モヤモヤの日々

第37回 幼馴染の言い分

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

僕の幼馴染に横田大という男がいる。編集者やクリエイティブ・ディレクターをやっていて、かつて住んでいた治安が悪く、3年の間に2度も住民が逮捕されたアパートに、物好きにも引っ越してきた人物だ(僕は201号、横田は101号室なので真下に住んでいた)。きっと横田もお金がなく、困っていたのだろう。そこでの出来事を詳細に語り始めるとキリがないし、たぶん横田も怒ると思うので割愛する。それよりも、僕は、どうしてもここに記しておかなければならないことがあるのである。

横田とは、小学一年生から同じクラスなので、かれこれ33年の付き合いになる。横田に限らず女性の友人も含めて地元の幼馴染軍団はいまだに仲がよく、LINEグループもつくられ、たわいのないやり取りをしている。新型コロナの感染拡大以降は途絶えてしまっているものの、定期的に集まって飲んだりしている。西の奥地の郊外だとはいえ東京都出身で、今は都心(23区内)に住んでいるが基本的にはずっと「地元」にいるのだと思えば、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

幼い頃の僕は、今にも増して愚鈍な存在だった。3月生まれでただでさえ成長が遅かったうえに、年がら年中、鼻が詰まって口呼吸していたため、自我の境界がぼんやりしてあまり記憶がない。よく記憶していることと、そうでないものの差が激しい謎の現象も悩ましい限りである。だから、横田が語る小学生時代の思い出によって僕の記憶は補完され、かろうじて輪郭をなしている。しかし、実際は、横田の証言には異を唱えたい部分がたくさんあるのだ。たとえば、以下のような証言である。

「宮崎は小一のとき、『最強の洗剤をつくる』と言って、石鹸にいろんなものを練りこんでいた」

場合によっては危ない行為だし、そんな錬金術師のようなことをやっていた覚えは僕にはない。

「『駄菓子屋の10円ガムは、水道水をかけながら練ると美味しくなる』と宮崎が言ったら友達の間で流行ってしまい、公園の水飲み場で、ザリガニやサワガニを捕まえたり、泥遊びしたりした汚い手のままでガムをこねて食べていた。俺は嫌だったんだけど、同調圧力に負けて食べていた」

まったく記憶にないうえ、僕にそんな影響力があったはずがない。あと、何かを練るのが好き過ぎである。

「Y(同じく小学校からの幼馴染)という奴と出会った時、Yはサッカーゴールのネットに絡まって動けなくなっていた。Yは普段からお調子者だから、『またふざけてるんだろう』とスルーされていたなか、俺だけは真剣に助けようとした。その横でゲラゲラ腹を抱えて笑っていたのが宮崎だった」

僕は逆だと記憶している。たしか僕は本気で心配して、先生を呼びに行ったのだ。

6歳から33年間、友人だということは珍しいらしく、僕との関係を説明するとき、横田は必ずといっていいほどこの話をする。プライベートの場では別にいいのだが、なまじ仕事の交友関係が重なっているため、仕事の場でそれを言われるたびに、まったく困ったものだと思っていた。それではまるで、僕が変な奴みたいではないか。だが、幼い頃の記憶にはあまり自信がないので、言い返せないでいるうちに、まあそんなことどうでもいいかと、お人好しの僕は思うようになっていった。

そんな横田も2017年に起業して、社長になったのだから大したものだ。しかも、社員、スタッフが10人以上もいるという。僕は、今まで部下がいたことがなく、(主任などの)役職に就いたことも一度もない。これからもきっとないだろうし、そもそも人の上に立つ資質がある人間だとも思えない。それに比べて横田は立派だなあとしみじみと思っていたら、あることに気がついてしまった。

ん? もしかして横田って偉くなったのかな? 僕的には、高校のとき立川駅南口で弾き語りをしていた、モジャモジャ頭のロマンチストなのだが、世間的には偉いのではないだろうか? それは不味い! 偉い人にそんなことを言われたら、ままならない人生を送ってきたうえ、「絶対に続けられる自信がある」と、乏しい根拠のまま始めたこの連載の、「平日、毎日公開」というコンセプトが今にも消滅してしまいそうなギリギリになってから焦り出し、震えながら原稿を書いている僕なんてひとたまりもないのではないか。風説があっという間に広がってしまうのではないか。だから広がる前に書いておかねばならない。

あまり自信がないんだけど、たしか違ったような気がしている。いや、だぶん、おそらくは違ったのではないかと薄ぼんやり覚えている。どちらの言い分を信じるかは、読者のみなさん次第である。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第36回 自己宣伝

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

ツイッターを眺めていると、たまに「自己宣伝」の是非について言及している投稿を見かける。自分を宣伝する、つまり僕でいうならば、自分の本、雑誌やウェブに執筆した原稿、登壇するイベントや出演するメディアの情報などを、自ら宣伝し広く周知しようとする行為を指す。自分や自分の作品、情報について触れてくれている人の投稿をリツイート(拡散)することも自己宣伝にあたる。

自己宣伝を否定的にとらえている人は多い。かく言う僕は、自己宣伝に余念がない人間だ。たしかに自己宣伝をすると、よくフォロワーが減る。誰かのタイムラインを、僕の情報で埋め尽くしてしまうのも気が引けるというか、申し訳ないなあと心をいつも痛めている。しかし、自分が宣伝しないならば、誰が宣伝するんだろう、という思いがある。もちろん出版社や執筆したメディアも宣伝してくれるが、僕だけの宣伝に時間とコストを割くことはできない。それくらいの常識は、僕でもわかる。

そして、自己宣伝を徹底的にやってみた結果として判明したのは、驚くほど人は僕に興味がない、という事実である。ツイッターには投稿を解析する機能がついているが、それを見るとリツイートや、いいね数よりも、リンク先の記事を読んだ人が少ないなんてことはざらにある。「新刊の予約が始まりました」と躍起になって宣伝している時期にリアルの場で会った人から、「このあと、書店に寄って買うね」と言われたり、逆に発売後に「発売したら買うね」と言われたりしたことも一度や二度ではない。

それは相手が悪いのではない。誰だってそんなものなのだ。自分を振り返ってみても思い当たる節はあるし、少なくとも僕くらいの知名度では、それくらいの認識のされ方が当然だと思う。亡くなった父は、思春期を迎えた僕が鏡の前で髪型を入念にセットしている様子を見て、「自分が人に注目されていると思った時は、十中八九、社会の窓が開いている時だ」と言った。まさにその通り。

しかし、「宮崎が新刊について、なんかギャーギャーと宣伝しているな」と認識してもらえたからこそ、たとえその情報が微妙にずれていたとしても、「認識」という現象が生じたことに僕は希望を見出している。そう気にかけてもらえただけで、僕はうれしい。社会の窓で注目されるより1万倍うれしい。

そしてもうひとつ、自己宣伝を否定的にとらえる意見として、自分の作品を自分でオススメしたり、自分の作品を褒めている投稿を拡散したりするのは、あまり上品な行為ではないという意見がある。言わんとしていることはわからないでもない。わからないでもないのだが、これに対しては明確に異を唱えたい。なぜなら、僕は営業職の経験があるため、「いや、僕の作品なんて大したことありませんよ」なんてことは口が裂けても言えないと思っているからだ。その作品なり商品なりをつくった本人が、大したことないと言っているものを売る人の身にもなってほしい。買う人の身にもなってほしい。これほど侘しいことはないし、端的にいって失礼である。先人や同世代の書き手を畏敬する気持ちは、人一倍強いほうだと思っている。だが、編集や宣伝、営業、流通、棚に並べて売ってくれている書店員など、自分の本に携わって汗水を流してくれている人の姿をリアルに想像するならば、「少なくとも現時点でのベストは尽くした」と言動で示すのが、著者としての最低限の礼儀ではないだろうか。

実際にやってみるとわかると思うのだけれど、自己宣伝は結構、疲れる。本当はこんなことしたくない! と思う瞬間もある。できれば僕も「上品」でいたい。自己宣伝なんかしなくても、たくさんの人が言及してくれて、放っておいても記事が読まれたり、本が売れたりするようになりたい。でも、今の僕はそうでない。注目されていると思った時はだいたい、社会の窓が開いている時なのである。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid