第5回 入院は家庭崩壊の危機(前編)

大学三年の二〇歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、十三年間の闘病生活を送った著者。その間、いろんな年代のいろんな家族の内実を、見聞きするつもりはなくても、たくさん見聞きしてきた。病室という、ある種、非日常な空間で、人がどんな本音を垣間見せるのか、人生がどんな別の顔を見せるのか、家族がどんなふうに激震に耐えるのか、その悲喜こもごもを書き綴る物語エッセイ。六人部屋という狭く濃密な空間で繰り広げられる多様な人間模様がここに。

「特別な人生には、ちがいないだろう」
「たしかにね、俺たち、普通の人生じゃないな、
と思うこともありますよ」

(『男たちの旅路  山田太一セレクション』里山社

六人部屋ならではの離婚模様

六人部屋に入院している間に、何組もの夫婦の離婚をとめた。

二十代の男には珍しいのではないだろうか。

相手はいずれもかなり年上だった。五十代から四十代くらい。子どものある夫婦も多かった。

普通なら、長年連れ添った夫婦の離婚問題に、未婚の二十代の男が口の出しようもない。むこうも相手にしないだろう。

こういうことが起きるのもまた、病院の六人部屋ならではだ。

ヒビの入った家庭に激震が走る

私は男性だから、私が見てきたのは主に、父親や夫が入院した場合だ。

父親や夫が、突然、病気になって入院する。しかも、すぐには退院できない。あるいは、もう元通りというわけにはいかないかもしれない。

そうなると、その一家にとってはかなりの衝撃だ。

自分の家庭にだけ、突然、大地震が起きるようなものだ。

被害の程度は、同じ揺れでも、家庭によってちがう。

揺れる前から、どの程度のヒビが入っていたかによる。

そもそも、まったく何の問題のない家庭というのは、まずない。もともと何かしら問題は抱えている。どこかにちょっとしたヒビくらいは入っている。

それでも、何事もなければ、それくらいのことでは、特に問題なくずっとやっていけたかもしれない。

しかし、家庭に激震が走ったことで、そのヒビが大きくなってしまう。

ずっと抱いていた疑念

たとえば、私が最初に離婚をとめた夫婦の場合には、夫のほうが再婚で、前の妻との子どもが三人もいた。

といっても、なさぬ仲でもめていたということではない。妻はとても好人物で、子どもたちをかわいがり、子どもたちからも慕われているようだった。自分たちの子どもはできなかったようで(あるいはつくらないようにしたのかもしれない)、前妻の子と自分の子を差別するようなことも起きようがない。

夫は、三十代後半くらいのときに、最初の妻に病気で先立たれ、三人の子どもを抱え、仕事もあるし、とても困っていたようだ。

そして再婚したのが、今の妻なのだ。妻のほうは初婚であったが、子ども好きで面倒見もよく、専業主婦となって家庭を支えた。他人の子どもを三人も育てるのは大変だっただろうが、そういう愚痴を言うような人ではないし、そういう人生を選んだことを後悔してもいなかった。

そういう女性は、さがしてもなかなかいないだろう。じつにやさしそうな善良そうな人だった。なるほど、こういう人なら、三人の連れ子のいる相手とでも素敵な家庭を築けるだろう、と納得させられるものがあった。

ところが、じつはそのことが、妻のほうの悩みだったのだ。

自分が気の好い人間に見られることは、自覚があった。そして、容姿にはあまり自信がない。人柄のよさがにじみ出ていて、誰からも好かれるタイプではあったが、女性としてモテるタイプではなかった。

夫のほうは、三人の子どもを抱えて困っていたし、そういう条件では、結婚できる相手も限られてくる。普通に、好きだから結婚するというのとはちがってくる。子どものこととか、いろんなことを考えて、相手を選ぶことになる。

その結果、自分が選ばれたのだろう。そういうふうに、妻のほうはずっと気になっていたのだ。つまり、三人の子どもの世話を見てくれる人が欲しくて、それにうってつけに思えたので、夫は自分と結婚したのではないか。そこには恋愛感情はあまりなかったのではないか。もし自由に相手を選べたとしたら、自分のことは選ばなかったのではないか。そのことが、心のどこかで、ひっかかりになっていたのだ。

しかし、夫に聞くことはできない。否定されても、本心かどうかわからないし、肯定されたら、どうしていいかわからない。

それでも、ずっとうまくいっていたのだ。入院したとき、夫のほうは五十代半ばくらいで、妻のほうは多分、四十代後半くらいだったと思う。つまり、二十年近く、うまくやってきたのだ。

そんなに長く家族をやっていれば、もう盤石なのではないかと、二十代の私は思ったが、そうもいかないようだった。

ヒビはいつまでもヒビとして残っていて、入院という激震で、そこからどんどん亀裂が入ってしまった。

イライラと怒り

そもそも病室では家族とケンカをしやすい。

息子や娘とのケンカもあったが、いちばん多いのは妻とのケンカだ。というか、妻とまったくケンカをしなかった人は、数人しか目にしていない。ほとんどの人は妻とケンカをする。それも激しく。

入院中の患者は、医師や看護師に対しては、とても気を遣っている。なにしろ、命を握られているから。内心は怒っていたとしても、とてもにこやかに感じよく接している。

最近はモンスター患者の話も耳にするが、外来ではともかく、入院中は私は出会ったことがない。看護師の言うことを聞かないくらいの人はいるが、医師や看護師に思い切り怒りをぶつける人は、いなかった。そうしてやりたいと願っている人はいたが……。

六人部屋の他の五人とケンカをするわけにもいかない。長期間に渡って、二十四時間ずっといっしょにいなければならないのだ。怒って出ていくわけにもいかないし、「出て行け!」と相手に言うわけにもいかない。もめたら、もめた相手とそのままずっと同じ部屋で寝食を共にしなければならないのだ。これは気まずい。だから、極力、もめないようにする。それでも、ケンカはたまにあったが、よくよくのことだ。

しかし、入院中に、本当に機嫌のいい人はいない。なにしろ、人生の大ピンチだ。そして悩みが続出する。病気のことはもちろん、それにともなって、仕事のこと、お金のこと、将来のこと……さまざま難題がふりかかる。さらに、なにしろ体調がよくないのだから、それだけでもイライラする。「どうしてオレだけがこんな目に……」というような理不尽さへの怒りもある。

 世の中でいちばん善良な顔をしてバスの後ろの座席で身をすくめていても、お母さん、握りこぶしでガラス窓をたたき割りたかったのです。

                            ハン・ガン(「私の女の実」/『ひきこもり図書館』斎藤真理子訳 毎日新聞出版)

この文を読んだとき、六人部屋を思い出した。

普通に生きている人でも、こうしたどうしようもない思いにとらわれることがある。病室ではなおさらだ。

病院にお見舞いに行ったことのある人は、病室にいる人たちが意外に明るいことに、少し驚くのではないだろうか。みんな暗く落ち込んでいるかと思ったら、案外に平気そうで、にこにこしていく。

でも、内心は、やり場のない、いらだちや怒りに満ちている場合もある。それを晴らすことが難しい。いわゆるストレス解消とか気晴らしとか、そういうこともできない。どこかに出かけるわけにはいかないし、趣味とかも、病室では無理なものが多い。

毎日毎日、医師や看護師や病室の人たちに気を遣い、病気の心配と、それにともなうさまざまな心配をして、将来への不安や痛みなどにも耐え、ストレスを発散できるようなことは何もなく、ただただ黒い感情がたまっていく。

これはどうしたって、いつか爆発しないではいられない。ぐっとフタをおさえられたまま、火にかけられた鍋だ。

夫の気持ち、妻の言い分

その相手が、妻になってしまいやすいのだ。

もちろん、妻にぶつけようと思って、やっているわけではない。いちばん本音で接することができる相手だから、話しているうちに、つい抑えていた感情まで吹き出してしまう。

いったん吹き出してしまうと、とめるのが難しい。さんざん振った缶ビールをプルトップをちょっとあけてしまったようなもので、吹き出すのはちょっとではすまない。一気に出てきて、とめようがない。

きっかけは、くだらないことであることが多い。怒ろうと思って怒っているわけではないのだから。頼んでいたものを持って来なかったとか、「その言い方はなんだ」とか、ベッドに寝たきりの場合には、ティッシュの取り方がよくなかったというようなことでも、大声で怒鳴ってしまうことがある。自分では何もできないだけに、いちばん身近な人が、ひどく気がきかないことをすると、とてもイライラしてしまうのだ。

怒りをぶつけられた妻のほうは、びっくりする。何もそんなに怒らなくてもと思う。病気でイライラしているのはわかるし、八つ当たりしたくなる気持ちもわかる。だから、ある程度は、耐えようと努力するが、たび重なると、耐え難くなってくる。こっちだって大変なのに、それがわかっていないと思う。自分ばかりつらがって、八つ当たりして、それはない、と思う。

だいたい、病人の面倒を見ている家族は、病人よりも自分たちのほうが大変だと思っている。家族どうしが談話室などで、よくそういう話をしている。

「あの人は寝てるだけだけど、こっちは家のこともやって、子どもの面倒も見て、それで病院にも通っているんだから、もうへとへとなのに」

「そうなのよね。そういうこと、ぜんぜんわかってないんだから」

妻どうしが、共感し合って、自分たちの大変さ、むくわれなさを嘆いているというのも、病院でとてもよくある風景だ。

妻のほうとしては、「いろいろすまない。よくやってくれて、とても感謝しているよ」というような、ねぎらいの言葉をかけてほしいくらいなのだ。それが、何をやってあげても当然のような顔をして、ちょっと何か気に入らないことがあると、すぐに不機嫌になって、怒ったりする。冗談じゃない、という妻の側の言い分も、またもっともなことだ。

夫も、妻も、自分の大変さで手一杯で、相手の気持ちは理解できていないことが多い。

なぜこんなに怒られるのだろうという疑問

私が最初に離婚をとめた夫婦でも、これが起きた。

つまり、夫がちょっとしたことで妻を怒るようになっていった。

夫のほうは、もともとやさしい感じの人で、おだやかそうだった。三人の子どもの面倒を見てもらっているという思いもあってか、妻にあまり声を荒げたこともなかったようだ。

それが、ちょっとしたことで怒るようになった。さらに怒鳴るようにさえなっていった。妻のほうは、驚き戸惑いながら、ただ我慢していた。

妻は身体が丈夫な人のようで、あまり病人の気持ちがわからず、たしかに、ちょっと行き届かないというか、気のきかないところがあった。といっても、怒られるほどのことでは、もちろんない。なぜこんなに怒られるのだろうという疑問が、どんどんたまっていった。

そこで、もともとひっかかっていた疑念が、あらためて頭をもたげてきてしまったのだ。夫が自分を選んだのは、三人の子どもの世話を見てくれる人としてであって、自分の妻としては、もともと不満だったのではないか。それを表に出さないようにしていたのが、病気をしたことで、つい本音が出てきてしまっているのではないか。病気をして、自分の人生を振り返ってみたとき、こんな女と結婚したことを後悔し、悔しく思っているのではないか。

いったんそういうふうに思ってしまうと、夫の言動の端々がそれを裏付けているように思えてくる。自分を見るときの、いまいましそうな目つき。世話をされてもまったく嬉しそうではなく、ふれた手をふり払われたりする。

夫が怒っている間も、ずっとベッドのそばのパイプ椅子に座って、ただ黙って耐えていたが、だんだん病室ではなく、ぜんぜん関係ないところで妻の姿を見かけることが多くなっていった。

あまり人のいない廊下の椅子にぽつんと座って、静かに泣いていたりする姿を何度か見かけた。病院には来るものの、夫のそばにいるのがつらくて、別のところでいろいろ考え事をしていたのだろう。

怒っては後悔する夫

じつは、夫のほうは、妻に怒ったり怒鳴ったりした後、いつも落ち込んでいた。ベッドに座って、がっくりとうなだされて、「また怒ってしまった……」と深く反省していた。

次こそは怒らないようにしようと、自分に誓うのだが、またやってしまって、また落ち込むのだ。これを毎回、くり返していた。

じつは、これは彼だけのことではない。たいていの夫がそうだった。夫も、他にぶつけどころがなくて、つい妻に対して怒ってしまうだけで、妻に本当に不満があるわけではない。怒ってしまった後は、ああ、またやってしまったと反省する人が大半だった。

もちろん、反省すればいいというものではないし、反省が次に生かされないのだから、意味がないと思う人もいるだろう。

しかし、ともかく、反省はしているし、その姿はどの妻もまったく知らない。

知っているのは、同室の他の五人だけである。

私は若くて、まだ妻もいなかったから、そういうものなんだなあと、興味深く見ていた。

なぜか未婚者が相談相手に

その頃から、この夫婦の双方から、それぞれに相談を受けるようになった。

これを不思議に思う人も多いだろう。五十代と四十代の夫婦が、自分たちの夫婦関係について、なぜ二十代の若僧に相談するのかと。

これは私もすごく不思議だった。

私はこの夫婦の向かいのベッドで、いちばん二人の様子をよく見ていた。とはいえ、他の四人の患者はすべて五十代くらいだったから、相談するなら、そういう人生経験があって、同じように妻子のいる人たちのほうがいいに決まっている。

パソコンの操作がわからないときに、パソコンを使ったこともない人間に聞いても仕方ない。にもかかわらず、他の人たちには相談せず、未婚の私にだけ相談してくるのだ。

(この項続く)

 

文学紹介者。筑波大学卒業。大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。その後、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言1・2』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『食べることと出すこと』(医学書院)などを刊行。

第4回 金持ち父さん貧乏父さん

大学三年の二〇歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、十三年間の闘病生活を送った著者。その間、いろんな年代のいろんな家族の内実を、見聞きするつもりはなくても、たくさん見聞きしてきた。病室という、ある種、非日常な空間で、人がどんな本音を垣間見せるのか、人生がどんな別の顔を見せるのか、家族がどんなふうに激震に耐えるのか、その悲喜こもごもを書き綴る物語エッセイ。六人部屋という狭く濃密な空間で繰り広げられる多様な人間模様がここに。

「特別な人生には、ちがいないだろう」
「たしかにね、俺たち、普通の人生じゃないな、
と思うこともありますよ」

(『男たちの旅路  山田太一セレクション』里山社

次の人を待つ空きベッド

これまでは時系列にそってお話ししてきたが、ここからは思い出すままに、順番は関係なくお話ししてみたいと思う。

六人部屋に長く入院していると、他の人たちが少しずつ入れ替わっていく。退院や病室の移動でベッドが空くと、たいてい翌日にはもう別の人が入ってくる。

一晩だけ、ベッドが空のままになることがあり、それはなんだか不思議な光景でもあった。というのも、病院のベッドの上というのは、闘病はもちろん、いろんなドラマがくりひろげられる場所なので、しんと静まりかえって、なんの乱れもない整然とした状態で、誰もそこで苦闘していないというのは、逆になんだか妙なのだ。台風の目に入ったような感じとでも言おうか。

その空いたベッドに、次はどんな人が来るかというのは、ひとつの楽しみでもあり、不安でもある。職場の新人などとちがって、選ばれて入ってくるわけではない。病気であるということ以外は、どんな人がやってくるかわからない。

その人は今、翌日の入院に備えて、いろいろ準備をしているだろう。ようやく入院できることにほっとしているかもしれないし、不安で胸がしめつけられているかもしれない。その人がどういう人で、どこにいるのか、他の五人にはまだわからない。

着物姿のおじいさん

その人は、着物姿でやってきた。病院にはじつにいろんな人がやってくるが、これから入院するというのに、着物姿でやってきたのは、その人が初めてで、その後もいなかった。たいていはスーツで、カジュアルなかっこうやスウェットという人もいるが、着物というのはなんだかとても意外だった。

病室の他の五人は、新入りをあまり露骨にじろじろ見ないよう、遠慮してチラ見するのが普通だが、このときは、あっけにとられて、みんなそのおじいさんに注目した。

八十前後であったと思う。上品な着物姿に雪駄履きだった。着物だから靴ではないのはあたりまえだが、病室と雪駄という組み合わせも、なかなか目をひくものがあった。雪駄の音というのを久しぶりに聞いた。

おじいさんはとてもにこやかで、その様子にも上品さがあった。呉服屋の旦那なのか、お茶やお花の先生なのか、着物好きのお金持ちなのか、なんにしろ、ただ者ではないと思った。

妻と二人で来ていて、妻が手伝って、病院のお仕着せに着替えた。あれは不思議なもので、病院のお仕着せを着ると、私服を着ていたときのオーラのようなものは、たちまち消え失せる。立派なスーツを着てきた、重役という感じの中年紳士でも、とたんに、ただのおじさんになる。

着物のおじいさんも、着物を脱いで、病院にお仕着せに着替えると、どこにでもいるただのおじいさんに見えて、逆に驚いた。雪駄も、普通のサンダルになってしまい、残念な気がした。もう少し、病室を雪駄で歩いてほしかった。

作業着姿のおじいさん

その数日後だったと思うが、今度は、作業着のおじいさんが入院してきて、先の着物のおじいさんの向かいのベッドに入った。

六人部屋のベッドは、三つずつ二列に並んでいて、一方の端の二つのベッドは窓際で、もう一方の端の二つのベッドは廊下に面している。私は窓際のベッドのひとつにいた。窓際のほうが、日あたりがよく、窓の外の景色も見えるから、いい位置だが、そこになるかどうかは偶然で、選ぶことはできないし、何かの事情で優先されることもない。

おじいさん二人は、廊下側の二つのベッドで、寝ているときには、足を向け合うかたち、身体を起こしているときには顔を向け合うかたちになった。

作業着のおじいさんも、八十前後で、孫娘といっしょに来ていた。孫娘のほうは、二十歳前後という感じだった。私は二十代前半だったが、自分より年下だと感じた。

作業着のおじいさんは、何か作業する仕事をしているわけではなく、そういうかっこうが好きなだけらしかった。もう仕事はしておらず、庭仕事をしたり、活発に自転車で外に出たりしていて、それには作業着が適しているということだった。

着物のおじいさんのほうは、まだ仕事をしているらしかったが、それがどういう仕事なのかは言わなかった。着物とは無関係なようだった。六人部屋にいると、他の人のことはみんなわかってしまうから、仕事を知らないままなのは珍しいが、そうやってなんでも筒抜けになるだけに、それでも伝わってこなかったことは、あえて聞きにくい。残されたわずかな秘密くらいは大事にしてあげようという思いやりが、自然と誰もに芽生える。

親友の借金の保証人に

着物のおじいさんはきっとお金持ちで、作業着のおじいさんはきっと貧乏なのだろうかと、誰もがなんとなく感じていたのだが、実際にはまったく逆だった。

着物のおじいさんは、もともとはわからないが、親友の借金の保証人になって、その親友が逃げてしまい、借金を背負って、返済に追われる人生を送ってきた人だった。かなりの額の借金であったらしい。しかも、そういうことは、その親友の件だけではないらしく、たびたびそういう目にあって、いまだに借金が残っているようだった。

それがわかったのは、あるとき、妻から「あなたはいつもそうやって、おひとよしなんだから」と涙ながらになじられていたからだ。そんなにひどい目にあって苦労していても、まだ人のために何かしようとしたり、人を信じたりするところが、大いに残っている人だったようだ。

細身で、体力のなさそうな人だったが、いらいらしたり、声を荒げるようなことはまったくなく、いつもやさしい笑顔を浮かべる人だった。妻になじらされても、ただ申し訳なさそうにしていた。

ただならぬ孫娘

作業着のおじいさんのほうは、がっしりした体格で、気力も体力もありそうだったが、いらいらしやすく、よく声を荒げていた。

といっても、同室の人たちや、医師や看護師に対してではなく、面倒をみてくれている孫娘に対してだ。

病人というのは、どうしてもいらいらしやすいから、たいていの人は妻とけんかする。一度もけんかしない人は、ほとんど見たことがない。

しかし、孫にじゃけんな態度をとる人は珍しい。

この孫娘は、毎日ずっとつきそっている。いつもそばにいて、おじいさんのすべての面倒をみている。完全看護の病院だから、本来、そんな必要はない。毎日、面会に来る必要さえないのだ。それが、面会時間以外もかなり長時間いる。朝から晩までだ。お年寄りだというので、病院側にも大目に見てもらっていたのだろう。

ずっといても、うるさくて他の患者の迷惑になるということはない。なにしろ、ほとんど口を聞かないのだ。

最初に現れたときから、この孫娘はみんなの目をひいた。おそろしく暗いからだ。外見的にはやや小太りで小柄などこにでもいる若い女性だが、若さというような華やかさはどこにも感じられない。着ているものも地味だが、そんなことよりなにより、全体に生気というものが感じられない。表情がほとんどなく、目に光もない。誰とも目を合わせそうとせず、口をきこうともしない。つねにうつむき、ただおじいさんの世話だけをする。他のことはしない。雑誌を読んだりということすらない。

おじさんの世話だけはよくした。ティッシュと言われれば、ティッシュをさっと取って渡す。おじいさんが立ち上がるときには、さっとサンダルをそろえてあげる。しかし、かいがいしいという感じではなく、とこかロボット的だった。祖父への愛情というようなものはまったく感じられず、何をやっても心がなかった。虐げられて心を失った使用人という雰囲気だった。

内気というようなレベルの話ではないので、どうしてこんなふうなのか、私も気になったし、他の同室の病人たちも同じだっただろう。私はずっと男女共学だったが、こういう雰囲気の女性にはそれまで出会ったことがなかった。

遺産と束縛

孫娘の謎は、作業着のおじいさんが解明してくれた。おじいさんは、同室のみんなに向かって大声で、孫娘について説明した。

「これは孫のひとりで」とおじいさんは孫娘のほうをあごでしゃくった。「息子も娘も孫もたくさんおりますが、財産はすべてこいつひとりに譲ることになっとるんです」

法律的には、遺言しても、そういうわけにはいかないのではないかと思うが、どうやらそういうことで親族と話がつけてあるらしかった。

「そのかわり、こいつは、大学にも行かず、仕事もせず、結婚もせず、友達づきあいもせず、私の面倒だけみるんです」

これにはみんな驚いた。彼女の暗さの理由がようやくわかった気がした。この入院中だけでなく、日頃から、ずっとおじいさんのそばにいて世話をして、おそらくショッピングとか映画を見るとか、そんな自由もかなり制限されているのだろう。まさに虐げられて心を失った使用人状態だったのだ。

ただ、その代わり、おじさんが亡くなったら、全財産を独り占めできる。どうやら、それはかなりの額のようだった。おじいさんに言わせると、若いときの恋愛や遊びや友情などをすべてを投げ打っても、充分すぎるほどの見返りのようだった。孫娘は、一生、贅沢三昧に暮らしても、お金が不足することはないらしい。

しかし──と私は思った。きっとみんな思っただろう。だとすると、おじいさんが早く亡くなるほど、孫娘にとっては得になる。祖父への愛情があれば問題ないが、それはまったく感じられない。それどころか、この祖父は孫娘に辛辣だった。

「これは、だから世話をしとるんです。感心でもなんでもないんです」

自分にも娘のいる他の患者が、「でも、若いんだから、恋愛はしたいよね」と孫娘のほうに話しかけると、孫娘は返事をせず、祖父のほうが笑い飛ばした。

「どうせこんなですから、男は寄ってきません。金があったほうがいいですよ」

おじいさんが、ことあるごとに孫娘をけなすので、こちらはそのたびに、どきどきしてしまう。世話はすべて孫娘がするのだ。もしそこに殺意が混じったら、どうするのか。積極的に殺そうとしないまでも、未必の故意ということもありうる。そのためには、病院というのは、もってこいの場所なのだ。

たとえば、点滴から菌が入って高熱が出るようなこともときどきある。点滴が刺してあるところを不潔にしておけば、可能性は高まるだろう。また、院内感染を引き起こすような病気の人も入院しているから、そういうところにそっと行って、自分が媒介して、祖父を感染させることもできなくはない。他にも、いろんな手がある。世話をしている人間が殺意を持てば、自宅にいるときとは比べものにならないほど、入院中は危険だ。

谷崎潤一郎に『途上』という短編がある。江戸川乱歩が「探偵小説に一つの時代を画するもの」と大絶賛した犯罪小説だ。ある男が妻を殺そうとするのだが、食中毒になりそうなものを食べさせたり、感染症にかかりそうなところに出かけさせたり、バスに乗るときには、もし事故が起きたら死にそうな席に座らせたり、そうやって日常生活の中で、死ぬ確率を高めていくことで、ついに死に至らしめる。「プロバビリティーの犯罪」というのは世界推理小説史上でも初だったそうだ。

まさに、それが目の前で展開されるのではないかと、六人部屋の面々は、孫娘が祖父の世話をする様子を、息詰まるような思いで見つめていた。

孫娘が、まったく無表情で、口をきかないだけに、何を考えているのか、どう感じているのか、さっぱりわからず、何事も起きないことを願うばかりだった。

ただ、この作業服のおじいさんは、かなり丈夫で、このときもねんのため入院となっただけで、それほどの症状ではなく、何事もなければ、まだまだ長生きしそうだった。もしあと二十年も生きれば、孫娘も四十歳くらいになる。それでもいいのだろうかと、余計な心配もしてしまった。

誰もお見舞に来ない

着物のおじいさんも、作業服のおじいさんも、まったくお見舞の人が来なかった。着物のおじいさんのほうは妻が、作業服のおじいさんのほうは孫娘が来るだけで、あとは家族も親戚も知り合いも、誰ひとり来なかった。

着物のおじいさんのほうは、かなり人望のある人だったようだが、大きな借金を抱えてからは、人が寄りつかなくなったらしい。こういう善人が、他人の借金で苦しんでいるのを前にして、何も助けないというのは、自分はひどい人間だと自覚することになってしまうから、自覚したくない人間は最初から近づかないようにするのだろう。

借金生活を送っていた樋口一葉が、作家として有名になったとき、日記にこう書いている。

 一昨年(おととし)の春は大音寺前に一文ぐわし売りて、親せき近よらず、故旧(こきう)音なふ物なく(中略)今日(けふ)の我身の成(なり)のぼりしは、たゞうき雲(ぐも)の根(ね)なくして、その中空(なかぞら)にたゞよへるが如し(中略)夜更(よふけ)て、人定(さだ)まりて、静(しづか)におもへば、我れはむかしの我にして、家はむかしの家なるものを、そも/\何をたねとしてか、うき草のうきしづみにより、人のおもむけ異(こと)なる覧(らむ)。たはやすきものはひとの世にして、あなどるまじきも此人のよ成り、其こゑの大(おほ)いなる時は千里にひゞき、ひくきときは隣だも猶しらざるが如し。(明治二十九年一月「水のうえ」『全集 樋口一葉 3 日記編』小学館)

貧しいときには誰もやってこなくて、有名になると人が寄ってくる。本当に困って助けを求めているときの声は、隣の家にさえ届かないのだ。

病室にも貧富の差

社会的地位が高い人やお金持ちの場合は、通常はお見舞の人がとても多い。

病室にも貧富の差というのは、はっきり表れる。

たくさんのお見舞の花で、お金持ちのベッドの周囲は花畑のようになる。そんなに花瓶を用意しているわけはないから、花瓶が空いたままの人から借りたりする。私も貸したことがあるが、なんとなくさびしいものである。どうせ使ってない花瓶だし、お見舞の花なんかほしくないのに。大林宣彦監督の『北京的西瓜』という映画で、八百屋の夫が、妻のネックレスを、「どうせ使ってないだろ」と、人にあげてしまう。そんなシーンを思い出したりした。

ところが、作業着のおじいさんは、お金持ちなのに、花畑どころか、誰も来ない。息子も娘も来ない。妻は生きているのかどうかわからなかったが、それも来ない。遺産を渡さないと決めてあるから、誰も来ないのか。あるいは、もともとあつかいにくい人物で、みんなもてあましていたから、ひとりの孫に遺産をすべて渡すというような取り決めが成り立ったのか。祖父の面倒をたったひとりでみている孫娘は、遺産相続の勝者なのか、それともみんなからおじいさんをおしつけられた被害者なのか。

私も年齢が近かったから、自分だったらどうするか想像してみたが、選択は難しかった。まあ、私の場合、その孫娘以上に自由は制限され、人生の楽しみには縁遠くなり、それで遺産も何も入らないのだから、比較してみると、悲しくなってしまったが。

愛情のあるなし、お金のあるなし

作業着のおじいさんは、とにかく孫娘をけなした。

誰かが「よくお世話されているじゃないですか。なかなかここまでできませんよ」などと孫娘をほめると、「金のためにやっているんだ」と嘲るように言った。孫娘に世話をされている最中でもおかまいなしに。むしろ、孫娘に聞かせようとしていた。

そこには、さびしさ、かなしさもあったと思う。遺産目当てでしか、面倒を見てもらえないという、さびしさ。その孫娘が、まるで表情がなく、口もきかないという、かなしさ。

向かいのベッドの着物のおじいさんのほうは、妻から「あなたがおひとよしだから」となじられていたが、夫のそういうところを、妻は決して嫌いではなく、借金を抱えたつらい人生だけど、夫を深く愛しているということは、よく伝わってきた。とても愛情のこもった世話の仕方だった。誰もお見舞に来なくても、二人の世界があって、そこには幸福があった。

『うどん屋』という落語を十代目金原亭馬生が語っている中に、こういうくだりがある。冬の寒い日に、屋台のうどん屋に客がやってきて、そばの用水桶で手を洗ったら頭の芯まで冷たくなってしまったから、火にあたらせてくれと頼む。うどん屋が、気持ちよく応じて、火をかきたててやると、客はそれにあたって、こうしみじみ言う。

「あぁ……あったけえなあ……。なあ、うどん屋、この寒空で、これっぱかりの火があって、これでこうやってあったまるんだからね、火てえもんは、ありがてえもんだ」(『十代目金原亭馬生 東横落語会 CDブック』 小学館)

寒く冷えた世の中で、そこだけ小さくあたたかいのが、とてもよく伝わってくる。

着物のおじいさんの夫婦も、そんなふうに、世間の冷たさというものを感じさせたが、その一方で、夫婦ふたりの愛情のあたたかさというものを感じさせた。

同じふたりでも、作業着のおじいさんのほうは、世間の冷たさ以上に冷たそうな関係であった。向かいの着物のおじいさん夫婦の愛情あふれる様子を見て、作業着のおいじさんはつらかったかもしれない。孫娘のことを「金のためだ」「金のためにやっているんだ」と何度も私たちに言うのも、「そうじゃない!お金のためだけじゃない!」と孫娘に言ってほしかったのかもしれない。

しかし、そんな人情話のようなことは、当然起きない。作業着のおじいさんの意図がどうであれ、孫娘をけなすほどに、ますます関係は冷えていく。そして、凍っているものに衝撃を与え続けたらたら、いつ粉々に砕けてしまうかしれない。私たちは、はらはらして見守るばかりだった。

着物のおじいさんのほうも、お金持ちのおじいさんが目の前にいて、いつもお金のことを言っているのは、つらかったかもしれない。いくら愛情があっても、それだけでは世間まではあたたまらない。お金がないどころか、借金があるのは、とてもつらそうだった。

愛情はあるがお金はない、お金はあるが愛情はない、そんなふたりが、たまたま同じときに向かい合うベッドに入ったというのは、なんとも不思議な偶然だった。

その後、作業着のおじいさんは元気に退院していき、着物のおじいさんはもっとナースステーションに近い病室に移っていった。

 

文学紹介者。筑波大学卒業。大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。その後、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言1・2』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『食べることと出すこと』(医学書院)などを刊行。