10 もうひとつの現実世界――ポスト・トゥルース時代の共同幻想(後編)

代替現実ゲーム(ARG)やネット探偵コミュニティは、プレイヤーたちが自発的にコミュニティを形成し、その中でひとつの目的に向かって集合的に知識を生み出していく、という点において、参加型文化の一種であるコンヴァージェンス・カルチャーに含めることができるだろう。『コンヴァージェンス・カルチャー』の著者ヘンリー・ジェンキンズによれば、コンヴァージェンス・カルチャーは以下のように定義される。

 私のいうコンヴァージェンスとは①多数のメディア・プラットフォームにわたってコンテンツが流通すること、②多数のメディア業界が協力すること、③ オーディエンスが自分の求めるエンターテイメント体験を求めてほとんどどこにでも渡り歩くこと、という三つの要素を含むものをいう。[1]

ジェンキンスは、自身のコンヴァージェンス・カルチャーの概念を練り上げる上で、フランスの哲学者ピエール・レヴィがサイバースペースの特性として与えた「集合的知性」というタームに多くを依拠している。レヴィによれば、インターネット上では人々は共有された目標や目的のために個々人の専門知を活用している。私たちはすべてを知り尽くすことはできないし、そんなことは不可能だ。ただ、私たち一人ひとりは何かを知っている。集合的知性とは、ヴァーチャル・コミュニティが各メンバーの所有している知識を組み合わせて活用する能力を指す[2]

ジェンキンスがコンヴァージェンス・カルチャーとして挙げている例のひとつに、CBSの人気リアリティ番組『サバイバー』(二〇〇〇)のネタバレコミュニティがある。『サバイバー』は、ジャングルなどの僻地に隔離された十数人の参加者たちが「トライブ」と呼ばれるグループに別れサバイバル生活を行いながら、最後のひとり「最強のサバイバー」を目指していくという、台本や筋書きのない(ことになっている)リアリティ番組。インターネット上には、番組の展開、具体的には誰が「勝者」になるのかをいち早く知ろうとするファンたちによるコミュニティが存在する。とりわけ「ネタバレ師(spoiler)」と呼ばれる者たちは、撮影クルーのベースキャンプを見つけるために衛星写真を使ったり、録画されたエピソードを一コマずつ分析して隠された情報を探すなど、結末を知ろうとするオブセッションに取り憑かれている。彼らは集合的知性によって番組より先に結末に到達しようと並外れた努力を行う。番組のエグゼクティブ・プロデューサーは、番組制作者とファンの間のこの競争が『サバイバー』の神秘性を生み出すと認めた上で、「『サバイバー』はいわばファンたちが解読をしようと挑戦する暗号コードのようなものでしょう」と指摘する[3]

実際、番組にはヒントとなる情報や、逆にネタバレ師を煙に巻くための偽の手がかりが散りばめられていた。番組自体が、推理と分析を促すように作られていたわけだ。さらに、番組制作者側がコミュニティの存在を認知しており、そこに積極的に働きかけを行っている可能性すら示唆されていた。たとえば、チルワンというユーザー名の、内部の人間にしかわからないはずの情報をリークするユーザーの登場は、コミュニティに活気と動揺をもたらした。チルワンの正体を巡って議論が争われたが、なかには内部関係者説やディレクター説も存在した。チルワンはコミュニティを活気づけるために番組側が送り込んだ人形遣いだったのだろうか。インサイダー情報を直接的あるいは間接的に入手する行為は「ソーシング(sourcing)」と呼ばれ、それが情報への特権的なアクセス権を有する一部のユーザーにしか不可能であるがゆえに議論の対象となっていた[4]

ジェンキンスは『サバイバー』のネタバレコミュニティを集合的知性の実践のひとつに位置づける。レヴィは集合的知性を、ネット時代における新たな民主主義の形態として称揚していた。彼にとって、知識コミュニティは民主的な市民の復権という課題の中心に据えられる。そこでジェンキンスは次のように問いかける。たとえば、こうした集合的知性が、テレビ番組ではなく政府を「ネタバレする」とすれば、どのような種類の情報を収集できるか想像してほしい、と[5]

もっとも、コンヴァージェンス・カルチャーには(当然といえば当然だが)ポジティブな面もあればネガティブな面もある。たとえば、Qアノンの人形遣いであるQは、まさに政府を「ネタバレする」ネタバレ師として匿名掲示板に現れたのだった。そう、彼は政府のインサイダー情報を握っていると主張していた。そもそもQというユーザーネームは、国家機密情報にアクセスするために必要とされる、アメリカ合衆国エネルギー省(DOE)のアクセス権限であるQクリアランスに由来する。つまりQは、みずからが最高機密情報にアクセス可能な連邦政府内のインサイダーであることをこの名前によって仄めかしていたわけである。Qは「ソーシング」行為によってみずからをコミュニティ内における特権的な位置に置く。

Qアノンの陰謀論は、その構造自体が代替現実ゲーム的であり、さらに言えばネットにおける参加文化、すなわちコンヴァージェンス・カルチャーを半ば意図的にハックしたものだった、とさしあたりは言えるだろう。Qの投稿の形式的特徴としてまず挙げられるのは、断片的で暗号化された文章、また情報を直接伝えるのではなく、「なぜ~なのか?」といった疑問形を多用した、オーディエンスに問いかけるようなスタイルだ。こうした、きわめて断片的、かつ暗号的で著しく解像度が低い投稿スタイルを、Q自身がいみじくも「パンくず」(crumbs)と表現している。断片的な「パンくず」の集合は、それを解釈する者たちによって「パン生地」へと生成されていく。Qアノンという陰謀論コミュニティに参加するプレイヤーたちは、Qの暗号的なメッセージ=「パンくず」を共同でひとつひとつリサーチして解き明かしていく。すると、点と点とが線で繋がり、その背後にある「大きな物語」、合衆国を脅かす巨大な陰謀が立ち現れてくる。その陰謀とは、ディープ・ステイト、すなわち合衆国政府を影で操り、ユダヤ系グローバルエリートが支配する新世界秩序(NWO)の構築を企む反キリストたる闇の勢力と、それと闘う光の戦士たるドナルド・トランプ、という壮大(epic)な善悪二元論的ドラマトゥルギーである。つまりQアノン陰謀論は、プレイヤーの能動的な参加と協力によって、すなわち集合的知性によって政府を「ネタバレする」ことを目的とした参加型陰謀論とみなすことができるわけである。

レヴィは、やがて全世界が単一の知識文化として機能する、知識の交換と審議のコミュニケーションにもとづく新しいユートピア的デジタル民主主義の到来を予期していた。レヴィがこうした集合的知性によるデジタル民主主義を提唱したのは九〇年代の後半だったわけだが、結局彼のサイバースペース・ユートピアは今に至るまで実現していないし、その気配すらない。集合的知性はそれと相反する集団極性化によって阻まれ、再コード化されてしまっているように思われる。インターネットは、レヴィのヴィジョンを裏切るように、サイバーカスケードとフィルターバブルによる集団極性化を加速させてきた。その末に到来したのが、A.R.ホックシールドが『壁の向こうの住人たち』で描き出したような、人々が「異なる地域に住んでいるだけなく、異なる真実を生きている」かのような情況[6]、すなわち現在における出口の見えないポスト・トゥルース的情況なのである。

百木漠の『嘘と政治: ポスト真実とアーレントの思想』によれば、ハンナ・アーレントは、政治における伝統的な嘘と現代的な嘘を画然と区別していたという。

 伝統的な嘘は、為政者が真実を隠蔽するというかたちで行われるものであって、その嘘は「敵に向けられており、敵のみを欺こうと意図していた」。それに対して、現代的な嘘の特徴は、それが敵に向けられるのではなくて、自国民および自分自身に向けられるという点にある。だからその嘘は、敵よりも嘘をつくもの自身を騙すものでなければならず、自分たち自身を騙すことに成功すればするほど、その嘘は効果を発揮することになる。[7]

現代的な嘘は、それまでの嘘と異なり、「事実からなる織地に穴を開ける」のではなく、「事実の織物全体の完全な編み直し」を狙いとする。すなわち、「現代(リアル)の世界を否定し、それに代わる虚構(フィクション)、あるいは<別のリアリティ>」を創り出そうとする」[8]。それはいわば、現実世界にもうひとつの別の現実を重ね合わせることで、現実それ自体を書き換えることを目的とする。アーレントのいう現代的な嘘は、対象(=真実)の否定ではなく、むしろそれに代わるオルタナティヴな対象(=真実)を生成させるという点において「構成的」であり、現代におけるQアノン的な陰謀論とも親和的であるといえよう。

アーレントによれば、大衆は複雑性と偶然性に満ちた理不尽な現実に耐えきれず、それよりも論理的に首尾一貫した虚構の統一的体系のほうを好む[9]。事実、陰謀論には「偶然」というファクターは存在しない。すべての事象は厳密な因果関係決定論の網の目によって決定される。そう、すべては繋がっている。すべては必然なのである。たとえば、陰謀論者にとっては、コロナウィルスの出現は決して偶然などではなく、何者かによって、何らかの意図によって、必然的に生み出されたのである。ウィルスの出現という事象の背後には、覆い隠された不可視の因果関係のネットワークがひしめいている。

かつて新たな「公共空間」として夢見られたサイバースペースは、しかしGAFAをはじめとする寡占企業によって市場化が進められ、今では各企業のプラットフォームとアーキテクチャによる統制と区画整理の下にある。かつてのノマド的空間は、各プラットフォームのタイムラインに定住民が住まうスタティックな空間となった。

現在の、各人が「異なる真実を生きている」かのような情況、とりわけインターネットにおけるフィルターバブルの瓶詰地獄は、自分の思想や嗜好を同じくする者同士の閉じたクラスタを醸成させてやまない。こうした分極化、交通が閉ざされた島宇宙、トライブの群れがインターネット上に生み出される現象を、キャス・サンスティーンは「サイバーカスケード」(集団極性化)と呼んだのだった。断絶は他者との対話や偶然的な出会いを阻み、当然ながら「公共空間」は成立しえない。私的領域と公的領域の区分は意味を喪い、アーレントのいう「活動」のための空間、共通世界としての公的領域は消失する。言い換えれば、アーレント的な意味での「政治」はそこでは遂に否定されざるをえない。その帰結のひとつが、二〇二一年一月に起きた、Qアノン信奉者らによる議事堂襲撃事件であることは論を俟たないだろう。

現在、共通世界としての公的領域は存在しないどころか、もはや必要とされてすらいない。たとえば新反動主義者らは「自由と民主主義は両立しない」と決然と主張し、公的領域の一切を私的領域に還元しようとする。彼らは公的領域から一斉にイグジットし、海上にリバタリアンの独立国家を建設しようと試みる。

もっとも、共通世界の喪失は、アーレントが彼女の生きた同時代に対して下した診断でもあり、その意味では目新しい問題ではない。むしろ、共通世界の喪失は「近代」に常に取り憑いてきた「世界疎外」の問題としてアーレントの前に立ち現れていた。アーレントは「世界疎外」の情況を砂漠になぞらえる。私たちは砂漠に生きている。砂漠にあって個人は「誰でもない者」と化し、砂嵐の脅威、すなわち全体主義の危険に見舞われている。それゆえに、意味を喪失した砂漠と化していく世界の只中に共通の空間としてのオアシスが建設されねばらない。しかし、ともすればオアシスは消滅し、砂漠が復活し、そこに砂嵐がふたたび接近する。その意味で、オアシスは決して安定した堅牢なものではない。オアシスは「休息」の場とはなりえない。それは干上がり砂漠に飲み込まれる可能性に常に曝されている。この点について小野紀明は、「要するに、アーレントの政治哲学の核心は、砂漠とオアシスの緊張関係のなかに身を持することにある」と断言している[10]

共通世界の喪失をノスタルジックに嘆くことに意味はない。それは今に至るまで喪失を不断に繰り返してきた。共通世界、それはアドホックに、そのつど新たに形成される仮初の領域にすぎない。それは、(時間的ないし空間的に)同一のものでも普遍的なものでも、さらに言えばカント的な意味での「超越論的」なものでもない(よって、逆説的ながら、共通世界には、同一性にもとづいて予め「共有されたもの」など存在していない、と言わなければならない)。となれば問題となるのは、未来に向けて、いかにして共通世界を創造=想像するか、である。過去は問題とならない。この点についても参考になるのは、「政治における嘘」を批判しながら、にも関わらず「活動する能力」と「嘘をつく能力」の間には親和的な連関があり、しかもそれらは「想像力」という共通の源泉を持っている、と述べるアーレントのテクストに注目する百木による以下の記述であろう。

 「活動」によってなにか新しいことを始めるためには、「以前からあったものが取り除かれるか、壊されなければなら」ず、「さまざまな事物がいま現にあるのとは異なるものであるかもしれないことを想像すること」ができなければならない。つまり、この世界に新たな「始まり」をもたらすためには、現状の世界を変革するためには、現在の世界のあり方に「ノー」を突きつける必要がある。そして現在とは異なる「別の世界」を想像(構想)し、それに向けて世界を変えていかなければならない。[11]

「活動」によって新たな「始まり」を、言い換えれば共通の空間をこの世界にもたらすためには、今この現実とは異なるもうひとつの世界を「想像=創造」する必要性がある。共通世界は、未来を先取りする行為遂行的(パフォーマティヴ)な「活動」によって打ち立てられる虚構(フィクション)を常に土台としている、という意味でそれはユートピア的ですらある。そして、アーレントの思想とSF的な想像力とがマーク・フィッシャーを媒介として結びつくのも、ここにおいてなのである。以下は、「路傍のピクニック」と題された、テッド・チャン、ケン・リュウ、エルヴィア・ウィルク、ユージーン・リムの四者による座談の中で、チャンがフィッシャーを引きながらSFの使命について述べている箇所からの引用である。

SFに元型的なストーリーがあるとしたら、こういう感じだろう。初め、世界は馴染みのある場所として登場する。やがて新しいイノベーションなり発見なりが大々的な影響をもたらして、その世界は永久に変わってしまう。これは、伝統的な「善vs悪」のストーリーとは根本的に違う。後者では、悪に対する勝利は物事が平常に戻ることを意味するから。大雑把に言うと、善玉が悪玉をやっつける物語は現状の維持がテーマであり、SFは現状の転覆がテーマだ。だからこそ、SFは潜在的に政治性を帯びている。SFは変化についての物語だから。

昨年、批評家のマーク・フィッシャーの言葉をたまたま読んだ。「解放の政治は、これまで不可能だとみなされてきたものを達成可能に見えるようにすることがその使命であるのと同じく、常に『自然律』という見せかけを打破せねばならない。必要かつ必然だとされるものが、実は単なる偶然にすぎないことを暴かねばならない」。これこそSFの目指すところだ。[12]

「活動の能力」とSFは、さながら自然法則であるかのように振る舞う現状が、実は単なる偶然的なものでしかないことを暴き立てる。それは同時に、すべての事象が体系的な因果関係決定論に規定される、「すべては必然である」とする陰謀論的虚構にも「否」を突きつけるだろう。私たちは、非線形的なカオスの流動性が律する砂漠に生きざるをえないのだ。そこにあっては、オアシスは、未来は、「予測」することではなく「創造」することによってしかもたらされない[13]。未来は無限遠点に位置する接近不可能な対象などではない。未来とは、異なる視点で見られた現在の名であって、それは常に既に現在の中に埋めこまれている。未来とは潜在的なものに与えられた名であり、言い換えれば未だ現実化されていない「すべて」である。潜在性の領野から複数の未来を、「ここではないどこか」を掴み取ること、それだけがこの砂漠の世界に新たな「始まり」をもたらすことができる。


[1] ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー: ファンとメディアがつくる参加型文化』渡部宏樹、北村紗衣 、阿部康人訳、晶文社、二〇二一、二四頁
[2] 同上、六五頁
[3] 同上、六二〜六三頁
[4] 同上、九五〜一〇三頁
[5] 同上、六八頁
[6] A.R.ホックシールド『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』布施由紀子訳、岩波書店、二〇一八、三六〇頁
[7] 百木漠『嘘と政治: ポスト真実とアーレントの思想』、青土社、二〇二一、四四頁
[8] 同上、四四〜四五頁
[9] 同上、五四頁
[10] 小野紀明『二十世紀の政治思想』岩波書店、一九九六、一四二頁
[11] 前掲書、『嘘と政治』、九三頁
[12] https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/culture-ja/roadside-picnic
[13] 樋口恭介『未来は予測するものではなく創造するものである: 考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』筑摩書房、二〇二一

9 もうひとつの現実世界──ポスト・トゥルース時代の共同幻想(前編)

Netflixオリジナルドキュメンタリー『事件現場から: セシルホテル失踪事件』は、2013年に起きたエリサ・ラム事件を題材としている。21歳のカナダ人女性エリサ・ラムが、旅行先のホテルで失踪し、その後ホテルの貯水槽から遺体となって発見された事件である。

現場となったセシル・ホテルは、ロサンゼルスの犯罪多発地区スキッド・ロウに程近い場所に位置し、過去に幾度も凄惨な事件がこのホテルで発生したことからも悪名高い。1964年には、元電話交換手の女性ゴールディー・オズグッドの他殺死体がこのホテルの一室で発見されている。オズグッドは、近くのパーシング広場で鳩に餌をやっていたことから、ピジョン・ゴールディーというニックネームで近隣住民の間で知られていた。彼女の遺体のそばには、彼女がいつもかぶっていたロサンゼルス・ドジャースのキャップと、鳥の餌が詰まった紙袋があった。彼女は強姦されていた。犯人はいまも捕まっていない。他、拳銃自殺、飛び降り自殺、薬物のオーバードーズによる事故死、等々、少なくとも16の突然死や原因不明の死がこのホテルに関わっている[1]。1984年から1985年にかけては、「ナイトストーカー」の異名で呼ばれる、13人の殺害に関与した連続殺人鬼リチャード・ラミレスがこのホテルの最上階に滞在していた。

エリサ・ラムが最後に目撃されたのは2013年1月31日だった。ホテルの監視カメラには、彼女の姿が捉えられていた。失踪から二週間が経過しても手がかりが掴めず痺れを切らしたロス市警は、その映像の公開に踏み切った。目的は市民の協力を仰ぐためだったが、事態はロス市警の思いもよらぬ方向へと捻れていくこととなる。

そのエレベーターの映像は奇妙で不可解なものだった。カメラに映るエリサ・ラムは、落ち着きなくエレベーターのパネルを執拗に操作するなど、まるでその挙動は見えない何者かの追跡から逃れようとしているように映った。彼女がカメラから消える直前、その手は存在しない何かに触れようとするかのように中空をゆっくりと彷徨っていた。それはさながら、この世ならぬ霊を呼び寄せているようでもあった。この奇怪なエレベーターの映像がYouTubeに転載されると、すぐさまネット上を駆け巡り、それと同時にインターネット探偵たちによる推理合戦がはじまった。

英語圏のネットには、行方不明や未解決の犯罪に焦点を当て、ユーザー同士の集合知によって事件の解決を目指すフォーラム形式のコミュニティが存在する。たとえばそのうちのひとつ、Websleuthsというフォーラムは、1999年に設立されて以降、2018年の時点で13万人以上の登録ユーザーを擁する[2]。このフォーラムには、エリサ・ラム関連のスレッドが今も数多く残されたままになっている。こうしたコミュニティはRedditや掲示板を含め、ネット上に広く存在する。たとえば2009年には、宝くじで数百万ドルを当てたフロリダ州の労働者、エイブラハム・シェイクスピアの殺人事件の解決にネット探偵たちが寄与している。ゾディアック・キラーが当時メディアや警察に送りつけた暗号文を今も解読すべく奮闘しているコミュニティも存在する[3]

頭脳を結集し、皆で協力し合えば、この事件を解決できるはずだ。エレベーターの映像を見た、現代の安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)たるネット探偵たちはそう確信していた。彼らはただちに不可解な映像の解析を試みた。すると、映像に付されたタイムスタンプに加工が施されて読み取れないようになっている、映像の速度がわずかに落とされている、明らかに数秒間のカットされたシークエンスがある等々、映像自体に意図的な編集を施された箇所が複数存在することが判明した。この点を不信に思ったネット探偵たちは、カットされた空白の数秒間に、映ってしまっては都合の悪い人物が映っていたのだと推理した。彼女が逃れようとしていた見えない追跡者の存在、それが俄然リアリティを帯びて立ち上がってくる。ホテル側が警察に映像を引き渡す前に編集したのだろうか。ホテル内で隠蔽工作があった、とでも言うのか。謎はかえって深まっていくかのようだった。

2月19日、事態は思わぬ形で最悪の局面を辿る。蛇口の水が黒く変色していると苦情を受けたホテルの従業員が屋上の貯水槽のひとつを確認したところ、その中に浮くエリサ・ラムの遺体を発見したのだった。

異様な形での遺体の発見に、ネットではすぐさま他殺説が唱えられた。ホテルに対するネットの関心はこの時点ですでに頂点に達していた。軽薄なYouTuber、それとネット探偵たちが捜査のために、さながら聖地巡礼のようにセシル・ホテルに詰めかけた。

一方、警察の捜査が難航するにつれて、ネット探偵たちの推理もまた熱を帯びてきた。遺体発見からすでに4ヶ月が経とうとしていたが、警察による検死報告書は未だに公開されていなかった。このことも、ネット探偵たちを苛立たせた。報告書が遅れているのには、それなりの理由(ただし明かすことのできない)があるに違いない。彼らの間にそのような疑念が生まれた。ホテル従業員犯人説を採るネット探偵は、ホテルは大掛かりな隠蔽工作に手を委ねていると推理していた。だが今や、そこに市警による隠蔽という新たな段階の仮説が生まれる。

そんな中、エリサ・ラムの失踪事件は、映画『ダーク・ウォーター』(邦画『仄暗い水の底から』のアメリカリメイク作品)の筋を巧妙になぞったものではないか、という説を唱える者が現れ出た。蛇口から出る変色した水、登場人物とエリサの服装の類似、等々。だが何よりの類似点は、少女が屋上の貯水槽に落ちて死ぬというくだりだ。倒錯した快楽殺人者が、エリサを利用して映画のプロットを再現しようとしてみせた、とでもいうのだろうか。それとも単なる偶然に過ぎないのか。

やがてネット探偵たちは、立ち現れるいくつものシンクロニシティ(共時性)に魅入られていく。たとえば、エリサの滞在中、スキッド・ロウで結核の流行が起きていた。結核の流行がはじまったのは、遺体発見の数日後だった。だがそのうち奇妙なことに気づいたネット探偵がいた。開発中の結核の新検査法が、LAM−ELISA法と名付けられているのだった。この不気味な符号を前にして、ネット探偵コミュニティの間では、エリサ・ラムは化学兵器だったとする陰謀論をまことしやかに唱える者が現れはじめた。彼女はスキッド・ロウの路上生活者を駆逐するために連邦政府から派遣されたのか? そして、知りすぎた彼女は消された――。他にもあるネット探偵たちは、彼女が失踪当日に目撃された書店について調べだした。彼らはその書店のドメイン情報をデータベースで検索した。驚くべきことに、割り出した登録業者の郵便番号をグーグルマップに入力すると、エリサの眠る墓地があるバーナビーにピンが表示されることが判明した。――これらはすべて偶然でしかないのか? いや、偶然のはずがない。すべては繋がっている。かくして、解釈が解釈を、謎が謎を呼び、コミュニティは政府機関による陰謀説、儀式殺人説、オカルト説、等々が入り乱れて紛糾していった。

エリサ・ラム事件を追うネット探偵たちは、いわば現実の犯罪を対象とした代替現実ゲーム(alternate reality game:ARG)に意識せずに参加していた、とはいえないだろうか。

代替現実ゲームは、現実と仮想を意図的に交叉(alternate)させることを大きな特徴とする。代替現実ゲームの元祖と見なされているのは、2001年の映画『A.I.』のプロモーション用に企画制作された「ザ・ビースト」というゲームである。このゲームの参加者たちは、ワーナー・ブラザーズが用意した数十のウェブサイト、プロモーションポスター、企業情報、映画スクリプト、FLASH動画、さらには実際にかかってくる電話やFAXなどに断片的に仕込まれたナラティブを集めていく。それらの断片を正確に繋ぎ合わせると、徐々に巨大な陰謀の存在が明らかになっていく仕掛けだ。図らずも、「ザ・ビースト」は架空の登場人物エヴァン・チャンという女性の不可解な死とその犯人探しを軸にストーリーが展開していく、というものだった。このゲームで提示されたパズルは個人で立ち向かうにはあまりにも難解だったので、Yahoo!グループなどに「ザ・ビースト」を解くための情報交換を目的としたコミュニティが出現した。

代替現実ゲームの立役者のひとりによると、代替現実ゲームは次のように定義されるという。「オンラインと現実の世界空間で行われる双方向的ドラマで、数週間から数ヶ月かけて起こり、そこでは数十名、数百名、数千名のプレイヤーがオンラインに集い、協働的なソーシャルネットワークを形成し、ひとりでは全く解決できないようなミステリや問題を一緒に解決する」[4]。代替現実ゲームは、現実と仮想の境界を切り崩す。代替現実ゲームは、現実世界にもうひとつの現実を重ねることで、世界を巨大な謎解きゲームの空間へと変容させる。2007年には、映画『ダークナイト』のプロモーション用ARG「Why So Serious?」が世界的にも大きな注目を集め、その参加者数は全世界で1千万人以上といわれた。同ARGはカンヌライオンズのサイバー部門で金賞を獲得している[5]

 

「ザ・ビースト」とは別に、代替現実ゲームにはもうひとつの先祖とでも呼ぶべきものが存在する。それは「オングズハット(Ong's Hat)」と呼ばれる初期の参加型インターネット都市伝説/陰謀論である。以下では、Jed OelbaumがGIZMOTOに寄稿した記事「Ong's Hat: The Early Internet Conspiracy Game That Got Too Real」[6]を参照しながら、この奇妙でボルヘス的なプロトARGについて少し見ていこうと思う。

オングズハットとは、ニュージャージー州はパイン・バレンズの森の奥深くに実在したゴーストタウンの名前である。そこがどのような村だったのかは定かでない。言い伝えによれば、17世紀に入植したジェイコブ・オングという人物が、痴話喧嘩のすえ、怒って自分の帽子を木に投げつけたという逸話からこの名前がついたという。現在までに、村は完全に森に飲み込まれてしまったが、付近を通るオングズハット・ロードにその名をかろうじて残している。

だがあるときを堺に、そこではかつて何か異様なことが起こったという噂が渦巻きはじめた。神秘主義に彩られた科学と超常現象の交叉によって現実そのものが歪められ、この世とは異なるもうひとつの世界への扉が開かれた、というのだ。

きっかけは、80年代後半に忽然と出回りはじめたパンフレット「オングズハット:多次元へのゲートウェイ、カオス研究所とムーア人科学僧院のフルカラーパンフレット」の存在だった。それによれば、かつてオングズハットは、量子力学者ドブス兄弟の秘密実験のための場だった。付近には、神秘主義者ワリ・ファードが、ムーア人科学僧院を設立していた。やがて、科学者と神秘主義者が出会い、瞑想、物理学、錬金術、そして遠隔透視を含む形而上学的な領域をこれまでにない方法で融合させ、未踏の実験のための境地を開拓した。パンフレットには、彼らが複雑怪奇な実験を繰り返した末、ついに並行世界間のベールを突き破り、異次元への移動を可能にするポッド「エッグ」を完成させた、と記述されている。しかし、付近の軍事基地で起きた不信な原発事故により、放射能汚染の危険に曝されると、彼らはエッグのテクノロジーを用いて住民たちと僧院を丸ごと並行世界の地球に転送させ、ゲートウェイのための建物だけをそこに残した。パンフレットの末尾では、オングズハットへの招待と、そこで超次元コミュニティを発見してくれるよう読者へ呼びかけているが、それがさほど容易でないことも補足している。

インターネットが普及しはじめると、「オングズハット」についての断片的かつ暗号的な投稿が散見されるようになる。ニュージャージー州での兵器級プルトニウムの流出、政府による隠蔽工作、等々。「オングズハット」のパンフレットが、ひそかにオンライ上の陰謀論サークルの間を回遊しはじめたのもこの頃である。というのも、90年頃に現れた、特定の稀覯本を集めた「インキュナブラ」と呼ばれるカタログに、例のパンフレットが収録されていたからだ。

このカタログは、エモリー・クランストンという人物が編集したとされており、その序文によると、このカタログに掲載されている作品を体系的に読んでいくと、並行宇宙探査にまつわる秘密の科学史が浮上してくるという。「インキュナブラ」には、例のパンフレットと一緒に、様々な極彩色の書籍や小冊子――科学、瞑想、スーフィー神秘主義、オカルト、等々――が並んでおり、中には実在を確認することが不可能な書籍も巧妙に含まれていた(たとえばエヴェレットの多世界解釈とスーフィーや密教における輪廻概念を統合させたといわれる、Kamadev Sohrawardi博士による『Pholgiston & the Quantum Aether』なる書物)。

カタログにはニック・ハーバートという(実在する)物理学者の書籍も含まれている。彼は70年代にローレンス・バークレー国立研究所のFundamental Fysiksグループに所属し、そこでの共同研究が現代における量子情報科学の基礎を形成したと言われるが、そこでは同時に量子神秘主義に繋がる研究もなされるなど、当時のカウンターカルチャー的な空気を色濃く身に纏うものでもあった。「インキュナブラ」にはハーバートの代表的な著作に混じって、Harper & Row社が出版を差し止めたとされる『Alternate Dimensions』という著作の未修正ゲラが収録されていた。この書物には、世界間の移動に関する最も正確で厳密な情報が記されているとのことだった(奇しくも、ハーバートは自身の個人サイトで、「量子タントラ」と呼ばれる概念に言及し、「扉」を発見したこと、シャーマニズムの概念と現代物理学を結びつけたことなどについて記述していた)。

90年代から2000年代初頭にかけて、ウェブフォーラムや個人のブログサイトで「オングズハット」はインターネット探偵たちの耳目を集め、それらにまつわる考察、理論、調査報告が急速に増殖する。それはまさしく集団的ストーリーテリングの実験だった。このナラティヴに参加する者の多くは、ニュージャージー州の森のどこかにオカルト科学者集団の僧院が実在すると本気で信じていたわけではなかった。この共同フィクションの試みは、創始者であるアーティストのジョセフ・マシーニーと彼の友人たち(その中の一人に『T.A.Z.―一時的自律ゾーン 』で知られるハキム・ベイがいた)が80年代からメディア越境的に積み上げてきたものだった(たとえばマシーニーは何年もの間、オンライン上で「オングズハット」の真相を探るインターネット探偵の仲間を装い、自分の調査で明らかになったことをコミュニティに伝えていた)。だが、その現実とフィクションの境界を曖昧にさせていく性格上、「オングズハット」にまつわる伝説や文献が増加するのと並行して、それを真に受ける人々が増えていくのも時間の問題だった。遂にはマシーニー本人の身にまで危害が及ぶに至って、彼は実験を中止せざるを得なくなった。2001年、マシーニーは「オングズハット」が自身の創作物であることを明かしたが、彼の告白を真に受けようとしない者も多く、「オングズハット」の捜索は現在もなお続いている。

 

『パラノイア合衆国』の著者ジェシー・ウォーカーは、こうした現実と虚構の境界を曖昧にする代替現実ゲームに見られる構造と陰謀論に没入するパラノイア性との親和性について、次のように指摘している。

 プレイヤーは現実世界とゲームの世界を同時に生きるため、代替現実ゲームはアイロニスト・スタイルが求める複数の視点を必要とする。[……]「ザ・ビースト」の場合は、現実世界と仮想世界の境界があまりにあいまいになるため、テロリストが世界貿易センタービルに突っこんだとき、ゲームを解くフォーラムは9・11の謎を「解く」計画について話しあいはじめた。ある典型的な発言はこうだった。「これはわれわれのやり口に似ている。物をばらばらにして、その意味を探るんだ」。ほどなく、グループの主宰者は注意を喚起する必要を感じ、「われわれのために隠された手がかり」と実際の事件で残された手がかりの違いを指摘した[7]

次回以降より詳しく見ていくように、代替現実ゲームに見られるような集団的ストーリーテリングは、往々にしてエコーチェンバー(集団極性化)効果を招来しやすく、そこでの閉じたナラティヴは共同幻想と区別を付けることが困難となる。そこにおいては、一部の参加者が過激化する傾向も少なくない。2021年1月6日に起きた、アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件をひとつのピークとするQアノン陰謀論について考える際にも、代替現実ゲームは有用な視座を与えてくれるだろう。Qアノンの信奉者たちもまた、ひとつの集団的ストーリーテリングを生成する過程で、現実と虚構を交叉(alternate)させ、もうひとつの別の(alternative)現実世界を創造しようと試みたのだ。

 

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_deaths_and_violence_at_the_Cecil_Hotel
[2] https://en.wikipedia.org/wiki/Websleuths
[3] https://www.oxygen.com/crime-time/who-is-todd-matthews-how-did-internet-sleuthing-start
[4] ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー: ファンとメディアがつくる参加型文化』 渡部宏樹、北村紗衣、阿部康人訳、晶文社、2021、233頁
[5] https://realsound.jp/tech/2020/11/post-649414.html
[6] https://gizmodo.com/ongs-hat-the-early-internet-conspiracy-game-that-got-t-1832229488
[7] ジェシー・ウォーカー『パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》』鍛原多惠子訳、河出書房新社 、2015、408〜409頁