モヤモヤの日々

第169回 フィルムを貼る仕事

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

古いiPhoneを買い換えた。最新のiPhone 12 Proである。この連載もすでに170回目になろうとしているが、ここらへんで人気を獲得しておかなければ書籍化されず、されなければ僕がとても困った状況になる。僕は担当編集の吉川浩満さんと一計を案じ、先週の土曜日にTwitterで音声をリアルタイム配信する「スペース」に挑戦してみた。そこで連載の魅力を伝えれば読者が増えるのではないか、と考えたのである(この取り組みは今後もやっていく予定)。しかし、配信中に僕の声がどうしても途切れがちになってしまっているようだった。

僕は思った。iPhoneを買い換えよう。今後こういった機会は増えるだろうし、長く使っていろいろとガタがきていたのだ。そう思って昨日、携帯電話ショップに行って最新機種に買い換えたとき、慎重、かつ自分を信じていない性格の僕は迷いなく保護フィルムを買ったのだけれど、その際に「スタッフがフィルムを液晶に貼るサービスもございますよ」と言われ、その日初めてハッとしたのだった。

なるほど。たしかに保護フィルムを貼るのには難儀する。小さな気泡や埃が入ってしまったり、微妙に位置がずれてしまったりする。値段は税込1100円とのことだった。「専用の機械かなにかがあったりするんですか?」と僕は訊いた。スタッフは「いえ、スタッフが手で貼ります」と答えた。「綺麗に貼れるんですか?」「はい。もちろん」。慎重、かつ手先が不器用な僕は1100円を払った。

アクリル板越しに僕の対応をしてくれていたスタッフは、僕のiPhoneと保護フィルムを受け取り、バックヤードに向かった。その途中、別のスタッフに僕のiPhoneと保護フィルムを渡すのを見た。対応してくれたスタッフが貼るわけではないらしく、その間に事務作業を済ませているようだった。

数分後に届いたiPhoneには、綺麗に保護フィルムが貼られていた。完璧な仕事である。心から感心した僕は、「たくさん練習されるんですか?」と訊いてみた。「はい」とスタッフは答えた。「でも、保護フィルムって高価だから練習するのも大変ですよね」と言うと、スタッフは「本部から練習キットみたいなものが送られてくるんです」と少し小声で話した。

僕は各種手続きを行いながら、頭の中では練習キットに一生懸命取り組むスタッフの姿を想像していた。おそらく何十枚、いや何百枚は練習したことだろう。もしかしたら何千枚。本番で失敗してしまうと、店に損害が出てしまうからだ。この一瞬、この一事にかけて練習に取り組んできたスタッフの姿を僕は思い浮かべた。そういうスタッフがこの店にもいて、今まさに僕のiPhoneに保護フィルムを貼ってくれたのである。税込1100円は高くない。僕がここまで綺麗にフィルムを貼れるようになるまで、どれくらいの労力と時間がかかるだろう。そう考えたら、それに取り組んでくれたスタッフに異常なほど尊敬の念がわいてきた。

各々が、各々の場所で各々の方法で戦っているのだ。僕はこのiPhoneで喋る。フィルム貼りの熟達者がフィルムを貼ってくれたこのiPhoneでたくさん喋って、連載を人気にするのである。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

第168回 優しい死神

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

顔色が悪いという理由で職務質問された経験がある人は少ないと思う。僕は顔色が悪い。とくに目の下のクマが濃く、いつも寝不足のような顔をしている。中・高校生のときは保健室にふらりと寄れば、「なんで今まで来なかったの?」と先生に言われ、フリーパスで早退ができた。

一度、医者に訊いてみたのだが、鼻筋や目の周りの骨格も影響するらしく、僕の場合、目の下のクマをまったくなくすのは難しいのではないかとのことだった。寝不足になると濃くなるが、たっぷり寝たからといって薄くはならない。

あるとき、仕事で使う写真のクマを修正技術でとってもらったことがあった。そこには見知らぬ男が写っていた。「これでは宮崎さんだとわからない」という理由で、修正してもらった努力を無駄にしてしまった。そのときにわかったのは、僕の目の下にクマがあるのではなく、クマがあって僕がいる、という真理である。つまり僕ではなく、クマこそが僕の本体だったのだ。

そんな顔色のせいで、昔の職場の後輩に「優しい死神」「働く廃人」というあだ名をつけられた。さっきからどっちのあだ名がいいかなあと考えていたのだけど、「優しい死神」のほうが優雅そうでいいかもしれないと思った。なにせ働いていないのがいい。そう言えば、「『デスノート』に出ていそうですね」と指摘されたこともある。もうクマを消そうなんて愚かな真似はよそう。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid