モヤモヤの日々

第161回 マスクチェーン

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

この前、テレビを観ているとき、あるアーティストが首回りにお洒落なアクセサリーをつけているのに気がついた。パールのネックレスのような首飾りである。よくよく見ると、その首飾りはマスクにつながっているようだった。カッコいい。これならマスクを外しても、ぶら下げておける。ずっとぶら下げっぱなしにしておくのは不衛生かもしれないけど、ドリンクを飲むときなど、少しだけ外す際に便利そうだ。ドリンクを飲もうとして何度かマスクを地べたに落としてしまった経験があるため、ぜひ取り入れたいと思った。

しかし、あのアクセサリーの名前はなんなのだろうと疑問に思ったまま、なんとなく時間が経ってしまっていた。名前を知らないものを調べるのは意外と難しい。先日、美容室に行った。いつも担当してくれるヘアスタイリストが席を外し、アシスタントと思しき女性スタッフがブリーチを塗る作業をしてくれた。そのときである。鏡に移ったその女性スタッフの首元に、あの首飾りがあるではないか。エメラルドグリーンのそのアクセサリーは、ほっそりした女性の首元にあっていた。

僕は、ここしかないと思って質問した。「あのー、その首にぶら下げてマスクについているアクセサリー、なんていう名前なんですか?」。すると、女性は「う〜ん」と一瞬考えて、「わからないですけど、しいて言えばマスクチェーンですかね」と答えた。

マスクチェーン。なんてシンプルな名前なんだ。僕が大学生くらいのときに流行ったウォレットチェーンを思い出す。そう笑顔で言うと、女性は「ウォレットチェーンって何ですか?」と不思議そうな顔をしていた。かつて、そういうアイテムがお洒落だった頃があったのだった。

僕は、テレビで見たアーティストがパールのマスクチェーンをしていて憧れていたのだと伝えた。女性は「パールは大きさにセンスが出ますよね」と言った。そうなのである。小さすぎたらマダムっぽくなってしまうし(あくまで僕のイメージ)、大きすぎたらお坊さんみたいになってしまう。お洒落な美容師さんが言うんだから、やはり上級者向けのファッションなのだろう。自分でも気づいていたけど、これは難儀なミッションになりそうである。

ちなみに女性によると、マスクチェーンは一番安いので300円くらいで買えるという。家に帰ってネットで調べてみても、確かに高価な商品は少なかった。しかし、女性も言っていたのだが、「パールは安っぽいとすぐにわかる」。僕はお洒落なマスクチェーンにたどり着くことができるのだろうか。以前、今年買うと明言した日傘と同様に、「パールのマスクチェーン」という新しいファッションアイテムを探す旅に近々出たいと思う。もう少し涼しい日に。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第160回 痛いと言っていい

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

この連載では何度も書いているが、僕は痛いのと怒られるのが大嫌いである。みんな大嫌いだとは思うけど、僕はことさら大嫌いなのだ。「痛み」については、心の痛み、身体の痛みなどの種類がある。僕は日常的に起こる身体の痛みにすら耐えられず、いつも大騒ぎしている。

僕はアルコール依存症になり、急性すい炎で二度入院した。現在は5年3か月、断酒中である。よく人から、「すい炎って死ぬほど痛いんでしょう?」と訊かれることがある。死んだことがないので判断は難しいものの、たしかにあれは痛い。普通の腹痛とは別の種類の鈍痛が途切れ間なく続く。しかし今書きながらも、痛みを正確に伝える難しさを実感しないではいられない。

父が71歳で亡くなる直前の期間、僕は父と十分と呼べるほどの時間をとることができなかった。とても悔やんでいる。ちょうどフリーランスの仕事が軌道に乗ってきて、自分の企画ではじめて出す単著や、そのほかの企画が進行中だった。離婚して、仕事を辞め、アルコール依存症になった僕は、父に心配ばかりかけてきた。だから、父が生きているうちに少しでも成果を見せ、「もう心配いらないんだ」と安心してほしかった。だけど今思えば、あのとき父が僕にしてほしかったのは、近くにいて痛みに寄り添うことではなかったのか。結局は自分の痛みは正確には伝わらないし、相手の痛みもわからない。だとしても同じ時間、空間で寄り添うことはできる。今はそんなふうに思っている。

さて、近頃はこの連載で腰痛ばかり訴えていた僕だが、ついに治りそうな予感がしてきた。元の痛みが10だとすると、調子がいいときは1、調子が悪い時は2くらいになってきた。なので治ってはいないし、今も痛いのだけど、あの地獄のような痛さと比べるとまるで小物の痛さである。

しかし、だ。僕はここで声を大にして言いたい。あの腰痛は辛かった、と。医療情報なのであくまで個人の視点として受け取ってほしいのだが、ざっくり書くと、もともと腰が少し痛かった→新型コロナウイルスのワクチンを接種した(2回目)→熱が出て腰痛も悪化した→熱は下がったが腰痛はさらに悪化した、となる。ワクチンとの因果関係はわからないし、病院には行っていないがぎっくり腰の説もある。僕は思った。もともと腰を痛めていたし、痛めたのは自分の生活習慣が悪かったからだし、副反応かどうかがわからないなか、痛いと騒ぐのはよくないかも、と。

僕に限らず、痛さや辛さをかかえている人の中には、「これくらいで弱音や愚痴をはいたらいけないかも」と思うタイプの人たちがいる。だが、実際は痛いときは痛い、辛いときは辛いと言ったほうがいいのだ。あとで大事にならなくて済むし、意外と周りの人は手の差し伸べ方がわからなくて困惑していたなんてこともある。だから、今回の一連の腰痛騒動については容赦なく「痛い」「辛い」を連発した。僕がそう書くことで、自分の痛みを我慢せず伝える人が増えればいいと思う。

それにしても、この前の腰痛は痛かった。「いや、これくらいで痛いと言ったらいけないのではないか」とも僕の性格だから当然思ったが、何百回考えても、どの角度からシミュレーションしてもあの腰痛は我慢できないほど痛かった。だからもし、「腰が痛いくらいで騒いでいたら駄目だ」と言う人がいたなら、腰痛が治り、コロナが収まった後、その方に、「いやいや、あれは本当に痛かったですよ」と30分くらい直接、プレゼンしに行きたいと思っている。たとえ痛さが正確に相手に伝わるのは無理だとしても、その態度だけは伝えることができるかもしれない。あれは痛かった。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid