モヤモヤの日々

第69回 キャズム超え

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

僕には日常で見たものや感じたことを概念化し、独自の言語をつくり出す癖がある。それらについていちいち例を並べたりはしないが、これはやはりライターの職業病であり、なにか気になるものがあれば、それをひとことで言い表す言葉がないかを探してしまうのは、一種の業のようなものだ。当然、「モヤモヤ」も、その営みのひとつだと言うことができる。

だが、そう簡単にはいかず、目の前の現象や感情に注意を払い、考えに考え抜いても適切な言葉が出てこないことがある。そういう言語化できない、語り得ない言葉がある限り、僕はこの仕事をやり続けるのだろうとも思う。それで、つい昨日のこの連載で書いたコラムのなかに、言語化できないモヤモヤがあるのを発見してしまった。僕は昨日、クラウド上で原稿を書いたり、共有したり、編集者からコメントをもらったり、修正したりすることに、どうしても身体的な抵抗があると書いた。これはつまり、「MacBook ProのOSでMicrosoft Word for Macを使いタイピングしたWordファイルをメールやメッセンジャーで送信する行為は、身体的に馴染んでいる」ということでもある。デジタル盛り沢山なのに、アナログな行為と感じているのが面白い。

実は、僕の中ではこの「身体感覚」のモヤモヤを言語化するのが、最も難易度が高いのだ。うまく伝わりやすい(かもしれない)ものとしては、僕と妻が「キャズム超え」と呼んでいる現象がある。「キャズム」とは、ジェフリー・ムーアが提唱している主にハイテク分野におけるマーケティング理論に出てくる言葉で、ざっくり説明すると、(1)新しいものをすぐ取り入れるイノベーター、(2)それらの動向を見て初期段階で取り入れるアーリーアダプターの次に、(3)前のふたつの層に追従するアーリーマジョリティという購買層があり、(3)に届いてこそ製品やサービスは普及段階に入ったといえる。しかし、(2)と(3)の間には「深い溝(キャズム)」があり、それを超えてブレイクするには高いハードルがある、といった内容だ。

僕と妻は、美容室に行く決断をする瞬間の身体感覚のことを「キャズム超え」と呼んでいる。髪の毛が伸びてきたなと思う。でも、まだ切らなくても平気だと思う。また少し髪が伸びてきたなと思う。もうちょっと切らなくても大丈夫かなと思う……を繰り返し、ある瞬間、突然、「キャズム超え」はやってくる。「キャズム超え」をする前と後で、髪の長さがすごく変わったわけではない。「キャズム超え」する0.1秒前までは「切らないで大丈夫」と思っていたのだから当然だ。にもかかわらず、唐突に「キャズム超え」はやってきて、「すぐ美容室に行かなければならない!」となる。「伸びた髪を切りたい」という感情が堰を切ったように溢れ出す。もしかしたら1万分の1ミリくらい伸びたのかもしれない。その僅かな感覚の差で「キャズム超え」し、ブレイクする。

どうだろうか。伝わっただろうか。これが伝わらないと話が進まないので、とりあえず伝わったことにさせてもらうと、つまり、クラウドでは身体感覚が得られないが、MacBook Pro、Microsoft Word for Mac、メッセンジャーといったデジタルてんこ盛りの原稿執筆、提出方法にはアナログな身体感覚を感じている僕の状態に、なにか新しい独自の言語はつくれないものか、ということだ。「時代についていけなくなった中年」とかではなく、もっと適切な言葉があるように思う。

ちなみに、僕がクラウド共有が苦手なのは、「自分の原稿」という気がしないからである。自分の原稿なのに「所有」していない感じが嫌なのだ。デジタル化は許容しても、クラウド化を拒否し、所有にこだわる身体感覚。これは意外とアクチュアルな問題だと思うのだが、このままではただの「時代についていけなくなった、所有欲のある中年」になってしまうので、早く言葉をつくらねばならない。どなたか立派な人がこの連載を読んでいたなら、ぜひ考えていただきたい。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第68回 原稿の提出方法

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

昨日のこの連載で技術革新について書いていて思い出したのが、僕が物書きを始めてからもたくさんイノベーションは起きていて、原稿の提出方法にも影響を与えていることだ。

いまだに手書きの原稿を手渡しで渡す先生方もいると噂には聞いたことがあるけど、少なくとも僕の周りにはそういったアナログ派は存在しない。個人的には、そういう古い出版文化を経験したことがないので、うらやましく、憧れの対象として逸話を聞いている。当たり前だが、今はパソコンで原稿を書き、メールで提出するスタイルが一般的ではないだろうか。

ところが、徐々に変化は起こっている。記憶が正しければ2012年くらいから、フェイスブックのメッセンジャーで原稿がやりとりされる機会が増えた。2012年頃は、編集の仕事もしていたため、若いライターから初めてメッセンジャー経由で原稿を受け取ったときは度肝を抜かれたものだ。しかし、今ではそれも珍しいことではない。なにを隠そうこの連載も、担当編集の吉川浩満さんとのやりとりには、すべてメッセンジャーを使っている。もちろん原稿の提出も。

たまたま吉川さんと僕がメッセンジャーを頻繁に確認するタイプだからそうなっただけで、LINEなどのメッセージアプリを利用している人もいるだろう。実は、僕なんかが知らない、最新鋭のテクノロジーを使ってやりとりするのが、すでに主流になっている可能性もある。

そして最近、というかけっこう前からメジャーになってきたやり方として、「クラウドで原稿を共有し、そこで編集のコメントや指示、修正・加筆などが行われる」といったスタイルがある。僕はなぜか、昔からこの「クラウド」というものが苦手で、クラウドで共有した原稿を修正する感覚が、身体的に馴染まない。そもそも、操作方法がよくわからないでいる。

僕は、「Microsoft Word for Mac」で書いた原稿を、編集担当の吉川さんにフェイスブックのメッセンジャーで提出する。その原稿を吉川さんが編集し、疑問点や提案のコメントを追加したWordファイルをGoogleドライブで共有して、メッセンジャーにURLを送ってくれる。しかし、僕はクラウドサービスの使い方がよくわかっていないので、GoogleドライブからWordファイルをダウンロードし、クラウドではなく手元で原稿を書き直す。そしてまた、Wordファイルをメッセンジャーで送る。クラウド上で原稿が修正されることはない。

ふたりとも、なかなかしぶとい人間である。そのやりとりを67回も繰り返しているのに、まだどちらからも「ファイルで直接やりとりしましょう」「クラウドで共有するスタイルに統一しましょう」といった提案がなされていない。僕はファイルでの提出にこだわり、吉川さんはクラウドでの作業にこだわる。どちらも文句ひとつ言わずに、あくまで自分のやり方だけにこだわる。

つまり、吉川さんと僕は、とても気が合うのである。思想や価値観、方法論が合致するよりも、気が合うことのほうが何倍も大切であるのは、これまでの愚鈍な人生で掴んだ数少ない真実である。だからこれからもお互い建設的な議論など一切せず、無言で自分のやり方にこだわり続けていくに違いない。仕事を効率化したり、技術革新したりすること以上に大切にしたいものを持っている。そういうところが、吉川さんと僕の気が合う部分なのだと勝手に思っている。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid