モヤモヤの日々

第113回 紫陽花

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

皆さんもすでにお気づきかもしれないが、紫陽花(あじさい)が綺麗である。薄々気づいてはいたものの、今年に入ってからことさら、紫陽花が綺麗だという事実を実感するようになった。これも自粛疲れのせいだろうか。いや、紫陽花はずっと前から綺麗だったはずだ。今までの僕がどうかしていた。

紫陽花は、土壌が酸性なら青、アルカリ性なら赤に咲くと言われている。語源については諸説あるが、『雨のことば辞典』(編者:倉嶋厚、原田稔、講談社学術文庫)では、青い花が集まって咲く様子から「集真藍(アヅサアヰ)」と呼ばれていたという説を紹介している。そう言えば、僕が住むマンションの近くに咲く紫陽花は青色だ。いや、もしかしたら藍色なのかもしれない。青と藍がどう違うのか、厳密に区別する目が僕にはない。服も青系統の色を好んで買っているのに、そんなことすらわからないとは。つくづく、僕は愚鈍な人間である。

近代日本画の巨匠・鏑木清方(かぶらき・きよかた)は、紫陽花を愛し、別号として「紫陽花舎(あじさいのや)」を好んで用いた。泉鏡花などの文学者とも親交が深かった鏑木は名随筆家でもあり、「失われた築地川」(岩波文庫『随筆集 明治の東京』収録)では、「築地一丁目の河岸に、内側に薔薇、外側には紫陽花を植えならべて生垣とした大きい邸があった。私があじさいに魅力をおぼえたのはこれからで、成人したら、こういう垣のある家に住みたいと願った(…)」と幼少時代を述懐している。「建物に二階以上のものはあまりなかったが、どの家にも庭は手広く取ってあって、そこにはまたあじさいが多く植えられていた。(…)異人館と呼んでいた西洋建築の立ちならんだあたりに見出したのが、どうもところを得ていたように思われてならない」

2019年7月、鎌倉文学館で開催されていた特別展「三島由紀夫『豊饒の海』のススメ」を観に行ったとき、庭園に見事な紫陽花が咲いていた。赤、青、薄紫。正確に色彩を言葉にできないのが残念だが、バラ園で有名な庭園のなかでも、あのとき一際、紫陽花に心を打たれたのは、ずっと前に読んだ鏑木の随筆が頭の片隅に残っていたからかもしれない。旧前田侯爵家別邸である鎌倉文学館は、『豊饒の海』の第一部『春の雪』に出てくる松枝侯爵家別荘のモデルになった。東京の自宅になかば引きこもりながら過ごしている今も、洋館と庭園の気品高いイメージが、雨の季節の匂いを思い出させてくれる。

昨日は例の体調不良の名残があり、この連載を書いた以外は、ゆっくり休んでいた。午後になってから喉の痛みが少しぶり返した気がしたので、やっぱり無理せず休む日と決めてよかったと、プロの“風邪予報士”としての自分になおさら自信を深めた。僕は自分が駄目なことに対しては、確固たる自信を持っている。僕の駄目さを、僕以上に知っている人はいないだろう。

夕方になって外が涼しくなってきた。ずっと家の中にいたので、一日一度は綺麗なものを見たいと思い、マンションから徒歩30秒の場所に咲いている紫陽花を眺めに行くことにした。暑さで少ししぼんでいるが、相変わらず美しい。そしてやっぱり青い。いや、藍色なのかもしれない。夕日がビルの間から差し込み始めた。都会の片隅で、紫陽花に見惚れているジャージ(パジャマ)姿の39歳。

背後を誰かが通り過ぎた。気配だけ感じて、僕は紫陽花に見入っていた。その誰かは数歩進んだところで一瞬立ち止まり、僕のほうをチラッと見た。つい先日、マンションのエレベーターで「頑張ってくださいね、音楽活動」と声を掛けてきた初老の男性だった。顔を上げて視線を向けた僕から男性は慌てた様子で目を逸らし、マンションのエントランスに入っていった。

僕はこのマンションに住み続けることができるのだろうか。紫陽花が好きなバンドマンが近くにいたら、とても素敵なはずだ。家に帰った後に、そう思い直してくれればいいのだが。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第112回 風邪予報士

そういえば、新型コロナウイルスの感染拡大以降、風邪を引いていないことに気がついた。体調不良はいくらでもあったのだが、「ああ、これは風邪だな」という風邪らしい風邪は引いた記憶がない。僕はもともと風邪を引きやすい体質なので、少しでも風邪の予兆を感じたらすぐに休む。生姜湯や柚子湯、葛根湯などを飲んで体を温めながら横になる。それでだいぶ風邪を食い止められる。

もう1年半近くも本格的な風邪を引いていないのは、新型コロナウイルスの感染対策をしているからだろうか。「風邪かな?」と思ったらすぐ休む習慣も、以前より徹底している。しかし、プロの“風邪予報士”といえども油断はある。絶対に使い方は違うが、「弘法も筆の誤り」とでもいうのだろうか。

一昨日、めずらしく薄着で寝たところ、起きたら悪寒がした。そこですぐ対策を講じればよかったのだけど、起きてすぐにシャワーを浴び、パソコンに向かってしまった。午前中は順調に仕事をこなしていたものの、正午頃から雲行きが怪しくなってきた。喉が痛くなってきたのである。

常備している喉飴を舐めても治らない。熱をはかってみると36.6度だった。平熱が低い僕でも、さすがにこの体温では熱があるとは判断しない。だが、ここでほっと一安心するのは素人の仕事である。僕はプロの“風邪予報士”なのだ。フリーランスなのだし、自分の健康は自分で守らなければならない。喉はけっこう痛いうえ、熱はないとはいっても風邪っぽいほてりを身体や吐く息から感じる。なので、本当は仕事が終わったら荒れに荒れている仕事部屋の片付けをする予定だったのだが、昨日は万が一の場合を考えて無理をせず、横になりながら本を読んでいた。ちょうど妻も赤子も犬も家をあけていたので、自分のペースでゆっくり休むことができた。

コロナ以前ならばここまで神経質にはなっていなかったと思う。ただ喉が痛いだけで熱がないのならば無理はしなかったとは思うけど、気を付けつつも普段どおり過ごしたはずだ。しかし、コロナ以降はそうはいかなくなった。熱や、喉の痛み、さらにそれ以上の症状が出てしまったら、新型コロナウイルスの感染を疑わざるを得ないからである。これでもかというくらい対策し、警戒しながら暮らしてはいるものの、素人考えでただの風邪かどうか判断するのはかなり怖い。

今日起床したら、喉の痛みがすっかり治まっていた。相変わらず熱もない。ほっと一安心といったところだが、僕はプロの“風邪予報士”である。少なくとも今日までは、慎重に様子を見ようと思う。

 

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
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