第8回 メインストリートの文学者

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

ボブ・ディランやビートルズ、ローリング・ストーンズらが文学的な表現を行うようになったのは、人類の歴史の上でかなり重要なことだった。ジョン・レノンやミック・ジャガーは言ってみればアイドルとして世に出たわけだが、彼らはあっという間に文学者に変貌した。ディランだって、デビューアルバムにはオリジナルの歌は2曲しかなく他はトラディショナルのカバーだ。しかしディランはセカンドアルバム以降、オリジナル曲を大量に作り始めた。彼がノーベル文学賞を受賞した今の視点で見ると、ディランがウォルト・ホイットマンやヘンリー・D・ソローといったアメリカ文学の精神を受け継いでいることは明らかである。ディランとは直接、交友のあった詩人アレン・ギンズバーグを、ディランとホイットマン、ソローの間に置くとかなり見通しの良いアメリカ文学史になるのではないか。個々のアーティストたちは一見、革新的に見えはするのだが、実はそれぞれに良い形で先人の仕事を継承しているのがわかる。文化の伝達、継承には縦横斜めと3つのパターンがあるわけだが、ディランの文学性は同時代の若者へと横の伝達で広まった。なのでレノンもジャガーも、そしてジミ・ヘンドリックスもディランから強い影響を受けた。そう、ロックの基本である「我流の物真似」が彼らの表現を深化させたのだ。同時代の若者同士だから、ディランへの尊敬の念はあっただろうが、同時に負けるもんかという競争意識もあったろう。ヒトはリスペクトと負けるもんか!を同じアプリケーションで行える動物である。バイオロジカルなマーケットの中で、ディランを高く評価したからこそのリスペクトであり、同時に自分も文学的な詩を書こうではないかとモチベーションが上がるわけだ。要するに、自分もディランのように文学的な歌詞を書いた方が、今という時代において、今以上に輝けるのではないかと、当時既に有名人であったレノンやジャガーは考えたわけである。甘いラブソングだけを歌い続けていたら時代遅れになってしまうかもしれない、という危惧もあったかもしれない。彼らの目の前には、文学的な修辞を駆使したロックという新たな地平が開けていた。その頃に同じような思いを抱いた若者が大勢いたであろうことは間違いなくて、彼らの後から登場したミュージシャンたちの多くは最初から文学的な表現を使っていた。こう考えると、ある種の芸術的な表現に対する評価、批評精神というものが生物学的かつ経済学的な行動であることがよくわかる。現代社会においては、芸術として高く評価されると収入が増えるのだ。だとしたら、己がやっている表現を芸術として認知させたいと思うのは人情である。たとえばだ、色んな人がパブロ・ピカソや谷崎潤一郎を各々の分野において高く評価したので彼らの懐にたっぷりとお金が入り、元から浪費家であったピカソや谷崎は主に自分の身の回りにいた女性たちのために篦棒にお金を使った、わけである。その結果、どちらも売れっ子なのに経済はいつも火の車というはたから見たら面白いことになったのだが、彼らが浪費したお金は経済を回し、どこかの誰かを少しばかり助けた。

とはいえ、生物学と経済学が極めて近しい親戚だということが判明したのは、かなり最近のことである。当時は誰もがその辺のことがよくわからないままに、ある種の情熱を持って衝動的に市場に参加していったのだ。そう、社会運動に身を投じるという行為もまた、バイオロジカルなマーケットへの参入なのだ。街頭でデモを行うのも、大勢の他人に見せる行動である。見てもらわないと効果がないですからね。

そもそも社会的な運動、ムーブメントの類において渦中にある人間には、確固たる意図や目的、理想などはあるかもしれないが、現在進行形で自分が行なっていることが客観的に見てどのようなことなのかを理解することができない。ヒトは誰しも目の前のプロジェクトに対して、近視眼的にならないと集中できないわけだが、近視眼的になるということは客観視という理性的で便利なツールから距離を置くことにつながる。生きている限り、人には近視眼的にならなければならない時が必ず訪れる、のである。自分を客観視することはヒトにとってとても良いことである。客観視は冷静で理知的な思考とつながっているので、事あるごとに自分を客観視しようとする姿勢でいると人生において大きなミスをしでかす可能性がかなり低くなる。しかしながら、たとえば外出中に激しい便意に襲われた時に、近視眼的になるなと言われても無理である。

カウンターカルチャーの時代には公害、ベトナム戦争に公民権運動など様々な解決すべき問題が山のようにあったので、人々は近視眼的に興奮し世情は揺れに揺れた。ヒトはとにかく喫緊の問題に対しては感情的になりやすい動物である。喫緊の問題とは、どのようなものかというと、たとえば目の前で自分の家が火事で燃えているとか、帰宅したら自分の奥さんが自分の親しい友人と裸で抱き合っていたとか、そういう事態に直面することである。感情的になるなというのは無理な話だ。この、喫緊の問題に直面した際に燃え上がる我々の感情とは、おそらく我々の遥かな祖先が、ライオンの祖先に食べられそうになった時、はたまた自分の子供や親しい仲間が食べられそうになっているのを発見した時の感情なのだろう。そういう時に対策を深く考えている暇はないから脊髄反応で動くしかない。しかしながら、環境問題というのは脊髄反応で解決できる類の問題ではないし、反戦運動や公民権運動もまた持続的にやるしかない。特に環境問題や反戦運動には基本的にゴールがない。永遠にも近いようなスケールで、気長に計画的かつ継続的に取り組む類の問題である。実のところ、人類は気長に取り組むことで環境問題や反戦運動に関してはそれなりに良い結果を出しているのだが、当時の人々には汚染された海や空がそれなりに綺麗になる未来がとても予想できなかった。カウンターカルチャーの時代には、色んな本が書かれ多くの読者を獲得したが、どれもハーバート・A・サイモンがいうところの熱い言葉で書かれており、冷静かつ客観的に自分たちの行動を分析したような文章はあまりない。彼らは自分たちが何を行っているのか客観的に理解していなかった、とも言えるし、哲学者ダニエル・C・デネットがいうところの「理解力なき有用性」が作動していたとも言える。理解力なき有用性を理解してもらおうとすると、やたらと長い話になるのだが、かなり端折って説明するとこうなる。たとえばアリやハチはガウディの建築なみに凄い巣を作るけど、個々のアリやハチは自分が何をやってるのか理解してないよね、てなことである。それと同じようにヒトも自分が何をやっているのか、客観的なことはわからないままに凄いことをやってしまう場合があるのだ。

たとえばカール・マルクスという人がいる。マルクスの考え方は実はキリスト教の影響を凄く受けているのだが、マルクス自身は自分がキリスト教の影響下にあることを自覚出来なかった。それは無理もないのだ。マルクスは言ってみればマルティン・ルターが考えたビジョンの、神様が存在しないバージョンを思いついたのである。画期的なのは間違いない。とはいえ、彼がキリスト教から大きな影響を受けていることは現代のマルクス研究者も認めている。ヒトというのは実はそんなには革新的な、クリエイティブな動物ではないのである。たとえばスマホは我々の生活を大幅に変化させた大発明であるが、パソコンの歴史や携帯電話の歴史、その前には電話の歴史などが積み重なり、いくつかの文化の流れが合流して誕生したものである。天才ジョブズが何かを生み出したわけではない、彼はただApple社のトップにいて企業の舵取りをしただけだ。極端なことを言うと、我々の遥かな祖先が石斧を道具として使い始めることがなかったら、我々の文化はiPhoneを生み出すことはなかったろう。ヒトは多くの先人たちから、はたまた同時代の人たちから受け継いだ文化の積み重ねに、ほんの少しオリジナルな何かを上乗せすることしかできないのだが、時にはそのほんの少しの上乗せが大きなブレイクスルーに繋がることがある。そこだけを見れば何か爆発的なことが起きたような印象を与えるのだが、その背後にあるのは文化の継承による積み重ねである。

それにしても、ブリティッシュインヴェイジョンの波には最初から文才のある人たちが集まっていた。レノンはルイス・キャロルのフォロワーであることを隠そうとしなかったし、ミック・ジャガーはミハイル・ブルガーコフが書いた小説『巨匠とマルガリータ』にインスパイアされて「悪魔を憐れむ歌」を書いた。ブルガーコフはドストエフスキーやトルストイ以降では最大のロシア作家だが、ソ連の体制から抑圧された不運な人である。彼はドストエフスキーから非常に重要な要素を継承していた。『巨匠とマルガリータ』の終盤では、民衆がある種の熱狂に駆り立てられて祝祭状態になるわけですが、ドストエフスキーの作品もクライマックスで民衆がゴリラのパントフート的に盛り上がった挙句に悲劇が起こる場面がけっこうある。『罪と罰』ではマルメラードフが死ぬ場面やその妻、カテリーナが死ぬ場面。『悪霊』ではクライマックスの場面において、無責任な群衆がその場のノリで熱狂する様が描かれる。ドストエフスキーはヒトという動物が集団で興奮、熱狂した時の危険性をよくわかっていたのだ。かてて加えて『罪と罰』も『悪霊』も今で言う厨二病による若気の至りを描いた作品で、だからこそ世界中からの支持を得たわけだ。苦悩する若者を描いた実存主義的な文芸作品というのは割と近代の産物で、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が18世紀の後半だ。ゲーテには『ファウスト』という、これまた苦悩する個人を描いた超大作があって、読んだ方ならご存知だろうけれども『ファウスト』は2部構成で第2部はなぜか祝祭劇になるのである。もっとわかりやすく言うと『ファウスト』の第2部は延々とミュージカルな場面が続くのだ。個人の苦悩から始まって、第2部で意味がよくわからないミュージカルになるから『ファウスト』は後半が難解だとよく言われてきたのである。実際、『ファウスト』第2部は難解であるが、とにかく祝祭にしてしまえという作者の強い意志は感じられる。

ところで何故『ファウスト』の話を持ち出したかというと、『巨匠とマルガリータ』にインスパイアされたと言われる「悪魔を憐れむ歌」の歌詞の内容が、『ファウスト』の影響をも受けているように見えるからだ。この曲は、人類の愚行の歴史を悪魔の視点から描いたものだが、その道化師じみた語り口調はどこか『ファウスト』に登場する悪魔メフィストのようではないか。もちろんブルガーコフも『巨匠とマルガリータ』を書くにあたっては『ファウスト』を意識しているのだし、作詞の大半を行ったミック・ジャガーはおそらく両方とも読んでいるのだが、驚くべきは、他のメンバーたちとのスタジオでの試行錯誤の末に完成した「悪魔を憐れむ歌」のリズムが、サンバというきわめて祝祭的なダンスミュージックだったことである。個人を誘惑する悪魔という文学的なテーマを、ゲーテ、ブルガーコフから継承したのはミック・ジャガーであったが、それにふさわしい呪術的かつ祝祭的なリズムを発見したのはキース・リチャーズであった。

ゲーテの『ファウスト』が18世紀、ドストエフスキーの『罪と罰』が19世紀、そしてブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』が20世紀で、これらの作品は個人の苦悩を描きつつ、後半で集団的な祝祭劇になるという点で通底している。個人VS集団というのは、人類にとっては普遍的な問題である。個人は尊重されなければいけない、そうでないと我々の傷つきやすい自我は日常生活のさまざまな場面において立ち直れないほどのダメージを受けてしまう可能性がある。その反面、我々は単独で生きる術を持たない。社会的インフラに依存して生きている動物である。だからこそ葛藤が生まれ、個人は苦悩する。実存主義が生まれるわけだ。実存主義といえばフランスのジャン=ポール・サルトルだが、彼が広く注目されて人気を集め、英語圏でも認知されたのがまさに戦後すぐの時期である。サルトルがある種のポップスターであったことは間違いない。フランスは知性の商品化に長けた国であった。サルトルが出てきた背景にはパリのセーヌ川の左岸、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈にたむろして「実存主義者」と呼ばれていた若者たちの風俗があった。彼らはアメリカのビートニクスに似て、自由を愛し古臭い社会に縛られることを嫌った、わけであるが大正時代の日本ではモガ、モボというクラスタが発生し好き勝手なことをやった。似たような現象でありますね。モガと呼ばれたモダンガールが誕生したのは都市部での若い女性の職業的な選択肢が増えたからだ。これら若い世代による、我々は年長者とは違う存在なのだという主張が大きな運動となり得たのは文化的な資産と、それを支える経済的な資産が交差して文化的な場が形成されたからだ。たとえばフランスの場合、1686年にル・プロコップというカフェが誕生し、ここにラ・フォンテーヌやアナトール・フランスのような作家たち、ヴォルテールやルソー、ディドロといった文化人が集まり、啓蒙思想や社会変革について語り合った。これがフランス革命につながったのである。革命期には大勢の人をギロチン台に送り込んだ挙句、自分もギロチンで処刑されたロペスピエールや、彼のせいでギロチン台に送られ「次はお前の番だからな」と言ったジョルジュ・ダントンといった政治家もやってきた。フランス革命後の悲惨な時代が過ぎても、芸術家や文化人がカフェをサロンとして文化人たちが語り合う文化は続いていた。明治維新以降、日本は脱亜入欧を掲げていたので藤田嗣治のようにフランスに留学する芸術家が大勢いた。それでカフェのサロン文化は日本にも入ってきたのである。大正時代のカフェには、大杉栄のような政治活動家、高見順のような文学者が出入りして社会や文化を語りつつ、酔っ払って暴れたりしていたのである。なんとなく、後世のロックスターのようであるが、そういった文化が入ってきたからこそ大正時代にモダンガールが生まれたわけだ。明治天皇が国民に向けて脱亜入欧を煽り、海外の文化を何でもかんでも取り入れたので、社会主義まで入ってきて大杉栄みたいな人が現れたのだ。文化の系統樹で考えると、大杉栄もサルトルたちサンジェルマン・デ・プレに集っていた当時の「実存主義者」たちも、ルソーやロペスピエールから何がしかの文化を継承しているわけだ。第二次世界大戦の後、やってきたのは情報化社会でありどの国でも出版はより盛んになったから英米の若者たちはサルトルを読んでいたし1946年のノーベル文学賞を受賞したドイツ語の作家ヘルマン・ヘッセも読んでいた。1968年にデビューし映画『イージーライダー』で使われた大ヒット曲「Born to be wild(ワイルドでいこう!)」で知られるステッペンウルフは、そのバンド名をヘッセの『荒野のおおかみ』からいただいている。サンタナのセカンドアルバム『天の守護神』の原題は「Abraxas」で、ヘッセの小説『デミアン』の中で語られる神の名前だ。ずっと後の世代ではブラーのデーモン・アルバーンがヘッセの熱心な読者である。ボブ・ディランを別にすれば、ヘッセは最もロックに影響を残したノーベル賞作家かもしれない。

ザ ・フーのピート・タウンゼントも、ヘッセに影響を受けてロックオペラ『トミー』の構想を得たとインタビューで語っている。そして英国にはキンクスのレイ・デイヴィスがいた。彼は英国文学の伝統であるブラックユーモア、諧謔的な表現の正統な継承者である。諧謔的であることに秀でていたが故に、商業的成功においては他の3人に及ばないが、歴史上最も成功したアーティストの1人であることは間違いない。ちなみにタウンゼントはかなり早い段階からデイヴィスの文学性を称賛していたわけだが、デイヴィスの方は諧謔の人なのでタウンゼントからのリスペクトに対しては皮肉で返すという微笑ましい関係が半世紀ほど続いている。後に旧世代のロックに対して批判的なロンドンパンクが勃興した際、ザ・フーとキンクスは他の旧世代のバンドと違って元祖パンクスとして称賛されたが、これは音楽的な影響もさることながらロンドンパンクが皮肉と諧謔の継承者であったからだ。キンクスを有名にした名曲「ユー・リアリー・ガット・ミー」は男女関係を何やら意味深な比喩で歌っている。男女の関係を比喩的に表現するのはアメリカ黒人のブルースで多く使われていたもので、その点ではブルースを継承しているのだがデイヴィスの歌詞には具体性が少なく抽象的である。直訳すると、二人称で「貴女は僕を魅了した」みたいな感じになるのだが、抽象的な言葉で書かれているので形而上学的に読めないこともない。その上、曲調は後のヘヴィメタルに影響を与えたと言われるほどに激しいのに、熱いボーカルにはどこか物憂げなところがある。この曲が発表されたのは1964年である。この後のブリティッシュロックからは文学的、形而上学的、実存主義的な歌詞を伴った名曲が山ほど生まれるわけだが、レイ・デイヴィスはその先駆者だった。もともとアメリカ黒人のブルースには、男女の機微をシンプルな言葉で表現しながら、人生の深淵を垣間見るような文脈があったのだがデイヴィスはそれを継承しつつ更に掘り下げたと言える。

ここで顧みるべきは、戦前から伝わる黒人ブルースの、口承文学としての重要性だ。アフリカからアメリカに奴隷として連れて来られた人たちは、母国の言語や音楽といった文化を剥奪された状態で自分たちの文化を紡いだ。かろうじて録音が残された戦前のブルースで歌われる歌詞は俗っぽい表現で描かれた生々しいアメリカ文学だったのである。それを、かつての宗主国たるイギリスの若者たちが、文化的な表現手段として継承したのである。宗教音楽である黒人霊歌は、割合に早い段階から文化的かつ文学的な意義を認められて歌詞が記録されたが、世俗の歌であるブルースは悪魔の音楽といわれた。だがしかし、黒人霊歌とブルースはどちらも貴重であり重要なのだ。歴史を奪われた状態で派生した近代的な民族音楽であり口承文芸であるマイノリティの音楽文化が、ここまでの影響力を伴って世界的に波及したというのは、おそらく世界史的にも前例がないのである。そもそも大英帝国の植民地政策がなかったら、こんな文化は生まれていないのだ。大英帝国は、植民地に領土を広げてお金を儲けるために奴隷貿易を行っただけなのだが、それは誰も予想しなかった社会実験の始まりだったのである。アフリカ人から母国語と母国の音楽、楽器などを奪った状態から彼らはどのような音楽、文化を生み出すだろう? という壮大な規模の実験だ。当たり前の話だが、誰もそんな実験をやってみようと思って奴隷を売り買いしたわけではない。結果的に、奴隷貿易が行ったのは壮大な実験だった、という話である。人道的な面から見ると、今では絶対に成立してはいけない類の、それこそ悪魔の実験である。その結果、何が起こったかというと宗主国イギリスの若者たちが、黒人奴隷の子孫が生み出した新たな音楽に魅了され、あからさまに影響を受けた音楽を奏でるようになったのである。イギリスには固有の民族音楽があり、ややこしいことにイギリスとは微妙に異なるアイルランドの民族音楽があった。大英帝国イギリスとアイルランドのややこしい歴史を説明しようとしたら、それだけで一冊の本になってしまうのであるが、ともあれイギリスとアイルランドというのは文化的な葛藤のある関係だ。そしてイギリスは文化的な豊かさを重要視する国であるが、アイルランドは文学と音楽、そして酒といった文化がまことに豊穣なのである。個人的な話であるが、その昔、大阪のパブでアイルランドから来たという三人組の若者と意気投合して「私が思うに、アイルランドの文学とウイスキーはbetter than イングランドである」というような意見を述べたら、彼らはそれこそロックコンサートのようにイェーッ!と叫んで盛り上がり、お前はわかっとるな! お前は正しい! と同意してくれたものだ。アイルランドとイングランドの問題の根深さを実感すると共に、アイルランド人が大酒飲みだというのは事実であることを体感した瞬間であった。翌日の二日酔いは本当につらかった、のである。

広義の英国文化というのは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの複合文化である。全くもってややこしく面倒くさい話であるが、アイルランドは12世紀のノルマン人による進攻から始まるイングランドの植民地化政策によってえらい苦労をしてきた。アイルランドの人たちは元々はゲール語で会話していたが、今現在ゲール語を話すアイルランド人は全人口の1パーセントくらいだという。イギリスお得意の植民地政策がゲール語を侵略し尽くしたわけである。異なる言語と言語が出会うと、強い方の言語が相手の言語を滅ぼすのだ。言語こそはヒトが発明した最強のツールなのだが、最強であるが故に危険なのだ。アイルランドのゲール語問題は、奴隷にされてアメリカに送られたアフリカの黒人が母語を奪われたのと良く似ている。言語とか音楽というのは、その集団にとっての存在意義である。それを侵略者の手によって奪われた場合には、侵略者側のメンタリティと同化するか、新たに自分たちの文化を作るしかないだろう。アメリカの黒人音楽はモロにオリジナルの自分たちの文化を創造する行為であったが、アイルランドにおいても似たような事例が起きた。ゲール語を奪われて久しい20世紀のアイルランドの文学者は、侵略者たるイギリス人の英語を使って、イギリス人には到底できないような英語文学を構築しようとした。具体的にいうとジェイムズ・ジョイスである。ジョイスは20世紀の前半に英語を使って誰よりも前衛的な作品を書き成功した。その結果、ヘミングウェイやフィッツジェラルドといったアメリカの作家から大層尊敬されたし、フォークナーはジョイスの手法を踏襲しつつ更に前に進めようとした。アメリカの文学は歴史が浅いにもかかわらず相当に豊穣なものだが、それもこれも白人と黒人奴隷との分断を前提とした社会があったからだろう。黒人の多かった南部の田舎にいたフォークナーのような人が、都会にいたフィッツジェラルドのような人よりも前衛的(プログレッシヴ)な手法で世界を震撼させたのだ。話がいささかややこしくなってきましたが、何が言いたいかというとですね、大英帝国の植民地主義政策は現代の視点で見ると人道的にかなり問題のある国際的犯罪行為に見えるわけだが、音楽や文学においては大英帝国様が行った植民地主義政策によって(他にも色々あるだろう)異様に豊かな文化が生み出されてしまったわけだ。因果である。人類の歴史はどこを切り取っても因果な事実に満ちている。イギリスはアイルランドに対して、アフリカに対して、新大陸アメリカに対して、植民地主義というツールを使って壮大かつ無責任な社会実験を行ったわけである。もちろん誰も、そんな実験をするつもりはなかったのだが、結果的に凄い実験が行われて、現代に生きる我々はその恩恵を受けているのですね。ロック好きですし、そのルーツであるブルースやR&Bも大好きですし、ジョイスもフォークナーも好きなわけですが、それらを生み出すきっかけとなったのは植民地主義で、それは現代人の目から見るととても悪いことに思えるわけです。面倒くさいな人類。だからこそ我々は実存主義を発明して、あれやこれやと具体的な方法では解決できないような悩みを抱えるようになったのかもしれない。忘れてはいけないのは、植民地主義自体は人類にとって罪の歴史であること、その罪の歴史が我々にとってとても素敵な文化をたくさん生み出したことである。

というわけで、20世紀の後半に誕生したロックは、植民地時代以降にしか成立し得ない最先端の音楽と文学が出会う場となった。ロックは常に最先端であることを自慢する文化であったが、実際に最先端だったのだ。ボブ・ディランがエレキギターを持った時、ブーイングした人たちは、エレキギターを使う音楽というのは通俗的で下品なものだと思っていたわけである。21世紀の視点で見ると、通俗的なブルースやロックンロールの歌詞も口承文学として重要な文化だといえるわけだが、60年代にはそういう視点がなかった。高尚で文学的なフォークソングのディランが、金儲けのために低俗なロックンロールを始めたのか?と思ったから憤りを感じたわけだ。

思えばアメリカのフォークソングというのも不思議な存在である。アメリカのように歴史のない国で、フォークたる民衆の民族音楽というのは成立するのだろうか。実際のアメリカンフォークは移民たちの音楽が交わったものだった。アイルランド、スコットランドなど、当時の英語圏の民族音楽のエッセンスが混じり合ってアメリカのフォークソングになった。白人の移民たちは、黒人奴隷よりも教養があったので、黒人音楽よりも文学的に見えたのである。構造主義的な視点で見ると、黒人のブルースも立派な口承文学なのだけれども、当時のディランのリスナーはたぶん構造主義を知らなかった。その時のディランが何を考えていたのかはさておき、彼がエレキギターを弾いたことでアメリカの文学を継承していたフォークソングと、黒人が踊る音楽、更には黒人音楽を聴いて踊る白人の若者たちの文化が合流したわけだ。確かにこれはダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルの賞に値する功績ではないか。

ディランに刺激されたイギリスのジョン・レノンやミック・ジャガーたちが、ポップなラブソングを歌うアイドルから、文学的で実存主義的なロックスターに変貌したので、アメリカでロックバンドを組む若者たちも文学的な表現を使うようになった。元から文学者気質の人もロックを歌いはじめる。ザ・ドアーズのジム・モリソンは子供の頃から絵に描いたような文学少年だったが、進学先のUCLAの映画学科でキーボードのレイ・マンザレクと知り合い、ロックバンドという表現を選ぶことになる。問題は、モリソンのようなインテリがドラッグにハマってしまったことである。

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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第7回 良かれと思って……Highway to Hell

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

ジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターの共著『反逆の神話』は、60年代のカウンターカルチャーが色々と失敗をしでかしたことについて詳しく述べており、その背後に第二次世界大戦でのナチス・ドイツに対する恐怖があったことを指摘しているのは鋭い。実のところ、カウンターカルチャーがやらかした失敗とは、ヒトという動物がしばしば行う「良かれと思って始めたことが良くない結果を招いてしまう」行為の一つだからである。たとえば毛沢東は、良かれと思って文化大革命を行い、40万人が死んだ(と言われている。被害者は一億人という説もある)。スターリンだって、良かれと思って独裁を続けたわけだがソ連では78万人が犠牲になった。オーストリア出身の哲学者カール・ポパーの『歴史主義の貧困』によると歴史は決して繰り返さないのだが、世間の人々はしばしば「歴史は繰り返す」という言い回しを好む。これは何故かというと歴史の中で、似たようなことが何度でも起きるからだ。しかしながら、歴史は繰り返しているわけではない、別の時代の別の人たちが先人と似たような失敗をしてしまっただけなのである。

たとえばね、ピクニックの途中、森の中で小さな子熊を見つけたら、貴方はどうしますか? 当然のことながら子熊はめちゃくちゃ可愛い。哺乳類の子供は全部可愛いけど、熊の子供は特に可愛い、リアルちいかわだ。ヒトは小さくて可愛い奴の魅力にはあらがえない動物である。そういうふうにプログラミングされている。我々は共同体を作って生活し、時には自分の子供以外の子供の世話をすることもある動物なので、子供の哺乳類を見かけたらその可愛さにキューンとなってつい手を伸ばしたくなる。それは人情であり本能なわけだけれども、森の中の子熊には絶対に手を伸ばしてはいけない。お弁当の残りのソーセージをあげようかしら? なんてことを考えるのも良くない。子熊を見つけたら、慌てず騒がず静かにその場から離れる以外の選択肢はない。なぜなら、すぐ近くに子熊のお母さんがいて、子供に手を伸ばした貴方を見つけたら、必ず貴方を襲うだろうから。子熊に手を差し伸べて、お母さん熊に襲われた場合、悪いのは熊の親子ではなくて貴方の方なのだ。この場合、貴方は良かれと思って子熊にソーセージをあげようとしたのかもしれないが、お母さん熊はそうは判断してくれないのである。ヒトが、森の中の子熊に近寄ってエサを与えようとする度に、お母さん熊はヒトを襲うことになるだろう。このことは、今ではよく知られているので、リテラシーのある現代の登山者は子熊を見かけてもエサをあげようとはしない。しかし、今よりも熊の習性が知られていなかった時代には、子熊にエサを与えようとする人は多かったのではないだろうか。

歴史は繰り返す、という表現が使われるのは主に良くない事件が起きた時である。スターリンの失敗と毛沢東の失敗はよく似ているし、それより後に起きたポル・ポト政権の惨劇も似ている。歴史を遡ると、似たような惨劇は何度も起きているし、ヒトラーとナチス・ドイツの行ったこともやはり似ているのだ。

森の中での子熊に手を差し伸べて母熊に襲われるという惨劇はなぜ起きるのだろうか? 熊という動物の習性をよく把握していないからである。動物と接するためには、その動物の習性という情報が必要なのだが、スターリンも毛沢東もヒトという動物の習性をよく把握しておらず、必要な情報がない状態でより良い社会を築こうとしたために「良かれと思って始めたことが良くない結果を招いてしま」ったのである。何事も、必要な情報がない状態では間違った前提条件が入力されてしまう。間違った前提条件は、当然のことながら当初の目的とはかなりかけ離れた結果を招いてしまう。理想的な社会を築こうとして惨劇が起きてしまったという話は昔から山程あるから、歴史は繰り返されるように見えるわけだが、これらは全て前提条件が間違っていたのである。

スターリンも毛沢東も、ヒトという動物の習性をよく把握していないにも関わらず、人間がわかっているつもりで独裁政治を行ったわけだ。ヒトラーも同じで、おそらく彼らは自分のやっていることが歴史的にかなり悪いことだという自覚はなかっただろう。良かれと思ってやったのである。これは論理学で言うところの誤謬である。ある種の認知バイアスが彼らを狂った行動に駆り立てたのだ。認知バイアスについては、近年になって注目が高まり、ヒトが数々の認知バイアスにとらわれていることが明らかになってきたわけだが、これはつい最近の話である。行動経済学などが台頭してきた21世紀の現代になって、人類はようやくこういう話ができるようになったのだ。1978年のノーベル経済学賞を受賞したハーバート・A・サイモンは『人間活動における理性』(『意思決定と合理性』)という短かいけれどもすごい本の中で面白いことを書いている。ヒトラーが書いた『我が闘争』を分析的に読むとためになるというのである。ヒトは本を読むと、そこに書かれていること、著者の考え方などに影響を受けてしまうことがあるけれども、ヒトラーの本だったら大抵の人は最初から批判の目を持って読むので、これに影響されてユダヤ人を撲滅しよう! などと言い出す人はまずいないでしょ? という論旨である。この発想はなかった。

サイモンによると、ナチスの活動の目的はドイツ国家の安全保障とドイツ国民の福利厚生だ。これ自体は悪くない。ところが、ヒトラーが語る事実がおかしいのである。ヒトラーは欧州における経済活動が困難な原因を主にユダヤ人とマルクス主義者のせいにしている。しかも、ヒトラーはユダヤ人とマルクス主義者は見分けがつかないとも書いているのだが、これらは全部間違っている。ナチス・ドイツの行動が間違っていた理由は、前提条件が間違っていたからなのは明白だ。つまり、ヒトラーは間違った前提条件でピタゴラスイッチを動かしてしまったのだ。スターリンも毛沢東も、ポル・ポトも右に同じ。だとしたら、ソ連や中国が奉じていたマルクス主義そのものが間違っていたのだろうか? という話になるのだが、これについては資本主義という難物と並べて説明する必要があるので、後ほど詳しくやります。マルクス主義、共産主義、コミュニズムといった名称で呼ばれるイデオロギーは今でも人気があるので、その支持者の皆さんと対立してしまうような事態は避けたいし、できるだけ穏当に対立を避けるための筋道を用意している。とにかく対立が一番良くないのである。実際、ヒトラーが行ったことは「我々」と「やつら」を分断する作業である。人類にとって、分断が何よりも良くない理由はチンパンジーを見れば明らかだ。我々と同じく集団で生活するチンパンジーは、別の集団と縄張り争いを行い敵と認識した個体を襲撃して殺す。つまり「我々」と「やつら」という分断が成立した時に集団内部でのトラブルとは違ったレベルの殺戮が起きるわけだ。(ちなみに、チンパンジーの集団内部での殺し合いは、たとえばメスとの交尾をめぐるトラブルなどによって起きる。この辺もヒトとよく似ている)。我々は同じ部族の仲間を守るために道徳心を育んだ動物なので、別の部族だと認識してしまったら途端に冷淡になれるのである。(この辺のお話は心理学者のジョシュア・グリーンが書いた『モラル・トライブズ』が参考になるだろう。)

分断が良くないのだとしたら、カウンターカルチャーが起こした失敗の理由も明らかではないだろうか? そう、カウンターカルチャーは「我々」であるところの若者たちと、「やつら」であるところの大人たちを分断してしまう側面があった。当時の活動家であったジェリー・ルービンは「Don’t trust anyone over thirty(=30歳以上の奴らは信用するな)」というスローガンを唱え、これがえらくウケたわけだが、実際に社会を良くしようと思うのなら世代を超えた協力が必要なはずなのに、老人を敵に回してどうするのだ。しかし、当時の若者たちはノリノリで、30歳以上は信じるな! と叫んだようである。

ここでヒトラーの話に戻る。ヒトラーが提示した前提条件はデタラメばかりだったのに、何故それが当時のドイツで通用してしまい、なおかつ多くのドイツ人から支持を得たのだろうか? 理性溢れるサイモンは、そこに注目するのだ。ドイツと言えば哲学の盛んな国である。論理的な考え方ができる人は大勢いただろう。冷静に考えたら、当時のドイツ人だってヒトラーの間違い、嘘に気がついたはずではないか。しかし、彼らの多くはヒトラーの呼びかけに乗ってしまった。これは何故か? ヒトラーがドイツ国民たちの感情に訴えたからだ。第一次世界大戦後のドイツが経済的な苦境に直面したことはよく知られている。ドイツの国民はみんなが苦労していたのだ。そこに雄弁で情熱的なヒトラーが現れた。当時のヨーロッパではドイツ以外にも反マルクス主義や反ユダヤ主義が蔓延していたというのも彼の言動に説得力を持たせてしまった理由の一つだ。ヒトラーを支持する側に回った人たちは、たとえそれが論理的でないとしても、本人の中で納得してしまったのだ。通常の場合、納得とは理解を意味するが、こういう場合において納得はバイアスとして機能してしまう。サイモンは『我が闘争』での理由付けは「冷たい理由付け」ではなく「熱い理由付け」だったと書く。そう、人類は色んなことを言葉にして文章を書くのだが、世の中には「熱い言葉で書かれた文章」と「冷たい言葉で書かれた文章」が存在する。ヒトラーの本や演説はどれも熱い言葉で構成されていた。だから国民の心を揺さぶってしまったわけだ。熱い言葉は熱い認知から来る。熱い認知とは情熱だ。感情、情動と結びついた言葉は熱いのである。でもって、どうやらヒトは情動が高まると理性というか冷静な判断力から遠ざかってしまうようなのだ。物事を論理的に解決したいのであれば、できるだけ冷静に対策を考えるのがベストだろう。ヒトラーと当時のドイツ国民も、スターリンや毛沢東も、もっぱら熱い言葉ではなく冷たい言葉と冷たい認知でことを運ぶべきだったのだが、そうはいかないのがヒトという動物のつらいところである。何故なら、冷たい言葉で演説をすると選挙で当選する確率が低くなってしまうのである。選挙で当選したいのなら、熱い言葉で市民の感情に訴えかけた方が良いことは冷たい言葉で冷静に考えても明らかである。人間というのは個人を運営するのも国家を運営するのもかなり面倒くさい動物なのだ。実際問題としては熱い認知と冷たい認知、熱い言葉と冷たい言葉を上手く使いわける道を模索するしかないのだろう。ちなみに、当時のドイツにも冷静な判断ができた人たちはいて、その多くはアメリカに亡命した。戦前のドイツは映画の先進国だったので優秀な映画人が大勢アメリカに移動したために、アメリカの映画産業は大きく発展した。戦時中のアメリカ映画には反ナチス映画がたくさんあるが、それらの多くはドイツ人の監督や俳優が作ったものだ。彼らはヒトラーに恨みを持っていたので、監督は喜んでヒトラーの悪行を効果的に演出し、俳優は喜んで悪いドイツ兵の役柄を演じたりしたのである。その結果、『カサブランカ』や『死刑執行人もまた死す』といった映画史に残る名作が誕生した。これらは、亡命ドイツ人が異郷であるハリウッドで情動と理性を上手く使い分けた好例だろう。ヒトラー許すまじ! という情動を、的確に多くの人に伝えるために、冷静に脚本や演劇プランを練ったからこそ良い映画になったわけだ。亡命ドイツ人が、悪者であるドイツ兵を見事に演じるというのは、かなり高度な知性の産物である。『カサブランカ』でドイツの軍人を演じたコンラート・ファイトは、歴史に残る名優だが奥さんがユダヤ人だったのでイギリスに渡り、その後ハリウッドに移った。『カサブランカ』の監督であるマイケル・カーティスはオーストリア=ハンガリー帝国の出身だ。生まれ故郷では『ノアの方舟』のような超大作を撮っていたが、ドイツを経由してハリウッドに招かれた。亡命したわけではないが、ヒトラーのせいで状況が変化して帰れなくなったのだ。アメリカではリーズナブルな作品ばかり撮っていたが『カサブランカ』はハリウッドの歴史に残る名作である。悪役を演じたコンラート・ファイトとカーティスは歴史に残る良い仕事をしたと言える。

カウンターカルチャーの当事者たちは、当然のように熱い言葉で語った。ただし、変な比較になるけれども、カウンターカルチャーによる副産物的な被害はスターリンや毛沢東、ポル・ポトに比べれば可愛いものなのだ。これはやはり建前とはいえラブ&ピースがあったのと、中央集権的な運動ではなかったからだろう。カウンターカルチャーの中には急進的なマルクス主義者もいたが、ヒッピーたちの多くは資本主義を頭から否定するスタンスはとらなかった。ヒッピーは色んな面でユルかったのである。そして、ユルいことはヒッピーにとって最大の美徳であったと思う。1917年、20世紀が始まってまだ間もない頃にロシア革命が起きた。人類はそこから、共産主義にしますか? それとも資本主義を続けますか? という2択問題に悩まされるようになった。この問題は、人類にとっては深刻な問題なのだけれども、人類が物事を考えるための能力を鍛える上でドリルとしては非常に好ましい課題として機能した。革命が起きてリアルに共産主義を実現したのはロシア・ソ連だった。革命って良いよね?的なことの言い出しっぺはフランスであるが、フランス革命は副産物としての被害が甚大だった。フランスでフランス革命は起きたけれども、それはブルジョワ革命であって、フランスでロシア革命は起きなかった。変な言い方になりましたが、要するにフランスではロシア革命が行ったような、国家規模で共産主義に基いた社会形態の変革は起きなかったのだ。続いて中国が共産主義化するわけだが、革命の総本舗たるフランスが共産主義国になったりはしなかった。イギリスも同じことだ。共産主義に移行したロシア・ソ連と中国は、どちらも国土がやたら広くて人口も多い。面積と人口で見るとフランスやイギリスは小国である。しかし、歴史的な影響力はやたらと大きい。イギリスの植民地政策がなかったらアメリカという国家はなかったし、イギリスが奴隷貿易をやらなかったらジャズやブルース、ロックンロールは生まれていなかった。大英博物館のコレクションが他の国の博物館よりも凄いのは、大英帝国が侵略、略奪、文化的盗用といった現代の視点から見ると悪事に見えるような行為を、他の国々よりも上手く行ったからである。ヒトはチンパンジーやゴリラと同じように集団で生活する動物であること、そしてヒトだけがその集団の規模を拡大させて国家を作る動物であることはすでに述べた通りだ。歴史の本を読むと、神聖ローマ帝国だのモンゴル帝国だのと、昔は帝国が多かったことがわかる。どうやら初期条件でヒトが作る国家は、帝国という体裁をとりやすいようなのである。これはなんとなくわかる。要するにアルファオスたるボス猿が頂点に君臨する社会である。しかし、ヒトには利他性がある。他人を思いやる心がある。ヒトは公平さを求める動物なので、道徳心を進化させるうちに、帝国とか奴隷制度とか、あんまり良くないよね? と思うようになる。植民地主義も良くないよね? 現地の人に迷惑かけるから。植民地主義というのは基本的に帝国の産物である。帝国は、どんどん領土を広げようとしますよね。モンゴル帝国などは、ユーラシア大陸全体に広がるところまでいった。ヨーロッパの植民地というのは、海の向こうの土地にまで領土を広げようとした結果である。ところがイギリスの植民地であったアメリカが独立する。その後を追うようにフランス革命が起きる。これが18世紀の話。日本はまだ江戸時代だったから、えらく昔のことのように思えるけれども、人類の歴史を文明の誕生、農耕社会の誕生からカウントすると1万年で、200年前とか300年前というのは割と最近のことなのだ。これがホモ・サピエンスの誕生からカウントするとなると20万年前である。だから、我々が今、比較的平和に過ごしている民主主義の社会というのは、人類史のスケールで考えるとわりと最近できたものなのだ。理想的な社会とはどのようなものなのだろうか? ということに関しては昔から色んな人が考えてきたのだけれど、(ちなみに、プラトンが『国家』を書いたのが2300年くらい前です)、実際に帝国ではない、新しい形の社会を作れたのはわりと最近で、しかもそれがベストなのかどうかはまだ誰にもわからなかった。国のやり方を大きく変えるというのは、一種の社会実験なわけだが、スケールが大きすぎるのと、失敗したら目も当てられないので滅多にできない、というか滅多に起きないイベントである。ロシア革命は、この滅多に起きないイベントが起きたわけだが、その少し前から第一次世界大戦が始まっている。言い換えると、第一次世界大戦が引き金になってロシア帝国やドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国などの帝国がバタバタと倒れたとも言えるわけだ。第一次世界大戦が終わってから第二次世界大戦が始まるまでに20年の月日があるが、戦後の混乱期があり敗戦国は経済的な苦しみを味わい、小さな規模の戦乱、軍事介入はたくさんあった。そのうちに大恐慌がありファシズムが台頭する。つまり、戦間期とはいえ相対的に平和な時代は数年しかなかったのである。本当に20世紀の前半は戦争に終始した。戦争が終わって、人類全体が、戦争は良くないものだ、というコンセンサスを獲得したのはめでたいことではあった。

カウンターカルチャーが勃興した60年代の世界は、問題だらけだった。まずは環境問題。1962年にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が出版され、ベストセラーになった。この本は公害の恐ろしさを描いたものだが、実際に公害が酷いことになっていたからこそ、ベストセラーになった、のである。奇しくも同じ年にキューバ危機が起きている。第二次世界大戦が集結した後、アメリカとソ連が冷戦に突入したことはよく知られているが、キューバ危機は本当に世界のピンチであった。アメリカとソ連がそれぞれ所持していた核兵器を使っての全面核戦争が起きた場合、全世界規模の核爆発で人類が絶滅すると言われていたのである。キューバ危機の時は本当に、全面核戦争に突入しそうになった。つまり、60年代から70年代にかけて、世界中の人間が〈我々の文明が生み出した公害によって地球が滅びてしまうかもしれない〉恐怖と〈明日、いきなり全面核戦争が起きて人類が滅亡するかもしれない〉恐怖、この2つをずーっと抱えて暮らしていたわけだ。当然のことながら新聞や本には地球が滅びる可能性について書かれた言葉がたくさん踊っていたし、映画のようなフィクションの世界でも人類滅亡をテーマにした作品が量産された。人類は良い方向に向かって繁栄していますよ、というテーマの『繁栄』を書いたマット・リドレーが、同書の中で熱心に人類の未来は明るいのだという話を繰り返すのは、自分が子供の頃に「人類の未来はお先真っ暗だ」というニュースやフィクションが山のようにあって、そういう暗いニュースが多いこと自体が人類のために良くなかったと考えているからである。

1962年といえば、ビートルズがデビューし、翌年デビューするローリング・ストーンズが結成されて初めてのライブをやった年である。ジョン・レノンやポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンは、生まれて初めてのレコードが発売されてわずか十日ほど後にキューバ危機のニュースを知り、せっかくデビューしたのに世界が破滅するかもしれないという恐怖を味わったことになる。

核戦争が起きるかもしれないという恐怖は、基本的にソ連が崩壊し冷戦が終わったと認識されるようになるまで続いた。その一方、公害に関しては色んな国のいろんな企業や市民団体などが、時間をかけて取り組み、海や空は徐々にきれいになっていった。日本でも60年代後半から70年代にかけての河川や空は凄まじく汚染されて本当に汚かったのだが、今の海や空しか知らない若い世代にそれを伝える術がない。最も良いのは映画『ゴジラ対ヘドラ』を観てもらうことかもしれない。今観ると奇天烈な映画だが、そこに描かれている公害の恐怖は当時はリアルなものだったのである。リドレーも、昔の空や海を自分の目で見てきたからこそ、シフトチェンジした時の人類の底力を高く評価し、未来は明るいぞと言えるわけだ。漠然とした社会的な不安が人々の行動にどのような影響を与えるかについては、なかなか計測したりできるようなものではないが、我々はまだ終結していないコロナ禍において、色んな国で暴動が起きたのをネットの動画で見たばかりである。たとえばBlack Lives Matterはコロナとは直接は関係ないが、誰もがコロナ禍におけるストレスを感じていたので騒ぎの規模が大きくなった面もあるのではないか。60年代というのは今よりも治安も悪く、社会的な恐怖は遥かに大きかった。かてて加えて、アメリカは山のような問題を抱えていた。深刻化するベトナム戦争、アフリカ系アメリカ人の公民権運動、女性解放運動。ビートルズやローリング・ストーンズ、ボブ・ディランらが世に出たのは、そういう時代だったのである。

ビートルズもローリング・ストーンズも初期のアルバムはオリジナルの曲だけではなく、彼らが影響を受けた人たちのカバーが含まれていた。どちらも、アメリカで発売されたアルバムはイギリスでのオリジナル盤とは少し曲目が違う。これは、レコード会社もアーティスト自身も、ロックのアルバム作りとはどういうことなのか、まだよくわかっていなかったのでオリジナル盤には入っていなかったヒットナンバーを加えたりしたのである。その方が売れると思ったわけですね。ところが、どちらのバンドもあっという間にオリジナルアルバムの作り方を確立させた。ロックにおけるコンセプトアルバムの先駆けはビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』だと言われるが、映画のサントラ盤でもあった『ハード・デイズ・ナイト』あたりから既に全体に統一感のあるアルバム造りが始まっている。エリック・ドルフィーやマイルス・デイヴィスといったモダンジャズのアーティストたちは、早くからアルバム単位で統一感のある作品を作っていたわけだが、ロックミュージシャンたちもそれに倣ったのである。ロックンロールから60年代ロックへの移行で大きな変化があったのは、エルヴィス・プレスリーと彼のバックバンド、という形ではなくバンドが主体として扱われるようになったこと。そして、シングルレコードよりもアルバム単位で扱われることが多くなった点だ。アメリカの音楽評論家でボブ・ディランが初めてエレキギターを持ったニューポート・フォーク・フェスティバルの現場にもいたイライジャ・ウォルドは、ビートルズがロックンロールを破壊したと主張している。ジュークボックスでかけられるシングルレコード主体のロックンロールが、ビートルズによってもたらされたアルバム至上主義によって破壊されてしまったという論旨である。言いたいことはわかる。確かにロックは、ティーンが気楽に踊るだけの音楽ではなくなってしまった。とはいえ、時計の針を元に戻す方法はないのだ。ビートルズの歌う歌詞は、短期間でどんどん実存主義やシュルレアリズムの影響を受けたようなものになっていった。ほんの数年前まで、「愛はお金では買えない(Can't Buy Me Love)」と歌っていた人たちが「私は海象(I Am the Walrus)」など歌い始めたのだ。貴方たちの人生に、いったい何があったんですか?! と訊ねたくもなる。ビートルズのメンバーたちはドラッグカルチャーとサイケデリックカルチャーを真っ正面から受け止めた人たちでもある。何しろ彼らには有り余るほどのお金があったので高価なドラッグがたっぷり手に入った。

ローリング・ストーンズも歌詞の内容を文学的で社会派な方向にシフトしていった。ジョン・レノンやミック・ジャガーはおそらく、自分たちがどうやら単なるポップスターではなくて社会的な影響力を持つ文化人であることに気がついていたのだ。レノンもジャガーもアートスクール出身である。パンクロックの時代になってもブリティッシュロックの牽引者はアートスクール出身者が影響力を持った。日本にたとえると、美大や芸大である。ジャガーはアートスクールを経由して経済学を学んだ。ロックの時代においても学歴や教養といった文化資産は役に立つのだ。

ブリティッシュインヴェイジョンの旗手たちが、軽いラブソングから文学的な表現に移行できたのは何故だろう。イギリスでは、1950年代に「怒れる若者たち」と呼ばれる作家たちが出現していた。短編集『長距離走者の孤独』で知られるアラン・シリトー、『怒りを込めて振り返れ』で知られる劇作家ジョン・オズボーン、カウンターカルチャーに多大な影響を与えた評論『アウトサイダー』で世に出たコリン・ウィルソンたちである。そしてアメリカにはビートニクスと呼ばれる作家たちがいた。『路上』や『禅ヒッピー』で知られる放浪の作家ジャック・ケルアック、『吠える』の詩人アレン・ギンズバーグ、『裸のランチ』で知られるドラッグまみれの作家ウィリアム・S・バロウズたちだ。ロックの文学性や実存主義的なイメージはこれらの作家たちから受け継がれたものである。さらに源流をたどると、19世紀のイギリスには『阿片常習者の告白』で知られるトマス・ド・クインシーがいた。イギリスにはジョン・キーツ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティといった詩人がおり、彼らもまた阿片に耽溺していた。キーツもロセッティもロマン主義の詩人であることに注目。薬物による酩酊はロマン主義、デカダンスと相性が良かった。だから20世紀のロックとも当然のごとく相性が良かった。クインシーやキーツらが阿片にハマった理由は簡単で、手に入りやすかったのである。19世紀の初頭からイギリスは植民地であったインドで現地の農民にケシを栽培させて阿片を大量に生産した。これが阿片戦争に発展したのは歴史の教科書に書いてある通りだ。当時のイギリスでは町の薬屋で阿片が買えた。ジョン・レノンやルー・リードといったドラッグ体験を歌にしたアーティストたちは、ビートニクスを経由してロマン主義の文学を継承しているのだが、20世紀のドラッグは前世紀の阿片よりも洗練され、効き目が強かった。それが数々の悲劇を生む……。


〈参考文献〉
ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター『反逆の神話〔新版〕――「反体制」はカネになる』栗原百代訳、ハヤカワ文庫NF、2021
ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』山形浩生訳、2020,cruel.org/『意思決定と合理性』佐々木恒男、吉原正彦訳、ちくま学芸文庫、2016
マット・リドレー『繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史』大田直子、鍛原多恵子、柴田裕之訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2013

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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