第4回 金持ち父さん貧乏父さん

大学三年の二〇歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、十三年間の闘病生活を送った著者。その間、いろんな年代のいろんな家族の内実を、見聞きするつもりはなくても、たくさん見聞きしてきた。病室という、ある種、非日常な空間で、人がどんな本音を垣間見せるのか、人生がどんな別の顔を見せるのか、家族がどんなふうに激震に耐えるのか、その悲喜こもごもを書き綴る物語エッセイ。六人部屋という狭く濃密な空間で繰り広げられる多様な人間模様がここに。

「特別な人生には、ちがいないだろう」
「たしかにね、俺たち、普通の人生じゃないな、
と思うこともありますよ」

(『男たちの旅路  山田太一セレクション』里山社

次の人を待つ空きベッド

これまでは時系列にそってお話ししてきたが、ここからは思い出すままに、順番は関係なくお話ししてみたいと思う。

六人部屋に長く入院していると、他の人たちが少しずつ入れ替わっていく。退院や病室の移動でベッドが空くと、たいてい翌日にはもう別の人が入ってくる。

一晩だけ、ベッドが空のままになることがあり、それはなんだか不思議な光景でもあった。というのも、病院のベッドの上というのは、闘病はもちろん、いろんなドラマがくりひろげられる場所なので、しんと静まりかえって、なんの乱れもない整然とした状態で、誰もそこで苦闘していないというのは、逆になんだか妙なのだ。台風の目に入ったような感じとでも言おうか。

その空いたベッドに、次はどんな人が来るかというのは、ひとつの楽しみでもあり、不安でもある。職場の新人などとちがって、選ばれて入ってくるわけではない。病気であるということ以外は、どんな人がやってくるかわからない。

その人は今、翌日の入院に備えて、いろいろ準備をしているだろう。ようやく入院できることにほっとしているかもしれないし、不安で胸がしめつけられているかもしれない。その人がどういう人で、どこにいるのか、他の五人にはまだわからない。

着物姿のおじいさん

その人は、着物姿でやってきた。病院にはじつにいろんな人がやってくるが、これから入院するというのに、着物姿でやってきたのは、その人が初めてで、その後もいなかった。たいていはスーツで、カジュアルなかっこうやスウェットという人もいるが、着物というのはなんだかとても意外だった。

病室の他の五人は、新入りをあまり露骨にじろじろ見ないよう、遠慮してチラ見するのが普通だが、このときは、あっけにとられて、みんなそのおじいさんに注目した。

八十前後であったと思う。上品な着物姿に雪駄履きだった。着物だから靴ではないのはあたりまえだが、病室と雪駄という組み合わせも、なかなか目をひくものがあった。雪駄の音というのを久しぶりに聞いた。

おじいさんはとてもにこやかで、その様子にも上品さがあった。呉服屋の旦那なのか、お茶やお花の先生なのか、着物好きのお金持ちなのか、なんにしろ、ただ者ではないと思った。

妻と二人で来ていて、妻が手伝って、病院のお仕着せに着替えた。あれは不思議なもので、病院のお仕着せを着ると、私服を着ていたときのオーラのようなものは、たちまち消え失せる。立派なスーツを着てきた、重役という感じの中年紳士でも、とたんに、ただのおじさんになる。

着物のおじいさんも、着物を脱いで、病院にお仕着せに着替えると、どこにでもいるただのおじいさんに見えて、逆に驚いた。雪駄も、普通のサンダルになってしまい、残念な気がした。もう少し、病室を雪駄で歩いてほしかった。

作業着姿のおじいさん

その数日後だったと思うが、今度は、作業着のおじいさんが入院してきて、先の着物のおじいさんの向かいのベッドに入った。

六人部屋のベッドは、三つずつ二列に並んでいて、一方の端の二つのベッドは窓際で、もう一方の端の二つのベッドは廊下に面している。私は窓際のベッドのひとつにいた。窓際のほうが、日あたりがよく、窓の外の景色も見えるから、いい位置だが、そこになるかどうかは偶然で、選ぶことはできないし、何かの事情で優先されることもない。

おじいさん二人は、廊下側の二つのベッドで、寝ているときには、足を向け合うかたち、身体を起こしているときには顔を向け合うかたちになった。

作業着のおじいさんも、八十前後で、孫娘といっしょに来ていた。孫娘のほうは、二十歳前後という感じだった。私は二十代前半だったが、自分より年下だと感じた。

作業着のおじいさんは、何か作業する仕事をしているわけではなく、そういうかっこうが好きなだけらしかった。もう仕事はしておらず、庭仕事をしたり、活発に自転車で外に出たりしていて、それには作業着が適しているということだった。

着物のおじいさんのほうは、まだ仕事をしているらしかったが、それがどういう仕事なのかは言わなかった。着物とは無関係なようだった。六人部屋にいると、他の人のことはみんなわかってしまうから、仕事を知らないままなのは珍しいが、そうやってなんでも筒抜けになるだけに、それでも伝わってこなかったことは、あえて聞きにくい。残されたわずかな秘密くらいは大事にしてあげようという思いやりが、自然と誰もに芽生える。

親友の借金の保証人に

着物のおじいさんはきっとお金持ちで、作業着のおじいさんはきっと貧乏なのだろうかと、誰もがなんとなく感じていたのだが、実際にはまったく逆だった。

着物のおじいさんは、もともとはわからないが、親友の借金の保証人になって、その親友が逃げてしまい、借金を背負って、返済に追われる人生を送ってきた人だった。かなりの額の借金であったらしい。しかも、そういうことは、その親友の件だけではないらしく、たびたびそういう目にあって、いまだに借金が残っているようだった。

それがわかったのは、あるとき、妻から「あなたはいつもそうやって、おひとよしなんだから」と涙ながらになじられていたからだ。そんなにひどい目にあって苦労していても、まだ人のために何かしようとしたり、人を信じたりするところが、大いに残っている人だったようだ。

細身で、体力のなさそうな人だったが、いらいらしたり、声を荒げるようなことはまったくなく、いつもやさしい笑顔を浮かべる人だった。妻になじらされても、ただ申し訳なさそうにしていた。

ただならぬ孫娘

作業着のおじいさんのほうは、がっしりした体格で、気力も体力もありそうだったが、いらいらしやすく、よく声を荒げていた。

といっても、同室の人たちや、医師や看護師に対してではなく、面倒をみてくれている孫娘に対してだ。

病人というのは、どうしてもいらいらしやすいから、たいていの人は妻とけんかする。一度もけんかしない人は、ほとんど見たことがない。

しかし、孫にじゃけんな態度をとる人は珍しい。

この孫娘は、毎日ずっとつきそっている。いつもそばにいて、おじいさんのすべての面倒をみている。完全看護の病院だから、本来、そんな必要はない。毎日、面会に来る必要さえないのだ。それが、面会時間以外もかなり長時間いる。朝から晩までだ。お年寄りだというので、病院側にも大目に見てもらっていたのだろう。

ずっといても、うるさくて他の患者の迷惑になるということはない。なにしろ、ほとんど口を聞かないのだ。

最初に現れたときから、この孫娘はみんなの目をひいた。おそろしく暗いからだ。外見的にはやや小太りで小柄などこにでもいる若い女性だが、若さというような華やかさはどこにも感じられない。着ているものも地味だが、そんなことよりなにより、全体に生気というものが感じられない。表情がほとんどなく、目に光もない。誰とも目を合わせそうとせず、口をきこうともしない。つねにうつむき、ただおじいさんの世話だけをする。他のことはしない。雑誌を読んだりということすらない。

おじさんの世話だけはよくした。ティッシュと言われれば、ティッシュをさっと取って渡す。おじいさんが立ち上がるときには、さっとサンダルをそろえてあげる。しかし、かいがいしいという感じではなく、とこかロボット的だった。祖父への愛情というようなものはまったく感じられず、何をやっても心がなかった。虐げられて心を失った使用人という雰囲気だった。

内気というようなレベルの話ではないので、どうしてこんなふうなのか、私も気になったし、他の同室の病人たちも同じだっただろう。私はずっと男女共学だったが、こういう雰囲気の女性にはそれまで出会ったことがなかった。

遺産と束縛

孫娘の謎は、作業着のおじいさんが解明してくれた。おじいさんは、同室のみんなに向かって大声で、孫娘について説明した。

「これは孫のひとりで」とおじいさんは孫娘のほうをあごでしゃくった。「息子も娘も孫もたくさんおりますが、財産はすべてこいつひとりに譲ることになっとるんです」

法律的には、遺言しても、そういうわけにはいかないのではないかと思うが、どうやらそういうことで親族と話がつけてあるらしかった。

「そのかわり、こいつは、大学にも行かず、仕事もせず、結婚もせず、友達づきあいもせず、私の面倒だけみるんです」

これにはみんな驚いた。彼女の暗さの理由がようやくわかった気がした。この入院中だけでなく、日頃から、ずっとおじいさんのそばにいて世話をして、おそらくショッピングとか映画を見るとか、そんな自由もかなり制限されているのだろう。まさに虐げられて心を失った使用人状態だったのだ。

ただ、その代わり、おじさんが亡くなったら、全財産を独り占めできる。どうやら、それはかなりの額のようだった。おじいさんに言わせると、若いときの恋愛や遊びや友情などをすべてを投げ打っても、充分すぎるほどの見返りのようだった。孫娘は、一生、贅沢三昧に暮らしても、お金が不足することはないらしい。

しかし──と私は思った。きっとみんな思っただろう。だとすると、おじいさんが早く亡くなるほど、孫娘にとっては得になる。祖父への愛情があれば問題ないが、それはまったく感じられない。それどころか、この祖父は孫娘に辛辣だった。

「これは、だから世話をしとるんです。感心でもなんでもないんです」

自分にも娘のいる他の患者が、「でも、若いんだから、恋愛はしたいよね」と孫娘のほうに話しかけると、孫娘は返事をせず、祖父のほうが笑い飛ばした。

「どうせこんなですから、男は寄ってきません。金があったほうがいいですよ」

おじいさんが、ことあるごとに孫娘をけなすので、こちらはそのたびに、どきどきしてしまう。世話はすべて孫娘がするのだ。もしそこに殺意が混じったら、どうするのか。積極的に殺そうとしないまでも、未必の故意ということもありうる。そのためには、病院というのは、もってこいの場所なのだ。

たとえば、点滴から菌が入って高熱が出るようなこともときどきある。点滴が刺してあるところを不潔にしておけば、可能性は高まるだろう。また、院内感染を引き起こすような病気の人も入院しているから、そういうところにそっと行って、自分が媒介して、祖父を感染させることもできなくはない。他にも、いろんな手がある。世話をしている人間が殺意を持てば、自宅にいるときとは比べものにならないほど、入院中は危険だ。

谷崎潤一郎に『途上』という短編がある。江戸川乱歩が「探偵小説に一つの時代を画するもの」と大絶賛した犯罪小説だ。ある男が妻を殺そうとするのだが、食中毒になりそうなものを食べさせたり、感染症にかかりそうなところに出かけさせたり、バスに乗るときには、もし事故が起きたら死にそうな席に座らせたり、そうやって日常生活の中で、死ぬ確率を高めていくことで、ついに死に至らしめる。「プロバビリティーの犯罪」というのは世界推理小説史上でも初だったそうだ。

まさに、それが目の前で展開されるのではないかと、六人部屋の面々は、孫娘が祖父の世話をする様子を、息詰まるような思いで見つめていた。

孫娘が、まったく無表情で、口をきかないだけに、何を考えているのか、どう感じているのか、さっぱりわからず、何事も起きないことを願うばかりだった。

ただ、この作業服のおじいさんは、かなり丈夫で、このときもねんのため入院となっただけで、それほどの症状ではなく、何事もなければ、まだまだ長生きしそうだった。もしあと二十年も生きれば、孫娘も四十歳くらいになる。それでもいいのだろうかと、余計な心配もしてしまった。

誰もお見舞に来ない

着物のおじいさんも、作業服のおじいさんも、まったくお見舞の人が来なかった。着物のおじいさんのほうは妻が、作業服のおじいさんのほうは孫娘が来るだけで、あとは家族も親戚も知り合いも、誰ひとり来なかった。

着物のおじいさんのほうは、かなり人望のある人だったようだが、大きな借金を抱えてからは、人が寄りつかなくなったらしい。こういう善人が、他人の借金で苦しんでいるのを前にして、何も助けないというのは、自分はひどい人間だと自覚することになってしまうから、自覚したくない人間は最初から近づかないようにするのだろう。

借金生活を送っていた樋口一葉が、作家として有名になったとき、日記にこう書いている。

 一昨年(おととし)の春は大音寺前に一文ぐわし売りて、親せき近よらず、故旧(こきう)音なふ物なく(中略)今日(けふ)の我身の成(なり)のぼりしは、たゞうき雲(ぐも)の根(ね)なくして、その中空(なかぞら)にたゞよへるが如し(中略)夜更(よふけ)て、人定(さだ)まりて、静(しづか)におもへば、我れはむかしの我にして、家はむかしの家なるものを、そも/\何をたねとしてか、うき草のうきしづみにより、人のおもむけ異(こと)なる覧(らむ)。たはやすきものはひとの世にして、あなどるまじきも此人のよ成り、其こゑの大(おほ)いなる時は千里にひゞき、ひくきときは隣だも猶しらざるが如し。(明治二十九年一月「水のうえ」『全集 樋口一葉 3 日記編』小学館)

貧しいときには誰もやってこなくて、有名になると人が寄ってくる。本当に困って助けを求めているときの声は、隣の家にさえ届かないのだ。

病室にも貧富の差

社会的地位が高い人やお金持ちの場合は、通常はお見舞の人がとても多い。

病室にも貧富の差というのは、はっきり表れる。

たくさんのお見舞の花で、お金持ちのベッドの周囲は花畑のようになる。そんなに花瓶を用意しているわけはないから、花瓶が空いたままの人から借りたりする。私も貸したことがあるが、なんとなくさびしいものである。どうせ使ってない花瓶だし、お見舞の花なんかほしくないのに。大林宣彦監督の『北京的西瓜』という映画で、八百屋の夫が、妻のネックレスを、「どうせ使ってないだろ」と、人にあげてしまう。そんなシーンを思い出したりした。

ところが、作業着のおじいさんは、お金持ちなのに、花畑どころか、誰も来ない。息子も娘も来ない。妻は生きているのかどうかわからなかったが、それも来ない。遺産を渡さないと決めてあるから、誰も来ないのか。あるいは、もともとあつかいにくい人物で、みんなもてあましていたから、ひとりの孫に遺産をすべて渡すというような取り決めが成り立ったのか。祖父の面倒をたったひとりでみている孫娘は、遺産相続の勝者なのか、それともみんなからおじいさんをおしつけられた被害者なのか。

私も年齢が近かったから、自分だったらどうするか想像してみたが、選択は難しかった。まあ、私の場合、その孫娘以上に自由は制限され、人生の楽しみには縁遠くなり、それで遺産も何も入らないのだから、比較してみると、悲しくなってしまったが。

愛情のあるなし、お金のあるなし

作業着のおじいさんは、とにかく孫娘をけなした。

誰かが「よくお世話されているじゃないですか。なかなかここまでできませんよ」などと孫娘をほめると、「金のためにやっているんだ」と嘲るように言った。孫娘に世話をされている最中でもおかまいなしに。むしろ、孫娘に聞かせようとしていた。

そこには、さびしさ、かなしさもあったと思う。遺産目当てでしか、面倒を見てもらえないという、さびしさ。その孫娘が、まるで表情がなく、口もきかないという、かなしさ。

向かいのベッドの着物のおじいさんのほうは、妻から「あなたがおひとよしだから」となじられていたが、夫のそういうところを、妻は決して嫌いではなく、借金を抱えたつらい人生だけど、夫を深く愛しているということは、よく伝わってきた。とても愛情のこもった世話の仕方だった。誰もお見舞に来なくても、二人の世界があって、そこには幸福があった。

『うどん屋』という落語を十代目金原亭馬生が語っている中に、こういうくだりがある。冬の寒い日に、屋台のうどん屋に客がやってきて、そばの用水桶で手を洗ったら頭の芯まで冷たくなってしまったから、火にあたらせてくれと頼む。うどん屋が、気持ちよく応じて、火をかきたててやると、客はそれにあたって、こうしみじみ言う。

「あぁ……あったけえなあ……。なあ、うどん屋、この寒空で、これっぱかりの火があって、これでこうやってあったまるんだからね、火てえもんは、ありがてえもんだ」(『十代目金原亭馬生 東横落語会 CDブック』 小学館)

寒く冷えた世の中で、そこだけ小さくあたたかいのが、とてもよく伝わってくる。

着物のおじいさんの夫婦も、そんなふうに、世間の冷たさというものを感じさせたが、その一方で、夫婦ふたりの愛情のあたたかさというものを感じさせた。

同じふたりでも、作業着のおじいさんのほうは、世間の冷たさ以上に冷たそうな関係であった。向かいの着物のおじいさん夫婦の愛情あふれる様子を見て、作業着のおいじさんはつらかったかもしれない。孫娘のことを「金のためだ」「金のためにやっているんだ」と何度も私たちに言うのも、「そうじゃない!お金のためだけじゃない!」と孫娘に言ってほしかったのかもしれない。

しかし、そんな人情話のようなことは、当然起きない。作業着のおじいさんの意図がどうであれ、孫娘をけなすほどに、ますます関係は冷えていく。そして、凍っているものに衝撃を与え続けたらたら、いつ粉々に砕けてしまうかしれない。私たちは、はらはらして見守るばかりだった。

着物のおじいさんのほうも、お金持ちのおじいさんが目の前にいて、いつもお金のことを言っているのは、つらかったかもしれない。いくら愛情があっても、それだけでは世間まではあたたまらない。お金がないどころか、借金があるのは、とてもつらそうだった。

愛情はあるがお金はない、お金はあるが愛情はない、そんなふたりが、たまたま同じときに向かい合うベッドに入ったというのは、なんとも不思議な偶然だった。

その後、作業着のおじいさんは元気に退院していき、着物のおじいさんはもっとナースステーションに近い病室に移っていった。

 

文学紹介者。筑波大学卒業。大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。その後、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言1・2』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『食べることと出すこと』(医学書院)、『自分疲れ』(創元社)などを刊行。

第3回 六人部屋で口をきくようになるまで

大学三年の二〇歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、十三年間の闘病生活を送った著者。その間、いろんな年代のいろんな家族の内実を、見聞きするつもりはなくても、たくさん見聞きしてきた。病室という、ある種、非日常な空間で、人がどんな本音を垣間見せるのか、人生がどんな別の顔を見せるのか、家族がどんなふうに激震に耐えるのか、その悲喜こもごもを書き綴る物語エッセイ。六人部屋という狭く濃密な空間で繰り広げられる多様な人間模様がここに。

「特別な人生には、ちがいないだろう」
「たしかにね、俺たち、普通の人生じゃないな、
と思うこともありますよ」

(『男たちの旅路  山田太一セレクション』里山社

やっぱり二人部屋はつらい

前回書いたように、二人部屋には、すっかりこりごりした。

だから、二人部屋には二度と入ったことはない──と言いたいところが、かなり経ってから、緊急入院したときに、他に空きベッドがなくて、仕方なく二人部屋に入ったことがある。

本当に空きがなかったらしく、相部屋のもう一人は、おばあさんだった。つまり、女性である。

こっちも驚いたが、むこうは憤慨していた。

おばあさんと、つきそいのおばさん(たぶん娘さん)とが、「男と同じ部屋にするなんて!」「年寄りだと思って、女あつかいしてないのよ!」「バカにしてる」などと、ずっと文句を言っていて、肩身がせまかったのなんの……。
やっぱり、二人部屋はつらいのである。

二人部屋で、平穏に過ごせたことは、一度もない。

初めての六人部屋

初めて入院する人にお勧めするが、個室に入れるお金があればそれもいいと思うが、それでなければ二人部屋より、六人部屋のほうがずっといい。

のちに四人部屋というのも体験したが、やはり六人部屋のほうがよかった。人数が多いほうが、かえって人間関係は楽だ。二十四時間いっしょという濃すぎる関係なので、なるべく注意や責任が分散されるほうがいい。

二人部屋から六人部屋に引っ越して、度の強すぎるお酒を水割りにしてもらえたように、ほっとした。

ありがたいことに、また窓際だった。どこに入るかは、どのベッドの人が退院あるいは移動するか次第なので、まったく予測がつかない。

六人部屋は三つのベッドが二列に並んでいて、窓際のベッドは二つだ。その二つのうち、入り口から見て右側の方に入った。他の五つのベッドはすべて埋まっていた。それなりに長く入っている人が多いようで、他の五人はすでに親しそうだった。そこに新参者として入った。

私は小学校のとき七回転校したことがある。そのときのことを思い出した。すでにみんなが仲良くしている中に、一人だけ新しい人間として混じらなければならない。けっこう、つらいものがある。

とはいえ病室なので、もちろん自己紹介などはない。

そのときの私は、とにかく、ひとりになりたかった。難病になって悩んでいたし、二人部屋で疲れきっていた。他の五人がわりと仲良くしていることで、私がひとりで黙って隅っこにいても、さほど気にせずにほおっておいてもらえそうで、よかった。

とはいえ、初めての六人部屋で、みんなに背を向けながらも、緊張していた。

背を向けて毛布をかぶる

知らない者どうしが集まって、これからいっしょにやっていかなければならないというとき、何はともあれ、いっしょに食事をするということが、かなり重要な儀式となる。

会社で新しい職場に行って、「じゃあ、とりあえずみんなで食事でも」となったときに、それをいきなり断るのは、かなり難しいだろう。

病室ですら、そういうところはある。

食事の時間になり、他の五人には食事が運ばれてきたが、私にはなかった。配膳をしていた看護師さんが私のベッドの絶食札を確認して、「はい、頭木くんは絶食ね」と言った。

それで他の五人がこっちを見た。手術直後という感じでもないのに絶食というのがちょっと意外だったのだろう。

「手術したの?」と一人から聞かれた。「いいえ」と答えると、別の人が「絶食なんだね?」と言った。「そうなんです」と私は答えた。

何の病気なのか説明すべきだと思ったが、面倒くさかった。みんなに背を向けて毛布をかぶった。

五人はそれ以上追求せず、食事を食べだした。しかし、なるべく音をさせないよう、気を遣っているふうがあった。絶食している人間のそばでは、食べにくいだろう。しかしそうやって気を遣わせていると思うと、かえって居心地がよくなかった。

一人のおじさんが、紙パックの牛乳に悪態をついた。「飲まないって言ってるのに、ついてくるんだよなぁ。また見舞いがきたら飲ませなきゃ」

それはおそらく食べられない私に対して、自分も何か食べられないものが出てきたということをアピールしてくれたのだろう。しかし、私はむしろ「黙れ!」と内心思ってイライラしてしまった。

何の変化もみせない空の色

私は輸血すれすれの貧血状態で青白い顔をしていたし、短期間に二十六キロも体重が落ちてげっそりしていたし、若くして難病になって自分ほど不幸な人間はいないというような気持ちでいた。

他の五人はみんな五十代くらいだった。うっとうしい若造がきたと、きっと思ったことだろう。

窓際だったので、窓から外がよく見えた。私が難病になったのに、世間は何の変わりもなく動いていた。私と同じ大学の学生たちが、道を歩いたり自転車に乗ったりしていた。当然ながらとても元気そうだった。楽しそうな顔でしゃべっていたりすると、こっちは悲しくなったし、つまらなそうな顔で歩いていると、なんて贅沢なやつなんだと腹が立った。

なんであいつらはああいうふうに歩いていて、自分はここにいるだと思った。なんて不公平なんだと。とても受け入れられなかった。

その頃はまだ読んだことがなかったが、ずっと後で色川武大の『狂人日記』を読んでいたら、「園子が死んでも何の変化もみせない空の色なんかが納得できない」という一節があって、当時の心境がよみがえるようだった。

自分や、自分の大切な人に、とんでもないことが起きたときに、それでも世の中がびくとも変わらないのは、当然なのだけど、心情としては納得がいかないものだ。

六人部屋の他の人たちは、みんな五十代くらいで、二十代なんていない。それどころか、三十代もいない。病室の外に出ても、廊下を歩いたりしているのはお年寄りが多かった。私のように若くして病気になるのは、やはり少ないようだった。

看護師さんが来たときに、「他にも二十代の患者さんはいますか?」と聞いてみた。「骨折とかの人はいるかもしれないけど……」ということで、少なくとも内臓系の病気で入院している人は、そのとき他におらず、私ひとりだった。ますます「なんで自分ばっかり」という気持ちになった。

若い者と、若い病人はちがう

その時点でもまだ一日十回以上くらい、下痢でトイレに駆け込んでいた。普通の下痢と違って、我慢するのが難しい。

しかも点滴がいくつもつながっている。その点滴台を転がしながらトイレまで急いでいかなければならない。

ところがその点滴台のコロのまわりが悪くて、途中で何度も突っかかって点滴台が倒れそうになる。それをぐっとこらえると、そのせいで漏れそうになる。しかたないから点滴台を持ち上げて、やり投げの選手のように走っていく。
そうすると、廊下にいるお年寄りの患者さんたちが、「若い者はいいねぇ」とうらやましそうに言う。

これには腹が立った。若いから元気もあるし治りもいいだろうと言うのだ。それはそうかもしれないが、向こうは年をとって初めて病気になっているのだ。こっちは二十歳で病気になっている。向こうは二十歳のときは元気でピンビンしていたのだ。うらやましいなどと言われるおぼえはない。「どこがうらやましいんだ!」と怒ってやりたかったが、トイレに間に合わないから、そんな暇もない。

小児病棟からの泣き声

というわけで、今となると書くのが恥ずかしいが、そういうふうに、世の中の不公平に憤慨し、すっかり心がすさんでいた。

そんなある日、夜中に眠れずにいると、遠くから子どもの泣き声が聞こえてきた。

驚いた。

とても悲しそうな泣き声だった。

ずいぶん長く続いた。

聞こえるか聞こえないかくらいだったが、耳についた。

翌朝、看護師さんに聞いてみた。

「この病院は子どもも入院しているんですか?」

「小児病棟があるわよ」

そこには子どもがたくさん入院していて、赤ちゃんも何人もいるということだった。

私は二十歳で病気になって不公平だと思っていたが、子どもの頃に病気になる人もいるのだ。それどころか、赤ちゃんで病気になる人もいるのだ。そんなことはわかっていたはずなのに、それまでまったく頭になかった。

なぜかそのときから、不公平感に苦しんで呪うような気持ちになることはなくなった。

あのとき聞こえた子どもの泣き声があまりに悲しそうだったからだと思う。

といっても、「子どものときから病気になるより、二十歳で病気になった自分のほうがましだ」と思ったわけではない。

そういう、「人よりましだ」とか「もっと大変な人がいるから」というふうに、自分より不幸な人を見つけて、自分をなぐさめるのは、好きではない。

それは人を踏み台にして、自分の気持ちを上にあげるということだから。踏み台にされるほうは、たまったものではない。

そうではなく、人はもともと不平等なのが当たり前で、それを平等でなければと思っていた自分が間違っていたことに気づいたのだろう。これだって、もともとわかっていてもよさそうなものだが、実感できていなかった。

顔も、スタイルも、どんな家に生まれるかも、みんなぜんぜんちがう。健康だって同じことだ。

平等であらねばと思っていると、かえって心が焦げてしまうばかりだ。

ともかく、これが転機だった。

そのときから私は、六人部屋の他の五人と話をするようになった。

 

文学紹介者。筑波大学卒業。大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。その後、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言1・2』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『食べることと出すこと』(医学書院)、『自分疲れ』(創元社)などを刊行。