第6回 最後の希望(S)

2017年04月30日から2017年06月11日まで、千代田区の、アーツ千代田 333メインギャラリー」で、「佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』」が開催されました。板に木炭で植物を描いた作品はおよそ100メートルに及び、展示の方法も類を見ないものでした。そして、今も佐藤さんはこの続きをたんたんと描き続けています。展覧会を一区切りとしたわけではなく、展覧会から何かが始まってしまったということです。本連載は、佐藤さんの展覧会を起点に、文化人類学者の中村寛さんに疑問を投げかけていただき、「絵を描くこと」や「絵を見ること」「人はどうして芸術的なものを欲してしまうのか」など、世界についての様々な疑問について、語っていただく場といたします。

今日は武蔵野市吉祥寺美術館で行われている「江上茂雄:風景日記」について書くことから始めさせてください。

江上さんは1912年生まれ、わたしとは49歳の年齢差、つまり半世紀前を生きた人です。絵さえ描いていれば大人しくしていたという子ども時代、すでに「画家として生きる」ことは決めていたそうですが、父を亡くし、15歳の時に三井三池鉱業所の建設課で仕事を始めます。その後は家族を養う多忙さの中、退職まで日曜画家を続けます。退職後は平日も描けるようになったため、ほぼ一日一枚、写生による風景画を描き続けました。101歳で亡くなるまで、2万点以上の風景画を残しましたが、画家としてはアマチュアのままの生涯でした。

雑誌などからの情報で独学し、最初はクレヨンやクレパスを使っており、退職後は水彩の風景画が定点観測的に延々と続くことになるのですが、晩年には誰も及ばない境地に達していて、誰も描けない絵になっています。

こういう人は、わたしたちの世代には、そしておそらく今後の世代にも存在し得ないと思います。また、過去にも存在しなかったのではないでしょうか。近代的な意味での“Art”の確立がいつなのかという点は見解の分かれるところですけれども、日本の近代化の歩みに重なりながら「美術」の追求に身を捧げたその純粋性という意味で、江上さんの人生には格別の意味があるように思えるのです。

炭坑で働いていた山本作兵衛さんや石井利秋さんの絵にもショックを受けてきましたが、江上さんの絵にはそうした「現実」の強度のようなものとはまた別の魅力が含まれています。生活のリアリティとは離れたところにその源泉があるのです。具体的な場所を描き続けている、明らかな具象絵画ですが、非常に抽象度が高い感じがします。

わたしが美学校の菊畑茂久馬絵画教場に通っていた1980年代、山本作兵衛さんの話も上野英信さんの話も菊畑さんから聞いた記憶がほとんどありません。70年代には合宿までして学生たちに作品の模写をさせるなど熱心に伝えようとしていたそうですが、80年代はバブルに浮かれていた時期でもあったので、ややシニカルになっていたのかもしれません。そこはただ黙々と絵を描くためだけの場所でした。そして、わたしにとって、そのことはある種の救いでもありました。じつのところ、わたしは菊畑さんとそれほど接してもいません。菊畑さんもほとんど覚えておられないでしょう。その時期は極限的に孤独になっていました。

江上さんの画業を前に、自分もこうであったかもしれないという思いと、現実問題として自分はそうならなかったし、これからもならないのだろうという思いが交差しました。それが50年という時代の隔たりの意味するところなのかもしれません。

「絵を描く」とは結局どういうことなのか。絵を描く人が存在しなくなる気配はありませんから、何らかの普遍性はあるのでしょう。けれど、どれほど強烈な体験をしたとしても、誰もがそれを絵で伝えようとするわけではありません。ましてや長期に渡って描き続けるようなことはしません。ほとんどの人にとっては成人前に収束してしまうかなり限定的な身体活動です。

前回、「路地と人」の場所の説明として、吉川陽一郎さんが書かれた「生活社主催第一回油絵展覧会」の話を引用しましたが、江上さんはその時期に生まれています。

100年以上の時を経て、わたしはその場所で木炭の「線」を引くことになりました。「生活社主催第一回油絵展覧会」の出品作家にとっても、あるいは江上さんにとっても、それは「絵」と呼ぶに値しないものかもしれない。けれども、まったく無関係なことをしているわけでもありません。

ウェス・モンゴメリーやバド・パウエルの演奏との比較は、あまりにも恐れ多い話ですが、「絵画」と「音楽」の初源には、同じ部分があるように思います。「言語」を通さない、それ自体が表出であり、再認でもあるような。固定されるのではない、常にズレていくコードとして。何というか、別コードを探ろうとする運動でもあると思うのです。だから、一番良い状態というのは、「まるで、なにも考えていないかのように」「ニコニコ笑いながら、あさっての方向を見て」いる時であるはずなのです。

それから、ウォーミングアップのことですが、わたしが欲しているのは「うまく描けるようになること」ではなく、「いつでも描けるようになっていること」、つまりそういう状態でいたいというだけなので、準備をするようなことではないのです。

何か求められて、一定の条件下で成果を出さなければならない場合には、そのための準備をしなければなりません。デザインなどは概ねそうです。諸条件を整えなければなりませんから、ウォーミングアップも必要になります。しかし、わたしにとっての「絵」とはそういうものではありません。「デザインの仕事と絵を描くことはあまり関係していない」というのはそういうことです。おそらく、「絵を仕事にしている人」は、わたしとはまったく異なる見解を述べるでしょう。また、そういった意味では、わたしにとっての「絵」のように、デザインに向き合おうとしている人も、どこかにはいるのかもしれません。

絵を描く人間にとっての「練習」とは何か。これはとても難しい問題です。わたしから見ると、美大生が受験期に通過しているのはフォームの矯正みたいなものです。受験用のデッサンなどは、今までは振るいにかけるために機能もしてきたのでしょうが、根本的なところから設計し直さなければならない時期に来ていると思います。

身体活動ではあるわけですから、ミュージシャンやアスリートと同じような部分もあるはずですが、音楽やスポーツのようにジャンルごとの共有ルールを確定すること自体が難しいため、きちんと語られて来なかったようにも思います。音楽やスポーツはライブとしての行為自体が晒されますが、絵は基本的に痕跡として目にするものですから、極論すれば身体的な訓練などしなくても結果は残せます。実際、コンテンポラリーアートは、その方向で進んできました。その意味で、わたしの行為は反動的なものです。一方、ライブペインティングで身体性を示す人もいます。けれど、設定自体が無理矢理な感じがどうしてもしてしまいます。それは、行為が歴史と切り離されているからではないかと思うのです。

わたしたちは、アフリカンやアメリカン、アジアンの美術の中にも、初源の姿を探しに向かうべきなのでしょう。そうすると自然に、描いている場所や展示する空間の問題とも繋がってきます。

空間は全身で把握していますから、視覚だけがすべてということにはなりません。視覚だけ聴覚だけというように、分離して評価したい欲望を人は持ってしまったわけですが、もういいでしょう。そんなものは、さっさと終わりにすればいいのです。

「路地と人」では、視覚を失いつつある友人とも、長く語り合いましたが、細部まで見えないのなら描いても無駄という考えにはなりませんでした。音楽も相手の可聴領域に合わせて演奏したりはしませんよね。そこを訪れる、あるいは訪れるかもしれない人の存在も含めて描いているというそのことが大事なのだと確信しました。それは、相手の好みに合わせて描くということとはまったく異なる行為なのです。その違いは、視覚が弱まりつつある彼こそ、最も強く感じ取ってくれているという気すらしました。今回、その感覚を得られたことはとても大きい経験でした。

ニューヨークの地下鉄や、ハーレムのストリートで出会った身体のことを中村さんは書いてくださいました。「叫びや笑い、絶叫、怒り、ため息、祈りを、吃音や喃語や淀みも含め、音楽的に表現する身体に出会った」と。それは、「あそび」をともなう身体のうごきであり、「ある一定の枠の内から、はみだしたり、ほとばしったり、炸裂したり、ある定点から、ぶれたり、ずれたり、ゆらいだり、それなしにはがんじがらめになって壊れたり狂ったり損なわれたりしてしまう」のだと。「絵を描くこと」も間違いなく、もともとはそのような、脱コードの延長線上にあったはずです。しかし、「絵画」はその力をも取り込んで、強固な「一定の枠」として存在し続けてきました。それも確かなことではないでしょうか。

次のお返事をいただく頃には、また次の個展が始まっています。「新・荻窪風土記」と銘打って行うことにしました。言うまでもなく『荻窪風土記』は井伏鱒二さんの随筆集です。その第一章が「荻窪八丁通り」で、個展会場となる荻窪のTitleという本屋さんがその通り沿いにあるのです。いつものように、会場周辺を彷徨いて絵のモチーフを探しながら、同時に読み始めた『荻窪風土記』は恐ろしい本でもありました。そこには大きな震災が起こった1923年の時のことが描かれているのですが、わたしが今のように描き始めたきっかけが同じく大きな震災が起こった2011年前後の荻窪であり、その時に蘇った追憶の1970年代というのは、井伏さんが『荻窪風土記』の元の文章を執筆していた時期でもあったのです。読みながら、1923年という年が現在のように感じられ、これから描く絵は100年後のためのものでなければならないのではないかと思えてきました。

今となっては、「絵画」とはもはや「一定の枠」でしかないのだろうと思います。そして、おそらく、「わたし」が何かを描き得るということも、「わたし」に何かが描き得るということも、ないに違いありません。何かが取り憑いてくれないかぎりは。いずれ「わたし」が消えて、運び屋のようなものになれるかどうか、それだけが、「絵を描くこと」に残された、最後の希望のように思えます。

 

 

佐藤直樹 拝

2018年6月6日

 

*佐藤さんのTitleでの個展は次の通りです。http://www.title-books.com/event/4599

 

 

 

Profile

SIGN_02SATO1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。その後、数多くの雑誌、広告、書籍等を手掛ける。2003~2010年「CENTRAL EAST TOKYO」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。現在は美学校講師、多摩美術大学教授を務める。画集に『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)、著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社)などがある。 web 


文化人類学者/多摩美術大学准教授/人間学工房代表。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了・博士(社会学)取得。専門領域は文化人類学。アメリカおよび日本を当面のフィールドとして、「周縁」における暴力や社会的痛苦とそれに向き合う文化表現、差別と同化のメカニズム、象徴暴力や権力の問題と非暴力コミュニケーションやメディエーションなどの反暴力の試みのあり方、といったテーマに取り組む。その一方で、《人間学工房》を通じて、さまざまなつくり手たちと文化運動を展開する。著書に『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015年)、編著に『芸術の授業――Behind Creativity』(弘文堂、2016年)、訳書に『アップタウン・キッズ――ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化』(大月書店、2010年)がある。『世界』(岩波書店)の2017年10月号から、連載「〈周縁〉の『小さなアメリカ』」がスタートした。 web

第5回 描く身体の発露(N)

2017年04月30日から2017年06月11日まで、千代田区の、アーツ千代田 333メインギャラリー」で、「佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』」が開催されました。板に木炭で植物を描いた作品はおよそ100メートルに及び、展示の方法も類を見ないものでした。そして、今も佐藤さんはこの続きをたんたんと描き続けています。展覧会を一区切りとしたわけではなく、展覧会から何かが始まってしまったということです。本連載は、佐藤さんの展覧会を起点に、文化人類学者の中村寛さんに疑問を投げかけていただき、「絵を描くこと」や「絵を見ること」「人はどうして芸術的なものを欲してしまうのか」など、世界についての様々な疑問について、語っていただく場といたします。

お返事、ありがとうございます。佐藤さんが、詩を「非言語的な言語表現」と呼ぶくだり、そして絵について、「自分で主題を見つけて描いている感じはなく、『描かされている』感覚がずっと続いている」と告白するくだり、深くうなずきながら読みました。その一方で、「デザインの仕事と絵を描くことはあまり関係していない」と書いている箇所や、「人を描こうという気持ちにな」らないと述べている箇所は、なるほどそういうものかと思いつつも、しかしどうしてだろうと、さらに聞いてみたい気がしました。

ですが、今回はまず、4月1日から現在にいたるまで制作中の「部屋で生えている。」のことから書かせてください。先日、「路地と人」での制作展示におじゃました際には、時間をかけて言葉を交わすことができ、うれしかったです。豊かな時間でした。

水道橋駅近くの飲み屋が連なる通りに、そのスペースはありました。2階に通じる階段をあがると、薄暗い部屋のなかで手を動かしている佐藤さんのうしろ姿が見えました。裸電球に照らされた小さな部屋に入ると、ベニヤ板の匂いとともに、無数の黒い「線」が眼に飛び込んできました。太くなったり細くなったりする線、まっすぐ伸びたり曲がったりする線、克明な線、おぼろな線――それらが縦横無尽に展開していく様子。

やがて、匂いによって、昨年の個展「秘境の東京、そこで生えている」の記憶の断片が再生されました。あのときの個展では、広いスペースに圧倒的な分量と大きさで草木が生い茂り、増殖し、拡張していく感じがありました。なんというか、この先にまだ描かれていないことが連なっていて、際限なくひろがっていく感触というのでしょうか。

それに対して、今回の「路地と人」のスペースは、狭いがゆえに全体の拡張ぶりを確認できない。そのかわりに、きわめて小さなところにまっさきに眼がいきました。それが「線」だったわけです。

これには、制作途中で、描いているプロセスを垣間見たことも関係していると思います。僕が最初に訪ねたのは4月9日のことで、制作開始からまだ1週間の時期でした。それから2週間経ってこの文章を書いている現在では、さらに絵の様子は変化していることでしょう。

でもそのとき佐藤さんは、文字どおり、一本一本の「線」を描いていました。そして、それらを描いている様子が強く印象に残ったのです。まずは、手つき。なんというか、まったく迷うことなく、躊躇することなく、サーッ、サーッ、シュルーッと描いていく、その手さばきです。手際よく料理する人の手さばきを見るのが好きなのですが、それに近い感じがありました。さらに言えば、手や腕だけでなく、身体全体の所作に眼がいきました。

自分が絵を描くことには、もしかすると、反発の対象でしかなかった童画家のお母さまの手のうごき、子どもを放置しつつ絵筆を握っていたその手つきを、幼い頃から見ていたことと関係しているのかもしれない――佐藤さんはそんなことを話してくれました。いただいたお手紙にも、そう記してありました。教えられたわけではない。受け継いだわけでもない。むしろ、そこからできるだけ自由になろうとしつづけた結果、しかるべき時間を経て、いまそのことの影響を突き放して見つめ、対話している。そんな風に思いました。

制作の邪魔にならないようにと、言葉少なに見守る僕に対して、佐藤さんは「大まかな方向性を決めるときはそのことに集中しなければいけないけど、それが決まってしまえば、あとの部分は話しながらでも描けるし、むしろ話しながら描くほうがいいんですよ」とおっしゃっていて、驚きました。そして実際、しゃべりながら描きつづける佐藤さんの身体は、なんというか、ずいぶんとリラックスしているように見えたのです。

ウェス・モンゴメリー(ギタリスト)や、バド・パウエル(ピアニスト)の演奏の様子を思い出しました。大好きなウェスのギターは、特にオクターヴ奏法を用いたリフにくると、かなり強いグルーヴ感があるので、どんなアツい表情を浮かべて演奏しているのかと、長らく思っていました。ですが、実際の映像を観ると、ニコニコ笑いながら、あさっての方向を見て演奏しているのです。まるで、なにも考えていないかのように。それをはじめて眼にしたとき、拍子抜けしたのを覚えています。

それから、ニューヨークで友人を介して出会った幾人かの若手・中堅ミュージシャンのことを想い起こしました。アヴィシャイ・コーエン(ベーシスト)やジェイソン・リンドナー(ピアニスト)、ダフネス・プリエト(ドラマー)といったミュージシャンたちです。かれらと親しくし、かれらを紹介してくれたその友人がまず気づいたことですが、かれらは本番前に、いわゆるウォーミングアップというものをしないのです。いきなり、なんの構えもなしに演奏にはいり、十全に力を発揮することができる。

もちろん、いまあげたミュージシャンたちは、世界でも有数の技術力を持ち、同時にその技能を、新たなものを生み出すことに投じているため、普段の練習は欠かさないと思います。ですが、たとえば笑い話で盛り上がっていたり、食事をしていたりするところから、すぐに演奏にはいることができる。

佐藤さんにも、同じようなものを感じたのですが、実際はどうでしょうか? 絵を描く前に、ある種の「ウォーミングアップ」を必要としますか? ウォーミングアップとまでは行かずとも、なんらかの「クッション」のようなものが必要でしょうか? 日常の他の営みから、絵を描く行為に入るための「儀式」のようなものが。

それともうひとつ。絵を描く人にとって、「練習」とはなんでしょうか? ジャズミュージシャンの場合は、基礎練習をおこない、曲の主題を探り、リハーモニゼーションをほどこし、他の楽器とセッションをします。そしてなによりも、「聴こえた音」を、自らの楽器と自らの身体を通じて再生できるように訓練します。楽器によっては、かなりの部分、アスリートの練習に近いものが求められます。描く人の場合も同じでしょうか? 

いただいた手紙の最後に引用されていた吉川陽一郎さんの文章、印象的でした。とくに、名づけ難い「どこでもない場所」、そんな場所にこそ自分のつくるものはふさわしいし、それは「誰かが名づけなければ見えてこないようなもの」だ、とするくだり。

吉川陽一郎さんとは以前に一度だけ、小林晴夫さんという方の運営するブランクラスblanClass(とても魅力的なオルターナティヴ・スペースです)で、お会いしたことがあります。アメリカ先住民やアフリカン・アメリカンとアメリカ美術をテーマに、友人と僕とでトークセッションをおこなったときだったと思います。吉川さんはアメリカン・インディアンの暮らしぶりに強い関心を示していたように記憶しています。

佐藤さんは、描いている場所や展示する空間を、どんなふうに意識されますか? たとえば、今回のようなスペースと、東京電機大学の跡地の地下やアーツ千代田3331のような場所とでは、描いているときの感触はどのように違いますか? それから、今回の制作展示は、「視覚を失いつつある友人に見てもらうことになっています」と佐藤さんは書いていました。あるいは不躾な質問になるかもしれませんが、その友人があの空間でどのような感触をお持ちになったのか、訊いてみたいと思いました。

佐藤さんが門を叩いた美学校の教場は、菊畑茂久馬さんによるものだったとのこと。菊畑さんと言えば、66歳から絵筆をとって炭坑労働者の生活を描き始めた山本作兵衛さんの記録画を高く評価していた方ですよね。はじめて山本作兵衛の記録画に出会ったのは、福岡県田川市の石炭・歴史博物館だったと思います。ハーレムでの長期フィールドワークを終えたあとに、あまりに日本の近現代史を知らないことに愕然となり、少しずつでもよいからあるいてみようと思い立ち、バックパックを背負って筑豊や大牟田を訪れたのです。

また、同じ田川市の博物館で、石井利秋さんという絵描きの作品を眼にし、思わず足をとめて見入ってしまうほどの強い印象を受けました。名前をメモして東京に戻り、すぐに画集を取り寄せたのを憶えています。死んでいった仲間、生き延びた仲間、その両者を覆う暴力が、重厚な蒼色をともなって描かれているのです。

作家の五木寛之さんが、画集に文章を寄せています。

一枚の絵がある。青というより、蒼といったほうがいいような色調の沈んだ雰囲気の絵である。中央やや左側に、下駄ばきの老人が膝の間に蒼白い手をたらしてうつむいている姿が描かれている。かつては頑強だったと想像される骨太の老人である。背後に歪んだ鉄条網と炭鉱の施設らしいものの影が浮かんでいる。

 〈回想〉と題されたその一枚の絵から、言いようのない激しいものが谷に湧く霧のように立ちこめてくる。黒人のうたうブルースの音色ともちがう、恐山のイタコたちの声の響きとも異なる、大勢の人間たちの地底からの呻きのようなものが低く、長く伝わってくる。

(「地底からの証言」『石井利秋画集 炭坑』〔木耳社、1976〕)

また、同じ画集に、石井さん自身の言葉が掲載されています。

私は炭坑を描く。

誰の言葉にも耳をかさない。

唯、描くのみ……炭坑の姿を。

永い自分の一生を捧げた炭坑

そして今はない炭坑

私の永い足跡を一つ一つ掘り起こしてゆく。

私は描きたい……だから描くのだ。

私の一枚一枚の絵が後世の人々に

かつての炭坑を偲んでもらえたらそれで満足だ。

こんな小さな仕事でも

やがて大きな遺産となるかも知れない。

だから私は炭坑を描く。

(同上)

山本作兵衛と石井利秋――両者とも、絵のスタイルや手法は異なりますが、共通するのは、両者ともが日本のエネルギー政策の現場を経験していること、そしてその現場で「眼にしてしまったこと」を、描き遺そうとしている点です。まるで、出会ったすべてのものを追悼するかのように。

佐藤さんと菊畑さんとのあいだには、どのようなやり取りがあったのでしょうか? 菊畑さんは、山本作兵衛のことを語っていましたか? 菊畑さんの書いたものがあるのは知っていますが、普段の会話のなかで山本作兵衛や上野英信に触れることがあったのかどうか、尋ねてみたいと思いました。

佐藤さんは「描く行為にはどこか子供っぽさがあ」ると書いていました。「一時的に大人であることから降り」る行為だ、と。

佐藤さんの著書、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社、2017)のなかに出てくる、電車のなかで踊る少女のエピソードをすぐに思い出しました。佐藤さんは電車に乗っていて、よりよく踊ろうと窓に映り込む姿を見ながら踊りつづける少女を見たのでした。そのときのことを、どこにも記録が残っていないにもかかわらず、「これほど大きな芸術的出来事を目撃することは滅多にない」と書いていました。

僕はこの箇所を読んですぐに、ニューヨークの地下鉄や、ハーレムのストリートで出会った身体を連想しました。叫びや笑い、絶叫、怒り、ため息、祈りを、吃音や喃語や淀みも含め、音楽的に表現する身体に出会ったように思うのです。それは、「あそび」をともなう身体のうごきでした。ある一定の枠の内から、はみだしたり、ほとばしったり、炸裂したり、ある定点から、ぶれたり、ずれたり、ゆらいだり、それなしではがんじがらめになって壊れたり狂ったり損なわれたりしてしまう――そういう種類の「あそび」です。そしてそれは、ある種の緊張と弛緩、厳密さとゆるやかさとの連続態の運動のうちに、見いだすことができるように思うのです。

また長くなりました。お返事、楽しみにお待ちしております。

中村寛 拝

2018年5月4日

 

Profile

SIGN_02SATO1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。その後、数多くの雑誌、広告、書籍等を手掛ける。2003~2010年「CENTRAL EAST TOKYO」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。現在は美学校講師、多摩美術大学教授を務める。画集に『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)、著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)、『無くならない――アートとデザインの間』(晶文社)などがある。 web 


文化人類学者/多摩美術大学准教授/人間学工房代表。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了・博士(社会学)取得。専門領域は文化人類学。アメリカおよび日本を当面のフィールドとして、「周縁」における暴力や社会的痛苦とそれに向き合う文化表現、差別と同化のメカニズム、象徴暴力や権力の問題と非暴力コミュニケーションやメディエーションなどの反暴力の試みのあり方、といったテーマに取り組む。その一方で、《人間学工房》を通じて、さまざまなつくり手たちと文化運動を展開する。著書に『残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015年)、編著に『芸術の授業――Behind Creativity』(弘文堂、2016年)、訳書に『アップタウン・キッズ――ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化』(大月書店、2010年)がある。『世界』(岩波書店)の2017年10月号から、連載「〈周縁〉の『小さなアメリカ』」がスタートした。 web