モヤモヤの日々

第35回 バレンタインデー

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

今年もバレンタインデーがやってくる。日本におけるバレンタインは、もともとシンプルなコンセプトだったのにもかかわらず時代が進むにつれて複雑化し、義理チョコ、友チョコ、自分チョコ、逆チョコなど、多様な楽しみ方が広がっている。もはやチョコレートではなくてもいいという説まである。盛り上がればなんでもいいのだから、各々の楽しみ方を見つけるのはいいことだと思う。しかし、「贈り物」という性質上、人間関係にも影響してくるので、とくに職場ではモヤモヤの種になっている。

今の若者はどうかわからないが、僕の体験では中学生の頃まではまだドキドキ感が漂う日だった。2月14日前後には妙に自意識過剰になって、部活が終わっても意味なくだらだらと校舎に残っていたりしたものだ。「ひとつも貰えなかったらグレるのではないか」と、思春期の息子を心配して母がくれるチョコほど侘しいものはなかった。だが、高校に入ると帰国子女が多い少人数制の学校だったこともあってか、「クラスの女子全員から男子全員へ」みたいなオープンなイベントになった。それはそれで楽しかったけど、次第に自分の中で特別な日ではなくなり、相対化されていった。

社会人になってからは、ホワイトデーも含めて人間関係の維持や社交の意味合いがより強くなったように思う。会社員だった頃、忙しい合間をぬってチョコを用意してくれる様子を見て、申し訳ないなあといつも思っていた。そういう気持ちをうまく表現して言葉にできない自分にもモヤモヤした。もちろん、それ自体を楽しめる雰囲気があればそれでいいのだが、相手の役職によってチョコの値段を変えるなど、細かい気配りをしている人もいるらしい。自由な解釈がなされるようになった一方、妙なしがらみが生じるようになり、金銭だけでなく心理的にも「コスト」がかかるイベントになった。

だが、安心してほしい。なぜなら今年のバレンタインデーは日曜日だからだ。仕事が休みの人が多い日曜日とバレンタインが重なったことで、少しは世間全体のモヤモヤが薄まるのではないか。しがらみにとらわれず、自由な解釈でバレンタインを謳歌できる人が増えるのではないか。ただでさえ自由が制限されるような窮屈な日々が続いているのだから、せめてそうなることを心から願っている。

ところで、バレンタインが相対化されて以来、ドキドキ、ワクワクというより、モヤモヤ、ハラハラといった感情がまさっていってしまった僕だが、三十代後半になった最近では、年甲斐もなくキュンキュンする日へと進化していったことを、ここで告白したい。なぜなら我が家では、「愛犬ニコルから僕がチョコをもらう体(てい)の日」という解釈が追加導入されているからだ。というか、僕が勝手に導入したからだ。

愛犬を過剰に擬人化するのはよくない行為だとされることもある。でも、この日だけは勘弁してほしい。自由な解釈を許していただきたい。僕は本当にうれしいのだ。心の支えになっていると言っても過言ではない。自分でニコルからもらえるチョコを選び、自分で勝手にニコルからもらったことにしてキュンキュンする。もはや当初のコンセプトの原型を留めない僕のバレンタインデーが今年もやってくる。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第34回 カレーは辛え

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

カレーは辛え。ついに宮崎がおかしくなったかと思った人は、「カレーは辛え」ことの大切さにまだ気付いていない。カレーは辛えことによって、世の中の安定が保たれている側面がある事実を知らないのだ。キーマ、マッサマン、ココナッツ。種類はなんでもいいのだが、程度に違いこそあるものの、カレーは基本的に辛い。甘口カレーも特別に辛いわけではないだけで、やたら甘ったるくはない。

先日、たまには贅沢をしようとUber Eats(宅配のようなもの。念のため)を利用してみた。なるべく健康にいいものをと、僕はあるお店を見つけ、「燻製カモのヘルシー弁当」なるメニューを頼んだ。そこまで待たずに配達された弁当は、いかにも栄養のバランスがとれ、健康によさそうだった。しかも美味しい。ところが、メインの燻製カモの横、弁当箱の隅に添えてあった卵焼きを食べた瞬間、僕はなんとも言えない違和感に襲われた。甘いのだ。いや、甘い卵焼きもあるのだが、それにしても甘い。それは卵焼きではなく、チーズケーキだった。注文したページをよくよく見てみると、「デザート付き」と書いてある。なるほど、これがデザートか。ケーキも美味しかったのだけど、卵焼きと思って食べたものが甘かったことで舌が混乱し、チーズの味が曖昧なまま胃袋に入ってしまった。

印象に残っているのが、はじめてアボカドを食べた時のことである。いつのことだったのか記憶は曖昧だが、少なくとも僕がまだ未成年だった頃、母がスーパーでアボカドを買ってきた。はじめて見る食材だった。母もよくわかっていなかったらしく、「醤油とワサビで食べると美味しいらしいのよね」と首をひねっていた。この南国フルーツみたいな食材に醤油とワサビ? 僕は混乱しながらも、まずはなにも付けずに食べてみた。頭の中にクエスチョンマークがいくつも浮かんで、しばし呆然としてしまった。「どんな味なの?」と聞いてくる母に、「わからない」と僕は答えた。今となっては当たり前の食材だが、あの時は面食らい過ぎて、本当にどんな味なのかすらわからなかったのだ。

もうひとつ、僕は食べられないほどの好き嫌いがほとんどないのだけど、唯一これは絶対に無理という料理に、魚のすり身の加工食品がある。練り物の食感が苦手なのである。代表的なものに、ちくわ、はんぺんがあるが、問題なのはおでんは大好きなのに、食べられる具が少ないということだった。そして、僕は関東のおでんによく入っている「ちくわぶ」も、その名前や見た目から毛嫌いしていた。しかし、ある時、友人が「ちくわとはまったく違うから食べてみろ」と言うので、恐る恐る一口だけ齧ってみた。「うん。これはちくわというよりは、ほうとうに近いね」と納得し、食べられるようになった。

つまり、「カレーは辛え」という事実は、世の中の安定にとって、とても大切なことなのである。カレーはいつでも辛い。種類によって多少の差はあるものの、カレーは基本的に辛い。この事実が人々の日常に確かな杭を打ち、支えていることに気づいてほしいのだ。もちろん、食べたことのない食材を口にし、新しい味覚に挑戦したい人もいるだろう。しかし、たいていの人はそうではないのではないか。僕のように、カレーは常に辛くあってほしいと願っている人が多いのではないか。

人はしばしば「曖昧さ」や「不確かさ」にストレスを感じる。だが、残念ながら人も世もどうしようもなく曖昧で不確かである。そんな不確かさの中から、少しでも確かなものを掴みたいと考えるのは、人の性であろう。先人たちはそういった苦労を何度も繰り返すことにより、「カレーは辛え」という確かさを掴みとった。そして、人が食べられる食材を探す過程においては、おそらくたくさんの命が失われていったはずなのだ。だから、僕はこれからも「カレーは辛え」を大切にしていきたいと思っている。

昼食をなににするか考えていただけなのに、果てまで来てしまった。僕は辛えカレーが食べたい。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid