第3回 いつでも死ねるんだ

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

精神病院に入院して2週間以上経つがまだ外に出られない。ゆみちゃんに外出や散歩をしたい時は、ナースルームの前にある木箱に要望を書いて入れておくということを教えてもらったので、小さな紙に散歩の旨と名前を記入して投函した。先週も投函したのだが、結果はダメだった。毎週月曜日の朝が看護師たちの会議らしく、午後には外出や散歩ができる人の名前が廊下に張り出される。

入院患者たちはそれをとても気にしていて、張り出されるとみんなが集まってくる。

「まだ、散歩できないのか……」

とうなだれる人や、

「やった! 外出だ! 駅前のデパートに行ってくるぞ!」

など歓喜の声をあげる人。

「山田さん、退院するんだ。いいなあ」

と羨む人。

それはまるで大学の合格発表のようだ。

今日はおやつがある。喫煙所のメンバーが、

「今日のおやつは何かな」

とぼんやり呟いた。

「どうせバナナかみかんだよ」

と私は呆れた調子で答える。

「果物なんかおやつじゃないよね」

と、ゆみちゃんが言う。ゆみちゃんはおやつの話に入ってきているけど、摂食障害なのでおやつが食べられない。

3時になったので、みんなで食堂へ移動した。しかし、今日のおやつはみんなの予想を裏切って、茶色い薄皮にあんこが包まれた饅頭であった。入院をしてから、食事で甘いものが出たことは一度もない。私が饅頭にかぶりつくと頭の中に快楽物質がドバドバと溢れ出る。あんこに含まれた砂糖の人工的なそれは、外の世界で味わっていた甘さだ。私は二口目を口の中に放り込む。ゆっくりと咀嚼し、あんこの甘さを余すところなく噛みしめながら、私は幸せを感じた。けれど、この幸せは精神病院の中で制限がかかっているから感じる幸せであって、外の世界から見たら、ひどく惨めで滑稽なのだと思う。

食堂を出ると、数人がリビングの隅に集まっていた。ゆみちゃんもいた。私は輪の中に入った。中央の女性を見ると、彼女の手の中には先ほど食堂で見かけた饅頭がある。

「私、あんこがダメで。よかったら誰か食べない?」

みんな、戸惑っていた。なぜかというと、病院では食べ物を人に渡すのは禁止されているからだ。食事中にも自分のおかずを人に譲ってはいけないと看護師に言われている。看護師に見つかったら怒られるだろうし、退院が延びてしまう恐れがある。

食べたい、けれど、食べたら後が怖い、みんなお互いの顔を見ながら戸惑っている。しばらく沈黙が続いた。

「私、食べる」

ゆみちゃんが静寂を破る。みんなで個室に移動して、カーテンの陰に隠れたゆみちゃんを守るように立った。看護師に見つかりませんようにと祈る。

過食嘔吐のゆみちゃんは、食べ物の味をどう感じているのだろう。食べて吐き、吐いて食べる彼女にとって、すでに食べ物は味わって食べるものではなくなっているはずだ。私はゆみちゃんが饅頭を美味しいと思って食べてくれたらいいなと思った。

精神病院では私たちは徹底的に管理されている。それを感じたのは病院内で出るコーヒーだ。コーヒータイムという時間があって、患者たちにコーヒーが配られる日があるのだが、それは「デカフェ」なのだ。デカフェとはカフェインが入っていないコーヒーである。

確かにカフェインは頭が冴えてしまうから大量に取るのは良くない。だからと言って一切禁止するというのもおかしい。微量であれば生活にそんなに支障はないだろう。そして、私はデカフェをこの病院で初めて飲んだが、あまりにも不味くて閉口した。けれど、長い間入院している患者さんたちは「美味しい」と口々に言っていた。

それは本当の意味での「美味しい」でなく、「この病院で飲んだり食べたりできるものの中では美味しい」なのだと思う。私も入院が長くなったらデカフェを「美味しい」と言って飲むのかもしれない。そんなことをふと思った。

ナースルームからひときわ綺麗な女の子が現れた。新しい入院患者だ。体にぴったりとしたカットソーを着て短めのスカートを履いている。入院患者らしからぬ服装だ。看護師となんやかや話して個室に消えた後、しばらくしてタバコを吸いに現れた。私は話しかけた。

「今日、入院してきたの?」

綺麗な女の子は私を一瞥した。

「うん。さっき来たばかり」

彼女はメンソールのタバコに火をつけながら答えた。

「なんで入院して来たの? 私は自殺未遂で入院することになったんだ」

私は自分の過去から話した。

「私はネットで青酸カリを買ったんだけど、親にみつかっちゃって、そのままここに入院」

綺麗な子は表情を変えず、かなり凄いことを話しだした。

「青酸カリってどうやって手に入れるの?」

私はタバコを手にしたままなるべく平静を装って聞いた。

「覚えてない? ドクターキリコの事件。ネットで青酸カリを販売してたやつ。いつでも死ねるお守りとしてドクターキリコは売ってたんだよね。私は自分のネックレスのロケットに青酸カリを入れてたんだ」

私は事件の渦中の人物が目の前にいるということに驚いてしまって言葉が続かない。あとで他の人から聞いたら、彼女の名前は大道寺マキと言い、大きな企業の社長令嬢だそうだ。若くて、美しく、お金もある彼女がなんで死にたいのかはわからない。人は持っているものが多くても悩みが多い生き物であるらしい。

自殺したいという人の気持ちをどれくらいの人が理解しているのだろうと時々思う。私はマキちゃんの死にたい気持ちを完璧には理解できないけど、なんとなく分かる。他人からしたら大したことではないと言われてしまう悩みは、本人からしたら死を覚悟するくらいのボリュームに感じてしまうことがある。悩みの重大さは結局のところ、本人にしか理解できない。お金がなくて自殺未遂した私のことをもっと他の手段があっただろうと責める人もいるだろうし、学校に行きたくなくて飛び降りる子供を大人は理解できない。

10代の頃、進路を親に反対された私は死にたくて、自殺の仕方を調べていた。そして、こうすれば確実に死ねる、という方法を見つけてホッとしていた。いつでも死ねるんだということがわかると無理に死ぬのを急がなくてもいい気がしたし、ギリギリのところまで生きてやろうという気持ちになった。

私にとっては「死」というものは輝く希望だった。自分が感じている苦痛を魔法のように片付けてくれるのだから。マキちゃんにとってネックレスのロケットに詰め込まれた青酸カリは自分を勇気付けて励ましてくれるものだったのだろう。いつでも死ねるという状態はとても自分が強くいられるものだ。

マキちゃんは青酸カリをお守りにしていたような子だが、明るい子だった。鍵をかけられた個室の奥で、

「友達が欲しい!誰か友達になって!」

と叫んでいる患者さんに対して、

「友達になります!」

と返してあげていた。ドアの向こうから、

「あなたの名前は!?」

と問いが来ると、

「マキです!」

と元気よく返した。

「苗字もつけて!」

とマキちゃんは怒鳴られていたが、ちゃんと苗字をつけて返答してあげていた。

母は3日に1回お見舞いに来る。母は東京の私のアパートに滞在しているそうだ。私は母にお見舞いの際には、ネギトロ巻きとサイダーを持って来るようにお願いしていた。入院中は生物が食べられないからだ。サイダーは刺激物が飲みたかったのと、病棟内では絶対に炭酸飲料を飲むことができないからだ。病棟内は食べ物の持ち込みは禁止で、食べていいのは面会室だけになっている。

お見舞いに来た母と面会室で向かい合う。母は自殺未遂をした私を責めることはなかった。兄や父はどうしているか、天気はどうか、など、当たり障りのない話を話す。私は兄とは不仲なので、会いたくはないが、父には少し会いたいと思っていた。けれど、父は一度も面会に来てくれない。父は親であるという実感がないと昔よく私に言っていたので、面会にこないのも仕方ないのかもしれない。ネギトロ巻きを頬張り、サイダーを喉に流し込む。病院の食事に慣れきった舌には刺激的だ。3日に1回もお見舞いに来ていたのは私の母くらいで、他の人たちは1ヶ月に1回くらいだった。私はそんな母の愛を当たり前のように受けていた。子供の頃に母から家庭内で苦痛を強いられていたので、それくらい受けて当然だと思っていた。

私の父はとても酒飲みで、家の中でよく暴れていた。父がテーブルを蹴っ飛ばし、我が家の今夜のおかずが宙を舞うのは珍しいことではなかった。大人になってから母から聞いたところによると、お給料も半額しか入れていなかったらしい。私の家はとても貧しく、学校の教材が買えなくて、私はお菓子の空き缶をお裁縫箱にしていた。私はそんな父と結婚した母が嫌いだった。離婚できるならすればいいのに、と思っていた。

けれど、父が暴れた夜、ふすまを開けて、寝ている私を起こし、「エリちゃん、お父さんと離婚していい?」と必死に問いかける母に何も言うことができなかった。まだ10歳かそこらの私は今の生活が壊れてしまうことを恐れて、「離婚したら嫌だ」と泣いた。それからずっと母は父と一緒だった。60歳を過ぎてから母はやっと離婚した。私は母を憎んでいるというより、女という性、専業主婦という存在、家父長制というものを憎んでいるのかもしれない。

病棟内をずっと一人で歩いているおばあさんがいる。病棟の端まで行っては、また戻ってくるのをずっと繰り返している。入院患者は20代や30代くらいの人が多かったので、お年寄りは珍しかった。長く入院している患者さんに聞いたら、もう、おばあさんの病気は良くなっていていつでも退院できる状態なのに家族が引き取りたがらないらしく、退院ができないそうなのだ。私はそれを聞いてびっくりした。おばあさんは家族からこの病院に捨てられたと言ってもいい。どうにか退院できないのだろうか、病院の人たちは家族にどう働きかけているのだろう。いろんな疑問符が頭をよぎるが、自分はただの患者であるという事実が虚しかった。おばあさんは何年もこの病棟を歩き続けているが、もしかしたら、帰るべき自分の家を探し続けているのかもしれない。

病棟内には電話が一台置いてある。だいたいいつも誰かいて、どこかに電話をかけている。ある時、首に点滴を打っている男性が電話をかけていて

「俺は狂ってなんかいないよ。ここから出してくれよ。」

と電話の向こうの家族に訴えていた。

私も電話は良くかける。主に母にかけていた。ここにいると、話すことに飢えるようになる。もちろん、入院患者同士でも話すが、外の世界の人と話すことは自分が外に繋がっているという安心感にも繋がるからだ。

私の電話の後にはマキちゃんが待っていたのだけれど、マキちゃんは私の電話の長さにイライラしていた。私の電話が終わった後、マキちゃんは、

「電話が長すぎるだろ! 後ろで私が待ってんのに気がつかないの!」

と大声で怒鳴った。私はびっくりしてその拍子に目から涙が溢れた。溢れてくる涙が止まらず自分の部屋に駆け込んだが、マキちゃんは追って来て、私の部屋の前で何やら私を罵倒した。私は布団をかぶって泣き続けていた。

ここの生活は常にストレスがかかっている。一日中外に出られず、食べたいものも食べられず、見知らぬ人と四六時中顔を付き合わす。ちょっとしたことで、張り詰めていたものが弾けてしまう。彼女が100パーセント悪いとも言えない。

夕食の時間になって、私はノロノロと食事をとった。食事が終わると服薬の時間になる。看護師がカートに薬を積んで現れる。私たちは薬を飲むために看護師の前に一列に並ぶ。

薬は自分の手で口に入れてはならない。看護師が私たちの口に入れるのだ。薬を水で流し込んで飲み込んだ後に、口を大きく開けてちゃんと飲んだかどうかを看護師に確認してもらう。私たちは自分で薬を飲むことができず、薬を飲まないと疑われている。しかし、実際に薬を飲みたくない患者は舌の下に薬を入れて隠し、後から薬を吐き出しているそうだ。

精神病の患者には薬が必要であるという知識や、薬を飲まないと病気が悪化したり、再発したりするということを学ぶ場を作ることが大事なのではないか。そういうことをしないから、看護師が一方的に口に薬を放り込み、患者が薬を吐くのである。

服薬の後、女の子たちが廊下の隅っこでヒソヒソと集まっていた。なんと、ポテトチップスを持ち込んで来てみんなで食べていたのだ。

「面会の時に持って来てもらったの」

そういって私にも差し出した。私はちょっと迷ったが、袋に手を伸ばした。みんな食べているからいいや、という気持ちだった。口にポテトチップスを放り込むと、パリパリとした食感と、しょっぱい味が口の中いっぱいに広がる。

私たちはこっそり、ポテトチップスを食べながら笑いあった。やってはいけないけど、重大なことではないとわかっているからだった。看護師たちが私たちを管理しようとしても完全には管理できない。ポテトチップスを食べることや、薬を飲むのが嫌なことは、悪いことなのだろうか。そして、精神病院に入院している私たちには本当に管理が必要なのだろうか。

 

(★編集部注:本連載における精神病院の描写は、著者が入院されていた1990年代後半の状況を反映しています)

 

第2回 私たちは弱さゆえにここにいる

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

精神病院の入院生活はタバコを吸いに行くことから始まる。

「おはよう~」

先にタバコを吸っているみんなに朝の挨拶をする。

「エリコ、おはよう~」

軽く挨拶を交わしながら、ナースルームに取り付けられたライターでタバコに火をつける。煙を大きく肺まで吸い込んでゆっくり吐き出す。他の人たちも私と同じようにタバコの煙をくゆらせていた。一人、ものすごいスピードで吸って吐いてを繰り返している人がいるが、誰も気に留めない。

「今日のお昼ご飯は何かなあ」

仲良しのゆみちゃんが言う。ここでタバコを吸いながら、話しているうちに仲良くなったのだ。ゆみちゃんは摂食障害で、菓子パンを大量に食べてから、全て吐き出すそうだ。過食の最中に母親に止められてこの病院に入院してきた。ゆみちゃんは食堂でみんなと食事ができなくて、看護師付きの個室で食べている。

私がゆみちゃんのために献立表を見に行ったら、生姜焼きとあったので、私は喫煙所に戻り、

「今日のお昼、生姜焼きだよ!」

と明るい声で言った。

「マジー!」

「やったー!」

ゆみちゃん以外のみんなも歓喜の声を上げる。

「肉なんて久しぶりだね」

「楽しみすぎる」

みんな口々に喜びを表す。

ここの食事は病院だからというせいもあるのだろうが、野菜を煮た物や白身魚が主で、味付けが非常に薄いのだ。

7時になったので、みんなで食堂へ移動する。8枚切りのパンが2枚。マーガリン、イチゴジャム。きゅうりとキャベツのサラダ。パックの牛乳。自分で配膳して席に着く。

パンにジャムを塗っていると目の前の女性が牛乳パックにストローをうまく刺せないでいた。しばらくして、

「開けて!」

と言って私の目の前に牛乳パックをドンッと置いたので、私は黙って開けてあげた。外の世界では知らない人の牛乳パックなんて開けてあげないけれど、ここでは頼まれたら開ける。知らない人だけど同じ病人なので助け合わなければならない。

ここに入院してから食べることだけが楽しみになった。献立表を1日に何回も眺める。患者さん同士では食べ物の話が尽きない。ポテトチップスが食べたいとかケーキが食べたいとかそんなことばかり話す。外に出たら何をするかという話ばかりしていると、私たちは囚人のようにも思える。もしかしたら、囚人とあまり変わらないのかもしれない。

朝食が終わって、タバコを吸いに行くと雑談が始まる。

「ねえ、みんなどれくらい入院してるの? 私はまだ1週間とちょっと」

私はみんなを見回す。

「私は2ヶ月」

ゆみちゃんは答えながら、タバコの煙を吐き出す。

「俺、5年」

ゆみちゃんの隣に座っている男の子が言う。

「5年!?」

私は素っ頓狂な声をあげた。

「1週間からしたら長いよね」

ぼんやりとした表情で男の子は呟く。

「5年じゃあね……」

私も否定できない。

「この間さ、母親と外出してきたんだよ。そうしたら、自動改札をうまく通ることができなくて、なんだかものすごく社会から取り残された気がしたよ」

遠い目をしながら彼は話した。

「そうか、そうなんだ」

私はそう答えることしかできなかった。

私は彼が5年間も入院しなければならない理由が見つからなかった。普通に話せるし、特に変な行動も見当たらない。彼をここに留めているものはなんなのだろう。

私は入院当時、社会で精神病院での長期入院が問題になっているということを知らなかった。退院してから色々な本を読んで、日本の精神病院は患者を何十年も入院させていると知った。自宅の住所が病院の住所になっている人もいるそうだ。長期入院は患者が外の世界で生活するための力を奪っていくし、本人の気力や希望も奪っていく。そして、私も、もしかしたら同じようになっていたのかもしれないと思うと背筋が冷たくなった。

「小林さん、郵便がきています」

看護師から呼ばれた。手紙と小包だった。手紙は短大時代の友人からで、小包は短大の時、お世話になった教授からだった。急いで封筒の封を切る。慌てているせいか指が震える。中身は、私の安否を気遣う内容で、とても不安で、悲しくて心配だったとあった。正直、叱ってやりたい、とまで書かれていた。私の目に熱いものが溢れてくる。続けて教授からの小包を開ける。中身は畑中純の版画集で私宛のサインが書かれていた。きっと、私のためにもらってきてくれたのだろう。それと、寺山修司の歌集と草野心平の詩集。短い手紙には「退院したら、また会いましょう」と綺麗な字で書かれていた。みんなの気遣いと、自分の不義理さに心が折れてしまいそうだった。

私は自殺を試みたことを後悔はしてない。あの時の私はそうするしかなかったのだ。私の側には誰もいなくて、お金もなく、頼るものもなかった。けれど、本当にそうだったのか。私は人を信じることができなくなっていたのではないか。人に相談すればなんとかなったのかもしれない。全く解決策がないと思っていたけれど、それは自分一人で考えて出した結論なのだ。私は手紙を丁寧にしまった。教授からもらった本をパラパラと開く。難しい文章は頭には入ってこないが、短い詩や短歌はすっと頭に入ってくる。

わが夏帽どこまで転べども故郷

私が好きな寺山修司の俳句だ。私は実家が、故郷が嫌で、東京に逃げてきた。けれど、東京で失敗した。私はどこまで走っても故郷から逃げることができない。

気がついたら時計が12時近くなっていた。私は食堂に向かった。食堂の扉の前でゆみちゃんに会う。

「今日は生姜焼きだね」

ゆみちゃんはニコニコしている。

私も笑顔で

「楽しみだね」

と答えた。

12時になって食堂のドアが開く。ゆみちゃんは看護師のいる個室の方へと入って行った。ゆみちゃんの背中を見送りながら、いつまでここにいなければならないのだろうと暗澹とした気持ちになった。

楽しみにしていた生姜焼きは鯖の生姜焼きだった。生姜焼きには違いないが、生姜焼きと言ったら豚肉だと思うのが普通だと思う。パサパサした鯖を噛み締めながら、早くここから出たいと願った。

食堂を出て、暇なので、タバコを吸おうかと悩んだが、リビングに顔を出した。リビングにはテレビとソファがある。そして、本が数冊置いてあって、オセロや将棋などが置いてある。卓球台もあり、たまに卓球大会が自主的に開催される。

リビングで30代くらいの男性に話しかけられた。

「将棋やらない?」

ひょろりと背が高いが威圧感はなく、穏やかそうな人だ。話したことはないけれど、病棟内で見かけたことはある。

「将棋、やったことがないんだけど、教えてくれるならやりたい」

私は彼を見上げながら言った。

「いいよ。教えてあげる」

そう言って彼はテーブルのそばの椅子に腰掛けた。

私はその人と一緒に将棋盤と駒を出した。駒の動かし方を一個一個丁寧に教えてもらう。

「歩は一つしか前に進めない。裏になると金になるんだ」

私はふんふんと頷きながら駒の動かし方を覚える。しかし、数が多くて全て覚えきれないので、実際にやりながら覚えようということになった。

将棋なんて全く興味がなくて、死ぬまでやることはないと思ったけれど、精神病院で初めてやることになるなんて人生は不思議だ。私が駒を変なところに指すと、

「こっちの方がいいよ」

と教えてくれる。優しい人だな、と思った。彼からは何かの異常なものは全く感じない。思えば、ここに入院して、みんなどこがおかしいのかさっぱり分からない。話せばきちんと会話が成り立つし、変なことを言ったり、やったりする人はいない。みんな落ち着いていた。もちろん、ドアの中で叫んでいる人のようにちょっとおかしな人もいるが、そう数は多くない。

パチリ、パチリと駒を指しているうちに、初めての将棋は私が勝ってしまった。私は笑顔で「やったー!」

と勝利を叫んだ。彼はニコニコして、

「もう一回やろう」

と言いながら、駒を置き始めた。

正直、私に教えながら打っている彼のほうが強いのは当たり前だった。しかし、彼は私に5回も負けた。彼は、私にわざと負けてくれたんだと思う。私は彼の優しさを思うと、ここにいることがとても寂しく思えた。わざと5回も負ける彼は外の世界では生きていけないのだろうか。彼のような優しい人が生きていけない世の中なんて、おかしいのではないだろうか。

突然、ものすごい音がした。ガッシャン!と何かが壁に当たる音だった。見に行くと、一人の患者がうなだれていた。目は爛々として正気ではない様子がうかがえる。病棟内にはいつでも誰でも飲めるようにほうじ茶が入った大きなやかんがおいてあるのだが、それが床に転がっている。きっと彼女が投げたのだろう。看護師たちが集まり始める。

やかんを投げた女の子が看護師たちに取り押さえられる。その子は感情を高ぶらせて叫んだ。

「何回も呼んだのに、ナースルームから出てきてくれないじゃん! 今更出てきたって遅いんだよ! なんで、私の話を聞いてくれないの! 看護師なら私の話を聞いてくれたっていいじゃん!」

その子は目に涙を溜めながら訴えた。彼女は鍵をかけてくれと自ら看護師にお願いして、自分の部屋に入って行った。

その後、部屋からは激しい打撲音が聞こえた。彼女が自分で壁を叩いているらしい。聞いたところによると、彼女は時々感情が抑えられなくなるので、そういう時は自分からお願いして部屋に鍵をかけてもらって籠もるそうだ。

思えば、私たちの病は人とのつながりの病だ。私たちはうまく人とつながることができない。自分の感情をうまくコントロールできず、時に爆発させてしまう。しかし、その爆発は人と繋がりたいという強烈な欲求なのだ。なぜなら、爆発すると必ず人が集まってくる。ものを壊したり、自分を傷つけることで、医療者や家族、友人がよってくる。もちろん、爆発という手段を取らなくても、人と繋がれることが一番いいのだが、病気になってしまうと、正しいコミュニケーションの取り方が分からなくなる。

私は自殺をして、未遂に終わったが、そのおかげで、やっと医療者や家族とつながることができた。運ばれた病院でたくさんの看護師たちに囲まれ、ひとりぼっちのアパートから脱出できた。私は自殺未遂によって、結果的に救われたのだし、自分が危機的状況であると伝えることができたのだ。だが、自殺未遂という手段は副作用が多すぎる。多額の医療費、体への負担。私はもっとうまくSOSを出せるようにならなければならない。

夕食を食堂で食べる。味の薄いほうれん草のおひたし。味の薄いサワラの煮付け。まだハタチそこそこの自分としては物足りない。食堂から出るとリビングに人が集まっていた。テレビは壊れているのだが、奇跡的に8チャンネルだけ映るのだ。放送されているのは人気の歌番組。日本を代表する司会者がトップアーティストを紹介している。人気男子アイドルグループの出演に女の子たちが湧いている。壊れかけたテレビからは私たちの世界のことなど知る由も無いかっこいいアイドルたちが登場した。

「きゃー!!」

あられもなく、女の子たちが叫ぶ。司会者が曲の紹介を始めると歌が始まった。誰でも知っているヒット曲。女の子たちは輪になって歌い始めた。私もなんだかウキウキして輪に入って一緒に歌った。

私はアイドルなんて全く好きじゃないけれど、みんなと一緒に合唱できることが嬉しかった。お互い、肩を抱きながら、テレビの前で合唱する。私たちは、弱さゆえに、ここにいる。この世界で生きることが困難で、精神病院という世界に閉じ込められた。それは一見悲惨な出来事だけれど、ここで肩を寄せ合ってともに歌うことができる。

学校に行っているときは、いじめにあっていて、人と一緒にいて安心するという感覚を味わうことはできなかった。家でも父が酒を飲んで暴れていたので、小さくなって過ごしていた。今、私は心から安心して、歌を歌っている。東京の片隅の精神病院で、私は初めて安心できる夜を過ごした。

(★編集部注:本連載における精神病院の描写は、著者が入院されていた1990年代後半の状況を反映しています)