第2回 私がどうしてパパゴ翻訳機で日記を書くのか知ってる?

アーティスト、イ・ランによる世界初(?)のAI翻訳日記。韓国語で書いた日記をPapago翻訳機で日本語に翻訳する。誰かに会えなくなってしまうきっかけは日常に溢れている。今すぐ会えない誰かとつながるために「あまり役に立たないチング(友達)」を使ってつづられる、人間とAIの二人三脚連載。

私は日本語をある程度話すことはできるが、読み書きはできない。漢字が多すぎるからだ。しかし、ツイッターにたびたび日本語を書き(当然パパゴと一緒に書く)、日本でアルバムや本を出したせいか、多くの人が私が日本に住んで日本語を読んだり書いたり自由に話せると考えているようだ。いいえ、そんなことはできません。

私は韓国で生まれ、35年間韓国だけで暮らした。日本の友達からLINEが来たら、1行ずつコピーしてパパゴで読む。返事はiPhone音声書き取り機能で日本語で話し、AIの書き取りを見て直したり、ハングルで書いてパパゴに翻訳して送る。それで返事が遅い。

この連載オープン後、人々はパパゴはすばらしいと褒めていたが、実はあれはパパゴが一次翻訳したそのままではない。音声聞き取り機能で翻訳された内容を聞きながらおかしい部分を確認して、数回修正を経て完成した。私は自分で翻訳することはできないが、パパゴがうまくしたかどうかは聞けば大体分かる。しかし、文章を書くより翻訳されたものを聞いて直すのに時間がかかりすぎで、最初の原稿を終えて連載を始めたことを少し後悔した。これからはあまり直さないようにする。

普段、日本語の文書を確認する時、パパゴ音声読み上げ機能をよく利用する。仙台で会って、昨年から毎月手紙のやり取りしている漫画家のいがらしみきおさんから手紙が届くと、パパゴの声で手紙を「聞く」。パパゴ音声は若い女性の声が基本設定だが、それがいがらしさんの文章ととても合っている。設定を男性の声に変えられることがいつか分かり、一度男性の声で原稿を聞いてみたがイマイチだった。

(突然だが、今まで私が翻訳を「聞いて」一番すばらしいと思ったのは斎藤真理子先生の翻訳だ。 パパゴ100万人が来ても斎藤真理子先生には勝てない)。

 

私が日本語話せるようになったのは「友達と話したいという熱望」のためだ。2012年初めて日本を訪問して以来、ありがたいことに毎年ライブの仕事が少しずつ増え、仕事を手伝ってくれる会社(Sweet Dreams Press)もできた。前回書いた明大前のユキとナリタはライブハウスで初めて出会った。二人は公演場で本を販売するブースを運営していた。あの日、私の初めて日本ライブを手伝ってくれた松本のチフミから連絡が来て、公演場に自分の友達がいるから行って挨拶してと言った。私はチフミに言われた通りにブースに行ってユキとナリタに挨拶した。 その日のライブは夜明けに終わり、タクシー代が高い日本は朝の始発が出るまで公演場の前に座ってビールを飲みながら夜を明かす人が多かった。(韓国は日本よりタクシー代がずっと安くて、夜明けにタクシーに乗って家に帰る)。私は道端に座り、夜明かしするユキとナリタのそばに座って一緒に話した。韓国で「SMAP×SMAP」を見て学んだ(当時、ハングル字幕で見られる日本放送がほとんどなかった)いくつかの単語を組み合わせて対話を試みた。ユキは「こんなに単語だけで話せる人がいるなんて」とすごく感動したようだった。そのためだろうか、ユキは今度日本に来たら自分の家に来て泊まるように言った。

私はその言葉をありのままに聞いて、2013年から2019年まで日本に行ったらずっとユキとナリタの家に泊まった。東京で働く数日間、道で、人々の話の中で聞いた言葉を覚えて家に帰ってユキとナリタに新しく知った言葉を聞かせた。二人はそんな私を「九官鳥」と呼んだ。一つ話を聞くとそれを繰り返し応用し、少しずつ知っている言葉を増やしていった。最初によく真似した言葉は「荻窪」だ。電車で聞いた駅名だけど発音が面白かった。しばらく暇さえあれば、「おぎくぼ〜」と声をあげていた。「まもなく」という言葉も、「おぎくぼ」とセットで気に入った。

いくつかの単語でしか言えなかったあの時、セカンドアルバムに収録された『東京の友達』という曲を作った。日本で出会った好きな友達の名前・発音がずっと口の中でぐるぐる回って歌を作ることになった。 意味も分からず、どのように書くのかも分からず、ただ好きな相手を思い浮かべる特定の音だったので、その名前で歌うのが気持ちがよかった。最初は歌詞がぜんぜんなくてその名前だけ最初から最後まで歌っていたが、今考えるとちょっとストーカーのような行為ではなかったかと思う。全体歌詞を作った後に繰り返し歌った名前トラックは削除した。それでも今その曲を聞くと最初は数え切れないほど歌った名前が頭の中で響く。

 

いつのまにか友達の名前と発音が面白いいくつかの単語で疏通することだけはとても息苦しい時期が来た。「対話のような対話」がしたかった。日本で留学を終えて韓国に帰ってきた友達に日本語レッスンを受け始めた。約2年間、大変緩やかに授業を行ってきたが、おかげで私は9歳以下レベルの(?)対話ができるようになった。9歳以下だと言った理由は2020年2月、最後の日本訪問の時、今治で友達になったタルホ[*1]が9歳だったからだ。私はタルホの言葉を100%理解できなかったからだ。

 

日本でライブをする時、ほとんど通訳がいなかった。私がいくつか知っている単語で話したり、翻訳機を使って疎通を図った。MCは予め友達に聞いてみて、紙に書いたり、覚えて言った。 ライブはそうだが、だんだんインタビュー、トークイベント、対談をする仕事が来た。当然通訳がいると思って出て行くといない場合が多かった。曖昧な言葉でインタビューをするのは本当につらくて悲しいことだ。結局、意味が間違って伝わった内容で記事が出たこともあった。 そんな時は9歳以下水準の日本語を話す35歳の韓国人イ・ランは胸をたたいて涙を流す。

はこれよりもっとよくせるのに!

はこれよりもっとっていることもくていのに!!

通訳なしに短く荒い言葉でとても重要な話をしなければならない時、とてももどかしくて怒りを隠せない時もある。

 

2018年、今は兄弟みたいになっている折坂悠太に初めて会った日。対談インタビューだったので私は日本で留学中の友達を通訳者として連れて行った。現場に通訳者がいても、普段は簡単な言葉で私が直接話し(早く答えたいからだ)、韓国語でも難しい単語を使わなければならない時や、長く重要な話は通訳に頼む。その日、がらんとした会議室で初めて会った折坂悠太は、聞いていると何のことか全然分からない難しい敬語で話し始めた。難しい尊敬語を例に挙げると……(例に言っても、私は例が知らないからどうしよ……)ただ雰囲気から言うと、「この番組はご覧のスポンサーの提供でお送りします」などが私に難しい敬語だ。(この言葉は「SMAP×SMAP」の番組の中でよく出てきた言葉だ。意味分からず覚えた)。

私は折坂悠太の難しい敬語を遮り、「ヤスイ日本語でください」と頼んだ。折坂悠太は前まで少しこわばっていた顔をほころばせて笑い、「自分も”ヤスイ日本語”でしゃべるのがもっと好きだ」と言った。その日、私たちはヤスイ日本語で対談を終え、今でもヤスイ日本語で多様な対話を交わしている。

 

私もヤスイ日本語ではなく、韓国語のように自由に話したい時があるが、今のレベルでもある程度「友達と話したい熱望」は満たされるこの状態に慣れた。普段から本を読むより人と会って対話することから得られる知識と感動がもっと大きいため、いまだに日本語を読み書きしたい熱望はあまりない。ところで2012年からいくつかの単語だけでしか話できなかった私が9歳以下のレベルで話せるようになるまで、私が愛する日本の友達はなぜ韓国語を勉強しないのか。どうか私の日本の友達が韓国語を勉強して、私が感じる「ヤスイ日本語だけ話せるもどかしさ」に共感できたらいいな。


[*1]*私と暗号言語でペンパルをしている今治の9歳・タルホは最近暗号手紙1通とハングル手紙1通を一緒に送ってきた。 すごく感動した。 ありがとうタッちゃん!  私たちの友情の始まりは私のYouTubeで見れます。https://youtu.be/ukD2IOkJPvA
(このページはPapago翻訳で翻訳されました。機械翻訳は完璧性が保障されていないので、翻訳者の翻訳の代わりにはなりません)

1986年ソウル生まれ。ミュージシャン、エッセイスト、作家、イラストレーター、映像作家。16歳で高校中退、家出、独立後、イラストレーター、漫画家として仕事を始める。その後、韓国芸術総合学校で映画の演出を専攻。日記代わりに録りためた自作曲が話題となり、歌手デビュー。2ndアルバム『神様ごっこ』(国内盤はスウィート・ドリームス・プレスより)で、2017年韓国大衆音楽賞「最優秀フォーク楽曲賞」を受賞。3rdアルバム『オオカミが現れた』で2022年韓国大衆音楽賞「今年のアルバム賞」を受賞。最新著作はいがらしみきお氏との往復書簡『何卒よろしくお願いいたします』(甘栗舎訳、タバブックス)。そのほかの著作に『話し足りなかった日』(呉永雅訳、リトル・モア)、『アヒル命名会議』(斎藤真理子訳、河出書房新社)、『悲しくてかっこいい人』(呉永雅訳、リトル・モア)、『私が30代になった』(中村友紀/廣川毅訳、タバブックス)。ストリート出身17歳の猫、ジュンイチの保護者でもある。

第1回 この文を読んだら私に連絡してくれ

アーティスト、イ・ランによる世界初(?)のAI翻訳日記。韓国語で書いた日記をPapago翻訳機で日本語に翻訳する。誰かに会えなくなってしまうきっかけは日常に溢れている。今すぐ会えない誰かとつながるために「あまり役に立たないチング(友達)」を使ってつづられる、人間とAIの二人三脚連載。

作業室に新しいメンバーが来た。 ジヒョンという人だ。 今日ジヒョンに作業室とトイレ掃除のやり方を教えたが、とても喜びながら聞いて、説明する私も一緒に嬉しかった。 この作業室史上初めて掃除を喜びながらできる人ができたようだ。

これまで作業室のメンバーたちと掃除問題でつらい時間を過ごした。 元々、毎週1人ずつ順番に掃除をするシステムだったが(やらないと罰金を払って、掃除)何人かのメンバーが特に掃除を後回しにしたため、1ヵ月以上罰金だけが溜まり、掃除はできなかった時も多い。 一番頭に来たのは、自分の家は本当にきれいに飾る人たちが作業室だけ汚く使うことだった。 「どうせここは家のようにきれいにはならないはずだから」というのが理由だった。 結果的に掃除を嫌わず、むしろ掃除をすれば気が楽になる自分が、掃除したくないメンバーから掃除費を受け取って、代わりに掃除するシステムを作った。 おかげで私は作業室の家賃負担が軽くなり、掃除を最初からしたくないメンバーはどうせ払う罰金を払って気楽に使うことができるようになった。 それでもこれからは掃除メンバーがもう1人できて、その人は掃除するのが好きだというからとても嬉しい知らせだ。

 

昨日は家でインタビューをした。 4月に新たに就航したある国内航空会社からの依頼だった。 パイロット、乗務員、整備士が全員ズボンのユニホームを着る、韓国初のジェンダーレスユニホームと性別に関係ない外見、化粧ガイドラインで就航前から大きな話題になった。 家庭の月である5月[*1]を迎え、航空会社がいろいろな姿の家族インタビューシリーズを準備していると言って、私に選択家族を紹介するインタビューを提案した。 「選択家族」とは、生まれる前に決まった家族ではなく、自由意志を持って家族構成員を選択して形成した家族を意味する言葉だ。 一昨年私は『選択家族エッセイ』という題名で連載をした。私の選択家族を……何と説明すればいいだろうか。 クィア、外国人、動物構成員の多い、約10人の人間動物と約8匹の非人間動物で構成された家族である。 そのうち人間動物家族1人と非人間動物家族1匹が昨年病気で死亡した。 そして昨年コロナウイルスが猛威を振るって以来、外国人家族やパートナーたちも大変悩んでいる。 国内に滞在できる適当なビザを見つけることができず(韓国で20年以上暮らしたのに)ランゲージ・スクールに通い始め、短期学生ビザを取ったり、(米国人だけに該当する)Job Seekingビザを取ったりもするが、短期ビザまで終われば、これ以上手立てがなく、急いで結婚し、配偶者ビザを取得する計画も立てている。 しかし、国内で同性結婚が合法化されていないため、結婚選択肢を選ぶことができない国際+クィアカップルが最も苦しい状況だ。 相次ぐ苦しい問題をどう解決してよいのか分からない。

 

2012年から日本で活動を始め、2020年2月まで数十回を行き来しながら親しくなった日本の友人とも徐々に仲が遠くなっている。 今も持っている鍵でいつでもドアを開けて入ることができる東京明大前のユキとナリタの家に行けなくなったのももう1年半近く経った。 来月は行けるのか、季節が変われば行けるのか、来年は行けるのか。 すぐにまた会えると思っていたが、予定できない日々が長くなっている。 まだ理由は分からないが日本で付き合ったいろんな友達の中でミュージシャンたちとの連絡が特に少なくなった。 一緒に公演をする機会がなくなったからかな? 連絡が途絶えた日本の友達と職業の相関関係について正確な統計を出したくなる。

 

昨日、インタビューを終え、航空会社側が要請した写真を探すため、「グーグルフォト」を開き、数年間の写真に目を通した。 2019年12月に最後に東京に行った時の写真を見た。 渋谷でピーポー(マヒトゥ・ザ・ピーポー)とショッピングをして、サンタ人形の前で撮った写真をツイッターにアップしたら、ピーポーに片思いしている方から、苦しい心情を吐露するDMをもらった。 その方に返事はしなかったが、恋人と友達の間を区別せずに同じ気持ちで愛すれば心がもっと楽になると話したかった。 私は16年間一緒に暮して来た非人間動物家族であるジュンイチを除いた残りの人間・非人間は皆同じ心で好きで愛している。 そのように選択家族も作り上げている。

しかし私は昨年契約書を書いた「選択家族エッセイ」単行本契約を破棄しようかと考えている。 最近(と言ってもここ数年の間)、韓国では誰かを特定できる知人との私的対話を小説に借用した何人かの作家が告発を受けた。 告発したケースを見れば、クィアのアイデンティティを強制的にアウティングしたり、個人的な性的趣向や性経験についての私的な会話内容を書いたのが大きな問題だった。 「私は△△小説に出てくる〇〇です」で始まるいくつかの告発文を読みながら、他人の話を作品に借用することがいかに危険かを改めて思い知らされた。 私のエッセイにも小説にも私と友達の話がよく登場する。 この日記にも友達の何人かの名前が登場するようにだ。 小説もエッセイも私の主観的な記憶に依存して書かれているので、エッセイの登場人物や小説の中の人物のモデルとなる当事者が読んだ後、十分に気分を害したり、怒りを感じることがあると思う。

 

大学の映画科卒業作品として25分の短編映画を発表した後、こんなことがあった。 私と個人的な話を全くしたことのない他学科の大学院生が、私の映画を見た後、自分の話を無断で映画化したとし、非常に憤っているという話を聞いたのだ。 その人は、各種映画関係者や学校の人々に電話をかけて、この映画の発表を中断しなければならないと主張した。 その人は主人公のストーリーはもちろん、話し方や行動、習慣まですべて自分をモデルにしたと主張したが、その人と個人的な親交が全くない私としては根拠が分からなかった。 それでもその人の怒りはものすごかったし、私の映画発表を止めようとする試みに対して私の知人を通じてずっと知らせが入ってきた。

 

今もそうだし、いつも文を書いているけど、これからどんな文を書けばいいのか本当に分からない。 日記は幼い頃からずっと書いてて、 私の日記にはいつもいろんな名前が溢れてるんだけど。 自分の名前が徐々に知られるようになってから、もはや自分の日記に自分の名前以外の名前を書くことは難しくなった。 それでみんなイニシャルを使うのかと思うんですが……イニシャルも正解ではない。 私がもし「選択家族エッセイ」を本を出すとした時、本を見た人が私のインスタにざっと目を通しても誰が誰なのかすべて分かるが、本にイニシャルを書くとして何が変わるだろうか。 どうやって皆の安全を守りながら、文章を書いていくことができるだろうか。

 


[*1]韓国では 5 月 5 日「こどもの日」、5 月 8 日「両親の日」、5 月第 3 月曜日「成人の日」、5 月 21 日「夫婦の日」など家族にかんする記念日が多くあるため、5月は「家庭の月」と呼ばれている。
(このページはPapago翻訳で翻訳されました。機械翻訳は完璧性が保障されていないので、翻訳者の翻訳の代わりにはなりません)

1986年ソウル生まれ。ミュージシャン、エッセイスト、作家、イラストレーター、映像作家。16歳で高校中退、家出、独立後、イラストレーター、漫画家として仕事を始める。その後、韓国芸術総合学校で映画の演出を専攻。日記代わりに録りためた自作曲が話題となり、歌手デビュー。2ndアルバム『神様ごっこ』(国内盤はスウィート・ドリームス・プレスより)で、2017年韓国大衆音楽賞「最優秀フォーク楽曲賞」を受賞。3rdアルバム『オオカミが現れた』で2022年韓国大衆音楽賞「今年のアルバム賞」を受賞。最新著作はいがらしみきお氏との往復書簡『何卒よろしくお願いいたします』(甘栗舎訳、タバブックス)。そのほかの著作に『話し足りなかった日』(呉永雅訳、リトル・モア)、『アヒル命名会議』(斎藤真理子訳、河出書房新社)、『悲しくてかっこいい人』(呉永雅訳、リトル・モア)、『私が30代になった』(中村友紀/廣川毅訳、タバブックス)。ストリート出身17歳の猫、ジュンイチの保護者でもある。