2 加速主義はオルタナティブな近代を志向する

テオドール・アドルノは、1941年に発表したエッセイ「「没落」後のシュペングラー」の中で、一時期ヨーロッパで注目されたオスヴァルト・シュペングラーの著作『西洋の没落』は、その後急速に忘れられていったと述べている[1]

『西洋の没落』第一巻は、第一次世界大戦終結の年である1918年に刊行された。総計2000万人の死者をヨーロッパにもたらしたこの戦争は、ときの教皇ベネディクト15世をして「文明ヨーロッパの自殺」と言わしめた。シュペングラーの『西洋の没落』は、この「文明ヨーロッパの自殺」を解明してくれる書として盛んに読まれ、はからずも当時の大ベストセラーとなった[2]

シュペングラーがこの書で示した西洋文明の未来についての予言とは、一言でいえば不可避的な崩落である。彼は従来の直進的な歴史観、つまりヨーロッパ文明は啓蒙の光に導かれながら絶えることなく発展していく、といった進歩史観に対して、循環的な歴史観を提示する。

歴史はさながら植物が花を咲かせ、そして枯れていくように、すなわち春(誕生)―夏(発展)―秋(成熟)―冬(死)の循環があるように、諸文化もこの循環の「運命」から逃れることはできない。歴史を「生きた自然」と捉えるシュペングラーは、ここから直ちに西欧文明の差し迫った破局=カタストロフィを声高に予言したのだった[3]

しかし、冒頭のアドルノの言によれば、シュペングラーは「その破局の到来する速度でもって忘れられた」[4]。西洋は急速に『西洋の没落』から目を背けた。

もっとも、この情況は日本も例外ではなかったようである。「「没落」後のシュペングラー」を訳した渡辺裕邦によれば、シュペングラーの名は第二次世界大戦前の日本でも一時期かなり有名だったが(村松正俊訳の『西洋の没落』の初版は1926年に出版されている[5])、敗戦後に古書店で売られているのをよく見かけた記憶があるという。

その頃にはたいていの日本人は英米撃滅の悪夢から醒めて、西欧文明の技術的成果のおとなしい受益者になるか、ソヴィエトも含めた欧米社会の文化的卓越性を説く説教者になりすますかのどちらかだったから、西欧文化の没落を予言するシュペングラーの著作を詳細に検討してみようと思う者はもう一人もいなかった[6]

たしかにシュペングラーは「一度」忘れ去られた。だが、近年の欧米では「西洋の没落」というフレーズ乃至テーマは一種のヒット・チューンと化している。書店に行けば『西洋の自死』や『綻びゆくアメリカ』、『民主主義の死に方』といったタイトルの翻訳書が並んでいるのを見かけるだろう。日本においても、村松正俊訳の『西洋の没落』が2017年に中公クラシックスに入り見事(?)復刊を遂げた。

この、アドルノも予想しえなかったであろう一種のシュペングラーの「回帰」とも言える現象は、もちろん西洋が近年被った二つのトラウマ的出来事――すなわち9・11と世界金融危機にその原因の一端を求めることができる(もちろん、白人出生率の低下や移民の増加などの問題も根深くあるが)。

2004年、ピーター・ティールは、ルネ・ジラールを囲んで開かれたスタンフォード大学のシンポジウム「政治と黙示録」において、「シュトラウス主義の時代」と題した発表を行った。

このシンポジウムは9・11以後におけるアメリカ政治の再検討をテーマにしていたが、ティールは自身の発表の中で、9・11という出来事は西洋がそれまで培ってきた近代の遺産であるところの「啓蒙」の完全な失効を決定づけるものであった、という診断を下した。一言で言えば、「啓蒙」とそれに伴う「民主主義」というプログラムは、西洋にグローバル市場という覇権をもたらしたが、それは翻ってイスラームという西洋の<外部>からの脅威を回帰させる結果ともなった。ここにおいて、西洋近代はひとつのジレンマに直面する。ティールからすれば、「西洋の没落」は近代に内在する矛盾から導かれる必然的な帰結と映っていた。

ここから、西洋を「没落」から救うための処方箋として、「啓蒙」というプログラムに組み込まれていた価値観――すなわち「ヒューマニズム」や「平等」といった偽善的普遍主義の一時的な停止としての「例外状態」(シュミット)における「決断主義」をティールは称揚することになるだろう。

「自由と民主主義がもはや両立するとは私は信じていない」――ティールによるこのテーゼは、西洋自身による「近代の超克」の試みを象徴するものとして受け止められる必要がある。西洋が没落から救われるには、西洋自身が「近代」を超克しなければならない。

かつて日本において、より具体的には太平洋戦争勃発直後の昭和17年、雑誌『文學界』が「近代の超克」座談会を開き、当時の日本を代表する知識人たちが「近代」を超克しようと試みたことがあったが、新反動主義はさながら西洋自身が「近代」を精算し、そこからの「超克」を目指すプロジェクトであると言える。西洋が覇権を取り戻すためには「近代」それ自体を乗り越えなければならない。言い換えれば、「近代」の遺産から何を捨て、何を受け継げば西洋は立ち直れるのか。だから彼らにとって、問いは常に「近代」そのものに立ち返っていく。

したがって、新反動主義、または後述する加速主義にとって問題になるのは「近代の終わり」(ポストモダン)ではなく「近代の再構築」(オルトモダン)である。あるいは、仲山ひふみ氏の表現を借りれば「ポストモダンからのイグジット」[7]の試みである。

加速主義が推し進めようとしているものは、より近代的な未来――いいかえれば、新自由主義が生み出すことのできない別の[=オルタナティブな]近代性なのである[8]

加速主義には「大きな物語」の復権への志向性が明らかに存在する。現在という「近代の終わり」(ただし彼らからすれば「近代の終わり」とは「近代の末期的状態」の謂いに他ならないのだが)からイグジットし、あり得たはずのもう一つの「近代」=「未来」を取り戻すこと。この「失われた未来」という加速主義の試みに必然的に伴うノスタルジーの気配は、スルニチェクのテキストに独特の切迫した楽観的ヴィジョンをもたらすだろう。

たとえば、スルニチェクは現在ヘゲモニーを握っている新自由主義に対して、20世紀半ばの社会主義を乗り越えるオルタナティブを推進する必要性を訴える。カウンター・ヘゲモニーとしてのオルタナティブな「大きな物語」を構築すること。それは同時に彼らにとって、未来そのものの「取り戻し」でなければならなかった。

新たな左翼のグローバルなヘゲモニーを生み出すためには、今日では失われてしまっている可能なる未来の数々を取り戻すこと、もっとはっきりいえば、未来そのものを取り戻すことがぜひとも必要なのである[9]

またスルニチェクは、マルクスは近代性に抵抗した思想家ではなく、(資本主義という)近代性の内側で分析と介入を試みた思想家であったと述べている。マルクスにとって、資本主義は腐敗と搾取にまみれたシステムであったが、彼は同時にその時代のもっとも進んだ経済システムとしてそれを捉えていた。したがって、資本主義の成果は抹消されるべきでなく、むしろそれを保ったまま、しかし資本主義的価値形態の拘束や制約を超えて、未来=もう一つの近代に向けて加速されなければならないのである[10]

さて、この「もう一つの近代」(オルトモダン)であるが、これをどのようにイメージするかという点において、新反動主義と(左派)加速主義はお互いの袂を分かつだろう。さしあたり、新反動主義も加速主義も近代の「超克」を同じく志向する。しかし、超克された近代をその後どのように「再構築」するかという段になると、それぞれが全く異なるヴィジョンを描くのである。たとえば、新反動主義においては、それはCEOが統治する企業国家が乱立するポスト封建主義的世界として幻視される。それに対して、スルニチェクらの左派加速主義は、資本主義によって制限されてきたテクノロジーの潜勢力に注目する。スルニチェクらは未邦訳『未来を発明する』の中で、スピノザのテーゼをパラフレーズしながら、「私達はいまだに社会技術的身体(sociotechnical body)が何を成しうるのかを知らない」と述べてみせた[11]

ところで、彼らが「近代の超克」を試みる際に近代テクノロジーというファクターにとりわけ着目したのは示唆的に思える。加速主義が登場するほぼ100年前の20世紀初頭、ということはシュペングラーが『西洋の没落』を脇目も振らず執筆していたのとほぼ同時期ということになるが、世界の三つの異なる地域において、同じく「近代」を乗り越えんと試みる異様な思想が蠢動を始めていたのである。

そのひとつは、言うまでもなくイタリア未来派である。絵画、彫刻、詩、音楽、建築など多様な分野にまたがって展開されたこの芸術運動は、スピードと流線形、そして大衆と流動性と情報速度とテクノロジーの強度を芸術に持ち込んだ。未来派による無知とロマンティックな陶酔を伴う近代テクノロジーに対する礼賛と人間性の拡大=超人の誕生に対する予言的期待は、やがて「戦争――世界で唯一の健康法」というスローガンとともに第一次世界大戦の狂乱の渦に溶解していった。彼らにとって戦争は閉塞した古臭い近代の遺産を一掃する絶好の機会として映ったのだった。以降、未来派はムッソリーニのファシスト党へ接近していくことになる[12]

こうした未来派による「政治の美学化」を批判したのがヴァルター・ベンヤミンであったことはよく知られている。

人類の自己疎外の進行は、人類が自分自身の絶滅を第一級の美的享楽として体験するほどになっている。これがファシズムが進めている政治の耽美主義化[美的知覚化]の実情である。このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ[13]

だが一方で、未来派を代表する詩人であるマリネッティを評価するコミュニストもいた。それはアントニオ・グラムシである。グラムシは、『革命家マリネッティ?』と題した論文において、マリネッティをある意味ではボリシェヴィキ党員よりも優れた革命家として称賛している。というのも、マリネッティは誰にもましてブルジョワ文化=文明の破壊を試みたからだった。グラムシにとって、この破壊は革命の第一段階であった。グラムシは言う。「未来主義者たちは彼らの領域、つまり文化の領域において、革命的である」[14]

文化的ヘゲモニーという概念を練り上げ、現在におけるスルニチェクら左派加速主義や、あるいはシャンタル・ムフら左派ポピュリズムにも多大な霊感を与えているグラムシが未来派を評価していたという事実は興味深い。このことについての詳細な検討は今は措くが、しかしこのことは取りも直さず20世紀初頭に世界各地で胚胎した「近代の超克」プロジェクトの二つ目とも関わってくるだろう。

二つ目、それはすなわちロシア宇宙主義とそれに続くボリシェヴィズムである。ロシア宇宙主義については拙著『ニック・ランドと新反動主義』の中で概略的な紹介を試みたので、このテキストではボリシェヴィズムに焦点を当てる。

佐藤正則は『ボリシェヴィズムと<新しい人間> 20世紀ロシアの宇宙進化論』の中で、20世紀初頭のボリシェヴィキによる独自の世界観の構築を、いみじくも彼らなりの「近代の超克」の試みであったとする見方を提起している[15]。佐藤によれば、ボリシェヴィズムは当時の西欧に生じた最先端の哲学(たとえばエルンスト・マッハの主客一元論)、科学、社会思想を取り込みながら、しかしそこから明らかに逸脱するような特異な世界観を構築した。たとえばその内のひとつに、人間を生物学的に作り変えることで新たな人間を誕生させようとする実験を挙げることができる[16]

ボリシェヴィズムは、当時における近代的な知の閉塞状況を見て取り、デカルトの物心二元論、カントの現象主義、そして近代的な自我の概念に端を発する「個人主義」の克服を目指した。わけても近代的個人主義に対する最大の批判者であったボリシェヴィキの理論家アレクサンドル・ボグダーノフは、人間を人間たらしめているのは、自然の支配とみずからの身体の拡張の志向、そしてそのための能動的な実践にほかならないと主張した[17]

個人主義と物心二元論を克服するために、ボグダーノフは物理的世界は社会的に組織化された経験であるという、共同主観的な社会的プロセスとして認識作用を捉え直してみせた。物理的世界は社会と集団の協働によってつくられる。そこにおいては、個人の自我も社会的な構築物とされる。さらにボグダーノフは、調和的組織化されるのは同時代の人々の経験だけではなく、これまでに存在した全人類の協働と経験を包含していると主張する。彼の理路を逐一追うことは紙幅の都合上避けるが、乱暴にまとめればボグダーノフにとっては、時間、空間、因果律を含めた物理的世界の総体はすべて社会的かつ歴史的構築物となる。そしてそれは、確固とした普遍的法則などではなく、人々の能動的かつ協働的な労働によって変更可能なものとみなされた[18]

ボグダーノフの途方もない思弁は、やがて社会を共同性の意識によって結ばれたひとつの有機的なシステム――すなわち生命体の一種とみなす発想にいたる。ダーウィンから影響を受けていたボグダーノフは、社会それ自体に生存闘争としての「淘汰」の法則を適応させる。つまり、社会もまたひとつの生命体である以上、それはさながら生物のように段階的に「進化」を遂げていくのだ。ここに至って、ボグダーノフの誇大妄想的な構想は、物質界も精神界も含めた全宇宙を一元論的に包括した宇宙進化論へとまとめ上げられる[19]

したがって(?)、ボグダーノフが1904年の著書『新しい世界』において、ニーチェの「人間は超人の架け橋である」というエピグラフを掲げながら、人類が生物としてさらに進化し、人間の意志と労働が外的自然を完全に支配するというヴィジョンを打ち出していてもまったく不思議ではない。生命と宇宙は美しき調和的発展という最終目的に向かって進んでいく。惑星規模の機械化と生産ならびに伝達手段のオートメーション化によって、階級は消滅する。いまや人類は外的自然を支配下に置くが、それはもちろん自身の身体にも及ぶ。すなわち、実質的な「不死」の獲得である[20]

ボグダーノフは自身が執筆した1908年のユートピア小説『赤い星』の中で、地球人よりも早く共産主義社会を実現させた火星人社会について描写している。火星人は「集団的身体」と呼ぶべきものを獲得し、「生命の更新」と呼ばれる互いの血液交換=遺伝子交換によって生命力を伝えあっている。やがて、全人類が文字通りの血縁関係となり、真の同志的関係にもとづく社会が完成するという。

このヴィジョンを実現化させるためであろう、ボグダーノフは晩年、輸血研究所の所長として、この血液交換の実験に没頭し、ついにみずからの身体を人体実験に捧げて死んでいった[21]

余談だが、ピーター・ティールは自身の寿命を延ばすために若者の血を輸血するパラビオシス(Parabiosis)治療に関心を抱いてるという。周知のように、ティールはさまざまなバイオテック系のスタートアップに出資を行っている。なお、ティールは(万が一の)死に備えて、人体冷凍保存してくれるようアルコー延命財団と契約を結んでいる[22]

念の為もうひとり、プロレタリア詩人を代表する人物アレクセイ・ガスチェフの世界観を確認しておこう。アメリカ式のテイラーシステムをボリシェヴィズムに取り入れた功績も讃えられるガスチェフは、プロレタリアートの感情を同質化させ集団的な自我を生み出すための重要な要素として、工場における機械的なリズムに着目していた[23]

また、機械をきわめて美的なものと捉えていたガスチェフは、「われらはともに」という詩の中で、次のように書いている。

どこに機械があるのか、どこに人間がいるのかわからない。われらは自分たちの鉄の同志と溶けあい、ひとつとなって歌い、ともに新しい運動の魂をつくりあげ、そこでは人間と機械とは分かつことはできない[24]

この詩で描かれた人間と機械が融合するヴィジョンは、佐藤も指摘するようにあたかもサイボーグのそれである。しかし、そこでの機械と人間の融合は、決してひとつの個体にとどまらず工場全体、さらにはそこから発展して惑星を覆い尽くす巨大な人間―機械の複合体(!)を形成するであろう。人間=機械=惑星の誕生……。ガスチェフは続ける。「世界の果てから果てまで数多くの心理的な流れがめぐっており、そうした流れにとってはもはや頭は何百万もあるのではなく、ただひとつの世界大の頭しか存在しない」[25]

ボグダーノフやガスチェフらのヴィジョンを荒唐無稽なものとして斥けるのは容易である。しかし、さしあたりイタリア未来派とロシア・ボリシェヴィズムが、近代の中にあってもうひとつの奇形的な(?)近代(=オルトモダン)の構築を志向する運動体であったことは押さえておく必要性があるだろう。彼らが生み出したもう一つの近代がどれだけ異形のものであろうとも、それもまた近代の内部から生まれてきたものであることに変わりはない。その意味では、これらの「近代の超克」から出てきた彼らの思想は、近代の望まれざる鬼子としてあった。

20世紀初頭に胚胎した「近代の超克」プロジェクトの三つ目は、ドイツにおける反動的モダニズムである。念のために確認しておくと、「反動的モダニズム」というタームは『保守革命とモダニズム』の著者ジェフリー・ハーフに拠る。

ハーフは、ワイマール共和国とナチ第三帝国期において、保守革命の文筆家やエンジニアの言説の間で、近代主義=モダニズム(啓蒙的理性、実証主義、科学、自由主義、議会主義、資本主義)を拒絶しながら、他方においてモダニズムの一産物である近代テクノロジーは礼賛しつつ受け入れる、という一見矛盾した主張が多く見られることに着目した。この彼らの言説に見られるパラドックスを説明するためにハーフが案出したのが「反動的モダニズム」というタームである[26]

ハーフの目下の狙いは、ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法』の批判的乗り越えである。ホルクハイマーとアドルノによれば、「啓蒙」は必然的に神話に退化する。つまり、ドイツにおけるナチズムの台頭は、啓蒙主義に内在した必然的なプロセスであるとする見方を提示した。

それに対してハーフは、ドイツは決して「完全に」啓蒙されたわけではなく、部分的に啓蒙された状態にとどまっていた、と指摘する。ドイツ・ナショナリズムは、近代から「啓蒙」を選択的に排除していた。その代り、近代テクノロジーは選択的に受け入れた。ここに反動的モダニズムが胚胎する土台が存在する[27]

たとえば、ハーフが反動的モダニストの一人とみなすシュペングラーは、ニーチェの権力への意志に基礎を求めながら、ドイツのナショナリズムとロマン主義を近代テクノロジーと和解させることに貢献した。シュペングラーによれば、自然界の目に見えない過程を把握する科学理論は、宗教と同じような神秘的かつ魔術的な局面を備えているのだという。この「ファウスト的テクノロジー」は、自然を支配する力に到達しようとする意志を示している。人々は、物質的世界における観察と知覚からなる受動的立場から、物質的世界に対して能動的に変換と管理を行う立場に転じる[28]

やや余談になるが、上述した戦時期日本における「近代の超克」座談会において、下村寅太郎は近代科学における「実験」の魔術的な性格について発言している。

魔術といふものは自然的に存在しないものを現出せしめることを意図して居るもので、これが実験的方法の精神に連なるといふのは、実験といふのは自然を単にありのままに、純粋に客観的に観察することではなくて、自然に存在しないものを、人間の手を加へて実現させて見る。自然をそれの存在性に於て見るのではなく、それの可能性に於て見る。自然の内部を外化せしめて見る、さういふものが実験的方法の根本的精神であると思ひます。このやうな意味での実験的方法とマジックの精神が相結びついたと思ふのです[29]

下村によれば、近代科学の認識は客観的な観察、事物の直観ではなく、いわば「技術形成的認識」であるという。こうした世界に対して能動的に働きかけていく魔術的性格を基礎に置く下村の近代科学観は、シュペングラーをはじめとする反動的モダニストの近代テクノロジー観とも近い。

なお、こうしたテクノロジーにおける「魔術」的な力を文学の領域に転用してみせたのがウィリアム・バロウズのカットアップであることは論を俟たない。そもそも「テクノロジー」とは、古代ギリシアにおいては文法の体系的な知識を意味する言葉だった。文法の体系的な知識は、人が他人と関わるための「技術=政治」であり、すなわち言語を介して外界と関わるためのテクノロジーが文法だったのだ[30]

バロウズは、この外界と関わるためのテクノロジーとしての文法の魔術的な力を解放しようとする。90年代のCCRUはバロウズから霊感を受けてハイパースティションという「実験」を開始した。先の下村の発言の中の「自然に存在しないものを、人間の手を加へて実現させて見る。自然をそれの存在性に於て見るのではなく、それの可能性に於て見る」とは、まさしくハイパースティションの定義そのものに当てはまる。「それ自身を現実化させるフィクション」としてのハイパースティションは、「自然に存在しないものを、人間の手を加えて実現させて見る」魔術的な実験の層に関わっている。

閑話休題。ハーフは、他にも反動的モダニストの系譜として、エルンスト・ユンガー、カール・シュミット、ハンス・フライヤー、マルティン・ハイデガーなどを検証しているが、紙幅の関係上ここでは割愛する。いずれにせよ、ヒトラーの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスによる「鋼鉄のロマン主義」というキャッチフレーズにも現れているように、ナチズムはロマン主義もテクノロジーも拒絶しなかった。反対に、テクノロジーの魔術化によってこの二つは神秘的な結合を果たしたのだった。

余滴として、トマス・ピンチョンが『重力の虹』のエピグラフに掲げている、ナチスドイツのロケット開発者ヴェルナー・フォン・ブラウンの言葉を引いておこう。

自然は消滅を知らず、変換を続けるのみ。過去・現在を通じて、科学が私に教えてくれるすべてのことは、霊的な生が死後も継続するという考えを強めるばかりである[31]

ブラウン博士は、敗戦後にアメリカに渡りアポロ計画を主導することになる。ブラウン博士とV2ロケットの「霊的な生」は今も生き続けている。だが、それはまた別の話。

最後に、冒頭のアドルノのエッセイに戻ろう。シュペングラーによれば、文明は植物のように繁茂してやがて衰滅に至る。その後のすべての形態があらかじめ胚珠の内部に書き込まれているように、歴史は常に没落を宿命づけられている。この歴史に内在する決定論的かつ不条理な力を、シュペングラーは簡潔に「霊性」と名付ける。あらゆる徹底的な霊化と生命化によって歴史は逆説的に「非人間化」される。シュペングラーの黙示録的世界においては、人間もまた始原の胚珠に書き込まれた植物の一種に過ぎない。

アドルノはそのような世界観に抗って、人間の「自由」を取り戻そうとするだろう。頽廃した荒野のなかで自由を求めるさまざまな力。

西洋の没落に対立するものは、復活した文化ではない。そうではなく、没落してゆく文化像のなかに言葉なく問いかけながら、しまい込まれているユートピアである[32]

【了】

[1] アドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)所収「「没落」後のシュペングラー」

[2] シュペングラー『西洋の没落Ⅰ』(中公クラシックス)所収「時代が生んだ奇書」板橋拓己

[3] シュペングラー、前掲書

[4] アドルノ、前掲書

[5] https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001778155-00

[6] アドルノ、前掲書所収「訳者解説」

[7] https://twitter.com/sensualempire/status/1137939471796543488

[8] 『現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018』所収「加速派政治宣言」スルニチェク+ウィリアムズ、水島一憲+渡邉雄介訳

[9] 前掲書、スルニチェク+ウィリアムズ

[10] 前掲書、スルニチェク+ウィリアムズ

[11] Inventing the Future: Postcapitalism and a World Without Work, Nick Srnicek & Alex Williams

[12] 『未来派―Futurism』キャロライン・ティズダル + アンジェロ・ボッツォーラ

[13] 『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味』 (ちくま学芸文庫)所収「複製技術時代の芸術作品」

[14] 前掲書、キャロライン・ティズダル + アンジェロ・ボッツォーラ

[15] 佐藤正則『ボリシェヴィズムと<新しい人間> 20世紀ロシアの宇宙進化論』

[16] 前掲書、佐藤

[17] 前掲書、佐藤

[18] 前掲書、佐藤

[19] 前掲書、佐藤

[20] 前掲書、佐藤

[21] 前掲書、佐藤

[22] https://www.vanityfair.com/news/2016/08/peter-thiel-wants-to-inject-himself-with-young-peoples-blood

[23] 前掲書、佐藤

[24] 前掲書、佐藤

[25] 前掲書、佐藤

[26] ジェフリー・ハーフ『保守革命とモダニズム』

[27] 前掲書、ハーフ

[28] 前掲書、ハーフ

[29] 『近代の超克』(富士房百科文庫)

[30] 福田和也『イデオロギーズ』

[31] トマス・ピンチョン『重力の虹』(新潮社)

[32] 前掲書、アドルノ

1 コントロールという敵――バロウズの愛したキツネザルたち

新反動主義も加速主義もミームも等しくハイプ(Hype)でしかない。だが、そうしたハイプはハイパースティション(Hyperstition)として世界に介入し、この現実を改変していく。というのも、畢竟この世界それ自体がハイプでありハイパースティションに他ならないからである。

ハイプ(Hype)、意味は「誇大な広告」、「詐欺」。だがもう一つ、(hypodermicの短縮形として)「皮下注射針」、「麻薬常用者」といった俗語的な意味もある[1]

ならば、ウィリアム・バロウズこそはハイプの、いや、ハイパースティションの帝王であると言えよう。もちろん、90年代のCCRU(Cybernetic Culture Research Unit)はそのことに気づいていた。『Ccru: Writings 1997-2003』に収められたバロウズ論「キツネザルたちの時間戦争(Lemurian Time War)」では、ウィリアム・バロウズはラブクラフトと並んでハイパースティションの先駆者として特権的な地位を与えられている。

Hyperstition。Hyper(超える)とSupersititon(迷信)の合成語(もちろんそこにはHypeの木霊も反響している)。それ自体を現実化させるフィクション。ある種の予言として。ある種の現実を書き換えるために記号を操る魔術的実践として。

「キツネザルたちの時間戦争」は、ウィリアム・ケイ(William Kaye)という偽名の人物による一種のバロウズ講義を軸に展開していく。ケイは、ポストモダン文学論に収まらない、ハイパースティションの次元を探索した作家としてのバロウズを顕揚する。

ケイは、バロウズにおける現実とフィクションの等式が、ほぼそのネガティブな側面しか受け入れられなかったことは決して偶然ではないと主張する。すなわち、ポストモダン的な存在論的懐疑主義という側面である。だがそうではないポジティブな側面がある。それは顕示と呪文の魔力への探査――すなわち潜在的なものの効能。[2]

ポストモダニズムが示すテクスト論にあっては、端的にテクストの外部は存在しないものとみなされる。記号(シニフィアン)が示す対象は、現実の世界に存在する具体的な対象ではなく、常にすでに他の記号(シニフィアン)に差し戻される。シニフィアン連鎖は記号から成る鏡地獄を形成する。よって、ポストモダニストによるテクスト相対主義では表象的リアリズム(Representative realism)から一歩も抜け出すことができない。

表象的リアリズムの転覆を構成することから遠く離れて、ポストモダン的な指示対象なきテクストの賛美は、ただ表象的リアリズムが開始されるプロセスを完成させるだけでしかない。表象的リアリズムは、書くことをいかなる活動的(active)な作用からも切り離す。そして書くことを、世界への介在ではなく、世界の再現という役割に引き渡す。そこから無垢なテクスト性という次元まではほんの数歩だ。そこにおいては、ディスコースから独立した世界は完全に否定されるのである。[3]

ハイパースティションはまさしくこの表象的リアリズムの構造を転覆させる。それ自体を現実化させるフィクションとしてのハイパースティションは、「書くこと」を受動的な再表象に使役させるのではなく、「変容を司るアクティブな行為者として、すなわち存在がそこから立ち顕れるゲートウェイとして作動させる」[4]。「真理は存在しない。なぜならすべては生産の下にあるからである」。[5]

バロウズはポストモダニズムにおける表象的リアリズムからどこまでも逸脱していくだろう。というのも、彼はテクストではなく武器を作っていたのだから。テクスト内の物語に武器が現れるということではない。それは武器の表象であって武器それ自体ではない。そうではなく、バロウズはまさしく武器それ自体をタイプライターを用いて製造していたのだ。それは世界に介在し、そして世界を変容させる。変容させることができなければ、武器に意味などない。バロウズはどこまでもプラグマティックな作家だった。

また、バロウズはあるときそれを正確にも「魔術」と言い換えるだろう。バロウズは、すべての芸術は起源において魔術的なものだったと述べる。

そして、魔術的というのは、きわめて具体的な効果をもたらすことを意図している、という意味だ。書くことと描くことが不可分な状態にあったのが洞窟画だが、それは狩りの成功を目的としていた。芸術は芸術自体を目的とするものではなく、本来は機能をもったもの、何かを起こすことを意図するものだった……。[6]

「表象」ではなく「効果」を志向すること。「何かを起こす」ために書くこと。バロウズにとって、もう敵を殺すという目的を果たしていないヴードゥー人形のお土産は無価値でしかないのだ。

バロウズがもっとも標的とした敵は、彼が「コントロール」[7]と呼ぶものだった。バロウズは「コントロール」の図式を麻薬の密売人と常習者との関係として当初は捉えていた。密売人は買い手を徐々にアディクト(中毒)させていくことでコントロール下に置く、等々。しかし、バロウズによるこのコントロールの図式は次第に様々な事象に敷衍化されていき、しまいには官僚と市民の関係、または人間と言語の関係といったスケールのでかい抽象的な話になっていく。たとえば、バロウズによれば言語とは地球外から送られてきたウィルスであって、それは人間という宿主に寄生して言語ウィルスのコントロール下に置くのだという。もちろんバロウズは、そこからの解放を目指していた。

バロウズは、アレン・ギンズバークに宛てた手紙の中で、「事実を変更する」ための何らかの「利用可能な技術」へのアプローチを強調している。この点、「超越的な変化」を志向していたビート作家やそれに続くヒッピーらとはバロウズは一線を画している。バロウズにとって焦眉の問題であったのは、「超越的な変化」ではなくどこまでもこの世界における「実際的な変化」だったのだ。[8]

それでは、バロウズによる「利用可能な技術」とは、言い換えれば「コントロール」という自由の敵を打ち砕くための実践的な武器(あるいはテクノロジー)とは一体なんだったのだろうか。それがいわゆるカットアップと呼ばれるものである。バラバラに切り刻まれたテクストは、単線的な言葉の流れにランダムな要素を導入することで文法や意味のコントロールから解放される。ランダム化によって、作者の意図も言葉の意味も超えたところに未知の隠された意味の次元が発生するのではないか。少なくともバロウズはそのように考えた。[9]

その未知の隠された意味とは、「コントロール」側の手先が暗号のように埋め込んだものであるかもしれない。「コントロール」側の勢力は、テクストに隠された暗号の次元を介して膨大な量のコミュニケーションを行っているのだという。そうであるならば、サブリミナル的暗号を暴露するカットアップの技術=テクノロジーは、そのような「コントロール」側の勢力の意図を暴くことによって、抵抗の拠点となりうる。それは翻せば、暗号化したメッセージを伝達することで敵をくじく武器としても使えるということでもある。[10]敵の武器を「我有化」すること。敵の武器の照準を、そのまま敵の方向に向け変えること。

だから当然、カットアップは単なる小説技法になりえようがなかった。60年代、カットアップをしきりに行っていたバロウズは、一方でテープレコーダーを使った音声のカットアップといった数々の実験をはじめる。そのテクノロジーは、「コントロール」に抵抗するためのサブリミナルな武器として想定されていた。[11]

だが70年代に入ると、バロウズは「コントロール」からの解放というテーマを自身だけのものに限定しなくなるように見える。言い換えれば、バロウズは個人主義を捨て去るように見える。「コントロール」の一般モデルを破棄するためには、局所戦ではなく、社会全体を取り込んだ改変が要請される。すべての人間が脱コントロールを果たすことで、現在の社会を支配するコントロールのヘゲモニーは瓦解する。いまや「コントロール」はさながらヘゲモニー闘争の様相を呈してくるのだ。そして、その際にバロウズが利用を想定していたのが新聞やテレビといったマスメディア、あるいはテープレコーダーのようなテクノロジーだった[12]

一九六六年、まず「IT」に、それから「ロサンゼルス・フリープレス」に載せた私のエッセイ「見えない世代」の中で、こういうことができるのではないかと考えた。つまり、何千もの人々が録音再生機器――携帯用であれ定置用であれ――を使ってメッセージを、合図の太鼓のように伝達できるのではないかと。大統領の演説のパロディーの音声をバルコニーに、公園やサッカーグラウンドに、開け放たれた窓に、壁越しに、中庭に流し、その音声の中に犬の吠え声、くだらぬたわごと、音楽、風の吹く道を行き交う人や車の音を混ぜたりして。幻想や錯覚は革命の武器である。あらかじめ録音しておいたカットアップのテープを革命の武器として、路上でプレイバックさせる方法もあると指摘したい。[13]

上に引いたのは、バロウズの「電子革命」(The Electronic Revolution)という短編の冒頭である。ここでバロウズが示しているのは、ノイズによる社会=世界への介入である。体制側の「コントロール」によるコミュニケーションを逆利用し、かつそれを歪めつつ別の方向に差し向けること。テープを違う速度で再生し、切り刻み、テキストやテープを再結合させ、録音した音を公の場で流しサブリミナル効果を発生させる。[14]こうした手法はのちにキャバレー・ヴォルテールといったインダストリアル・ミュージシャンによって取り入れられていくことになるのだが、それはともかく。[15]

言語をウィルスとして唯物論的に捉えていたバロウズは、「電子革命」の中でも言語を単に人間間を媒介し意識に一定の作用を及ぼすものとして捉えていた。たとえば、噂を拡散させる武器としての言語ウィルス。

念入りに録音したテープを持った十名の工作員をラッシュアワーに放ち、そのテープをプレイバックさせると、いかに速く噂が広がるかがわかる。どこでそれを聞いたのかわからないが、聞いたという事実は残る。[16]

さらに、バロウズはテクノロジーによって我有化した言語ウィルスを、暴動を起こし、暴動をエスカレートさせるための最前線用武器としても利用できると見抜いていた。

この武器を利用する作戦にはなんら秘儀めいた要素はない。音響効果が暴動的状況を伝えれば、本当の暴動を引き起こすことは必至である。警官の鳴らす録音されたホイッスルが警官を呼び集める。録音された銃声を聞いて警官は拳銃を抜く。[17]

他にも、テレビやラジオ、新聞といったマスメディアに介入を行うことによって、マスメディアの敷く連想ラインを混乱させ、サブリミナルを混入させ、無力化させる長距離用武器としてのカットアップが提唱される。

バロウズの「コントロール」に対するカウンター・ヘゲモニーは、現実を混沌に陥れるだけではない。そこではすべての過去の事実――歴史も消え去っていく。あるいは書き換えられていく。

虚構から成る日刊紙は過去をさかのぼってサンフランシスコ大地震やハリファックス大爆発を、ジャーナリズムの捏造だとして抹殺できる。不信感が広がり、あげくのはてに歴史上の事実をことごとく消滅させてしまう。[18]

バロウズにとって、事実とは記録されたものの総体であり、それ以上のものを意味していない。記録を書き換えれば、事実もまた書き換わり、それは未来を改変させる結果となるかもしれない。あるいは記録を抹消すれば、事実もまたこの宇宙から永遠に消え去るはずであった。

「Nothing is true. Everything is permitted」(真実などない。なにもかも許されている)――このバロウズの座右の銘はしかし、ポスト・トゥルースと呼ばれる現在でこそより重要な意味を持って木霊する。あるいは、バロウズは現在インターネット上で蔓延しているフェイク・ニュースやミームの台頭を予見していたと言えるだろうか。

もちろん、「コントロール」のヘゲモニーを奪取したのは、必ずしも自由を求める闘士ではなかったことを現在生きる私達は知っている。今やオルタナ右翼はフェイク・ニュースを操り、イデオロギーを伝達するミームをウィルスのように拡散させている。革命は起こらず、代わりにトランプを戴く新たな反動の時代が訪れていた。

ニック・ランドは2017年のインタビューの中で、オルタナ右翼が生み出したミーム宗教「Kekカルト」についてやや興奮気味に語っている。

それ(Kekカルト:訳者注)は非常に面白く、かつ私がまだ充分に考えていなかった何かです。それはあまりに多くの奇妙でランダムな要素の星座を含んでおり、それは信じがたい自律的な自己組織化のプロセスにおいて立ち現れていたのです。

(中略)

そして出来事が起こり、すべてのトロールたち(ここではさしあたり4chanの住人たちを指す:訳者注)は「Kekを讃えよ」と叫んだのです。しかし、それは単なるジョークではない。人はそれについてのすべてを考えないことで、真の強度、あのラブクラフトの怪物から心理的に身を守っているのです。狂った何かがこの自己志向的な巨大なKekカルトとともに起こっていたのです。それは時間を太古にまで連れ戻す。すべての宗教的な反乱はこのようなものであったに違いなく、そしてまた、すべての宗教はここからやってくるに違いないのです。[19]

そして、ランドはこのオルタナ右翼の疑似宗教を「ハイパースティション的な出来事のモデルである」とまで断言する。

Kekカルトの起源は2016年頃にまで遡る。匿名画像掲示板4chanの/pol/(いわゆる政治板)、そこではスレッドに書き込みをした際、8桁の通し番号が識別子として用いられる。キリ番の際には寿ぐ意味で「Kek」というスラングが使われた。この「Kek」、もともとはオンラインゲーム『World of Warcraft』で韓国人プレイヤーが「笑」を表すネットスラングであったという。

その「出来事」は2016年6月19日に起こった。そのとき「77777777」という、/pol/創設以来の大きなキリ番が迫っていた。そして、そのキリ番を獲った者の書き込み内容が「トランプは勝利するだろう」というものだったのだ。さらに、キリ番を寿ぐ「Kek」という言葉の意味を住人がウィキペディアで調べたところ、まったく同名の古代エジプト神、それも「混沌」を司る神が発見されたのだ。偶然はそれだけではなく、おそるべきことにそのエジプト神は蛙の頭を持つ神だった。当時の4chanではカエルのペペという蛙のカートゥーン・キャラクターのミームが覇権を握っていた。カエルのペペ、Kek、ドナルド・トランプ、これらの要素が77777777というランダムな数字の羅列と蛙の頭部を持つ古代エジプトの混沌神Kekの浮上によって、まったく別の相貌を帯びてくるだろう。

すなわち、「ドナルド・トランプの勝利」という自己成就予言(あるいはそれ自体を現実化させるフィクション)を内に含みこむ疑似宗教Kekの誕生。それはさながらハイパースティションの如く、ミームの形でオンライン上を席巻し、予言の自己実現のために不断の自己組織化を行っていく。予言の形を取った選挙運動。未来はすでに決定されている。私達はただそこに赴くだろう。2017年1月20日へ向けて。

***

バロウズは、1995年(ということは死の数年前)に『ゴースト』(Ghost of Chance )という中編小説を上梓している。激しいカットアップもすっかり影を潜め、反対にある静寂さが作品を包み込んでいるようにすら見える。この作品では、バロウズ作品おなじみのミッション船長とマダガスカル島のキツネザルたちとの交流が描かれている。

キツネザル人[20]たちはホモ・サピエンスより古い。それもずっと。一億六千万年前、マダガスカル島がアフリカ本土とつながっていた頃にまでさかのぼる。かれらの考えや感じ方は、基本的にわれわれのと異なっていて、時間や連続性や因果律を指向していない。かれらにとっては、こうした概念は不快でわかりにくいものなのだ。[21]

時間は人間の苦悩である。人間の発明品ではなく、人間の監獄だ。時間がなければ一億六千万年というものに何の意味があるのか? そして食べ物をあさるキツネザルたちにとって、時間に何の意味があるというのか?[22]

一億六千万年前、人間よりも古くからこの地にいるキツネザルたち。ところで、キツネザル(lemur)は現地語で「亡霊」という意味を含んでいる。カットアップを捨て、武器を捨て、道具を捨て、ハイパースティションを捨てたバロウズは、マダガスカル島というこの地で、亡霊というハイパースティションのもうひとつの側面に図らずも辿り着いていた。

この人体の両半身の間の溝と、マダガスカル島をアフリカ本土から隔てる溝には類似性があることを指摘しよう。溝の片方は、魔法にかかったような時間の無垢性へと漂う。もう片方は、どうしようもないまでに言語や時間、道具の使用、戦争、収奪、奴隷制へと向かっていった。[23]

バロウズは、この魔法にかかったような時間の無垢性の中で、多くの亡霊、そしてキツネザルたちと戯れる。言語や時間、収奪といった現代における「コントロール」の戦争から背を向けたバロウズが最後に至ったのはこのような境地だった。一億六千万年前にアフリカ本土から分離されたのを境に一切の時間が凝結してしまったこの島で、彼はキツネザルたちの姿にかつて死んでいった人々の亡霊を見る。

バロウズは時間から抜け出したかった。時間にはすべてが前もって書かれてしまっている。彼がかつて実践したカットアップによる「書き換え」という儚い抵抗は、しかし無限に伸びる時間の流れの中にやがて霧散していくだろう。ならばすべきことは、この時間の流れを止め、一点に凝結させることだ。そうして混沌はやがて終わりを告げ、時間はもう一度その始原へと立ち戻っていく。

黙示録の四騎士が廃墟と化した都市や、放棄されて雑草の生い茂る畑のなかを乗り回す。百万単位で犠牲者が死に、ウィルスは自滅しつつある。

世界の人々はようやく霊的起源に立ち返りつつある。木や葉や流れや岩や空のキツネザル人たちのもとへ。やがて、戦争や狂気の記憶はすべて、夢の痕跡のように消え失せる。[24]

【了】

[1]Weblio 辞書  https://ejje.weblio.jp/content/hype

[2] Ccru: Writings 1997-2003

[3] 同上

[4] 同上

[5] 同上

[6] Burroughs and Gysin (旦敬介『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』からの孫引き)

[7] のちにジル・ドゥルーズはバロウズから霊感を受けて「管理社会」というタームを作った。

[8] 旦敬介『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』

[9] 同上

[10] 同上

[11] 同上

[12] 山形浩生『たかがバロウズ本』

[13] バロウズ『ア・プーク イズ ヒア』飯田 隆昭 (翻訳)

[14] ポール・ヘガティ『ノイズ/ミュージック』

[15] https://en.wikipedia.org/wiki/The_Electronic_Revolution

[16] バロウズ『ア・プーク イズ ヒア』飯田 隆昭 (翻訳)

[17] 同上

[18] 同上

[19] https://syntheticzero.net/2017/06/19/the-only-thing-i-would-impose-is-fragmentation-an-interview-with-nick-land/

[20] 山形氏の翻訳ではメガネザルとなっているが、明らかな間違いなので修正した。そもそもメガネザルはマダガスカル島に生息していない。

[21] バロウズ『ゴースト』山形浩生(翻訳)

[22] 同上

[23] 同上

[24] 同上