2017年04月30日から2017年06月11日まで、千代田区の、「アーツ千代田 333メインギャラリー」で、「佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』」が開催されました。板に木炭で植物を描いた作品はおよそ100メートルに及び、展示の方法も類を見ないものでした。そして、今も佐藤さんはこの続きをたんたんと描き続けています。展覧会を一区切りとしたわけではなく、展覧会から何かが始まってしまったということです。本連載は、佐藤さんの展覧会を起点に、文化人類学者の中村寛さんに疑問を投げかけていただき、「絵を描くこと」や「絵を見ること」「人はどうして芸術的なものを欲してしまうのか」など、世界についての様々な疑問について、語っていただく場といたします。
今日は武蔵野市吉祥寺美術館で行われている「江上茂雄:風景日記」について書くことから始めさせてください。
江上さんは1912年生まれ、わたしとは49歳の年齢差、つまり半世紀前を生きた人です。絵さえ描いていれば大人しくしていたという子ども時代、すでに「画家として生きる」ことは決めていたそうですが、父を亡くし、15歳の時に三井三池鉱業所の建設課で仕事を始めます。その後は家族を養う多忙さの中、退職まで日曜画家を続けます。退職後は平日も描けるようになったため、ほぼ一日一枚、写生による風景画を描き続けました。101歳で亡くなるまで、2万点以上の風景画を残しましたが、画家としてはアマチュアのままの生涯でした。
雑誌などからの情報で独学し、最初はクレヨンやクレパスを使っており、退職後は水彩の風景画が定点観測的に延々と続くことになるのですが、晩年には誰も及ばない境地に達していて、誰も描けない絵になっています。
こういう人は、わたしたちの世代には、そしておそらく今後の世代にも存在し得ないと思います。また、過去にも存在しなかったのではないでしょうか。近代的な意味での“Art”の確立がいつなのかという点は見解の分かれるところですけれども、日本の近代化の歩みに重なりながら「美術」の追求に身を捧げたその純粋性という意味で、江上さんの人生には格別の意味があるように思えるのです。
炭坑で働いていた山本作兵衛さんや石井利秋さんの絵にもショックを受けてきましたが、江上さんの絵にはそうした「現実」の強度のようなものとはまた別の魅力が含まれています。生活のリアリティとは離れたところにその源泉があるのです。具体的な場所を描き続けている、明らかな具象絵画ですが、非常に抽象度が高い感じがします。
わたしが美学校の菊畑茂久馬絵画教場に通っていた1980年代、山本作兵衛さんの話も上野英信さんの話も菊畑さんから聞いた記憶がほとんどありません。70年代には合宿までして学生たちに作品の模写をさせるなど熱心に伝えようとしていたそうですが、80年代はバブルに浮かれていた時期でもあったので、ややシニカルになっていたのかもしれません。そこはただ黙々と絵を描くためだけの場所でした。そして、わたしにとって、そのことはある種の救いでもありました。じつのところ、わたしは菊畑さんとそれほど接してもいません。菊畑さんもほとんど覚えておられないでしょう。その時期は極限的に孤独になっていました。
江上さんの画業を前に、自分もこうであったかもしれないという思いと、現実問題として自分はそうならなかったし、これからもならないのだろうという思いが交差しました。それが50年という時代の隔たりの意味するところなのかもしれません。
「絵を描く」とは結局どういうことなのか。絵を描く人が存在しなくなる気配はありませんから、何らかの普遍性はあるのでしょう。けれど、どれほど強烈な体験をしたとしても、誰もがそれを絵で伝えようとするわけではありません。ましてや長期に渡って描き続けるようなことはしません。ほとんどの人にとっては成人前に収束してしまうかなり限定的な身体活動です。
前回、「路地と人」の場所の説明として、吉川陽一郎さんが書かれた「生活社主催第一回油絵展覧会」の話を引用しましたが、江上さんはその時期に生まれています。
100年以上の時を経て、わたしはその場所で木炭の「線」を引くことになりました。「生活社主催第一回油絵展覧会」の出品作家にとっても、あるいは江上さんにとっても、それは「絵」と呼ぶに値しないものかもしれない。けれども、まったく無関係なことをしているわけでもありません。
ウェス・モンゴメリーやバド・パウエルの演奏との比較は、あまりにも恐れ多い話ですが、「絵画」と「音楽」の初源には、同じ部分があるように思います。「言語」を通さない、それ自体が表出であり、再認でもあるような。固定されるのではない、常にズレていくコードとして。何というか、別コードを探ろうとする運動でもあると思うのです。だから、一番良い状態というのは、「まるで、なにも考えていないかのように」「ニコニコ笑いながら、あさっての方向を見て」いる時であるはずなのです。
それから、ウォーミングアップのことですが、わたしが欲しているのは「うまく描けるようになること」ではなく、「いつでも描けるようになっていること」、つまりそういう状態でいたいというだけなので、準備をするようなことではないのです。
何か求められて、一定の条件下で成果を出さなければならない場合には、そのための準備をしなければなりません。デザインなどは概ねそうです。諸条件を整えなければなりませんから、ウォーミングアップも必要になります。しかし、わたしにとっての「絵」とはそういうものではありません。「デザインの仕事と絵を描くことはあまり関係していない」というのはそういうことです。おそらく、「絵を仕事にしている人」は、わたしとはまったく異なる見解を述べるでしょう。また、そういった意味では、わたしにとっての「絵」のように、デザインに向き合おうとしている人も、どこかにはいるのかもしれません。
絵を描く人間にとっての「練習」とは何か。これはとても難しい問題です。わたしから見ると、美大生が受験期に通過しているのはフォームの矯正みたいなものです。受験用のデッサンなどは、今までは振るいにかけるために機能もしてきたのでしょうが、根本的なところから設計し直さなければならない時期に来ていると思います。
身体活動ではあるわけですから、ミュージシャンやアスリートと同じような部分もあるはずですが、音楽やスポーツのようにジャンルごとの共有ルールを確定すること自体が難しいため、きちんと語られて来なかったようにも思います。音楽やスポーツはライブとしての行為自体が晒されますが、絵は基本的に痕跡として目にするものですから、極論すれば身体的な訓練などしなくても結果は残せます。実際、コンテンポラリーアートは、その方向で進んできました。その意味で、わたしの行為は反動的なものです。一方、ライブペインティングで身体性を示す人もいます。けれど、設定自体が無理矢理な感じがどうしてもしてしまいます。それは、行為が歴史と切り離されているからではないかと思うのです。
わたしたちは、アフリカンやアメリカン、アジアンの美術の中にも、初源の姿を探しに向かうべきなのでしょう。そうすると自然に、描いている場所や展示する空間の問題とも繋がってきます。
空間は全身で把握していますから、視覚だけがすべてということにはなりません。視覚だけ聴覚だけというように、分離して評価したい欲望を人は持ってしまったわけですが、もういいでしょう。そんなものは、さっさと終わりにすればいいのです。
「路地と人」では、視覚を失いつつある友人とも、長く語り合いましたが、細部まで見えないのなら描いても無駄という考えにはなりませんでした。音楽も相手の可聴領域に合わせて演奏したりはしませんよね。そこを訪れる、あるいは訪れるかもしれない人の存在も含めて描いているというそのことが大事なのだと確信しました。それは、相手の好みに合わせて描くということとはまったく異なる行為なのです。その違いは、視覚が弱まりつつある彼こそ、最も強く感じ取ってくれているという気すらしました。今回、その感覚を得られたことはとても大きい経験でした。
ニューヨークの地下鉄や、ハーレムのストリートで出会った身体のことを中村さんは書いてくださいました。「叫びや笑い、絶叫、怒り、ため息、祈りを、吃音や喃語や淀みも含め、音楽的に表現する身体に出会った」と。それは、「あそび」をともなう身体のうごきであり、「ある一定の枠の内から、はみだしたり、ほとばしったり、炸裂したり、ある定点から、ぶれたり、ずれたり、ゆらいだり、それなしにはがんじがらめになって壊れたり狂ったり損なわれたりしてしまう」のだと。「絵を描くこと」も間違いなく、もともとはそのような、脱コードの延長線上にあったはずです。しかし、「絵画」はその力をも取り込んで、強固な「一定の枠」として存在し続けてきました。それも確かなことではないでしょうか。
次のお返事をいただく頃には、また次の個展が始まっています。「新・荻窪風土記」と銘打って行うことにしました。言うまでもなく『荻窪風土記』は井伏鱒二さんの随筆集です。その第一章が「荻窪八丁通り」で、個展会場となる荻窪のTitleという本屋さんがその通り沿いにあるのです。いつものように、会場周辺を彷徨いて絵のモチーフを探しながら、同時に読み始めた『荻窪風土記』は恐ろしい本でもありました。そこには大きな震災が起こった1923年の時のことが描かれているのですが、わたしが今のように描き始めたきっかけが同じく大きな震災が起こった2011年前後の荻窪であり、その時に蘇った追憶の1970年代というのは、井伏さんが『荻窪風土記』の元の文章を執筆していた時期でもあったのです。読みながら、1923年という年が現在のように感じられ、これから描く絵は100年後のためのものでなければならないのではないかと思えてきました。
今となっては、「絵画」とはもはや「一定の枠」でしかないのだろうと思います。そして、おそらく、「わたし」が何かを描き得るということも、「わたし」に何かが描き得るということも、ないに違いありません。何かが取り憑いてくれないかぎりは。いずれ「わたし」が消えて、運び屋のようなものになれるかどうか、それだけが、「絵を描くこと」に残された、最後の希望のように思えます。
佐藤直樹 拝
2018年6月6日
*佐藤さんのTitleでの個展は次の通りです。http://www.title-books.com/event/4599
Profile
1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。その後、数多くの雑誌、広告、書籍等を手掛ける。2003~2010年「CENTRAL EAST TOKYO」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。現在は美学校講師、多摩美術大学教授を務める。画集に『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)、著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社)などがある。 web
文化人類学者/多摩美術大学准教授/人間学工房代表。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了・博士(社会学)取得。専門領域は文化人類学。アメリカおよび日本を当面のフィールドとして、「周縁」における暴力や社会的痛苦とそれに向き合う文化表現、差別と同化のメカニズム、象徴暴力や権力の問題と非暴力コミュニケーションやメディエーションなどの反暴力の試みのあり方、といったテーマに取り組む。その一方で、《人間学工房》を通じて、さまざまなつくり手たちと文化運動を展開する。著書に『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015年)、編著に『芸術の授業――Behind Creativity』(弘文堂、2016年)、訳書に『アップタウン・キッズ――ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化』(大月書店、2010年)がある。『世界』(岩波書店)の2017年10月号から、連載「〈周縁〉の『小さなアメリカ』」がスタートした。 web