モヤモヤの日々

第233回 吾輩は僕である

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

吾輩は僕である。僕は文章を、一人称単数の主語で書くことにこだわっている。昔はそうでもなかったのだが、たとえば「僕たち」「私たち」「我々」といった主語はその範囲が明確ではない限り使わないよう、あるときから決めた。前著では「ぼく」という主語を用いた。「ぼく」がすべての責任を負いたいと思ったからだ。しらじらしく、恣意的な文章にはしたくなかった。

もちろん、文章の種類によっては一人称複数を使うのが作法の場合もあるし、表現によってはそっちのほうが馴染むケースもある。しかし、とくにエッセイやコラムでは、気を抜くと一人称複数の主語を無意識に使ってしまう。「たち」を特定しないまま使ってしまいがちになる。そうすると、なんだか人ごとのように感じてきてしまい、思ってもいないことを書いたり、文章の精度が下がったりすると気が付いた。人それぞれ考え方の違いがあるから、一人称複数を使っている文章がダメなわけではない。好みの問題であると同時に、ただ単に僕が愚鈍で無責任な人間なので気を付けているというだけのことである。レトリックとして「我々人類は」などと、大きな主語をわざと使ったりもする。

書評する際も、同様に気を付けている。自分の評は自分で責任を持ちたい。ところが、これは掲載される媒体にもよるのだが、「僕」や「私」という主語が馴染まない場合がある。だから、最近では「評者」という主語を使っている。「筆者」と書くのが一番しっくりくる一方、「著者」と見分けがつきにくいため(あくまで字面の問題だ)、今のところは「評者」に落ち着いている。最終的には、編集者の判断をあおぐことになる。

僕がなぜこんな原稿を書いたのかというと、「僕」「ぼく」はいつまで使っていいのかと、ふと思ったからだ。もうすぐ40歳なのだから、よりしっかりしたイメージがある「私」をそろそろ使うべきだろうか。この連載の主語は「僕」のわけだが、「私は犬と赤子が好きである」だったらどうだろう。ちょっと印象が変わってくる。「吾輩は犬と赤子が好きである」だと、それこそ夏目漱石の小説みたいになってしまう。

小生は筋トレが大嫌いだ。拙者の朝顔が、ついに咲いた。儂(わし)はこの前、ラジオ番組に出演したのだが……。どれもこの連載に出てきそうな文章である。どうもしっくりこない。僕は普段、親しい友人には、「俺」という一人称を使っている。最近、俺がモヤモヤするのは、と書いてみたものの、やっぱり「らしく」ないなと思った。僕は僕のままでいいのだろうか。80歳になっても僕でいいのだろうか。

なんとも悩ましい。80歳まで生きることができてから考えればいいのかもしれない。しかし、すでにもういい年齢である。僕は僕であり続けていいのだろうか。哲学問答のような話にもなってきてしまった。ちなみに、愛犬ニコルは「あたし」という主語を使っているのではないかと、僕は勝手に思っている。なんとなく、「わたし」ではなく、「あたし」という感じがしている。夏目漱石の猫は「吾輩」だったけど、ニコルは絶対に違う。でも犬だから、「ワン」とか「ワゥッ」とか「クゥン」としか言わない。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第232回 電話で伝える氏名の漢字

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

電話で氏名の漢字を伝えなければいけない場面がよくある。伝えなくていい場合もあるが、何かのサービスへの予約や公共機関に電話するときなどに発生しがちだ。これについて僕は一家言ある。

この連載の担当編集である吉川浩満さんで考えてみた。比較的簡単なのではないかと思いきや、一文字目でちょっとだけややこしい事態が生じる。「吉」と「𠮷」は間違えられやすい。「吉」が常用漢字で「𠮷」は新字であり、「吉」のほうが一般的なのだけど、この説明は僕も原稿のために調べてわかったことなので、伝え方としては不親切に感じる。僕なら「『きち』という字の、下が短いバージョンです」と言うと思う。「川」は「三本線」「川の字」ですみそうだ。「浩」は「さんずいに告白の『告』」、「満」は「『みちる』の漢字」で伝わるだろうと踏んでいる。

さて、僕こと「宮崎智之」だが、自分の名前については、これまで幾度となく伝え方をアップデートしてきた。宮崎の「崎」は、「﨑」「㟢」「嵜」など意外といろいろなバージョンがある。宮﨑あおいさんは、いわゆる「たつさき」の「﨑」である。しかし、これについてはややこしいことを言わずに、「宮崎県の『宮崎』が一番伝わりやすい。弱点は、僕が宮崎県に行ったことがないのが後ろめたく感じるくらいだ。

最も難儀なのは「智」という漢字である。「『知る』の下に『日』」と説明しても、たまにイメージがわかない人がいる。「美智子様の『智(ち)』で『とも』と読みます」と伝えていた時期もあった。しかし、恐れ多い気がするし、ちょっと大袈裟な伝え方のようにも感じていた。最近では「上智大学の『智』」という技をあみだした。かなり有効的である。しかし、相手が関東の人でないときは、すぐに頭に浮かばない場合もある。

いずれにしてもこの3つのどれかを言えば、確実に伝わるのは間違いない。ビシッと一発で伝えるバージョンをこれからも追求していく。ちなみに「之(ゆき)」は「ひらがなの『え』みたいな漢字」で問題ない。

この手の悩みは友人からもよく聞く。とくに「裕」「祐」「佑」の字を持つ人はモヤモヤするらしく、そもそも読み方も「ひろし」「ひろ」「ゆう」「ゆたか」などバリエーションが多い。「祐」の漢字を「しめすへんに『右』」「カタカナの『ネ』のような部首に『右』」と丁寧に伝えても、郵送物には「裕」と書かれているケースがあるという。なんとも難儀なことである。

今日のモヤモヤは語り出したら止まらなくなってしまう。興味本位で「斉藤」の「斉」のバリエーションを調べてみたら、頭がクラクラしてきた。「斉」「斎」「齊」「齋」だけでもややこしいのに、まだ種類があるらしい。一度、ある「斎藤」さんに訊いてみたことがあるのだが、「どの漢字を使われても気にならなくなった」と達観していた。そういう訳にはいかないだろうと思いつつ、カッコいいと思ってしまった。斎藤さんのご苦労に思いを馳せ、宮崎県と宮崎駿さんに感謝するのであった。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid