第6回 入院は家庭崩壊の危機(後編)

大学三年の二〇歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、十三年間の闘病生活を送った著者。その間、いろんな年代のいろんな家族の内実を、見聞きするつもりはなくても、たくさん見聞きしてきた。病室という、ある種、非日常な空間で、人がどんな本音を垣間見せるのか、人生がどんな別の顔を見せるのか、家族がどんなふうに激震に耐えるのか、その悲喜こもごもを書き綴る物語エッセイ。六人部屋という狭く濃密な空間で繰り広げられる多様な人間模様がここに。

「特別な人生には、ちがいないだろう」
「たしかにね、俺たち、普通の人生じゃないな、
と思うこともありますよ」

(『男たちの旅路  山田太一セレクション』里山社

病人はなぜ相談者に選ばれるのか?

そもそも病人というのは、人から相談をされやすい。これも意外な人が多いかもしれない。病気をしている人に相談するなんて、と普通なら思うだろう。しかし、実際にはそうでないのだ。

私は大学三年生で初めて入院したが、その後、友人たちは就職活動を開始した。私は医師から、もう就職は無理だと言われていた。

その私に対して、友人たちは、就職活動の相談をしにくるのだ。これにはびっくりした。就職できないと言われている病人の前では、就職活動の話題なんか出さないようにするのが当然だろう。それを「どうしたらいいと思う?」などと相談するとはどういうことなのか? あまりに残酷すぎないか。それに、こっちは就職活動をしたこともないのだから、相談されたって、アドバイスなんかできるはずもない。

しかし、友人どころか、たいして親しくなかった人までが、就職活動の相談にくるのだ。謎の現象だと思った。

当時、カフカの日記や手紙を読み始めていたが、カフカの親友にブロートという作家がいる。当時はブロートのほうが人気作家で、カフカは無名のサラリーマンだ。ブロートはモテて、女性関係でもいろいろなことがあった。その相談を、ブロートはカフカにするのだ。カフカは、恋愛経験がないわけではないが、手紙のやりとりをするだけで、直接会うのはものすごく嫌がるという、二次元でのみ女性とつきあいたく、三次元は無理という人だ。交際人数もとても少ない。そんな人に、生身の女性との、ごちゃごちゃもつれた関係について相談したって、いいアドバイスがもらえるはずがない。そんなことはブロートだって百も承知のはずだ。なのになぜブロートはカフカに相談するのか?

自分に対する就職活動相談とも重ね合わせて、不思議だった。

しかしその後も私は、さまざまなことを相談し続けられた。闘病のせいで、普通の人に比べて社会経験が極めて乏しいにも関わらず。

その理由がだんだんわかってきた。

ひとつには、病人というのは、とくに入院しているときには、お見舞いにいけば、必ずそこにいる。自宅療養中でも、自宅に行けば必ずいる。つまり、そこに行けば必ずいてくれる、お地蔵さんのような存在なのである。

二つ目の理由としては、重い病気をした人間は、もう人生のレースから脱落している。レース場にはいなくて、それを外から見ている観客にすぎない。人生のレースを競っている相手には、なかなか弱みは見せられないし、相談もできない。ある種、ライバルでもあるのだから。その点、もうレースをおりている相手になら、安心して、何でも言えて、相談できるのだ。

三つ目の理由としては、病人に秘密を話しても、他に漏れる心配が少ない。たとえば、会社の同僚なんかに相談をすると、その話が伝わってはまずいところまで伝わってしまうかもしれない。しかし、病人なら、なにしろ、社会生活ができていないから、病院の外まで漏れないんじゃないかというような意識がどこかにあるようだ。

山田太一脚本のテレビドラマ『ふぞろいの林檎たちIV』で、初老の愛子が重い病気で入院する。すると、いろんな人が相談に来るようになる。

陽子「みんな、おばさんのところへ来ると、心の中のこと、話したくなるのよ」

愛子「どうして?」

陽子「どうしてか、分らないけど」

(中略)

愛子「フフ、そうなのね」

陽子「え?」

愛子「どうして、なんて聞いて、鈍かったわ」

陽子「なにが?」

愛子「じきに死ぬ人間には、きっとしゃべりやすいのね」

陽子「そんな──」

愛子「こんなおばさんでも、いうことが重く聞えるのよ」

                            (『ふぞろいの林檎たちIV』マガジンハウス)

四つ目の理由としては、この最後のセリフにあるように、重い病気をした人間の言葉には重みが感じられるからだろう。

シオランもこう言っている。

 ただ怖ろしいものを経験してはじめて、わたしたちの言葉にはある種の厚みがそなわる

                            シオラン(『時間への失墜』金井裕訳 国文社)

もちろん、本当に重みのあることが言えるようになるわけではなく、聞くほうが勝手にそう感じるだけだ。

五つ目の理由としては、病人は弱いから、自分も弱みを見せやすいということがある。人は、相手が自分の弱さをさらけ出したときには、自分も弱さを告白できるようになるものだ。映画などでも、一方が「じつは私……」と弱音をはくと、相手も「オレだって本当は……」などと自分の弱さを打ち明けるというシーンがよくある。

六つ目の理由としては、病人は話をじっくり聞いてくれる。なにしろ、ベッドに寝ていて、落ち着いた状態でいる。仕事で忙しいとか、今から出かけるところとか、そういうことは少ない。そして、病人は暇なものだと、一般的には思われている。

実際には、暇というのとはちがうが、たしかに、人の人生の話を聞くのが好きなところはあるかもしれない。少なくとも私の場合はそうだ。自分の人生が空白だから、人の人生の話を聞きたくなる。聞きすぎて、相手をびっくりさせてしまうくらいだ。

自分の話をじっくり聞いてもらうことは、それだけでずいぶん救いになるようだ。カフカにこういうエピソードがある。カフカと同じ療養所に入っていた心気症の青年が、感激して人に語った。「あの人はちゃんと聞いてくれたんです。病気の生活がどんなものかを。ぼくの生涯で、あれほどちゃんと話を聞いてくれた人はいなかった。ぼくの苦しみをあれほど理解してくれた人は誰もいなかった」

ブロートがカフカに相談したのも、カフカならじっくり話を聞いてくれるということもあっただろう。

七つ目の理由としては、相談する人の多くは、そもそもアドバイスは求めていないようだ。もちろん、必死でアドバイスを求めているときもあるだろうが、人生相談のような場合、むしろアドバイスはよけいで、それこそ聞いてもらうだけのほうがいいようだ。

私がなるほどとしみじみ思ったのは、『愛すれど心さびしく』という映画を見たときだ。主人公は耳が聞こえず、話すこともできない。でも、読唇によって相手の話していることはわかる。その彼に、町中のみんなが自分の胸の内を打ち明ける。彼に何を話しても、秘密が漏れることはない。よけいな口をはさまれることもない。いらざる忠告をされることもない。ただ、黙って聞いてくれる。聞いてもらうことで、みんな気持ちが救われる。

これこそ、みんなが求めている究極の聞き手なのだろう。ろくに社会経験がなくてアドバイスができない病人は、かなりそれに近いのだ。

なお、この映画の主人公は、ある日突然、自殺してしまう。そのとき、町のみんなはようやく気づく。自分の気持ちを彼に聞いてもらっていたけど、彼の気持ちを誰も聞いてあげていなかったことに。

(ちなみに、この映画の原作は、カーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』で、二〇二〇年に村上春樹の新訳が新潮社から出た)

夫、妻が、隠れて相談を

まだ他にも理由があるかもしれないが、ともかく、そんなこんなで、病人というのは、意外に相談されやすいのだ。

この夫婦の場合、夫のほうとは病人どうしだから、この七つの理由の多くはあてはまらないが、同じ五十代くらいだと、やはりかえって相談しにくかったのだろう。いっそ、夫婦関係について、何ひとつ偉そうなことは言えない若僧のほうが、話しやすかったのだろう。

そして、たんなる若僧ではなく、難病患者だ。明るく元気で希望に満ちた若者ではない。暗く元気がなく絶望に満ちている。だから、相談することに抵抗がなかったのだろう。

夫のほうとは病室で、妻のほうとは、病院の廊下の椅子とか、夫のいないところで、何度も話をした。

もっぱら聞き役だったが、妻のほうは、だんだんと離婚を考えるようになっていた。もう子ども大きくなったし、もともと不満があったのであれば、別れたほうがいいのではないか。そんなふうに考えるようになっていた。そう考えてしまうのは、夫に対する愛情があるからこそで、そのまま見過ごせない気がした。

それで、お互いが知らずにいることを伝えてみることにした。私だけが知っていて、夫婦がお互いに知らないままで、それでもし本当に離婚になったら、それはどうなのかと思ったから。

妻のほうには、病人というのがいかに気持ちの持って行き場がなく、つい妻にあたってしまう人が多いかということをまず説明した。他の夫もそういうふうになるということに、妻は気がついておらず、少し驚いていた。一般的なことだとわかって、少しほっとしたようだった。

そのうえで、夫が怒った後で深くうなだれて後悔していることを伝えた。これは妻にとっては、そうとう意外だったようだ。とても驚いていた。自分がいないときに、夫がそういうふうだったとは。

あらためて泣いていたが、安堵の涙のように感じられた。

夫のほうには、妻の気持ちを伝えたものか迷った。「三人もお子さんがいらしたら、再婚のときは、とにかくお子さんのことが優先だったんでしょうね?」などとさぐりを入れてみて、そうではなさそうだったので、「奥さんはそんなふうに思っておられるみたいですよ。そういうもともとの不満があるから、今、いろいろ怒られているんだと、気にしておられますよ」と伝えた。夫はかなり意外そうだった。もう長く夫婦をやっているのに、妻がそんなことをずっと思っていたとは、まったく気づいていなかったようだ。

それぞれがお礼を

その後、夫婦は二人で話し合ったようだった。

そして、まるで新婚さんのように仲むつまじくなった。

そこまでうまくいくとは思わず、私は驚いた。

ようやく退院というとき、二人はそれぞれ、妻は夫に隠れて、夫は妻に隠れて、そっと私にお礼をくれた。

本当にありがとうと妻は私の手を強く握った。

夫婦関係に口を出すなんて初めてだったから、いい結果になって、私はほっとした。

妻は高そうなチョコレートの詰め合わせをくれた。嬉しかったが、そのときの私には食べられないものだった。

夫のほうは、さすがに病人だから、入院中に役立つものをくれた。ただ、それが何だったかは覚えていない。

役に立った贈り物を忘れて、食べられなかった贈り物をおぼえているのだから不思議だ。

あなたは変わってしまった

そんなふうにして、何組もの夫婦の離婚をとめた。

しかし、それらは、とめられる離婚だったからとめられたのだ。

そうでなければ、とめようがない。

たとえば、夫が病気になったことで、妻が愛想をつかす場合がある。もちろん、そうとはっきりは言わない。病気になったから見捨てるというのでは、外聞もよくないし、自分自身でも気がとがめてしまう。

だから、そういう場合はたいてい、「あなたは病気になってから、変わってしまった」という手が用いられる。性格が変わってしまったから、性格の不一致で別れるというわけだ。これなら、病気のせいで見捨てるわけではないから、人にも堂々と説明できるし、気もとがめない。

そして、こう言われると、夫のほうは反論がしづらい。病気になって苦しいときに、まったく前と変わらない人というのは、まずいない。だから、「変わった」と言われれば、「そんてことはない」とは言えない。そして、今のあなたは嫌だと言われれば、それもまたどうしようもない。

こういうのは、なかなか卑怯な手だと思うし、夫のほうが哀れだと思うけれども、妻のほうが心変わりしているのだから、とめようがない。

家族は話し合えばいいわけではない

とめられる離婚というのは、お互いの気持ちが相手にちゃんと伝わっていなくて、それを私が伝える手助けができる場合だ。

そういうふうに書くと、やはり夫婦はコミュニケーションが大切というふうに思うかもしれない。何事もちゃんと話し合うことが大切と思うかもしれない。

しかし、じつは私はそうは思わない。

人間関係でもめているとき、「ちゃんと話し合うことが大切」ということがよく言われる。また、「話し合ってもダメなら、別れるしかない」というふうに言う人もいる。

しかしそれは、私はちがうと思っている。話し合いというものに期待しすぎだと思う。

話し合うほうが、かえってこじれてしまうことある。そして、話し合ってダメでも、別れるわけにはいかないこともあるし、別れる必要がないこともある。

向田邦子のテレビドラマ『あ・うん』に、こういうセリフがある。

仙吉「あれ、何てったかな。将棋の駒、グシャグシャに積んどいて、こう、ひっぱってとるやつ」

仙吉「一枚、こう、とると、ザザザザッと崩れるんだなあ」

仙吉「おかしな形は、おかしな形なりに、均衡があって、それがみんなにとってしあわせな形ということも──あるんじゃないかな」

                            (『向田邦子シナリオ集Ⅰ あ・うん』岩波現代文庫)

人間関係には、こういうところがあるのではないだろうか。

ちゃんと話し合うというのは、グシャグシャなままになっている状態から、きちんと積み直そうとすることで、そうすると、かえって崩れてしまうこともある。

おかしな形でも、おかしな形なりに、うまくいくということもある。

なんでも、きちんとしたほうがいいとは限らない。

父の思い、息子の気持ち

話し合うことで、かえってこじれた例としては、こういうことがあった。

父親が入院していて、息子が見舞いに来た。父親は五十代前後くらいで、息子はまだ高校生だった。

息子と父親は、以前からあまりうまくいっていなかったようだ。父親は挫折を知らないエリートで、息子のほうはあまり学校の成績が優秀ではないことが、二人の間のヒビとなっていた。

だが、父親は突然、病気になった。すぐには仕事に復帰はできないし、復帰しても以前のようには働けないだろう。もうかなり高い地位だったようだが、まだ出世できる見込みだったところが、病気のせいでダメになってしまった。八合目までたどり着いて、あともう少しが無理になるというのは、なんとも悔しいようだった。ライバルがいて、何事もなければ勝てるはずだったのに、こうなっては、もう負けは確定だった。出世競争で、いろんなピンチを想定してはいたが、仕事以外のことでこんな負け方をするとは、当人にとっても思いがけないことだった。

かなり気落ちしていた。お見舞いの人たちも、病気を見舞うというより、会社での敗北にお悔やみを言うような感じだった。

父親にとっては、初めての挫折である。

息子は、今の父親なら、自分の気持ちをわかってくれるのではないかと思ったようだ。自分は競争的な生き方をしたくない。一流の大学、一流の企業、そこでの出世、そういうことを目指したくない。以前なら、そんなことを話しても、とても耳を貸しそうにない父親だった。しかし、今なら、自分の生き方が正しかったとばかりは思えないだろうし、負けたものの気持ちもわかってくれるのではないか。一度ちゃんと話し合うべきと思いながらも、ずっと避けていたが、今こそ話し合うべきときなのではないか。

息子の考えも、もっともだし、きちんと話し合おうとしたのは立派なことだと思う。

私も、聞いていて、父親と息子の和解という感動的なシーンが見られるのではないかと思った。

しかし、そうはならなかった。父親は、これまで以上に、怒った。なさけないと、心から嘆いた。父親にしてみれば、自分が敗北したからこそ、息子にはなおさら頑張ってほしかった。それなのに、こちらが落ち込んでいるのを見て、すかさず、自分の気持ちをわかってほしいなどと言いに来る。なんて、なさけない奴なのか。自分の父親がこんな目にあったのが悔しくないのか。敗者どうしの仲間意識のようなものを持つなんて、なんて負け犬根性なのか。こんなときだからこそ、自分が心を入れ替えて頑張ると、なぜ言えないのか。

父親の言い分も、父親の側に立てば、わからなくはない。

双方の言い分が、それぞれにもっともなのに、話し合うほど、お互いを理解するほどに、よけいにこじれてしまった。

その後、息子はもう見舞いには来なかった。

 理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を生むからだ。

                            種田山頭火『砕けた瓦(或る男の手帳から)』青空文庫

という、家族について書かれた山頭火の言葉が思い出された。

お金がからむと解決は難しい

夫婦のもめごとでも、こういうのがあった。

夫が病気になって、今後の収入に不安が生じた。もう前のようには働けない。五十代前後くらいだったが、これまでの蓄えだけで今後ずっと生きていくのも無理がある。

それで将来をどうするかを、夫婦で話し合っていた。

夫のほうが、こういう提案をした。夫の両親の介護を引き受けないかというのだ。夫の両親は、それなりの財産を持っているようだった。きょうだいが何人かいるのだが、それぞれに忙しく、今後の介護を誰も引き受けようとしない。引き受ければ、その者が財産を受け継ぎ、他の者は放棄することになっていた。

しかし、妻がこれに大いに反発した。夫も病身になって、その面倒も見なければならない。それに加えて、義父義母の介護までとなると、どうせ自分がすべてやることになるのだし、たまったものではないと。あなたはこれまで、自分の仕事のことばかりに熱中していた。家庭はかえりみなかった。そのことはいい。そういう人だとわかっていて、これまで文句も言わずやってきた。今さら文句を言うつもりはない。ずっと支えていくつもりだった。しかし、その仕事が無理になったからといって、突然、介護ということになるのは、納得できない。そういうことではなかったはずだ。

ここでもまた双方の言い分は、それぞれにもっともなのだが、お金がからんでいるだけに、なおさら難しい。

話し合いは延々と続いていたが、解決にはたどり着かなかった。

六人部屋では家族の秘密を隠せない

前にも書いたように、六人部屋では、他の五人に対して、自分の家庭の事情を隠すのは難しい。

談話室のようなところはあるが、そこだって人目はあるし、移動が難しい場合は、どんな相談も、ベッドでやるしかない。小さな声で会話をしていても、どうしても聞こえてしまう。

まして、深刻な問題となると、話の内容に夢中になるから、他の人に聞かさないようにという配慮を忘れてしまう。もめてくると、なおさら声も大きくなってくる。

ケンカともなると、これからケンカをしようと思ってやるわけではなく、カッとして起きるわけだから、なおさら病室でということも多い。

二十歳でさまざまな家庭の崩壊の危機を目に耳にしたのは、今となってみると、なかなかできない体験だったかもしれない。独身だった私にはおそろしいことだったが。

何組かの離婚をとめることができたのは、私にとっても大きな救いだった。

(この項了)

 

 

文学紹介者。筑波大学卒業。大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。その後、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言1・2』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『食べることと出すこと』(医学書院)、『自分疲れ』(創元社)などを刊行。

第5回 入院は家庭崩壊の危機(前編)

大学三年の二〇歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、十三年間の闘病生活を送った著者。その間、いろんな年代のいろんな家族の内実を、見聞きするつもりはなくても、たくさん見聞きしてきた。病室という、ある種、非日常な空間で、人がどんな本音を垣間見せるのか、人生がどんな別の顔を見せるのか、家族がどんなふうに激震に耐えるのか、その悲喜こもごもを書き綴る物語エッセイ。六人部屋という狭く濃密な空間で繰り広げられる多様な人間模様がここに。

「特別な人生には、ちがいないだろう」
「たしかにね、俺たち、普通の人生じゃないな、
と思うこともありますよ」

(『男たちの旅路  山田太一セレクション』里山社

六人部屋ならではの離婚模様

六人部屋に入院している間に、何組もの夫婦の離婚をとめた。

二十代の男には珍しいのではないだろうか。

相手はいずれもかなり年上だった。五十代から四十代くらい。子どものある夫婦も多かった。

普通なら、長年連れ添った夫婦の離婚問題に、未婚の二十代の男が口の出しようもない。むこうも相手にしないだろう。

こういうことが起きるのもまた、病院の六人部屋ならではだ。

ヒビの入った家庭に激震が走る

私は男性だから、私が見てきたのは主に、父親や夫が入院した場合だ。

父親や夫が、突然、病気になって入院する。しかも、すぐには退院できない。あるいは、もう元通りというわけにはいかないかもしれない。

そうなると、その一家にとってはかなりの衝撃だ。

自分の家庭にだけ、突然、大地震が起きるようなものだ。

被害の程度は、同じ揺れでも、家庭によってちがう。

揺れる前から、どの程度のヒビが入っていたかによる。

そもそも、まったく何の問題のない家庭というのは、まずない。もともと何かしら問題は抱えている。どこかにちょっとしたヒビくらいは入っている。

それでも、何事もなければ、それくらいのことでは、特に問題なくずっとやっていけたかもしれない。

しかし、家庭に激震が走ったことで、そのヒビが大きくなってしまう。

ずっと抱いていた疑念

たとえば、私が最初に離婚をとめた夫婦の場合には、夫のほうが再婚で、前の妻との子どもが三人もいた。

といっても、なさぬ仲でもめていたということではない。妻はとても好人物で、子どもたちをかわいがり、子どもたちからも慕われているようだった。自分たちの子どもはできなかったようで(あるいはつくらないようにしたのかもしれない)、前妻の子と自分の子を差別するようなことも起きようがない。

夫は、三十代後半くらいのときに、最初の妻に病気で先立たれ、三人の子どもを抱え、仕事もあるし、とても困っていたようだ。

そして再婚したのが、今の妻なのだ。妻のほうは初婚であったが、子ども好きで面倒見もよく、専業主婦となって家庭を支えた。他人の子どもを三人も育てるのは大変だっただろうが、そういう愚痴を言うような人ではないし、そういう人生を選んだことを後悔してもいなかった。

そういう女性は、さがしてもなかなかいないだろう。じつにやさしそうな善良そうな人だった。なるほど、こういう人なら、三人の連れ子のいる相手とでも素敵な家庭を築けるだろう、と納得させられるものがあった。

ところが、じつはそのことが、妻のほうの悩みだったのだ。

自分が気の好い人間に見られることは、自覚があった。そして、容姿にはあまり自信がない。人柄のよさがにじみ出ていて、誰からも好かれるタイプではあったが、女性としてモテるタイプではなかった。

夫のほうは、三人の子どもを抱えて困っていたし、そういう条件では、結婚できる相手も限られてくる。普通に、好きだから結婚するというのとはちがってくる。子どものこととか、いろんなことを考えて、相手を選ぶことになる。

その結果、自分が選ばれたのだろう。そういうふうに、妻のほうはずっと気になっていたのだ。つまり、三人の子どもの世話を見てくれる人が欲しくて、それにうってつけに思えたので、夫は自分と結婚したのではないか。そこには恋愛感情はあまりなかったのではないか。もし自由に相手を選べたとしたら、自分のことは選ばなかったのではないか。そのことが、心のどこかで、ひっかかりになっていたのだ。

しかし、夫に聞くことはできない。否定されても、本心かどうかわからないし、肯定されたら、どうしていいかわからない。

それでも、ずっとうまくいっていたのだ。入院したとき、夫のほうは五十代半ばくらいで、妻のほうは多分、四十代後半くらいだったと思う。つまり、二十年近く、うまくやってきたのだ。

そんなに長く家族をやっていれば、もう盤石なのではないかと、二十代の私は思ったが、そうもいかないようだった。

ヒビはいつまでもヒビとして残っていて、入院という激震で、そこからどんどん亀裂が入ってしまった。

イライラと怒り

そもそも病室では家族とケンカをしやすい。

息子や娘とのケンカもあったが、いちばん多いのは妻とのケンカだ。というか、妻とまったくケンカをしなかった人は、数人しか目にしていない。ほとんどの人は妻とケンカをする。それも激しく。

入院中の患者は、医師や看護師に対しては、とても気を遣っている。なにしろ、命を握られているから。内心は怒っていたとしても、とてもにこやかに感じよく接している。

最近はモンスター患者の話も耳にするが、外来ではともかく、入院中は私は出会ったことがない。看護師の言うことを聞かないくらいの人はいるが、医師や看護師に思い切り怒りをぶつける人は、いなかった。そうしてやりたいと願っている人はいたが……。

六人部屋の他の五人とケンカをするわけにもいかない。長期間に渡って、二十四時間ずっといっしょにいなければならないのだ。怒って出ていくわけにもいかないし、「出て行け!」と相手に言うわけにもいかない。もめたら、もめた相手とそのままずっと同じ部屋で寝食を共にしなければならないのだ。これは気まずい。だから、極力、もめないようにする。それでも、ケンカはたまにあったが、よくよくのことだ。

しかし、入院中に、本当に機嫌のいい人はいない。なにしろ、人生の大ピンチだ。そして悩みが続出する。病気のことはもちろん、それにともなって、仕事のこと、お金のこと、将来のこと……さまざま難題がふりかかる。さらに、なにしろ体調がよくないのだから、それだけでもイライラする。「どうしてオレだけがこんな目に……」というような理不尽さへの怒りもある。

 世の中でいちばん善良な顔をしてバスの後ろの座席で身をすくめていても、お母さん、握りこぶしでガラス窓をたたき割りたかったのです。

                            ハン・ガン(「私の女の実」/『ひきこもり図書館』斎藤真理子訳 毎日新聞出版)

この文を読んだとき、六人部屋を思い出した。

普通に生きている人でも、こうしたどうしようもない思いにとらわれることがある。病室ではなおさらだ。

病院にお見舞いに行ったことのある人は、病室にいる人たちが意外に明るいことに、少し驚くのではないだろうか。みんな暗く落ち込んでいるかと思ったら、案外に平気そうで、にこにこしていく。

でも、内心は、やり場のない、いらだちや怒りに満ちている場合もある。それを晴らすことが難しい。いわゆるストレス解消とか気晴らしとか、そういうこともできない。どこかに出かけるわけにはいかないし、趣味とかも、病室では無理なものが多い。

毎日毎日、医師や看護師や病室の人たちに気を遣い、病気の心配と、それにともなうさまざまな心配をして、将来への不安や痛みなどにも耐え、ストレスを発散できるようなことは何もなく、ただただ黒い感情がたまっていく。

これはどうしたって、いつか爆発しないではいられない。ぐっとフタをおさえられたまま、火にかけられた鍋だ。

夫の気持ち、妻の言い分

その相手が、妻になってしまいやすいのだ。

もちろん、妻にぶつけようと思って、やっているわけではない。いちばん本音で接することができる相手だから、話しているうちに、つい抑えていた感情まで吹き出してしまう。

いったん吹き出してしまうと、とめるのが難しい。さんざん振った缶ビールをプルトップをちょっとあけてしまったようなもので、吹き出すのはちょっとではすまない。一気に出てきて、とめようがない。

きっかけは、くだらないことであることが多い。怒ろうと思って怒っているわけではないのだから。頼んでいたものを持って来なかったとか、「その言い方はなんだ」とか、ベッドに寝たきりの場合には、ティッシュの取り方がよくなかったというようなことでも、大声で怒鳴ってしまうことがある。自分では何もできないだけに、いちばん身近な人が、ひどく気がきかないことをすると、とてもイライラしてしまうのだ。

怒りをぶつけられた妻のほうは、びっくりする。何もそんなに怒らなくてもと思う。病気でイライラしているのはわかるし、八つ当たりしたくなる気持ちもわかる。だから、ある程度は、耐えようと努力するが、たび重なると、耐え難くなってくる。こっちだって大変なのに、それがわかっていないと思う。自分ばかりつらがって、八つ当たりして、それはない、と思う。

だいたい、病人の面倒を見ている家族は、病人よりも自分たちのほうが大変だと思っている。家族どうしが談話室などで、よくそういう話をしている。

「あの人は寝てるだけだけど、こっちは家のこともやって、子どもの面倒も見て、それで病院にも通っているんだから、もうへとへとなのに」

「そうなのよね。そういうこと、ぜんぜんわかってないんだから」

妻どうしが、共感し合って、自分たちの大変さ、むくわれなさを嘆いているというのも、病院でとてもよくある風景だ。

妻のほうとしては、「いろいろすまない。よくやってくれて、とても感謝しているよ」というような、ねぎらいの言葉をかけてほしいくらいなのだ。それが、何をやってあげても当然のような顔をして、ちょっと何か気に入らないことがあると、すぐに不機嫌になって、怒ったりする。冗談じゃない、という妻の側の言い分も、またもっともなことだ。

夫も、妻も、自分の大変さで手一杯で、相手の気持ちは理解できていないことが多い。

なぜこんなに怒られるのだろうという疑問

私が最初に離婚をとめた夫婦でも、これが起きた。

つまり、夫がちょっとしたことで妻を怒るようになっていった。

夫のほうは、もともとやさしい感じの人で、おだやかそうだった。三人の子どもの面倒を見てもらっているという思いもあってか、妻にあまり声を荒げたこともなかったようだ。

それが、ちょっとしたことで怒るようになった。さらに怒鳴るようにさえなっていった。妻のほうは、驚き戸惑いながら、ただ我慢していた。

妻は身体が丈夫な人のようで、あまり病人の気持ちがわからず、たしかに、ちょっと行き届かないというか、気のきかないところがあった。といっても、怒られるほどのことでは、もちろんない。なぜこんなに怒られるのだろうという疑問が、どんどんたまっていった。

そこで、もともとひっかかっていた疑念が、あらためて頭をもたげてきてしまったのだ。夫が自分を選んだのは、三人の子どもの世話を見てくれる人としてであって、自分の妻としては、もともと不満だったのではないか。それを表に出さないようにしていたのが、病気をしたことで、つい本音が出てきてしまっているのではないか。病気をして、自分の人生を振り返ってみたとき、こんな女と結婚したことを後悔し、悔しく思っているのではないか。

いったんそういうふうに思ってしまうと、夫の言動の端々がそれを裏付けているように思えてくる。自分を見るときの、いまいましそうな目つき。世話をされてもまったく嬉しそうではなく、ふれた手をふり払われたりする。

夫が怒っている間も、ずっとベッドのそばのパイプ椅子に座って、ただ黙って耐えていたが、だんだん病室ではなく、ぜんぜん関係ないところで妻の姿を見かけることが多くなっていった。

あまり人のいない廊下の椅子にぽつんと座って、静かに泣いていたりする姿を何度か見かけた。病院には来るものの、夫のそばにいるのがつらくて、別のところでいろいろ考え事をしていたのだろう。

怒っては後悔する夫

じつは、夫のほうは、妻に怒ったり怒鳴ったりした後、いつも落ち込んでいた。ベッドに座って、がっくりとうなだされて、「また怒ってしまった……」と深く反省していた。

次こそは怒らないようにしようと、自分に誓うのだが、またやってしまって、また落ち込むのだ。これを毎回、くり返していた。

じつは、これは彼だけのことではない。たいていの夫がそうだった。夫も、他にぶつけどころがなくて、つい妻に対して怒ってしまうだけで、妻に本当に不満があるわけではない。怒ってしまった後は、ああ、またやってしまったと反省する人が大半だった。

もちろん、反省すればいいというものではないし、反省が次に生かされないのだから、意味がないと思う人もいるだろう。

しかし、ともかく、反省はしているし、その姿はどの妻もまったく知らない。

知っているのは、同室の他の五人だけである。

私は若くて、まだ妻もいなかったから、そういうものなんだなあと、興味深く見ていた。

なぜか未婚者が相談相手に

その頃から、この夫婦の双方から、それぞれに相談を受けるようになった。

これを不思議に思う人も多いだろう。五十代と四十代の夫婦が、自分たちの夫婦関係について、なぜ二十代の若僧に相談するのかと。

これは私もすごく不思議だった。

私はこの夫婦の向かいのベッドで、いちばん二人の様子をよく見ていた。とはいえ、他の四人の患者はすべて五十代くらいだったから、相談するなら、そういう人生経験があって、同じように妻子のいる人たちのほうがいいに決まっている。

パソコンの操作がわからないときに、パソコンを使ったこともない人間に聞いても仕方ない。にもかかわらず、他の人たちには相談せず、未婚の私にだけ相談してくるのだ。

(この項続く)

 

文学紹介者。筑波大学卒業。大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。その後、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言1・2』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『食べることと出すこと』(医学書院)、『自分疲れ』(創元社)などを刊行。