モヤモヤの日々

第31回 それはちょっと

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

文筆家だけでなく、名前を出して活動しているすべての人のモヤモヤの種として、「エゴサーチ」の問題がある。自分の名前(ペンネーム、作品、商品名など含む)を検索エンジンやSNSの検索窓に打ち込んで、誰かが自分のことに言及していないか調べる行為だ。人によってスタンスは違い、ネガティブな意見を発見してしまうこと気落ちしてしまうため、一切やらないという人もいる。

しかし、僕はこの仕事を始めて以来、時間が許す限りエゴサーチし、なるべくすべての言及に目を通すことにしている。なぜなら、すべてに目を通せば、褒めてくれている奇特な人を一人くらいは見つけることができるからだ。なので、エゴサーチは中途半端が一番いけない。5、6人くらいの意見をチェックして、心が折れてしまう人もいるだろう。だが、僕ほどのエゴサラーになればそれくらいの数ではへこたれず、インターネットの果ての果てまで、自分や作品への言及を追い続ける。

また、人はしばしば思い違いやタイプミスをするので、「宮崎智之」と検索するだけでは不十分だ。「宮﨑智之」は当たり前として、「宮崎知之」「宮崎智久」「山崎智之」なども射程に入れなければいけないし、必ずフルネームで言及されているなどと考えるのはまだまだアマチュアであり、「ライター 宮崎さん」と検索すると引っかかることもある。執念深い性格だと思うかもしれないが、そもそも表現者にとって一番怖いのは、批判されることでも、反論されることでもなく、無視されることである。

ところで先日、最近の日課となっている新刊についてのエゴサーチを行なっていたところ、検索結果に福井県立図書館のページが出てきた。書籍なので図書館のページが引っかかることは珍しくなく、スルーしようとしたが、どうもただの蔵書データベースとは違う雰囲気があったため開いてみた。すると、そのページは福井県立図書館が運営している「覚え違いタイトル集」という名物コーナーで、利用者からカウンターに問い合わせがあった間違った本のタイトルを掲載しているという。

なるほど面白い。図書館は子どもたちが本に出会う場所でもあるので、それくらいのユーモアがあったほうがいい。素晴らしい企画だ。さて、我が『平熱のまま、この世界に熱狂したい』は、どう覚え違いされたのだろうか。いつものエゴサーチとは違うドキドキした気持ちでページをチェックした。

『普通のまま発狂したい』

生きていれば、いろいろなことが起きるものである。生きていてよかった。これを掲載する公立の組織があるとは、日本も捨てたものではない。ほかにもヘミングウェイの『老人と海』を『海の男』と間違えた人や、ROLANDの『俺か、俺以外か。』を「俺がいて俺だけだったみたいなタイトルの本ありませんか」と尋ねてきた人がいるなど、僕では正解に辿り着く自信がまったくないものばかり。司書さんたちの「検索」スキルは本当にすごい。僕のエゴサーチ能力なんて屁みたいなものだ。そう感心しながら、ふと目に飛び込んできた「夏目漱石の『僕ちゃん』」でコーヒーを吹き出したのだった。

それにしても、僕の新刊の覚え違いは見事である。覚え違えたことよりも、そういう主張をしている本を読んで方法を学びたいと思った人がいる事実に、僕は人間の人間たる所以を見た気がした。

ただ、著者としては「それはちょっと難しいのではないでしょうか。可能性がゼロだとは言いませんけど」と回答したい。せめて言葉そのままの意味での「平熱のまま」だったなら、十分にあり得る話だとは思う。もし機会があったらでいいので、司書さんからその方にご伝言いただけると幸いである。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第30回 インタビュー(2)

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

なんだかんだ言って、文章を書いてお金をもらうようになってから15年以上が経つ。これまで何度、インタビュー取材してきたのか、正確に数えることはもはや不可能だ。最初は用意した質問を投げかけるので精一杯だったものの、場数を踏んでいくうちに少しずつ周りが見えるようになってきた。

事前の下調べや質問の仕方、リラックスさせる話術など、個人の努力はもちろん大切である。しかし、最も重要なのは、当日の場の雰囲気づくりだと思っている。そのためにするべきもことはたくさんあるが、取材する側、つまり編集者、ライター、カメラマンのチームワークがうまく機能している時には、いいインタビューになることが多い。特に連載の場合は、同じチームで動くので尚更である。

まず、カメラマンが取材場所の光の具合や部屋のレイアウトなどをチェックする。場合によっては、部屋のレイアウトを変えることもあるので、その際は指示通りに机や椅子、インテリアを移動する。各々が座る位置も確認する。名刺を交換し、丁寧に挨拶した後は、編集者が企画の概要を説明して、ライターがインタビューを開始する。カメラマンがインタビューカットを撮影するのは、だいたい前半だ。ライターは、相手をリラックスさせることを心がけながらも、聞くべき部分はしっかり聞き、また用意していた質問だけにとらわれず、盛り上がりそうな話があれば臨機応変にアドリブで質問の流れに変化をつける。編集者が気になる部分を聞いたり、逸れた話を戻してくれたりもする。

当然、インタビューの性質や相手によっても変わってくるし、ここで書いたのはごく一部のことに過ぎない。ようは個の能力も重要ではあるけど、チームとしてどのように機能し、どのようにその場の雰囲気をつくっていくか。そうした部分に目がいくようになってからは、少しはマシなインタビューができるようになってきた気がする、ということだ。最近では、新型コロナウィルスの感染防止のためリモートで取材することが増えたので、新たなチームワークの構築方法を考える必要がある。

さて、そんな僕も本を出すようになってからは、生意気にも自分がインタビューされる側になることがある。それにより、インタビューをする側だった時には気づかなかった発見も得られるようになった。

先日、とある取材を受けた。新刊についてのインタビューである。換気のいい貸し会議室で十分に感染対策を行い、密を避けるため先方はインタビューアーとカメラマンの二人、こちらは著者の僕一人という最低人数で実施された。インタビューをする側のみだった頃、少しだけ不思議に思っていたことがある。カメラマンはインタビューカットを撮影し、終了後にバストアップや、場所を移動してメインになるようなカットを撮影するケースが多いのだが、それまでの間、どのようなことを考えながら待っているのだろう、というものである。ライターは基本的に取材相手の対面に座り、取材相手の言動に注意を傾けているので、そこまでは目が届かないのだ。取材相手に質問をするカメラマンもいることはいるのだけれど、そういうタイプは少なく、離れた場所で座って待つ人が多い。

ところがその日は、最低人数で行われたこともあり、インタビューをされながらカメラマンの姿をじっくり見ることができた。その人は、新刊に書いたアルコール依存症や離婚のエピソードを僕が話している時には、それはもう慈悲に溢れた目をして深く共感するように頷き、僕が冗談を言っている時には、感染防止のためか声こそ出さないものの、心から面白がっている様子で笑顔を見せてくれた。

重要! カメラマンがインタビューカットを撮った後に話を聞きながらリアクションしてくれること、すごく重要! 今までまったく気づかなかったけど、ただインタビューが終わるのを待っているだけではなく、カメラマンはそれこそチームのため、自分の仕事がない時間も活躍してくれていたのだ。

やっぱりインタビューは奥深い。カメラマンのリアクションによって話しやすさがこうも変わってくるとは。そういえば、ラジオでもパーソナリティの語りの間に聞こえてくる放送作家やディレクターの笑い声あるのとないのとでは、番組の雰囲気が違ってくる。これまで15年以上もインタビューをしてきたと偉そうに思っていたが、まだまだ僕が気づいていない重要な点はたくさんありそうである。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid