第8回 部分でありながら全体でもあるようなもの(S)

2017年04月30日から2017年06月11日まで、千代田区の、アーツ千代田 333メインギャラリー」で、「佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』」が開催されました。板に木炭で植物を描いた作品はおよそ100メートルに及び、展示の方法も類を見ないものでした。そして、今も佐藤さんはこの続きをたんたんと描き続けています。展覧会を一区切りとしたわけではなく、展覧会から何かが始まってしまったということです。本連載は、佐藤さんの展覧会を起点に、文化人類学者の中村寛さんに疑問を投げかけていただき、「絵を描くこと」や「絵を見ること」「人はどうして芸術的なものを欲してしまうのか」など、世界についての様々な疑問について、語っていただく場といたします。

お手紙いただいてから3ヶ月以上が経過してしまいました。荻窪での個展が終わって、しばらくは人に見せることを意識せず、できるだけ静かに、ただ描くことだけ続けようと思いながら、生活を成り立たせるためのあれこれで忙しくしていました。

個展は「本屋Title」の辻山さんに声をかけていただいて成立したもので、井伏鱒二の『荻窪風土記』のことも辻山さんから教えていただきました。そんなわけで、今回の個展は『荻窪風土記』を読むところからスタートしています。読みながら、当時の風景を想像しました。それがどれくらい的を得たものなのかはわかりません。しかし、いかに見当外れの想像だったとしても、今ここでこのようにしか存在していないと思われる世界から抜け出すのには十分なことだったと思います。井伏さんが歩いた道筋とできるだけ近いそれを探しながら、ふらふら歩いていると、井伏さんではなく自分の方がすでにこの世にいない、幽霊のような存在に思えたりもしました。

さしあたって、自分にできるのは、そこにあるものをただ観察することだけだろう、と。それを誰かに伝えるとか、そのために記録するとか、そんなことを思ったところで、伝わるわけでも、記録できるわけでもないでしょうから。ただ、観察したことを自分に向かって確かめるために描いているところはあって、2013年に荻窪を歩きながら描いた時もそうでしたが、それが結果的に「絵」になっていく。そういう順序です。ですから、「ケヤキ」や「荻」であることに意味があるわけではないというか、たとえば今、中村さんとこうしてやりとりをしながら、一応、日本語を使ってはいますけれど、中村さんが日本人であるかどうかとか、男性か女性かとか、どこの大学の教員であるとか、そういった点はあまり話の本質と関係ない、ということに近い気がします。ですが、植物や水や鉱物などはこちらに関心を示してくれるわけではありません。ですから、どんなレスポンスの期待も伴わない「観察」が主になります。

今回はそれでも何か描くつもりで歩き始めているのですが、2013年の時点では、本当に何が描けるかもわからず歩いていました。ここのところは自分でもよくわからない行動だと思います。さらにそれより前、2010年から2011年にかけて荻窪を歩いていた時、見たものを絵にする気持ちすらありませんでした。デザイナーとしての長年の行動様式が染み付いていましたし、「作品制作」というような意識はなく、アートセンターである3331のオープンにあたってデザインディレクターとして会場構成的な制作をしたことから「荻窪の6次元でも何かできないか」という依頼を受けて「どうしたものか」と周囲をうろついていただけでした。

この話は別のところにも書きましたが、その時の感覚は、どうにも説明のしようのないもので、絵の展示をすることに決め、その準備に入ったところで震災がありました。そういったことに対して、何か特別な意味づけをしたい気持ちが、しばらくはあった気がします。けれども、今はそれもなくなってきました。なぜこの時期から急激に「描く」ことが迫り上がってきたのか。確かにあの震災がなければ、今でも、それまでのデザインの仕事の継続を中心に活動していたかもしれません。しかしこればっかりはわからないことです。

今回、荻窪で「観察」することをし、結果として描かれたものがあり、現時点で134メートル強の幅になっている絵の中にそれは収まっている。絵は変化しているようなので、その流れをとめるつもりはない。とまる時にはとまるだろう。どんなに長くたってせいぜい数十年、百年には満たないわけです。しかも、誰かに引き継がれるような行為ではなさそうだ。美術史的な意味で刻まれることを望んでいるような行動でもないし、マーケットも存在しない。好きでやっているというのとも違っていて、趣味とも言えない。好奇心を持って見ている人はちらほらいても、絶対的な切実さでこのような行為を求めている者はどこにもいないでしょう。自分以外には。

そうであるなら、どうせ今生の刹那なのだから、もっと筆の赴くまま、もっと自由に、植物や水や鉱物から受けたインスピレーションのようなものを、「私」ならではの絵として描けば良いのではないか。なのに、なぜ姿形を似せたような、「ケヤキ」のようだったり「荻」のようだったり、水の溜まった窪地の岩のようであったりするものを描いているのか。そんな疑問も起こってしかるべきです。けれど、「私」はそこまで信用に足るものではなくて、多分に身体的な行為としてこうなっているような気がするのです。「私は足で考える」のであり「足だけが何か堅いものに出会う」とジャック・ラカンは言ったそうですが、今の自分は体全体で考えることに身を委ねようとしているところがあります。物心つく前からしていたような行為を、今また辿り直そうとしていて、何らかのかたちで「出会った」ものを反射的に描写していた、かつて自分の身に起こっていた出来事を、身体的に思い出そうとしている感覚なのです。信用に足ることとして思い浮かべられる最初の地点にあったもの。それはある意味で、社会化することに抵抗を示していたとも言えるわけで、今やっていることにしても、そこに向かっている気がするのです。

だとしても、それが植物や水や鉱物ばかりなのはなぜなのか。今はそういうものとしか「出会う」ことがないということなのか。子供の頃を振り返ると、かなり早い段階から動物やら乗物やら特撮のヒーローやらに反応していました。それも「出会い」であったのでしょうし、一心に描いてもいたわけです。ただ、もっと前まで遡った時に、何が見えていて、何が聞こえていて、何に触れていたのか、ということの方が重要です。そこのところの記憶はない(からこそ重要でもある)のですが、その段階でもう何かを描き始めていたはずです。手を弄っていたはずです。それを探るのに、外から証拠を集めてきて、こういったものを目にし、このような線を引いていたのではないか、というような探り方をしても意味はなく、「原風景」のようなものがその先にあるはずなのです。

自分をできるだけ「その状態」に近づけて、「現時点の身体にできること」を駆使するところからしか、「そこ」には辿り着けない、という確信が今はあります。長い間、社会的な適応を優先する中で眠らされていたものを呼び覚ます上で、植物や水や鉱物に特別な力を感じている、としか今は言えないのですが。

わたしはかなり小さい頃から美術教育として提示されたものは極力拒否するようにしてきました。「美術教師が言うことに従うのはやめておこう」と(そんな自分が今では美術大学の教員をやっているのですから事態は複雑です)。ただ、ある期間に渡って、母親が描いていた姿を見てはいて、それが教育だったのだろうと言われればそうなってしまうのですが、そういう意味で言えば子育ては放棄されていたようですから、何が見えていて、何が聞こえていて、何に触れていたのかを再構成した時に、そこに人の姿がない、ということも大いに考えられることではあります。

行為の根っ子にあるものを、言語的に説明し切ることにどんな意味があるかはわかりません。2018年になって荻窪で描いた、わたしなりの「風土」や「世界」が、どうしてこのようなものでなければならなかったのか、という話をすることも。ただ、2013年の「秘境の荻窪」とかなり異なる感触を持っていたことは確かで、その話をすることは必要かもしれません。

2013年の段階ではまだ「思い出に浸っていた」のだと思います。久々に多感な時期を過ごした荻窪を歩き回って、その頃から残っている家屋などを描き始めていたところで震災が起こり、少し落ち着いてから再び訪れた荻窪で目に入ってくるようになったものは、植物に変わっていました。あまりの出来事に、より「変化しないもの」を求めたのでしょうか。懐かしかった家屋も、倒壊して無くなっていくだけなのかもしれない。けれども、それでも、荻窪であることは重要でしたし、記憶の範囲内で、自分の存在を支えてくれるものを、何が何でも探したかったのでしょう。

しかし、2018年に歩いた時には、もうそのような気持ちはなくなっていました。増殖する植物以外に描いているものがまったくないわけではないのですが、かなり集中的に続きを描いているモチーフなので、他のものが顔を出すことはあまりありません。ただ、「新・荻窪風土記」では、2013年以前に描いていたものも展示に含めるようにしました。もっといろいろなものを描いて、いろいろなものを繋げたい気持ちもあるにはあるのです。

わたしもわたしなりに、「文体」の実験をしているつもりでいて、その点で中村さんと違いはないような気もします。わたしの場合は「絵の文体」ということになるのでしょうが。「匂いのある風景」を描きたい気持ちもあります。風も吹いてほしいですし。2013年の絵はあまりに拙いですが、ただ単に「よい文体」で描けば良いとも思っていません。「思い出に浸っていた」なりの良さだってあるかもしれないですし。2018年の荻窪の絵がそれに比べてどうなのかということも今はまだわかりません。描けば描くほど表現力の限界に直面します。感じ取る力だけは少しは掘り起こされて豊かになってきていると信じたいところですが。

流行や潮流のことも考えます。自分の絵も、後から冷静に眺めれば、それなりに分析可能な諸条件の元で描かれていたことが浮き彫りになるでしょう。わたしが好きなつくり手は皆、生きている時にはあまり評価されず、世間とうまく折り合いをつけられなかったような人たちです。フィンセント・ファン・ゴッホしかり、フェルディナン・シュヴァルしかり、ヘンリー・ダーガーしかり。大道あやさんや丸木スマさんなど、生前に評価されている人もいますが、あやさんは60歳から、スマさんは70歳から描き始めており、その意味で流行や潮流からは隔絶していました。これらの人の「方法」は決して類型化できません。考えはしても、自分がやるとこういうふうになってしまう、どうしてもなってしまう、というところに向かうしかなかったのだろうと思います。

『荻窪風土記』を読むと、地震後のデマや差別の問題が浮かび上がってきます。状況は今も変わっていない気がします。そんな中、多くの社会問題を前に、自分は引き蘢って絵を描いている。無関係を決め込むのか。社会問題を作品に繰り込むことはしないのか。そういった自問は常につきまといます。当然1920年代にも存在していた問いです。現時点で思うことは、無関係を決め込むことはせず考え続けるし行動の選択もする、しかしそれを意識的に作品化することはしない、ということになるのでしょうか。

社会についての危機感は当然あります。インターネットの普及や国家を凌駕する世界資本の成長によって、デマや差別に関わる問題にしてもかつてのそれとはまた別の新しい局面に入っているのかもしれません。続く世代の人たちのことも気になります。社会問題は社会問題、作品制作は作品制作、と簡単に峻別できるのか、大いに疑問です。たとえ生きている間に作品を発表しなかったとしても、制作の継続、そのようなスタンスの維持といったところに、社会の問題は接続されているからです。そういった点では、学問と芸術、芸術と学問はもっともっと交流すべきではないかという思いもあります。

「くぼんだ土地」はとても示唆に富むテキストでした。荻窪を離れて、今また、外神田のかつて錬成中学校だった場所で描くことを続けていますが、あらためてその周辺を歩き、以前よりも一層、土地の凹凸が意識されるようになったことに気づきました。普段の忙しい都会的な生活の中では、土地の凹凸のことが意識に上ることなどほとんどありません。とくに「くぼんだ土地」のことなどは。そして、実際の土地の形状から、もっと象徴的なものが想起されます。土地は決して固定的ではなく、いわば呼吸をしています。そこにはあらゆる「運動」の元になっているような力があります。こうした話も、学問と芸術、芸術と学問を交差させながら活発化させるべきではないかと思い始めているところです。

「空想傷痕──辺見庸氏の『たんば色の覚書』(毎日新聞社)を受けて」からも多くのことが想起されました。現代の「暴力」の問題は、今の自分にはとても考え切れませんが、今自分が描いているのは、自ら内在させてきた「暴力」を顕在化させないため、という面が間違いなくあると思っています。描くことによって何かを鎮圧している。ですから、それ自体が何か素晴らしい行為なのかといえば、そんなことはない。ただ、もしそうであっても、というよりそうであるならなおさら、描かれたものには何らかの普遍的な要素がなければならないはずなのです。

描く対象が植物や水や鉱物であるから普遍的というような話ではありません。今描いているものは、いずれもっと大きな何かの部分になっていくでしょう。逆に、描いている最中の、どんな部分を切り出してみても、それがちゃんとした全体になっているような絵が描けないものなのか、ということを夢想しています。それはつまり、一本の線も疎かにしないということですが。まだまだ一向に先は見えてきません。今のところまだ、ひたすら描き進めることを続けているだけです。

最終的に「描くということはこういうことだろう」という現在の人工的フレームからどうやって逃れたらいいのか、今はまだわからずにいます。たとえば、ミシェル・フーコーは自ら「新たな方法」を採っていたのでしょうか。それとも旧来からあった方法を駆使して「新たな認識」に至ったのでしょうか。自分の立ち位置を、あのような知の巨人と比べても仕方ないかもしれませんが、美術という制度は今も厳然と存在しており、その一方でポストモダンの名の元に「新たな方法」が繰り出される様子を見続けていると、どちらかに組みするしか選択肢がないかのような状況から逃れる「方法」のことはどうしても考えざるを得ないのです。

2018年11月7日

佐藤直樹拝

 

 

Profile

SIGN_02SATO1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。その後、数多くの雑誌、広告、書籍等を手掛ける。2003~2010年「CENTRAL EAST TOKYO」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。現在は美学校講師、多摩美術大学教授を務める。画集に『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)、著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社)などがある。 web 


文化人類学者/多摩美術大学准教授/人間学工房代表。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了・博士(社会学)取得。専門領域は文化人類学。アメリカおよび日本を当面のフィールドとして、「周縁」における暴力や社会的痛苦とそれに向き合う文化表現、差別と同化のメカニズム、象徴暴力や権力の問題と非暴力コミュニケーションやメディエーションなどの反暴力の試みのあり方、といったテーマに取り組む。その一方で、《人間学工房》を通じて、さまざまなつくり手たちと文化運動を展開する。著書に『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015年)、編著に『芸術の授業――Behind Creativity』(弘文堂、2016年)、訳書に『アップタウン・キッズ――ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化』(大月書店、2010年)がある。『世界』(岩波書店)の2017年10月号から、連載「〈周縁〉の『小さなアメリカ』」がスタートした。 web

第7回 匂いのある風景(N)

2017年04月30日から2017年06月11日まで、千代田区の、アーツ千代田 333メインギャラリー」で、「佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』」が開催されました。板に木炭で植物を描いた作品はおよそ100メートルに及び、展示の方法も類を見ないものでした。そして、今も佐藤さんはこの続きをたんたんと描き続けています。展覧会を一区切りとしたわけではなく、展覧会から何かが始まってしまったということです。本連載は、佐藤さんの展覧会を起点に、文化人類学者の中村寛さんに疑問を投げかけていただき、「絵を描くこと」や「絵を見ること」「人はどうして芸術的なものを欲してしまうのか」など、世界についての様々な疑問について、語っていただく場といたします。

お返事がすっかり遅くなってしまいました。まずは、先日の荻窪の「本屋Title」での展覧会「新・荻窪風土記」のことから始めてみたいと思います。というのも、この展示を見に行き、そこで受けた印象を交えながらすぐにお返事しようと思いながら、それが思っていたほどには簡単なことでないことに気づいたからです。それもあって、お返事がすっかり遅くなってしまいました。

佐藤さんの今回の絵を見ながら、もしかするとなにか大きな思い違いをしていたのかもしれない、という気になったからです。いや、「思い違い」と書くと、大げさですね。

私自身の眼が節穴なのかなと思う瞬間は多々ありますが、今回はそのような思いと同時に、語りにくい記憶にも行き当たった気がしています。それは佐藤さんが荻窪の路地を歩いて感じるという「強い力」と関係するのかもしれません。

たとえば、描かれている木々は「ケヤキ」なのでしょうか? そして、そのあいまに生えているのは「荻」なのでしょうか? 荻窪という土地が佐藤さんにとって大きな意味を持っていることは、頭では理解していたはずなのですが、描かれている「そこに生えている」ものが具体的になんであるのか、きちんと見えていなかった。

もちろん、それらの植物の名称を捉えることがゴールではありません。名称を知っていることで安心してしまい、かえって描かれているものを味わうことができず、また描かれていることを通じて表しだされているものにも接近できない、ということも起こるでしょう。

そして、描き手である佐藤さんはきっと、描く対象を「荻」や「クヌギ」と定めて描くわけではないと思います。むしろ、名前やカテゴリーは、描くことを邪魔するのではないかと思います。描くことで対象に接近して「わかる」ことは、言葉による接近とはあきらかに位相が異なるのだろうと想像するのです。

それでもやはり、見る側としての私は、「そこに生えている」ものの気配やその組成ばかりに気をとられ、「荻」や「クヌギ」や「ケヤキ」などの具体的な姿かたちを捉えられていなかったような気がします。

そういうことを思ったのも、佐藤さんの展示をきっかけに、井伏鱒二(1898~1993)の『荻窪風土記』(新潮文庫)を読んだからかもしれません。そこには、幾度にもわたって荻窪界隈の植生や水脈への言及があります。「風土記」と銘打っているくらいですから当たり前のことなのかもしれませんが、2018年現在の都市生活に慣れきってしまっている私には、奇異に映ったのです。井伏氏自ら、「自伝風の随筆」と言っていますが、それにしては不自然なくらいに「自然」の描写が多い、と(もっとも、水脈のなかには用水路が含まれているので、いわゆる「自然」とはいいがたいかもしれませんが)。もし、現代の作家が、自身の記憶をたよりに自伝的エッセイを綴ったら、ここまで「自然」の描写が挿入されたでしょうか。たとえばこんな具合です。

 

「川〔善福寺川〕の手前は一面の田圃になって、川向うには葦(あし)が茂り、小高い土手にスギや雑木の林が続いて三軒の家がある」(p.17)。「その頃、この辺には石地蔵がいくつか道端に立っていたが、二年三年たつうちに、あらかた無くなった。時のたつのが早すぎるような気持ちがする。事実、早すぎたがために、川や井戸さえもめまぐるしく変って行った。私がここに来てまだ一年二年たった頃は、裏の千川用水の土手に、夏の夜は虫螢(むしぼたる)が光っていた。春はガマ蛙(がまがえる)が土手に群がっていた」(p.22)。

 

今回、佐藤さんが展示をおこなった「本屋Title」は、井伏氏の『荻窪風土記』にも描かれる「荻窪八丁通り」にあります。井伏氏がかつて下宿していたという「平野屋酒店」からも、遠くない。

もっとも、井伏氏は、住んでいたときには八丁通りの位置を勘違いしていたようで、次のように記されています。

 

「私が平野屋の二階にいたころは知らなかったが、荻窪で昔から賑(にぎ)やかだったところは、四面(しめん)道りから西にかけて有馬屋敷、八幡神社あたりまでの謂(い)わゆる八丁通りであるそうだ。以前、私は八丁通りとは、四面道から荻窪駅あたりまでの街だと思っていた。」(p.81)

 

ちなみに、井伏氏の著作と荻窪の関係については、荒井大樹さんという方がつくられている見事なウェブサイト「井伏鱒二と荻窪風土記と阿佐ヶ谷文士」があります。http://ogikubo-bunshi.a.la9.jp/index.htm

話を戻しましょう。荻やクヌギ、ケヤキ、スギなどの植物、「ヨルダン川」と呼ばれていたという善福寺川や千川用水などの河川、用水(クリーク)、井戸などの水脈に加えて、道端の石地蔵、発情するのら猫、蹄鉄屋につながれた駄馬、色とりどりの商店群が、当時の風景を構成していたことに眼を奪われました。

そして、荻窪駅のまばらな人々(「通勤者の多い朝晩は別として、平素は乗る人が二人なら降りる人は一人ぐらいなものである」(p.83))、遠くまで見渡せる景色(「いまの荻窪駅の手前、映画館通りへゆく右の曲り角に古めかしい蹄鉄屋があった。前方には遠く富士が見えた」(p.12))、遠くまで聞こえる音(関東大震災前は品川の汽船の汽笛や府中の祭りの太鼓音が聞こえた(pp.7~8))、野菜の強い匂い(「…夜更けて青梅街道を歩いていると、荷物を満載した車を馬が勢いよく曳いて通るのに出会った。すれちがいに野菜の匂いが鼻をついたものである」(p.11))、などの記述にひとつひとつ立ち止まらされるのです。

1898年生まれの井伏氏がこれを書いているのは、五十数年後の1980年代(出版は1982年)のことですから、これらの記述はほとんど見事なまでに「消失していったもの」「変化していったもの」の記録になっています。

佐藤さんも書いていた、荻窪という土地で時代を超えて起こる交錯、ある種の「共鳴」「共振」のようなものを想うと、眩暈を覚えます。井伏氏の『荻窪風土記』も、佐藤さんの「新・荻窪風土記」も、両者とも大地震によって揺さぶられる前後の「風土」を描いている。前者にはおびただしいほどの「自然」とそれが失われていく様子が描かれ、後者には「自然」と対比されることの多い「文化」が失われたあとの《自然》とそれが増殖していく様子が描かれる。

そして『荻窪風土記』には、うっすらとではありますが、地震後に流れたデマとそれに呼応して組織された自警団のことが出てきます。驚くことに、早稲田にいて揺れを経験した井伏氏の記憶によれば、地震直後にはすでに「…ある人たちが群をつくって暴動を起し、この地震騒ぎを汐(しお)に町家の井戸に毒を入れようとしている」(p.34)という話を耳にしています。

敬愛する小説家、吉村昭(1927~2006)の記録文学『関東大震災』(1973、引用は文春文庫版)には、大地震の直後からデマが流れ、それがかたちを変えながら、通信網がいまほど発達していなかった時代に恐るべきスピードで全国をかけめぐり、朝鮮人の虐殺に至る様子が詳細に描かれています。私がいま暮らす横浜市は、「朝鮮人放火す」の流言の発生源のひとつとされています(p.164)。

1941年生まれの宮崎駿氏が、当初は最後の作品になるとして公開した『風立ちぬ』(2013)も、デマによる殺戮は扱われていませんが、関東大震災の後の混乱から、世界恐慌を経て失業者が通りにあふれ、不定形な不安と不満がうずまくなかで、法改正を通じて戦争へと突き進んでいく時代背景が描かれています。宮崎氏が映画公開時に出していた声明(「これから切迫した時代が来ます」)や、小冊子『熱風』(2013年7月号特集「憲法改正」)のなかでの文章などを見ると、1920年以降の時代状況と同時代の展開とをある意味で重ね合わせていることが読み取れます。

しかし、佐藤さんの描く「風土」、佐藤さんの描く「世界」は、ただそこにあってゆっくりと増殖するのです。そして、このことの意味はとても「重い」と私は(勝手に)感じます。あらかじめ「事後的」なものを描いてしまっていることからくる「重さ」なのか、「景色」を描くことで生活の奥にある生の根幹に触れていることの「重さ」なのか。佐藤さんが、江上茂雄さんの絵群を、「生活のリアリティとは離れたところ」に魅力があると評している理由とも関係するのかもしれません。

そして今回の「本屋Title」での個展では、川や犬や建物が、点在するように壁に飾られていました。とても静かな印象を受けました。これらの絵群は、描き手である佐藤さんにとって、増殖する植物たちの絵とどのような関係にあるのでしょうか? また、2013年の「秘境の荻窪」のときの展示と、感触として、どのような異同があったのでしょうか?

この8年ほど毎年、「アメリカの〈周縁〉をあるく」というプロジェクトのもとで写真家の友人と旅を重ねているのですが、その都度、彼の撮った写真とともに私は紀行文を書いています。誰に依頼されたわけでもないのですが、紀行文を書きながら、「文体」の実験を重ねているような気がしています。いわゆる「よい文体」を目指しているのではなく、風景を描きながら身体を通過していく事柄を描き出すための「文体」を模索しているのだと思います。というのも、最終的に描きたいのは、それが具象的な事象であろうが、抽象的な理論であろうが、「匂いのある風景」だからです。

外から見ると学者・研究者は、なにか普遍的な仕事をしているかのように錯覚されがちですが、じつは圧倒的多数に共通するのは、よくもわるくもすぐに流行に乗るという点ではないでしょうか。デザインやアートの世界でも流行はあるようですが、学問もそうです。とくに現代の学問は、迅速に成果を求められるので、その傾向が強い。いま、人類学のなかの大流行は「存在論的転回」であり、そこでのキーワードは、「非人間」や「ポストヒューマン」であり、「物質(新唯物論)」や「エージェンシー」であり、私を含めた多くが時として恥ずかしげもなく、「anthropocene人新世」のなかでの「新たな問題群」に、「新たな方法で」取り組み始めています。

こうした流行がつくられたきっかけのひとつにはAIの発達にともなう「人間」の背景化があるでしょうし、もうひとつには環境汚染の悪化とそれにともなう温暖化が、もはや相当に鈍感な身体にも明確に意識されてきたという事情があるでしょう。奇妙な言い方になりますが、「anthropocene」という言い方の流行(概念自体は古くからありました)には、「人間の活動が地球上の生命活動を鋭く突然変異させてしまう」ことへの危機意識とともに、「このままだと種としてのヒトは確実に滅びるであろう」ことへの鈍痛のような気づきがあるように思います。

ちなみに、ブルーノ・ラトゥールが『Facing Gaia: Eight Lectures on the New Climatic Regime』(2017)という講演集のなかで指摘していることですが、アメリカ共和党の政策コンサルタントであり、社会心理を操作することに長けたフランク・ルンツによって、「温暖化」は「気候変動」という用語に切り替わっていきました(p.25)。そして、ラトゥールが明らかにしているように、ここにきてもなお、気候学者らの研究蓄積に対し、「科学的根拠の不完全さ」をたてに反論する(「実際のところはわからない」「十分な科学的根拠がない」「政治的な判断が加わっている」)者たちが後をたたないことも確かなことです。

それでも私には、この新たな潮流の背後に漂う、ねじれた「人間中心主義」(それは、「脱人間中心主義」を標榜し、「非人間」に焦点を当てます)と、同じようにねじれた「主知主義」の匂いが鼻につくように感じられるのはなぜでしょうか。これについては、すぐに済ますことのできる問題ではないので、あらためて論じてみたいと思います。

今回の手紙の最後は、十年以上前に書いた「言葉のスケッチ」で終わりたいと思います。言葉のきめ細かさに欠ける粗雑なスケッチですが、ご容赦ください。一つ目は、いま読み返すと、なにを描こうとしていたのか思い出せないのですが、今回の手紙を書くなかで思い起こされました。「くぼんだ土地」は、直接的に「荻窪」のことではないかもしれませんが、佐藤さんの描き出す「世界」に、どこか連なるような気がしました。

二つ目は、小説家でジャーナリストでもある辺見庸さんの『たんば色の覚書』を読んだあとに訪れたいくつかの想念群です。この社会で死刑が執行されるたびに、これを書いたときのことを思い起こします。

 

くぼんだ土地に

汚物はたまり

くぼんだ土地に

天使は降り立つ

 

王子は剣(つるぎ)をつかわずに

山の麓(ふもと)にむかっていった

深い樹海をぬけたあとに

王子は川を発見する

川をつたってあるいてゆくと

やがて小さな丘が見え

その丘を越えると

くぼんだ土地があった

 

くぼんだ土地に

ごみが投げられ

くぼんだ土地は

忘却される

(「底辺のための童話詩 二〇〇五・〇八・二〇」『ことばの生態へ』〔私家版〕より)

 

 

見上げた空が青いなどと

いったい誰が教えたのか

 

灰に覆われふさぎ込む空も

朱に染められ発情する空も

陽光と大気との巧みな調合で人の心には染み入り

最後の望みをつなぎ

大地に足をおろさせ

空のかなたに見えぬものを悟らせ

そうすることで身体をひらかせ

かたくしこった延髄をときほぐす

 

囚人から空を奪うその理性と想像力とは

それ自体が空に支えられ可能になる

そうだとしても

省察し意味をつくりなおす力を

囚人だけでなく己からも

根こそぎに切り崩してゆく

 

見上げた世界が青くなくとも

そこにひろがりかなたに繋がる空があることが

人間の条件でありつづけたならば……

 

――教えて欲しい――

 

あの日の朝の処刑台の上にひろがる空は何色だったのかを

あの日の朝の病院の上

あの日の朝の浴室の上

あの日の朝の高塔の上

いくつもの記録されない空の色を

……いまこの瞬間の血のかよう痛みと沈黙の色を

(空に想起が可能なら

毎日毎日が追悼だ)

 

――教えて欲しい――

 

救世主誕生の記念日

もはや歩けぬ老人が

ドロドロドロと刑台まで連れてゆかれ

最後に見上げた天井は何色だったか

最後に息を呑みこむ響きは何色だったか

最後の晩餐を溶かしてすり減った胃壁からあがる匂いは何色だったか

その響きと匂いとが口許にただようのを確認した刑務官の眼は何色だったか

……その眼の奥のかなたに夥しい数の傍観する肉体が

ぎこちなく憐み

いさましく咎め

うつくしく涙し

つつましく幸福をかみしめる

……それが見えたとき

刑務官の眼は何色に変わるのか

 

――教えて欲しい――

 

たたかいつかれた詩人の耳許で

地の底の天使たちは

あの日の空の色を告げるのだろうか

それはあの日のハノイの空色とおなじだったろうか

(「空想傷痕――辺見庸氏の『たんば色の覚書』(毎日新聞社)を受けて」〔未発表work in progress〕)

※画面の都合により、原文にある段落サゲなどは削除されています

 

2018年8月2日

中村 寛 拝

 

 

Profile

SIGN_02SATO1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。その後、数多くの雑誌、広告、書籍等を手掛ける。2003~2010年「CENTRAL EAST TOKYO」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。現在は美学校講師、多摩美術大学教授を務める。画集に『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)、著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社)などがある。 web 


文化人類学者/多摩美術大学准教授/人間学工房代表。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了・博士(社会学)取得。専門領域は文化人類学。アメリカおよび日本を当面のフィールドとして、「周縁」における暴力や社会的痛苦とそれに向き合う文化表現、差別と同化のメカニズム、象徴暴力や権力の問題と非暴力コミュニケーションやメディエーションなどの反暴力の試みのあり方、といったテーマに取り組む。その一方で、《人間学工房》を通じて、さまざまなつくり手たちと文化運動を展開する。著書に『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015年)、編著に『芸術の授業――Behind Creativity』(弘文堂、2016年)、訳書に『アップタウン・キッズ――ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化』(大月書店、2010年)がある。『世界』(岩波書店)の2017年10月号から、連載「〈周縁〉の『小さなアメリカ』」がスタートした。 web