4 バロウズとフーコー(中編)──デスバレー、1975年

1984年6月29日早朝、太陽はまだ姿を見せていない。だがサルペトリエール病院の裏手にある小さな庭には、すでに数百名の人々が短い別れの儀式のために集まっていた。長い沈黙のあと、ジル・ドゥルーズのかすれた声が、『快楽の活用』の序文の一節を朗読しはじめる[1]

私を駆り立てた動機はというと、それに反して、ごく単純であった。ある人々にとっては、私はその動機だけで充分であってくれればよいと思っている。それは好奇心だ――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして、知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにどれほどの価値があろうか? はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠されてさえいればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業の、せいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるにちがいない。しかし、哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったい何であろう? 自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?[2]

それから数時間が経ち、フーコーの遺体はヴァンドゥーヴル・デュ・ポワトゥーに運ばれ、近親者と村人の見守るなか埋葬された[3]。棺の上には一束の薔薇の花が置かれていた[4]

バロウズはタンジールに滞在する過程において、権力の〈外部〉は存在しない、ということをその肌身で感じ取ったはずだった。しかし、そのことはバロウズにとっては造作もなく理解できた。

「第二回」で見たように、バロウズが「コントロール」と呼ぶ図式は、常に「関係」、たとえば麻薬の密売人と常習者との関係であって、それも一方的な関係というよりは、常習者側の欲望=需要が供給を生み出し、その供給が翻って常習者の欲望を再帰的に増幅させることで主体化=従属化させるという、すなわち麻薬におけるディマンドサイド経済学のフィードバック・ネットワークが形成されているのであって、だから本当に問題なのは「上=支配者」ではない。いみじくも、バロウズは『裸のランチ』の序文で次のように書いていた。

もし一連の数字のピラミッドを破壊しようと思ったら、底の数字を変えるか破壊すること。もし麻薬ピラミッドを破壊したければ、ピラミッドの底辺からはじめなくてはならない。つまり、街頭の麻薬中毒者から。英雄気取りで「てっぺんの連中」をつつきまわすのはやめることだ。そんな連中はすぐにでも首をすげ替えられるのだから。麻薬方程式において、唯一すげ替えることができない項は、生きるのに麻薬がどうしても必要な街頭の中毒者なのだ。麻薬を買う中毒者がいなくなれば、麻薬の密売もとまる。麻薬のニーズがある限り、誰かがそれを供給する。[5]

フーコーも同様に、権力の外に出ることはできない、とにべもなく主張する。権力は遍在する。権力は下からやってくる、等々……。権力は、〈否〉を言う権力、何かを禁止し、抑圧し、否定する力だけではない。それどころか、権力は何かを生産し、〈肯定〉し、行動や選択の可能性を作り出し、主体を生成する。それは自由が行使される際の諸条件さえ作り出す。よって、権力は自由と対立しない。自由は権力の生む効果の一つにすぎない[6]。麻薬中毒者はどこまでも自由である。自身が麻薬と売人によって主体化=従属化されていることに気づくまでは――。

従って、フーコーにおける対抗政治のモデルは、「解放」ではなく「抵抗」となる。遍在する権力の網の目のネットワークの只中に抵抗拠点を見出すこと。

――権力のある所には抵抗があること、そして、それにもかかわらず、というかむしろまさにその故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。人は必然的に権力の「中に」いて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものはない。(中略)権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中には至る所に現前している。権力に対して、偉大な〈拒絶〉の場が一つ――反抗の魂、すべての反乱の中心、革命家の純粋な掟といったもの――があるわけではない。そうではなくて、複数の抵抗があって、それらがすべて特殊事件なのである。可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している。這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。[7]

それでは、遍在する権力に対する有力な抵抗とは具体的にどのようなものがあり得るのか。デイヴィッド・M・ハルプリンは、いくつかの例を挙げている。たとえば、「創造的な盗用と再記号化」、「盗用と演劇化」、「暴露と脱神秘化」など[8]。深くは立ち入らないが、これらは、いずれも言語や記号のコードをパロディや転用によって意味内容を異化させたり機能不全に陥らせることを目的としている。

たとえば「クィア」(変態)といった本来は侮蔑的な意味内容を持つ記号に対して、もう一つの対抗的な記号を持ち出してくるのではなく、それに寄生して、ハッキングを仕掛け、本来のコードを異化させるという初期クィア理論に顕著であった戦略も、これらに含まれるだろう。この点についても、フーコーは正しく以下のように述べる。

一方に権力の言説があり、それに対峙して、他方に権力に対抗するもう一つの言説があるのではない。言説は、力関係の場における戦術的な要素あるいは塊である。同じ一つの戦略の内部で、相異なる、いや矛盾する言説すらあり得る。反対に、それらの言説は、相対立する戦略の間で姿を変えることなく循環することもあり得る。[9]

権力の只中にこそ抵抗拠点を探し求めなければならない。バロウズにとっては、ヘロイン中毒から脱するために受けた麻薬治療――アポモルフィン療法がそれであったかもしれない。

ロンドンのジョン・ヤーバリー・デント医師は長年アルコール依存症の治療に携わってきた専門家で、四十年にわたる経験からアポモルフィンという薬が依存症の治療に有効であることを突き止めていた。アポモルフィンは、モルヒネから派生して作られるモルヒネ化合物で、これが体の代謝システムに関わっているらしいことを発見したデント医師は、アポモルフィンをヘロイン依存症患者の治療に応用しはじめた。[10]

治療法はシンプルである。禁断症状を抑えるためのモルヒネの投与量を急激に減らしていく一方で、モルヒネと分子構造がきわめて似通った大量のアポモルフィンを投与して代替していくのである。脳のモルヒネ受容体に、きわめて似通った構造をもつアポモルフィンをあたえることで脳をだまし、受容体をアポモルフィンでふさいでしまう。しかしアポモルフィンはモルヒネと異なり快楽をもたらさず、かわりに依存性もない。そして脳がモルヒネをもらったと勘違いしている間に体の代謝システムは、二週間ほどかけて徐々にモルヒネなしで機能する状態にもどっていく[11]

毒をもって毒を制す、ではないが、このモルヒネをハッキングすることで得られる異化されたモルヒネ化合物によって依存症に「抵抗」するというアポモルフィン治療法がバロウズに劇的に機能したのだ。結果、見事に麻薬中毒から足を洗うことに成功したバロウズは、タンジールに戻るやいなや猛烈な勢いで小説の執筆をはじめる。それは後に『裸のランチ』として日の目を見ることになる。

抵抗としての言説は、異化と現実に対する反作用を、――効果(エフェクト)を引き起こす。筆者は「第二回」でバロウズの戦略として、「武器としてのテクスト」を採り上げた。念の為、再度確認しておこう。

バロウズはポストモダニズムにおける表象的リアリズムからどこまでも逸脱していくだろう。というのも、彼はテクストではなく武器を作っていたのだから。テクスト内の物語に武器が現れるということではない。それは武器の表象であって武器それ自体ではない。そうではなく、バロウズはまさしく武器それ自体をタイプライターを用いて製造していたのだ。それは世界に介在し、そして世界を変容させる。変容させることができなければ、武器に意味などない。バロウズはどこまでもプラグマティックな作家だった。[12]

これは正しくフーコーも採用していた戦略であった。フーコーはみずからのテクストを「爆弾」と呼び、みずからを「花火師」と呼ぶことに躊躇しなかった。

わたしのディスクールは一つの道具のようなもの、むしろ一つの武器のようなものなのです。あるいは火薬の詰まった袋のようなもの、火炎瓶のようなものなのです。最初の譬えに戻るならば、これはある花火師(アルティフィシェ)の物語なのですから……。[13]

爆弾は、真理のゲームの中に投げ込まれ、それ自体を現実化させるフィクションとして炸裂する。フーコーは、「私はこれまでに虚構以外のものはいっさい書いたことはありません」とまで発言している。

虚構(フィクション)の問題についていいますと、これは私にとって非常にたいせつな問題です。私はこれまでに虚構以外のものはいっさい書いたことはありません。はっきりとそう自覚しております。が、だからといってそれが真理の外にある、というつもりはない。虚構を真理の中で働かせ、虚構の言説をもって真理の効果をもたらす可能性はあると思っています。いまだ存在しない何ものかを真理の言説が誘発し、つくりあげ、したがって「虚構をつくりだす」、そういう可能性はあると思います。歴史に真理をあたえる政治的現実から出発して歴史を「つくりだし」、歴史的真理から出発して、いまだ存在しないひとつの政治を「つくりだす」のです。[14]

フーコーのこうした態度を、単なるポストモダン的言辞を連ねた相対主義的戦略と批判する向きもあるかもしれない。現にこうした戦略は、今ではポスト・トゥルースとして、虚構の言説の反乱を招いているではないか、と。

すべてが真理を巡る言語ゲームに過ぎないのであれば、何が真で何が偽かを分かつ超越的な審級は存在しないということになる。それは抵抗を生む代わりに、一種の閉塞感をも生み出していく。とりわけ、トランプ政権の誕生を見た現在にあってはとくに。

すべては権力関係(権力は遍在する)であり、すべては真理を巡る言語ゲームにすぎないとしたら、我々に出口は残されていないということになる。もちろん、フーコーも再三そのように言ってきた。だが、やはりそこには袋小路しかなかったのではないか、と問うのはやはりジル・ドゥルーズである。

『知への意志』に続く長い沈黙のあいだに一体何が起こったのだろうか。たぶんフーコーは、この本に結びついたある種の誤解を感じていた。彼は、権力関係の中に閉じこもってしまったのではないか。彼は自分自身に、次のような反論をむける。「私たちは、一線を越えること、別の側に移動することがやはりできないままでいる……相変わらず同じ選択、権力の側に、権力が言うこと、言わせることの側にある……」。[15]

いかに「線を越える」か。そして、いかに外の力としての生に到達するか。ドゥルーズは、フーコーの八年に及ぶ沈黙の中に、決定的な転回の音を聞き取ろうとした。ドゥルーズにとって、『快楽の活用』以降の、生の技法と身体の快楽をテーマとしたフーコーの一連の仕事は、まさに「線を越えること」、すなわち外の力としての生に関わってくるものとして捉えられた。

だが、このことは『知への意志』の最終章においてすでに部分的に予告されていた、とも言える。そのある箇所で、フーコーは次のように書き付けている。

もし権力による掌握に対して、性的欲望の様々なメカニズムの戦術的逆転によって、身体を、快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値あらしめようとするなら、性という決定機関からこそ自由にならなければならない。性的欲望の装置に対抗する反撃の拠点は、〈欲望である性〉ではなくて、身体と快楽である。[16]

もはや権力に対する抵抗の拠点は、虚構の言説でも爆弾としてのディスクールでも、あるいは創造的な盗用と再記号化でも、盗用と演劇化でも、暴露と脱神秘化でもない。権力に対する抵抗の拠点、それは身体と快楽である。

そして、今や冒頭のフーコーの葬儀に戻る。ドゥルーズが朗読する『快楽の活用』。「はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか」。「自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心」。そう、たしかにフーコーは「外の力としての生」にアクセスしていたのだ。しかし、それはどのようになされたのか? 言い方を変えれば、転回はフーコーの内部においてどのように行われたのか? 手がかりは意外なところから現れた。

2019年3月、唐突に一冊の書物がアメリカで出版された。題名は『Foucault in California』。著者はSimeon Wade。1975年におけるカリフォルニアはデスバレーでのフーコーのLSD体験を同行者の著者がレポートした書物である。これの元となった121ページにおよぶタイプ原稿は、ジェイムズ・ミラーによる評伝『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』(1993)の中でその内容の一部がすでに明らかにされていたが、それ以降さほど顧みられることもなかった。たとえば、1993年に出版された伝記『The Lives of Michel Foucault』では、著者のDavid Maceyはフーコーのデスバレー・トリップについてはっきりと懐疑的な姿勢を示している[17]。だが現在では、デスバレーでの出来事が「本当」に起こった事実であったことは、数々の証拠(フーコーの手紙、デスバレーで撮られた写真、等々)によって立証されている。よって、残された問題は、フーコーのLSD体験が、彼のその後の思想形成にどのような(直接的/間接的)影響を与えたのか、という点である(ちなみに、フーコーはデスバレーでの体験を「わが人生最大の経験」とまで言っていた)。

我々は向かわなければならない。あの場所へ。あの砂漠へ。デスバレー、ザブリスキー・ポイント、1975年。

[1] 『ミシェル・フーコー伝』D・エリボン、田村俶訳
[2] 『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』ミシェル・フーコー、田村俶訳
[3] 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』所収、「年譜」ダニエル・ドフェール、石田英敬訳
[4] 前掲書、エリボン
[5] 『裸のランチ』河出文庫、W・バロウズ、鮎川信夫訳
[6] 『聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて』デイヴィッド・M. ハルプリン、村山敏勝訳
[7] 『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー、渡辺守章訳
[8] 前掲書、ハルプリン
[9] 前掲書、『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー
[10] 『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』旦敬介
[11] 前掲書、旦
[12] http://s-scrap.com/3033
[13] 『わたしは花火師です―フーコーは語る』ちくま文庫、ミシェル・フーコー、中山元
[14] 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅵ』所収「197 身体をつらぬく権力」
[15] 『フーコー』河出文庫、G・ドゥルーズ、宇野邦一訳
[16] 前掲書、『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー
[17] Blowing the Philosopher’s Fuses: Michel Foucault’s LSD Trip in the Valley of Death By James Penner. https://lareviewofbooks.org/article/blowing-the-philosophers-fuses-michel-foucaults-lsd-trip-in-the-valley-of-death

3 バロウズとフーコー(前編) ──タンジール、1954年

ダニエル・ドフェールが作成したミシェル・フーコーの年譜をぼんやりと眺めていたところ、次のような記述に目がとまった。記された日付は1984年の4月6日、ということはフーコーの死の約三ヶ月前のことである。

自宅で、詩人ブライオン・ジェイシンを伴って訪れたウイリアム・バロウズを迎えてパーティー。これが最後のパーティーとなる。[1]

年譜によれば、この日付から約二ヶ月後の6月3日にフーコーは発作を起こし、意識を失う。弟のドゥニの手配で自宅の近くサン・ミシェル病院に搬送されたのち、サルペトリエール病院に入院する。一時は小康状態を保ち、刷り上がった『性の歴史』第三巻『自己への配慮』を病室で受け取ったりしている[2]。だが容態が急変し、同月25日13時15分、息を引き取った。享年57歳。

フーコーの生涯を取り巻く数々のエピソードの中で、上述のウィリアム・バロウズとのエピソードは、些細な、取るに足らないものでしかないだろう。二人の一瞬の、つかの間の邂逅。「最後のパーティー」……。だが、奇しくも丹生谷貴志も言及している[3]この挿話に、思わず立ち止まりたくなる「何か」を感じずにはいられないのは何も私だけではないと思う。

バロウズとフーコー。そもそもこの二人には一体どのような共通項があるのか。同性愛、麻薬への志向性、等々、いくつか挙がるだろう。しかし、やはりさほど多くはない。方や世界各地を麻薬とともに放浪しながら親の金にたかりつづけ、ウィリアム・テルごっこで妻を射殺し、その後に漂着したモロッコで書いた小説『裸のランチ』によってビートニク作家のグル的な扱いを受けるに至った男。方やコレージュ・ド・フランスの教授にして「監獄情報グループ(GIP)」という運動体を組織し監獄問題にも積極的にアンガージュしてきた左翼運動の闘士、しかしエイズに倒れ57歳という若さでこの世を去った男(一方バロウズは「麻薬は長寿の秘訣である」と言って実際83歳まで生きてみせた)。

一見まったく相容れない二人? だが、バロウズとフーコーの「近さ」に直感的に気づいていたのは、誰あろうジル・ドゥルーズであった。ドゥルーズは『追伸――管理社会について』という文章の中で、フーコーが描写してみせた「規律社会」に取って代わろうとしているものとして「管理社会」の到来を予告している[4]。ドゥルーズによれば、十八世紀から二十世紀初頭にかけてヘゲモニーを握ってきた、主に監禁の環境(監獄、病院、工場、学校、家族など)を組織する「規律社会」は、しかし第二次世界大戦後に危機を迎え、私たちとは無縁になりつつある。代わりに前景化してくるのが恒常的な管理と瞬時に成り立つコミュニケーションが幅をきかす「管理社会」である。たとえば、監禁環境そのものといえた病院の危機は、デイケアや在宅保護などの管理のメカニズムによって代替されるようになりつつある。だが何より重要な契機はデジタルネットワークの登場だろう。巨大なデータバンク(ビッグデータ!)が個人(individus)を分人(dividuels)にバラバラに断片化させる。アカウントごとの自己、アクセスの遮断、パーソナライズ、ターゲティング広告、フィルターバブル、等々。収集したビッグデータを抽象化した先に、管理の対象としての分人という単位が現れる。プラットフォーム資本主義の登場……。

ところで、ドゥルーズによれば、この「管理」という言葉は他ならぬバロウズに依っているというのだ。「「管理」とは、新たな怪物を名指すためにバロウズが提案した呼称であり、フーコーが近い将来、私たちにのしかかってくると考えていたのも、この「管理」なのだ。」[5]「管理社会について、分析の口火を切ったのはバロウズでした。」[6]

ドゥルーズの記述だけ読むと、まるでバロウズが先見の明のある思想家か何かとしてフーコーと同列に扱われているかのように見えてしまうのだが、それはともかく、たしかにバロウズは常に「管理=コントロール」を意識していた。というより、強迫観念のように「コントロール」の問題に「取り憑かれていた」、と言ったほうがいいだろう。コントロール、それは(フーコー的な意味での)権力の問題とも関わる。バロウズは常に権力のネットワークに絡め取られ、それへの<抵抗>の手段をなんとか掴み取ろうとしていた。何よりも『裸のランチ』はそのような状況下で書かれた。1954年、すなわち、タンジール。

 

そこは「インターナショナル・ゾーン」と呼ばれた。国際管理地区。第二次世界大戦後の動乱の時代、北アフリカ大陸に位置するモロッコの小都市タンジールは、複数の国――イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、ベルギー、オランダ、スウェーデン、アメリカ合衆国――が領有権ないし管理権を主張する共同管理下に置かれていた[7]。この街は1912年にモロッコがフランス保護領とスペイン保護領に分割され、タンジールが国際管理地区という特別なステイタスが与えられて以来、世界中からありとあらゆるアウトローたちが逃げこんで来る避難所(アジール)となっていた。九ヶ国を代表する委員会に統治されたタンジールには、ほとんど誰でも自由に入ることができた。タンジールの自由港には武器の密輸業者や海賊のような連中で溢れた。金融市場も同様に自由放任だったので、金融取引で大儲けしようとする連中や犯罪で汚れた金の資金洗浄に利用された。「来る者は拒まず、去る者は追わず」を体現したこの猥雑でアナーキーな空間に、何らかの理由で地上に存在することのできない人間たちが引き寄せられてくる。ゲシュタポのスパイでムッソリーニの拉致に関わったオットー・スコルゼニは、かつてナチス将校だった仲間と組んで、この小都市で武器供給業を営んでいた[8]

この、白く輝く太陽のもと、殺人と強姦以外は何をしても許されるという風潮、甘美と頽廃、そして土着のイスラム神秘主義が形作る魔術的な異国情緒に支配された北アフリカ辺境の居留地に惹かれた文学者や詩人は少なくない。ポール・ボウルズをはじめ、トルーマン・カポーティ、テネシー・ウィリアムズ、アレン・ギンズバーグ、ブライオン、ガイシン、ジャック・ケルアック、そしてもちろん、ウィリアム・バロウズもそのうちの一人だった[9]

バロウズがタンジールにやってきたのは1954年頃であった。地中海の出入り口にあたり、その地政学的な理由から世界史を通してローマ人、ベルベル人、アラブ人が相次いで支配したのち、帝国主義の時代に入るとヨーロッパの諸大国が死力を尽くして利権を争ってきたこの小都市は、ヨーロッパ、アラビア、アフリカの間で奇妙にも宙吊りにされながら「複数の次元の重なり合い」として存在するインターゾーン――中間地帯――としてバロウズの目に映った[10]。また、上述したようにタンジールは計九ヶ国からなる代表委員によって統治されていたが、実際にはこれだけの数の国の利害を一致させることは不可能であり、結果、事実上の権力の「空白地帯」、すなわち逆説的なレッセフェールが現出していた。この単一の主権の不在による権力の空白状態が、「コントロール」に抗する「自由」を何よりも求めるバロウズを魅了したであろうことは想像に難くない。

さながら、それはトマス・ピンチョンが『重力の虹』で描き出した空間、すなわち作中でゾーン(Zone)と呼ばれる、ナチス政権陥落直後のドイツに発生した、連合国の四ヶ国分割統治による新たな秩序形成まで存続する、支配者と権威の空白期間につかのま開かれた、理論上は自由な空間に近いのかもしれない[11]。だが、ピンチョンが描いてみせたように、法と権威の停止という一種の「例外状態」は、自由の裏面も同時に顕わにせざるを得ない。すなわちジョルジュ・アガンベンが「ホモ・サケル(剥き出しの生)」と呼んだ、すべての法的な権利を奪われ、<法>の外部へと放逐された人々の存在である。物語の主人公スロスロップは、ゾーンを彷徨する過程で、そうした国籍も基本的人権も剥奪された、人種的、社会的少数派と関わっていく。<法>の空白状態においては、強者は特権を活かして生き延び、力のない者は権利を剥奪され、剥き出しの生物学的な生にまで貶められ、抑圧と疎外の状況に置かれ、汚辱に塗れた「生」を生きることになる[12]

原初的で無垢な「自由」、エデンの園のような、かつて存在したであろう約束の「楽園」は存在しない。1930年代のタンジール(最初にこの地を見つけたポール・ボウルズがやってきた頃のタンジール)は、活気と喧騒に満ちていた。メディナと呼ばれる昔からのアラブ人地区の険しいストリートにはロバや水売りが行き交い、壮健なベルベル人たちが活気溢れる青空市場へ向けて通り抜けていく。アラブの女性たちは何ヤードもの白い綿布を包帯のように巻きつけながら影のように歩き、一日五回、寺院の勤行時報係がストリートの人だかりを礼拝へと招集していく。だが、この小さな街を支配していたのは、世界各国から集まった外交官や行政官、亡命貴族などであった。彼らはこの地に西洋の文化と価値観を持ち込み、優雅なホテルや椰子の木の生えた領地の中で、仮装舞踏会、猪狩りの遠出、大量のマティーニが消費されるパーティーを中心にした生活を送った[13]

そして終戦後、バロウズが到着した頃のタンジールは、すでにその内的矛盾が方々に入った亀裂から顔を覗かせようとしていた。大戦終結後、西側諸国の多くが、通貨交換上の禁止事項、高額の関税、貿易制限など、各種の経済的な規制に縛られていた。必然的に、あらゆる面妖な資金がこの小さな330平方キロのタックスヘイブンたる国際管理地区に流れ込んできた。自国の税制を逃れるため、一夜にして有限会社や株式会社がこの地に設立された。資金を隠蔽したい犯罪マフィアから一攫千金を狙うビジネスエリートの投資家まで、欧米各国からありとあらゆる白人人種がタンジールに移住してきた。十三万の都市の人口に対して、欧米からの移住者は実に二万五千にも登ったという[14]。街路にはアメリカ製の自動車が走るようになり、新市街と呼ばれるヨーロッパ人地区では、新築の白いホテルやマンション、別荘があちらこちらに建設され、それらを建設するために駆り出された現地のスペイン人やモロッコ人の労働者が昼夜交代で働いていた。街の景色は急速に「西洋化」され、移住してきたヨーロッパ系住民とイスラム教徒の現地人との間の格差は今や広がる一方であった。

またそうした状況と並行するかのように、モロッコでは民族主義運動と独立運動が日増しに激化の一途を辿っていた。タンジールは植民地であるフランス領モロッコやスペイン領モロッコとは画然と隔てられていたため、独立運動の波及も遅かったが、その影響は遅かれ早かれこの真空地帯にも貫入してくることになる。1951年には、ダルカワ教団の教祖、アハメッド・ゴマラが隣接するスペイン領への攻撃に備え、国際管理地区に武器を密輸した廉で裁判にかけられている。タンジールという真空地帯は、反体制派にとっては身を隠すための格好のアジトだった。また、イスティクラル党の創設者、アラル・アル・ファシは、タンジールの街頭でフランス政府が民族主義者を検閲しているという主張の演説を行い、法廷に立たされた。ファシは無罪になったが、この裁判が引き金となって裁判所の前に集まったアラブ系現地人たちと武装警官の間で衝突が起こり、憲兵は消火ホースを使って抗議者たちを追い払った。翌年にはタンジールではじめて大規模な暴動が起こり、暴徒と化した現地人によってオランダ人一人が撲殺され、二人のイギリス居留民が負傷した。この暴動はフランス領とスペイン領からの増援隊が送られるまで続き、少なくとも一四人のモロッコ人が死亡、四十人の警官が負傷した。ポール・ボウルズはこれらの暴動を目前にして、「モロッコは今にも切れそうな絹糸にぶら下がっている」と呟いた[15]

バロウズが辿り着いた1954年のタンジールとはこのような情況であった。バロウズはタンジール到着から遡ること数年前にメキシコで妻を「不覚の事故」によって銃殺して以降、警察権力とのいたちごっこを伴いながら南米各地を彷徨、伝説の麻薬であるヤヘを探し求める旅を続けていた。彼がタンジールに興味を惹かれたのは、上述したようにそこが権力の空白地帯であったこと、また同性愛(少年愛)に対して比較的寛容であること、また麻薬が簡単に手に入る等の理由からであった。

その年のタンジールが雨期に入ろうとしている頃、冷たい灰色の空の下の陰気な街路に降り立ったバロウズは、プティ・ソッコの近くにある小汚い売春宿に身を落ち着け、そこで一年間滞在することになる。薬局に代用ヘロインを買いに行く(タンジールでは代用ヘロインのユーコドルを買うのに処方箋が必要なかった)以外はほとんどの時間を自室で横になり、注射針を自身の筋肉に突き刺すのだった。「風呂にも入らず……服も着替えず、服を脱ぐのは麻薬におぼれきった血色の悪い筋ばった身体に一時間ごとに注射針を刺す時だけだった」[16]

麻薬漬けの生活を送っていたバロウズは、売春宿を出入りする現地の男娼たちから「見えない男(エル・オンブレ・インビジビレ)」と呼ばれた[17]

一方、バロウズの外界では民族独立運動がすでに避けがたい勢いで激化していた。1955年頃からフランス領で民族主義テロリズムが激化し、同十月にはモロッコが独立を宣言。それと同時期の頃から国際管理地区であるタンジールでも外国人排斥熱が高まり、そして翌年の1956年には遂にタンジールの国際統治が廃され、モロッコに返還されるに至る[18]

バロウズが滞在したタンジールは、いわばタンジールの黄昏期であった。バロウズは売春宿の自室で注射針とともに朝から晩まで自分の足の親指を見つめながら、ゆっくりと沈んでいく世界、そして「終わりつつある」タンジールを予感していた。

――「自由」は終わりつつあった。というよりも、それは最初から存在していなかったのだ。自由と見えたもの、権力の空白地帯と見えたもの、それは結局ヨーロッパ人が現地人を抑圧し搾取する植民地主義的構造に依っていた。権力が存在しないというのは錯覚であった。実態は諸権力の複雑なネットワークが配分され、それが交差し、牽制し合い、そのたまさかの拮抗状態に一瞬の「真空」が発生したように見えただけであった。タンジールはインターゾーンではない。それはいうなれば<帝国>のミニチュア版である。

そして、バロウズの『裸のランチ』は、このタンジールの崩壊過程、「自由」の崩壊過程のさなかに書かれたのだった。

 

[1] 「年譜」ダニエル・ドフェール、石田英敬訳 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』

[2] 同上、ドフェール

[3] 『死者の挨拶で夜がはじまる』丹生谷貴志

[4] 「追伸――管理社会について」『記号と事件』ジル・ドゥルーズ、宮林寛訳(河出文庫)

[5] 同上、ドゥルーズ

[6] 「管理と生成変化」『記号と事件』ジル・ドゥルーズ、宮林寛訳(河出文庫)

[7]『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』旦敬介

[8] 『地の果ての夢、タンジール―ボウルズと異境の文学者たち』ミシェル・グリーン

[9] 同上、グリーン

[10] 同上、旦

[11] 『トマス・ピンチョン 帝国、戦争、システム、そして選びに与れぬ者の生』永野良博

[12] 同上、永野

[13] 同上、グリーン

[14] 同上、グリーン

[15] 同上、グリーン

[16] 同上、グリーン

[17] 同上、グリーン

[18] 同上、旦