モヤモヤの日々

第29回 偉くない人

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

愛犬ニコルがあまりに偉く、出来すぎた子なので、愚鈍な飼い主である僕も少しは役に立つことがしたいと思い立って始めたのが、犬についての勉強である。しかし、なにせ僕は愚鈍なうえに忍耐力もない。きっと三日坊主になってしまうと予想して、完全な独学ではなく資格を取得することにした。愚か者がそうでない者より優れている点があるとすれば、ありとあらゆる失敗をしていることだ。

以前に知り合いが取得したことをツイッターに投稿していた「愛玩動物飼養管理士」に、僕は狙いを定めた。国家資格ではないが、1981年に制度が発足した歴史ある資格である。1級と2級があり、まずは2級から取得しなければならない。当然、受講や受験などにはお金がかかる。だが、お金を払うからこそ勉強が続くのだと、賢い僕は考えたのだ。ちょうど新型コロナウィルスの感染拡大により外出自粛が叫ばれ始めた時期だったため、「なにかしなければ」という焦りが僕の背中を押した。

テキストが届き、早速勉強を始めてみた。対象が「愛玩動物」なので、犬だけではなく、猫やウサギ、ハムスター、鳥類、カメ、トカゲなどのほか、動物愛護の歴史や法令も学ばなければいけない。仕事と生活の合間を縫って、少しずつとテキストを読み進めた。犬猫には馴染みがあるのでなんとなく感覚的に理解できる内容が多かったのだが、他の動物にかんしては特徴や飼育管理の方法を覚えるのに時間がかかりそうだった。7月にオンラインのスクーリングを受講し、その後、中間チェック的な「課題報告問題」の提出があった。送られてきた結果を見ると、合格圏内で一安心した。

ところが、そこから見事に気を抜いてしまった。仕事や生活のことで手一杯になり、さらにコロナ対応に追われる日々が続いた。気づいたら試験の日が迫っていた。ギリギリになって慌ててテキストを読み込み、試験前日には、会う約束をしていた大先輩が到着するのを喫茶店で待つ間、これまた大先輩の編集者の前でテキストにかじりついた。「誰かに説明したほうが覚えやすい」という、進学校出身の妻のアドバイスを思い出して、大先輩を相手に勝手に講義をはじめる始末だった。

家に帰った後も必死に勉強した。「チンチラの砂浴は1日10〜15分として、砂浴び用の砂をゲージに入れっぱなしにするのは避けたほうがいい」などと、ぶつぶつ呟きながら睡眠時間を削って暗記した。あまりのドタバタ具合に妻は呆れた様子で、ニコルを抱いて冷たい視線を僕に送っていた。

そして試験当日を迎えた。大好きなaikoの誕生日であり、僕たち夫婦の結婚記念日でもある11月22日、クマのある目元をした僕はわずかな時間も惜しいと考え、出費は痛かったがタクシーを拾って会場に向かい、車中でテキストを読んだ。三半規管が弱いので嘔吐しそうになりながら会場に着いた。

会場に入った瞬間、僕はデジャブのような感覚に襲われた。それは学校での試験や高校、大学受験の時とまったく同じ感覚だった。直前に焦ったように勉強し、食事や睡眠も疎かになるほど猛烈に集中することで家族や周囲の人に迷惑をかけた挙句、なぜか試験会場に入ると急にふてぶてしくなり、「周りが雑魚に見えるぜ」などと根拠のない自信が溢れてくる。そして、(たぶんギリギリ)合格した後はエネルギーがこと切れ、1〜2週間くらい寝込む。大学を卒業してから16年も経っているのだから、少しは成長しているかと思っていたが、試験に対する僕の姿勢は驚くほど変わっていなかったのだ。

考えてみれば、「お金を払うからこそ続く」と数年前に入会したスポーツジムも、結局は通わなくなって1年未満で退会した。ありとあらゆる失敗をしていることが愚か者の優れている点だが、それを繰り返すのも愚か者の特徴なのである。一応は合格したものの、まだ十分に知識が定着していないと感じているので、続けて1級も受けようと思っている。また同じ過ちをおかさないことを心から祈っている。

それに比べて、教えたことはすぐに覚え、しかも忍耐強いニコルはやっぱり偉い。犬が人より偉い。40代の大台まで、あと1年と1か月。ニコルの比類なき偉さを目標に、僕は偉い人になりたいと思う。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第28回 偉い犬

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

愛犬ニコルには、できるだけのことはしてあげたいと思っている。子犬の時期はしつけ教室に通ったし(ジュニアクラスを受講したので、ニコルの学歴は幼稚園卒だ)、愛犬家の集まりに参加して、いわゆる「犬の社会化」に取り組んだりもした。性格が穏やかで普段はどちらかというと怠けて寝てばかりいるのだが、興奮すると大はしゃぎする癖があるため、2歳4か月となった今でも家の近くで見つけたアットホーム、かつ安価なドックホテルのディケアサービスに定期的に通わせている。

そういう生活を維持するために、僕は一生懸命働いていると言っても過言ではない。本当に良心的で安価なドッグホテルなので、もっと通わせてあげたいけど、家計に無理がない程度で通わせている。ニコルはドッグホテルで「姫(ひめ)」と呼ばれているそうだ。僕はどんなに苦労しても構わないから、少なくとも今の姫としての生活は守ってあげたい。それが僕の心の張りになっている。

しかし、ニコルはただの姫ではなかった。ある時、いつものドッグホテルから、「今度、ニコルちゃんを無料で預からせてもらいたい」と連絡があった。そのドッグホテルは地域密着型で、いつも常連犬ばかりなのだが、初めて利用する子犬を預かることになり、その子犬の気性から社会化トレーニングのお相手として最適なのがニコルだというのである。今までどちらかというと教育を受ける側だったのに、なんという大抜擢だろう。いつもお世話になっているのだからともちろん快諾し、「お前は、なんて偉い犬なんだ」とニコルを褒めちぎった。ニコルはキョトンとした顔をして座っていた。

聞くところによると、妻の実家で飼っているラブラドール・レトリバー(オス、7歳)も、病気で手術が必要な犬のため献血に協力したことがあったそうだ。犬は偉い。偉すぎる。犬と比べれば、僕なんてカスみたいなものである。この連載だって、本当はニコルが書いたほうが人気が出るに違いない。しかし、ニコルは犬だから、仕方なく僕が書いているみたいなものだ。ツイッターでも僕よりニコルのほうが人気がある。一度、アンケートを取ってみたら、僕のツイートに求められているものは圧倒的に「犬」だった。僕の情報よりもニコルの写真をみんな見たがっている。僕だって同じ気持ちである。

果たして、姫のお勤めの日がやってきた。「あそこに遊びに行ける!」と気づいたニコルは、大喜びだった。1泊の計画だったので寂しさもあったが、笑顔で送り出した。手がかかった子どもが社会人になったとき、親はこんな気持ちになるのかもしれない。喜びと緊張が入り混じってそわそわした。

そして、翌日ニコルは帰ってきた。ドッグホテルに行った日はいつもそうなのだが、普段よりもさらに疲れている様子だった。心なしか、少し顔つきが大人っぽくなった気がする。一仕事を終えた社会人のように、短くため息をついて横になった。僕は飼い主として誇りに思い、ニコルを強く抱きしめた。

「悪い管理人さん」と一緒にタバコを吸ったり、「いい管理人さん」から「○○さんには、ちゃんと宮崎さんは大丈夫な人だって言っておきましたから」と言われたり、エレベーターで一緒になった年配の女性にバンドマンと間違えられたり、社会化が必要なのは僕のほうである。しかし、受け入れ先がないし、ニコルのような偉い犬から教えてもらうこともできない。そんな僕に飼われているニコルは偉い。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid