダンをサポートメンバーに迎えてツアーを行った。もはやオリジナルメンバーはボーカルとギタリストの二人しかいないわけだが、これはミックとキースさえいればローリング・ストーンズなのだ、というような話ではない、のである。ローリング・ストーンズのファンというのは若い人もいるだろうけれども、50年前からずっとファンだったような人が世界中にゴロゴロいるのである。彼らの多くは、ジョーダンが30年以上前からこのバンドに関わってきたことを知っているし、ジョーダンがワッツを尊敬していることも知っている。ベースのサポートメンバーであるダリル・ジョーンズにしても、オリジナルメンバーであるビル・ワイマンが脱退してから30年近くローリング・ストーンズと関わってきたわけで、今やビル・ワイマンがいるローリング・ストーンズを生で観たことのある人というのはおじさんおばさんしかいない。ロックバンドにおいて、とりあえず目立つのはボーカルとギターであるが、リズムセクションもフロントの二人以上に重要である、ということをロックが好きな人の多くは周知している。ロックを好む層の何割かは自分でバンドをやったことがあり、ドラムとベースがいかに重要なポジションであるかを経験的に知っているからである。初心者のアマチュアバンドであっても、ドラムが上手いとそれなりに演奏が整うし、演奏していて気持ち良さも感じる、というのをアマチュアバンドの経験者の多くが、個々の経験として知っているからこそロックは、それ以前のポピュラーミュージック以上に、裏方的なドラマーやベーシストをリスペクトするようになったわけだ。かてて加えて、ローリング・ストーン誌がロック評論という文脈を確立させたことにより、ロックを如何に語るかという文化が成熟した。変な言い方になりますが、ロック語りというのは生物学的な競争である。ロックを批評する文化が成立することによって、わたしは貴方よりも優れた論旨でこのバンドを語れるんですよ、というマウンティング文化が確立されたのである。それは、非常にいやらしいスノッブな作法にもなるのだが、ロックを語る行為が一種の競技になったことで、ポピュラーミュージックを語る際の視点が多様化されたのは重要である。カッコいい曲を聴いた時に、とりあえずボーカルがカッコいいとか、ギターリフがカッコいい、ギターソロがカッコいい、といった感情が先に出てくるのは当たり前である。演奏している人たちは、その楽曲を魅力的にするために己のスキルを駆使しているから、近代以降のポピュラーミュージックにおいては、全てのパートがボーカルの魅力をサポートするような構造になっている。歌手とバックバンドという構造は、バンドのメンバーが協力してお神輿を担ぎ、ボーカルを支えているわけだ。フランク・シナトラやエルヴィス・プレスリー、我が国の三波春夫といったアーティストは、この前近代的なシステムに則って大衆音楽としての支持を得た。彼らはソロシンガーとして、既成のビッグバンドの演奏で歌ったり、有能な演奏者を個人で抱え込んで雇ったりした。ロックが生まれる前の文化である。オジー・オズボーンやデイヴィッド・リー・ロスがソロ活動をした時、彼らは若手のギタリストを抜擢し、そちらにもスポットが当たるようにした。この二人に関して言えば、座長ボーカリストとバックバンドという昔風のスタイルで経営を行うことは可能であった、にも関わらず若手で有能なギタリストを抜擢し、そちらにもスポットライトが当たるようにしたわけだ。自分だけが注目されるより、若いメンバーにもスポットが当たった方が良いのだという判断があったわけだ。ロックバンドというのは、そもそものスタート地点では近所の友達が集まってやるものだから、縦割り社会的な関係性はない。デビューして印税が入るようになると作詞作曲をしているメンバーと、そうでないメンバーの間に収入面において格差が生じ、それが原因で解散することもあるのだが、基本的には民主的なのである。チャーリー・ワッツが亡くなった時にキース・リチャーズが、酔っ払ったミック・ジャガーが電話で失礼なことを言ったので怒ったワッツが髭を剃り正装をした上でミックをぶん殴ったというエピソードを披露した。これは80年代のことらしいので、殴った方と殴られた方は、この時点で20年以上共に仕事をしてきたわけである。普通の会社で部下が上司を殴ったらクビになる可能性が高いが、ご存知のようにチャーリー・ワッツは死ぬまでローリング・ストーンズのドラマーであった。その上で、趣味的にジャズのドラマーとしても活躍し、そちらでも良い仕事を残している。企業としてのローリング・ストーンズを考えた場合、社長というかCEOはやはりミック・ジャガーだと考えて良いだろう。ローリング・ストーンズは、創業時の代表であったブライアン・ジョーンズが会社の運営を滞らせるような存在になったので、仕方なく彼をクビにしたらその直後にブライアンが死体で発見されたという悲しい過去を持つ。オルタモントでフリーコンサートを行ったら、警備員のヘルズ・エンジェルズが観客の一人を刺し殺すという事件に発展した悲しい過去も持つ。社長としてのミック・ジャガーは色々と大変な経験をしてきたわけだが、騒乱の60年代、装飾過多の70年代を経た80年代においても、ミックがチャーリーに失礼なことを言ったら、正装したチャーリーがミックを殴り、それを後にキースが語るという文脈があったのである。ローリング・ストーンズの歴史において、一貫してワイルドなキャラを演じ70年代においてはホテルの窓からテレビを投げたりしていたキースが、この2020年代に1980年代を回想するエピソードにおいては、古い友人たちのトラブルに巻き込まれたお人好しのポジションになっているのは興味深い。ローリング・ストーンズの場合、ボーカルの社長が良くないことをすると、ドラムのチャーリーが正装して社長を殴りに行くのである。ロックバンドというのは資本主義的なシステムに依存しながら、ドラムよりボーカリストの方が偉いというような縦割りの価値観を拒否しているわけである。その根元にあるのはロックバンドが近所の友達や、その兄弟が集まってできた最小限の共同体だからだ。オジーはランディを雇用したが、それ以上に彼を引き立てた。営利的な経営をしながら、個人の個性が尊重されていたのだ。

70年代のロックは産業として成長したが、50年代に小型トランジスタラジオの製造でロックンロールの普及に貢献した日本という国が、またしてもロック普及のハブとして機能する。まず、経済成長を遂げたので多くのロックバンドが日本を無視できなくなった。日本のイベント会社も、60年代の後半から欧米のロックバンドを頻繁に招聘するようになる。ビートルズはキャリアの途中でライブを行わなくなったので、彼らが海外で公演したのはドイツを除くと日本とフィリピンしかないわけだが、フィリピンでは大統領夫人であったイメルダのパーティを欠席したことでトラブルになり、メンバーたちは逃げるようにフィリピンを離れた。70年代においては、欧米のロックバンドがツアーを行えるアジアで唯一の国が日本だったのである。71年にBS&T、シカゴの武道館公演が行われ、グランド・ファンク・レイルロードが後楽園球場(屋根ができる前の東京ドームである)で、ピンク・フロイドもレッド・ツェッペリンも来日、それぞれが伝説的な公演を行った。そして72年、ディープ・パープルが来日する。日本側からの申し出により、この公演はレコーディングされて当初は日本のみのオリジナルライブアルバムとして発売されたが、後に『Made in Japan』というタイトルで全世界で発売され、めちゃくちゃに売れて今でも売れているのである。ライブアルバムなので製作費は安い。ディープ・パープルはイギリスのバンドなので、これがイギリスでの公演の記録ならば、そこまでは売れていかなったろう。中身はもちろん良いのだが、世界的ヒットとなった鍵はおそらく「メイド・イン・ジャパン」という言葉にある。日本という、敗戦国でありながら、異様な経済成長を遂げつつあった国でのライブだったから、謎の付加価値が生まれたのだ。終戦から20年をこえて、60年代のうちにSONYやHONDAといった日本企業の名前は世界中に知られていた。この時代においてメイド・イン・ジャパンとは、優秀な製品であることを意味したのである。ともあれ、ディープ・パープルのおかげで武道館の名前が海外のアーティストたちに知られるようになった。ロックという音楽は黒人から白人へ、さらにアメリカからイギリスへ、といった貿易によって成長してきた文化である。ビートルズが勲章をもらったのは、もちろん外貨を獲得したからである。それ以来、イギリスのミュージシャンたちにとってアメリカで売れることは大きな意味を持つようになっていた。イギリスでトップになるのと、アメリカでトップになるのでは経済効果の桁が違うのである。だがしかし、ポピュラー音楽においてアメリカでNo.1になるというのは、ほぼほぼ世界一になるのと等しいわけであるが、アメリカでそこまでの成功をおさめられなかったとしても、戦後の経済成長で購買力が増した日本で売れるという道があったのである。たとえば1975年にクイーンが初来日した際には、もちろん武道館での公演が行われフレディは振袖を着て登場したわけだが、この時点で既に日本には熱狂的なクイーンファンが大勢いたのである。音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の東郷かおる子がグラビアでクイーンを何度も取り上げていたからだ。バンドの方も日本と東郷かおる子との繋がりは大事にしていた。初来日の時点で、決して売れていなかった訳ではないのだが生まれて初めてやってきた日本で空港に着くやいなや数千人のファンが押し寄せ、記者会見をすることになったのだ。クイーンと『ミュージック・ライフ』の接点は、別件の取材でニューヨークに来ていた東郷かおる子が、たまたま見かけたロジャー・テイラーに声をかけたことに始まるのだが、その際に自分たちのバンドがグラビアページを飾っている『ミュージック・ライフ』を見せられたテイラーは驚きかつ喜んだという。そりゃそうだろう。この時点でのクイーンは、まだこれからという時期である。その頃、大半の欧米人は日本語を読めなかったが、読めない言語で書かれた雑誌のグラビアに自分たちの写真が使われていたのである。70年代といえば、1ドルが300円の時代である。大半のイギリス人にとって、日本は遠い国だったし、日本から見たイギリスもまた遠かった。距離はロマンを生むのである。ブリティッシュ・インヴェイジョンの波が起きたのは、イギリスの若者たちが海の向こうの黒人ブルースやロックンロールに遥かな憧憬を抱いたからだ。遠距離恋愛の恋人たちではないけれども、距離があると想像が膨らみロマンが増す、のである。イギリスのバンドにとって、アメリカでライブを行うことは物理的に遠くまで行くことだったわけだが、日本はさらに遠い。その日本で信じられないような歓迎を、クイーンのメンバーたちは受けたわけだ。日本のクイーンファンから見ると、遥か遠くのイギリスから、遂にクイーンがやってきたのである。ご存知のようにフレディ・マーキュリーはある時期から髪を短く整え、髭をたくわえたキャラに変貌するが、この頃はまだ長髪でメンバー全員が美形キャラであった。ここで日本独自のブリティッシュロック需要が派生する。戦後の日本において急速に発達した文化の筆頭は漫画だろう。少女漫画家たちは、自作の中にデヴィッド・ボウイやロバート・プラントをモデルにしたキャラクターを登場させ、これが読者に対する啓蒙として機能した。また徹夜の多い漫画家たちは眠気覚ましにハードロックを聴きながら仕事をした。クイーンは後にライブ・エイドの辺りで文字通りの世界的な成功をおさめたが、メンバーたちは一貫して親日的で、特に『ミュージック・ライフ』との繋がりは大切にしていた。世界的な成功をおさめた後でも売れる前からの人間関係をないがしろにしないという点で、ロックは少年期から青年期で獲得した繋がりを大切にする文化なのである。そして77年にデビューしたチープ・トリックは正真正銘、日本から売れたバンドだった。ボーカルとベースがイケメンで、ギターとドラムが変なおじさんという編成のチープ・トリックは、アメリカには珍しいタイプの英国的な諧謔と洒落っけのあるバンドで、『ミュージック・ライフ』も『ロッキング・オン』も推していたから日本ではすぐに売れたものの、アメリカ本国では今ひとつ。それが78年に出した『チープ・トリックat武道館』が大ヒット。遂に世界中で知られるバンドになった。この辺りから、おそらくBudokanという固有名詞にはSONYやHONDAに似た魔法のようなオーラが漂いはじめていたのである。70年代から80年代にかけて、日本での公演をライブアルバムとして出したアーティストは他にも大勢いる。ロックだけではなくてジャクソン5にテンプターズ、マイルス・デイヴィス、ハービー・ハンコック。ノーベル文学賞のボブ・ディランにも『At Budokan』がある。戦後の日本が経済大国たりえたからこそ、日本でのライブアルバムを出せば、まず日本で売れるし、日本で売れている証拠にもなるから他の国でも売れるだろう、という魔法のようなインセンティブが成立したのだが、それはディープ・パープルの『Made in Japan』がアメリカでプラチナディスクを獲得したことに始まるのである。イギリスのロックバンドが、日本で録音したレコードがアメリカでドカンと売れたのである。国から国への貿易が付加価値を生んだ、のである。近年では、BABYMETALのメンバーが海外のフェスに出演した際に、大物アーティストとの写真をよくネットにあげていた。あれはもちろん、大物アーティストたちがBABYMETALに敬意を表しているからであるからなのだが、それと同時にジューダス・プリーストのロブ・ハルフォードなんかは何度も来日公演を行い、『イン・ジ・イースト』という日本でのライブアルバムもある。ロブから見たらBABYMETALのメンバーは、良い思い出がたくさんある日本からやってきて立派なパフォーマンスを行う、孫くらいの年頃の女の子たちなのだ。音楽的にも、自分たちがやってきたヘヴィメタルの、現代的かつ日本的なアプローチであることは聴けばわかるわけで、ベテランのミュージシャンが孫と写真を撮るような笑顔になってしまうのも当然ではないか。戦後の日本はアメリカナイズされながらも、英語教育が今ひとつ成功しておらず(多くの日本人は義務教育で英語を学ぶので英語が全くわからない人はまずいない反面、英文は読めるのに英語での会話は苦手な日本人とか、その逆の日本人が大勢いる)日本のロックバンドが英語圏に進出するまでに時間がかかったが、日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国である西ドイツのスコーピオンズは、初期から英語で歌っており英語圏でも成功をおさめつつ日本にも来てライブアルバムを出しており、日本のファンもかなり多く、特にプロのギタリストにシェンカーやウルリッヒ・ロートのフォロワーがいる。もちろん彼らの演奏が魅力的だからなのだが、それだけの話ではない。スコーピオンズは、彼らにとっての外国語で歌っているので、ネイティブのイギリスやアメリカのロックよりも日本人にとってはヒアリングしやすいのである。アメリカの英語とイギリスの英語がけっこう違うことは良く知られているが、英語を母国語としない日本人にとっては、アメリカ、イギリスの英語よりもシンガポールやフィリピンの人たちが話す英語の方が聞き取りやすい、といった現象がしばしば起きる。初期のスコーピオンズに在籍したギタリスト、マイケル・シェンカーも活動範囲としては英語圏のミュージシャンである。もちろん、ドイツには英語を使わず母国語で歌うロックバンドもたくさんいて、独自の文化を築いている。ジャーマンロックという言葉を聞いた際にスコーピオンズやシェンカーの名を思い浮かべると同時に、CANやファウストといったドイツのプログレバンドを思い浮かべる日本人は多いのではないだろうか。日本とドイツは自国のロックが盛んな国である。英語圏の人たちには理解し難いかもしれないが、日本のロックの多様性は日本の戦後を、西ドイツのロックは西ドイツの戦後文化を反映している。ロックはまさに戦後のポピュラーミュージックであり、敗戦国が戦勝国との関係を修復し貿易を行うための経済活動の一貫だったわけだ。

ここで面白いことが起きる。ロックが極めて経済性の強い音楽であり、商業主義によって成長する音楽であることが明らかでありながら、ロックを巡る言説の多くが一貫して商業主義に批判的なのである。日本だと産業ロックという言葉があり、欧米ではスタジアムロック、アリーナロックといった言い方がある。もちろん、ただ単にビッグビジネスになったバンドをスタジアムロックと呼ぶ場合もあるのだが、ロックでお金儲けをすることを揶揄するような使い方もされる。たとえばバンドの経営者的な立場であるミック・ジャガーなりジーン・シモンズなりが自分だけ沢山のギャラを手に入れ、他のメンバーから搾取していたとすれば、それは批判の対象になるし、実際にそういう話もたまに報じられるのだが、バンドがお金を儲けること自体が悪いわけがない。そもそもロックバンドというのはアコースティックな音楽よりも維持費がかかるのである。バンドがツアーを行うにあたっては、ドラムセットやギターアンプなどの機材を運ぶ必要がある。売れる前のバンドならば、自分たちで機材を運ぶかもしれないがガソリン代は必要になる。ロックの誕生以来、星の数ほどのバンドが結成されては消えていったわけだが、その大半は売れなくてバンドの維持費が無くなったからである。そこまで有名ではないけれども、それなりに長く続いているバンドには、それなりの数の根強いファンがいる。固定ファンの存在が、バンドの維持費を担保しているわけだ。今でこそ、買い支えるという考えが普通になったけれども、昔は経済学的な視点でロックを見る人が少なかった。世界で最初にスタジアムで演奏したロックバンドはビートルズなわけであるが、これは収容者数が桁外れに大きいスタジアムで興行を行うことによって、1枚1枚のチケット代金を安くおさえられるからだ。当時のビートルズのファンは、限られたお小遣いしか持っていない十代の若者たちだったので、安価なチケット代で大勢の観客を収容できるスタジアムでの興行は最適な選択肢だったのである。それなのに、ロック的な言説においてはお金儲けは良くないことだという考え方が支配的であった。この考え方は、後に登場するパンク世代のバンドマンや、カート・コベインのような人たちを長く苦しめることになった。それもこれも、上の世代のロック評論家が商業主義を批判しながらお金儲けを続けたからである。70年代に入って産業化したロックからカウンターカルチャー色が薄れたのは、おそらくアーティストたちが自分たちのやっていることが資本主義そのものであることに気がついたからだ。自分たちのバンドが売れれば、家族親戚だけではなく、仕事で関わる多くの人たち、それこそコンサートの警備員に至るまでの雇用が生まれ、より多くの人たちが幸せになるわけである。ここでヒースとポターの『反逆の神話』を見返すと、この二人が自分たちが思っていたほどには革新的なことをやれていないことがわかる。彼らはカウンターカルチャーがコマーシャリズム・商業主義とコンシューマリズム・消費者主義というお釈迦様の掌の上にあることを指摘したのだが、それを何となく悪いことのように語ってしまっている。ちょっとわかりやすく言いますと、60年代のカウンターカルチャーにおいては、商業主義そのものが良くないという言説があったわけだが、これはもちろん現代の視点からすると空虚な迷妄である。良くない商業主義があるのは事実である。それは、ブラックで良くない経営者がいるというのと同じ話なのだ。良くない商業主義があるのであれば、良い商業主義に方向転換しろというのが21世紀においては正しい。ヒースとポターは、この点においてカウンターカルチャーを批判しながら、カウンターカルチャーと同じ穴にハマっている。フィーリングで何となく、資本主義、商業主義は良くないよね? みたいな考え方から離脱できていないのだ。この辺の弱点は『反逆の神話』日本語文庫版の解説で、稲葉振一郎が指摘している。ヒースとポターは、欧米の知識人によくあるように、資本主義か社会主義か? という二択問題に対して及び腰で、的確な答を出せていないのだ。ヒースは頭の良い人だから己の弱点を自覚していたようで『反逆の神話』を書いた後に『資本主義が嫌いな人のための経済学』を書く。これはヒース自身の葛藤を描いたような本なので読む価値は大きいのだが、決定的な答に直面するのを回避した本でもある。フランスの知識人たちが、毛沢東を高く評価しながら(その実態は騙されていただけだったが)、自分たちの国家がソ連や中国のような体制になることを望まなかった。もしくは、そうなるような行動を取らなかったのは象徴的である。共産主義の方が良いのなら、英米仏も共産主義になれば良いではないか。少なくとも、その国の知識人はそう主張するのではないか。資本主義は格差を生む、だからこそ知識人の多くは資本主義を絶賛できない。さりとて、スターリンや毛沢東のような独裁者を生んでしまう共産主義にも同意できない。てな感じで20世紀の知識人の多くは二択問題に対してずっと優柔不断であった。頼りないな知識人。ヒースはモロに、この20世紀の欧米知識人の弱点を継承している。ヒースに代表される、資本主義か共産主義という二択問題の前で躊躇してしまうのが近代以降の欧米知識人だったわけだ。ヒースは資本主義について、かなり考えたわけだが資本主義とは何なのか? 資本主義の正体を突き詰めることはできなかった。とはいえ我々は21世紀を生きる現代人なので、この問題を解決する必要がある。幸いなことに、ヒースの苦悶以降に色んな研究者が興味深い論文を発表している。今こそ、資本主義とはどういうものなのかを語れる時が来たわけであるのですが、聞きたいよね? それならば説明しましょうか。資本主義の正体について。

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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第11回 暗い時代の小春日和

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

60年代とは、どのような時代だったのだろうか。まずは1963年、ジョン・F・ケネディが暗殺された。リンカーンの死で知られるようにアメリカといえば時として要人の暗殺が起きる印象があるが、20世紀の前半において起きた暗殺事件といえば1901年のウィリアム・マッキンリー大統領暗殺と、ルイジアナ知事を務めたヒューイ・ロングが1935年に暗殺された事件、この2件くらいである。それがケネディ暗殺以降、アメリカはまるで幕末の日本かと思えてしまうほどに暗殺事件が増えるのである。彼の弟ロバート・ケネディがこれまた大統領候補指名選のキャンペーン中に暗殺されるのが68年であるが、65年には急進的な黒人解放運動の活動家であったマルコムXが暗殺される。同じく黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師が68年に暗殺された。69年の12月4日には、ブラックパンサー党の指導者であるフレッド・ハンプトンと党員のマーク・クラークが14人の警官隊に射殺された。この時、ハンプトンは21歳でクラークは22歳だった。ハンプトンは滅茶苦茶に優秀な若者で、ブラックパンサー党に入党するとめきめきと頭角を表し、カリスマ性で支持者を得た。ハンプトンの影響力を危険視したFBIと地元のシカゴ警察が共謀して、自室で眠っているハンプトンとクラークを謀殺したのである。酷いな警察。前にも書いたように、アメリカで歴代大統領の人気投票をすると、リンカーンがオールタイムで1位に選ばれるのである。黒人奴隷を労働力として使役してきた国家であるがゆえに、黒人解放運動が国民のアイデンティティと結びついているのがアメリカという国だ。であるにも関わらず、60年代の後半には黒人解放運動でリーダー的なポジションにあった黒人活動家が続けて暗殺されたわけだ。厄介である。コロナ禍においてBLM運動が起きたのは御存知の通り、リンカーンの時代から黒人解放運動を進めてきたのに、21世紀になってもアメリカの人種問題は根本的なレベルでは解決していないのだ。面倒な話である。そしてベトナム戦争はずっと続いていた。つまり、60年代というのは今よりもずっと暗い時代だったのである。と、書いたところでロシアがウクライナに侵攻を始めてしまったので、どうしようかと思ったわけだがそれでもやはり今よりも当時の方が暗い時代であったと言える。アメリカの大統領はオバマからトランプへ、そしてバイデンへと大きな揺れを見せはしたが3人とも暗殺されてはいない。先に処刑仮説を紹介したが、暗殺というのもヒトならではの行いである。ヒトに最も近いチンパンジーは我々と同じく集団を作って生活する社会的な動物だが、彼らの集団は基本的にアルファオスと呼ばれる、いわゆるボス猿が統治する独裁的な社会である。それに対して、ホモ・サピエンスは20万年くらい前からデフォルトの状態でかなり平等な社会を作って生活していたらしい。WOW。我々はナチュラルに公平でリベラルな動物なのだ。ただし、何故そうなったのかというと、おそらく我々が武器という道具を使うからなのだ。何しろヒトは集団になって道具を使えば巨大な象すら倒す動物である。ヒトの暴力性は素手のチンパンジーとは桁が違うのである。チンパンジーの社会においては、強いボスとタイマン勝負して勝ったオスが新たなボスになる。だから、アルファオスが交代しても社会の形態は変化しない。これからも、この先もずっと小さな独裁社会だ。それに対してヒトは集団で武器を使用することで、どんなに強いオスであっても倒せるのである。眠っている間に石斧で頭を殴れば、はたまた集団で取り囲んで石を投げつければ、どんなに強い個体でも殺せるのである。そして強いオスもそれを知っているから、弱い個体に対して気配りをする。だからヒトの集団においては独裁者による暴力的な統治が起きなかった。これが我々とチンパンジーとの違いである。つまり、兵器による抑止力や集団的自衛権といった、一見は現代的に思える事柄の多くは実は20万年前から存在した、ヒトにとっては普遍的な話なのである。ヒトはチンパンジーと違って際限なく人数の多い集団を作ることでも知られている。これはもちろん、ヒトが住む環境によって大きく左右されるのだが、農耕が始まり定住生活をするようになってくると、集団の数が増えて都市と文明が生まれる。そして、集団の人数があまりにも多くなると、それは原始的な国家となるわけですね。ところで、ヒトの集団はなぜ、どこまでも巨大な規模に膨れ上がるのだろうか? それはおそらく、他の集団と揉め事が起きた際に、大きな集団の方が有利だからである。個人の間で闘争、つまりケンカが行われる場合に、体が大きいほうが有利なのと同様、国家と国家が闘争する際には国家の規模が大きい方が有利なのは明白で、なんだか非常にタイムリーな話をしているような気もするのだけれども、これは農耕と定住が始まった1万年くらい前の時代の話をしているのです。

ヒトはまた分業制を発達させた。巨大な国家は帝国と呼ぶに相応しい存在となり、再びボス猿的なアルファオスが統治する社会を生み出してしまう。そこに、分業制も加わって階層社会が生まれるわけだ。西欧のいわゆる先進国は近代になるまで帝国主義でやってきたわけだが、我々はモラルを発達させる動物なので、近代以降は帝国はあまりよろしくないのではないか? という方針にシフトチェンジしたわけである。なんといっても帝国は格差社会を生み出すし、帝国と帝国が戦争をすると大勢人が死ぬのでよろしくない。大日本帝国が不幸だったのは、それまでずっと鎖国していたのが開国して先進国である西欧を目指し、西欧社会を真似する形で帝国主義をやらかしてしまった点にある。日本が帝国になった時点で、西欧のトレンドは脱帝国主義になりつつあったのである。ロシアの場合、ロシア革命で帝国を倒したのは良かったのだが、その後のスターリンによるソヴィエト連邦は構造的に帝国と全く同じものになってしまった。ロシア革命によって倒された帝国は、農奴たちから搾取していた階級社会である。ソヴィエトは連邦の諸国から搾取した。ヨーロッパの帝国主義は植民地から搾取したわけだが、ソヴィエト連邦は帝国とおおむね同じ構造になってしまった。だから、ソ連が崩壊した後もロシアはアルファオスによる独裁が続いているのである。中国もまた、共産主義になって良かったはずなのに、毛沢東というアルファオスが君臨する帝国になってしまったのは御存知の通り。スターリンも毛沢東も、最初は理想的な社会を作るつもりであったのに、独裁者になってしまったのは何故だろうか? 昔なら、ここで権力は必ず腐敗する、という話になるのだが21世紀においてはもう少し深い説明が必要である。マルク・ファン・フフトとアンジャナ・アフジャの『なぜ、あの人がリーダーなのか?』によると、新たにアルファオスになった猿は、もちろん強いから勝ち抜いてアルファオスになったわけだが、アルファになることで自信を強め、更に強くなって体も大きくなるのだという。そして、悲しいことに下の者たちに対して無理解で高圧的になってしまう。チンパンジーにしろ、ヒトにしろ、集団生活を行う動物においては、自然発生的にリーダー的な存在が生まれるし、リーダーに従う習性も生まれる、わけですよ。なぜかというと、その方が社会のあれこれが滞りなく進むからだ。たとえば、初対面の人間が集まって何かを行う際に、その顔ぶれの中から自然とリーダー的な存在が現れることを我々は子供の頃からよく知っているのではないだろうか。そして、その場で自然とリーダーになるようなヒトはたいてい他のメンバーから好かれやすいことも……。小学校で学級委員に選ばれるような子供は、そういう子供だったのではないだろうか。毛沢東も他人から好かれやすい人だったという。それでも、集団の規模が大きくなると、良からぬ独裁者になってしまうようなのだ。スターリンも毛沢東も、激しい政争を勝ち抜いてトップに立ったヒトなので、それ以前よりも闘争性は大幅にアップしたろう。いわゆる生存者バイアスの、更に激しいやつである。彼らはもう、それ以前の彼らには戻れないのだ。ここで思い出してほしいのは、ヒトという動物は時として暗殺を行うことである。ヒトの集団のリーダーであることは、チンパンジーの集団のリーダーであることよりもリスクが大きいのだ。そのリスクを誰よりも自覚しているのはもちろん独裁者本人である。いつ暗殺されるかもしれない恐怖は、周囲の人たちに対する猜疑心を高めるだろう。そして、そんな猜疑心の塊のような独裁者に対して、周りの人はどのように振る舞うだろうか? 何しろ独裁者に逆らったら粛清されてしまう可能性がある。当然のことながら、クラスメイトと付き合うような態度は取れなくなってしまうわけで、腫れ物を扱うような態度になるのは当然である。独裁者からすると、誰も自分には逆らわないけれども、誰一人信じられる友達はいない、てな状態になってしまう。独裁者は孤独なのだ。大事なことなので繰り返すけれども、ヒトは長い時間をかけて道徳を進化させてきたので、どうやら独裁が良くないことには気がついた。だから、百年、二百年といった単位で帝国主義というのがじわじわと衰退していったわけだが、皮肉なことに理想的な社会を築くために行われたはずのロシア革命、共産主義革命といったものが、帝国そっくりの独裁体制を生んでしまったのである。まるでループもののフィクションのように、何回やり直しても独裁になってしまう、わけである。

その点、元々は植民地であったアメリカは、大統領が暗殺されるような物騒な国家ではあったが、少なくとも独裁者が統治するような仕組みを作らずに済んだようである。ポイントは制度である。制度設計が成功しているか否かである。ロシア革命も壮大な社会実験だったし、アメリカの独立も壮大な社会実験だったのである。そして、ソヴィエト連邦や中国のような国においては、結局は独裁主義になってしまった。これは制度設計が失敗しているのだ。たとえばオバマとトランプでは、かなり違うわけではあるが、どちらも爆撃は行ったわけである。そして、あんなに好戦的に見えるトランプであるが戦争は起こさなかった。そういう意味でアメリカは、今のところは独裁者が現れて暴政を振るうような社会にならないための制度設計が上手く行われていると言えるし、また、平和のための自己家畜化が進んでいるとも言える。しかしながら、ベトナム戦争の時代においては、アメリカが帝国主義を復活させるのではないか? という心配が持たれたのである。その時代の日本の新左翼は、米帝という表現を好んで使ったが、これはアメリカが帝国主義で世界に戦争を起こそうとしているから、それを止めようという趣旨だった。

20世紀の前半において、最も成功した産業の一つに映画があった。19世紀の終わり頃に発明された映画は、短期間で成長しメディア産業の覇者となったのである。だからこそヒトラーたちも映画をプロパガンダに使おうとしたわけだ。サイレント映画時代の大スター、メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスはソ連でも大人気で、この2人が新婚旅行でモスクワを訪れた際には大変な歓迎を受け、ソヴィエトの俳優であり監督でもあったセルゲイ・コマロフによって即興的に『メアリー・ピックフォードの接吻』というコメディが撮影されている。ネットやテレビがまだなかった時代において、映画は最も簡単に国境を超える、最強のメディアであった。しかし、戦前から映画大国であった国のうち、ドイツ、イタリア、そして日本の映画産業は敗戦によるダメージを負う。更に、ドイツを筆頭にヨーロッパの優秀な映画人たちが大量にアメリカに亡命していたので、人材が豊富になったアメリカ映画は戦時中から世界最高のレベルになった。映画の全盛期は1940年代から50年代である。しかしながら、そのハリウッド映画が60年代の後半に大きく変化する。往年の大スターではなく、若手の俳優を起用したアメリカンニューシネマと呼ばれる作品が何本も作られた。これはどういうことかというと、当時のロックを好んで聴くような世代が、成長して映画の造り手になったからだ。『俺たちに明日はない』や『イージー・ライダー』など、ニューシネマの代表とされる作品の多くでは主人公たちが、かなり無惨に死んでゆく。平和を愛するヒッピーたちが幸せに暮らしました、みたいな映画がもう少し残っていても良いと思うのだが、そういう映画はあまりないのだ。紆余曲折のあった恋人たちが、2人で手を取り合って逃げていく『卒業』ですら、最後の場面で主人公は不安そうな顔になる。ベトナム戦争下におけるヒッピーたちの生活を描いたミュージカル『ヘアー』は、1967年にブロードウェイミュージカルで初めてロックを使った作品として人気を得たが、これが映画化されたのは79年で、もうヒッピーの時代ではなかった。やはり、60年代というのは端的に言って暗く夢のない時代であったのだ。だとすれば、ヒッピーたちが起こしたフラワームーブメントと呼ばれる運動は、暗い時代において明るい夢が見たいという当時の若者たちの祈りのようなものだったのだろう。西欧には昔からユートピアの実現を夢見る思想の流れがあったが(その中興の祖はおそらくイエス・キリストである)、ユートピアを実現しようという運動の多くが、時として剣呑で血生臭い結果を呼ぶのに対してフラワームーブメントはあくまで自主参加的であり、ヒッピーたちの多くは本当に平和を愛していた。とはいえ、その牧歌的な夢は長くは続かない、のである。

愛と平和の祭典と呼ばれたウッドストックは69年の8月15日から18日の午前まで行われた。これはヒッピー、フラワームーブメントの貴重な成功体験として記憶されているわけだが、残されたドキュメンタリーフィルムは映画として公開されたから我々も観ることができる。そこに映っている人たちは、季節柄裸になっている人も多く牧歌的に見える。これぞ、良きヒッピーたちの姿である。映画としての『ウッドストック』は平和な野生動物のようなヒッピーを記録しているが故に素晴らしいのである。同じ時代のドキュメンタリーとして『ウッドストック』の前年68年にジャン・リュック・ゴダールがローリング・ストーンズを撮影したドキュメンタリー『ワン・プラス・ワン』があって、こちらも素晴らしく、かつ痛ましい作品になっている。結果的にゴダールは名曲「悪魔を憐れむ歌」が出来上がるプロセスに立ち会ってそれを記録したわけだが、当初はバンドのリーダーでもあったブライアン・ジョーンズがバンドのメンバーから浮いてしまい、脱退に至るプロセスまでも撮影してしまった。この映画の中のジョーンズは、他のメンバーたちからかなり浮いている。それはまるで、猿の集団の中で仲間の猿たちと打ち解けることができなくなった孤独な個体が、その集団から逸れてゆく様子を記録したようにも見える。ドキュメンタリーというのはおそらく、動物としてのヒトを描くところに価値があるのだ。この映画にはゴダールがオリジナルに撮った政治的なコントなどが挿入され、今観るとその部分も時代を反映したドキュメンタリーになっているのが興味深い。ゴダール自身、1967年には商業映画との決別を宣言し、68年のカンヌ映画祭には仲間たちと共に乗り込んで映画祭のボイコットを主張、これがフランスの五月革命につながる。

ブライアン・ジョーンズは翌69年の6月にローリング・ストーンズを脱退。残ったバンドのメンバーたちはミック・テイラーを新たなギタリストとして迎え、ロンドンのハイドパークで彼のお披露目コンサートを計画するが、7月3日にジョーンズが死体で発見され、ハイドパークでの講演は急遽彼の追悼講演となった。この時、警備員をしていたのがヘルズ・エンジェルズである。ところが、同じ69年の12月6日に行われたオルタモントのフリーコンサートでは同じく警備員をしていたヘルズ・エンジェルズによって観客の一人が殺されるという悲劇が起こったのである。初期のローリング・ストーン誌について書かれた『ローリング・ストーン風雲録』によると、この件はミック・ジャガーにかなりの責任がある。ハイドパークが成功裡に終わり、アメリカのウッドストックも素晴らしいイベントだと評価されたので、その流れに乗ってオルタモントが企画されたわけである。ハイドパークでも警備員として雇われていたヘルズ・エンジェルズのギャラは、タンクローリー1台分のビールであったという。いかにも、この時代らしいノリであったが、企画の発端から当日までの日にちが短く会場の変更などもあってトラブルが続出した。会場には当然のごとくドラッグでラリった人たちが詰めかけ、薬物の売買も行われたという。ストーンズのメンバーはヘリコプターで現場に到着したが、ミック・ジャガーは移動中に興奮した観客から殴られた。もう最初からラブ&ピースではなかったのである。興奮する観客と警備のエンジェルズが衝突し、演奏は一旦中断された。エンジェルズの一人にナイフで刺殺されたのは18歳の黒人青年メレディス・ハンターである。エンジェルズの方は彼がピストルを持っていたので正当防衛を主張した。しかし、現場から拳銃は見つかっておらず真相は闇の中だ。この日は暗がりに寝転がっていたところを車に轢かれて死亡した者、警官に追われて用水路に落ち水死した者など合計4人の死者が出た。ウッドストックから、ほんの数ヶ月でヒッピーたちの楽園は終了してしまったのである。この日のセットリストでローリング・ストーンズが最後に演奏したのが「ストリート・ファイティング・マン」というのがまた象徴的ではないか。この曲の背景にあるのは、この時代にあちこちで暴動が起きていたという事実である。60年代に公民権運動、女性解放運動などが盛んになったのは、人類にとっては良き事柄であったが、路上での社会運動は時として暴力に転ずる。やたらと暴動が起きる世情を反映したからこそ「ストリート・ファイティング・マン」という名曲が生まれたわけだが、この曲を聴いて戦意を高揚させてしまった人もいたのではないか。因果な話である。ミック・ジャガー自身も68年のロンドンはアメリカ大使館前で行われた反戦デモに参加していたから、サルトル的なアンガージュマンの気持ちもあって、こういう歌が書かれたわけだが、社会変革への期待と不安、ある種の諦念を描いたような名曲が結果的にストリートで暴力を振るう人たちにまで影響を与えてしまったのだとしたら皮肉である。ミック・ジャガー自身は、ずっと後の90年代のインタビューにおいて「今の時代の世相に合う歌ではない」と述べているが、人気のある曲でもあり現在に至るまで(2021年の公演でも)演奏し続けている。これはどういうことかというと、単にヒット曲だから演奏するというだけではなく、暴力的であった負の歴史を含めた20世紀の記録の一部として、繰り返し演奏されているのだと解釈すべきだろう。オルタモントの悲劇の一因は、ジャガーにもあり、本人がそれを自覚していないわけがないのだ。彼は聡明な人なので80年代に差しかかる頃からドラッグをやめて健康をアピールし、ジョギングしている姿を雑誌に載せるようになる。60年代のロックが反逆であったとすれば、70年代のロックは過剰な放埒である。それが80年代になると、ドラッグやアルコールとは距離をおいて健康的な生活を送るロックスターが現れる。今現在のミック・ジャガーは、コロナ禍においてもワクチン摂取に対するポジティブなメッセージを発している。まるで聖人である。つまり、80年頃からロックスターの道德化という現象が起きるわけだが、これについては後ほど詳しく説明する。実際、ジェームズ・ディーンがいた50年代の半ばから暴力を美的に描いた映画は増えていたわけで、ロックとカウンターカルチャーばかりが社会における暴力の増加を促したわけではないのだが、ロックに暴力的な側面があったことは事実であり消費者の方もそれを好み称賛したのだ。

ウッドストックの1週間ほど前には、女優のシャロン・テートが、チャールズ・マンソンが指導していたヒッピーコミューンのメンバーたちによって惨殺されている。マンソンは、成功しなかったとはいえミュージシャンで、ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンとも交友があった。ビートルズの狂信的なファンだったマンソンはビートルズの『ホワイト・アルバム』に収められた数曲の歌詞を勝手に解釈して、自分の信者たちにその狂った妄想を吹き込んだ。マンソンは滑り台のことを歌った「ヘルタースケルター」から世界の混沌を読み取り「レヴォリューション」や「レヴォリューションNo.9」からは文字通り暴力革命を起こせというメッセージを読み取った……らしい。ポール・マッカートニーやジョン・レノンにしたら良い迷惑である。マンソン一味の犯行とオルタモントの悲劇はラブ&ピースのフラワームーブメントに文字通りの冷や水をかけたわけだが、カウンターカルチャーはマンソンとは対象的に孤独で、マンソンよりもラディカルな、まるで時限爆弾のような存在を生み出していた。1969年の6月、カリフォルニア大学バークレー校で数学の助教授を勤めていたセオドア・カジンスキーという若者が突然辞職する。バークレーといえばヤン・ウェナーがいたリベラルな空気の学校である。ウェナーがバークレーを中退したのは66年、カジンスキーが25歳で当時最年少だった助教授になったのが翌67年。すれ違いではあるが、同じ空気を吸っていたのは確かだろう。バークレーを去ったカジンスキーは2年ほど両親の元にいたが、71年からモンタナの人里離れた小屋で孤独な生活を送るようになった。おそらく、カジンスキーの時間は69年で止まってしまったのだ。彼は1978年から手製の爆弾を作っては郵送したり、時には自分で目的地まで爆弾を運んだ。ユナボマーである。カジンスキーによる小規模ではあるが凶悪な爆弾テロは彼が逮捕される96年まで続いた。

1970年の9月にはジミ・ヘンドリックスが、10月にはジャニス・ジョプリンが、翌71年の7月にはドアーズのジム・モリスンが、それぞれに先に亡くなったブライアン・ジョーンズと似たような死を遂げる。ロックスターの夭折に関しては、これも後ほど詳しく説明するが、政治的な暗殺に、マンソン・ファミリーの事件、そしてオルタモントの悲劇の後で、1年も経たないうちに歴史の残るレベルの、今でも大きな影響力のあるミュージシャンが次々と死んでいったのである。これだけ暗い時代であったからこそ、まるで小春日和のように明るい出来事であったウッドストックが平和の象徴として語り継がれたのだ。

ヒースとポターの『反逆の神話』でも触れられているが、連続爆発テロの犯人ユナボマーが逮捕されたのは、彼が匿名で当局に連絡を取り、『ニューヨーク・タイムズ』か『ワシントン・ポスト』に自分が書いた文章を掲載すれば、爆破事件を止めると言ったからだ。これに応じて両紙に掲載されたのが通称「ユナボマー・マニフェスト」で、正確なタイトルは「産業社会とその未来」である(ネットにあるので、今ならDeepL翻訳で読めます)。この論文を読んだカジンスキーの弟が、これを書いたのは兄に違いないと思って通報し、ユナボマー事件はようやく終結した。その内容であるが、冒頭から「産業革命とその結果は、人類にとって災害であった」とあるように、現代のテクノロジー社会への批判、そしてコマーシャリズムへの批判である。カジンスキーは、これらに対して革命を起こすと書いている。爆破テロは、彼なりの革命だったのだ。カウンターカルチャーの時代には、シオドア・ローザックの『対抗文化の思想』やチャールズ・A・ライクの『緑色革命』など色んなマニュフェスト的な著作が書かれたが、ユナボマー・カジンスキーのこの論文はそれらのエッセンスを抽出したようなものになっている。ヒースとポターも書いているように、多くの人は爆破テロには賛同できないけれども、カジンスキーが考えていたこと自体はあの時代を生きていた人たちにとっては、ごく自然に共感できる内容だった。何しろ四半世紀も隠遁生活を続けていたので、カジンスキーの頭の中ではカウンターカルチャーの思想が蒸留液のようにクリアに保存されていたのだろう。マニュフェストであるから、当然のごとく熱い文章である。カジンスキーのマニュフェストにおかしいところがあるとすれば、それは即ち当時のカウンターカルチャーが何を間違えていたのかということの手がかりになるのではないか。たとえばカール・マルクスは労働者が資本家に搾取されているのを見たからこそ、経済と搾取の問題を喫緊の課題としてとらえ、ああいう仕事を残したわけだが、カジンスキーの目には工業化された現代社会が喫緊の課題に見えたわけだ。このタイプの人は、よく工業化社会を批判する際に農業を称賛し、自然に還れ的なことを言うわけであるが、そもそも農業と工業は対立する概念ではない。ヒトは、農耕生活を始めたこの1万年ほどの間、ずっと環境に手を加え動植物を品種改良してきたわけである。農業というのは自然を加工する作業であり、その延長線上に工業化社会がある。だから、現在でもモヤシやキノコなどのように工場で生産される野菜はたくさんあるし、これからも増えていくだろう。こういうことは現代を生きる我々にとっては別段難しい話ではないが、60年代後半には公害問題が喫緊の課題であった。ヒトは目の前にある問題に対しては、冷静に考えることができなくなり、適切な判断をし損ねることがしばしばある。「ユナボマー・マニュフェスト」が発表された96年には、公害問題は60年代よりもかなりマシになっていたわけだが、隠遁生活を行っていたカジンスキーにはそれがわからなかった。工業化社会のテクノロジーは確かに様々な問題を生み出したが、テクノロジーによって出現した問題点は、さらなるテクノロジーの発達によって問題解決とまではいかなくても、かなりの問題削減ができる。ここが肝要なのだが、そもそも環境問題というのは有史以前からある。津波であるとかナイル川の氾濫とかですね、こういうものに対してヒトは色んな技術を発達させてきた。灌漑や干拓もテクノロジーによる環境の加工である。そして環境問題にゴールはない。それこそ人類の歴史が終わるまで継続的に続くのである。農業と工業を対立事項だと思ってしまったのは大きな誤謬であり、環境問題にゴール、正しい解決方法がありえるように思ってしまうのも、この時代ならではの誤謬だろう。そして、もう一つ大きな誤謬があったとすれば、それは経済に纏わるものではないだろうか。あの時代の、コマーシャリズム批判、商業主義批判は正しかったのだろうか?

 


 

〈参考文献〉
マルク・ファン・フフト、アンジャナ・アフジャ『なぜ、あの人がリーダーなのか?――科学的リーダーシップ論』小坂恵理訳、早川書房、2012
ロバート・ドレイパー『ローリング・ストーン風雲録――アメリカ最高のロック・マガジンと若者文化の軌跡』林田ひめじ訳、早川書房、1994
ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター『反逆の神話〔新版〕――「反体制」はカネになる』栗原百代訳、ハヤカワ文庫NF、2021

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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