第2回 森のゴリラのダンスパーティ

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

インターネットの普及により、初期のビートルズやそれ以前の時代のロックバンドの演奏動画を見ることが可能になった。当時の欧米のテレビ番組で流れたものが多いと思われるが、それらの映像にはバンドの演奏に合わせて踊る若者たちの姿が記録されている。

特に興味深かったのがチャック・ベリーの名曲ジョニー・B・グッドの映像だ。黒人のベリーがギターを弾きながら歌う、その周囲には大勢の白人の若者が踊っているのだ。なるほど、これがロックンロールの始原の形なのかという驚きがある。いわゆるダンスパーティーである。僕なんぞよりも上の世代はこれを略してダンパと称した。ロックバンドというのは、パーティで踊る若者たちのために演奏する小規模な楽団だったのだ。

しかし、黒人が演奏して白人が踊るという構図もかなり意味深ではないか。ビートルズやローリング・ストーンズといった初期の白人ロックミュージシャンたちは、ベリーのような黒人に憧れ彼らの物真似で音楽を始めたわけだが、彼らの世代のバンドの初期の映像もベリーと同じく、大勢の若者が演奏に合わせてダンパしているものが多く残されている。

ジョニー・B・グッドから10年ほど後の、ウッドストックでのジミ・ヘンドリックスの演奏を見ると非常に感慨深いものがある。ヘンドリックスはダンスパーティーの演奏係というよりは、宗教団体の祭司のように見える。これはどういうことかというと、ロックンロールが誕生した頃よりも、アーティストの社会的地位が向上したということではないか。ベリーは踊る若者たちと同じ目の高さで演奏していたが、ヘンドリックスは聴衆たちよりも高い位置にいて、なおかつ空を見上げてアメリカ国家を演奏した。ベリーのダンパ型ロックンロールにしろ、ヘンドリックスの宗教祭司型ロックにせよ共通点はあって、いずれにせよ聴衆は集団で忘我な状態になる。

ヒトという動物は集団で忘我になることを好む癖があって、スポーツ観戦などでも集団で忘我になる。サッカーのフーリガンや我が国の阪神ファンを見ればわかるように、集団で忘我な状態になったヒトは時として凶暴化することも忘れないでほしい。これまたYouTubeで検索するとアドルフ・ヒトラーが演説している動画が見られたりするわけですが、戦争というのもまた集団で忘我になる現象であり、例えばオリンピックは戦争の代替え品だと言われる。

聖書に「汝殺すなかれ」と書いてあるように、人類はかなり早い段階で、ヒトがヒトを殺すのは良くないことであるという考え方を獲得していた、にもかかわらず人類は幾たびとなく戦争をしては同族を殺すのである。なんというか、設計段階でバグっているのではないかホモ・サピエンスは。

ただし、ヒトと最も近い動物であるチンパンジーはしばしばチンパンジーを殺す。ヒトやチンパンジーよりも優しい霊長類であるゴリラの雄は、新たに恋人ができたときには、恋人の連れ子を容赦なく殺す。これらは動物としての習性なので、赤の他人の子供を殺す雄のゴリラをヒトの倫理で批判して良いものやら、という話になる。我々ホモ・サピエンスもパソコンやiPhoneを発明したという点では、かなり賢い霊長類なのだけれども未だに戦争をやめられないという点で、同族を殺してしまうチンパンジーやゴリラに近いものを持っているのかもしれない。

と、ここで一つの疑問が生じる。ロックというのは20世紀の後半に誕生した、人類の歴史の中ではかなり最近の文化である。20世紀といえばテクノロジーの時代でしょう。実際、エレキギターという文明の利器がなければロックは成立しない。ロックは紛れもなく科学文明の産物なのだ。なのに、どうしてこんなにプリミティブなのだろう。更に言うと、ロックが誕生する10年ほど前まで、人類は史上最大規模の悲惨な戦争をしていたのである。ざっくり言うと、20世紀というのは前半が世界大戦の時代で、後半がロックの時代であった、ということになりますね。つまり、戦争が終わって人類はダンスパーティを始めた、という見方も成り立つ。

人類の文明が大きく発展し始めたのは一万年ほど前だとされている。その間に我々の先祖は様々な文化を育み、偉大なる科学やら哲学、芸術などを生み出してきた。これぞ人類の叡智である。そんなに利口な動物なのに、人類は歴史の上ではつい最近である20世紀の前半は、高度に発達したテクノロジーを使って戦争をして忘我になり、その後はテクノロジーを使った音楽で忘我になっていたのだ。

もしも、我々を観察している宇宙人がいたとしたら、彼らは我々ホモ・サピエンスを見てどう思うだろうか? テクノロジーが発展したと思ったら、いきなりそれを使って大規模な殺し合いを始めたわけである。こいつらは利口なのか? それとも馬鹿なのか? 判断しかねるのではないか。

ヒトが生み出した数あるテクノロジーの中で、最も偉大なのはおそらく医療である。医学は他のテクノロジーと結びつきながら、主にヒトの寿命を延ばすことに貢献してきた。皆さんもご存知のようにヒトは弱い生き物で、生まれてすぐの頃は歩くこともできないし、自分でご飯を食べることもできない。そして、ヒトは大人になってからもか弱い動物だ。我々の親戚であるチンパンジーは体こそ小さいけれども、素手でタイマンをすればヒトよりずっと強い。ヒトは、単体では極端に弱いからこそ、集団で助け合う能力を発達させたわけです。そして医療技術を磨き上げた。

野生動物が天然温泉に集まって来たりするのは良く知られているし、野生動物が薬草を食べることも知られている。つまり、温泉治療や薬草という側面から見ると野生動物にも医療という文化はあるわけだが、ヒトはその医療を文化的に進化させたので抗生物質やワクチンといった個体が長く生きるためのアイテムを開発できた。これは素晴らしいことで、医療こそが人類の叡智なわけだが、にも関わらずホモ・サピエンスは20世紀の前半においては二度にわたる世界大戦で多くの若者を死に至らしめた。そして戦争の時代が終わってからもドラッグの乱用で多くのミュージシャンを若くして死なせてしまった。就中、若くして死んでしまったミュージシャンを、神話的に祭り上げた。

ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリン、ドアーズのジム・モリソンが卓越した表現者であることは間違いない。彼らより後に登場したカート・コベインもまた素晴らしいソングライターだったろう。とはいえ、ヒトが若くして死んでしまうのは悲劇なのだ。大きな声では言えないけれど、若くして死んだロックスターを英雄視するのは、戦争で大きな活躍をして死んだ英雄を称賛するマインドに近いところがある。アーサー王でも源義経でもいいけど、悲劇的な英雄は人気があるでしょう。それらはロマンティックなお伽話として民衆に愛されてきたが、自分たちと同じ時代に生きた人(兵士やバンドマン)が若くして死んだ時に、そのロマンティックを発動させることには抵抗を覚える。

2015年にノーベル経済学賞を受賞したアンガス・ディートンの『大脱出』によると、人類の歴史はお父さんよりも息子が長生きすることで発展してきた。もちろん、そのお父さんはお爺さんよりも長生きした。後の世代になるほど寿命が長くなること、つまり平均寿命が長くなることは人類の発展と直結しているのだ。今もなお平均寿命は伸びているから我々は進歩を止めてはいないことになる。ディートンの視点で見ると、個人の長生きと貧困からの脱出こそが人類の進歩である。しかし、戦争や麻薬禍による若者の早逝はその流れに反するもので、あまり歓迎できることではない。

ここで一つの見方を提案する。これまで述べてきたように、ヒトは20世紀の前半には、発達したテクノロジーを使った世界大戦で忘我となってドンパチを行い、戦争が終わって20世紀の後半に突入するとテクノロジーを使った音楽で忘我となってドンドコ踊った。

この、集団で忘我となってドンパチもしくはドンドコやらかすという行為は、もしかしたらヒトという動物の習性と深く結びついているのではないだろうか?

チンパンジーにパント・フートという行動がある。「フー、ホー、フーホー、フーホー、フーホー、ホワーォ、ホォォォ」という鳴き声をあげながらコミュニケーションするのだ。パント・フートは当初、遠くにいる仲間のチンパンジーと連絡を取り合うための行動ではないかと思われていた。たとえば森の中で美味しい木の実を見つけたチンパンジーが、「おーい、ここに美味しい木の実があるぞ〜」と仲間に知らせるために、フーホー、フーホーと声をあげる。そういう役割があって発達した機能だと思われていたのだ。

ところが、実際にはパント・フートは、すぐ近くにいるチンパンジー同士の間でも行われることが多い。目の前にいる仲間チンパンジーのパント・フートの発声に合わせて、自分もパント・フートをかぶせていく。いわゆるコーラスですね。実際、ドゥワップやアカペラのグループなんかがメンバー同士でコーラスを合わせていく様に似ている。パント・フートにはドラミングが伴うことも多い。これは手で自分の体や、すぐ側にある木なんかをリズミカルに叩くのだ。我々ホモ・サピエンスも、音楽の演奏に合わせて手拍子を叩いたりする。また、コーラスグループは歌声を合わせる際に手拍子やフィンガースナップでリズムをとったりする。チンパンジーとヒトは同じ先祖から進化した親戚のようなものなので、進化心理学や動物行動学では両者の間には似たような習性がある、という話が頻繁に出てくる。

ヒトは尻尾のない猿だと言われるけれども、尻尾のない猿は他にもいてテナガザル、ゴリラ、オランウータン、チンパンジー、ボノボがいる。彼らは我々ヒトの遠い親戚だ。遥か昔に、テナガザルとオランウータンとゴリラとチンパンジーとヒトの共通の先祖がいたらしいのだが、今のところ、その共通の先祖の化石は見つかっていない。というのも、テナガザルやゴリラやヒトを含む共通のご先祖さまは熱帯雨林に住んでいたので、化石が残りにくいのだ。これが古生物学の難しいところで、色んな恐竜の化石が色んなところで見つかっているけれども、化石として残っている生物は化石化しやすい環境に住んでいたから化石になったわけだ。まだまだ化石が発見されていない恐竜はたくさんいただろうし、永遠に現代人にその存在を知られないままの絶滅動物はたくさんいるだろう。死んだ生物が化石になるかならないかは、ほぼほぼ環境で決まる。だから、化石動物が生きていた頃の地球がどんな環境であったかを、残された化石だけで判断するのは非常に難しい。

我々、ヒトの仲間ももっと多くの種類がいたはずなのだが、化石として見つかっているのはそのうちの一部でしかないので、少ないデータから我々がどのように進化をしてきたのか推察するしかない。進化の系統樹で見ると、はじめにテナガザルが分岐し、次にオランウータンが別れた。この時点でヒトとゴリラとチンパンジーの共通の祖先がアフリカにいた、らしい。化石は見つかっていない。そしてゴリラが枝分かれした。ゴリラはゴリラで、マウンテンゴリラとニシローランドゴリラに分岐する。もしかしたら、もっと多くの種類のゴリラがいて、いつの間にか滅亡したのかもしれないが、今のところはわからない。

ゴリラと別れた後には、ヒトとチンパンジーの共通の祖先である尻尾のないサルがいた。アフリカの森で木の実とかを食べていたと思われる。ところがだ、地球が寒くなってきたので尻尾のないサルが快適に住んでいた環境が破壊された。これがたぶん、サハラ砂漠ができた頃で、ヒトとチンパンジーの共通の先祖が住む森が狭くなったのだ。さあ、どうやって生きのびようか?

チンパンジーの先祖は森に残ることにした。ヒトの先祖は、森から出て新しい生活環境を探す旅に出た。実際には、まだ森が残っていた地域の尻尾のないサルが森に残り、本当に森がなくなって追い詰められた、ごく一部の尻尾のない猿が新天地を求めて旅立ったのだろう。旅立った奴らの子孫がヒトの先祖だ。ここでヒトとチンパンジーの道がわかれた。

ヒトの先祖が森を出たらサバンナだった。そこにはヒトを餌にする肉食獣がいた。今でもチンパンジーの天敵はヒョウで、天敵のいそうにないゴリラですら子供や弱った個体はヒョウに狙われる。大型のネコ科動物こそが我々尻尾のないサルの天敵なのだ。そいつらに襲われたら、走って逃げて木の上に登るのが一番だ。ヒトを含む多くのサルは樹上生活に特化していた歴史があるので、木の枝をつかむのに適した手足を持っていた。ほとんどのサルの仲間は手だけではなく足でも木の枝につかまる機能を持っているが、ヒトの先祖はサバンナで肉食獣とかけっこをすることになったので、足で木の枝をつかむのは諦めて、地面を早く走れる方向にシフトチェンジした。二足歩行のはじまりだ。そのかわりに両手は自由になったので、これを器用に使えるように進化した。こう書くと、自分の意思で選択したみたいに思われるけど、もちろん考えてその道を選んだわけではなくて、そういう個体が生き残っただけです。未来への選択肢を自分で考えて選ぶ、なんてことを人類が始めたのはおそらくそんなに古い話ではない。

遺伝子の変化と、文化の進化という両輪をフルに使って人類は現代の文明を築いたわけだが、文化の力が遺伝子の変化を上回るようになったのは、おそらくこの一万年くらいだろう。

チンパンジーとわかれた後も、ヒトは何度も分岐してきた。何種類もの人類が誕生して、複数のヒトが地球上に存在していた。チンパンジーも枝分かれしてチンパンジーとボノボになった。これはどっちもまだ生存している。今わかっている限りでも、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人、デニソワ人が同じ時代に生きていた。この三者はそれぞれセックスして子供を産むことができたので、純粋なネアンデルタール人やデニソワ人はいなくなってしまったけれども、今生きているホモ・サピエンスの2パーセントくらいはネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子を受け継いでいる。おそらく、ネアンデルタール人もデニソワ人もチンパンジーのパント・フートのようなコミュニケーション方法は持っていたのではないか。

実際、霊長類の脳と認知の専門家であるディーン・フォークはチンパンジーやゴリラのパント・フートに、音楽の原型があるのではないかと考えている。パント・フートには楽曲としての構成があり、導入部から、盛り上がりを経て絶頂へと達し、最終的に沈静するのだという。オペラか。それともコンセプトアルバムか。興味深いのはパント・フートには「明確な指示性」がないのだという。「明確な指示性」とは何か?

鮮やかな青色の睾丸を持つことで知られるベルベットモンキーはヒョウ、ヘビ、ワシという三種類の天敵を見つけるとアラームコールを発する。要するにヘビが来た時とワシが来た時では違う叫び声を出すのだ。子供のベルベットモンキーは大きな鳥を見つけたら無差別にワシアラームを出してしまうが、大人になるとちゃんと猛禽類だけを見分けてワシアラームを発する(ほとんど言語ですな)、これが指示性だ。そして、チンパンジーやゴリラのパント・フートにはベルベットモンキーのような使い分け機能はない。

どうやらパント・フートは仲間が集って盛り上がるためだけにやっているらしいのである。ノリ重視だ。このことから、パント・フートはヒトの音楽のプロトタイプではあっても、言語つまり言葉の直接のプロトタイプではないということになる。この件に関してはニュージーランドの心理学者で『言葉は身振りから進化した』の著者であるマイケル・コーバリスもおおむね同じ意見だ。

我々の先祖がいつ頃から言葉を使い始めたのか。また、それはどのように始まったのかに関しては諸説あってまだ答は出ていないが、言葉と音楽は深い関係にある。まず、我々ホモ・サピエンスは音楽と言語の使用を同時にやれますね。てか、言語を使えるのはヒトだけだから歌詞のある歌を唄うことができるのはヒトだけだ。すまんけどオウムや九官鳥のことは今は無視してください。ただし鳥を筆頭に歌う動物はたくさんいる。ゴリラのドラミングなんかは明らかに演奏だろう。

ちなみにコーバリスは、ゴリラたちの祝祭についてこう書いている。

ドラミングと呼び声の一体化は現代の人間ではいったい何に相当するだろうか──たぶん、ロックコンサートである。(p. 49)

そんな気はしていた。

 


参考文献
アンガス・ディートン『大脱出――健康、お金、格差の起原』松本裕訳、みすず書房、2014
マイケル・コーバリス『言葉は身振りから進化した──進化心理学が探る言語の起源』大久保街亜訳、勁草書房、2008

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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第1回 おもむろに、老人がロックを語り始める

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

「ロックの正体」とは我ながら大きく出たもので、何か大層な話をするのかと思われそうだが実のところさほど大した話はできない。ロックという音楽文化が誕生したのは20世紀の中頃、1950年代の話で、人間にたとえたら還暦をとうに過ぎておりあと数年で古希を迎える。ロックというのはその折々の時代において熱く語られてきた過去があるので、ロックに関する書籍、文章の類は星の数ほどあってもしかしたらレコードやCDよりも多いのではないか。音楽でありながら活字文化との結びつきが異常に強いのである。

ただ、ロックにまつわる文章というのはどれもやたらと情熱的で、異様な熱を帯びたものが多かった。これに対しては随分と前から、もう少し落ち着いてロックを語れないものかと考えていた。なぜかというとですね、熱く語ると、論理的な冷静さを欠いてしまうのではないかという懸念があるからなのです。

ロックを聞いて熱くなる。それはわかる。大抵のロックはそのようにデザインされているからである。しかしながら、熱くなるということは感情的で情動に流されてしまうということであって、論理的な思考から縁遠い行為ではないのか。これはなんというか一種のバグのようなもので、説明しだすとややこしい話になる。

人間の意思決定のシステムには、直感的なものと、落ち着いて熟慮の末に答えを出すのと、二通りのやり方があって、直感的なものをシステム1、じっくり考えるのをシステム2と呼ぶ。文化としてのロックについて考えるのであれば、システム2をたっぷりと使う必要があるはずなので、とにかく直感に走ることを避けなければならないし、それには熱くならない方が好ましい。

近年は認知科学や神経科学、心の哲学などがたいそう進歩していろんなことがわかってきた。ヒトの思考と感情、情動は深く結びついており、情動無しでは論理的な思考もできないというようなこともわかってきた。厄介である。しかし、だからこそ情動と論理的な思考の間で上手く折り合いをつけたいとも思う。より一層情動を落ち着かせて、決して情熱的になることなく、縁側で渋茶をすするお爺さんのような姿勢でロックという文化について語ろうと思う。

ロックは今もなお続いている文化だが、それが誕生した50年代から60年代、経済的に躍進した70年代あたりとはかなり違う様相を呈している。60年代の後半には50年代のロックは終わっており、60年代のロックも70年代には終わっていたわけで、おそらくその70年代のロックも80年代には終わっていたのだ。そして、ロックが重要な文化であると多くの人々から認識されるようになったのは主に60年代と70年代のロックが産業として、はたまた芸術として高く評価されたからである。

昔、ロックという巨大な音楽文化があり、色々な出来事があった。こう考えると、一旦は過去に終わってしまった文化としての視点が獲得できるので、なかなかに都合が良い。まあ、今ある現代のロックを鳥だとすると、60年代や70年代のロックは恐竜のようなものだろう。

というわけで、できれば古生物学のようなスタンスで行きましょうか。

「ロックの正体」というからには「ロック」には何らかの主体があると筆者は考えているわけで、それは何かというと巨大な成功を収めたロックバンド、ミュージシャンではなくて彼らの音楽に魅了され、レコードを買ったりコンサートのチケットを買った有象無象の消費者群である。

巨大なスタジアムを満員にするミュージシャンは輝いて見えるが、その輝きはスタジアムに詰めかけた消費者が自分の財布からお金を出してチケットを買ったからこそ成立している。文化というのは消費者が築くのである、というスタンスをここでは採用する。

彼らは、それぞれいつ頃、どのようにロックと接触し、その消費者になったのだろう。

今はさておき、昔は子供の頃からロックを聴いていた人はいなかった。20世紀の中頃まではまだロックがなかったからである。今でこそ、親がロック好きだったから幼い頃からロックを聞いていたという若者がいるけれども、そういう層が誕生するまでにはロックが誕生してから30年くらいの月日が必要だった。

つまり前世紀においては、ロックに魅せられる人は人生のどこかの地点で何らかのロックに触れて、好きになったのだ。親は演歌を聴いていたが、自分はロックを聴いていたのだ。という人は多い。親の影響ではなく、自分の意思で選択してロックを聴くようになったのだというのが若人にとっては大切な思い出になる。これが、ロックが持つ魔法の一つだ。

ロックを好んだ往年の若者の多くは、10代の前半から中頃、後半にかけて何らかの形でロックと出会い積極的な態度でその消費者となった。10代の前半から後半といえば二次性徴の季節だ。脇の下や隠部に毛が生え、女の子の胸はふくらみ男の子はペニスが大きくなる。これ即ち、動物でいうところの交尾が可能になるわけですから、異性への興味が高まるお年頃ではある。

20世紀においてロックという音楽を愛した人びとの大半は、脇の下と隠部に毛が生えて、胸が膨らみ始めたり、おちんちんが大きくなりだした頃にロックにハマったと考えて良いだろう。10代の中頃、二次性徴を迎えると男の子も女の子もセックスという現実と向かい合うことになる。大半の男子は10代の前半から中盤にかけて、エロティックなことを考えているわけでもないのに勃起してしまう。という経験をする。これは子孫を残したいという本能が、本人の意思を無視して暴走しているわけです。男の子も女の子も、彼氏や彼女が欲しくなる。

これはロックを演奏するミュージシャンの方も同じで、それくらいの年頃でエレキギターと出会った人が多い。小さな頃から音楽教育を受けていた子であってもエレキギターやエレキベースに手を出すのはティーンになってからだ。

もちろん、現代は生まれた時から親の影響でブリティッシュロックなどを聴いていた子供がいるので、YouTubeなどを見るとあどけない子供が凄いギターソロを決めたりしているわけだが、20世紀にはそんな子供は滅多にいなかった。いたとすれば、それはジェイソン・ボーナムのようにお父さんがレッド・ツェッペリンでドラムを叩いていた、というような特殊な環境の人である。

ともあれ、ロックという音楽は二次性徴と共に中学生から高校生くらいの年頃のハートをわしづかみにする音楽で、必然的に他のジャンルの音楽よりもセックスとの親和性が高くなった。

小学生の男子で1番モテるのは足の速い子だ。進化心理学的なことは色々とややこしいので、おいおい説明する予定ですがチンパンジーの仲間であるヒトのオスは、できるだけ大勢のメスに自分の精子を与えて自分の遺伝子の複製を残したい。そういう風にデザインされている。これが20代の半ば過ぎくらいになると、実際にたくさんの女性に精子を与えてその女性たちが全員妊娠した場合にはとんでもない責任がのしかかってくるという事実を理解できるので、たくさんの女性とセックスしたいという欲求は残したまま、現実と折り合いをつけるようになる。

二次性徴を迎えたばかりの少年少女が性行為に興味を示すのは、ある意味当たり前な話だ。小学生の頃から考えると、ほんの数年で大きく変化してしまった自分の肉体と向き合わねばならないのだから。

男性と女性では性的な戦略が違うので、特に10代の恋愛においては、すぐにセックスをしたがる男子と、なかなかセックスをしたがらない女子という構図はある。とはいえ、どちらも思春期を迎えると恋人がほしくなるのにかわりはない。

20世紀にロックという音楽が非常な盛り上がりをしめしたのは、ひとえに恋人が欲しいという若者の欲望に即した文化だったからだ。たとえば政治的なメッセージの強い歌であっても、「あ、君もこの歌が好きなの? 僕も好きなんだ」という形で出会いが生まれたりもする。

セックス、ドラッグ、ロックンロールなどという言葉があって、ロックはセックスとドラッグ、つまり麻薬と並んで讃えられる文化だった。

今聴き返しても天才としか思えないギタリストのジミ・ヘンドリックスは、色んな国でおそらく何百人もの女性とセックスを行い、アメリカ、ドイツ、スウェーデンで少なくとも3人の子供を作って(もっといるかもしれない)子孫と自分の遺伝子を残すことには成功したが、本人は27歳で死んでしまった。

進化心理学にはロビン・ダンバーが提唱したダンバー数というのがあって、これはヒトが安定した社会関係を維持できる知り合いの人数である。ダンバーによると約150人前後だ。成功したロックスターが生涯でセックスする相手の人数は150人どころではなかった。つまり70年代までに成功したロックスターの多くは自分がセックスをした相手の顔とか名前とか肉体とかを、おそらくはちゃんと覚えていない。まあ、ロックスターとセックスをした女の子の方は一生忘れない思い出になるだろうから、それはそれでウィンウィンというか、ナッシュ均衡めいた状態ではある。その女の子に片想いをしている男の子がいたとしたら、その男子にとっては悲劇かもしれないが、そういう男の子たちもロックにお金を使ったから、この文化は一大産業になったのである。

ロックスターになった男の子はたくさんの女性とセックスすることが可能になるのだけれども、若くして死んでしまうリスクもあった。僕はこれをロックのジレンマと呼んでいる。人間、長生きした方が良いわけで、ヘンドリックスがもしも長生きしていたら、彼はもっと素晴らしい作品をたくさん残していただろう。

人類が築き上げた文明は基本的にどれもトライ&エラーの繰り返しだ。19世紀に産業革命が起きて工業化社会が到来し、人々の生活が豊かになった。これがトライだとすると、工業化社会が原因で公害が起きるのがエラーだ。要はトライの段階でどこまでアクセルを踏めば良いのかわからないから、アクセルを強めに踏んでしまう。ホモ・サピエンスにはそういう癖がある。そして公害の規模は拡大してゆく……。

この大きなエラーに対しては軌道修正をほどこすしかない。ロックが大きな産業に発展した1970年代というのは公害問題がピークに達した時代で、東京や大阪といった日本の都市部の空や河川、そして海はかなり悲惨な状態だった。その後、さまざまな形で軌道修正が行われ、80年代から90年代にかけて、海、空、河川はかなり綺麗になった。そして人類は、今も環境問題に対する取り組みを継続している。

このトライ&エラーと、それに伴う軌道修正をルース・ドフリースはその著作『食糧と人類』の中でラチェット=歯車、ハチェット=手斧、ピボット=方向転換と呼んだ。ラチェットというのは一方向に歯車を回す仕組みで、ボルトやナットを締めるために使うラチェットレンチという道具が有名だ。この例えが秀逸なのはラチェットが一方向にしか回らない点である。そう、ラチェットを回すと元には戻れないのだ。ホームセンターで売っているラチェットレンチには切り替えスイッチがあるのだが、人類の文化と歴史にそういう便利な機能はない。

ロックという文化も60年代から70年代にかけて、明らかにラチェットを回しすぎたのだ。主にドラッグやセックスに関して、色んな人たちが勢いよくラチェットを回した。

後に、ロックスターの中から意識改革を行うアーティストらが現れて、悲惨なロックのジレンマはある程度は解消される。健康に気をつけるロックスターや、愛妻家なロックスターが出現したのだ。これがトライ&エラーを軌道修正する人類の叡智、ドフリースのいうピボットだ。

率先して健康的な生活を心がけたロックスターこそが、ロックに真の革命をもたらしたのである。しかしながら、ロックの誕生から最初の20年ほどは、性的に放埒で麻薬に浸るようなライフスタイルが賞賛を受けた。そしてそれで大勢死んだ。

ロックの誕生は1950年代である。二度に渡る世界大戦が終わり平和が訪れたわけだ。実際、60年代のロックは愛と平和を標榜していた。だがしかし、それにしては文化としてのロックに伴う死者はかなりいるし、暴力的で剣呑な表現も多かった。

有名なモンタレー・ポップ・フェスティバルの記録映像において、ヘンドリックスは演奏が盛り上がる中で自分が弾いていたギターを破壊し、油をかけて火をつける。これを今日の目で見ると、ヘンドリックスが何故ギターを壊したのか全く理解できないのではないか。たとえば、タクシーの運転手やダンプカーの運転手が自分の愛車に火を放ったら、大工さんがハンマーやノコギリを破壊したら、誰もが彼は頭がおかしくなったと思うだろう。ヘンドリックスがやったのはそういう行為であったわけだが、当時の観客は彼の精神状態を心配することもなくギターの破壊に熱狂した。

更に驚くべきことには、ヘンドリックスによるギター破壊を観客が歓迎したという事象について、客観的に説明した文章を読んだ記憶がないのだ。つまり当時の人々にとってギターの破壊は衝撃的ではあったけれども、それを歓迎して熱狂するための土壌があり、それがわかっていたから本人も勢いよく破壊したのである。これは時代の空気としか言いようがないだろう。カウンターカルチャーの時代だったから、と言う説明でそれを理解できるのは当時のカウンターカルチャーに関してある程度の知識がある人だけだ。

ヘンドリックスの楽器破壊は、一種の秩序を破壊する行為であったが、何故そういう行為が観客から支持されたのかが今の若い人にはわからないのではないか?と思うわけで、わからない話に関しては年寄りが説明する必要がある。その時代を知っている世代にとっては、ロックとは反逆だというコンセンサスがあるのだが、今の若い人たちにそういう認識が共有できるとは思えない。

ヘンドリックスがギターを破壊したモンタレー・ポップ・フェスティバルから15年ほど経った1982年、リッチー・ブラックモア率いるレインボーが来日公演を行い、その大阪公演に僕はアルバイトの警備員として参加していた。午前中から機材の搬入も行い、リハーサルも見学できた。ステージのクライマックスでブラックモアはヘンドリックスのように自分が演奏していたギターを破壊した。ただし、火はつけなかった。

客席の警備をしながら僕が考えていたのは、リッチーが破壊したギターの破片でも良いから手に入らないか? というものだった。バイト仲間も同じことを考えていたが、リッチーが破壊したギターは小さなパーツまでまとめて回収され、係の人が持って行った。

僕は全てを把握した。あれは壊す用のギターで、おそらくリッチー専属のリペアマンが次の公演までに修理してはまた破壊するのだ。なるほどね。ブラックモアがヘンドリックスから影響を受けたことは本人も公言しているが、長生きで七十歳を過ぎた今も現役だ。彼はヘンドリックスの破壊行動を継承しつつも、それを伝統芸能のような形に変容させることで若くして死ぬような生き方を回避したのだ。

 


〈参考文献〉
ルース・ドフリース『食糧と人類――飢餓を克服した大増産の文明史』小川敏子訳、日経ビジネス人文庫、2021
ロビン・ダンバー『友達の数は何人?──ダンバー数とつながりの進化心理学』藤井留美訳、インターシフト、2011

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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